第三章
足の裏の感触が、体を襲う重力方向の変化が、特別に感じなくなったのは一体いつからだっただろうか。
既に要の中で日常に変化しつつある非日常。現実もそんなもので、慣れてしまえばまた新たな刺激を欲してしまう。
それでも向き合って前に進むしかないのが現実だと。
そう自分を騙してしまえば後は気の持ちよう。感じたものを新しい物と受け取れるか、今まであったものの延長線と感じるかはその人次第。
……なんて、精神論で語られたところで根が変わるわけではないのだと諦めれば、目の前の景色に胸を吸い込む。
未来の異能力、『時空間移動』によってやってきたこの時間は、要の父親である雅人を未来が事故で突き飛ばした直後だ。
因みに今要達がやってくる寸前までは、由緒の『時間遡行』でやってきた要と未来が歴史再現を起こしていた。その最後に制限に抵触して未来が未来に戻されたのだ。ここで一つ気に掛けておくべき事が出来上がる。
それは由緒の『時間遡行』の制限だ。今まで話題に挙げなかったそれは、その機会が無かったから。今回は丁度その穴を突いたからいい機会と言うわけだ。
『時間遡行』は制限抵触をした時間に『時間遡行』で二度といけなくなる。つまり未来はこの時代に由緒の異能力でやってこられないのだ。それはきっと延々と彼女の身に降りかかり続ける制限だろう。
しかしそれは『時間遡行』で移動できないだけであって、未来の『時空間移動』ならば制限には引っかからない。だから彼女の異能力で今ここにやってきたのだ。
来る前に話題にしなかったのは未来がそれを忘れているようだったから。別に話題にしたところで問題にならないし、それが彼女の愛嬌だと言うのなら笑い話だろう。相変わらず変なところで詰めが甘い兎だ。
そんな事を思いつつ思考の焦点を切り替える。
ここでは未来が取り残された過去の要を未来に送り届ける歴史再現をする必要がある。そのためと、そしてこれから要が行う雅人を突き飛ばした後の未来のケア。言ってしまえば、雅人の件で起きた問題の処理を同時に行える時間というわけだ。
ここでの歴史再現が終われば、要の経験に欠落と矛盾はほぼなくなる。……いい機会だから要が経験してきた事を時代に沿って少しだけ振り返ってみるとしようか。
歴史と言う大きな物差しで時系列順に考えていくとしよう。
まず最も過去に、《傷持ち》を止める為の要と未来が由緒の『時間遡行』でやってくる。少し遅れて《傷持ち》が歴史再現にやってきて、雅人を間に挟み最も古い時間での現実が紡がれる。この裏のどこかで加々美が雅人の毛髪を入手する。既にこの時彼女とすれ違っていたのだと今になって気付く。
一日を経て結果は《傷持ち》の捕獲失敗。そして未来が雅人を突き飛ばすという真実。
その事実に、未来はその身に掛かった制限……現代人への危害を加えた事による強制送還が発動。『時間遡行』発動より三日後に飛ばされる。この直後が今要たちがいる時間だ。
未来がいなくなった事により彼女が移動する時間が生まれ、今ここにやってきたのがこの瞬間を切り取った景色だ。
そしてこれからが未来がするべき歴史再現。未来の強制送還によって取り残された要を、同じ三日後に送る。これでまず最初の矛盾は解消だ。
その裏で、これから要が制限抵触をした未来の元に飛ばされ、雅人を突き飛ばした事に悔やむ未来を励まし、由緒の事故が起こる事を伝えて戻ってくる。
要達が歴史再現を終えてこの場所からいなくなれば、入れ替わりに由緒を事故から救った要と未来がやってきて、そこから由緒を迷子の時間へ隔離する。
その要達がいなくなれば、今度は楽を廃ビルへ追い詰める前の二人の要と未来の計三人がやってきて相談事。一巡目の要を未来へ送り、二巡目の要を廃ビルへと送り込む。その後要は《傷持ち》となってしまうが、それはその時間の話の時に。
その後は……傷持ちとしての歴史再現を終えた要が戻ってきて未来と合流。休息に一日使って、ここで八月の十一日が終わり。十二日には楽を追い掛けて移動する。
次いでやってくるのは楽を未来へ逃がした要と未来、そして迷子の過去で合流をした由緒だ。
ここでもしばらく休息と共に時間を過ごし十三日へ。要は楽を追い掛け約五十年後の未来である未来がこの時空間事件にやってくる前の時間へ。
時間的に見ればその数瞬後、楽を捕まえた要が加々美と一緒に戻ってきて一悶着。そこから今度は本来するべき歴史再現──『パラドックス・プレゼント』を成し遂げる為に動き出す。
要は加々美と共に再び未来の時間……今度は楽がいた時代へ。その裏で、未来と楽はノートパソコンを回収、その後の『催眠暗示』解除のための逆位相を作り始める。
やがて役割を終えた要が戻ってきて合流。今度は廃ビルへと向かう。これでこの時代での要達の行動は終わりだ。
つまり雅人が事故死をした過去では、通算で四日間を過ごしている事になる。
次に古い時間は、小学生の要が迷子になった時。西暦で言えば2007年だ。
この時代で一番古いのは、楽を未来へ逃がした後の要と未来。これから楽を追いかけることを前提に、この時代で先に矛盾を解消しておこうと遅れてやってきた楽に接触し、彼が利用した要の母親……結深の身柄を保護する。
この後のためにも楽を見逃し彼女を未来へ帰した後、この時代にいても得は無いと先ほど思い返したように、今要たちがいる時代に移動してくるのだ。
その次の時系列は、楽を追いかけてきた要と未来だ。そこにありえないはずの《傷持ち》もやってきて混乱をしつつ少しばかりの戦闘。それから楽までその場に合流し、更にはこの時代に隔離をした由緒が目の前に現れてちょっとした乱戦へと変化する。
戦いの中では《傷持ち》に扮した要が、加々美の用意した雅人の髪の毛を未来へ渡す。
最終的に由緒を再び利用した楽が未来へ逃げて一時収束。気を失った由緒を連れて移動の最中、迷子の要に出会い、『変装服』と髪の毛を使って雅人に変身。過去の為の歴史再現を終え、過去の自分を家まで送り届けた後に、今要達がいる最も過去の時間へとやってきて、後は先ほど思い出した通りだ。これでこの時代でやるべき事は終わり。
次の時間は……未来が来るより前だろうか。楽が景色に溶け込む為に『催眠暗示』と後催眠暗示をかけて回ったはずだ。この辺りの事は既にいない彼には聞けないが、この時間しか彼が自由に仕込みを出来ないはずだからあっているだろう。
それから要にとってのターニングポイント。未来がやってくるのだ。要の邂逅にして彼女の再会。要にしてみれば始まりの扉だ。
もちろん楽の手が及んでいる以上既に始まってはいるのだが、何かの予感を感じたのはこの時が最初だっただろう。
同時に、楽の『催眠暗示』……要が読書の際に聞いていた音楽によって彼の記憶を無意識に植えつけられたのだ。だから疑問に思わず彼に連絡をして引越しの手伝いだと呼びつけた。
由緒も顔を覗かせて一堂に会せば、この瞬間に中核となる人物は既に揃っていたのだと軽く戦慄さえする。全く、未来の要や楽の思惑は呆れるほどに計画的だ。
それからたった一時の有り触れた日常。ありえない色彩に囲まれた現実。最初のショッピングセンターでの出来事は、幾つかの伏線を既に散りばめていたのだと今になって気付く。
冬子との出会いでは楽に関する違和感。未来が仄めかした超能力のこと。楽が示した未来に関する隠し事。楽の趣味である音楽。そして────由緒の誕生日。
ここまで無理矢理に詰め込んで、けれど当時要はそのどれにも気付けないでいたのだ。これで非日常に憧れているというのだから笑わせてくれる。
また、そうして要達がショッピングセンターで幾つもの景色を描いている裏では、未来からやってくる楽が家に一人の結深を利用して迷子の過去へと移動している。要達が家から連れ出された事も、このための歴史再現の一つだったのだとさえ感心する。
そんな一時の平穏を終えれば、要の主観にとって最初の事件……楽が刺されると言う事実に直面することとなる。
この時でさえ沢山の秘密が隠されていたのだ。犯人とも言うべき《傷持ち》の存在。楽の擬装。由緒の異能力。後から分かるにしても、やっぱり詰め込みすぎな感は否めない。もう少し分散してくれればここまで頭を悩ませる事もなかっただろうに。
まぁそれが現実だ。起きる事柄は時間と場所を選んではくれない。そういう意味では、要は上手に適応した方だろう。
そうしてようやく始まった気がする時間の軋み。止まるはずのない時の流れに翻弄されるように、要である要は未来と過去の交錯する歴史再現に飲み込まれていく。
楽が入院した病院では目の前に現れた黒尽くめ……《傷持ち》との最初の接触。次いで未来の異能力……『時空間移動』の経験。この瞬間から、要は現実よりずれた場所を歩み始める事になる。裏で楽は病院のベッドの上から《傷持ち》に『時空通信機』を通して指示を飛ばし始める。
未来の時空間移動で出来た十五分の空白は、後の重要な事に使われた。
まず要と未来が歴史再現のためにやってきて、要だけを未来のショッピングセンターに。マジックショーの景色を別視点から再現してCDを回収し、制限抵触で戻って来る。対価に12時間の聴覚失調。『読唇コンタクト』で欠損を補い、次いで要の部屋からノートパソコンが持ち出され楽の病室へ。そこでCD内の音楽の逆位相を楽にお願いしたのだ。まだこの時の要は、楽を疑ってはいなかった。最初の被害者だから、どこかで考慮から外していたのだ。
そして《傷持ち》の由緒を誘拐だ。今となっては全て必要なことだと割り切れるけれども、だからと言ってその言動全てが正しいとは思わない。悪意と悪事は別物なのだ。
それらが終わった十五分後、未来に異能力の事を告げられ戸惑う中、休む暇なく襲った報は由緒の誘拐。
病院に行けば、その現場を見たらしい楽が曖昧にその時の事を教えてくれた。今思えば、全てを語ってはいなかった楽は、けれど嘘も吐いてはいなかったのだ。それは歴史再現の為に要達を振り回す事に根差す罪悪感への僅かな誠意だったのかもしれない。《傷持ち》もそうだが、多くを語らない者達はいつも真実しか口にしていなかったのだ。
しかし受け取り手によって歪められた主観は、更に景色を大きく加速させていく。
楽の話を聞き終えて病室を去る際に、未来は楽から逆位相のUSBメモリを受け取っている。これが後に面倒を一つ解決してくれるのだ。
そうして家に帰れば、ポストに入っていた脅迫状。継ぎ接ぎのの文字は無機質で、機械的に思えるからこそ謂れのない恐怖があった。
そんな風に問題が重なっていく中で、翌日には未来から異能力について詳しく説明を受けた。この時にようやく曖昧だったその存在を認識して、場違いに期待に胸を躍らせたのだ。
話が由緒の救出にまで伸びれば、最初の時空間移動を利用した歴史への干渉。
知らない未来に手を伸ばす事で歴史を変えようと息巻いていた頃の話だ。今ではもう、歴史は一つで歪む事さえないと確信しているから、何が起きてもそれが正しい結末なのだと納得できるけれども。
未来から借りた『スタン銃』を手に廃ビルへと向かい一度目の戦闘。そして主観では最初の制限抵触。失った感覚は味覚で、だから少しだけこんなものかと高を括っていたのかもしれない。後に聴覚を失った際に少しだけ制限に対して恐怖が生まれることとなった原因の一つだ。
未来への干渉を終えて戻ってきた後、休憩を挟めば暇になった午後の時間は丸々空白のそれへと置き換えた。
五時間の空白。この間にももちろん色々な事があった。
最初は……楽がこの時代にやってくることだろうか。彼が最初にやって来たのはこの瞬間だ。そこで《傷持ち》と手を組み、廃ビルで静かに眠る由緒を確認する。その後《傷持ち》を追い掛けその後ろにいる楽を捕まえる為に要が一人で廃ビルへやってくる。《傷持ち》と戦いになり、結果敗北。『スタン銃』で撃たれ要は《傷持ち》の役割を押し付けられる。
そう言えば、このとき楽は要に後催眠暗示を掛けて《傷持ち》に仕立て上げたような口ぶりで話していたが、後の裏切りやそもそもの歴史再現の目的を考えるに、そう言った小細工はしていないのだろう。
つまりは、楽は要を捕まえて言いなりにならない事を分かっていながら《傷持ち》を演じろと命令。要は操られていない事を確認し寝首を掻いてやろうと画策、楽の懐に潜り込もうとした訳だ。
それぞれに理由があって、結果上手く噛み合った景色。言ってしまえば楽の手のひらの上と言うわけだ。
《傷持ち》の要が各歴史再現へ向かったところで、楽は楽で仕込みの為に未来がやってくるより前に移動し、『催眠暗示』を掛けて回ったのだ。
これでこの時間の廃ビルには由緒だけになる。そこへ今度は、《傷持ち》の経験を終え、楽を捕まえようと未来と合流した要がまずは病院へ。刺されて病室にいたはずの彼は、けれどそれより少し前に病院を抜け出し廃ビルへ移動。それを追って要達も廃ビルへ。
そこで由緒を間に楽と対峙する。《傷持ち》を経験し終えた後だからこそ、既に彼には味方はいないと追い詰めて……そうしてあと少しのところで、いないはずの《傷持ち》に妨害をされたのだ。
この《傷持ち》は楽と手を取った後の要。更に未来の歴史再現だ。
《傷持ち》の介入で楽はその場に居る由緒を利用して迷子の過去へ移動。追い掛けて要達も時空間移動を行い、また由緒だけが取り残される。
要が『スタン銃』で眠っていた時間がどれほどかは分からないが、恐らくそれで大部分を消費してしまったから五時間の空白とは言え密度は低いだろう。
二度目の空白を終えれば、五時間の空白を作り終えた要と未来がやってくる。この二人は未来たちが来てから三日目の、今の要からしてみれば新米もいいところな過去の出来事。だというのに、現実で流れた時間の半分を既にここまでで費やしているというのだから、この後の濃密さが恐ろしく感じる。
そこから準備をして要が廃ビルへ二度目に向かったのが19時前。そうして要が《傷持ち》と由緒を巡って戦っている裏では、未来が要から助言を受けているはずだ。その再現は今の要にも経験していないことだが、詳細は分かる。
この後、廃ビルでの戦いの決着時間を教え、そこから由緒を連れて時空間移動で移動しろ。その際に空白の時間を作れ、と言うものだ。この時に出来る三度目の空白が、過去の要を更なる渦に巻き込んでいくのだ。
その助言通りに《傷持ち》を逃がして決着後、過去からやってきた要が制限抵触で昼間へ戻り、未来がやってきて由緒と一緒に移動。
ここからが三度目の空白の出来事。廃ビルに残された要が、未来からやってきた己の格好をした由緒に『スタン銃』で撃たれ気を失う。その寸前に、要と、未来と、そしてその時は目にすることのない楽の後姿をぼんやりとだけ覚えて意識を失えば、その場へ現れた未来が20時頃に向けて眠った要だけを移動。その場にやってきた由緒を連れて廃ビルから四人が消えれば、三度目の空白で起きた歴史再現は終わりだ。
視点は次いで要の家へ。目を覚ました要に未来から幾つかの質問。その際にノートパソコンがなくなっている事実と、逆位相入りのUSBメモリを渡され、目を覚ました由緒が部屋にやってきてどうにか最初の三日は終わりだ。
歴史と言う視点から見れば、未来がやってくる前から既に始まっていた騒動。だからってその全部を最初から知覚するなんて不可能だ。そんな認識外に振り回されて残り三日ほども要は走り回る事になるのだ。
由緒を連れ戻した翌日には、《傷持ち》が雅人を襲うのではないかと危惧して過去へ。そうして今要がいる時間で騒動が起き、未来は制限抵触でこの時代へ来る前の日より三日後……つまり由緒の誕生日当日へ。要はそれを追い掛けるようにこれから未来の力で移動するのだ。
未来と要が過去へ移動した後にできる三日間の空白。この時間は主に移動の三日後に起きる由緒の事故を回避する為に費やされた。
ショッピングセンターでの騒動と逆位相の仕込み。過去の、病室にいる楽にノーパソとCDで逆位相を頼み、由緒を廃ビルから連れ戻した後に未来から受け取ったUSBを使って由緒の身に襲い掛かる事故を回避する。
気を失った幼馴染が目覚めるまで部屋で介抱している間に、未来からやってきた加々美がポータブルオーディオプレーヤーを回収。
この加々美は後に要、未来、由緒、楽と一緒にやってくる未来の加々美に接触し、そこから元来た時間に戻ることになる。
由緒の事故を回避したその日は彼女の誕生日。ただ、その事実はもう少しあとになって気付く事実だ。
仕方ないと言えばそれまでだろう。これほどに時空間に振り回されて旅をし続けたのだ。六日前に交わした約束など忘れていても不思議ではない。逆に、覚えている奴の無関心ささえ疑いたくなる。
由緒が目を覚ませば、話し合って彼女を迷子の過去へ隔離。そこからは《傷持ち》を捕まえる為に未来と二人で動き出す。
どうするべきかと策を立てつつ外に向かえば、重なった《傷持ち》に襲われ、それに対抗するように要自身も重なっての乱戦が繰り広げられていく。
最終的には《傷持ち》五人、要二人、未来一人の八人だ。その上、未来以外は全員要と来たものだ。今になって思い返せば記憶が混線して、あの時の自分が何をしていたのかすらあやふやに感じる。
やがて巡り巡って要達が避難してきたのは雅人の事故があった後。時間軸的には今要がいるほんの少し未来の話だ。
そこから楽の存在に至り五時間の空白に楽を捕まえに向かう。そうして負け、《傷持ち》へと仕立て上げられこれまで経験してきた過去を再現して回り始める。
由緒を誘拐し、脅迫状を送りつけ、廃ビルでの戦闘。雅人の事故の過去で要達を引っ掻き回し、一日を過ごす。この一日は、『時空通信機』で繋がっている楽と、『音叉』で繋がっている廃ビルで眠っている由緒の二人とも同じ時を刻んでいる。楽は病室から、由緒は廃ビルからだ。そんな時の流れでさえ計算されつくしているのだから歴史と言うものは恐ろしい。
《傷持ち》としての二日目にはショッピングセンターと、五度重なる《傷持ち》の乱戦。そして過去の要を廃ビルで撃つという再現を終え、最後に要の主観で最初の引き金とも言うべき、楽を刺す場面へ。
この瞬間に、要の体感で前半戦の歴史再現が終わりを迎えるのだ。由緒の異能力の覚醒と、最初の再現にして《傷持ち》の最後の仕事。それぞれの偶然と言う名の必然が噛み合って起きた現実にどうにかそこにいることを自分に言い聞かせながら、未来の元へと舞い戻る。
血濡れのナイフを持っていたり黒尽くめだったりと誤解を招く装いにまた一波乱あったりもしたが、どうにかそれも収めてようやく楽を捕まえに未来と二人で動き出す。
五時間の空白には次で最後の歴史再現。病室から抜け出した楽を追いかけ廃ビルへ追い詰め、そこへやってきたありえないはずの《傷持ち》と戦い、楽を逃がす。逃げた先は要の迷子の過去で、その先の詳細な部分は少し前に思い出したからそちらへ譲るとしよう。あまり同じところばかりをぐるぐる回想していると今何処を追いかけているのか自分でさえ忘れそうになる。
で、えっと……次の時間軸は要達が乱闘を繰り返した直後か。時間で言えば由緒の誕生日のぎりぎり午前中。
紆余曲折あって楽を捕まえ加々美と協力して『パラドックス・プレゼント』を終えた後の五人が、遠野家へ戻ってきて透目と合流する。
彼との再会は要の主観で…………十二日ぶりくらいだろうか。未来の主観だと二日分くらい少ないはずだからそれでも十日。透目の視点に立てば未来と別れてからは三日しか経っていないはずだが、何にせよこの騒動にそれだけの時間を費やし、一切連絡を取っていなかったのだから過ぎた時など些細な違い。それほどに面倒で騒乱に満ちた目まぐるしい出来事だったのだと今更ながらに溜息が出てくる。
それから六人で病院へ向かい、由緒の事故で入院をすることとなった冬子と、その付き添いに一緒にいる結深と再会。彼女達の無事を確認しつつ二人の記憶から『催眠暗示』やこの時空間事件に関する記憶を消した。
収束に向けた次の歴史再現は、楽を追いかけている最中に現れた《傷持ち》を再び演じること。二度も自ら進んで黒尽くめの正義を振りかざすとは思わなかったくらいには予想外だったのだ。同じネタを二度もやって何の意味があると言うのは読者の見解か。まぁ雅人の髪の毛や楽を逃がすためと言う必要なことなのだから仕方ないだろう。
と言うかここまで用意周到ならこの辺りの歴史再現ももう少し効率的に出来たのでは無いだろうかとも思う。
……いや、それだと先に《傷持ち》を全てやり終えて、来る事が分かっていながら戦うなんていう不毛な事になるからそれよりはいいのかもしれないが。と言うかもしそうしたなら、二度目の《傷持ち》としての再現内容は、要自身が何をしているのか分からないままに再現だけを先にする事になるのだろう。
理由や信念のない行動に意味は無い。そういう意味ではしっかりと楽の仲間だと分かってしていた歴史再現だというのは正しい筈だ。
そんな風に要が二度目の《傷持ち》を再現している裏で、現実時間では加々美が過去の自分に出会って、過去に飛ばす。これで彼女に関する辻褄合わせは終了だ。
そして要の主観では元いるべき時間にもっと近い現実の時間軸の最前線……由緒の誕生日当日の昼前。そこから幾つかの歴史再現をして、楽と加々美が未来に帰り、要達も次の歴史再現の為に今ここにいるのだとようやく戻ってくる。
けれどもまぁ、それは過去と現代の二つに触れただけの話だ。ここから更に、未来が要の元へ来る前のことや、楽の時代での色々な画策など話のネタには事欠かない。
簡単に言えば未来がやってくる前ではその時代で起きた騒動を追いかけ、楽をようやく捕まえ。楽のいた時代ではその時代の由緒を唆し、歴史再現に過去の廃ビルまで変装して移動してもらい、未来の要が企画した本来の目的である『パラドックス・プレゼント』を成し遂げたのだ。
要たちが生きる時代で起きた出来事に比べればとても簡素で捩れも少ない歴史再現。非日常を求める要にしてみれば未来の出来事が少し物足りない……と考えてしまうくらいには今回の騒動のそれ以外が濃すぎたのだろう。
全く、よくもこんなに面倒な話に巻き込んでくれたものだ。お陰で少し振り返るつもりが無駄に色々思い出してしまったし、その度に脳裏に過ぎる光景と役者の入れ替わりが多すぎて眩暈がするほどだ。
というかそもそも今いる場所なんて主観が分かっていればそれでいいのだ。騒動にせよ、現実にせよ、着いてこれない奴は最初から興味がなかっただけの話。興味があれば自分なりに整理して納得や折り合いを見つけているはずだ。
三か四割ほど説明して八割理解出来るならそれでいい。残りの二割で独自見解を導き出すくらいが丁度よく楽しめるだろう。
そうなれるように要は自分に客観性を求めている。自分の興味が引くものを理解して楽しむことこそが自由だと思うのだ。
自ら由とする。自由とは全く縛られないことではなく、自ら選んで何かに繋がっていることだ。それが要の座右の銘的な何かだ。
と、脳裏に浮かんだ景色を順番に並べ終えて瞼を開く。
回想なんて主観では一瞬の出来事だ。言葉にすれば長く感じるかもしれないが、人間の脳は言葉にならない納得でその全てに自分なりの答えを一瞬で貼り付けてしまう。人間の脳はどんな処理よりも早く時間を旅できる。問題は、その記憶に時折欠落が生じることだろうか。思い込みこそが何よりも怖い敵だ。
「……なんだか少し寂しくなってきた」
「感傷に浸ってないで早く歴史再現してきてよ」
「はいはい」
長い旅から帰ってきた厭世家のように呟けば、慈悲もない未来の言葉が耳朶を打つ。どうやら本格的に終わりに向けて無駄を省くつもりらしい。
もう少しノリがよくてもいいのに。『Para Dogs』の明日見未来が仕事に忠実になっただけなのだろうが、少し面白くないと思ってしまうのはただの独り善がりか。
……それとも、終わりに向けて段々と距離を取ろうとしているのだろうか。そう思ってしまうくらいには、未来は分かり易過ぎるのだけれども。
「で、『音叉』は?」
「……ん」
「あいよー。ほらどうぞっ」
急かされる様に尋ねられてポケットから『音叉』を取り出せば、なぜか由緒が威勢よく返事をして、自分の前髪を片手でかき上げ血色のいい額を目の前に差し出してきた。
「……由緒って額狭いな」
「えっち!」
「後由緒じゃなくて未来の『時空間移動』借りるから。さっきそう話をしただろうが」
「浮気者っ」
思った事を口にすれば、どうやら彼女の価値観の一端に触れたらしい。相変わらずよく分からない場所で生きている幼馴染だ。
とは言え頬を染めているわけでもないから本気で照れているのではないのだろう。とりあえず、冗談ならこちらの肝が冷えるような事を言わないで欲しい。
これ以上無駄に言葉を交わせば、こちらが不利になりそうな気がして仕方なしに指先で彼女の額を小突く。
「あふぅっ」
「未来、借りるぞ」
「うん」
気の抜けるような声。どうして俺の好きな彼女は一々意味の無いところで鳴き声を上げるのだろうか。可愛いと思っているのならやめさせるとしよう。……俺が色々な意味で苦労する事になる。
一つだけ課題を己に課しつつ未来の頭を『音叉』で叩けば、響いた軽快なラの音階。これで制限に抵触しなくとも直ぐに戻ってこられる。
「それじゃあいってらっしゃい。戻って来る時は『音叉』を鳴らしてね。それであたしの方に伝わるから」
「分かった」
「てらー。……ぎがー、めがー」
「由緒はそろそろ感情で生きることを控えろ」
「なーにそれっ」
挨拶なのか何なのか分からない声に見送られながら目を閉じて手の中の『音叉』に集中する。
ここから未来が落ち込んでいるあの時間に行く為には、由緒を仮の同行者として認識し異能力を発動。『音叉』を持つ要だけを未来へ飛ばすという面倒な手順を踏む必要がある。
とは言え制限の裏を掻いて異能力を行使する事に関しては未来も慣れたものだ。彼女にしてみれば異能力なんてのは鋏と変わらない。
使い方は簡単。けれど一歩間違えれば凶器にもなり、自分さえも傷つける諸刃の剣。だからこそ、その持ち主にこそ良識が問われる善と悪が紙一重な力だ。
その不思議な力が、今回は彼女の過去を助け、歴史を再現する。目を向けるべきは一時の間違いではなく良識に基づいた便利で有効な方法だ。誰だって、嫌な使い方よりは正しい使い方をした方が気分がいいにきまっている。
それが歴史と一人の女の子を救えるのであれば、これ以上無いくらいに正義だと言ってもいい筈だ。
考えつつ重力方向の変化に一瞬だけ揺られて踏み締めた感触に瞼を開く。
景色は記憶に殆どない由緒の家の寝室。確かここは彼女の母親のそれだったか。
電気も点いていない。カーテンも締め切ったままな、朝でも充分に薄暗い室内を見渡して、部屋に設えられたベッドの脇にぺたんと座る未来の小さく華奢な背中を見つけて息を詰まらせる。
基本的には自信と正義に満ち溢れた彼女を隣で見続けていた。恐らく要より学力が高く、異能力に関しては沢山の事を知っているだろう彼女は、要にとって先生のような、目標のような、愛しい妹だ。その認識は彼女に会ってから三日間の間に紡いだ経験で根付いたもので、強い印象は今でも変わらない。
だからこそ、目の前で彼女が背中を丸めて泣き崩れている事に少しだけ戸惑う。
そういえば、彼女の涙を見たのはこれが初めてだ。
声を殺すように、自分を殺すように。嗚咽を漏らす彼女の後姿は今まで見た事が無いほどに儚げで、触れたら壊れてしまいそうなほどに自分というものを強く認識しすぎている。
それもまぁ、彼女がここにくる寸前に犯してしまった倫理観を犯すような行いを思えば仕方の無いことだろう。
過去の、終わった出来事だとはいえ……人を突き飛ばして殺したのだ。彼女にしてみれば、未来の時間で自分のお爺さんに当たる人物の父親……系図で言えば曽祖父にあたる人物をその手で死に追いやったのだ。後悔し、責任を感じ、塞ぎ込んでしまうのは避けられないことかもしれない。
けれども要は、彼女が再現したその景色を、殺人だとは思わない。だって要達は雅人が死ぬ事を最初から知っていたのだから。未来が突き飛ばす事が決まっていたのだから。既に死んでいるのだから。
だからそれは、ボールを蹴れば前に転がるように、当然で、当たり前で、その通りな、事実の過去でしかない。その上で、未来自身が己の心に問いかけて、許せないでいる事は要が口出しするような事では無いだろう。
的外れの筋違い。何を言ったところで、要は雅人では無いから、無責任に彼女を許すことなんて出来はしない。
……でも、だからと言って見過ごせるほど目の前の彼女は気丈でもなければ高潔でもない。その核は、何処にでもいる、恋に焦がれるような、たった16歳の女の子だ。悩んで、間違えて、失敗する。そんな人間らしいただの少女だ。
だから要には、責めるでも、許すでもない、もう一つの選択肢が思い浮かぶ。それは要が彼女の兄であるからこそ許される、とても自己満足的で押し付け甚だしい解決策には程遠い何か。
「その涙を止められたらいいのに……」
気付けば零れていた声は、何処までも優しく、正義の味方だった。正義の味方は、悪役がいなければ語れない肩書きではない。ただ単純に、正しいことの味方であればいいのだ。
深読みする必要なんてどこにもない。言葉の通りに正義の……未来の、妹の味方なのだ。だからほら、気取ることなく彼女を肯定して見つめられる。
けれどそれは、肯定するだけだ。物語の中の王子様のように手を取って慰めるようなことは出来ない。そこにいて、正義の味方である事を伝えるだけ。それが少しだけ寂しくて、何も出来ない自分が悲しくもなる。
全く、呆れるほどに要は無力だ。
一体こんな空っぽな存在に、何が出来るというのだろうかと。そう自嘲するように小さく笑みを浮かべれば、こちらへ振り返りながら見上げる未来の頤を涙が撫でる。
場違いに、綺麗だと思ってしまった。美人は得だと、未来は卑怯だと胸の奥が締め付けられる。こんな妹の味方になれないなんて、兄として失格だろう。
だからせめてこの瞬間だけは、彼女が縋れる居場所としてここに居たい。それで未来が少しでも顔を上げてくれるのならば、兄貴面で非力さを呪おう。
いきなり掛けられた声に驚いた様子の未来がこちらを見つめて、直ぐに逃げるように立ち上がる。
その気持ちも痛いほどによく分かる。合わせる顔がない経験は、要も《傷持ち》の時に既に体験した。けれどだからって、逃げてばかりはいられない。
まるで自分に言い聞かす様にそう胸の内で反芻すれば、隣を駆けていこうとする未来が咄嗟の行動に足を滑らせてこけそうになる。思わず伸びた手が、宙を掻いた未来の腕を取って引き上げ、板張りの床と衝突する前にどうにか支える事が出来た。
「待って。話だけ、聞いて欲しい」
気持ちに任せて言葉を紡ぐ。要はこの瞬間に起きた出来事を全く知らない。ただ結果として、未来が再び前を向く……その手助けをしたらしいとだけ彼女から聞いているのだ。だからどんな言葉を紡いだところで、それは未来が雅人を突き飛ばしたことのように逃れられない過去となって今と歴史に刻まれる。
意味なんてあるようなないような、そんな曖昧な時間。けれど確かな事は、今要が泣いている彼女の味方で居たいということだ。
逃げ損ねた未来が、それから膝を突いてその場に座り込む。抜けた体の力に手を離せば、だらりと下がった小さい手のひらが拭っても尽きることのない涙を否定しに掛かる。
もし要が未来の恋人なら、その涙を拭ってあげるくらいの事は出切るのに。少しだけ気障にそんな事を考えながら、せめて僅かでも心の支えになればと、小さな背中に手を当てて優しくさする。
存外、人の暖かさと言うものは心境に大きな変化を齎す。鼓動を聞けば母親の胎内の事を思い出し安心するのと同じ理屈。触れた部分から伝わるものと言うのは確かにあるのだ。
それに、そこにいると分かれば孤独が無くなる。必然、無意識に縋ってしまう。存在するだけで意味が生まれ、触れればもっと繋がりを得られるのだ。
……そんな理屈よりなにより。要にとって未来が大切で心配だからそうしたいのだろうけれども。理由で着飾って、項垂れた彼女の背中に語りかける。
「……大丈夫。俺はちゃんと分かってるから。だから帰ってきたら話をしにいこう?」
今の要は全てを知っている。未来がどんな意欲を燃やしここにやってきたのか。その先でどんな騒動に振り回され、言えない後悔を抱え込んだのか。
なにより、要が彼女の過去にどんな影響を与えたのか。その全てを、分かっている。
もちろんそれで見下すように驕るつもりは無い。ただ上っ面に分かっているという以上に、要が未来の事を知っているというその真実を、何処までも真剣に声に乗せて伝える。
とは言え追い詰めるわけには行かない。優しく、真剣に……何て難しい注文だろうか。
「…………もし許せないなら、分かってもらえばいい。許せないって事を、分かってもらえばいい。だって彼は、そうやって君の居場所を作ってくれたでしょ?」
要は、未来の味方だ。その心の奥底にある秘密を、無粋に共有できる。
だから大丈夫だと。要は味方なのだと。そしてそれは、例え未来に贈った髪飾りの事を知らなくとも、揺らぐことのない要の性格が齎す不変の答えなのだと。
何時に生きていたって、要は未来の味方でい続ける。それは未来自身がここへ来る前と今では変わらないことと同じなのだと。
信用するのは怖いかもしれない。けれど、過去に紡いだ経験から信頼くらいはして欲しい。今要がこうして、未来の事を信頼し、信用しているように。
大丈夫。味方だ。信頼できる。ただ純粋にその思いだけを乗せて優しく語り掛ける。
そんな要の言葉に、しゃくり上げる未来が無意識か、縋るように桃色の珠の髪飾りへと触れた。
「それを貰った時のこと、覚えてる?」
問い掛けに、ようやく未来が一つ頷く。仕草に兎結びが揺れ、宝石のような涙が床に落ちる。
きっと今、思い返していることだろう。要と紡いだ未来の過去を。要の再会にして、未来の邂逅である共闘を。
最初は疑いの目を向けていた未来。けれど途中から、疑う事も馬鹿らしいと手を貸してくれた彼女。そしてそれ以上に、要が要である事を信用してくれた少女。
やがて最後には、迷惑を掛けた礼だと嘯いて過ごした時間。その中で彼女に買って渡した、新しい思い出。
別になくしたリボンの代わりになればいいだなんて思っていない。思い出は塗り替えるものではなく、別のものとして増やしていくものだ。
だから前の髪飾りの事を忘れないまま、要と過ごした夢のような時間を忘れないでいてくれれば、要の自己満足は満たされる。
そんな僅かな下心から送ったものを、未来は要の邂逅のときからずっと身につけ続けてくれていたのだ。たったそれだけの事で、彼女が要の事を信頼してくれていたのが今になってよく分かる。嬉しくなる。
そして要がそう感じるのだから、未来自身は要以上に大切に想ってくれているのだろう。
「……だったら信じてあげて。彼と彼の事を。その出会いを、なかった事にしないで」
過去の要と、今の要。こうして未来の支えになろうとする俺からしてみれば、どちらも過去の要ではあるが、だからこそ託したいのだ。
要は未来のお陰で色々な事を知れたから。大切なものを見つけられたから。だから未来にも今ある大切なものを見失わないで欲しいのだ。
声に、また一つ大きく頷いた未来。気がつけば、既に彼女の瞳から涙は流れていなかった。要は、未来の力になれただろうか。未来の支えになれただろうか。
今までして来た事を思えば、どうにも胸を張れない経験ばかりだ。どちらかといえば迷惑を掛けて、困らせて、心配をさせてばかりだったように思う。しかしそれらは全て、要の事を想ってくれるからこそ彼女が抱く感情のはずだ。そう自惚れられるくらいには、要も未来の事が好きなのだ。
……異性としてはやはり由緒に天秤が傾ぐのだけれども。…………あぁ、そうか。彼女に対するこの恋は、手の届かない物語の中のヒロインに抱く好きなのだ。
何処までも純粋で。何処までも嘘がなくて。何処までも正直な。綴られる文字でその者の考えている事が簡単に分かってしまう、全てを知っているからこそ抱く安心感。
要が物語に憧れたのは、非日常を求めたからではない……今そう気付いてしまった。
俺は、答えを前提に決して嘘を語らない優しく都合のいい世界が好きなだけなのだ。捻くれても歪んでもいない。単純に、純粋に、全てを綴ってくれる物語が好きなのだ。
それと同列に、未来の要を想い、心配し、怒り、泣く感情に嘘がないから、好きなのだ。
未来は物語の中のヒロイン。由緒は、現実の女の子。たったそれだけの、決して交わることのない二人に、要は恋をしてしまっただけの事なのだ。
浮気性、と言うのならそう笑ってくれて構わない。
その上で、要は理不尽で、不条理で、突飛押しもなく、現実な、隣にいてくれる幼馴染を選んだだけのこと。
由緒の事を好きだと気付いたその時から、要は物語にも非日常にも憧れてなどいなかったのだ。ただ、現実の彼女の隣を取り戻したくて、前に歩いていただけなのだ。
けれど、だからと言って未来の事を見捨てるわけでは無い。手の届かない未来だからこそ、手の届かない……けれど目に見える場所にいて欲しいのだ。その為に、未来には現実の証人として、物語の中からこちらを見ていてもらわなければならない。
それが彼女を騒動に追い立て、今以上の感情の波に揺られることへなるのだとしても。未来は未来として要の傍でその手を引いていて欲しいのだ。
そうして、ほんの少しだけ、物語の幻想を要に見せて欲しいのだ。
「……信じてるよ、未来」
「…………うんっ」
健気に、素直に、真っ直ぐに。未来は未来らしく彼女の正義を奮い立たせて答えてくれる。
可憐で、一所懸命で、どこまでも正しい彼女が道を間違えるなんてありえないから。そのちょっとした手助けのために、ヒントを零す。
ここまで頑張って、これからも迷惑を掛けるその先払いだ。このくらいのネタバレは歴史だって許してくれるだろう。
「それじゃあ一つ助言をしよう。俺のお願い、聞いてくれる?」
「……もちろんっ。だってあたしは、お兄ちゃんの妹だからねっ」
縋るような。けれども確かに何かを見つけた芯のある声に要も笑顔を浮かべる。と、不意にその距離の近さに気がついて少しだけ照れた。
何せ背中をさするほどに傍に寄り添っていたのだ。加えて潤んだ瞳に、上気した頬。極めつけは今更語るべくもない綺麗に整った人形のような顔立ちだ。
幼さと、妖艶さ。その中間で揺れる16歳の女の子を、目の前から見つめてしまったのだ。
未来への気持ちが恋では無いと気づいてしまったからこそ、感情がリセットされて新鮮に感じたのかもしれない。
恋に恋しながら自分へ向けられる視線には無頓着な……それこそ物語の登場人物染みた天然さに、キャラクターを愛でるような愛しさが込み上げてくる。
こんな彼女に好いてもらえたのだから、要にだって誇れるところの一つくらいどこかにあるのだろう。自分の事ながらそれが分からないのは……主人公らしく鈍感だと言う事にしておこうか。
そんな事を考えつつ、笑みを取り戻した未来から距離を取るように立ち上がって、スイッチを切り替える。
「あいつを……由緒を助けてくれる? その始まりは──ここから三日前にあるから」
「三日、前……?」
三日前。それは由緒が要と未来を雅人の事故の過去へ送った直後の事だ。そこから始まる歴史干渉は、冬子と『催眠暗示』によって掻き乱される景色だ。
『催眠暗示』の掛け方に気付き、解き方を模索し、幼馴染を助ける。
すべては由緒の……要自身のため。
過去の自分がその歴史をなぞる為に。未来が要を導く正義である為に。今はただ、過去を信じて未来に託す。
「これ以上は、聞くよりその目で確かめて。────俺は未来を信じてるから」
「っお兄…………!」
最後に、念を押すように告げて、ポケットの中の『音叉』を爪で弾く。
刹那に、こちらからの合図に気づいた未来が異能力を行使したのか、そこにいる感覚が曖昧になっていく。やがて足の裏の感覚が消えて、体を襲う重力方向の変化。僅かに生じる移動の空白に、脳裏を過ぎる未来の異能力。
要が未来の元へ戻るには、歴史的に見れば過去への移動となる。けれど『時空間移動』の時間の基準は、移動する要にではなく、異能力を発動する未来にある。つまり未来のいる場所から見て、移動先が未来か過去かと言う判断の元、異能力が行使されるのだ。
例えば今回の場合、要は過去に向かって移動をするけれども。未来が異能力を発動した時点より一分未来に移動先を指定して力を使えば、要は過去へ向けて未来移動をする事になるのだ。
そして恐らく、未来はそうすることしか出来ない。
由緒の協力を借りて異能力を使うのは前提だ。そこから要を戻す際に、もし過去への移動となってしまえば未来自身も移動しなくてはいけなくなる。この場合複数の制限が重なって失敗してしまうはずなのだ。
まず、未来が異能力を発動した瞬間に時間を指定すれば、既にそこに未来がいるから、『時空間移動』の制限に抵触。加えて由緒の協力を借りている以上、過去移動となれば由緒も一緒に移動する事になる。この時、移動先に由緒がいる以上、『時間遡行』の制限にも抵触する事になる。そうなれば前提として発動しない異能力で要が過去へ移動する事も出来なくなるのだ。
だから未来は、要は未来移動で過去へと連れ戻す。要だけの未来移動ならば、未来が重なる事も由緒が重なることもないから。その為に、また少しだけ未来より未来に生きる事になるのだ。
今更現実からちょっとずれたところで誤差だ。必要なのは歴史をその通りに動かす為の歴史再現と言う名の歯車。
何かの下に成り下がるのは釈然としないけれど、自分の意思で選んだ結末なら受け入れて然るべきだ。なによりその先に、望むべき未来が待っている。だったら何処までも人間らしく、希望を抱いて前に進もうではないか。
そう意気込むのと同時、足の裏に感じた地面の感触に目を開ける。目の前には未来と由緒。彼女達がそこにいる事に安堵をして息を吐く。
「おかえり」
「ただいま」
「ごめんね、あたしの過去の事でまた迷惑を掛けて」
「別に、俺だって未来には沢山助けられてるしな」
「ううん、ありがとう」
はにかむような未来。彼女の立場に立てば、慰められて涙まで見せた末にその言葉に縋ってしまったのだ。恥に感じるのは仕方の無いことだろう。
けれどそれは終わった事で、似たような後悔なら要だって負けないくらいには重ねている。言葉にするだけ不毛な話だ。
彼女も同じ答えに至ったか、形として礼を告げた未来は、それから直ぐに緊張を漲らせる。
「さて、助けられたからにはお返ししないとね。今度はあたしがお兄ちゃんを助ける番だよっ」
「不甲斐ない過去だ。飴なんていらないからな?」
「恩を仇で返せるほどいい性格してないよっ」
肩を揺らした未来が、それから直ぐそこの曲がり角を曲がって消える。その先には恐らく、未来に取り残された要が項垂れていることだろう。
流石にその様子を目に見て胸の内に嫌悪感を募らせるほど馬鹿ではないが……せめて二人が再現する景色の傍聴人として観測者となろう。
考えて、それから静かな足取りで未来が曲がった角に身を隠し、座り込む。その隣に、いつの間にか由緒も続いていた。
「……ねぇよー君。ここってよー君のお父さんが事故に遭った時間だよね?」
「そうだな」
「…………ごめんね?」
間を埋めるように紡がれた言葉。どうやらそれは、彼女なりの自己嫌悪なのだろう。
要と未来をこの時代に送り、雅人の事故に対面させたのは由緒の異能力だ。だからこそ彼女はその事に責任を感じているのかもしれない。
望まない……悲惨な光景を目の前で見せてしまった。己はその場にいないからこそ、無責任に押し付けてしまった事に対する罪悪感。
「由緒が謝ることじゃないだろ? 俺はそれでいいからって無理言って着いて行って、結果として真実を知っただけだ。つまりは俺の意思で、由緒は俺の目的に協力してくれただけ。だったら本来謝るべきは、由緒に罪悪感を抱かせるような言動をした俺の方だ」
「違うよ。私が、きっと本気になってよー君を止めてれば、よー君は私の我が儘を聞いてくれたはずだよ。だから止めなかった私に責任があるの」
「随分な事を言い切るな?」
「だってよー君、私が泣いたら傍にいてくれるでしょ?」
「…………幼馴染だからな」
言い訳を口にすれば、全てを分かっていると言う風に小さく笑う由緒。彼女はきっと要の気持ちに気付いている。だから余裕を持って、そんな意地悪な問いかけをしてくるのだろう。
ならば、と、矛先を返してみる。
「とは言え、例え泣いてるのが未来だとしても俺は傍にいて慰めるぞ。現にさっきの時間移動でそうしてきたしな」
「それは、お兄ちゃんだから、だよね? 流石にここまでくれば気付くよっ。結深さんは再婚なんてしない。みくちゃんは、今回限りの家族なんだって」
体育座りをしたまま、組んだ手のひらで人差し指をくるくると回しながら呟く。
どうでもいいが、由緒は落ち着きが無いのかよくそうして暇を慰めている。前に聞いた話では、手に何かの感触がないと安心できないらしい。だから手持ち無沙汰な時は手を組んだり袖の裾を引っ張ったりして紛らわせている。
そうしている時の由緒は、あまり見せない真剣さで物事を考えている時に多い。今回真面目な話をし始めたのもその一つだろう。
「みくちゃんにはこの時代に味方がいないから、そうやって繋がりを求めてて。私はよー君の幼馴染としての特権を振り回してる。……もし許されるなら、こんな時間がずっと続いて、三人で遊び続けられたらって思うくらいには、わたしも寂しいよ」
「でもそれも、もう少しで終わりだ。未来がこの時代の俺を未来に送り届けて、もう一つだけ景色を再現すれば本当に未来がやるべき事はなくなる。そうすれば俺たちがいるべき現実にようやく戻れるんだ。正しい終わり方だろ?」
言葉にはしてみるが、そこにはどうにも覇気が宿らない。
要にしてみれば目まぐるしくも憧れた非日常が終わってしまうのだ。寂しさが募るのは仕方の無いことだろう。
「ようやく向き合う覚悟がついたの?」
「覚悟……と言うか諦めだな。俺に異能力はないし、未来だってずっといるわけじゃない。そもそもがあり得ない非日常だ。その幻想から目が覚めるだけのことだろ?」
「でも可能なら諦めたくなんて無いでしょ?」
「…………まぁな」
未練も寂しさも、それだけ楽しかった証だ。けれど現実に戻る理由も確かに存在する。
知ってしまった半世紀後のこと。要が目指すべき未来。そして、答えるべき気持ち。
未来に色々と残してきてしまった辻褄合わせの為にも、今は目の前の現実を歩むしかないのだ。
「けど、それだと由緒まで連れ回す事になるからな。例え異能力に目覚めたのだとしても、由緒はそれで特別なんて望まないだろ?」
「使う理由も特に思いつかないしね」
「だったら由緒は現実に帰るべきだ。……で、そんな破天荒な幼馴染を一人にするのも心配だからな」
「なにそれひどーいっ」
素直に言えば、由緒との時間を取り戻したいから。その先に紡いでいく未来があるから。そういう事になるのだろうが、性根の捻じ曲がった要がそんな事を面と向かって言えるわけもない。だからとりあえず、今はその冗談で許して欲しい。
答え合わせは半世紀後だ。
「まぁ、でも。別の特別は望んでるかな?」
「…………由緒を特別に出来る酔狂がいるとは驚きだ」
「新しい自己紹介かな?」
「俺は変わり者ですなんて自己紹介が何処にあるよ」
「だよねー。自分で変って言ってるうちはまだ大丈夫だよっ。それを他人から言われて認めてるうちもね。…………だからよー君は、普通に、いつも通りに、そのままに、そこにいて?」
嬉しそうに、膝に頭を乗せた由緒がこちらを覗きこむように笑う。何処までも信頼し、信用したような、緊張感のない微笑み。……全く、惚れた弱みなんて、一体誰が最初に言い出したんだか。
「……青春してるね」
「おかえり。過去の俺は?」
「未来に送ってきたよ」
そんな中身のない話をしていると、事故直後の要をこの場から移動させたらしい未来が戻ってくる。そう言えば、聞き耳を立てるつもりだったが由緒との雑談に時間と感覚をもっていかれたらしい。
別段語るような事があったわけでもない事は、要自身が経験として知っているから今更な話だ。少し触れるとすれば、過去の要が未来の言葉に元気付けられただけのこと。
要が未来を助け、未来が要を助ける。今となっては当たり前にさえ思える、貸し借りにさえならない関係性だ。
「次は元いた時間に戻るの?」
「いえ、ここから『音叉』を使ってお兄ちゃんにもう一つ歴史再現をしてもらいます」
「廃ビルの裏だな?」
「うん」
これが本当に最後の歴史再現だ。
由緒を助けに、要が重なり《傷持ち》と交わした戦いのその裏。未来が廃ビルに由緒を迎えに来るように仕向けることと、その時に彼女の異能力で家に帰り空白の時間を作ること。この二つを彼女にしてもらうための助言だ。
これがあるから、廃ビルでの戦闘が終わった後に、要に扮した未来の由緒と要、未来と楽がやってこられるのだ。空白で二人がいなくならなければ重なってしまい、歴史が再現できなくなる。
「それも未来にヒントを与えるだけでいいんだな?」
「うん。けど、少しだけ覚悟しておいてね?」
「と言うと?」
「その時間のあたしの主観だと、少し前にお兄ちゃんが廃ビルに行って、帰って来て制限に抵触した後だよ。つまりその事に怒って、後悔してる時間」
あぁ、そうか。未来にしてみれば望まない役割を要に押し付けた後か。あの後から一層要の行動に厳しい目が向けられるようになったのだ。その原因を作ったあと。警戒されて然るべきか。
そこまで考えて、ふと脳裏を過ぎるその後の景色。
「あれ……二回目に廃ビルに行く時、普通に送り出してくれたような…………」
「あたしが少し大人になっただけですっ」
「よー君デリカシー無さすぎ。みくちゃんに甘えるのよくないよ?」
……どうやらあの時の心配顔の見送りは演技だったらしい。
いや、あの頃の要は非日常に溺れていただけで…………今とそれほど変わらないか。何にせよ周りが見えていなかっただけのこと。愚かにもほどがある。
「……悪かった」
「それは過去のあたしに言ってあげて。今言われても時間が経ちすぎて最早意味が分からないよ」
「あぁ、そうだな。だったらその謝罪も含めて行ってくる」
「ん、今度こそ、行ってらっしゃい」
「よー君の浮気者ー!」
幼馴染の個性的な挨拶と共に背中を叩かれながら『音叉』を握り込めば、次いで未来が由緒の存在を借りて要だけを未来へ飛ばす。
なんだか投げやりな時空間移動だ。もっと神秘的なものなんじゃないのか、これ。
時空間を渡る少女二人に掛かればそこまで特別でもないのかもしれない。やっぱり要が一番の常識人だ。
今一度そんな発見をしながら無くした足の裏の感覚と共に、まだ背中に残っている気がする由緒の手のひらの温かさが要の体を重力方向の変化と共に前へと突き飛ばした気がした。