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パラドックス・プレゼント  作者: 芝森 蛍
二律背反の過去なる真実
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第一章

 揺れる視界で少しの間見慣れた部屋を見渡して、それから繋がれた手のひらに視線を落とす。

 そう言えば昨日は由緒(ゆお)がいきなりやってきて直ぐ傍で──

 覚醒しつつある頭が眠りに落ちる前の景色を再構成していく。

 夏の朝。既に顔を見せ始めた太陽が、今日も暑くなる事を窓から差し込む陽光として教えてくれる。

 少しだけ篭って温い空気が深呼吸で吸い込んだ胸の内をもやもやとさせる。

 嫌な湿気だ。人が倍に増えるだけでこれかと息苦しさを感じながら手のひらの温かさをやさしく剥がす。

 僅かに身動ぎを見せた由緒だったが、直ぐにまた眠りの中に落ちていく。どうでもいいが、よくも彼女の半身が上に乗っかった状態で俺は寝られたものだと。

 それほど彼女の事を異性として意識していないのかと寂しい感情を責め立てれば、それに対抗するように体の奥底からむず痒いものが競りあがって来る。

 いや、これでも一応女の子だ。そう長々と寝顔を覗き込むものではないか。

 (かなめ)の部屋。プライベート空間にいる異物に居心地の悪さを感じながらベッドから抜け出し、窓を開く。

 そうして流れ込んできた朝の空気。気持ちのいい清涼なる流れを胸一杯に吸い込めば、体の内側から浄化された気分になった。

 完全に覚醒した頭で落ち着きを取り戻す。

 それから目にした景色で違和感を感じる。

 そう言えば要が寝た時は由緒は布団の上に乗っていたはずで、今みたいにがっつり布団の中に体を入れてはいなかったはずだ。

 ……一体何時から潜り込んでいたのやら。

 気づかぬ間に何か大事な物を奪われた気がして半眼で見つめるのと同時、見方を変えればそれが同じ布団で二人で寝たと言う事実になる事に気付く。

 いや、違う。別に変な事はしていないし、された記憶もない。ただ彼女が暖を欲してこちらに踏み込んできただけで……。

 と、何に対してか言い訳をしつつ、言葉を重ねるたびに睦言のようになる事に気付いて、慌てて思考から追い出す。

 駄目だ、考えるな。考えたら負けだ……っ。一体何に対して負けると言うのだろうか?


「……暢気に眠りこけやがって。だから女として────」


 言い掛けて、やめる。

 何を馬鹿な事を。どうあっても由緒は由緒で、幼馴染だ。それ以上でも以下でもない。

 悩むだけ時間を無駄にするだけだ。

 まだ覚醒しきっていないのかと自分の頭を心配しつつ、壁に背を預けて床に腰を落とす。

 どうしてそんな突飛押しもない事を考えてしまったのだろうか……。何かの気の迷い? 環境の変化?

 言い訳を探して頭の中を旅すれば、脳裏を過ぎった顔に全てを丸投げする。

 そうだ、未来(みく)。元を辿れば彼女が来てから、要の周囲はその景色をがらりと変えたのだ。

 赤い髪の、人形のように精緻な身形をした小さな少女。あんな小さな体のどこに彼女を動かす原動力が詰まっているのかを不思議に思いながら続いた過去の記憶に今に繋がる鮮明な景色を思い出す。

 (らく)が刺されて。由緒が誘拐されて。未来を再現して。過去を再現して。

 《傷持ち》。

 全ての謎の中心にいるだろうかの存在を思い浮かべて拳を握る。

 一体何のために、要を巻き込んだ。

 どうして要なんだと。

 理不尽を呪って、それからこの景色の変遷もその動機なくしてはありえないものだというやりきれなさに歯噛みする。

 望んだ非日常は、思い描いた理想とは逆方向に加速して、何の前触れもなく後ろ向きジェットコースターとなって未来を紡ぎ出す。

 これからどんな風な道が出来上がって、確定した歴史を紡ぐのか……。

 誰かの過去と誰かの未来と誰かの現在が折り重なって、そうして出来上がる未知にして決定的な歴史。

 その道を突き進む語り部として、要はこの非日常に巻き込まれたのだと客観視すれば、それもまた楽しみ方かと思考の箍を外す。

 そうして道化のように振舞えるから、まだ要はこれを日常として認めないでいられる。

 お願いだから、この景色が日常に変わる前に、非日常のまま終わって欲しいと。

 夢想したどこかにあるはずのハッピーエンドな着地地点は曖昧なまま、きっとそこに向かって時は流れる。

 誰かが未来を教えてくれればいいのに。

 先行き不安な正しいだろう歴史を想像して、立ち上がる。

 こうしていても、仕方ないか。要自身は《傷持ち》に狙われている立場だ。ずっと受身のままいるのも癪だし、何よりこれ以上周りの人たちを巻き込みたくない。

 だったらこの非日常を楽しむために、今度はこちらから打って出るべきだ。


「……とはいえどうしたものか…………」


 《傷持ち》の目的が要と言うこと以外分からないのでは手の打ちようがない。

 何より要にはどうすればいいかと言う経験則がない。

 ならばどうするか。簡単だ。経験のある先達から話を聞いて参考にするだけだ。

 彼女が語った言葉を借りるなら、これは要を中心にした時空間事件だ。ならばその筋のプロに問い合わせるのが何よりもまず進むべき王道。

 方針が決まれば行動に移すだけ。

 とは言えよくよく考えれば要は昨日風呂に入っていない。非日常に浸かるならば日常を疎かにしてはいけないというのが要なりの楽しみ方だ。

 昨夜は体を動かすのも億劫で、その上由緒に手を握られ立ち上がれるような状況ではなかった。……何より眠かった。常夜灯のない真っ暗な部屋で寝られたのもその疲労故なのだろう。

 何にせよ、寝汗も掻いて余り気分のいいものでは無い。とりあえず風呂へ……。

 着替えを持って階段を降りれば居間には人の気配。恐らく親達だろう。もしかしたら未来もいるかもしれない。

 考えつつ、それから脱衣所の扉を開いて鼻先を擽った匂いに思わず足を止めた。


「…………はぇ……?」


 視界に飛び込んできたのは眩しいばかりの肌色と、鮮やかな赤。

 空気を満たす香りは要の嗅ぎなれない特有の甘さを湛えて頬を撫でる。

 次いで耳に飛び込んできたのは疑問のような声。間の抜けた響きはソプラノに短く響いてこちらを見つめる橙色の視線となり突き刺さる。

 振り返った仕草に濡れそぼった赤い髪が揺れ、ぴたりと肌に張り付く。艶かしく上気した肩に一粒の雫が珠を作り、やがて進む時間を無情に知らせるようにその柔肌を一筋流れ落ちた。

 思わず視線で追って、それから目に入った薄水色の女性用下着姿。下半身にはしっかりと局部を隠していた布地が、けれど胸部には見当たらない。

 代わりに幸いと言うべきか、長い髪が幾房か覆い被さって一応隠されてはいた。

 目にしてしまった景色が盲目に焼きつく。

 上半身裸の、少女の姿。特にその燃えるような髪の奥に隠された仄かな膨らみは薄桃色に色付いて血色よく少女らしさを湛える。

 不意に脳裏を過ぎるのは彼女の見せた躊躇い。それは小さな背丈を褒められたときに見せた僅かな戸惑いの表情。

 その時はきっと小さい事にコンプレックスでも持っているのだと思っていた。

 けれどよもやそれをこうして目の前至近距離で目にする事になろうとは思わなかった。


「お、兄…………っ!」


 刹那、驚愕に見開かれた瞳に敵対の炎が宿る。そうして見る見るうちに頬を紅潮させた彼女は何よりも先に要の目を片手で覆い隠した。


「どわっ、ちょ、未来っ!」

「いいから、早く閉めてっ」

「ご、ごめっ……!」


 考えるより先に謝って、開けた扉を閉める。その際にちらりと見えた彼女の肢体は、華奢なくせに何処か妖艶な……まるで妖精のようだとさえ思えた。

 閉まった扉。木の板一枚隔てたその向こうから感じる存在感に今更ながらに動揺する。

 し、失敗した……。そうだ。この家には未来がいるんだった。今までの常識で行動していたらそこに齟齬が発生するのは当たり前だ。

 ふらりと揺れた足取りが廊下の壁に背中をぶつけて座り込む。

 そうして見上げた扉に顔の暑さを忘れるように考える。

 要の家の脱衣所の扉には鍵がついていない。

 この家は長年、要と結深(ゆみ)の二人で過ごしてきた場所だ。必然、少ない人数での生活には当たり前のようなサイクルが出来上がって、食事の時間や風呂の時間などもいつの間にか決まっていた。

 それで不憫をしていなかったのだから、日常となってしまっていた常識を振り翳した要が悪いとも言える。

 けれどそれほどまでに染み付いた生活サイクルだ。未来の存在が抜け落ちていたとは言え、彼女も彼女で何かしらの対策をしていればよかったのではと、偶然に異を唱える。

 しかしそんな事をしたとて、起きてしまった過去が変わるはずもなく。要は静かに溜息を吐いて肩を落とす。

 と言うかあれは卑怯だ。あんな芸術品みたいな想定外を前に何事も無かったかのように振舞える方がおかしいだろう。それこそ人間のやめているとしか思えない。


「……お兄ちゃんも、お風呂?」

「え……? あ、うん。昨日は入らずに寝ちまったからな」

「そっか…………」


 扉の向こうから響いた遠慮がちな声にまた少し緊張しつつ答える。

 小さな部屋に反響して篭っている所為か、睦言みたいで心がざわつく。

 別に変な気を起こすわけでは無いけれど……一個人として、要と言う男なのだから少しばかりの邪念は勘弁してもらいたい。

 と、そんな事を考えていると扉が開かれる。

 覗くように顔を見せた未来は、やはり何処か警戒するようにこちらを見つめて告げる。


「…………覗いたのは、だから、そういうのじゃ、ないよね?」

「それは違うっ。確かに未来は可愛いけど、妹だし……」

「可愛いとか、またそういう…………。それに分かってると思うけど、未来人であるあたしはいつか戻らなくちゃいけない。この家族は、偽者なんだよ?」


 抜いてはならない剣の柄をちらつかせて未来が呟く。

 確かに彼女の言う通りだ。再婚とかいう話だって、きっと未来達にとっては要の傍にいて守るための方便だ。この過去に溶け込むための言い訳だ。

 けれど────


「……例え、そうだとしても。この家にいる間は、俺たちは家族だ。だったらやっぱり、俺は兄で、未来は妹、だろ?」


 彼女だって演技では割り切れないから、未来人だとばれても要の事を「お兄ちゃん」と呼んでいる。それはきっと、時間と空間の理の外で生きる彼女の、無意識の拠り所だ。


「だからさ、折角の出会いなら、一時の兄妹でもいいんじゃないか?」

「……お兄ちゃんが、いいなら…………」


 尻すぼみな声に笑顔で答えれば、彼女は照れを隠すようにむくれる。


「あとっ、そういう恥ずかしいのは、似合わないと思うよ?」

「俺は至って真剣に言ってんだけど……。まぁいいや…………」


 諦めて何かに対して降参しておく。

 彼女が恥ずかしいというならそうなのだろう。生憎要には人間らしさと言うものが欠如しているのでそういう事を一々考えたりしない。考えるだけ無駄だ。

 ならやっぱり考えるより先に人間らしく思った感想を口にするべきだろう。


「……で、出来れば早く風呂に入りたいんだけど」

「あ、ごめん…………」


 言って脱衣所を後にした未来と入れ替わりに中へ入る。

 すれ違い様、ラフなブラウスから除く首筋が目に入り、次いで鼻先を掠めた女の子の匂いに胸の内がざわつく。

 未来があぁ言うなら、要だって物申したい。もう少し女としての自覚を持って欲しいと……。

 そうして足を踏み入れた脱衣所に先程の比ではないくらい彼女の残り香が漂っていて、やっぱり居心地が悪くなる。

 ……駄目だ。これ以上考えるな。未来は妹、未来は家族、未来は────

 そう自分に言い聞かせて意識的に無意識で頭の中を埋め尽くす。

 湯を張る時間さえもこの邪念を助長するものに思えてシャワーで全てを済ませると着替えて自分の部屋へ。

 頬の上気は風呂の熱気の所為だと言い訳しつつ扉を開くと、ベッドの上では上体を起こした由緒が窓の外を静かに眺めていた。

 音にか要に気付いた彼女はその瞳にいつもの好奇心を宿して笑顔を作る。


「おっはよー君っ」

「あぁ、おはよう……」


 寝癖のついた長い髪。僅かに首を揺らした仕草に前髪がまた一つ外へ向けて跳ねる。

 相変わらず独自の空気を纏う少女だと幼馴染の事を少しだけ見つめて、無言で櫛を差し出す。


「女の子の寝顔を間近でご堪能だなんてえっちだねー」

「……元気そうで何よりだ」

「あれぇ? 否定しないのぉ?」


 いつもの彼女らしく唐突に飛び出した言葉に冷静を装う。けれどまるで分かっていたように痛いところを的確に突いて来る。

 確かに彼女の寝顔は見た。気の迷いだとしても、綺麗だとも思ってしまった。普段はありえないその距離感に動揺もした。

 けれど違う。断じて違う。由緒は幼馴染であって、それだけだ。


「……寝顔を見たのは事実だ。けど何もしてないし、否定する理由がないだろ?」

「つまんないの~。これでも女の子なんだよ?」

「そんな貞操観念の薄い女を女としては見れない」

「……ハジメテがいいとか────」

「いいかげんにしろよっ……」

「あはっ、こわ~い」


 朝から無駄な事に労力を使ったと苛立ちを募らせれば、いつものように能天気にこちらの機嫌を逆撫でしてくれる。だから女として見れないんだって気付け。

 楽しそうに破顔した彼女は、それから手に持った櫛をこちらに向けて差し出してくる。


「ん」

「後ろまだ跳ねてるぞ?」

「おねがいっ♪」

「自分の身だしなみだろうが」

「女の子の寝顔はタダじゃないんだよ?」


 都合のいい女の子の仮面。こんなのに世の男どもが騙されていると思うと憐れになると、自分の甘さに辟易しつつ諦めて彼女の機嫌を取っておく。


「……んふっ、よー君は優しーねー」

「本当に優しければ最初から梳いてるだろ」

「そんな想像ができちゃうから優しいんだよ」


 何処か擽ったそうに呟く由緒に一瞬やめようかとも思ったが、引き受けた事を放り出すのは性に合わない。聞かなかった事にして口を閉ざし、静かに目の前の長髪を梳く。

 耳を擽る微かな音。指の間をするりと流れる絹糸のような髪に妙なさわり心地のよさを感じながら無心を貫く。


「触り方やらしぃんだー」

「……手で梳いてるだけだろうが」

「櫛持ってるんだからそっちで梳けばいいのに」

「髪が痛んでもいいならそうするぞ?」

「何でそんなに手馴れてるのかな?」

「ただの知識だ。変に解釈するな」

「よー君のはじめて~。……私の髪を梳かし隊の隊長にしてあげるよ」

「不名誉な称号どうも」


 中身のない会話を意味もなさないままにそこら辺に転がす。

 手を離れた先から見えない糸に解けて指先に絡みつく。それを優しく解いて……と繰り返し、最後に櫛で撫で付ければ、無邪気な子供のように笑みを浮かべてこちらへ振り返る。


「……お礼のキスでもしてあげよっか?」

「だからもう少し貞操観念を────」

「そういうのもう聞き飽きたよ」


 小さな呟きに黙り込めば、彼女はじっとこちらを見上げて来る。吸い込まれそうな綺麗な瞳。その奥に燻る嵐のような情愛に、けれど気付いていても返そうとは思わない。

 だってそこにどれ程の価値と意味があるのか、今の要にはまだ理解できないから。


「けど私からなにかしたら負けだと思うから、まだもう少し待ってるよ」

「……待っても望む結果が得られるとは限らないぞ?」

「その時は、引っかいて蹴っ飛ばしてぶっ飛ばして……。そうやって後悔させてあげるから」


 確かに魅力的だ。

 それを隠そうとしないからこそ彼女らしい。

 そしてそんな彼女だから、要も一言では断れないのだ。

 知らない事を知らないままにしておくのは嫌だ。

 だから彼女の全部を知った上で答えを返す。どこかで出ている気がする答えには、未だ目を瞑ったままで。


「そうならないように努力はするつもりだ」

「きゃ~カッコいい~」


 今時の読み上げソフトでももう少し抑揚のある喋り方をするのではなかろうか。

 感情の宿らない棒読みに、本当に要の事を思ってくれているのだろうかと不審に思いつつ、小腹が空いた時のためにと部屋に常備してある菓子パンを放り投げる。


「とりあえずそれでも食って満足しとけ。飯食ってくる」

「飲み物は? ジュースがいい」

「随分と横柄な注文だな……。野菜ジュースならあった気がするけど」

「……それでいいよ。口移しでお願いねっ?」

「寝言は寝てから言うものだ」


 答えを聞かないまま廊下に出る。後ろ手に扉を閉めて小さく息を吐く。

 全く、二人きりになると頭を通さず声にする。気持ちは知ってるから今更点数稼いだところでどうにかなるものか。

 既に慣れてしまった突飛押しもない言動に諦めを見出して階段を下りる。リビングへ向かうと既に朝食が準備されていた。

 見慣れた部屋。慣れない人数。

 もう四日目だろうと自分に言い聞かせる。

 今日は日曜日。一般的に仕事は休みで、例に漏れず結深も今日は一日家にいる。

 彼女の目のあるところでは下手な事は出来ないと思いつつ、行動範囲の狭い中でどうしようかと考えて席に着くと隣の席の未来が小声で尋ねて来た。


「由緒さんは……?」

「部屋にいる」

「後で話があるから」


 由緒も一緒にか? と問おうとして、近くを通りかかった母親が何処か楽しそうに呟く。


「内緒話? 仲がいいわね」


 彼女にしてみれば深い意味は無いのだろう。けれど要の正面に座る透目(とうもく)の視線が痛い。

 何もしていないのだから堂々としていればいいのだろうが、気を抜けば先程の脱衣所での事が脳裏に蘇ってきそうで知らず緊張してしまう。

 そういえば未来はいつも通りだ。もし脱衣所での事を深く考えていないのだとしたら独り相撲をしているみたいで少し情けなくなる。


「……どうかした、お兄ちゃん?」

「え、あ、いや。何でもない。……いただきます」


 真っ直ぐに視線に問われて慌てれば、未来は小さく首を傾げる。

 彼女が表に出さないならそれでいい。深く言及することでもないだろう。

 記憶の奥底に脱衣所での事を封印して黙々と朝食を口に運ぶ。

 そうして他愛ない話をしながら食べ終えて、由緒のための野菜ジュースのパックを一つ持って部屋に戻る。

 扉に手を掛けたところで中に由緒がいる事を思い出し一応ノック。

 それから顔を覗かせれば何処か嬉しそうに笑みを浮かべた彼女がこちらを見つめてきた。


「ノックなんて紳士だね……」

「分かってればするだろ、普通」

「いやぁ、今までそんな事した記憶があったかなぁって……」


 からかうような口調に出来るだけいつも通りを装って飲み物を手渡す。

 幼馴染なのだから子供の頃からよく一緒に遊んだ記憶はある。彼女がいつから要に幼馴染以上の気持ちを抱いていたのかは定かでは無いが、要がそれを知ったのは中学の卒業式だった。

 進学に際して変わる環境。離れる距離にあわよくばを求めて彼女に告白する男子も少なからずいた。当時から美人だと評判だった彼女の事を考えれば、まぁ不思議ではない景色だ。

 その現場に偶然居合わせた要を、由緒は約束があるからと断る出しにして厄介避けのように振り回していた。

 涙の別れも幾つか見たその帰途に、くっついて離れなかった由緒に迷惑だと遠回しに告げれば、彼女は何処か寂しそうな声で零したのだ。


 ────言い訳で終わりたくない……


 流石にその裏に隠された気持ちに気付かないほど鈍感でもなかった要は、その景色が想像できなかったために問題を先送りにした。

 幼馴染と言う関係が心地よくて。恋などした事のなかった要にとってその気持ちは戸惑いしかなくて。

 元来真面目な性格の要は雰囲気に流されるのが嫌で、ちゃんと答えたいから時間をくれと言い訳のように返した。

 その言葉に彼女は何を感じたのか、だったらそれまでは出来るだけ待つ事にすると健気に笑って見せたのだ。

 それから一年とちょっと。

 意気地がないと言われればそれまでだが、要はまだ彼女に返すべき気持ちを見つけられてはいない。

 その気持ちを見つける手助けとして、彼女はできる限りの時間を要に割いてくれた。

 この部屋でもよく他愛のない話をした。

 要にとって由緒はまだ幼馴染だ。

 だから今までだって友人のように接してきたし、それでは駄目だとも思っていた。

 そのちょっとした変化。


「ちょっとは、期待してもいいのかな?」

「期待するほど、俺に何があるんだ?」

「それは答えをくれた時に教えてあげるよっ」


 ジュースのパックを優しく抱いて擽ったそうに零す。

 その頬が桃色に色付いている事に少しだけ気持ちを乱されながら逃げる。


「……そう言えば未来が話があるって言ってたぞ?」

「…………修羅場?」

「もしそうなら昨日の夜になってるだろうな」


 どうでもいい答えに由緒が嬉しそうにベッドに転がる。

 今の言葉のどこに彼女が嬉しくなる要素があったのだろうか……。考えてみるが要には分からない。分からないから、まだ答えを返せない。


「と言うか望んでるのか、修羅場を」

「ううん? だって付き合ってもないのに修羅場だとか自惚れてるでしょ?」

「つまり…………?」

「修羅場なんて起こらない事をよー君が教えてくれたって事だよっ」


 …………あぁ、なるほど。要にそうなるという想像がないから、由緒はまだチャンスがあると信じて待っていられると。けれどそれは必ずしも由緒の事を気に掛けているという理由には繋がらない気もするが。


「それに他の女の子の名前を堂々と出しちゃうしねー。大体どの辺りに私がいるのか分かっちゃったから……。私じゃなかったら今ので怒っちゃう女の子もいるかもね」

「それは理不尽だな」

「自分で蒔いた種だよ。その根っこや蔦に足を取られても言い訳はしないよね?」

「言い訳するくらいなら水なんてあげないだろ?」

「……だ~から~。そういう期待させること言っちゃ駄目だって…………。待てなくなったらどうするの?」


 価値観を語ったまでだがどうやらそれによってまた彼女は自分を苛むらしい。

 勝手に恋焦がれておいて、勝手に一喜一憂されて……。面倒臭いのに気持ちをもたれたものだと諦めて座り込む。


「悪かった。けどそれこそ由緒が蒔いた種だろ?」

「…………? 何の事?」


 要にはあれだけ思った事を素直に口にしろと言っておいて当人はそれか。

 もしその惚け顔が演技なのだとしたらそこに要の意思なんてないではないかと。


「……もういいっ。未来に声を掛けてくる」

「ぅん? うん。いってらっしゃ~い」


 天然と言うか鈍感と言うか。恋は盲目と言うがそれはきっと自分の気持ちが最優先で相手の事が見えなくなるからではないだろうか。

 だとしたら早めに答えを出しておくべきだったと今更ながらに後悔する。

 お陰でもう言い訳も効かなくなってしまった……。

 こうなると最早、要から何か言うのさえも何かに負ける事になるのではと考えながら未来の部屋の扉を叩く。

 少しの間の後開いた扉に少しだけびっくりしたのは距離感の不注意か。


「さっきのこと、だよね? 準備できたらそっちにいくからちょっと待ってて」

「分かった」


 真剣な声音で紡がれるソプラノの声に頷けば逃げるように扉を閉ざす未来。心なしか緊張しているように思えた彼女の表情に何かあるのだろうかと考えつつ自室に戻ると、由緒が野菜ジュースを飲みながら要の勉強机に手をあてていた。


「どうかしたか?」

「……ううん。気の所為かなって…………」


 何が? と問おうとして、けれどそれより数瞬早く部屋の扉が叩かれる。

 声で答えれば恐る恐ると言った様子で部屋に入ってくる未来。

 そんな彼女は部屋の中を見渡して由緒を見つけるとまた少し緊張した面持ちになったようだった。

 そんなに由緒が重要な話なのだろうか。

 考えつつ床に腰を下ろせば、その隣に未来が。最後に由緒が何故か要のベッドに腰掛ける。何でお前がそこに座るんだよ。


「それで、えっと、どうしたの、かな? 私に話って聞いたけど」

「……うぅんと……由緒さんは、超能力とか信じる?」

「占いは信じるっ」


 何その自慢げな答え。聞かれてる事に答えろよ。

 それよりも、超能力? もしかして由緒にも異能力の事を話すつもりか?


「それじゃあもし未来の運勢……起きることを予知する力があったら、それを超能力って呼べると思う?」

「思わない。予知ってつまりあれでしょ? これからどんな事が起こるかって言うのでしょ? だったらそれが起こるまで真実かどうかなんて分からないし、起こったらそれは予知なんかじゃなくてただの過去だよ?」


 確かにその通りだ。

 例えばいきなり誰かが現れてこれから30分後に君は死ぬと言われたところでそれをまともに受け取る者はそういないだろう。それが本当だとしても、死ぬ間際に本当だったのだと気付くだけで、その次の景色には既に過去になっている。

 予知に実績があって、誰もがそれは正しいものだと声を揃えない限り、予知は予知足り得ない。


「でも、そうだね……。例えば本当にタネも仕掛けもなく超能力があるとしたら、面白いかなって思うけど」


 由緒らしい、とても現実的な考え方だ。それは何処か要の価値観にも似ている。

 けれど決して相容れないのは何も知らない状態において、要は絶対に信じず、由緒は可能性を否定はしないということだ。


「ほら、物を動かすとかは過去とか未来とか関係ないからそういうのはあるといいかなって思うよ」

「……そういう根拠が示せるかって言われたら頷けないけど、冗談を言うつもりは無いから真剣に聞いて欲しいんです。あたしは、未来や過去に移動できます」

「……タイムマシンみたいなことだ」


 未来の言葉に要も援護を送る。

 彼女にとってそれを明かす事が話に必要なら要はそれを支援する。

 彼女がいる間は彼女の負担を減らすと。彼女の力になりたいと自分に誓ったから。


「よー君も同じ事言うの?」

「もう既に何回か俺は時間移動をしてる。もちろん信じろとは────」

「うん分かった」


 どう納得してもらおうかと考えながら次いだ言葉に、けれど思いの外あっさりと声が返る。


「え……? いや、でも…………」

「よー君が信じてる事を間違いだとは思いたくないだけだよ。それがよー君の経験に基づくことなら尚更ね。だからこれはどちらかと言うとよー君に対する信頼」


 まるで心を全て預けるように、先程までの理想に揺蕩う夢見がちな気持ちが抜けていないのか、柔らかい笑みでそう零した彼女は、続けて告げる。


「それに、似たような夢もみたし」

「夢、ですか……?」

「うん、嫌な夢。よー君がね、色々なところで悪さをする夢。そこに私はいないはずなのに、何でかよー君の見てる景色を私も見てるって言う、よく分からない夢。知らない場所、知ってる場所を転々と移動して、それが私の視線と時々重なって……何で夢ってあんなに纏まりがないんだろうね」


 何処か浮世離れした由緒の言葉に、要は昨日の夜の事を思い出す。

 目が覚めて、部屋にやってきた由緒。そうして要に本物かどうかと尋ね、あんな事はもう二度としないでと泣きついて。

 彼女が見た夢があの時に繋がるならば、あの取り乱しようも一応納得は出来る。

 さっきも言葉にした通り、由緒は要に信頼を寄せている。そこにはきっと彼女の要に対する好意も少なからず関係していることだろう。だからこそ、由緒の理想とする要はいつも正しくて、由緒の味方だ。

 その理想から外れてしまった要を夢に見て、彼女はあんな風に泣きついたのだろう。


「……寝てる間に記憶は整理されて、その中で感情が夢となって朧気に記憶するって話を聞いた事があるな。だから夢は感じた事がとりとめもない景色で再現される」

「ってことは不安とかそういう感情なのかな?」


 言って要を見つめて来る彼女の瞳に何も返せなくなる。

 もしそうだとしたら、その不安は要の先送りにしている答えにあるはずだから。


「……もしかして…………」


 そうして要が突きつけられた言外の刃から視線を逸らしていると、未来が考えるように俯いて零す。それから一度部屋を出た未来は、しばらくして一枚の白い紙を持ってきた。


「さっき根拠が示せないって言ったけど、これなら……」

「それは?」

「お兄ちゃんには説明したよね、『念写紙』」

「……あぁ」


 確か異能力保持者の異能力を解明する不思議な紙だったか。要個人としては殆ど関係ない話のために忘れかけていた。


「もしそうなら、言わなきゃいけない事が一つ解決するから……」


 未来の言葉に似たような響きを思い出す。


 ────今確定してるかどうか分からないけど、多分言わないといけないんだろうなって事は一つ


 未来の異能力『時空間移動』の制限について教えてもらっている最中に彼女が零した言葉だ。

 未来が言葉に出来るのは、彼女が認識した過去についてだけ。

 あの時には認識が出来ていなくて、確定した過去ではなかったから言葉には出来なかった。

 けれど今彼女の語った言葉と、その手に持った『念写紙』から想像する事はできる。

 それを向けた先に、彼女が未来で知っていた、この時間に起こる事を事実に出来る──


「由緒さん、少しだけ目を瞑ってもらえますか?」

「……うん…………」


 真剣な表情で告げる未来。

 異能力を映し出す『念写紙』。それを目を閉じた由緒の額に優しくあてる。


「お兄ちゃんには話したけど、異能力ってのは予知である程度発現する時間と人を絞れる。それに加えてもう一つ、発現した後の症状ってのがあるんだよ」

「発現した後? どんな……?」

「──夢に見る。だから異能力者はよく夢にうなされる」


 それは彼女の実体験か。

 少し辛そうに語る未来は、けれど直ぐにその表情を隠すと静かに呟く。


転写(リリース)……」


 刹那、由緒の額に宛がった一枚の紙切れが光を発する。

 まるでそれが発光体のように、影を作らず太陽のように輝く眩い光が室内を染め上げる。

 咄嗟に腕で庇って遮ったのも一瞬。気付けば収まっていた発光現象の中心は未来の手にあった。


「言い忘れてた……目大丈夫?」

「ん、あぁ。反射的に庇ったから」

「そっか、よかった……」


 安堵の息を零した未来は、それから手元の紙切れに視線を落とす。


「……目ぇ開けていい?」

「あ、はい。大丈夫です」

「頭くらくらする……」


 それが『念写紙』を使った反動かとどうでもいい事を考えながら未来の視線が注がれる先に要も覗き込む。

 そうして映し出される文字。

 じりじりとまるで文字が浮かんで来るように綴られる筆跡は要には見慣れた由緒のもの。

 少し丸い女の子らしい、けれどしっかりと芯の通った読みやすい丁寧な文字だ。


「…………それ、何?」


 由緒の問いに未来が息を呑む。

 彼女が語ろうとする言葉を、要は当たり前のように想像できた。


「由緒さんの、異能力。名前は──『記憶遡行(Re:タイム)』」


 時間を、もう一度。

 訳せばそうなるのだろうが、振られた読みよりも漢字の意味を想像した方が異能力の想像は簡単だ。

 時間遡行。言葉そのままに、時間を遡る異能力。

 由緒の疑問の視線にどう答えようかと要が考えていると、未来が文字の浮かび上がった『念写紙』を由緒へ見せる。


「読んでみて下さい」

「え……う、うん…………」


 戸惑いは当然の感情だ。普通に考えて、いきなり発光現象とか、超能力……異能力といわれたところでそれを素直に信じられる者はそう多くない。

 要だってどうにか知っている知識で説明出来たからそういうものだと認識しただけ。今だって心のどこかで疑念は存在する。

 これがただの夢なのではないか。

 考えれば考えるほど分からなくなるその疑問から目を背けたくて、まだ見ぬ未来に思いを馳せる。


「えっと、これは…………」

「それは由緒さんが持ってる異能力……少し違うけど超能力、見たいなもの。あたしも似たようなのを持ってます。名前は『時空間移動(タイムトラベル)』」

「……時間遡行って事は、タイムマシンみたいなこと?」


 誰だってそこに行き着く。この手の話で最も有名なのはタイムマシンだ。


「由緒さんのは、過去限定。それもちょっとと特殊な見方の」

「……それ貸してくれる?」

「…………ん」


 要も気になって彼女の異能力が記された『念写紙』を読む。


 異能力、『記憶遡行』。

 前提条件、この能力の過去の基準は、時間遡行者の記憶に由来する。


 これは未来の前提条件と比べて分かりやすいが、少しだけ引っかかる部分がある。

 けれど読んでいけば分かること。そう結論を下し、制限に目を通す。項目は、全部で七つ。


 制限①、この異能力では由緒自身が過去に飛ぶ事は出来ない。

 制限②、この異能力は由緒自身の過去の記憶を遡行先の時間に指定する事は出来ない。

 制限③、遡行者は遡行先の過去で自分の名前を口に出来ない。

 制限④、遡行者は遡行先の現代人に危害を加えてはならない。

 制限⑤、制限④を犯した際、その遡行者は時間遡行を受けた三日後に強制送還される。

 制限⑥、制限④を犯した際、その遡行者はこの異能力では同じ時間に移動できなくなる。

 制限⑦、同時間軸に去渡(さわたり)由緒が二人以上存在できない。


「過去の記憶への時間遡行……。未来の異能力と比べると少し出来る事が少ないのかな」

「ううん、むしろ由緒さんの異能力の方が使い勝手がいいくらい。あたしのは特に制限とかきついから……」


 確かにそうかもしれないと考えて、それから未だ飲み込みきれていない様子の由緒に視線を向ける。


「……それが、私の超能力…………?」

「正確には異能力、だな。超能力って言うと少し語弊があるらしい。ほら、一応科学的に説明が出来ることを過程を殆ど飛ばして歪めるのが超能力だから」

「いきなりのことで混乱してると思います。けれどそれが由緒さんの力。時空間を超越させる、もう一人の時間移動能力保持者」


 未来のその言葉に幾つかの景色が蘇る。

 《傷持ち》の背後にいるだろう時間移動能力者の存在。それを要が追求した時に振り翳した、感情論のような否定。

 けれど事実を知ってしまえば彼女の語った言葉を、要も信じたくはなる。

 由緒が、世界を歪める手助けを自ら進んでするとは思えない。

 何よりも平穏無事を好む少女だ。そんな景色、要には想像できない。

 …………もし、もしもの可能性を考慮するとすれば、彼女が『催眠暗示(ヒュプノ)』のようなものに操られることで、起こり得るかもしれない。

 けれどそれは無い。だって彼女は既に現代人ではない。あの廃ビルで未来が連れ帰ったとき、時間移動を経験している。 

 『催眠暗示』は現代人にしか効果がない。つまり由緒には『催眠暗示』は効かない。

 ならば一体、誰が《傷持ち》の時間移動に手を貸しているというのだろうか……。


「よー君……?」

「あぁ、悪い。少し考え事をしてた……で、何だ?」

「これって夢、とかじゃないんだよね……?」

「俺にはどうにも……。未来は何か知ってるんじゃないのか?」


 由緒に呼ばれて我に返る。とりあえずまだまだ情報不足だ。

 それに《傷持ち》を捕まえれば全ては解決する。全てを解明するのはその後でもいい。捕まえるための方便は、未来が持ってきてくれている。

 ごちゃごちゃと纏まりきらない思考を一旦落ち着かせて未来へと言葉の先を向ける。要のその真っ直ぐな問い掛けに、まるで敵わないと言うように笑顔を浮かべて答える。


「……うん、知ってる。と言うかこれも今回あたしがここにいる理由の一つなの」


 未来が語った言葉。言わなければならないこと。それがきっと由緒の異能力の事なのだろう。

 その諸々を説明するには……まずは前提が必要か。


「訊いといてごめん、未来の話は少し待って。由緒、とりあえず前提を一つ追加してもいいか?」

「……何?」

「未来は未来人……未来からやってきた存在だ。今ここで歴史が変わるくらいの事件が起きようとしている、それを解決しに来たんだ」

「…………未来人……。そっか、だからかな?」

「何が…………?」

「みくちゃん、何だか色が違うんだよね。服装とかは現代風なんだけど、雰囲気がまるで異世界のお姫様みたい……。でもその納得がよー君の説明でついた気がする」


 それは女のカンと言う奴なのだろうか。もしそうなのだとしたら侮れない直感だと驚きつつ彼女の意外なほど素直な言葉に安堵する。


「……直ぐに全部納得するってのは難しいかもしれないけど、そういうものなんだって言う理解は…………うん、できるよ」

「俺も似たような感じだな。現実かどうかはまだ計りかねてる。けどもし本当なら、楽しいって……」

「よー君らしいね」


 そうして笑顔を浮かべた由緒。その笑顔にとりあえず彼女の納得を得られたのだと安心する。

 けれど同時に裏を返す。

 これで由緒まで巻き込んでしまったと。もとより異能力が発現するのだからそう考えれば無関係と言うのは低い可能性だ。

 しかしずっと被害者でいるのと、当事者として狙われる可能性が増えるのでは違う。

 彼女が《傷持ち》に誘拐された時でもあれだけ急くように解決策を求め、その中で未来とも衝突をした。それがもし、彼女が目的となって狙われる可能性が増えると考えたら…………。

 要の所為で彼女が傷つくのは見たくない。

 ならば全て先手を打つつもりで、できるだけ早く《傷持ち》を捕まえなくては。

 そのためにも、今はまず現状の把握だ。まずは由緒の異能力から。


「悪い、さっきの話に戻るか」

「夢かどうか、だよね。端的に答えるなら、これは夢じゃない。起こるべくして起こった現実。あたしのもう一つの目的は、この時代に発現する由緒さんの異能力を、安全に保護すること」


 時空間事件を追って来た未来。その彼女が今まで隠していたもう一つの目的。

 彼女は最初から、由緒が異能力を発現する事を知っていた。

 今まではそれが認識外のことだったから未確定の事として言葉にする事が出来なかった。けれど今『念写紙』で示して、由緒の異能力の発現が過去になったために、彼女はこうして打ち明けられる。


「お兄ちゃんには前にぼかして伝えたけど、これが言わなければいけないこと。狙われた由緒さんはもうこっち側に巻き込まれてる。だったらお兄ちゃんは知りたいよね?」

「そうだな。つまりこれは、現実」

「紛れもなく、ね」


 深呼吸一つ。それから彼女の異能力、『記憶遡行』が記された『念写紙』に視線を落とす。

 そうして再び上から読んで気になった事を尋ねる。


「……質問いいか?」

「何?」

「前提条件の過去の基準、これってどういうことだ?」

「えっと……時間遡行者の記憶に由来する…………。つまり経験した記憶の時間に飛ぶ事が出来るって事だよね。経験と記憶は、その人にとって全て経験した過去の出来事だから」


 なるほど。考えれば確かにそうだ。

 過去に何かをして、経験をしたから記憶に残る。つまり由緒の異能力で言う過去と言うのは誰かの記憶と言うことだ。

 そこでふと可能性を思いつく。


「過去の記憶に移動できる……それって歴史的に見れば今より未来に飛ぶこともできるわけだよな?」

「もし過去に、未来に行った事があるならね」


 例えばの話、今から未来の異能力で明日の朝に移動して、戻って来るとする。その後、由緒の異能力で要の記憶を使って移動する際、未来にいたという過去の記憶が存在する事になり、由緒の異能力で今から未来の時間に行く事が出来るというわけだ。

 単純に考えればその時間遡行をする人物が過去に訪れたことのある時間に移動する事ができるというもの。記憶に由来するというのはそういうことだ。

 確かに未来の言った通り使い勝手はいい。未来と由緒の異能力をうまく組み合わせればどこへだって移動する事が可能だ。

 問題があるとすれば、この異能力は由緒自身が移動できないということ。つまり移動先に時間移動能力保持者がいなければ、制限に抵触して戻って来るほかがなく、そうすれば飛んだ時間から考えて三日後に戻って来るということ。そして由緒の異能力では制限を犯せば最後、同じ時間には再び向かうことは出来ないと言うこと。

 過去への干渉は限定され、帰ってきたときに存在をしない空白の時間が出来上がる。それでも未来の五感を失うという制限と比べれば優しいかもしれない。

 記憶を前提とした時間移動。知らない時間にはいけないのだから制限との吊り合いも納得は出来る。


「他に気になる事と言ったら……由緒の記憶では飛べないって事だよな」

「由緒さんは移動できず、由緒さんの記憶は移動先に指定できない。つまり時間遡行をする人だけが、その記憶の限りに移動できる……普通に考えれば、自分が生まれるより前の時間には移動できない」


 つまり由緒の異能力だけではどうやっても親殺しのパラドックスは引き起こせない。

 起こせるパラドックスが少ないから、制限も易しいと言う事だろうか。


「制限③、④は未来のと同じ。⑤と⑥は強制送還のデメリット。……⑦は、でも由緒自身は移動できないから、別の時間移動能力で…………あれ?」

「これは珍しいタイプの制限だね。他人の時間移動能力に干渉する類の制限」


 そうだ、だからおかしいのだ。

 今まで要が知った知識から言えば、制限はその異能力に働くか、異能力の効果が及ぶ相手に作用するもの。

 けれどこの制限⑦は違う。

 由緒が別の時間移動能力で移動する際に発動する制限。他人の異能力に干渉する由緒自身への制限。


「簡単に言えば、あたしの異能力でも由緒さんと一緒に移動する時は、移動先に由緒さんがいちゃいけないって事だよね。出来ないって事は発動がキャンセルされる。あたしの異能力の制限⑦、あたしが二人以上重なる時間には移動できないってのに近いかな」

「……悪用できないためのループ阻止か」


 親殺しならぬ、自分殺しのパラドックス。

 異能力を発現した由緒が異能力発現前の自分に危害を加え、殺してしまう。

 そうすると世界は歪み、壊れてしまう。それを阻止するための、制限⑦。

 もう少し発展して考えればありえてはならない歴史改変も起きてしまう。

 例えば異能力を持った由緒Aが過去に移動して、過去の由緒Bを更に過去へ送る。すると最初に未来からやってきた由緒Aはどうやって出来上がるのだろうか?

 由緒Bが過去に送られなければ、時間が経って由緒Aになる。けれど由緒Aが過去に移動して由緒Bを更に過去に追いやってしまえば、由緒Bから時間の流れで派生するはずの由緒Aが存在しなくなる。結果、由緒Aは過去に移動して由緒Bに干渉できなくなる。

 ではもう一つ派生して考えよう。

 例えば一つ前の時間に戻って由緒Aが由緒Bを過去に送れたとしよう。すると次の瞬間、由緒Aより更に未来の存在である由緒Xが現れて由緒Aを過去に飛ばしてしまうはずだ。

 それじゃあその由緒Xは一体誰なのだろうか?

 ここから先、由緒Aは次々やってくる未来の自分に過去へ過去へと飛ばされ続ける事になるだろう。その度に、少し前に過去に飛ばした由緒Bと再会し、由緒Bを更に過去へ飛ばす。

 結果何時の未来から来た、どうやって出来上がったか分からない由緒Xにひたすら過去に追いやられ、そうしてやがてある一点に集束する。

 そこは由緒の記憶の最奥。最も古い記憶の時間。若しくは異能力を発現する前の由緒の時間。そこに、きっと数え切れないほどの自分と、子供の、大人の、由緒が存在する事はずだ。

 過去に追いやられてやってきた、その場所。過去を含め、未来全ての由緒がそこに集まる。

 そうなった時、それでは最初の時間移動を企てた由緒は一体どこにいて、どうやってその存在が出来上がったのだろう? そこに溜まった由緒たちは、どうやって元いた時間に戻るのだろう?

 例え戻れたとして、そう決まってしまった過去だ。いつか過去の自分を更に過去に送り、そうして自分が誰かに過去へ送られなくなるまで、ずっと同じ事を繰り返し続けなければならない。

 延々と終わらないかもしれない途方もないループに身を焦がし続ける。夢を見るはずの未来から、逃げ続ける時間。

 時間の概念から解き放たれ、それとは違う時の刻み方を経験する事になるはずだ。

 本来ありえてはならない過去の自分への干渉と、自己言及を突き詰める不毛な歴史。

 要なら、例え変えたい過去があっても、それにまだ見ぬ未来全てを賭けるなんてごめんだ。

 歴史はそうある通りにしか流れてはいけない。その不穏因子を排除するためと考えれば妥当な制限だ。

 その上で、歴史をそうある通りにするために身を削る未来と言う存在に、改めて尊敬を抱く。

 要には、どう考えても真似出来ない。


「よく出来てるな、異能力って……」

「異能力に矛盾があったら何もかもが成り立たなくなるからね。意味のない言葉で簡単に纏めるなら、奇跡だよ」


 例えそうだとしても、未来と出会えた事を奇跡だとは思わない。

 幾ら彼女の時間移動が《傷持ち》を発端とする時空間事件だとしても、歴史的に見ればそれが当たり前の景色だ。だからこれは必然。この記憶も、時間も、確かに存在する歴史の一部なのだ。


「…………えっと『記憶遡行』だっけ。それが私の、異能力、ってこと?」

「はい。記憶の過去へ遡る時間移動能力。あたしの『時空間移動』と似た、時間や空間を飛び越える力です」

「……実感が湧かないんだけど…………」

「でも『念写紙』に映っている以上、嘘では無いよな」

「もちろん。この紙に嘘は吐けないからね」


 そう言えば『念写紙』はプライバシーを侵害するとかで強行手段として用いてはならないんじゃなったか……?


「由緒に許可取らずに使ったけど、いいのそれ……」

「あっ…………うん。えっと、事後承諾取れ、ば……?」

「由緒がそれで許してくれるならな」


 やっぱりどこか抜けていると、そのドジを愛嬌だと思い込む事にして視線で糾弾する。

 要のそんなちょっとした意地悪に、平身低頭して由緒に頼み込む未来が少しだけ可愛くて肩を揺らせば、それまでの真剣な表情と打って変わって頬を膨らませる。

 可愛いは得だと敵わない理不尽を小さく嘆けば、由緒もようやく納得がいったのか頷く。


「大丈夫だよ。それにほら、何かこういうのって嬉しいし、私一人では何も出来ないけどちょっとした自慢にはなるからさっ」

「けど、狙われる危険も……」

「そうならないようにみくちゃんがいるんでしょ? それにほら、何かあった時はよー君も助けてくれそうだし」

「それを信頼とか信用って呼ぶなら俺は由緒を助けないけどな」

「残念っ、ただの丸投げだよっ」


 女の理不尽は男の名誉だと押し付けがましい言葉をどこかで読んだ気もする。

 ……きっとそんな理由はなくとも、要は由緒を助けるのだろう。

 それが彼女を待たせている者の責務なら。


「……さて、それじゃあこれからどうするかだけど…………」

「狙われてるなら狙い返さないとな。由緒に危険が及ぶ前に《傷持ち》を捕まえる」

「《傷持ち》……?」


 そう言えば彼女にはまだその話はしていなかったか。

 未来と視線を交わして決心する。

 発現したばかりとは言え由緒もまた異能力保持者だ。だとしたら今後騒動に巻き込まれる可能性もある。

 ならば相手の都合で巻き込まれるより、こちらの都合で巻き込んでその全てを管理できた方が作戦も立てやすいというもの。

 何より由緒の保護も未来の大事な目的の一つ。目の届くところにおいておくのは悪くないはずだ。

 その分、危険は要が振り払うだけ。

 好意を寄せてくれている女一人守れないで何が男だ。


「《傷持ち》ってのはさっき言った時空間事件ってのを起こして回ってるいわゆる犯人だ。未来はそいつを捕まえるためにここにいる。俺もそいつに狙われてる」

「どうしてよー君が?」

「詳しい事は何も。ただ恐らく未来で起こる何かが《傷持ち》の都合に悪くて、それを変えるために俺の存在をどうにかしようって事だと思う」

「よー君未来で何かするの?」

「……あたしの口から未来の事は言えないんです。言ったらこの場所にいられなくなるから」

「それが未来の異能力の制限だ。制限は由緒の異能力にもついてただろ?」


 そう言えば由緒の異能力には未来の事を告げてはならないという制限はなかったと思い返す。

 けれど幾ら過去へ行ったとて、そこは既に確定された過去。未来からその人物が来る事も折込済みの歴史で、未来人が言うだろう言葉や、それに左右されるだろう歴史も全て想定内の事だ。

 だとしたら制限がなくともあまり問題は無いのかもしれない。

 それにまず、未来人だと名乗られたとしても、それを真っ当に受け取って信じる者はそういないはずだ。

 証明までして変わらない歴史を告げたところで何にもならない。結局は確定した未来を知るだけだ。

 どうでもいい事かと切り捨ててそれから色々な説明を重ねて由緒に伝えていく。

 《傷持ち》が時間移動者であること。実際は変えられない歴史、そしてそれを変える事が出来る『催眠暗示』などの間接的作用系異能力のこと。

 流石に《傷持ち》に助力している時間移動能力保持者の事は話題に出さずに伝える。

 口にするのが嫌と言うか……今は考えたくなかった。

 それはもしかしたらという可能性が拭いきれないからかもしれない。


「……なるほど。うん、とりあえずは分かったよ。出来るだけ信じてみる。けどそうなるとその《傷持ち》は今後どんな行動にでるんだろう…………」

「俺は未来に守られてるし、ブースターを使えばある程度渡り合える。今度はそう簡単に由緒への手出しも出来ない。不意を突く以外に《傷持ち》には打てる策が無いように思うけど…………」

(らく)さんとか?」

「由緒で駄目だったのに同じ方法を取るか? まぁ可能性としてはない事もないだろうけど……」


 未来の探求は可能性の模索だ。

 経験した事象から想像で補えば幾つかの未来は見えてくる。

 楽を誘拐するというのは確かに存在する可能性だ。もしそうなるとすれば、既に狙われていてもおかしくは無い。

 だとしたら空白の時間に戻って楽を監視するか……? けれどそれだと他の可能性へ手が伸ばされたときに直ぐに対処が出来なくなる。

 それに空白の時間外の監視は危険度が高くなる。

 未来の異能力は未来が二人以上同じ時間に重なっていると発動しない。つまり今まで未来が異能力を発動できていたのはその時間に要の目の前にしか未来が存在していなかったからだ。

 病院のときも、夕方に飛んだときも、廃ビルのときも。あの時未来は世界に一人だった。

 裏を返せば、空白の時間以外に未来が過去に行くのはリスクが高い。

 例えば昨日の夜。全員が寝た後に由緒の力で要と未来が時間遡行をしたとしよう。由緒の異能力を使えば未来は同じ時間に二人以上重なる事は可能だ。

 けれど重なってしまえば未来は時間遡行前に戻るための異能力を発動できないばかりか、そのまま寝て起きた、今要の目の前にいる未来も時間移動は使えなくなってしまう。

 これでは未来の異能力を封じてしまう事になり、片方が戻るために制限に抵触するほかなくなってしまう。それを未来は許しはしないだろう。戻るために制限に抵触して、その結果に二人同時に同じ感覚を失えば片方は補助具が使えなくなるのだから。

 では例えば時間移動をするのが要だけならどうか。

 要だけなら廃ビルでそうしたように何人でも重なることはできる。幸いか、由緒の異能力も時間遡行者が重なることについては言及されていない。つまりは制限の外、実現可能な景色だ。

 更に言えば、幾ら要が重なったところで影響はない。

 けれど戻るためには未来を捕まえて、彼女の未来へ移動する異能力で戻るか、由緒の制限に抵触するしかない。

 要の認識では、未来が要の目の前から外れたのは廃ビルへ向かったときだけだ。もしその時間に楽を監視するために来た要が大挙して彼女の前に押し寄せれば、流石の未来もそれを要に伝えるはずだ。

 過去になっていることなのだから作戦立案のためにも言葉にするはず。その報告がないという事はこの可能性は低いだろうか。

 由緒の制限に抵触したという見方もできるが、それなら二度と同じ時間に移動できないため、要が二人以上重なる事はできない。

 それを抜きにして考えても、楽監視のために十人の要が過去に行けば、現実では一ヶ月の時間を無駄にする事になる。行って戻ってくれば三日の空白が出来上がるのだ。単純に十倍。

 それに要はブースターがなければか弱い一般人だ。もし楽の監視中に襲われでもしたら、幾ら束になったところで《傷持ち》にはきっと敵わないだろう。

 一回の使用でも体が不自由になったブースターを、そんなに沢山許可するとも思えない。

 殆どありえない可能性だ。

 何より、要自身がそんな景色を見たくは無い。

 廃ビルでもう一人の自分を見たときに感じた嫌悪感。あれが数倍に膨れ上がると思うだけで死にたくなる……。

 ならば楽を監視するという手段は候補から外すべきだ。もし彼が誘拐されたとなればまた脅迫状のようなものが届くはず。

 今はその可能性を排除して考えるとしよう。


「えっと……その《傷持ち》はさ、よー君がどうにかなればいいんだよね?」

「どうするかは別として、歴史を変えるためには少なくとも俺に何か変化は必要だろうな」

「それって例えば──よー君が生まれてこないとかもその可能性に入るのかな?」


 ……あぁ、そうか。必ずしも要本人に何かしらの接触をする必要は無いわけだ。

 要の周囲で変化を起こせば歴史は変わるはず。

 未来に視線を向ければ、彼女も頷く。


「……ありえる話だね。更に過去への干渉で今を変えて、未来を変える。可能だよ」

「もしそうだとしたら、狙われるのは母さんか……」

「もしも、だよ。もしあたしが《傷持ち》ならもっと分かりにくく大きな……相手に止める事を躊躇わせる変化を取る」

「…………どんな?」


 要の想像に未来が静かに告げる。


「要のお父さん……亡くなった人物を、死ななくさせる」

「っ…………!!」


 未来の言葉に息を呑む。

 確かにそれでも未来は変えられる筈だ。死ぬはずの人間が生きているのだから歴史は歪むはず。

 それに例えばそれが本当だったとして、要はそれを止める事を確かに躊躇するだろう。

 死ぬはずの父親が死なない。それはつまり、要が手にする前に失ってしまった時間を、取り戻す事に繋がるのだ。

 そうなれば要はこんな人間をやめそうなほど冷酷にも冷淡にもならずに済むかもしれない。結深にも温かい家庭が戻って来るに違いない。

 兄弟が増えたり、辿る歴史が変わったり……。きっとそれは要が失ってしまった有り触れた日常を手にする事が出来るはずだ。


「もしそうだとしたら、お兄ちゃんは連れて行けない。あたしだけが過去に行って過去を守って来る。……回避できるかもしれない死の見て見ぬ振りなんて、そんな辛い光景を分かってて見せるなんて、そんなこと────」

「もし、それが納得できたなら、俺は連れて行って貰えるか……?」

「……よー君…………」


 苦し紛れに呟いてそれから未来を困らせたと小さく後悔する。

 それは彼女に誓った気持ちに反することだ。言外に彼女を責め立てて、癒えない傷をまた一つ刻み込んで。きっとそんな痛いこと、要がするべきではないのだろうけれども。

 それでも胸の中に存在する憧れは消えてくれない。


「父さんは、俺が物心付く前に死んでる。それは変わらないし、変えるべき過去じゃないのは分かってる。けれどもし、一目でも父さんに会えるなら……例えそれが自分を苛む事になっても、知りたいとは思う」


 葛藤は尽きない。

 例え目にして、けれどそれに納得が出来るのかと。本当に満足できるのかと。


「別に事故死の本当のところを暴きたいとか、そんな理由じゃない。ただ単純に、俺が父さんの事を、知りたいんだ」

「それが、死に様を目撃すると知ってても? 変えられないと分かってても?」

「……………………知れるはずの事を、知らないままにしておくのは、それはただの──」


 自己満足だ。我が儘だ。子供の戯言だ。

 分かっている。けれど、それを分かった上で、この胸の願いは熱く燃え盛るのだ。


「……お願いだ。俺も一緒に、過去に連れて行ってくれ。我が儘も言わない、事実をそのまま受け止める。だから、お願いだっ……!」


 何ができるわけでもなく、姿勢を正して静かに頭を下げる。

 もし拒否されるなら、それで諦めるだけだ。例え諦められないとしたならば、知ってしまったその想像を透目さんにでも消してもらえばいい。

 固く目を閉じてじっと頭を下げ続ける。

 答えは……未来の判決はどちらだろうか。

 長く息苦しい沈黙に、握った手のひらの中に汗が滲む。それが気持ち悪くて、何か言葉を重ねようと口を開く──その刹那。


「────もし何かあったら、話が決着するまでお兄ちゃんの身柄は拘束させてもらう。その条件が呑めるなら……」

「もちろんだ。迷惑をかけているのは承知の上だ。だから未来の言うことには従う。それで許してもらえるのなら、どんな煮え湯でも飲み込んでやるっ」


 彼女が言い終えるより先に言葉にしてその橙色の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 試すような色を灯した双眸の奥。こちらを射抜き返すその強い光に逸らさず返せば、やがて未来は一つ頷いた。


「……分かった。信頼、してるから」

「ありがとう。絶対にその気持ちは裏切らない……」


 未来の譲歩を引き出して要も頷き返せば、何故か隣の由緒が小さく息を吐く。何で由緒が安堵するのかと小さく笑えば、彼女は「だって……」と言い訳のように零した。

 心配をかけたと、そしてこれからも心配をかけるのだろうと少しだけ申し訳なくなりながら視点を元に戻す。


「とりあえずそうなったらその時はよろしく。まずは他の可能性も考慮しないとな」

「まだ話するのぉ? 頭パンクしそうなんだけどー……」

「なら少し休憩するか。飲み物とってくる」

「それならあたしが……」

「いいって、未来にはどうあっても頼らざるを得ないんだから今は休んでて」


 笑顔でいい残して部屋の外へ。扉を閉めて小さく息を吐く。

 まだこの現実は非日常のまま流れている。不謹慎だが、もし叶う事ならあと少しだけ、彼女との時間を紡ぎたいと。

 きっと願ってはいけない理想を胸に抱いて足を出す。

 踏みしめた廊下は冷たくて、まるで要を拒絶しているようにさえ感じたのだった。




              *   *   *




 要の出て行った部屋の中。扉の閉まる音に思わず目の前の少女と視線を重ねて笑ってしまう。

 彼女と二人きりになるのはこれが初めてか……。そんな感慨が胸を突いて、けれどどうしたものかと横たわった沈黙に躊躇する。


「……由緒さんは、いいんですか?」

「何が……?」


 不意に尋ねられて聞き返す。


「お兄ちゃん……要さんが危ない事に首を突っ込んでいる事は…………」

「だってそれは、誰かのためじゃないから」


 赤い髪、橙色の瞳。異世界の妖精のような美貌を持った年下の少女に答えを返す。

 私のその言葉にじっと見つめ返して来る視線に、その先を重ねる。


「昔から、そうなんだ。当たり前の事が嫌で、それを甘んじて受け入れるほかない小さな身を退屈に思ってる。だからよー君は、今が楽しいんだと思うよ」

「……似たようなことを、前に聞きました」


 彼は少し人とずれている。

 平穏よりもスリルを楽しみ。日常よりも非日常を欲する。

 私に言わせれば、誰よりも彼こそが幻想の御伽噺に縋った子供だ。


「元の退屈な時間に戻るのが嫌。だから無理を通してでもみくちゃんの近くにいて、ありえない景色を追いかけていたいんだと思う」

「……危険だと分かってて、危険に自分の居場所を見出す…………」

「それでようやく、人間らしくなれるんだって思ってる。ありえない事に夢を抱いてる時点で、この上なく人間臭いのにね」


 どこか慈しむように告げれば、目の前の少女は小さく肩を揺らした。

 仕草に顔を上げてその瞳を窺えば、彼女はそれから言い難そうに呟く。


「…………由緒さんは、その、お兄ちゃんの事を────」

「好きだよ。一人の男の子として。まだ答えは貰ってないけどねっ」


 茶化せば、彼女はどんな顔をしていいか分からないという風に顔を逸らした。この様子だと、彼女にはそういう人はいないのかな……?


「もう一年以上、待ってるんだ。片想いから数えたら、もっと沢山……」

「辛く、ないですか?」

「全然? いっその事、このまま答えを聞かないでもいいかなって思うこともあるくらい」

「それは…………」

「もちろんそれが全てじゃないけどね。出来ることなら、選んでもらいたい──」


 言葉にすれば胸の内を際限ない欲求が暴れ始める。

 誰だってそうだ。選んでもらいたい。特に恋焦がれる女なんてのは、好きな男の唯一になりたいんだから。男は女の初めてに、女は男の最後に。確かそんな言葉がどこかにあったはずだ。


「だから待ってる。よー君が納得するまで、待つ事にしてる。それまでは、選んでもらえるように努力するだけだよっ」


 笑顔で告げれば、彼女は静かに私の手を包み込んだ。


「あたしが何か言うのは違うかもしれないんですけど……頑張ってください」

「うんっ、頑張る。頑張ってる。……だからお願い、よー君を助けてあげて?」

「それがあたしの役目ですから」


 真剣な彼女の表情に頷く。

 大丈夫。彼女の瞳は、本物だ。どんな理由があるのかは分からないけど、彼女にはそれを成すだけの理由がちゃんとある。

 それはもしかしたら、未来に起きる何かに起因しているのかもしれないと。

 脳裏を過ぎったそんな考えに、少し意地悪な質問をする。


「因みに、未来で私が……よー君がどうなってるかとか、聞いてもいいのかな?」

「それはダメです。未来の出来事は、あたしの口からは言えません」

「そっかー、それは残念だぁ……」

「ただ、その……あたしはその気持ちを、応援してます」

「あはっ、ありがと、みくちゃん」


 心の底からの笑みで笑えば、未来もまた笑みを浮かべてくれる。

 この笑顔は、卑怯なくらい絵になると。もし私が男だったなら一目惚れしてもおかしくは無いほど、可愛らしい微笑みだ。


「あ~もうっ、可愛いなぁみくちゃんはっ!」 

「ふぇっ? あの、由緒さんっ……!」

「離すものか~!」

「…………何やってんだ」

「愛を育んでるんだよっ」


 いつの間にか彼女との間に確かな繋がりを感じて。気持ちに任せて華奢な体を抱きしめる。

 そうして女ながらもいい匂いのする彼女を独り占めしていると、扉が開いて飲み物を持って来た要が半眼で呻いた。

 何を馬鹿な事を問うているのだと。いつも通りの明るさで言い放てば、最愛たる彼は呆れたように溜息を吐いてくれたのだった。

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