一話〜主〜
ーー子供の頃に見た夢。
ーー楽しい夢、怖い夢。
内容はもうあまり覚えてないが、いつも同じ奴がそこにはいた。
ぼんやりと黒い輪郭にギョロッとした目のあいつだ。
瞬きもせず、俺の方をじっと見ているだけの、そんな奴だった。
*1*
初春のまだ肌寒い朝、俺はいつもの様にアパートのドアを開け職場へ向かう。
「行ってきます。」
俺は一人暮らしだが、外出の際や帰宅時、食事の前にも必ず挨拶をする。
ーーどんな時でも挨拶はきちんとしなさい。
これは優しかった祖母の言葉だ。
幼い頃に交通事故で母を亡くし、俺は祖父母に育てられて来たが、今はもう祖父母もこの世にはいない。
父親は俺が産まれた後に母と別れて出て行った”らしい”。
”らしい”と言うのは、俺も覚えてなく祖父母から聞かされただけで、俺自身が調べた訳でもないからである。
特に父親に会いたいと思う訳でもなく、母を置いて出て行ったという事に怒りも悲しみも感じなかった。
格好良く言えば”ドライ”な性格と言えるだろう。ーーー格好良く言えば。
そんなドライな俺も、もう三十間近であるが、特に彼女もいなければ欲しいとも思わない。正確に言うところ、出来ないと言った方が潔い。
俺は台東区に在る小さな玩具問屋で働いている。
社員が5名と少ないので、営業と配送を掛け持ちしながら毎日都内を白いバンで回っている。
「佐藤さん!今日は早いですねぇ。」
お得意様の玩具屋さんのご主人が笑顔で迎えてくれる。
お得意様の中でも、俺の事を会社名でなく”佐藤”と呼んでくれるのはここのご主人だけだ。
そう、俺の名前は佐藤賢治だ。
「おはようございます。すみません、今日はちょっと遠くまで営業に行かなきゃならないので、早めに納品に来ちゃいました。」
と、俺は軽く申し訳なさそうに会釈をしてバンから荷下ろしを始めた。
「最近なんだか大変そうだねぇ。くれぐれも体に気をつけてな。」
ご主人はそう言いながら荷下ろしを手伝ってくれる。とても良い人だ。
「あっ、ありがとうございます。」
正直、俺はこのご主人が好きだ。俺よりもずっと年上でもう還暦間近だという。
ーー俺に父親がいれば、きっとごこの主人くらいの歳だろうな。
何故かその時は何の違和感も無く思った。
荷下ろしを終え、ご主人と少し会話をした後、また会釈をしてご主人と別れる。
「それではまた、よろしくお願いします。」
「あいよ!お仕事頑張ってな!」
ご主人と別れ俺がバンに乗ろうとした時、ふと誰かの視線を感じた。
振り返ると、ご主人の後ろ姿が見えるがこちらを向いてる様な人はいない。
「…気のせいか。」
俺はバンに乗り、エンジンをかけ営業先へ向かう為アクセルを踏んだ。
*2*
俺はこの日4件の営業先へと出向いたが、あまり手ごたえは無くきっと今回の営業は失敗だろうと思っていた。
「まぁ、仕方ないか。」
ハンドルを握りながら、少しため息をついた。
ネット通販が主流になったこの時代に、わざわざ店頭で商品を買いに来る客は年を追うごとに減っている。
ましてや玩具など在庫の状況、価格共に店頭よりネットショップの方が断然に有利である。
「俺が小さい頃は、婆ちゃんとよくおもちゃ屋に行ったなぁ…。」
少し懐かしい思い出を辿りながら俺は会社へ戻る為、白いバンをゆっくりと走らせる。
フロントガラスからは午後の日差しが差し込んでいる。
暫くして、コンビニの駐車場にバンを停め缶コーヒーと煙草で一服をいれていた。
ぼんやりと道行く人を吐き出した煙越し眺めていたら、ポケットの携帯電話が鳴り出した。
俺の会社からだった。
「はい、もしもし?」
「佐藤君、今何処にいる?」
いつもの事務の女性社員ではなく社長の声だったので、少し驚いた。
「あ、あの、すみません。営業が終わってコンビニで休憩してます。あと一時間程で会社に戻れる所にいます。…な、何か問題ありましたか?」
社長からの返答の前に頭をフル回転させて思い当たる節を探したが、どうも見つからない。
そして少しの間があり、社長からの思いも寄らぬ言葉を耳にする。
「警察の方が来ている…詳しくは会社に戻ってきてから話すから、なるべく急いで来てくれ。あ、でも運転には気をつけてな。」
二つ返事で返した後、俺は電話を切り急いで煙草をもみ消しエンジンをかける。
額や背中、手に汗が滲み出てくる。
ーーなんだ?一体何をしたんだ?
焦りと不安でサイドブレーキを下ろすのも忘れ発進しようとした。
会社へ戻る道がやたら遠く感じたが、無事に戻って来れた。
急いでバンから降り、会社へ走る。
階段を一段抜かしで駆け上り、そのまま社長室へと向かい一旦呼吸を落ち着かせ
ドアをノックする。
「し、失礼します。」
そこには社長と二人のスーツ姿の男性がいた。
「佐藤君、急に悪かったね。」
社長からの言葉は重たい雰囲気を更に重たくさせた。
「いえ、大丈夫です。一体何があったんですか?俺、何かしてしまいましたか?」
スーツ姿の男性が「こちらへ」と手を差し出していた。
俺は少し震えて、社長と二人のスーツ姿の男性の元へ歩いて行く。
「こちらは○○署の刑事さんだ。」
俺は無言だったが、その二人に軽くお辞儀をした。
「佐藤賢治さんですね。落ち着いて聞いてください。」
一人の刑事が話を始め、俺はまた無言のまま頷いた。
「実は、本日正午過ぎに○○玩具店のご主人が亡くなりました。」
「死因は自殺です。」
乱れていた呼吸が、スッと落ち着く。
滲み出ていた汗も、今は感じないくらい血の気が下がる。
「…えっ?あのご主人が?なんで?どうしてですか?」
刑事が口を開く。
「それをあなた、佐藤さんにお伺いしたいと思いやって来ました。」
俺は何がなんだか分からなくなってきた。
「お、俺にですか?」
「はい、少しお話しをお聞かせください。」
刑事は話を続ける。
「佐藤さん、今日の朝8時頃にご主人とお会いしましたよね?その時の様子で、ご主人に何かおかしな所や仕草はありましたか?」
俺はご主人が亡くなった事、そしてその死因が自殺だった事にまだ理解し難かった。
いや、理解したくなかったのだ。
「いえ…いつもと同じで明るく挨拶してくれましたし、少しだけですが世間話しもしていました。」
あのご主人の笑顔が脳裏に浮かび、やっと少しずつ理解する余裕が出来てきた。
「そうですか…。第一発見者のご主人の奥様も、いつもと変わりは無かったと仰っておりました。」
「でも何で…どうして…。」
俺は気付かぬうちに涙を流していた。
あの優しかったご主人が、死んでしまった。ましてや自殺だなんて、認めたく無かったのだ。
「すみません、聞きたい事はもう一つあります。」
俺は涙目で刑事を見つめた。
「実は、遺書が発見されたのです。そこには震えた筆跡でこう書かれてました。」
刑事が俺に写真を見せる。
「この遺書の内容について、ご主人は何かしら触れていましたか?」
俺はその写真を手に取って、涙を擦りご主人の最後の言葉を見た。
俺は思いも寄らぬご主人の言葉に、一気に鳥肌がだった。
そこにはこう書かれてあった。
”私は負けた 影に飲まれてしまった 君ならきっと分かるはずだ あの時、助けてあげられなくて本当に済まなかった”
そして最後にこう書いてあった。
”佐藤賢治さんへ”
もう何がなんだか分からなかった。
ーー何故、俺なんだ?俺の名前があるんだ?
俺は咄嗟にその写真を手から離す。
写真はゆっくりヒラヒラと社長室の床へと落ちて行った。
刑事がそれを拾い、俺に話しかける。
「佐藤さん、ご主人は自殺でした。ご主人の亡くなられた時、あなたはいませんでした。あなたを逮捕しようなんて、私達は考えておりません。」
「ただ、この遺書にある”佐藤賢治”とはやはりあなたの事でしょう。ご主人の奥様から聞いた話では、よく普段からご主人は佐藤さんの事を話しに出していた様です。」
「自分の息子のだったらよかったなぁ。なんて、言っている時もあった様です。」
そっと俺を見つめる社長と二人の刑事に、俺はどう言った表情でいたら良いのか分からなくなった。
でも、亡くなったご主人が俺の事をそんな風に思っていてくれてた事を知り、俺はその場に泣き崩れた。
こんな気持ちは今までに無かった。
「俺だって…俺だってそうだよ。」
俺は初めて、”父親”と言うものがどのような物なのかを知った。
そして二人の刑事は、何か思い当たる事があったら連絡してくれと言い、去っていった。