過去への電車
由美子は足に限界が来ているのを感じて立ち止まった。右も左も分からず、ただただ障害物をよけて走ってきたため、今、自分がどこにいるのか分からない。うっかりすると、どうして走っていたのかさえ、思い出せなくなりそうだ。だけど。由美子は、自分の手元に目を落とした。その手には、大きな紙袋が握られている。そう、これがある限り、走った理由を忘れるなんて出来はしないのだ。
最初は、前に座った女性を何となしに見ているだけだった。高いヒールを履いて、丈の短い、淡いピンクの花柄のワンピースを着ている女性だ。細く、それでいて白くふっくらとした剥き出しの腕は、大きな紙袋を抱えている。鮮やかなマニキュアが塗られた指先は、サラリとした質感の紙袋をリズムよく叩いたり、さすったりしていて落ち着きがない。その女性が、由美子に既視感を与えたのは、彼女がスマートフォンを取り出し、機嫌良さそうにいじりだしたときだった。由美子は眉をひそめた。次に起こることは、ろくでもないことだった気がする。車内アナウンスが次の駅を告げ、由美子は女性近くのドアの前に立った。紙袋の、やや太めのスタイリッシュなロゴが目に入る。同時に、激しい動悸が由美子を襲った。女性の、思わず洩れてしまったというような、誇りを含んだ照れ笑いが由美子に届いたのは、ドアが閉まる直前だった。ふいに、由美子の身体は、喉の奥がつぶれそうな興奮に支配された。
今、由美子の身体に残っている記憶は、女性の、間の抜けた小さな驚き声だけだ。紙袋は難なく奪えた。まるでそれが由美子にとって必要な物であるかのように。由美子は、座れそうな場所を見つけると、紙袋に手をかけた。
開いた紙袋の中には、丁寧に包装されてリボンのかかった箱が入っていた。二重の罪悪感がよぎりそうになるのを深呼吸で抑えて、ゆっくりと蓋を開けると、赤黒いドクロが描かれた男性用Tシャツがそこにあった。片方の目だけが星マークになっている。これ、高いやつだ。たかがTシャツ1枚に5万円もかけるなんて気が知れない。そう思ってからハッとした。何で自分はこんなことを知っているんだろう。戸惑う由美子の頭の中に声がこだました。バイト、頑張ったんだよ、宏の喜ぶ顔が見たくて。それは数年前の、まだ青春期と呼ばれる頃の、自分の声だった。それに含まれる男性の名前。続いて細面の、垂れ下がった目の男が、苦笑するのが映った。せっかくだからもらっておくけど、こういうのって少し重いよね。それが彼の声を聞いた最後だった。手が震える。由美子は、次々と蘇る彼の声色、表情、仕草を、暗くなっていく空に放出するように、大声を上げながら、半身を前後に揺すり続けた。