三話〜影〜
*1*
俺のいる斎場の一室は、驚くほど静かに感じた。
亡くなったご主人の奥さんの少し震えた声が小さく聞こえるだけだった。
「まずは主人が私に話していた事を佐藤さんに打ち明けたいと思います。」
俺は一回唾を飲み込んだ。
「ご主人が話していたこと…ですか?」
「えぇ、もうかなり前の事になります。まだ主人が佐藤さんと同じ歳くらいの頃、今の玩具屋ではなく主人は文具メーカーの営業をしていました。ちょうど私と主人が結婚した年の頃です。」
奥さんの顔が少し綻んだ。
それを見た俺は、内心ホッとした。
「その日主人は営業回りでなかなか上手く行かず、色々と悩んでいたそうです。朝からずっと歩きっぱなしで足のマメが潰れるほどだったみたい。」
ーーなんか、今の俺と同じような感じだったのかな。
俺は黙って奥さんの話を聞き続ける。
「さすがに主人も疲れたみたいで、その日は偶然見つけた公園で少し時間を潰してたみたいです。まぁ、サボッちゃってたんですね。」
俺は少し笑みをこぼし、相槌を打つ程度の返事をした。
「もう疲れ果ててたみたいで主人はその公園のベンチで横になってうたた寝をしていたそうです。」
「その時、主人は何やら子供の大きな声がするのを聞いて体を起こして何があったのか見てみた様です。」
俺は下を向いて目を閉じていた。
俺の心拍数が一気に上がるのを身体中で感じる。
「あの日、主人は同じ公園にいました。そして佐藤さん、あなたとお母様の姿を見ていたのです。」
少しの間があり、震えながらの声で奥さんは言う。
「…ごめんなさい、佐藤さん。辛いわよね…。もう、話は止めにしましょうか。」
俺は顔を上げ、奥さんを見つめる。
奥さんの目からは涙が溢れて頬を伝ってテーブルに落ちていた。
「いえ、続けて下さい。お願いします。」
俺の涙も、テーブルに落ちていた。
「ありがとう、佐藤さん。」
そう微笑むと奥さんは涙をハンカチで拭き、また話し始めた。
「その時主人は、泣き叫ぶ子供を無視して離れていく母親をじっと見ていたそうです。」
「何か様子がおかしいと思った主人でしたが、疲れていたのもあって、他人の事だしあまり触れたくなかったみたいです。」
「その後、あなたのお母様は自ら通りの車道に飛び出し…。」
「…僕の目の前で車に轢かれて死にました。」
しばらく二人とも何も言わず、心を整理し始めた。
ほんの数十秒だと思うが、恐ろしく長い時間に感じた。
そしてまた、奥さんが話を始める。
「主人は急いで救急車を呼んだみたいでした。」
ーー覚えてる。
あの時、スーツ姿の男性が俺の母親の元へ駆け寄って何やら叫んでいたのを。
そう、あれがご主人だったのか。
その後も、俺の元へ来てすぐに抱きかかえくれたのも、ご主人だったのだ。
俺は今まで気付きもしなかったが、今の仕事に就いて、初めてご主人に会った時にも関わらず、あんなにも優しくしてくれたのも、いつも俺の事を気にかけて体調の心配や、がんばれと応援してくれたのも全部…全部…。
俺は声を上げてその場に泣き崩れた。
奥さんが立ち上がり、優しく肩を抱いてくれた。
嬉しかった。
久しぶりの母親の温もりの様に感じた。
「ありがとう…ありがとうございます。」
俺は涙を拭い、少し呼吸も落ち着かせた。
「主人は後悔しておりました。あの時、俺がすぐに止めてやればあんな事にはならなかった…と。」
奥さんは何やら思い詰めた様子で、俺を見ている。
「佐藤さん、信じて貰えるか分からないけど、最後に聞いてほしい事があるの。」
奥さんの目は真剣だ。
俺もそれに応えるよう頷く。
「あの時、主人はあなたとお母様の他におかしな物を見たと言っていたわ。」
俺はハッとした。
奥さんは更に真剣な眼差しで俺を見つめ、言った。
「…それは、あなたのお母様が倒れている所から黒い影の様な物が地面を這いずり、ズルズルと移動して消えて行ったと…。」
俺は全身の血が一気に抜けてしまう様な程の寒気がした。
あの母の影が縮んで行ったのを俺もこの目で見たからだ。
ーー俺の夢に出てくるアイツと何か関係あるに違いない。
疑問は確信に変わり、それによって更にアイツの正体が何なのか分からなくなる。
俺はしばらく黙り込み、すっかり冷めてしまったお茶を見つめていた。
「変な話をして、ごめんなさいね。」
奥さんが申し訳無さそうに言った。
「いえ、信じます。その話。その、俺に話してくれてありがとうございました。」
俺は冷めたお茶を一気に飲み干した。
「それじゃ、そろそろ時間みたいだから行きましょうか。」
奥さんの顔に少し笑みが戻った。
「はい、それではまた後ほど。」
そして俺たちは部屋を出た。
ーー土岐田はどこだろう?あぁ、多分あそこにいるな。
屋外の喫煙所に社長と土岐田が話をしながら一服しているのが見えた。
俺も煙草に火をつけ、土岐田達の元へ向かう。
煙が目にしみた。