二十四話〜決別の刻〜
*1*
エイジは賢治をめがけ、大樹の破片を思い切り突き刺した。
賢治は無理矢理体勢を変え、ギリギリの所で急所を躱した。
だが、無情にもその大樹の破片は賢治の左肩の付け根の辺りを貫いていた。
賢治は悲痛な叫びを上げ、全身に走る激痛に悶えていた。
エイジは痛みに悶え苦しむ自分の息子を、何の感情も表さない眼差しで見下ろしていた。
「滑稽だな。どうだ、賢治。悔しいか?憎いか?だが所詮お前は俺のコピーでしかならない。俺と同じ力を持ってしても、到底敵う相手ではない。お前一人では何も出来ないのだよ。」
賢治は激痛に耐えながらも、サエや土岐田やエミの事を想っていた。そして賢治は、自らが犠牲となってでも彼らを守りたいと、心に誓ったのだ。
ーー土岐田…エミさん…。最後のお願いがある…。
賢治は土岐田とエミに、最後の願いを伝えようとした。だが、エイジはそれを見逃さ無かった。
エイジは賢治の意識の中に入り、心を遮断した。そして、賢治の影に憑依し始めた。
「賢治…?どうした賢治!」
賢治の最後の願いを聞く前に、突然賢治の意識が無くなった。土岐田はなんとも言い表せられない不安に駆られた。
そしてエイジは、息子である賢治に憑依し、肩と胸の間からボタボタと血を流しながらゆらゆらと亀裂の谷へと歩いて行く。
ーーさあ、賢治。さよならだ。せめて、由里子と同じ死に方をさせてやろう。
憑依され、自らの体の自由を奪われた賢治は、とうとう亀裂の谷の淵まで来た。
傷の痛みも感じ、大地を踏みしめる感触もある。そして、目に入る物や自分が生きている事も全て感じる。だが、自分の意思で体を動かす事が出来ない。
賢治は、この様に憑依された人間の計り知れない恐怖と絶望を知り、母やご主人、そして操られ俺達を襲った社長の虚しさを知ったのだ。
賢治は怒りに震えた。今にも叫び出したい気持ちであったが、声を出す事はおろか、全く体が動かないのである。
そして賢治は、もうどうする事も出来ない自分を呪った。
このまま谷底へ落ち、俺は死ぬ。そして、俺が死ねば向こうのサエまでも死んでしまう。それだけではない。この世界の崩壊を止める事が出来ず、土岐田やエミさん、そして俺の帰りを待っていてくれるご主人の奥さんも、全て死んでしまう。
ただ真っ直ぐと、谷の淵に立っているだけの賢治の目からは、大粒の涙が流れていた。
ーーみんな、ごめん…。
賢治は己の死を悟った。この戦いに、賢治達は負けたのだ。そして勝者であるエイジは最後に告げた。
ーー賢治。済まなかったな。
賢治の目から流れる涙は、エイジの物だっのかも知れない。だが、エイジはとどまる事は無かった。
賢治の体が、ゆっくりと谷の方へ傾く。そして、全ての終わりを迎える一歩を踏み出そうとした。
その時、体がピクリと止まったのを賢治とエイジは感じた。
ーー賢治、ごめんなさい。あなたをこんな目に合わせてしまって。
その声は、賢治の母である由里子の物であった。
ーー由里子…?何故だ!何故、貴様がここにいる?
ーー私は、ずっと賢治の側にいたわ。
*2*
由里子はあの日、エイジに憑依されていた。そして、由里子が轢かれる寸前、由里子はエイジの力を奪って死んだ。
だが、その奪ったエイジの力によって由里子は小さな影になっていた。
この時と同時に、向こうの世界のサヤも死に、最後に二人の母親は賢治とサエの影を繋げたのであった。
そして小さな影となった由里子は、賢治のいる世界を彷徨い、ある少年の影として賢治の傍にいる事が出来た。
そう、由里子は土岐田の影にひっそりと寄生していたのだ。
由里子は向こうの世界の土岐田に語りかけた。
ーー土岐田くん、あなたは気づいて無かった様だったけど、長い間あなたの影に留まらせてくれて、本当にありがとう。あなたのお父様とお母様にも会ったわ。
二人とも、あなたの事をずっと気にかけて見守っていたの。本当に、土岐田くんの事を愛していたわ。
土岐田は由里子の言葉に涙をしたが、その顔は笑っていた。
「俺、知ってましたよ。賢治のお母さんの事。だから、俺は賢治の傍にいる事にしたんです。あなたがすぐに賢治に会える様に。あ、でも俺自身も賢治と一緒にいたかったから…その。」
ーー分かってるわ、土岐田くん。賢治の傍にいてくれて、本当にありがとね。
由里子はそう言うと、また賢治の元へ戻っていった。
*3*
由里子の力によって、賢治の体は谷の淵で止まっていた。
ーーさあ、あなた。本当に終わりにしましょう。もう、私の賢治に何もさせないわ。
”グググっ”と賢治の体が動き、谷の淵から徐々に離れていく。
ーー由里子…お俺の邪魔をするな。この、死に損ないが…!
由里子とエイジの必死の攻防が続いたが、とうとうエイジは持てる力を全て使った。
ーーこうなって仕舞えば仕方あるまい。親子共々終わりにしてくれよう。
やっとの思いで賢治を谷の淵から引き離したのだが、エイジの更なる力に由里子の力は押され、また徐々に賢治は谷の淵へと近づいていった。
ーー母さん…母さん。会いたかったよ、ずっと。だから、俺はもういい。母さんは土岐田の所に……
賢治がそう言った時、由里子は賢治の言葉を遮る様に語りかけた。
ーー母さんね、ずっとあなたの傍にいたわ。土岐田くんと友達になって、一緒に遊んでる時も、あなたが学校でいじめられた時も、就職の面接で緊張してる時も、ずっとね。でも、母さんはあなたに何もしてやれなかった。あなたに触れたくても、泣いているあなたを抱きしめたくても、何も出来なかった。だから、最後にあなたに出来る事をしたいの。あなたのお母さんとして、お母さんらしい事をしてあげたいの。だから賢ちゃん。あなたは私はが守ってあげるわ。
ーー賢ちゃん、愛してるわ。
由里子は自分の気持ちを全て賢治に伝えた。賢治は、そんな母の想いを体中で感じた。とても優しく温かい、それはまるで母に抱きしめられている様だった。
ーー母さん、ありがとう。大好きだよ。
そう言うと、賢治の体は一気に自由になり、賢治はその場に倒れた。
「か、母さん…。」
ーーくっ…よくも。…よくもっ!
由里子の影は次第に大きくなり、エイジの足元から侵食する様にエイジの姿を覆っていった。そしてエイジの体は、由里子の影に覆われ真っ黒になっていった。
ーー由里子、やめろ。やめてくれ…。
ーーあなた…。
由里子は一瞬迷った。自分の愛した人を、自分の手で殺す事に。だが、その迷いはすぐに無くなり、由里子は意を決した。
ーーあなた、私と一緒になってくれて、本当にありがとう。あの時の、優しいあなたを忘れた事は無いわ。だから、最後くらい優しいあなたを想って死ぬわ。
ーーよせ、由里子…由里子っ……!
ーー賢ちゃん、さよなら……。
由里子の影で真っ黒になったエイジの体は、そのまま漆黒の谷の底へと吸い込まれていった。
まるで、由里子に抱かれる様に。
*4*
賢治はまだ倒れていた。大好きな母との本当の別れを告げ、賢治は目を瞑りながら涙を流していた。
そして賢治の体は、もう動かす事も出来ない程衰弱していた。
賢治は最後の力を使って、向こうの世界にいる皆に語りかけた。
ーーみんな、聞こえるか。
土岐田、エミ、サエの三人は賢治の言葉に耳を澄ました。
ーー最後のお願いを聞いてくれ。もう時間が無い。
「賢治…わかった。俺たちは何をすればいい?」
ーーありがとな。まずは土岐田、お前の力を使って、そっちの世界のありとあらゆる物を感知してくれ。出来るだけ多くだ。人や動物、建物や車、虫や魚や草木も山も全部だ。
ーー次に、エミさん。君の力が重要だ。土岐田がそっちの世界のありとあらゆる物に意識を繋げる事が出来たら、一気に全ての繋がりを断ち切ってくれ。そうすれば、俺のいる世界が崩壊しても、そっちの世界は助かる。土岐田と協力して、頑張ってくれ。
土岐田とエミは、賢治の言葉を聞いて全てを悟った。
「賢治…お前。」「賢治くん…。」
ーーごめんな、二人とも。俺はもう戻れない。そんな力は残ってないんだ。だから、これでお別れだな…。
「賢治…。わかった。」
土岐田は全てを受け入れ、賢治の決意に応えた。
土岐田は自分の影に両手を置いた。
「父さん、母さん、少しだけ力を貸してくれ。」
そう言うと土岐田はゆっくりと目を瞑り、持てる力の全てを意識に集中した。
「土岐田くん…私は…。」
「エミちゃん、俺が合図したら一気に頼むよ。分かったね?」
「土岐田くん…。」
土岐田の体から、汗が滲み出る。唸り声を上げ、体が振動する。そして、強く閉じた目からは、血が流れて来た。
「もうすぐだ…あと少し…。」
土岐田はこの世の全てを感じ取っていた。土岐田の頭の中に、世界中の人々やありとあらゆる物が映し出される。
すると、傍にいたサエが静かに呟いた。
「だめ…だめ…。やだよ…やめてよ…お願いだから…。」
エミはサエの言葉に、そしてサエの気持ちに心が締め付けられた。
「サエちゃん…ごめんね…。」
そして土岐田はこの世の全てを感知した。土岐田の目からは先ほどよりも多くの血が流れ出ていて、自分の影にボタボタと垂れていた。
「エミちゃん…今だ。長くは続かない…。早く、断ち切ってくれ…。」
エミは土岐田の言葉に合わせ、意識を集中した。
だがその時、サエはエミに掴みかかった。
「やめてよ…ねぇ!まだ賢治があっちにいるの!お願いっ…やめて…やめて。」
エミは迷った。サエには賢治が必要だ。そしてエミ自身も、賢治との別れを受け入れられなかったからだ。
「サエ…ちゃん。」
すると、土岐田は怒鳴りつけた。
「エミ!サエ!いい加減にしろっ!賢治はな…賢治は…俺たちを守ろうと命懸けで闘ったんだ。賢治は、どんな事をしてでも、俺たちとこの世界を守るって決心したんだ!その、賢治の想いを無駄にするなっ!俺だってな…俺だって…くそぉっ!」
土岐田は涙と血を一緒に流して、今までに無いくらい泣いた。賢治との別れを、受け入れたくはない。だが、賢治の想いを受け入れたからだ。
ーー土岐田…色々と悪かったな。エミさんと、仲良くな。
「あぁ、賢治。…ありがとう。」
ーーエミさん、土岐田のこと、よろしく頼むね。結婚式、行けなくてごめん。
「ううん、賢治くん…。私も、ありがとう。」
そして賢治は、サエに語りかけた。
ーーサエ、ごめんな。約束守れなくて。オムライス、一緒に食べれなかったな。ごめんな…ごめんな、サエ。
「賢治…やだよ…会いたいよ…。アタシね、目が見えるようになったんだよ…。だから、この目で賢治の顔を見たいよ…お願い、賢治…。それで、またおんぶしてほしいし、あたま撫でてほしいし、賢治と一緒に遊んだり、新しい服買いに行きたいし、一緒に…一緒に、オムライス食べたい…。だから賢治…戻って…お願い…お願いだから…。」
ーーサエ…俺はな、サエと出会えて良かったよ。あの路地で最初に会った時は少し驚いたけど…すぐにサエだって分かったんだ。だって、ずっと一緒にいたもんな、俺たち。でも、もうこれで本当にお別れだ…サエ。サエの笑った顔がもっと見たかったな…。
それで、もっと、みんなと一緒にいたかったな…ごめんな。
さあ、早く…。もう土岐田も限界だろ。こっちももう少しで完全に終わる。
俺の守りたかっ物を、守らせてくれ。
賢治がそう言うと、エミは決心した。
「賢治くん。本当に、ありがとう。」
*5*
エミは全てを断ち切った。土岐田はその場に倒れこみ、顔は既に血まみれだった。
辺りは一瞬にして静まり返り、この世界の崩壊は止まった。
賢治を向こうの世界に残したまま。
賢治は崩壊する世界の中で、一人仰向けになっていた。
「終わった…か。土岐田、エミさん、そしてサエ。本当にありがとう。」
賢治は血まみれの震える手で、ポケットから煙草を取り出した。そして、キンっと言うライターの蓋を開けると、煙草に火をつけた。
大きく一度だけ吸い、そのまま大きく吐き出した。
自分の吐いた煙をぼんやりと見つめ、その煙が消えるのと同じくして賢治も目を閉じた。
賢治の動かなくなった手から、火のついたままの煙草がポトリと落ちる。
そして、その煙草は賢治に寄り添う様に横になり、チリチリと音を立て消えていった。




