未来へ
「どう?」
「貴女が書いたんだもの、間違いは無いでしょう?」
「買い被りすぎっ」
計十冊。気取ったサブタイトルのついた題名を眺めつつ、未だ製本されていない仮の紙束を見て零す。
これが、彼が歩んできた過去の一端。私が愛した人の背負ってきた業。
ずっと、ずっと疑問だった。どうして彼が半世紀もひた隠しにし続けてきたのか。そこにどれ程の意味があったのか。言ってしまえば、私は彼の意地が理解できなかったのだ。
男の覚悟、矜持、信念……。とても感情的で精神論な極論が、彼らしくないとさえ思っていた。
そして同時に知りたくなった。
だから彼女に……娘にして小説家である優菜にお願いをしたのだ。
もしできることなら、あの過去の経験を……あの日に至るための彼の生き様を教えて欲しいと。
別に強要したわけではなかったけれども、どうやら彼女も気にはなっていた様子で。私のお願いは聞き届けられ、仕事と並行に趣味として綴られたのが十巻に渡る目の前の小説──『パラドックス・プレゼント』だ。
これを書くに当たって、優菜は色々な人に突撃取材をかましたらしい。
主人公を気取った要はもちろん、大きく関わった私や未来。それにや楽君や加々美ちゃんに至るまで、出来る限りの聞き取りをした上で何処までも真実に寄り添って書かれた、いわゆるノンフィクションと言う事になるのだろう。
だから私の知らないところで起きていた事も語られていれば、逆に物語の中で主人公たる要の目の届かないところで交わされていた会話も綴られている。
知りえない景色を描き、その心情までをも詳らかにしてしまう。そこにはいないのに、全てを知った風に書き連ねられる。それは物語の創造主……著者にしか許されない傲慢だ。
もし主人公の一人称のみで語られたのならば、自分の目の届かないところで語られる話を知ることは出来ない。約束も、伏線も。後になって明かされたときにこそ過去にそんな事があったのだと知る事ができるのだ。
そしてもう一人。著者と同じ立場で客観視をし、全てを俯瞰して情報を整理できるのが読者だ。
よくある話。複数人の視点が描かれる物語で、読者がそれぞれの視点に自分を紛れ込ませ心情が分かるのは当然。けれど物語の登場人物である当事者は、その者が見聞きした情報しか知りえない。だからこそ読者が知る情報を彼らが知らない事はままあって、そこから話が広がっていくのが楽しみの一つだ。
けれども全てを書き連ねていては、何が起こるのかも、どんな結末に至るのかも全て想像がついてしまう。結果最初からネタバレをされた推理小説のように、どこか茶番然として没入感が無くなり流し読みをしてしまう事になるのだ。
そこで多くを語らず、伏せる部分は伏せ、明かす事でミスリードを誘い、勘違いや錯覚から起承転結を描く……小説家と言うのは誰よりも主人公の敵に自分を重ねて生きる存在なのだと読み終えて気付く。
主人公が作者の鏡写しなんてのは物語を読んでいない者の言い分だ。主人公の敵……主人公を主人公足らしめるもう一つの正義にこそ、作者の思いが宿るのだ。
だからだろうか。今こうして物語を目の前にして、要よりも楽君にこそ興味が沸いてしまうのは。彼が描く物語を読んでみたいと願ってしまうのは。
けれどそうすると、今度は彼の前に現れる次の正義にこそ共感と興味を見出してしまうのだろう。
可哀相なほどに果ての無い欲求。小説が娯楽として認められる所以を知って敵わないと悟る。
事実は小説よりも奇なり。よく要が言っている言葉だ。
けれど私はそうは思わない。事実の方が面白ければ、小説なんていう娯楽は生まれない。そこに関しては、作中で彼が語っていたそれに同意しよう。その上で、選択肢は二つだ。
自分の主観で知りえない他人に興味を抱けば現実が、恐怖を抱けば空想が好きになる。どちらが悪くてどちらが正しいという話ではない。好みの、価値観の、人生観の問題だ。
他人に興味があるのか、そうでないのか。それは言ってしまえば、他人に憧れているのか、そうでないのかと言う違いだ。ならばここに面白い逆接……矛盾が出来上がる。
現実に興味を持つ者は他人を知りたいと憧れ、他を主人公やヒロインにしたい夢追い人で。
空想に興味を持つ者は自分を知りたいと憧れ、己を主人公やヒロインにしたい現実主義者で。
一体どちらが現実と言う目の前を直視しているのだろうかと問えば、世界の視点は反転する。
作家は夢を与える職業だと誰かが言った。けれど私はそうは思わない。
作家は現実を教えてくれる案内人だ。
現実が無ければ空想は無く。空想はそこにありはしない虚像なのだと実感する。
だからこそ、物語はノンフィクションであろうともフィクションで無ければならないのだ。フィクションを自分には関係のないフィクションだと割り切れない者に空想を楽しむ権利は無い。
そうすればほら、物語はどんなに残虐であっても現実には干渉しない。
同時に、どれだけハッピーエンドであっても満足感しか残らない。
それでいい。これでいい。
ならばやはり、物語は主人公に肩入れをして読むものだと納得できる。
人間は何かの主人公になりたい、自分の人生の主人公なのだ。
「……これ出版するの?」
「わたしからお母さんへの『パラドックス・プレゼント』です」
「あらまぁっ」