3話
(オスカー・ルンペリア様……)
紙に書かれていく名前を、エレイナはぼうっと見つめた。何の変哲もない紙。だけど、彼の名前が刻まれたそれは、とても特別なものに思えてくる。
禁書庫を利用する際は防犯のためカウンターで名前を書いてもらい、身分証も預けることになっている。書物を盗まれでもしたら大変だからだ。そのため、禁書庫の中でも常に司書が目を光らせていなければならない。今回は、司書の代わりにエレイナが彼を見張らなければならなかった。
紙を仕舞った後、身分証を受け取り金庫へ入れる。鍵をかけて、エレイナはカウンターの中へオスカーを入れると、奥にある禁書庫へ向かった。
鍵を差し込み、左に回す。カチャ、と音が鳴ったら鍵を縦に戻して引き抜く。そして、全体重をかけて重たい扉を開けた。
禁書庫は文字通り禁書が入っている場所だ。禁書の種類は様々で、魔導書だと言われているものや、表に出せないことまで書かれた歴史書もある。
濃厚な書物の香りに、エレイナの胸がきゅん、と切なくなった。滅多に開けられないためか、充満した匂い。エレイナは思わずため息をついてしまうのをこらえて、中へ足を踏み入れた。その後にオスカーが続くのを確認して、扉を閉めて内鍵をかける。
二人きりの空間。エレイナは彼の背を見つめ、胸元をきゅ、と握った。
(何でしょう、この気持ち……)
落ち着かなくて、だけど不快ではなくむしろ心地よい。そんな初めての感覚に、エレイナは戸惑うばかりだった。
エレイナがぼうっとしている間に、オスカーは近くの棚から一冊の本を取り出すと、中央にある机に置いた。そして手袋をはめると頁を捲り始める。けれどすぐに顔を上げ、エレイナを見つめた。
「明かりを」
「は、はい」
禁書庫には窓がない。窓があると本が日焼けしてしまったり、部屋の温度が変わってしまうからだ。ここにあるのは貴重な本ばかり。痛めてしまうことがないよう、窓がなく、複雑なシステムで温度が保たれていた。そのため中はとても暗い。火事になることを避けるため、ランプを持ち込んで良いのも司書だけだから、余計にそう。
エレイナがランプを机の上に置くと、オスカーはすぐさま書物に目を落とした。そのことにちょっぴり胸が痛くなる。……何ででしょう?
ゆっくりと進む時間。エレイナはじっとオスカーを観察した。ランプの光がアイスブルーの瞳で揺れる。文官らしい白い肌は、光を受けてほんのりと赤く染まっていた。思わずため息を零してしまいそうなほど、美しい。
それにしても――。
(ルンペリア、ですか……)
ルンペリア侯爵は現在の宰相で、国王に次ぐ権力を持っていると言われている。年齢からして……彼は多分、ルンペリア侯爵の息子だろう。優秀な文官の息子がいると、王宮の噂で聞いたことがある。
エレイナはそっと目を伏せた。彼は侯爵令息。その事実が重くのしかかり、胸がズキリと痛む。何故だか泣きたくなる気持ちを抑え、エレイナは彼を見続けた。
……やがて、彼が顔を上げた。瞳を閉じ、眉間を揉む。古語で書かれた歴史書だからか、どうやら疲れてしまったよう。両腕を上げて、体を伸ばした。
腕を下ろすと、彼はエレイナを見つめた。
「……エレイナさん、だよね?」
「あ、……はい」
形の整った唇から自らの名前が紡がれて、エレイナの胸が跳ねる。きゅ、と胸元を握った。……何故だか、長年探していた本が見つかったときと同じくらい、嬉しくてたまりません。
そんなエレイナのことなど気にせず、オスカーは尋ねた。
「元カールレン子爵令嬢で、今は平民だよね?」
「……は、い」
現実を突きつけられて、エレイナはどもりながらも答えた。そう、私は平民です。彼と対等にはなれません。
ズン、と沈んた雰囲気を漂わせるエレイナに何を感じたのか、オスカーは申し訳なさそうに顔を歪める。けれど、再び口を開いた。
「何で、あなたはここにいるの?」
「っ……!」
それは、平民なんかに関わりたくない、という遠回しな意思表示。エレイナは視線を漂わせる。今までだって人に馬鹿にされることはよくあった。「はしたない」と蔑まれることだってよくあった。だけど、何故でしょう?
(今までよりも、ずっと痛いです……)
どうしてかは、分かりません。だけど、痛くてたまらないのです。
目の奥が熱くなって、エレイナは目元を押さえた。目尻に大粒の涙が溜まっていく。
それに慌てたのはオスカーだった。
「え、あ……違う違う。そうじゃなくて」
机を挟んで向かい合っていたオスカーが移動し、エレイナの隣に立つと、ゆっくりと彼女の腕をどかす。目と目が合って、オスカーのアイスブルーの瞳には、雫を一つ零すエレイナが映っていた。
カァ、とエレイナの頬が染まる。泣いてしまうなんて、恥ずかしいです。それも――。
「どうして、ここで働けるのか、ということ。ここにはあなたを没落令嬢だと蔑む人もいるのに、どうしてここで笑っていられるのかなって」
真摯な瞳が、エレイナの瞳に映り込む。この人は真剣だ。私を馬鹿になんてしなくて、私自身を見てくれる人。
そのことに、エレイナは安堵した。胸が少しだけ温かくなる。
エレイナは僅かに笑みを浮かべながら、答えた。
「私は、多くの人に支えて生きてきました。父様に母様、そして今は傍にいないけどメイドたち……。ここに来てからもそうです。たとえ蔑む人がいようとも、司書様方が勇気づけてくれました。だから、大丈夫なのです」
「……あなたは強いんだね」
呟くようにオスカーは言い、目を細めた。その瞳には憧憬の色が浮かんでいる。
「いいえ、私はまだまだです。ここで働きたいと思ったのも、ただ本に触れたかった、それだけですから」
「それでも、すごいよ。普通の令嬢なら……いや、大抵の貴族なら、あなたの経験した状況に陥っても何もできなかった。きっと、僕も。だから自信を持って」
そう言って、オスカーはエレイナの頭をぽんぽん、と叩いた。――直後、ピシ、と空気が凍りつく。オスカーはしばらく固まった後、真っ赤になりながら慌てて手をどけ、エレイナの方も徐々に頬が赤くなり、顔を俯けた。
「えっと、その……ありがとう、ございます」
「いや……う、うん。だ、大丈夫」
微妙な空気が流れる。居心地が悪くて、エレイナはずっと自らの靴を眺めた。何だか、胸がぽかぽかします。触れられたところが熱くて、おかしくなってしまいそうです。
エレイナがそう思っている間に、オスカーは机の反対側に戻ると、再び歴史書を読み始めた。その顔はランプの光によって、より朱に染まっている。
そのことにエレイナはちょっぴり頬を緩めて、彼を見つめ続けた。
△▼△
その日以降、オスカーはやたらとエレイナに構ってくるようになった。禁書庫に入る際は余程のことがないかぎりエレイナに頼むようになり、もし他の司書と入ることになっても、必ずエレイナに声をかけた。そのことが嬉しくて、エレイナも彼が来るのを心待ちにするようになる。
「――そういえば、何故その書物ばかりを読むのですか?」
ある日、エレイナは禁書庫で尋ねた。オスカーはいつも同じ歴史書を読む。エレイナはそのことが不思議でたまらなかったのだ。
彼は珍しく話しかけてきたエレイナを見つめると、苦笑する。
「実は父の指示でね。――いろいろ訳あって、調べなきゃいけないんだ」
「もしかして、昇進ですか?」
エレイナの言葉に、オスカーは目を見開く。その様子が、エレイナの推測が正解だと示していた。
「どうして知って……?」
「みんな噂してますよ。あと、その……他にも、色々……」
ごにょごにょ、とエレイナは顔を赤らめながら言った。その他の噂とは、エレイナとオスカーとの関係を邪推するものだった。そのことが、嬉しいような、恥ずかしいような。
だけどオスカーは何の反応も示さず、顎に手を当てて何やら考えていた。
ズキリ、とエレイナの胸が痛む。オスカーが見てくれない。そのことが、とても辛くて、悲しくて、……逃げ出したい。
「エレイナさん」
エレイナがのろのろと顔を上げると、険しい表情をしたオスカーがいて。彼の真剣な瞳に、少しだけたじろぐ。
「今日はもう戻って、噂の出処を探ってくる。本来、昇進の話は漏れてはならないから。……ごめん」
申し訳なさそうにして眉を下げる彼に、エレイナはハッ、とした。確かに、そうなのかもしれません。それだったら、後半の発言を無視しても仕方ないです……。
そう思い込もうとするけれど、やっぱり胸が痛くて。このままじゃ、ダメです。そう思って、エレイナは無理に笑顔を浮かべた。
「――分かりました」
嘘ではない。彼のことは分かっています。だけど、感情が追いつかないだけ……。
エレイナがそっと目を伏せると、オスカーが動く気配がした。机に手を置きながら、エレイナのいる方へやって来る。そして――。
「エレイナさん」
エレイナが常日頃の癖で思わず顔を上げると、目の前にオスカーの顔が。そのまま彼の顔は近づいてきて、反射的にエレイナはきゅ、と目を瞑った。――キス、されます。
だけどその予感は少しだけ外れて。熱が降り注いだのは、エレイナの額だった。
触れた熱に、エレイナがゆるゆると瞼を上げると、ほんのり朱に染まった肌が視界に映った。やがて熱に浮かされたようなアイスブルーの瞳が視界に入る。
エレイナの頬がみるみるうちに赤く染まっていく。バクバクと心臓が跳ねて、ぎゅ、とエレイナは手を前で組んだ。
そんな彼女を見て、オスカーはくるりと背中を向けた。
「……片付けるから、待ってて」
いつもと違い、呟くような言葉。髪の隙間から除く耳が赤くなっているのを見つけて、エレイナの胸が高鳴る。
「……はい」
その声は掠れていて、どこか泣きそうなものだった。