第四章
床の感触。いつも踏み締めている、けれど靴の所為で少しだけ違和感のある覚えに目を開けば、そこは要の自室だった。
どうやら直接未来のところへは跳ばなかったらしい。
とは言えようやく一人帰ってこられた自室だ。今までは未来がいたり由緒がいたりと、要の部屋でありながら訪客で一人きりではなかった場所。本来はそうである筈のプライベートルームを見渡して小さく息を吐く。
改めてこうして見慣れた場所に一人になると、現実に引き戻された気になる。
今まで経験してきた記憶が全てまやかしで、ありもしないただの夢だったのではとさえ錯覚する。
それくらいに空気は静かで、安心する自室のにおいも現実的だ。
けれど、夢であるはずは無い。
手に持った『音叉』の感触は確かにそこにあるし、ポケットにしまう際に見えた右手首の甲の側には、色々振り回してきた証である切り傷が生々しく残っている。
もしかすると、この傷は一生残るかもしれない。恐らく斬られた後にナノマシン等で処置はされたのだろうが、それにも限度があるのかまだ傷痕は残ったままだ。
楽の腹の刺し傷は綺麗に消えていたのに……。いや、そう言えば楽が刺された傷は先に縫合手術を受けた上でのナノマシンだったか。つまり痕を残したくなければ先に手当てをした上でナノマシンを使う必要があると……そういうことだろう。
幾ら未来の技術だからと言って高望みはするべきではない。異能力が制限と言う枷を嵌められた不自由であるように、技術だって完璧だとは限らないのだ。今より未来の時間だから現代より高い技術で問題が全て解消している……なんて過去から見た押し付けでしかない。
未来も言っていたが、未来の時代でだって異能力を使用した戦いが起きているのだ。結局、本当に完璧なものは一つだって存在しない。そもそも人間が争いを起こすくらいに不完全なのだから仕方の無い事だ。
けれど、だからこそこの傷は要が犯した後悔として背負っていくに相応しい証だ。見る度に思い出して、歴史を旅し楽の腹を刺したという事実に自分を苛みながら、普通では無い生き様を演じ続ける。そう思えばどこまでも要らしくていい自己欺瞞だ。
それに由緒を一人にしなくて済む。共犯者として自分を見失わなくて結構なことだ。
……とは言え、この傷をこの時の未来に見られるわけにはいかない。今までどうにかなっているから、今更別段気にするような事でもないだろう。逆に、意識して隠そうとすれば未来の勘に見抜かれてしまう。
自然体を演じるなんて難しい話だが、歴史再現をする要をキャラクターとして認識すれば、演劇部員の腕の見せ所だ。
自分では無い誰かを演じるなんて、今までずっとして来た事。苦でもなんでもない。
唯一つ、そうして自己満足に浸っている事を由緒が知っていてくれれば……彼女が要の理解者であれば、他に何も要らない。
そのお返しに、要は彼女の傍にい続けるのだ。
十年も……五十年も。
そのためにも、歴史を再現し、いるべき現実へ戻らなければ。これは、その最後の歴史再現だ。
思考を整理して自分に自分を重ねれば、暗闇に慣れた目で足を出す。少しだけ名残惜しく見回した自分の部屋は、過去の景色と重なってぶれた気がした。
ベッドに腰掛ける由緒、ノートパソコンのない机、扉を開けたすぐそこには未来。騒がしくも懐かしい気さえする過去の出来事は、けれど既に終わったこと。
決別を、する訳では無いけれど。要が紡いだ、要の記憶だと自分の納得として落とし込み廊下に出る。
階下には結深と透目がいる筈だ。今要は外に出ている事になっているだろうから、気付かれるわけには行かない。
住み慣れた家の中、どの辺りの床が音を立てるかもよく知っている。そこを避けるように、踵から足をつけて極力音を殺す。小さな物音くらいはテレビの音で掻き消してくれているはずだ。
思いつつ向かった先は要の部屋がある二階の別室。本来なら未来の部屋になる筈だった空室の扉をノックする。
「……どうぞ…………」
空いた間は何か考え事でもしていたのか。もし廃ビルに向かった要の心配をしてくれていたなら嬉しい限りだが。
声に小さく息を整えて扉を開けば、明かりの点いた部屋の中でベッドに横になって指先で髪飾りを弄りながらぼうっとこちらを見つめていた。と、次いで驚きの感情を灯した橙色の瞳が見開かれて、悲鳴のように声が漏れた。
「お兄ちゃんっ……なんで…………!」
「静かに。俺はさっき廃ビルに行った俺じゃないから」
慌てたように体を起こして乱れた髪を指で梳きながらこちらを弱く睨む。頬が少し染まって見えるのは、恥ずかしいところを見られたからだろうか。別に自分の部屋で寝転がるくらいは誰でもするだろうに。
……それともしていた考え事は触っていた髪飾りのことだろうか? だとしたら少しだけ間が悪かったかもしれない。
が、そこに触れて今を掻き乱しても何の特にもならない。鈍感に、何も気付いていない振りでこちらの用件を押し通す。
「未来に話があってな。随分未来の時間からやってきた」
「……話って?」
「廃ビルでのことだ。あいつ、迎えは任せるとか言いながら明確な時間言わなかっただろ?」
それは未来に見送られた際の時だ。要は、由緒の迎えを頼むとは言ったが、何時頃来て欲しいとは告げていない。大方、携帯で連絡をするつもりだったのだろうが……抜けているというか何と言うか、要と未来は番号の交換をしていない。家に掛けるのも未来が直接電話に出なければ色々と説明等がややこしくなる。どうやって連絡を取るつもりだったのだろうか。
過去の己の、未来にも劣らぬ愛嬌に落胆しながらこの場の言い訳に使う。
この話題の振り方なら、ある程度の助言は素直に聞き届けてもらえるはずだ。
「あーそう言えば、そうだったかも……。で? いつ行けばいいの?」
「……七時十分から十五分頃だな。廃ビルの場所は分かるか?」
「ショッピングセンターの近くだよね。前に話したから大丈夫だよ」
そんな話もしたか。あれは未来を案内ついでに一緒にショッピングセンターへ向かった時だ。それを伏線と言うのなら物語的で、偶然に助けられたというなら歴史を知らない現実主義だと笑える話だ。
何にせよ条件は整っていて、こちらとしてもこれ以上の説明に時間を割かれなくてありがたい話だ。
「あと、そうだな。可能なら空白の時間も作っておいたらどうだ? その方が未来も動きやすくなるだろ?」
「…………そうしろって話なら誤魔化さなくてもいいのに」
『Para Dogs』としての鋭い未来がこちらを見つめて告げる。
先ほど要自身が言った事だ。要は随分と未来からやってきた、と。そこから未来の視点に立って想像すれば、目の前にいる要はこの先に起きる事を知っている未来人。つまり未来からの助言と言う事は、そうする事が何かしらの益に繋がると解釈できるはずだ。
未来は時空間事件に特化した捜査員。潜ってきた経験の数が裏打ちする言動は、時折歴史さえ見透かす直感だ。
愛嬌で失敗したかと思えば、時にこうして冷静な彼女を見せる。脱兎と言う言葉があるように足が早く、どうにも捉え所のない少女だ。それくらいの方が手の届かない物語の中のヒロインとして丁度いいのかもしれないが。
「残念ながら制限で無駄口は叩けないからな。遠回しに伝えるほか無いんだよ。察してくれ」
「ってことは、未来のお兄ちゃんの傍にあたしがまだいるって事だね?」
失言だったかと口を噤めば、肩を揺らして笑った未来が続ける。
「詮索してごめん。けど、逆に安心できたから。もう少しお兄ちゃんの事信用してあげる」
「妹なのに兄の事を信じてなかったのかよ……」
「会って三日で順応して異能力利用しようとする人を信用なんてどうやったら出来るの?」
「…………違いないっ」
過去の要は非日常に縋る事に必死になっていた。それは傍から見れば異質に映るだろう。未来の視点は尤もだ。
けれど、それでもある程度信用していないと、要の立案した話に乗っかってもくれなかったはずだ。その地盤を作ったのは恐らく未来がこの時代に来る前の出来事。
先ほど部屋に入った時に彼女は髪飾りを触っていた。あまり詮索をするつもりはないが、やはり彼女にとってあの時間は特別だったのだろう。
「ま、話はそう言う事だ。過去の為に未来を変える。今後色々あるだろうが無責任に応援してる」
「やめてよ、面倒臭い。……ありがと、要さん」
未来にそう呼ばれたのはこれで二度目だろうか。流石に不意打ちだとどう反応していいか分からない。
そんな考えが顔に出たか、また一つ未来が笑う。
未来は機嫌が悪いと言っていたが、あまりそうとは思えない。それとも今のやり取りの中で彼女が気を持ち直すような言葉があったのだろうか。もしそうなら無意識って怖いことだな。
これ以上無駄口を叩いて楽に至るヒントでも口にしたら厄介な事になる。少しだけ名残惜しいけれども、来た時代に帰るとしよう。
背中越しに手を振って挨拶をした後、部屋を出て『音叉』を弾く。流石に未来の目の前でこれを使うわけには行かない。
扉一枚隔てた向こうでは、既に要を向かえに行く為か準備に部屋の中を歩く足音。『音叉』の音に気付かれることもないだろう。
考えて刹那、握った『音叉』が聞き慣れた……最後のラの音階を響かせる。『音叉』での移動も本当にこれで最後。と言うか歴史再現自体がこれで最後。これ以上要が時空間を旅して辻褄合わせをする必要は無い。
そう思えば寂しさと同時に、最後が未来に関する事でよかったと少しだけ嬉しくもなる。
要は一人では何もできない。体力も並み。武器も無ければ異能力もない。今まで要が何かを成し遂げてこられたのは、偏に周りの協力があったからだ。
その中で最も近くにいて、ずっと要の味方でいてくれたのが未来だ。
言ってしまえば、要は彼女に助けられてきた。そのお礼をこの騒動の中でし切れたとは思えない。
けれど、少しでもと思い紡いできた歴史再現。要の自己満足。
後はそれがどれだけ未来に伝わっているかと言う話だ。口にすれば、仕事だからと彼女は笑うかもしれないが。
……いや、一度に全てを返そうと思うから無理なのだ。
未来には約四十年後に出会う。そこから時間をかけて少しずつ彼女に礼を返していこう。あぁ、そうだ。今度は要が彼女の味方になってあげればいい。そうすればほら、いつまでもずっと循環し続ける矛盾なき縁だ。それこそ、袖振り合うのも他生の縁、なんて。
過ぎった考えも束の間。次の瞬間には足の裏に感じた地面の感触に瞼を開く。目の前には見慣れた未来と由緒の顔。
「おかえり、よー君」
「あぁ。……ん、未来」
「これでようやく元通りかな?」
由緒の声に答えて、気が変わらないうちにと『音叉』を返す。これでようやく要は未来から借りた全てを返したはずだ。
『スタン銃』、『捕縛杖』、『変装服』、『読唇コンタクト』。そして楽から預けられた『音叉』を未来に返して、巡り巡ってどこかで楽の手元へと帰る。
本当に、これ以上要がすることはない。歴史再現も、非日常への執着も。全て終わったこと。
「しかし長かったなぁ。終わった気はなんだかしないんだけれどな」
「終わりだよ。今更何か起こるなんて期待しないでよ? と言うかあたしが起こって欲しくないし」
未来も疲れたのだろう。彼女も、これほどまでに面倒に捩れた歴史再現は初めてだと言っていた。
それに加えて、要に振り回され続けてきたのだ。肉体的にも精神的にも疲労しているはずだ。その原因の殆どが要なのだろうから、何かを言うだけ無粋な話だ。
「私何にも出来なかった気がするよ?」
「そんな事は無いだろ。そもそも由緒がいなければ破綻する騒動だ。俺以上に由緒の方がこの面倒事の中心にさえいる気がするしな」
「……自分は全部知ってるからって上から目線なの?」
「拗ねるなよ」
言ってしまえば由緒の為の歴史再現。要が主人公ならば、その理由は彼女なのだ。
しかしそれを口にする訳にはいかない。幾ら上目遣いで強請られたところで、そこだけは死守するべき一線だ。
そうでなければ、『パラドックス・プレゼント』が成し遂げられない。
「仲がいいですね。少し羨ましいです」
「でっしょー?」
笑った未来の声に自信に溢れた由緒が答える。お前は一体何なんだ……。
「ほら、無駄話してないで本来いるべき場所へ帰るぞ」
「一番ずれてる人が言わないでよ」
「そーだそーだ!」
相変わらず中身の無い奴。呆れて溜め息を吐きつつ差し出した手のひら。その右手を未来が、左手を由緒が取る。
きっと要の人生でこれほどまでに何度も同じ相手と手を繋ぐこともないだろう。繋ぎ過ぎて相手が異性だというのに慣れてしまった。慣れとは怖いものだ。
そう一人ごちるのと同時、左手の繋ぎ方がいつもと違う事に気がついて視線を向ける。見れば、要の知らないうちに由緒の指が要のそれへと絡みついていた。
顔を上げれば、視線の交わった彼女が照れたように笑みを浮かべる。
……別にそういう事をしたくないとか、そういうわけでは無いのだけれども。やるならせめて他人の目が無いところでと言うのが常識ではなかろうか。これだから貞操観念の薄い女は…………。
胸の内でそう呟きつつ、けれど度し難いほどに要の心は正直で。言い訳を振り翳したままその手は解こうとしない。その事に気付いたらしい未来がどこか嬉しそうにまた一つ笑って、要は逃げるように瞼を閉じる。
次の瞬間。体を襲った重力方向の変化。それは現実へと帰還し、いるべき場所へ縫い止めるように頭上から降り注いだ衝撃だった。
普段気にしないことだが、人間は常に地球の中心へ向けて引っ張られているのだ。それを改めて教えられた力に、戻ってきたのだと再確認をしながら目を開ける。
そこは見慣れた病院の近くの風景。だからこそ戻ってきた事に今一度実感を噛み締めながら、そこに残していた透目と再び合流する。
「終わったよ、お父さん」
「そうか。なら私達も未来へ帰らなければな」
実直な物言い。無駄のない言葉に少しだけ寂しさを募らせれば、脳裏に余計な疑問が浮かぶ。
「……荷物は? 運び入れた家具とか、あれが家にあると色々不都合が起きるんじゃ?」
「あぁ、そうだね。今から運び出せば間に合うかな?」
「もう手配はしてある。が、手伝った方が早いだろう」
透目の言葉に頷いて、それから未来がこちらに視線を向ける。流石に言葉にしなくともいいだろう。要は未来の兄なのだから。
「由緒は?」
「もちろん手伝うよっ。少しでも一緒に居たいからね」
「……ありがとう」
「んじゃ、れっつらごー!」
由緒の声にやる前から疲労感を覚えつつ長年暮らしてきた我が家へと足を向ける。さすがの未来も今回ばかりは異能力でのショートカットは避けたらしい。事件も解決してようやく手にした平穏なのだ。今そこに生きている事に浸っても何の問題もないだろう。
誰にだって縋りたい物はあるというだけのこと。
要にとってそれが非日常の残り香で。由緒にとってそれが数日前にできた友人で。未来にとってそれがたった一時の理想で。
大体こんな面倒事に振り回されて愚痴の一つも言えないなんてどうにかしている。
「はぁ、それにしても疲れた……」
「未来のそれは主に気苦労じゃないか?」
「その原因誰だと思う?」
「俺のような誰かだろうな」
緊張感に欠ける、きっと未来本来の呟き。彼女の気持ちもよく分かる。要だって充分に疲れている。由緒だってそうだろう。
だからこそ終わった事による開放感が本音として呟かれる。
要のような誰か。そもそもこの歴史再現は未来の要の仕組んだことだ。つまり責任を問うなら彼に矛先が向くべきだろう。そして、未来がそうできないことは何よりも要自身が知っている。
とは言え半世紀後の要について言及すると面倒臭くなる為に明言はしない。しなくともいつもの勘で彼女は気付くだろう。
「……だとしたら由緒さんはいい迷惑だね」
「ん~? 私は楽しいからべつにいいよ?」
「…………俺よりも大物なんじゃないか?」
「かもね……」
曖昧な着地点に二人して笑えば、馬鹿にされたと気付いたらしい由緒が唇を尖らせる。
「あーいけないんだー、浮気なんだーっ」
「飛躍しすぎだ……」
「そうですよ。お兄ちゃん相手にありえませんから」
「ほんとにー?」
もしかして由緒は気付いているのではなかろうか。未来も大概抜けているから、ひた隠しにしている彼女の気持ちが由緒の女の勘で見抜かれているという事もありえる。
が、未来だってその辺りは慣れたもの。追求には慌てることも無くいつもの調子で答える。
「大体あたしはこの時代の人間では無いんですから。そんな物語みたいな恋をしても悲しいだけじゃないですか」
「んー、それもそっか」
「……まぁ、もし本当にそうであれば、あたしは由緒さんの味方ですから」
「だってっ」
「身に覚えのない事を吹聴して回るなよ?」
要だって演劇部員。これくらいは朝飯前だ。
と、そう言えばそろそろ腹時計がお昼時だ。時空間の旅で捩れた体内時計。その内戻さないといけないが、これから力仕事と言うのに空腹なのは戦力外通告待った無しだ。
そんな要の思考が由緒と重なったのか。ちょうど目に入ったコンビニに吸い込まれた幼馴染の視線に乗って透目へと言葉を向ける。
「透目さん、昼食は食べましたか?」
「いや、まだだ。そこで買うか?」
「ええー? フードコート行きたいっ」
「我が儘なやつだな……」
「あたしも、って言ったらどうする?」
「…………未来まで。全く……」
「あー、みくちゃんに甘いんだー! やっぱり浮気ーっ」
「妹の頼み事を兄が無碍にする訳にはいかないだろ?」
「妹と幼馴染どっちが大事なんだよぅ!」
意味の分からない二択。正直に答えればその後の集中砲火が怖いのでスルー案件。
あと、どうでもいいが目的地が家からショッピングセンターに変更された模様だ。……訂正するのも面倒臭い。腹ごしらえをして、その後家での片付けの流れで納得しよう。
「無視は大罪なんだよ? って事でよー君の奢りねっ」
「……よくも次から次へとくだらない事が思いつくな?」
「よー君の幼馴染だからねっ」
そうして胸を張れる根拠が要にはよく分からない。
けれども、なんだか少し安心したのは今更口にするべきではないことだ。
「仲いいね」
「でっしょー?」
少し前にも同じやり取りを聞いた気がする。……どこかで間違ってループしてたりしてないだろうな?
付き合うだけ無駄に体力を浪費する。ようやくその結論に至って口を噤めば、要弄り続行中の由緒が未来を抱き込んで中身のない誹謗中傷の嵐を誰に聞かせるわけでもなく奏で始めた。
「…………騒がしくてすみません」
「別に構わない。責務から開放されたのだ。自由に浸るくらい口煩くするような事では無いだろう」
「ありがとうございます」
ショッピングセンターは駅前だ。話に挙げてから向けていた足のリズムに合わせて、後ろから囁く姦しい声に居場所を求めて透目に声を向ける。
彼とこうして他愛ない話をする事が出来るのも、全て終わった証だ。彼も色々と背負っている身だが、話が分からないわけではないし年頃の娘相手に苦労もしていることだろう。
ならばせめてと、言葉の無い同盟を組んだ二人に対抗して男同士でつるむのも悪くは無い。
「それに未来がああして笑っているのを見るのも久しぶりだ。あの子は少しばかりこの仕事に責任感を覚えすぎる嫌いがあるからな」
「それがいいところでもあると思いますよ」
「知った風な口を利く」
どこか責めるような。けれど言葉の端に滲んだ嬉しそうな音。
事ここに至ってようやく彼とまともに会話できた事に達成感のような何かを感じながら四人で歩く。
そうしていれば騒がしく在り来たりなこの風景も、飽きが程遠く感じるくらいには嬉しいものだ。日常も、それほど悪い話ではないのかもしれない。そう思えるのも主観の所為か。
何にせよ、最後にようやく手にした日常だ。ここからゆっくりといるべき居場所へ戻っていくとしよう。
ショッピングセンターまでの道のりでは、他愛ない話をしながら時間を貪っていく。そうしていると今までの事が全て夢の嘘で、何もなかったかのように錯覚していく。
やがて要の主観が、未来達を最初からそこに居た友人だと認識し始めた頃にたどり着いたショッピングセンター。ここにも色々な事があったと、既に過去の事として納得すれば、足はフードコートへと向かう。
前にここへ来た時は楽も一緒だった。彼は彼らしく、好きなものを頼みその時を楽しく生きていた。あの彼を、要は作り物だとはやはり思えない。
彼の過去の事を聞いた上で、あれは彼の本心で、素顔だったのだと。
抹茶が好きで、音楽が好きで、アニメが好きで。今要の記憶にある『催眠暗示』による彼の情報は、間違いなく真実だ。
何よりの証拠として、楽はこれまでに意図しての嘘を一切吐いてこなかった。言葉の綾は別として、混乱させるような事は沢山口にしたけれど。それは可能性の疑問であって、心からの本心ではない。
嘘を言わず、真実も言わない。言ってしまえば詐欺の常套手段だ。
楽はそれを自らの目的と歴史再現と言う大業で正当化したに過ぎない。悪役であり、正義。……どっちつかずなのは、誰だって同じか。
「何が食べたい? 最後くらい奢るぞ」
「んじゃぁうどんとー、たこ焼きとー、ドーナッツとー」
「お前の辞書に遠慮って言葉は無いのか?」
「思い出作りだよー」
透目の優しい提案に由緒がいつもの調子で飾らない感情を曝け出す。
その上都合のいい方便は直ぐに思いつく……。こんなのが幼馴染だなんて恥ずかしい限りだ。
「…………太るぞ」
「それは太って欲しくないってこと?」
せめて釘を刺せればと口にした言葉に返ったのは、こちらの気持ちを逆手に取った音。
頷けば人の目沢山ある場所で告白同然。否定すれば女である事を理由に未来に泣きつくのだろう。
どうあっても逃げ場のない返答。これが命を掛けた戦いなら、せめてこちらの意思を突き通せる前進を選ぶのだが……口論に戦いの勝敗のような答えも終わりもない。
ならばどうすればいいのかと。言葉に詰まって無言を通せば、どこか寂しそうな由緒がそれから笑う。
「……よー君は優しいんだからそんな事言わなくていいのに。それに美味しい物を美味しく食べる為に変なことを言わないでよっ。太ったら私の責任! 痩せればいいんだからさっ」
「それに俺が巻き込まれないなら手放しに喜べるんだけれどな」
溜息と共に零せば、馬鹿な事をと笑う由緒。交わした言葉に、未来が鬱陶しそうな顔で呟く。
「……あたしあまり食欲ないかも」
別にそんなつもりは無かったのだけれども……。夫婦喧嘩は犬も食わない。そう指摘されて、恥ずかしくなり顔を逸らす。傍らで、由緒は上機嫌になっていた。
「だったら未来ちゃんも一緒に遊ぶ?」
「……俺はお前らの玩具じゃないからな?」
今度こそはと先に釘を刺せば、むくれた由緒が恨めしそうにこちらを見つめ。そんな彼女を未来が笑った。
どこかで何かが違っていれば、こんな景色ももっと沢山あったのかもしれない。そう思うくらいには何処までも意味のない時間だと呆れて。
やがて由緒が列挙していた食べ物が透目の手によって運ばれてくる。そんなに律儀に答えてもらわなくてもいいのに。
「もしまだ必要ならこれで買ってくれて構わない。私は少しお手洗いに行って来る」
「分かりました」
と、そんな透目が未来に財布を預けて言い残すと席を離れる。もしかして三人の時間として気を使ってくれたのだろうか。だったら一緒について行ってこの地獄から開放されたいというのが本音かもしれない。
「それじゃあ追加で焼きそばにしよっかなー。あと食べ終えたらクレープだねっ」
「どうぞ好きなだけ使ってください。最後は経費として落とすので別に懐も痛みませんから」
「やった!」
……もう深く考えるのは良そう。由緒の言い分ではないが、折角の食事が不味くなったら作ってくれた人に申し訳ない。
未来からお金を受け取った由緒が何処か危なっかしい足取りで人の中を進んでいく。その背中を眺めながら、テーブルに頬杖を突いた未来と他愛ない日常を紡ぐ。
「由緒さんといると飽きないね」
「ずっと一緒にいるとその感情を後悔する事になるんだけれどな」
「それでも、羨ましいです。あたしには由緒さんみたいな友達も恋人も居ませんから」
どこか寂しそうに呟く未来。その橙色の瞳が不意にこちらを向いて、照れたように笑う。
長い紅の髪が揺れる仕草は、何処までも絵になる光景で。彼女に本気で恋をしなくてよかったと安堵さえする。
届かない想いに自分を苛むなんて矮小な要には過ぎた重荷だ。言えば、未来の事を侮辱する事になるかもしれない。
だからこそ、彼女が要を慕ってくれる事に感謝をしながら胸を張ろうと一つ呼吸を整える。
「……帰ればいるだろ。頼れる大切な人が」
「意地悪な事を言うねぇ」
胸の痛みを隠すように笑う未来。けれどその痛みに耐えられなくなったか、やがて頬杖を腕枕に変えて机に頭を投げ出しながらこちらを見上げてくる。
「────好きです、要さん」
まるで時間が止まったかのように。視界の中でその音だけが鮮明に要の耳に届く。
遅れて、それが本心からの言葉だと気付いたころには既に周囲の雑音が戻ってきていた。
「それから、大っ嫌いですっ!」
悪戯をする子供のように、無邪気な笑顔で重ねた言葉。しかし不意打ちの衝撃から戻れなかった要は、返す言葉も見つからずに顔を逸らすことしか出来なかった。
やがて両手一杯に食べ物を持って戻ってきた由緒を交えてどうにか取り繕いながら三人で食事をする。久しぶりにまともに食べた気のするそれは、今までがコンビニで済ませていたからかもしれない。
別にコンビニの弁当やおむすびなどが嫌いなわけでは無いけれど。日常的に親の作る食事を食べている身からすれば、皿に盛られているかどうかの違いは意外と大きな要因らしいと気付く。
それもまた甘えで、驕りなのだろう。違和感を抱かないから日常なのだ。だから刺激のない日々に嫌気が差していたのかもしれない。
「そう言えばみくちゃんのお父さんは? まだ帰って来てないの?」
「…………多分先に家に帰ったんだと思いますよ」
「……ま、そうだろうな」
合間に紡がれる音に答えれば、どうやら由緒だけが気付いていなかったらしい。
「えーなにそれ。手伝うって言ったのに……」
「透目さんにしか出来ない仕事だってあるだろうさ。それに気を遣ってくれたんだろ。最後の思い出作りに」
由緒としては本気で手伝いをしたかったらしい。もちろん要も出来ることなら手伝いたかった。けれど彼の意図に気付いてしまえばそれを無碍にするのも悪い話だ。
折角子供同士に僅かの自由を与えてくれたのだ。その好意を無駄にしないためにも 彼に甘えるとしよう。
「もし由緒がそうしたければ一人で行ってもいいんだぞ?」
「それよー君が言っていい言葉じゃないよっ。よー君の家のことなのに」
確かに由緒の言う通りかかもしれない。が、かと言って未来を一人にするのもここまで首を突っ込んできた責任として要自身が許せない。
そんな思いに気付いたのか未来が笑う。
「大丈夫ですよ。別にお父さん一人で全てやってるわけでは無いですし。必要なのはちょっとした手続きとか話し合いだけですから。それにあたし、由緒さんと一緒に遊びたいです」
「うわー、悪女だよー」
随分と可愛いお願いをする悪女もいたものだ。それに要からしてみれば由緒の方が余程質が悪い。
「で、どうする? 俺たち二人を置いて戻るか?」
「……うどんに失礼だから食べて考えるっ!」
言ってうどんの器を手に取った由緒に、未来と二人で笑う。
別に由緒だって本気ではないのだろう。いや、手伝いたいと言う気持ちが嘘では無い事は、幼馴染として保証できることなのだが。
由緒にしてみれば未来は異能力保持者としての理解者だ。そこに関しては要が何かの力になることは出来ない。そんな彼女と一緒にいれば、少なくとも由緒が特別である事を考えなくても済む。……由緒は気にしないかもしれないが、異能力者が他にいない現代ではそうも言っていられない話だ。
未来にしてみても由緒は特別だろう。二人しかいない時空間超越の異能力。そして血の繋がりさえある過去の人物。
と、今この景色を客観視した要が気付く。
未来は要の孫。そして要は由緒と未来で結婚していた。だから今ここにいる二人は、未来にとって祖父と祖母なのだ。
未来の苗字が明日見である事を考えれば、透目は遠野家の血筋ではないのだろう。つまり生まれるのは女の子……。今まで話には出てこなかった、未来の母親が未来の要の娘、と言う事になるのだろうか。由緒は気付いてないだろうけれども。
自分で思いついて信じがたい話だが、未来がいて、未来の自分が由緒の隣に居た事を考えるに外れてはいないはずだ。
……未だ告白すらまともにしていないと言うのにそんな未来のことまで知ってどうしろと言うのだろう。変わらない歴史とは意外と残酷なものだ。
「よー君鯛焼き食べる?」
「食べるけれど……と言うか食べ物の種類が祭りの屋台っぽくないか?」
「あーそれねー。粉もの多いよね」
「ファミレスとか入ればよかったんじゃないですか?」
「そうだよっ。なんでみくちゃんもっと早く言ってくれなかったの!?」
「えっ、あたしが悪いんですか?」
現実に流れる空気はそうでもないか。だったらそんなに未来の事を急いて考える必要もない。
今を生きて、いつの間にかその未来に辿り着くだけだ。
「罰としてこれを食えー!」
「た、たこ焼きは待っ────」
「火傷するなよー」
相変わらず突飛押しもない言動の幼馴染に、こちらへ矛先が向いても困るからと未来を生贄に捧げる。
軽く涙目になった彼女が視線で訴えてきたが知らない振り。少しだけ餡子のはみ出した鯛焼きを頭からかぶりつく。
雑学だが、鯛焼きはつぶあんが一般的らしい。そのためこしあんの鯛焼きと言うのは探さないと出会えない物だとか。あと、頭から食べると頭がよくなるという迷信もあったりする。
と、どうでも良い事を考えていると、それ以上にどうでも良い事を思いついたらしい由緒がこちらへ顔を向ける。
「そうだ、よー君」
「何だ?」
「面白い話してよ」
「…………パンダ」
「なにそれ」
おもしろい話だ。
と言うか無茶振りにも程がある。脈絡は何処へ旅に出た。本当、なんでこれで俺よりいい成績取るんだろうな。
考えていると、隣で未来がむせていた。どうやら先ほどの話の意味が分かったらしい。
意外と笑いの沸点が低いのだろうか。くだらない事にそれだけ笑ってもらえるならボケも悪くないかもしれない。由緒の所為でツッコミなのが恨めしい。
全くもって意味のない時間だ。こんな事に時間を費やすから日常なのだ。
そんな風に無為な時間を過ごしつつ食事を終えてそのままショッピングセンター内を歩き回る。
受け取った好意。未来の正当化。これだけあれば要が罪悪感を抱く事はもうない。透目には大人として頼らせてもらうとしよう。
何より、要達は高々16、7年生きた子供だ。開き直れば目の前の楽しい事に飛びついて何が悪い。
それ以上考えるだけ無駄だと思考を切り替えれば、過去に歩いたウィンドウショッピングをそのままなぞる。
最初はゲーセン。要達にしてみれば何の変哲もない有り触れたアミューズメント施設だが、未来人の彼女の瞳には一体どう映るのか。
「そう言えば未来でもこう言う施設はあるのか?」
「娯楽がなくなるって事はまず無いよ。様変わりはすると思うけれどね」
少し曖昧な物言いに、そう言えば今掛かっている制限は未来の『時空間移動』だったと思い出す。明確に未来の事を語れないと言うのはやはり不自由なことだ。
「因みに得意分野は?」
「…………戦略系? ストラテジーって言うんだっけ」
「リアルタイム? ターン制?」
「んー……ターン制かな」
「未来らしいな」
合理的に判断し、最も効率的な方法で状況を打開する。情報と言う手札を元に自らの戦場へと相手を引き入れるタイプだろうか。
「お兄ちゃんは?」
「色々するけれど、パズルやクイズ系かな」
「やっぱりFPSでしょっ」
パズルは空間把握能力と咄嗟の判断。クイズは知識によって対処できる。どちらも要が特異な分野だ。
そんな隣で聞いてもいない由緒が名乗りを上げる。FPS……一人称での射撃ゲームだ。
「そこまで上手くないくせに」
「なにおうっ、だったら勝負だぁ!」
「未来、ご指名だぞ」
「……何だかもう慣れてきたよ?」
理不尽は全て未来へ丸投げ。それを断らない彼女も悪い。
呟きに小さく笑って、けれど未来はどこか楽しそうに由緒の隣へと立つ。どうでもいいけれど今始めようとしているそのシリーズは対人型ではなく協力型のシステムでは?
考えていると玩具の銃を握った二人が真剣な顔つきになる。と、無茶振りをした罪悪感からか、足が勝手に自販機へ。三人分の飲み物を買って戻ってくれば、ステージ中盤まで進んでいた。
当然と言うべきか、やはり未来はそつなくこなしている。『Para Dogs』として『スタン銃』を撃ったりなど普段からしているおかげか、命中率もほぼ100%だ。今更ながらに、こんな彼女と《傷持ち》として戦っていたのかと思うと自分を賞賛したくなる。
由緒もどうにか着いて行く……と言うか大半未来に助けられながら最終ステージまでクリアすれば、最後のランキング表示へ。流石に上位とまでは行かなかったけれども、名前を残せる程度にはスコアを叩き出せたらしい。もちろん、その殆どは未来のお陰だ。
「ほぃー、みくちゃんすごいね……」
「そんな事無いですよ。ちょっとだけ出てきそうなところを予測しておくだけです」
「なにそれ、チート?」
「違いますよっ」
こういうゲームではほぼ無意識にそうするものだとは思うが、どうやら由緒は敵が見えてから反応しているらしい。彼女が基本成績を残せないのはそういう理屈か。
「お疲れ、飲むか?」
「飲むー。って言うか見てた? みくちゃんすごいんだよ?」
「由緒のお陰でよく分かったよ」
「…………あれ、それ私馬鹿にされてない?」
「おしいな、もう二百点で由緒の点数ぞろ目だったのに」
「それねー。……って騙されないよ!?」
残念。何でこういうときだけ細かいかな。
「未来的に手応えは?」
「的が動かないからね。それにゲームだし」
ゲームと言うフィルターがあるからこそ、練習通りを発揮できる。そう肩を竦めた未来は別段驕るような事でもない。これくらいの謙虚さを由緒にも見習って欲しい限りだ。
「んじゃ次ー。みくちゃんに一つくらい勝ちたい!」
「……あたしだってそんなに大人じゃなりませんからね?」
「望むところだーっ」
どうやら未来のやる気にも火が点いたらしい。彼女が負けず嫌いなのは要もよく知るところだ。
とは言え止めるのも野暮な話。それにここまで完璧だと少しだけその逆を見てみたいというのが興味かもしれない。
「俺は由緒の方につこうかな」
「二対一ですか? じゃあ手加減はしませんからね」
「クレーンゲーム!」
最早勝負なのか、それ。
胸の内でぼやきつつ、乗ったからにはと覚悟を決めて由緒に振り回される。
とは言え最近のクレーンゲームは多種多様な物が景品になっていたりする。ぬいぐるみから始まり、お菓子、ゲームやアニメのグッズ。ヘッドホンのような電子機器に、ゲームハードなんて事もある。そこまで来ると基本取れなかったりするものだが、物ではなく時間への投資と言えば少しは格好がつくだろうか。
そう言えばネットで遠隔操作して景品を取るなんていうものもあるんだったか。技術の進歩と言う物は恐ろしい。
そんな事を考えながら一通り遊びつくした後。次いで向かったのは楽器店。あの時は楽がいて、一曲披露と言う名の営業妨害をしていたけれども。特別を音楽に興味があるわけでは無い身からすればあまり目を惹くようなものは無い。
とは言え買わずとも見て回るのは楽しいわけで。色取り取りなギターやベース。ドラムにキーボード。それらの周辺機器や、ショーケースに飾られた木管楽器の存在感には少しだけ憧れもある。楽がいれば金管と木管の違いを訊いてもいないのにご高説垂れてくれたことだろう。
続いて訪れたのは書店。とは言え前に来てから一週間程度しか経っていない。新刊がそうハイペースで出るわけも無く、そう言えばと足が向いた先は参考書などのコーナー。
要は高校二年生。そろそろ受験に向けて準備を始めてもいい頃だ。恐らく意味もなく由緒と同じ進路になるのだろう。要が合わせるのか、由緒が合わせるのかはその時次第だ。
その由緒はと言えば、雑誌の方をぶらついている様子。奔放な彼女を一々追いかけていては徒労だ。
見切りをつけて未来を探せば、偶然か前と同じ胡散臭い種類の本棚の前にいた。
「何か面白い本でもあったか?」
「前も同じ訊かなかった?」
「覚えてたか……」
声を掛ければ、小さく笑った未来が答える。もちろんわざとだ。
あの時は、超能力も異能力も殆ど信じていなかった要だった。けれど今同じ場所にこうして立てば、書き換えられた主観が否定を許さないままに目の前の嘘っぱちを肯定する。
「色々知った上でも、やっぱり超能力なんて信じられないな」
「だって超能力じゃないしね」
主観と希望によって事実が歪められる不確定な事象ではない。異能力は、確かに存在する技術だ。それを身をもって体験している以上、異能力を超能力と一緒には語れない。
「これからさ、色々な事が起こるよ」
「やっぱり由緒がその最初か……」
「変わっていく常識の中で、お兄ちゃんはこれまでに見てきた未来を再現する。あたしにだって不可能な……半世紀掛けた歴史再現だよ」
「壮大で途方もない話だな。こんなことなら知らない方がましだった」
「そんなに異能力が日常になっちゃうのが嫌?」
目を背けていた事実を突きつけられて笑みだけを浮かべる。
どんな理だって、時間が経てば常識に変化してしまう。だから少しだけつまらなくなって、新たな娯楽を求めるのだ。
人生なんて、日常と非日常の繰り返し。そう気付いてしまうから、それ以上の非日常を日常に求めてしまうのだ。
「まぁ、四十年ほどは退屈だろうな」
「それじゃあ頑張って耐えてね。あたしも待ってるから」
「新手の拷問かよ」
別に、再び彼女と出会うまでに何もないわけではない。ただ、未来という存在が要の中でとても大きくなっているというだけだ。それまでは、折角だから由緒で満足するとしよう。
……なんだか酷い事を言っている気がする。
「よー君っ」
意味があるのか分からない会話を紡いでいれば、その背に愛しき幼馴染が声をかけてきた。
「なんだ?」
「こーれ買って?」
「…………ったく、なんで俺が」
「やったぁ」
呟いて、差し出された雑誌を受け取りレジへと持って行く。別に女性向けのファッション雑誌を買うなんて今更要が恥じるような事でもない。冗談だったとは言え、過去に由緒の下着を選ばされそうになった事に比べれば些細なことだ。
少しだけ瞳を濁らせつつ周りの視線をシャットアウトして袋を受け取れば、書店の外で二人と合流する。
「…………お兄ちゃん、甘やかしすぎじゃない?」
「別に。この買い物は由緒の羞恥心の値段だからな」
「色々な事が詰まってるいい買い物だねっ」
ポジティブなのか開き直りなのか最早分からない。とりあえず、由緒に世間一般で語られるところの羞恥心が欠如しているのはよく分かった。要が人間性を演じていることよりも余程致命的だ。
「後ここで買ったから次の買い物はなしだ」
「次……って、あぁっ!?」
「先を考えてないからだ」
未来には……言っていないか。暗黙の了解と言うか、由緒との間にある関係の一つ。彼女が一度の外出で要に物を強請れるのは一度だけ。
別に明確に口にした事は無いのだが、由緒の中では大事な一線らしい。相変わらずよく分からない価値観を持つ幼馴染だ。
「順番通りだと最後は服屋さんですかね?」
「それじゃあ二人で目一杯楽しんで来い」
「ぐぬぬぅ……!」
唸る由緒。お願いだから人間の言葉だけは介しておくれ。幾ら要でも獣を恋人にするつもりは無い。
計画性のない幼馴染をいつものように往なせば、また一つ未来が笑う。さて、このショッピングセンターに来て未来は何回笑っただろうか。
そんな風に考えるくらいには未来が楽しそうで、最後の思い出としては成功の部類だろうと要も嬉しくなる。
やがて最後の目的地、服飾店につけば、由緒が未来を引っ張って中へと消えていく。
……そう言えば楽が未来が秘密を隠してるとか前に言っていたけれども。今になって過去の事を客観視すれば、秘密だらけでどれの事を指していたのやらだ。
まぁ終わった身からすれば総じて人には話せない秘密ばかり。それらを全てこの先由緒と二人だけで抱えていくのだ。反芻して楽しむだけのネタは十分か。
と、そうして手持ち無沙汰に時間を潰す。本、は無いからスマホで何かアプリでも引っ張ってこようか。
どうでもいいことだが、要は基本アプリはしない。しても無課金で細々と。それ以外は本を読んでいる方が多い。
クラスメイトに言わせれば最早化石らしい。ゴキブリって生きた化石なんだったか。
「よー君っ」
「はいはい」
いつものように呼びに来た由緒に案内されて向かった先は試着室。買う予定がないのだからそんな営業妨害みたいなことやめればいいのに。巻き込まれた未来もいい迷惑だ。
そんな要の心の内を知る由もない由緒が、心なしかいつもより二割り増しで楽しそうにドラムロールを口で奏でながら試着室のカーテンに手を掛ける。なぁ、巻き舌できないんだったらするなよ。俺が恥ずかしい。
「どりゃぁっ」
シンバル代わりの掛け声と共に引かれた仕切り布。その奥から姿を現した未来は、桃色と橙色のこれでもかと嵩増しされたフリル付きワンピースを着ていた。
それは最早ドレスと紙一重で、髪飾りを取ったロングを着流す頭にはカチューシャなのだろう小さなシルクハットが乗っていた。
「…………よく見つけてきたな」
「えっへんっ」
「も、もういいですよねっ!」
これ以上無いほどに由緒に振り回された未来が顔を赤くしながらカーテンを引っ張って体を隠す。
やはりと言うべきか、未来はそう言った女の子然とした服装が苦手らしい。基本パンツルックだし、スカートにしてもそこまで派手にはしない。真っ直ぐな彼女の性格故か。
けれどもしかし、素材が日本人離れした人形のような少女だ。何を着ても似合う上に、西洋風のドレスともなれば似合っているという言葉が失礼なほどに嵌っている。
「やっぱり恥ずかしいか? よく似合ってるけれどな」
「似合ってればいいなんてエゴですよっ」
「だってよ、由緒」
「もったいなーい。もっと着せ替えしたーいっ」
「嫌ですっ!」
未来のここまで明確な否定はもしかして初めてかもしれない。まぁ強要するのはそれこそエゴだ。
「由緒」
「はーい……」
「残念そうにしないでください。と言うかこれ一人で着られないって不便じゃないですか……」
「可愛いからいいんだよっ」
要がここにいては未来も着替えられない。これ以上言及される事も未来は嫌そうだったので踵を返してその場を離れる。
と言うか、先ほど見た限りでは胸側にボタンのようなものが無かった。恐らく背中側でチャックを閉めるような構造になっているのだろう。となると去り際に未来が呟いていた言葉通り、一人で着るには少しばかり面倒なつくりになっているのかもしれない。
そんな変なものばかりよくも見つけてくるものだ。由緒のセンサーはどうなっているのやら。
同じくこれまで由緒に振り回されてきた身から未来に同情しつつ店の外でしばらく待つ。やがて由緒が謝り倒しながら拗ねている様子の未来を追い掛けて出てきた。
「……お兄ちゃん、すごいね」
「そりゃどうも」
「何の話?」
「由緒がすばらしいなって話」
「褒めるなら服買ってよー」
未来の同情から来る称賛に肩を竦めれば、皮肉の通じなかった由緒が身を捩る。
あぁ、確かにそのポジティブさは素晴らしい。
「因みにあれ二桁万の一品だったよ」
「なんて言うか、ごめんなさい……」
何故か未来が店に謝っていた。それを見て頷く由緒は、やっぱり別世界の生き物らしい。
「最後の最後でなんて思い出作ってんだよ」
「……よー君さっきから不満ばっかり。よー君こそ何かするべきなんじゃないの?」
「じゃあこの雑誌を未来に献上しようか?」
「おーぼーだー!」
全く意味のないやり取り。最早真新しさなど欠片も感じられない会話に、けれどやっぱり未来が笑う。
最後に笑ってくれるならそれでもいいか。
そんな風に馬鹿を演じつつショッピングセンターを後に家へと向けて歩き出す。
帰路は、過去に通ったそれをなぞるように。学校の友人と暇を持て余すかの如く中身のない会話をしながら歩き続ける。
日常なんてこんなもの。日常なんて認識されない日々の常。
自分が生きているのかさえ曖昧に刹那を過ごす。存在の意義さえ問わない惰性が、無為に時間を消費する。
またこんな日常に戻るのかと少しだけ落胆が胸の内を去来すれば、やがて過去の分岐点だったかもしれない十字路にやってきた。
思わず足を止めて、過去の景色を今に重ねる。
そこには今にも倒れそうな由緒がいて。楽を刺した《傷持ち》としての要がいて。どこか楽しそうな楽がいて。由緒に駆け寄る要がいて。想定外にどうしてと呟く未来がいて。
きっとここから始まったはずの物語が、一巡して戻ってきたような錯覚に襲われる。
「…………最早懐かしいな」
呟きに答えは返らない。
気付けば茜色に染まった夕日が影を伸ばして、過ぎった幻想を消し去り現実へと縫いとめていた。
寂しい……と感じるのは、逢魔が時の所為か。
今にもまた同じ時間を繰り返してしまいそうに思えるほど鮮烈な過去の出来事を少しだけ見つめて、決別をするように帰るべき道へと顔を向ける。
足を出せば、こちらを振り返って優しく笑う由緒が告げた。
「おかえり、よー君」
「……ただいま」
なんだかそれが正しい気がして要が笑えば、未来が軽く背中を押した。
「逆だけれどね」
逆。彼女の言葉に、それから気付く。
未来へ足を出す方向には由緒がいて。過去から背中を押す方向には未来がいて。
だったら未来の方を向いたまま由緒の方へと後ずさりしていけばいいのだろうかと他愛のない事を考えながら。
踏み出した足が更に次の一歩を刻み、止まらない足取りがやがて遠野家の前に帰ってくる。そこには準備を終えたらしい透目が一人待っていた。
「……もういいのか?」
「うん。こういうと怒られるかもしれないけれど……楽しかった」
「ならよかった」
歴史の番人が歴史に縋るなどあってはならないこと。そう示すように、浮かべた笑みを消した未来が透目の隣に立ってこちらを向く。
「遠野要さん。今回の時空間事件で多大なご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。事件が解決した為、あたし達はいるべき時代に帰ります。……ありがとう、ございました」
事務的で。他人行儀で。そして何処までも感情に溢れた挨拶。
それでいい。これでいい。互いにそう言い聞かせて、今更ながらに一線を引く。
おかしな話だ。物語としてはありえないことだ。
出会いが仲良く。別れが機械的だなんて。普通は逆だろう。
逆……逆接。全てが反転して結果と原因が、目的と方法が違えた終わり。日常の、始まり。
まさに始まりから終わりまで、全てを裏返した────『現実のはき違え』。
「また直ぐに、逢いに行くから」
「ゆっくり待ってるさ」
必ず出会う……運命を知ったなら、半世紀待っているよりも、次の瞬間を待ち望む方が遠く感じることだろう。
どうあっても要は浦島太郎にはなれない。だから今更焦りはしないと諦めと共にその時が来る事を次の楽しみに変える。
そう伝えれば、どこか寂しそうに……嬉しそうに笑みを浮かべた未来。それはどちらかといえば未来の俺が抱くべき感情ではなかろうか。
何にせよ、呆気なくともこれでお別れだ。出会いが唐突なら別れだって簡素で構わない。例え物語染みて騒動が起きたのだとしても、これは要にとっての現実なのだから。
事実は小説よりも奇なり、だ。
「それでは」
「あぁ」
「またねっ」
まるで明日も会える友人にそうするように。特別気取ることなく見送れば、空間が歪んだ次の瞬間、未来と透目の姿が目の前から消えた。
隣で、小さく手を振っていた由緒の手が行き場を失ったように力なく垂れる。
「……またって何だよ」
「よー君こそ待ってるって何?」
由緒は未来と血の繋がりがある事を知らないはずだ。だからその場限りの言葉なのだろうけれども。それとも女の勘でまた逢えると思ったのだろうか。
「別に、待ってればまた会う機会もあるかもだしな」
「じゃあわたしもそれでっ」
「じゃあって何だよ」
相変わらずその瞬間を生きている幼馴染だ。今に存在感があって少しだけ羨ましい。
と、そうしてこちらを見つめる由緒と視線を交わして、ようやく戻ってきたらしい二人の時間に胸の奥がざわつく。
…………いや、逃げるべきではない。逃げたところでどうにもならない。
何より待たせていたのは要だ。その約束を……今ここで出来る最後の──始まりの『パラドックス・プレゼント』を再現しようじゃないか。
「…………由緒」
「何?」
「誕生日おめでとう」
「え……? …………あ、そっか。今日か」
「ついでに好きだ。付き合ってくれ」
「あ、うん。……って、え? うん、え……え? えぇえええぇ!?」
「んじゃ、また明日な」
「まっ、まっ! 待ってよっ! そんなのってないよっ!?」
知るか、これが今の限界だ。
それ以上その場に居るのが耐えられなくなり、ずっと手に持っていたファッション雑誌を由緒に押し付けて踵を返す。
後ろから、混乱と驚愕に振り回されている様子の声が聞こえてくるが、振り返れる気がしない。と言うか振り返りたくない。
悪いが今日はこのままベッドへ直行だ。天岩戸は……半世紀後まで俺に太陽を拝ませてはくれないだろう。
……けれどもまぁ、これで今年の誕生日は曖昧になるはず。後はこれを五十年暖めるだけだ。何よりも辛いのは要なのだから許してくれ。
既に涙混じりにさえ聞こえる由緒の声から逃げるように玄関扉を閉めれば、一枚隔てた向こうから彼女が声をかけてくる。
「あの、えっと………………また、明日……」
「…………あぁ」
また、明日。
…………うん。明日なんて、未だ来なければいいのにな。




