覚え書き・素材と形式
2018年4月21日・訂正事項、
形式の曖昧さはあくまで技術の問題と訂正したい。
主張の曖昧さは別問題として把握せられるべきものだと
付け加えておく。
これは当然ショーペンハウアーの間違いではなく
私、住友の間違いである。
大変申し訳ない。
創作において重要なのは
何を素材に選んだか、
ではなく
どんな形式を使っているのか
ということにある。
例えばゲーテの『ファウスト』を読む時、
題材のファウスト伝説のことや
執筆の裏話、
創作の歴史的社会的背景、
ゲーテ自身の生い立ちに関心を持つのが
素材への注目である。
しかしゲーテの天才性と
高貴な古典主義精神が
現れているのは
当然のことながら形式においてである。
素材はあくまで創作のきっかけにすぎない。
素材への注目は無駄口を叩く人種の性である。
レオナルド・ダ・ヴィンチや
ミケランジェロは
キリスト教を素材にたくさん作品を作る。
しかし彼らが
異教徒の我々から見てもなお偉大であるのは
彼らの作品が素材となったものを
超え出ているからだ。
彼らの芸術が示す肉体美や
暗喩の効果の絶大さはもはや
キリスト教の世界や教義に
留まらぬ普遍のものである。
受け売りの話になるが、
学校の教科書にも載っている、
ベトナム戦争の最中に撮影された
裸の少女が黒煙を背に
泣きながら逃げてくる有名な写真がある。
何故無数にあるベトナム戦争の
映像記録の中でもあの写真が特に
知られているのか、
それはあの写真がベトナム戦争という
固有の事情を遥かに超えた、
人間の悲劇そのもの受け売りの話になるが、
学校の教科書にも載っている、
ベトナム戦争の最中に撮影された
裸の少女が黒煙を背に
泣きながら逃げてくる
有名な写真がある。
何故無数にあるベトナム戦争の
映像記録の中でも
あの写真が特に
知られているのか、
それはあの写真が
ベトナム戦争という
固有の事情を遥かに超えた、
人間の悲劇そのものをとらえているからだ。
特異な作品は
素材が特異なのではなく
形式が特異であることの好例である。
二流三流の物書きは
形式が曖昧な反面、
やたら素材にこだわる。
「つまらないのは素材が
悪いからだ」と考え、
珍しい素材を引っ張り出す、
あるいは
頭の中をひたすら
こねくりまわす
ことに時間と労力を裂く。
しかし
偉大な作品は素材を
超えるのである。
それを可能にするのは
形式である。
形式の曖昧さは
主張の曖昧さを意味する。
形式が貧弱な創作物は
すなわち
主張がない、
精神がないのである。
「文章作成に当たっての
第一規則は
主張を持つことである」
(ショーペンハウアー
『著作と文体』)
さらにショーペンハウアーは
かく言う、
主張がない者は
素直さを放棄した
分かりにくい文章によって
自分をさも難解で深遠そうに
見せかけようとする、と。
文化は単なる娯楽ではない。
文化の質は
それを作る人間、すなわち
その時代その社会に住む人間の
主張の強靭さ、
意志の強靭さ、
精神の健全さ、
人間の質そのものをあらわす。
現代の文芸が
とるに足らないのは
精神が危機に瀕していることの
証明に他ならない。