第二章
加々美に案内されてやってきたのは当たり前のような顔をしてそこに聳え立つ超高層マンション。
太陽の光を受けて銀色に輝く建物を見上げて小さく息を吐く。ある程度構えていたつもりではあったけれども、それでも目の前にこうして存在感を突きつけられると逃げられなくなる。
と言うのも楽が起こした由緒の誘拐の件で訪れたマンションとは明らかに佇まいが違うのだ。こちらの方がより豪華と言うか、構えからして少し物騒とさえ思えるほどの威圧感。最早オフィスやホテルと言った方がいいほどの広さだろう。
加々美がこの時代の要から預かっていたらしいセキュリティーカードを翳すと開いた自動ドアの向こうは、広いエントランス。無意味なほどに空間を使ったその先には再びセキュリティー。
それを越えてようやく内装らしい内装へ。階段はもちろんエレベーターが複数は当たり前。壁についた郵便受けも数えるのが億劫になるほどにずらりと並び眩暈すら覚える。
加えて三度セキュリティー。既に要の中で防犯と言う存在が何なのかを分からなくなり始めてようやくエレベーターに乗る。加々美が押したのは最上階。分かりきっていたような、そうでないような……。
僅かな重さと共に動き出した密室の中で気を紛らわせるために問う。
「ここまでしないといけない理由があるか?」
「『Para Dogs』って名前がそれだけ大きいって事ですよ。この時代の要さんはその会社の局長なんですから」
「それを俺に自覚しろってのは難しい話だと思うけれどな」
要にとっては今がすべてだ。幾ら自分のこととは言え、未来の事までを背負えと言われてそう簡単には頷けない。それくらいには目の前の事に精一杯なのだ。
大体一高校生に国や会社を背負えだなんて酷すぎる話だろう。加々美や未来がそれだけ年齢にそぐわないだけなのだ。
「大人になるなんて、そう簡単に出来ることじゃないぞ」
「大人になろうとすることは出来ますよ。ですから明日見先輩の目の前でも破目を外さないでくださいよ?」
「それくらいは弁えてるつもりだけれどな……」
ここは要にとって異世界だ。招かれざる客人なのだ。
そう自分に言い聞かせればいつの間にか辿り着いていた目的の最上階。開いた扉から外に出れば呼び出し用のディスプレイがあった。その液晶を幾度かタップして目的の部屋へコール。しばらくして画面に見慣れた未来の顔が現れる。
『はい。どちら様ですか?』
「『Para Dogs』の稲生加々美です」
『あぁ、はいはい。お爺ちゃんから聞いてるよ。今出るから少し待ってね』
「はい」
この時代の未来は要が今経験している歴史再現に時空間事件として関わって一年か二年後の彼女だ。だから必然要よりも年上の未来になるわけだが……画面越しに見た彼女は童顔なのか要の知る姿と殆ど変わりがないように見えた。
と、益体もない事を考えていると途切れた通信。恐らくこちらまで出てきてくれるのだろう。
当たり前と言うか、未来はきっと全てを知っている。だから要達がここに何をしに来たのかも分かっていて、無駄話よりも行動で示す彼女らしく出てきてくれるのだろう。だったらやはり『Para Dogs』に来てもらえばよかったのでは無いかと考えつつ。
これまで物怖じ一つしないままに要を導いてくれた加々美の背中に声を掛ける。
「それにしても随分と肝が据わってるな。やっぱり未来と面識があったのか?」
「いいえ。わたし人見知りですしっ。ただ先輩の事は知らないわけでは無いですし、一つ信じるものもありますから」
「信じるもの?」
「歴史が一つで、そうなる事が分かっていることです。だから人に対してではなく、歴史に会うのだと自分を騙して、人見知りをどうにか避けてるんです」
果断な物言いに、芯の強い少女だとその後姿を見つめて。それから硝子扉の向こうからやってきた未来と、要視点で邂逅する。
要が知る未来より二年後の彼女は少し背が伸びたらしく、交わる目線が高く。歩く仕草には長い赤髪が細く揺れ、側頭部には印象的な二つ結びは見当たらない。どうやら兎結びからは卒業したらしい。その分綺麗なストレートヘアは彼女の細く小さな体躯と相俟って妖精のように完成された美をつくりだしていた。
主観で、少しだけ大人っぽくなったかもしれない。先ほど変わらないように見えたのは画面越しだったからだろうか。
「お待たせしました。それから、久しぶり、お兄ちゃんっ」
「俺からしてみればさっき振りなんだけどな」
「あたしは二年ぶりなんですっ。それに今度こそ、確かにお兄ちゃんよりは未来人ですから」
返った未来の言葉に、それから意味を考えて思い出す。
そう言えば要が《傷持ち》になる前、最後に《傷持ち》を退けた際に要が重なって共闘をした時に。未来は一巡、要は二巡歴史を経験して、未来より未来に生きていたのだったと。
もしかすると未来はその事で自分のアイデンティティーに傷を感じていたのかもしれない。要を守るために未来からやってきた彼女が、いつしか要より過去の存在として振り回されて守られている。存在意義を揺られていたのだろう。
その事を根に持っていて、こうして彼女の感覚で二年越しに仕返しを突きつけたのだ。要からしてみれば知った事では無いのだが……。
「それで、えっと、お爺ちゃんの準備の手伝いだったよね? 何をすればいいの?」
「嘘の任務を一つ作って欲しいんです。許可ならここに」
「ふむ……?」
言って加々美が取り出した一枚の書類。根回しと言うか、何処までも用意周到なその歴史を再現しようと言う意気に尊敬を通り越して呆れさえ感じる。
と言うか、未来もこの歴史再現を解決した立場から、隠し事はしなくなったらしい。その証拠に要を目の前に、堂々とお爺さん……未来の要の事を告げている。開き直りに近いかもしれない。そんな未来を羨ましく思う。
彼女はたった二年でよかったのだ。歴史再現を終えて二年の間に未来にも色々な経験があったのだろうが、それでも700日前後の話。
問題は要が彼女のように開き直るまでの時間だ。
要はこれから、一人の女の子を騙すための芝居を打つ。その種明かしがされるのが半世紀後だ。人の半生と同義だ。
半世紀……とても長くて想像も出来ない未来の話。その間嘘を吐き続け、騙し続けるのだ。半端な覚悟で望めば呵責に押し潰されてしまうだろう。
それでもするべきだと自分を騙し続けるのだ。歴史再現として必要だから。そして、己のために必要なことだから。
一つだけ救いなのは、その約束がしっかりと果たされる事を知っていること。確かな結末があるからこそ、そこまでどうにか歩んでいけると自分にいい聞かせる事が出来るのだ。
その最初の、未来の自分の為に蒔く種。
「この時代にいる由緒を連れ出す必要があるんだ。その上で準備して欲しいものがある」
「……そっか、そう言う事か。…………うん、いいよ。あたしにしてみれば、やっとこの時が来たっていう答え合わせだからね」
告げた言葉に未来が頷く。
「実を言うとね、知らなかったんだ。どうして由緒さんがあの時あの場所に現れたのか。なんであんな格好をしてたのか……。お兄ちゃんが教えてくれなかったからね」
「で、納得はいったか?」
「全然? もっといいやり方があったと思うけど」
「悪いな、想像力が足りなくて」
「でも目を逸らすには充分だと思うよ」
未来のお墨付きを貰って胸の内で安堵する。
同時、加々美が少し前に言っていた言葉を思い出す。
曰く未来と協力する手段をよく考えておけと。あの言葉は裏を返せば、一筋縄では協力してくれないかもしれないという意味だったのだ。
その理由が、真実を知らないこと。歴史再現である以上、どうしてそうするのか……その理由を知らなければ協力などできない。特に未来に対してはここに来る前に話すべき事を話さなかった。もちろんそれはあの場に由緒がいたからだ。彼女に内緒にする以上、耳に入るところで具体的な事は言えない。
けれどそれで未来は、全容を知らされないままに協力する事になったのだ。ただ要の言うことだから。加々美と相談して決めたことだから信じていたに過ぎない。
可愛らしく言い換えれば嫉妬だ。
本来ならば自分がするべき役目をいつの間にか奪われて勝手に話を進められ。剰え真実を教えられないままに協力してくれと一方的に頼られて……。そんな不満に臍を曲げるなと言う方が難しい話だろう。
そして恐らく、この歴史再現の事は要は未来に伝えないままに全てが終わる。だから未来はこの時代の由緒が巻き込まれる理由を二年も知らなくて、その事を根に持っているのでは無いか、と。そんな相手が素直に協力してくれるのだろうかと言うのが加々美の忠告だったのだ。
けれど図らずも要自身が未来に問い詰められる前にその真実を口にした。由緒を連れ出して、未来の要に向いている目を一時期逸らす事が必要だと告げた。
それが未来の知っている過去と繋がって辻褄が合ったのだ。だから理由を……どうしてと言う二年間に渡る疑問を解消できて、素直に協力する事を認めてくれたのだ。
「となると、いくつか必要なものがあるのかな」
「えっと……『変装服』、『小型変声機』、『スタン銃』だな」
「あぁ、それでか……。ごめん、ちょっと待ってて」
そんな未来に必要なものを告げれば、何かに気付いた様子の彼女が一言残して家に戻っていく。
しばらくして箱を抱えた彼女が戻ってきて、それを要の目の前に下ろした。箱の上には便箋が一つ。
「これ今日届いたんだよね。差出人は楽さん。」
「……あいつ、やっぱり全部分かってんじゃねぇか」
いきなり出てきた楽の名前になんでと思いつつ箱を開ければ、中に入っていたのは先ほど要があげた未来の道具一式。封の切られた便箋の中身を読めば、楽らしい字でこれらを用意しておけと言う一文。
なんだか色々騙されて手のひらの上の気がする現状に悪態を吐けば、隣で加々美が楽しそうに笑う。相変わらず楽至上主義な事で。
「で、これ持って一度『Para Dogs』だな?」
「うん。任務を出すなら色々と手続きしないとだからね」
逃げる事を捨てて前だけを向けば、話はとんとん拍子に進んでいく。
根拠も無く信じるわけには行かないけれど。最初からこれだけ明白な答えがあればもっと単純に行動できていた気がするのに。
迷いは……何よりも要自身の葛藤だったのかもしれないと。
彼女に嘘を吐く事に罪悪感と必要性の板ばさみ。けれどそれに見合うだけの舞台を用意すればいいだけのこと。
今はただ、その事に全力を注げばいいだけなのだ。
最悪、要が悪役の仮面を被ればいいのだから。演じることには、慣れている。
「それじゃあ要さん、それ運んでくださいね」
「言われなくてもそのつもりだけれどな、言われるとそうしたくなくなるからやめてくれ」
「ふふっ、よろしくね、お兄ちゃんっ」
手を腰の後ろで組んで、こちらを覗きこむように首を傾げる未来。何をしても彼女は絵になるほどに美少女だと。改めて認識するのと同時、年上の彼女にお兄ちゃんと呼ばれる違和感に疑問を落とす。
「……未来の方が年上なのに俺を兄と呼ぶのはおかしくないか?」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん。お兄ちゃんだってどこかであたしの事を子ども扱いしてるくせに」
「…………第一印象ってのは拭い難いもんだな」
「そうだね。あと、女性に年の話は振るべきじゃないと思うけど?」
「そう言う時だけ理由にするのは卑怯じゃないか?」
反論が思いつかなくて指摘すれば、肩を揺らした未来。そう言う時ですら絵になってしまうのだから、美形と言うのは何よりも酷い武器だと息を吐いて。
由緒に植えつけられた異性への振る舞いが嫌な方向に働いている事を自覚しながら、けれどどうにもならない自分に軽く嫌気が差す。なんでこんな性格を植えつけてくれた相手を好きになってしまったのだろうか……。
「要さん、置いて行きますよ?」
「はいはい」
催促する加々美に答えて箱を抱え歩き出す。
ここまでの道中、加々美と雑談で時間を埋めるくらいには長い距離を歩いたのだ。箱は重くないとは言え、それだけの間腕を上げ続けているというのも疲れる。どこかで説得するなりして休憩を挟むとしよう。
せめてもの抵抗にとそんな事を考えつつ『Para Dogs』へ向けて一歩を踏み締め続ける。
荷物の分だけ遅くなった歩みに律儀に付き合ってくれる未来と、早く歴史再現を終えたいらしく前を歩いては幾度もこちらへ振り返って催促してくる加々美。傍から見れば未来と加々美の、二人の美姫と行動を共にする男。荷物を運んでいる以上、贔屓目に見てもお姫様と従者にしか見えないが、それに目を瞑れば男として嬉しいことには違いない。
片や肩を並べてどこか嬉しそうに歩く未来。彼女はその歩く仕草に長い赤髪を揺らして他愛ない話を振って来る。
片や子供らしく自由奔放にして先を駆ける加々美。飛んでくる言葉にこそ棘はあるものの、人見知りな彼女の事を考えればそれは安心の裏返し。
どう転んでも要にして見れば居心地が悪くて、そしてこれ以上無いくらいに楽しい時間。
「と言うか酷い話だよね。最初にお兄ちゃんに関わっておいてここまで来ると便利屋扱いだよっ。客観視すればあたしだって充分にヒロインらしかったのにさぁ」
「生きてる時間が違うのに結ばれたところで何も良い事なんてないだろ? どちらかがどちらかの時代にずっといるわけでもない。結局最後には離れ離れになるんだ。それに未来にしてみれば俺は血縁で、居場所たるお爺さんだろ?」
「それがなければよかったって話っ。全く、こんな青春真っ盛りにろくな恋もできないなんてどうかしてると思うよ」
「だから『パラドックス・プレゼント』に憧れたんだろ?」
「いいじゃんっ、女の子らしい夢くらい見ても! はぁ、このままお兄ちゃんがこの時代に居てくれればいいのに」
「それは光栄な限りだな」
どうやら未来にとって過去の要は随分と理想像に近かったらしい。美少女たる彼女にそこまで言われて嫌な気はしないが、だからこそ間に横たわる時空間の溝に要でさえも惜しいとは思う。もちろん、移り気を起こすつもりは無いのだが。
「他人事に言えばだけどな、未来は充分恵まれてるんだから、その気になれば相手なんて直ぐ見つかると思うけれどな」
「妥協はしない主義なのっ。……ほんっと、ままならない…………」
失敗の許されない……失敗のない仕事を任されているからか、未来には完璧主義なプライドがあるのかもしれない。別に自分に酔っているわけではないのだろうが、大人な振る舞いを求められる裏で子供らしい夢が捨てきれないのだろう。要の非日常に憧れるそれも、言ってしまえば子供の願望だから彼女には何も言えないけれど。
「幼馴染ってのは卑怯だと思うなぁ」
「んな事俺に言われても知るかよ」
どんどんと理不尽になっていく未来の言葉に呆れつつ言葉を返せば、何かに諦めるように溜め息を吐く彼女。未来も未来で色々と苦労をしているらしい。
何よりもそうして恋に恋している姿こそが今を生きている証明だと言うのは、言わぬが花と言う奴か。
そんな風に間を埋めるだけの意味のない会話。日常なんてそんな事の繰り返しで、非日常の中に自由を見つけては傍らの話に首を突っ込む要も、充分に日常を謳歌しているといえばそれまで。その上で非日常に憧れているというのだから、要にとっての本当の非日常など何処にもありはしないのだろう。
叶わない夢とはなんとも空しい話だ。反面、叶う事を知った未来ほど悲しいものは無いけれど。
考えているといつの間にか辿り着いた『Para Dogs』。ここから始める歴史再現は過去を紡ぎ未来へ繋げるターニングポイントだ。
「お兄ちゃんはちょっと待っててね。加々美ちゃん、空き部屋の確保お願いできる? あたしは由緒さん呼んで来るから」
「分かりましたっ」
本当に必要な事を彼女達にやらせて要は一人傍観と言うのはなんだか釈然としないと言うか……。できる事が無いのがわかるからこそ何かをしたくてたまらないと思ってしまうのは、するべき歴史再現が目の前に迫っている焦りのような何かだろうか。
細かいところで頼り切って情けないと意味もなく自分の小ささを知って、足元へと箱を下ろせば伸びを一つする。と、仕草に服の裾が揺れて忘れていた用意を思い出す。
少しして受付から帰ってきた加々美に尋ねる。
「そう言えば男物の服が必要だよな。『変装服』は服まで再現しないだろ?」
「そうですね……。でも予備の服ならここにもありますから、それを使えばいいとおもいますよ」
「ん、そうか」
流石にこれだけ大きな組織ともなると色々準備しているらしい。当直のような泊り込みでの仕事もあったりするのだろう。
「もし必要であればその上着を貸してあげればいいと思いますよ」
「……服は時代に依存しないんだな」
「時空間移動の度にストリップショーなんて誰が得するんですかっ」
恥ずかしそうに否定する加々美。そんなつもりで言葉にしたのではないが、彼女に要らぬ恥を掻かせてしまったようだ。これ以上話題を掘り下げても良い事がない気がしたので早々に切り上げる。
「なら服はそれでいいとして……問題はどうやって彼女をあの廃ビルに連れて行くかだな」
「そこは要さんが考えてください」
丸投げされた方法論に思考を巡らせ始める。
まず前提として、この時代の由緒には要に変装してあの廃ビルに向かってもらう。そこで過去の要が未来の自分に撃たれた景色を再現してもらうのだ。
『変装服』で要に変身すれば、その手首には傷は現れない。身体的特徴が中の人物に依存する事は過去に未来が言っていた通りだ。
だから過去の要は、未来の自分に傷がない事を目撃する。そこから要は《傷持ち》ではないと言う誤解が生まれ、巡り巡ってここに繋がるのだ。
あの傷のない要は、由緒が『変装服』で変身した姿。それが真実だ。
そして由緒があの廃ビルに向かう事で、この時代の要に向いている視線を遮る。その間に彼が、果たす歴史再現の舞台を整える。五十年越しの歴史再現が出来上がるのだ。
やるべき事は簡単、要に扮した由緒をあの廃ビルに送るだけ。しかしそこには制限が絡んで一筋縄ではいかないのだ。
前提にあの時間に由緒はいないから、彼女自身は重なる事が可能だ。その上で、ここからあの廃ビルは過去の時間である事が関係してくる。
方法の一つとして、未来の『時空間移動』を使う方法。しかし未来の異能力で移動するためには未来自身も由緒と一緒に移動する必要がある。けれどあの廃ビルで、要は一緒にやってきた未来の姿など見ていない。だからその方法は取れない。
ならば由緒の異能力を加々美がコピーして過去に送る方法。けれどこれは、制限の一つである由緒自身が『時間遡行』で移動できないと言うものに引っかかる。これも無理な話だ。
ならばどうやって由緒一人をあの廃ビルに向かわせるか……。
一度どこか廃ビルより過去の時間へ移動して……駄目だ、由緒が存在できる空白が存在しない。何処に行っても既に由緒がいて、重なってしまう。
こんなことならもう一つくらい空白の時間を作っておくのだったと。
考えつつ何気なしにポケットに手を突っ込んで、その指先に触れた何かを取り出す。指に挟まって出てきたのは『音叉』と『時空通信機』。楽から貰った未来の道具……。
「あ、そうか……」
と、そのU字と通信機に楽の思惑を悟って『時空通信機』を身に着ける。集中すれば、向こうから聞こえてくる僅かな雑音。その事実にやっぱりと一人確信して語りかける。
「楽、俺だ」
『んぉうっ、そういやぁ着けてるの忘れてた……。連絡が来たって事はこの方法に気が付いたって事だな?』
「あぁ。……『音叉』のリンク先は、そっちの未来だな? で、俺の手元にあるこれが、受信用の『音叉』って事だ」
『正解だっ』
確認に問えば、通信機の向こうで頷く気配。こうして味方になってみれば頼もしいことこの上ない楽の声に少しだけ安堵する。
と、そんなやり取りを傍で見ていた加々美が縋るような視線でこちらを見つめている事に気が付いた。
由緒の移動についてを知らないわけでは無いだろう。ということはその視線は楽と会話している事に対してか。そんな事で嫉妬しないで欲しいものだ。大体男同士でどうなるという話。変な想像を掻き立てないで欲しい。
「……話するか?」
「いいですっ。顔を見てお話しないと伝わるものも伝わりませんから」
それが伝わっていないから楽に対して半ば諦めのような感情を抱いているのではなかろうかと。そんな反論をどうにか飲み込んで、それから『時空通信機』の向こうに意識を向ける。
「とりあえず気が付いた報告だな。力が必要になったらまた連絡を入れる」
『あぁ、分かった』
簡素なやり取りを終えて、それから先ほど至った方法論を今一度思い返す。
まず今要がそうしたように、『時空通信機』はここへ来る前まで一緒にいた楽と繋がっている。そして彼の隣には当然未来もいる。その未来に今要の手元の『音叉』がリンクされているのだ。
未来の異能力は『時空間移動』。過去と未来に移動する時空間超越の力。
その異能力の根幹は、彼女のいる地点から向かうべき時間が未来か過去によって制限が変化するものだ。未来に対しては時間移動者が一人でも移動可能、過去には未来も一緒に行動する必要があるという制限が付随する。
『音叉』は当然リンク先の人物が行使した異能力をそのまま伝えるものだ。ならばここに面白い使い方が成り立つ。
未来は今、あの一室……時間で言えば雅人が事故に遭った過去にいる。その時点から考えれば、ノーパソのある病室も、要が襲われた廃ビルも未来の時間だ。だからあの部屋から異能力の行使で、未来に向けて一人で移動が可能だ。
そしてそれは、『音叉』にも同様に伝わる。
『音叉』はリンクした異能力をそのまま伝える道具だ。つまり、未来が今いる部屋からあの廃ビルへ移動しようとした時、今要の手元にある『音叉』も同じ制限、移動を再現しようとするのだ。
要たちが今要る時間から考えれば廃ビルは過去の時間。普通なら過去への時間移動になるのだが、未来が廃ビルより過去にいるから、『音叉』を持つ要たちも同じように未来へ移動した扱いで過去へと飛ぶ事になる。
そしてこの方法なら、由緒も移動できる。加えて移動先に由緒がいなければ彼女の『時間遡行』の制限の一つ……他者への時空間移動の干渉にも抵触しないで済む。
ここまで前提が整えば、後は景色を再現するだけ。
過去の要を廃ビルで撃つのは、『変装服』で要に扮したこの時代の由緒。『変装服』の特性上、その手首に傷は無く、未来にリンクしたこの『音叉』で過去への未来移動を一人で果たし、過去を撃つのだ。
後必要なのは、由緒が変装し、過去の要を撃つ理由。けれどそれはこの時代から視線を逸らすための方便であって、明確な理由など必要ない。
騙すことにはなる。けれどその嘘にも真実味を持たせて、彼女が時空間移動をする理由に納得をさせるだけ。
要のすべき事は、その理由の丁稚上げだ。
「……それで、由緒さんに何て言って過去に向かってもらうんですか? 過去の要さんを撃つ理由も必要ですよ?」
「そんなの簡単な話だ。過去に濡れ衣着せればいいだけだろ? 本当の意味での確信犯を演じてもらうだけだ」
「…………外道ですね」
確信犯。罪だと分かっていて行われる犯行……。そんな意味が誤用として広まっているのはよく聞く話だ。情けは人の為ならずとか、因果応報もその仲間だろう。
そもそも確信犯とは本人が悪いことではないと確信して成される行為の事だ。つまりその裏には、信じるべき自分の正義……道徳心や宗教的な理由に基づく個人の感情があって、それが原動力となる犯罪のことなのだ。つまり悪い事だとは思っていない悪事を指す。例としてはテロリストが近いだろうか。
この時代の由緒には正しく確信犯として歴史を再現してもらうのだ。
因みに先ほど挙げた二つの誤用もよくある間違い。
情けは人の為ならずとは、情けは人の為にならないと言う意味ではなく、情けは人の為にあらず自分の為だ、という意味だ。情けをかければその行いが巡り巡って自分を助けるという話。
因果応報もこれに同じで。これは字に惑わされて因果が巡り報いを受けると解釈しがちだが、本来は報いが応える……よい行いをすればよい報いが、悪い行いには悪い報いがと言う、原因と結果は繋がっているという仏教の考え方だ。
他にも役不足だとか姑息、敷居が高い、世界観なども誤用の多い日本語だろうか。これらは要が少し前に、馬鹿にはなりたくないと勉強のために調べ直した言葉だ。日本人なら正しく日本語を使いたいというのが要の正しさなのだ。
「歴史再現のために必要な嘘だ。それに振るわれるのは彼女の正義の心だからな。他人の正義感ほど操りやすい感情は無いからな」
物語でよくある話。騙され利用されるのは善人と言うことだ。その善人を騙す事に抵抗が無いわけではもちろんない。要だって人間だ。人道に背いたことに胸を張れるわけではない。
ただそれが必要なことだからと誰よりも先に自分を騙しているだけなのだ。
それに今回に限れば、由緒を騙す事で半世紀と言う重い時間の枷を背負い、その償いを彼女に返す事になる。これこそ因果応報と言う話だろう。
そんな事を考えていると未来が彼女を連れて戻ってくる。
長く綺麗な白い髪。今の要からすれば人生の先輩たる彼女は、けれどその時の流れを感じさせないほどに真っ直ぐに伸びた背中で確かな歩みで立つ。
その姿もまた彼女らしいと。どうあっても本質は変わらないものかと辟易さえしながら目の前までやってきた未来の幼馴染に挨拶をする。
「……お久しぶりです」
「えぇ、久しぶり。と言っても貴方にしてみればそう時間は経っていないのではなくて?」
「さぁ、どうでしょうか」
もしかしたら見抜かれているのかもしれない。そんな想像が巡ったが、考えるだけ無駄かもしれないと切り捨てる。
「それで、話と言うのは何かしら?」
「観音楽さんのことでお話が」
この時代の由緒を動かす事ができるのは、要か、未来か、楽……この三人の内誰かだろう。その内要は今ここにいて、未来は二年前の彼女。話題にしたところで危機感は薄い。それにこの二人は目の前の由緒からしてみれば過去の存在。今からそれに干渉してどうにかなると行動するほど彼女も間が抜けてはいないはずだ。
けれどこの時代に存在の証があって、ここから離れた場所にいる楽なら……。彼女が見出した特別なら話は違う。
加々美がそうであるように、楽にもこの時代の要との繋がりは存在する。確かに薄いだろう。顔も合わせていない、任務越しの間接的な繋がりだ。けれどそれを全く無いとはいえなくて、彼女を騙すだけなら十分に利用できる。
「彼がどうかしたの?」
「…………詳しい話は別室で」
「こちらへ」
きっと全てを知っているはずの加々美が、要の計画に是非もなく乗っかってくれる。そうする事が歴史再現で正しいことだからと言うのもあるかもしれない。
ただそれ以上に、今要が楽の話題を出して、彼の事を人質のように利用しているからだろう。見れば、前を歩く彼女は少しだけ怒っている気がした。
加々美に案内されてやってきた一室で由緒と机を挟んで向かい合う。
「楽さんが彼女を裏切りました」
単刀直入に切り出した嘘の刃。その刃に楽の名前を。的に加々美をおいて、要がその柄を握り振るう。
彼女だって知っていることだろう。楽と加々美は今回一緒に行動していた。それくらいには仲のいい間柄だ。加々美と由緒に面識がある事も知っている。
最初に彼女にあったとき、加々美は由緒の『時間遡行』をコピーしていた。それはつまり、少なくとも一度以上由緒と言葉を交わした事があるということだ。
もしかするとこの歴史再現のために初めて話をしたのかもしれないが、由緒の視点で考えれば少し前に二人がこの時代から過去へ向かっている。流石にその日のうちに加々美の事を忘れたりしないはずだ。
そんな異能力を貸してくれと頼んできた相手が、今こうして目の前に過去を連れて座っている。それだけでも十分な緊急事態だと言外に語れる。
その上で、わざと加々美を利用した。
楽が加々美を裏切る。その言葉の裏には、要が加々美と楽が『Para Dogs』の一員だと知っていることの証明となる。
歴史を守るはずの『Para Dogs』の構成員が、仲間を裏切って悪事を働いている。そこからどうにか目を盗んでこの時代に帰って来て、由緒に助けを求めている……。
彼女から見ればそう受け取る事が普通だろう。
「今彼は『変装服』で俺の姿に化けて俺がいた過去にいます。その彼を止めるため手を貸してもらえませんか?」
そしてそんな色々を知った上で、過去の要がこの話を持ってくる。それこそが何よりもこの話に信憑性を持たせ、加えて傍らに加々美がいる事で説得力が生まれる。
そしてもちろん、過去で起こった事を知っているのは要と加々美だけではない。
「どうして貴方に化けてるの?」
「どうしてか分かりませんが、未来さんも俺の目の前に来たんです。彼女は俺を守るためだと言っていました。その言葉から考えるに、楽さんが俺を狙いに来ていて、俺をどうにかした後に成り代わるために俺の姿をしてるんだと思います」
未来の声に答えて尤もらしい理由を添える。更に追撃。
「未来さんが俺の目の前に来たから、彼女の『時空間移動』の力を借りてここにやってこられたんです。彼女が隣に居てくれる事がその証です」
未来の『時空間移動』は記憶に由来する時間に移動する異能力。要でも、要の目の前に現れた未来でも、この時代を知らないから辿り着けない。その移動のための記憶の基準に加々美が力を貸した……。そう告げれば加々美が要達の味方で、要の言に説得力を持たせてくれる。
もちろん真実を言えば、ここまでやってきた力はコピーした由緒の異能力だが、全てを語って墓穴を掘るほど馬鹿ではない。
そうして、どこかにありえそうな虚偽の景色を作り出す。
これで舞台は大丈夫だろう。後は最後の一押し。
「加々美さんから聞いた話では、彼は異能力で片親を亡くしていると。そうして異能力を憎み、『Para Dogs』を憎んだからその内側に入り込んで壊そうとしたんだと思います。けれどこの時代の『Para Dogs』を壊すなんて一人では出来ませんから、そこに大きく関わっている俺に手を伸ばした……過去に干渉して未来を変えようとしたんだと思います」
陳腐で有り触れた動機。歴史改変ものの悪役が抱きそうな野望を語れば、彼の行動に筋が通る。
この論には少しだけ穴がある。けれどそれも計算だ。その穴はもちろん、正義の味方が悪役を倒すためのご都合主義。現実的に言えばとても衝動的な動機で、認められるべきではない悪の証。
悪い事に綻びが生じるのは当たり前のこと。逆説的に考えて、綻びがあって破綻しているから悪事なのだ。
そんな歴史に干渉する悪事を、『Para Dogs』は許せない。
「…………そう、それで彼を止めるために私は具体的に何をするというの?」
「彼が何処に現れるかは分かっています。そこに向かって、彼に『スタン銃』を撃ち込んで欲しいんです」
「私が貴方の姿に変装する理由は?」
その疑問ももちろん考慮済み。それらしい答えも思いついている。
彼に向けての意趣返しのように見せたのは右の手首の甲の側に走った傷跡。
「今の俺にはこの傷があります。けれど『変装服』を使う彼にはそれがない。彼が俺の姿を真似ている以上、その差異で彼にとって目の前に現れる俺が敵かどうかを判断しているんです。面倒な事に俺の顔をして複数人が入り混じる景色があって……その識別方法と言うわけです」
《傷持ち》を追いかけていた頃、要達がそうしていた判別方法そのまま。傷がある事を《傷持ち》と呼んで敵と認識したそれを裏返せば、向こうから見た際に傷のない事が要の証明だった。
同様に、《傷持ち》の役を要に。要の役を楽に置き換えれば同じ理屈が通る。
「だから俺が止めに行ったところで面倒事が増えるのは避けられません。そこで、俺以外の誰かに傷のない俺を演じてもらって、彼がその事に油断した隙に捕まえて欲しいんです」
「……私がその役を引き受ける理由は? 他の者でも出来るのではなくて?」
「それも考えましたが第一印象で騙せないことと、その時間に重なれる者が他にいないんです」
どうあっても目の前の彼女に行動してもらうほかない。それが何より必要なことなのだ。嘘ならば幾らでも吐こう。騙す心苦しさは要一人が背負うものだ。
「未来は異能力の制限で駄目。俺の時代の由緒も先の交錯で気を失っていて、加々美は身長ですぐにばれます。『変装服』は背丈まで変えてくれませんからね。もちろん俺も論外です」
身長の件は前に雅人に変身した時にその事は確認済みだ。
また一つ連ねた嘘で幼馴染が意識不明になったが、過去に返ってそれを言わなければいいだけのこと。『時間遡行』の制限の都合上、二人の由緒が顔を合わせることはありえない。だからこの嘘も加々美と一緒に秘密にすればそれでおしまいだ。
一応考えるに、目の前の彼女と過去の由緒が同時空間に存在する事はできるはずだ。その事実も、この歴史再現の根幹と言えばそれまでだが。
「手を貸していただけませんか?」
「そこまで分かっているのなら今ここにある異能力だけでは私が移動できない事も分かるでしょう?」
その疑問は要もつい先ほどまで悩んでいたものだ。が、『音叉』と『時空通信機』のお陰で解決している。
「その点は問題ありません。ここに『音叉』があります。これのリンク先は過去にいる未来です。その彼女の未来への時空間移動を使えば、ここから目的の場所へ由緒さんだけ移動できます」
「……用意周到な事ね」
「他に頼るべき相手がいませんからね」
別に要が傷のない要の姿をした誰かに撃たれる景色自体は、未来でも由緒でも可能なのだ。けれどこの時代から目の前の彼女の視線を逸らすために、彼女にこそ動いてもらう必要がある。
その為に連ねた嘘の網に、彼女はしばらく黙考する。
実を言えば、彼女は今要が体験している時空間事件の事を全て終わったものとして知っているはずなのだ。
問題は、それを彼女が覚えているかと言う話。すべての終わりの時に、彼女の記憶がどうなっているかと言うのが、一番の不安要素だ。
随分前に未来と交わした会話。基本的に、時空間事件に関する記憶は終わりの際に消してしまうというもの。透目の『記憶操作』を使った記憶消去だ。
しかし彼のあれは、基本無能力者にしか効果がない。特に時空間を移動する異能力を持つ者にはその干渉すら不可能と言うのが制限だ。
だから由緒の記憶を透目の異能力で書き換えるすることは出来ない。
だが楽の『催眠暗示』なら書き換える事は可能だ。『催眠暗示』はもう彼女に掛かっているから、そこに起因する後催眠暗示を掛ける事で記憶を封じる事は出来るはずだ。
もしその方法で忘れていれば、経験した時空間事件の事を覚えていない。そうでなければ忘れていないと言う、二つに一つ。
今の要からすればこの歴史再現の終わりはもう少し未来の話。今している未来の要のための歴史再現を終えて、あの過去に残った全ての禍根を洗い流した後で、未来も楽もいるべき時代へと戻っていく。その時に行われる事を今の要が知る術は無い。
もちろん、目の前の彼女にその想像の真実を尋ねる事もできない。そうした場合、今まで吐いた嘘が瓦解してしまう恐れがあるから。
例え気になったとしてもその好奇心は押し留めなければいけないのだ。
過ぎったそんな考えを押し込んで、それから下りた沈黙に半分祈るような面持ちで答えを待つ。
恐らく今色々な情報を精査して、天秤に掛けて判断しようとしているのだろう。ここまで来れば後は彼女次第。
過去があって未来がある以上歴史再現は行われるのだろうが、それが終わった先は本当に誰も知らない未来の始まりだ。
ただあるのは未来の要が半世紀越しに約束を叶えるという事実だけ。その具体的なやり方を知っているのは未来の要ただ一人だ。
きっと楽だって、加々美でさえもそこで何がおきるのかを知らない。言ってしまえば、その瞬間のために他の全員が利用されているだけなのだ。
全く持って酷い話だと。未来の自分のことながら呆れて、それから再び結んだ焦点で目の前でいまだ悩む由緒に声を連ねる。
「……もしかして都合が悪かったりしますか?」
「いいえ。色々考えていただけよ。……そもそも彼が裏切ったのであればこれは『Para Dogs』の内輪の問題。過去の人たる貴方が首を突っ込むべき話では無いわ」
「巻き込まれれば結果は同じだと思いますけれど」
「それでも責任はこちらにあるもの。先に謝らせて頂戴……迷惑を掛けて悪かったわね」
そういうのは全て終わった後でも構わないのだが。その時に要が彼女の目の前にいるかどうかも怪しいとなれば今この瞬間でも仕方ないのかもしれない。
そもそも今彼女が語ったように要はこの時代に居るべき人物ではない。可能であれば一刻も早く時空間事件から開放され、元の時代にいるべき存在なのだ。
「その上で、こちらの不始末はこちらでつけるのが筋ってものね。いいわ、協力しましょう」
「では時空間事件の解決と言う事で任務を発行してきますね」
「えぇ、お願い」
ようやく聞こえた望んだ答え。その響きに胸の奥で小さく安堵すれば、それまで静かに事の成り行きを見守っていた未来が席を立って部屋を出て行く。とりあえずこれで最も必要な協力は取り付けた。あとは細かい部分を詰めて辻褄合わせをするだけだ。
「それで、えっと……私はどうすればいいかしら?」
「ここに『変装服』がありますので、それを着てください」
「DNAは髪の毛でいいか?」
「そうですね」
話の途中で説明した通りに由緒へ要の仮面を被せにかかる。加々美も随分と綱渡りな交渉に緊張していたのかもしれないが、ようやくいつも通りを取り戻して手を貸してくれた。
加々美が取り出した『変装服』を、由緒は服の上から着ていく。
「……それにしてもこんな老いぼれを使おうだなんて、貴方も酷い事を考えるわね」
「無理を聞いてくださってありがとうございます。やるべき事も移動先で『スタン銃』を一発そこに居る俺に向けて撃つだけですから」
「…………実を言うとね、ここに居ながらにして『スタン銃』を人に向けて撃つのは初めてなのよ。練習はして使い方は知っているのだけれどもね。その最初が尻拭いのためだなんて中々に個性的な話ね」
別に何かを責めるわけではなく。ただ単純に少しおかしな話だと笑う由緒。その上品な鈴の音の転がるような声に、由緒らしさを感じ取って彼女は確かに要の知る由緒なのだと確信する。
と言うのも目の前の彼女と要のよく知る箍の一つ外れた能天気な彼女とはどうにも繋がらなかったのだ。経た年月で落ち着いたのだと言えばそうなのだろうが、それにしたってコインの裏と表のような間逆の雰囲気に戸惑いを感じていたのだ。
けれどようやく、記憶の彼女と目の前の女性が繋がって、気付かぬうちに張っていた緊張を解く。
そうして『変装服』を着終えた由緒の首の後ろ側。そこにあるDNAの認識場所に抜いた髪の毛を一本入れて読み込ませ、左の手首にあるボタンを押す。
すると次の瞬間、ぴっちりと張り付いた全身スーツが見る見るうちに肌色と、その上に服を描き出す。
その変化に今更ながらに気づくこと。どうやら『変装服』が作るのは顔のパーツや髪の色と言った特徴だけ服はスーツの下のものを参照するらしい。
要が雅人に変身した時は同じ男として違和感も何も感じなかったが、今し方目の前に出来上がった要は女物の服を着た性別の入り混じった格好。流石に違和感は拭えない。
と、そんな事を考えていると要の格好をした由緒が右手首でなにやら操作をする。ついで起きた変化は纏っていた服の消失だった。お陰で局部こそ存在しない裸の自分の姿を直視してしまった。
「あら、ごめんなさい」
「い、いえ……」
「服はこれを」
直ぐに用意していたらしい男物の服を加々美が差し出してそれに着替える。
服の変更機能なんて未来は教えてくれなかったと。必要なかったから言わなかったのだろうが、その所為で不必要な光景に相対してしまった。帰ったら未来に抗議してやるとしよう。
そんな事を考えていると服だけが違う要の姿をした由緒が目の前に出来上がる。その身形に、そう言えばあの時『スタン銃』を撃った彼も今のような服装をしていたと記憶を重ねながら。
「で、次は『小型変声機』だな。どうやって声を合わせるんだ?」
「要さんが一回着けて声紋を記録してください。それを今度は彼女へ」
「あぁ、なるほど……」
《傷持ち》としてノイズ交じりの声の再現にしか使用してこなかったから、てっきりそういう道具なのかと思っていたのだが。どうやら自由に声を変えられるらしい。
そう言えば未来に道具の説明をされたときに『小型変声機』には変声機と言う文字列が入っていたと思い出す。その名の通り声を変える機械なのだからそういうことも出来て当然か。
「喉に貼って、それを軽く押し続けながら何か喋ってください」
「んと、こうか……? しかし何か喋れって随分な丸投げだけどな……」
「あ、もう大丈夫です」
加々美に言われるまま操作をすれば、どうやら今の独り事で声紋が認識されたらしい。
高性能なんだか認識が簡単すぎるのか……。もし何かの拍子に間違って声紋を記録してしまったら悪用されたりしないのだろうかと。
思いつつ『小型変声機』を剥がしてそれを由緒へと渡す。受け取って身に着けた彼女が咳払いをすれば、既にその声さえ要自身も無意識に聞き飽きた自分のそれを彼女の口から聞いた。
「さて、これでいいわね?」
「後はこれを。これで移動した先にいる要さんの顔をした人物を撃ってください」
「移動はこの『音叉』で」
最後に『スタン銃』と『音叉』を手渡せば由緒が歴史再現を行うために必要な条件が揃う。
と、それとほぼ同時少し前に部屋を出て行った未来が書類を数枚持って戻ってきた。
「お待たせしました。由緒さん、これにサインをお願いします」
「これも久しぶりねぇ、この年になればあまり時空間事件に関わることもないから」
「っ……!」
未来の声に答える由緒。しかし当然、『変装服』で変装し『小型変声機』を身に着けているからその姿と声は要のもの。
未来からすれば戻ってきて早々要が二人いる事を目撃し、その片方が声に答えるという不気味な光景を目にする事になったのだろう。しかもその答えが女性らしい言葉遣いで放たれたのだ。直ぐにそれが由緒だと気付いたものの、普段の由緒をよく知るからこそ余計にその事に驚いたのだろう。思わず気味悪さに後ずさりをした未来に小さく笑う。別にそんなところでコメディしなくてもいいんだけれども。
どうでもいいけれど要からすれば見た目や自分の声が他人から聞こえることよりも、その話口調の方が気になったりする。それは当然要が男だから感じるものなのだろうが、まるで自分が心を女性に移したような違和感なのだ。何よりもむず痒くてたまらない。
そう感じてしまうのは幸か不幸かまだ演劇部で女装をしたり、そういう役をやった事がないからだろうか。その経験があればまた違った視点でこの景色を見られたのかもしれないが……それはそれで色々と危ない方向へ傾いている気がしないでもない。
そんな風に要自身も違和感を感じる中で、既に意に介していない様子の由緒は未来に言われた通りに書類へと名前を記す。
その際に少しだけ見えた筆跡は、要のよく知る彼女のそれと全く同じでまた一つ安堵をしながら。
「…………これでいいわね。撃ってくるだけでしょう? さっさと終わらせましょう」
「事が終わった頃にお迎えに上がります。それから、口調は男物で」
「分かったわ」
必要な事を伝え終えて、それから加々美と頷き合うと耳に着けた『時空通信機』へ手を宛がう。その奥に集中すれば僅かに聞こえた雑音。そこにいるだろう楽に向けて声を掛ける。
「こっちの準備は出来たぞ」
『ん、あぁ、分かった。それじゃあ未来ちゃん頼んだ』
傍から見れば要は独り事。由緒や未来には要が『時空通信機』の向こうの未来と会話しているように聞こえるだろうか。ならばあまり砕けた言葉は選ばない方がよかったかと。
考えていると目の前で由緒が持った『音叉』が震え始め、ラの音階を響かせる。
どうでもいいが、未来は一人で異能力を行使できない。移動先の指定は由緒のように経験に左右するものでは無いからいいとしても、間接的である『音叉』を使えば未来の傍には同行者がいなくなりそもそも発動自体が無理になる。
解決策としては移動をしない同行者の協力を取り付けるだけだ。
未来の異能力は個人単位で時空間移動をする相手を分けられる。それは未来が残り要や由緒だけが移動したことからも明確だ。
ならば未来が今いる部屋……あの空間にいる由緒か楽の存在を同行者として認識させ、移動は『音叉』にのみ適用すれば『音叉』を持つこの時代の由緒だけが移動する。
前に未来が、自分のものより由緒の方が使い勝手がいいと言っていたが、少し工夫すればそれを補うだけの使い方はあるはずだ。後は彼女がそれに気付くかどうかと言う話。天才少女なのだ、要が今言わなくともその内至る方法論だろうと。
考えて直後、要達の目の前から要の姿をした由緒が『音叉』と共に時空の奥へと消えて行った。
その事実に、三人は誰からとも無く息を吐いて安堵する。
「……上手く行ったからいいものを、意外と無茶な綱渡りをしますね」
「まぁそうならないとあの過去は再現されないからな。歴史再現だと割り切ってそうなるように行動したまでだ」
「お兄ちゃんは決められた歴史に頼りすぎだよっ」
加々美と未来に責められて何が悪いのか分からないと言う風に肩を竦めれば、呆れるように二人して顔を見合わせる美少女二人。全く、そんなに要を悪役にして楽しいかと。
確かに成した歴史再現の代償に何故か心証を悪くしつつ、それから逃げるように音にする。
「で、俺と加々美は一旦過去に戻らないとな」
「そうですね」
「あたしも今発行した時空間事件の処理をして来ないと……。と言う事でここでお別れだね」
口ぶりからして、もう二度とこの時代の未来に会うことは無いのだろうと悟る。そんな要の心中を察したか、小さく笑った未来はそれから右手を差し出した。
「色々ありがとう。それからごめんなさい。要さんにとってはまだ終わっていないことだけれど、そもそも巻き込んだのはあたしみたいなものだから」
「別に、退屈しなかったからそれでいいさ」
「ふふっ、お兄ちゃんらしいね」
飾らぬ気持ちで返して手を取れば、そうしてしっかりと握手を交わす。
そうして簡素な別れと共に加々美へ向き直り、今度は彼女の手を取る。
「それでは明日見先輩、またいつか」
「うん、今度落ち着いたら遊びに来てよ」
「ありがとうございますっ」
未来と加々美はこの時代に生きる者達。その気になれば会えるのだからそれはそれで卑怯な気がすると思いつつ。
目を閉じて脳裏にあの一室を描けば、次いで感じた重力方向の変化。更にここからだとでも言う風に感じた背中を押すような力に、果たすべき約束は目の前だと胸の内で何度も繰り返しながら。
そうして要たちは過去にして未来の出発点たるあの部屋へと戻っていく。
* * *
時空間移動と共に足の裏に感じた床にゆっくりと目を開く。
ここは過去。私がいた時代から半世紀ほど昔の歴史。
この時間に戻ってくる事になるとは思わなかったと懐かしくさえ思いながら視界を回して。その中に幾本も伸びる鉄骨の一つへ背中を預けた男の子の肩を見つける。
彼が先ほど聞いた楽が要に変装した姿かと。『Para Dogs』を裏切るにしたってもっと他に方法があっただろうに。
何よりどうしてそんな事をしたのかと問い質したい気持ちがある。
けれどそんなのは、全て終わって加々美が楽を連れて帰ってくれば分かること。話してくれるかは怪しいが、彼の事は施設の頃から知っているのだ。少なくとも、私が見出した異能力者。両手で数えるほどしかいないその中の一人の事を忘れるわけは無い。
本当に、どうして彼がそんな事をしたのだろうか……。
思いつつ踏み出した足が鉄板の床から音を響かせる。
「誰だ!?」
叫んで振り返った彼は慌てた表情から一変、安堵をするように溜息と共に続ける。
「──何だ、俺か…………」
このための変装。未来にやってきてまで協力を願った彼はどうやらこうなる事を知っていたようだ。でなければこんなに用意周到には出来ないはずだ。
と、そこでふと疑問が過ぎった。
ここで起こる事を知っているなら、彼も今この瞬間ここにいるのではないだろうかと。
迎えにくると言っていたから既にどこかで隠れて彼が眠るのを待機しているのかもしれない。
「びっくりさせるなよ……。で、どうしたよ、未来の俺」
「……………………」
問われて。けれど答えは返さない。
いろいろと思うところはあるけれど、彼のためと言うのなら今直ぐにでも眠らせてしまった方がいいはずだと。
「……………………眠れ」
男を真似て少し乱暴に最低限を呟く。それから左手に持った『音叉』も邪魔だと傍に投げ捨てる。どうせ迎えに来るのだからもう必要ない。
鉄板に跳ねて音を響かせる『音叉』。その少し濁ったような音と共に上げた右手にはグリップをしっかりと握って安全装置も外した『スタン銃』。
こんなもの。もたなければどれ程平穏の証だろうか。せめてたった一発で。しっかりと狙いを定めてトリガーを絞れば、少しだけ慌てた様子の彼がそれから力なく崩れ落ちていく。
「…………な、んで……」
「お前が知る必要は無い」
知らないのはこちらも同じだと。突き放すように告げて静かに見つめれば、次の瞬間空間を裂いて現れたのは三人組みだった。
一人は紅の髪を頭の横で二つ結びにした少女。私にとっても縁の深い彼女は、明日見未来。
二人目は黒髪に黒い瞳の純粋な日本人らしさを湛えたこの任務の依頼人、遠野要。
そして三人目。既に床に転がり眠り始めた要の姿をした人物を見下ろすその姿。
違和感と共に脳裏に浮かんだ彼の名前に、思わず演技も忘れて声にする。
「……っ、あなた…………!」
声にこちらへ向いたその人物は、仕草に金色の髪を揺らし、深い青色を宿した双眸の私のよく知る人物だった。