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2話です。どうぞ。
懐かしい匂いだ。未だ意識が混濁する中でそれは徐々に雪緒を引き戻してくる。すんすん、と鼻が動くたびにその香りは自分の体を形作り、手足の感覚や聴覚、そして視覚を揺り起こす。無造作に伸びきった黒髪の奥には、またも暗闇が広がっていた。しかし、先ほどとは何かが違う。あの無機質な壁ではない。硬いベッドでもない。そこまで考えて、ふと思考を停止した。
「土……か? え、地面……? んん?」
頬に感じるジャリっとした感触に困惑する。淀んだ意識の中でも感じたあの懐かしい香りはこれだったのか、と未だ混乱する頭の中で納得した。
ベッドのカビ臭さや扉の鉄臭さ、乾いた尿や糞の臭いに慣れきった雪緒の鼻には、自然の、土の香りというものは刺激が強すぎた。思わずぎゅっと鼻をつまむ。手に付いていた砂がめり込んで少し痛んだ。
痛みのおかげか、それとも懐かしい匂いのおかげかは分からないが、雪緒は少し落ち着きを取り戻した。先程の瞼越しにでも目玉を焼きに来た強烈な光は失せ、この暗闇にも少し目が慣れて来た。
もはや日常の大半を共に過ごしていた汚いコンクリート製の壁は見る影もなく、代わりにそこにあったのは角が取れた、しかし全体的にボコボコとした土壁。少し苔も生えている様だ。僅かながら光が入り込んで来ている様で、目が慣れると暗くともハッキリとそれが知覚出来た。
そこは洞窟だった。先程まで独居房でただただ時間を消化していた雪緒は余りの突拍子の無さに唖然とする。自身の専売特許だと思っていた『何事にも動じない心』は家出状態の様だ。
刑期は終わったのだろうか。そもそも終わりが来るとは思っていなかったのだが。それとも強制的な刑罰か何かだろうか。先程の光のドサクサに紛れて意識を奪われたのかも知れない。それにしては監視官が居ないのは些か変であるが。
それとは別に期待感に似たものが自分の中に現れた事を雪緒は感じた。
雪緒にとって日本という所はやや生き辛い場所だった。やりたい事なんてちっとも出来やしない不自由な環境。決められた生活。レールの上の人生。少しでもそれれば周りは、人は、社会はそれを良しとせず罵倒する。不自由の中で限られた自由を探す。ああ楽しくない。やりたい事を思う存分やりたかった。誰に遮られる事もなく自由に踊り狂いたかった。だからやりたい事をやるだけやって人生をリセットしよう。そう思った。しかしそのおもちゃも半ばで盗られてしまった。嘆かわしい。ただただそう思った。
だから望んだのだ。「続きがしたい」と。
そんな事はあり得ないと頭は否定するが、心はこの現状に期待せずには居られなかった。
「とにかく、光のある方に行こう」
自分の背を後押しする様に雪緒は呟いた。無意識に口元が少し緩む。何かがこの先で待っている、そう思えてならない。
ここまで光が届くという事は、その光の元まではそれ程離れては居ないのだろう。その場で立ち上がり、頬や腕に付いたままの砂や小石を払う。髪にも砂が付いている様だが、元からそこまで綺麗ではないため放置する。
ぺたり、ぺたりと小さめの歩幅で壁に手をつきながら歩く。独居房で生活した大半の時間を寝っ転がって生活していたせいか、素足で凹凸のある地面を踏むたびに地味に痛む。思わず顔をしかめつつも、それでも光のある方へと心が引っ張った。
ふわり、とまたも懐かしい匂いがした。これはたぶん、木の香り。ピクピクっと雪緒の鼻が小さく痙攣した。トトトッと何時ぞやの歪なステップを刻み、その小さな足は暖かみのある地面を踏みしめた。
「……風だ。木の香り。草の香り。土の香り」
紛れも無くそれは自然の風景だった。今時珍しく広葉樹の森が先には広がって居た。ここまで手入れのされて居ないものは生まれて初めて目にした。少しひんやりとした森独特の香りの強い空気。微かに頬を撫でる風。そして懐かしい太陽の暖かみ。それを肌で感じ、雪緒は心の奥底から湧き上がる何かに気付いた。
それは『歓喜』であった。まだ誰が何の目的で自分をこんな辺鄙な場所に置き去りにしたのかは分からない。もしかしたら見えないだけで、感じられないだけで看守は何処かにいるのかも知れない。きっと何かの刑罰の途中なのだ。頭ではそう考える。だが心が、体が、この自由を喜んだ。喜んで止まないのだ。視界が歪む。暖かい何かが溢れ、頬を伝う。例え一時的ものだろうと、今この瞬間確かに自分は自由なのだ。こんな出来事一つで心が洗われる気がする。自分はこんなにも単純な生き物だったのだな、と雪緒は自身を鼻で笑った。
はぁ、と一息ついた後、雪緒は再び辺りを見渡した。洞窟の入り口付近は少し開けていて、青々とした空とのっそりと流れる雲も見て取れる。しかし、目の前に広がる森は鬱蒼と生い茂る訳ではないにしても獣道すら見当たらない。これは勘で進むしかないか、と再び空を仰ぎ見た雪緒は、空に何かが飛んでいるのに気が付いた。
「鳥……? にしては大きいな……んー? いやあれ大きすぎないか?」
天高く飛ぶそれは、鳥の影にしては些か大きすぎる。遠目なので正確な大きさではないが、少なくとも飛行機よりかは大きく見える。ここからでもくっきりと見えるその形はまるで伝承や物語によく登場するあのーーそこまで考えて、雪緒は首を横に振る。先程変な希望を抱いたからだろうか。想像が変な方向へと向いてしまった。
ーーアレがドラゴンに見えるなんて、馬鹿らしいにも程がある。
お読みいただきありがとうございます。もし分かりづらい描写や誤字脱字などございましたら、ここ直せボケって感想欄に書いてくださると嬉しいです。
今日中にあと2話分くらいは頑張れるかなぁ……