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2話

 それから一年ほどが経ち、エレイナは本来なら社交界デビューを果たしていた十六になった。彼女ら一家の市井へと下ってからの生活は、比較的順風満帆と言える。


 付いて来ようとしたメイドたちを断り、家族三人で王都の端にある寂れた宿で暮らしていた。父は日雇いの力仕事をして、母は宿で料理の手伝いをしてお金を稼ぐ。

 そしてエレイナは、若いためか、王都の中心近くにある店で売り子をやって稼いでいた。その客一人一人に合った接客を心がけるエレイナの評判はかなり良くて、たまにチップも貰うほど。そのせいで時折やって来た貴族に揶揄されたりするのだが、まぁ何とかなっていた。


 そんなエレイナだが、ここ最近ため息をつくことが増えた。時折王宮の方を見てはぼうっとする。

 その理由は単純だった。エレイナは本が読みたかったのだ。


 市井に下ってからしばらくは、それほど本に対する欲求はなかった。そのことに父と母はとても驚いていたが、エレイナは納得していた。

 エレイナは、退屈な毎日が嫌だったのだ。娯楽小説でスリルを感じ、専門書などで新たな知識を得る。そのことによって、エレイナは人生に刺激を与えていた。

 だけど、庶民の生活は貴族として生きてきたエレイナにとって真新しいものばかりで。そのおかげで、本を読まなくても飢えることはなかった。


 けれど、人はいつしか慣れてしまうもの。一年も経つ頃にはエレイナは庶民の生活に順応していて、刺激が足りなかった。

 だから本に飢える。知識に飢える。刺激に飢える。

 憂鬱な気分になっても仕方がないだろう。



 はぁ、とため息をつき、エレイナは目の前の建物を見上げた。視界いっぱいに広がるのは王宮の城壁。その壁を、エレイナはまるで恋する乙女のような瞳でうっとりと見つめた。

 ちょうどこの壁の向こう。そこに王宮図書館がある。今まさに恋焦がれてやまない、書物が大量に納められている。


(どうにかして、中に入りたいものです……)


 けれど、今のエレイナの身分は平民。余程のことがない限り、この壁の内側に入ることは不可能だろう。

 はぅ……と熱っぽい眼差しで壁を見つめるエレイナ。不審な目で見られていて、先ほどからも衛兵がチラチラと彼女を見ているのだが、そんなこと気にしない。気にならない。エレイナの頭を占めているのは、本のことだけだった。


 だけど、流石にいつまでもこうしているわけにはいかない。今日は売り子の仕事が休みなため遠出をして王宮までやって来たが、そろそろ帰って母の手伝いをしなければ。一年経ったため母もそれなりに労働になれてきたが、近頃は体調崩しがちになってきたため、なるべく負担をかけたくなかった。

 エレイナは名残惜しげにもう一度城壁を見つめ、目を瞑った。そして未練を断ち切るように、瞼を上げたらすぐに踵を返そうとする。


 その最中さなか、一枚の紙がエレイナの目に留まった。なんの飾り気もない、ただ文字が羅列されただけの紙が、城壁に貼られている。おそらく王宮からのお知らせだろう。それにこの国の識字率は約五十パーセントほどで、王宮からの重要な発表は口頭で説明される。そのため、このお知らせの内容はきっとさほど重要でないか、文字を読める人しか用のないもの。

 何でしょう? そう思ってエレイナは紙に近づいた。


『王宮図書館専門の清掃員を募集しております。仕事は清掃と書物の手入れ。読み書きができ、手入れの方法を心得ている者のみ。募集期間は無期限。希望者は――』


 ざっと目を通すと、エレイナは一目散に駆け出した。向かうのは宿ではなく、いつも働いている商店。

 休みのはずなのに、汗を垂らしてやって来たエレイナに、店主夫妻は首をひねった。


「どうしたんだい、エレイナちゃん? 今日は休みのはずだが――」

「あの、すみませんが他にやりたい仕事ができたので辞めさせてください!」


 後から思えば、ひどく失礼なことだった。



△▼△



 話し合いの末、王宮図書館の清掃員として採用されれば退職、採用されなければそのまま売り子として働くことになった。無職になる心配はなくなって、店主夫妻の対応には感謝するばかり。両親にも了解を取って、翌日には王宮へと向かった。

 簡単な質疑応答の後、一週間後に合否の連絡をするとのことでその日は帰された。おそらく、身辺調査だろう。その点についてエレイナに不安はなかった。元貴族の彼女は経歴などを調査しやすい。

 そして一週間後。宿に届けられた手紙には、『合格』という二文字と、二日後に早速来て欲しいということが書かれていた。



△▼△



 王宮の敷地内へ足を一歩踏み入れた瞬間、ぐっと胸の奥底から込み上げてきたものがあった。何だか目の奥が熱くなって、エレイナは顔を押さえる。……戻って、来たのです。また、ここに。


「エレイナ」


 凛とした声に呼ばれ、エレイナはそちらを見る。黒髪をぴっちりと一つにまとめ、いかにも厳格そうな雰囲気を漂わせる女性がそこにいた。彼女の姿は、エレイナも幾度か見たことがある。昔、王宮図書館に通っていた頃、本の整理をしたり他の司書に指示を出していたりしていた。

 恐る恐る、といった感じにエレイナは尋ねる。


「司書長様……ですよね?」

「ええ、そうです。私もあなたのことはよく覚えています。皆、あなたが貴族ではなくなったと聞いて心配しておりました」

「……ありがとうございます」


 エレイナはゆるりと頬を緩めた。彼女らの優しさが温かくて、じんわりと胸に染み込んでくる。……嬉しい。


「では、参りましょう。職員用の通路も教えます」

「はい」


 その返事を聞いて、司書長はくるりと踵を返した。ピン、と伸びた背中に憧れを抱きながら、エレイナも歩み出す。


 そして、エレイナの新たな生活が始まった。



△▼△



 司書たちとエレイナはすぐに打ち解けた。司書として働いている方の殆どが子爵家や男爵家に名を連ねる独身の貴族令嬢で、程度は違えど、エレイナのように本が好きだったからだ。おかげでかなり話しやすい。

 ふふ、とエレイナは口元を緩める。清掃員とはいえ王宮勤めなため、給金は以前働いていた商店の倍ほどある。そのため父や母にも楽をさせれて、しかも本に囲まれた空間にいれて、とても幸せだ。


「すみません」


 声をかけられて、エレイナは振り返る。そこには金色の髪にアイスブルーの瞳を持つ、美しい男性がいた。年の頃は、二十五くらいだろうか? 機能性を重視した紺の衣装をまとっていることから、文官だろうと思われる。

 元々、王宮図書館は文官たちの資料を一括で管理するために設立されたものであるため、この図書館には勤務中の文官などもよくやって来る。資料を取り出すのに時間はかかるようになったが、どこの部署にどの資料が置いてあるのか、などと探しに行く必要がなくなって楽になったと言われていた。

 それにしても、何故文官様が私に声をかけるのでしょう? エレイナは首を傾げる。今の私の服装は、ちゃんと清掃員のものですし……。


「……何でしょうか?」


 訝しみながらも、エレイナは笑顔で尋ねる。来館者に心地よく利用していただく。その信念は、司書でも清掃員でも変わらないものだ。

 そんなエレイナの様子に気づいたのか、男性は言う。


「禁書庫に入りたいんだけど……。今日はどうやら司書があまりいないようだから、ね」


 なるほど、とエレイナは心の中で呟いた。確かに、今日は司書様方はほぼ総出で新しく入った本を分類してます。巡回している司書様は一人だけですから、見つからなくても仕方がないでしょう。


「分かりました。では、しばらくこちらでお待ちください。裏にいる司書様を呼んで参ります」

「うん、頼んだよ」


 その言葉に頷きながら、エレイナは掃除道具を持って歩き始めた。

 従業員専用の通路を通って司書室へ辿り着く。扉の隣に掃除道具を置くと、エレイナはコンコン、と扉を叩いて中に入った。

 そこはさながら戦場だった。普段なら有り得ないような量の本が一度に入荷したため、ただでさえ大変な作業がいっそう白熱している。

 この本は歴史……いや、やはり文化……と一冊の本を見ながらうんうんと唸る司書たちを見ながら、エレイナは司書長のところまで行く。集中しているためか、誰もエレイナに気づかなかった。


「司書長様」


 エレイナの呼びかけに、司書長が作業の手を止めて彼女の方を見る。メガネの奥のキリッとした瞳はいつも以上に鋭く、熱に浮かされているようだった。


「何でしょう、エレイナ」


 凛とした声が鼓膜を揺らす。


「禁書庫に入りたいと仰ってる方がおります。司書様を一名連れていってもよろしいでしょうか?」

「ええ、まぁ、一人くらいなら――」


 そう、司書長が頷こうとしたとき。エレイナの入ってきたのとは別の扉が開かれ、書物を持った集団が入ってくる。


「すみません、司書長様ー……。まだありましたぁ……」


 彼女の方を見て、司書長は眉を吊り上げた。


「ちゃんと言いましたよね!? これで最後だ、と!」

「は、はい! 言いましたが、どうやら衛兵様方の部屋に一時避難させていたものがあったらしく――」

「分かりました、あなたたちもすぐに作業に取り掛かりなさい! マリーは今度こそ最後か確認して来なさい! 二度はないですよ!」

「わか、分かりました!」


 マリーと呼ばれた司書は本を机に置くと、再び駆け出していく。他の司書たちも彼女に続いて机に本を置くと、作業に取り掛かった。

 司書長ははぁ、とため息をつくと、何か考え、静かな瞳でエレイナを射抜く。


「どうやら、司書の貸し出しは無理なようです。……なので、エレイナ。あなたに禁書庫の鍵を託します」


 その言葉に、エレイナは目を見開いた。


「ですが……」

「責任は私が取ります。――私たち、王宮図書館の従業員の信念は?」


 エレイナは、ハッとして、一言一言刻みつけるように言葉を紡ぐ。


「――来館者に、心地よく利用していただくこと、です」


 その言葉に、司書長は微笑みを浮かべた。目元が柔らかくなり、口端が僅かに持ち上がる。


「正解です。では、頼みましたよ。やり方は分かりますね?」

「はい! 大丈夫です!」


 エレイナのはっきりとした返事に、司書長は頷きながら腰から鍵束を取り出す。その中から古びたものを幾つか選びとると、器用に輪から外し、エレイナの手に預けた。

 鍵をしっかりと握り込み、エレイナは司書長の瞳を見つめた。そして大きく頷くと、くるりと踵を返す。少し時間がかかってしまいました。急がないと。


 エレイナが先ほど男性に話しかけられたところに戻ると、男性は本を片手に佇んでいた。

 傍にある窓から差し込む陽光を受けてキラキラと輝く黄金の髪に、静かに伏せられた瞳。紺の文官服はそれらを一層際立たせていて、まるで一つの絵画のよう。

 ……どれほど経っただろうか。男性がつい、と視線をエレイナに向ける。アイスブルーの瞳に射抜かれて、どきり、とエレイナの心臓が跳ねた。

 何でしょう、この気持ち。エレイナは心の中で呟く。何だか、ふわふわとして、熱っぽくて……。


「……僕の顔に、何か?」


 ニコッと笑いかけられて、エレイナは慌てて表情を取り繕った。来館者に、心地よく利用していただく。そう自らに言い聞かせて、笑みを浮かべた。


「……いえ、何でも。失礼ですが、司書様方は手が離せないようですので、私が案内させていただきます」

「うん、分かった。よろしくね」


 その言葉に頷き、エレイナは彼に背を向けた。何だか、暑くてしょうがない、です。こんなの初めてで、よく、分かりません。

 そんな動揺を悟られないよう、エレイナは必死に表情を作って、カウンターへ向かった。

 手に持った鍵が、やけに軽かった。

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