第一章
降り注ぐ日の光に煩いほどの蝉の声。夏らしい景色とむさ苦しい住宅街に今生きている事を実感しながら、手に食い込むビニール袋の感触に小さく項垂れる。
相も変わらず何も知らない日常は平穏の仮面を被ったまま目の前の不幸に嘆いている様子で。少し前まで自分もそちら側で退屈していたのだと思い返すことすら既に懐かしくさえ思う。
そんな非日常たる今現在。西暦で言えば2000年。平成十二年の八月十三日。要の父親が死んだ翌々日。
歴史再現の為に仕方なく、未来がその体を突き飛ばした日からたった二日。要はまだ生まれていない頃だ。
時代が変わっても変わらないものは多い。気候なんかは要が元いた時間と変わらず夏真っ盛りだ。別段特別な現象とかはなかったはずだが、相変わらず暑くて過ごし難かっただろう。
大人になればなるほど子供の頃気にしていなかった事を気にするようになる。例えば今夜の献立だったり。例えば明日の天気だったり。例えば何かのイベントの予定日だったり……。
そうして自分に必要なことを考えて、自分の事を自分で決めるようになるのが世間一般で言う大人なのだろう。
大人なんて、子供の頃に抱いた夢を忘れ、目の前の事に一所懸命になっているだけの余裕のない生き物なのに。子供の頃はどうしてあんなに大人に憧れていたのかと、今になって子供を羨ましく思う。
多分、自分でやりたい事が見つかって。けれどそれに見合うだけの自由がないから、無為な時間を過ごしていた子供時代をやり直したいとでも考えてしまうのだろう。
それこそ、歴史改変のように。
歴史改変。要が知っているそれは……経験したそれは、物語のように都合の悪い結末を捻じ曲げ理想の未来を手繰り寄せる理想論では無かった。
歴史は一つで、未来も一つ。真っ直ぐな一本道を振り返って、過去に何が起きていたのかを知り、必要とあらば手を貸して後悔と失敗だらけの経験を裏から支える……そんな歴史再現。
面白味がないといえばそれまでだ。希望を抱くことも許されなければ、過去を変える事もできない。
現実は非常にして単純で、何も変わらない。
雅人は事故に遭うし、要は真実を知る。幼馴染である由緒とは互いの境遇を嘆きながら共に時間を過ごし。歴史を守るために未だ来ぬ歴史の先から未来と透目が過去を守りにやってきて。けれどそれさえも大きな流れの一つであり、全ては未来の自分が仕組んだ歴史再現。その協力者として楽と加々美が全てを知った上で協力してくれている。
曰く、約束を果たせと。
それは要が交わした誓いであり、毎年のこと。当たり前の行事で、きっと今年も恙無く祝うはずの少し特別な日。
そんな要にとってのいつもとは違うその日を目の前に巻き起こった騒乱の嵐。
楽が刺され、《傷持ち》が走り回り、未来と過去が錯綜する。
その末に何を信じればいいかも曖昧に感じつつ正義しか居ない物語を紡いで全てを歴史の通りに成せと押し付けがましい舞台を演じる。
客観視すればなんと面白味に欠ける事か。そこに要自身の意思がどれ程あると。
嘆くように反芻して見上げた空は快晴色。底抜けに青々とした夏の色に、こうして考え事をしている自分が情けなくなるほどに、辺りの空気はいつも通り。思わず溜息が零れ落ちる。
「そんなに気が重いですか?」
「いいや。単純に、己の馬鹿さ加減に呆れてるだけだ」
疑問は隣を歩く少女から。買出しについていくと名乗りを上げた彼女は稲生加々美。未来の管理組織、『Para Dogs』に所属する十二歳の正義の味方。異能力と言う不思議な力を宿した女の子で、その力で発露に伴い髪の色をファンタジーが如く染め上げた人形のような少女。
小さな体を覆うように揺れる緩いウェーブの白い髪と、整った顔に嵌る二つの紫紺の瞳。その身に宿す彼女の異能力、『能力転写』によって他人の色を写し取る彼女のアイデンティティーは、話を聞くにどうやら今は要の幼馴染たる由緒の異能力である『時間遡行』を借りているらしい。
そもそも由緒は異能力の発現において普段と変わらない見た目をしていて、少しだけ瞳が青み掛かっている程度だ。その青も、未来曰く異能力の発現が表に少し出ているだけらしいと。
このことから想像するに由緒は異能力発動の際瞳が青くなるはずだ。髪の色が変化するかどうかまでは分からないけれど。
とりあえず普段は一般的日本人の特徴である黒髪と黒い瞳を持つ少女。そんな女の子の異能力をコピーしている加々美は、けれど楽の話では地毛らしい白髪に瞳の色も、彼女が異能力者である証そのもの。
加々美のその身形と由緒の変化。その二つを総合して考えるに由緒の異能力をコピーしている加々美は基本見た目に変化はなく、それを行使した時のみ瞳が色付くはずだ。
とは言え現代日本において、銀色とも見紛う白い長髪に宝石の如く輝く紫紺の相貌という出で立ちは充分に目立って当たり前で。先ほど買い物に行ったコンビニでは、すれ違う客にレジを打つ店員までもが加々美を珍しそうに見ていた。日本人らしく、噂と視線に留めて直接何かを言ってくることはなかったけれど、やはり目を引くことは避けられない。慎み深い日本人らしさには大事にならず逆に嬉しい限りだが。
そんな風に目立つ身形の少女が隣にいるのだ。幾らあまり人の目のない真夏の日中と言えど、基本的に庶民である要にしてみれば落ち着くというのはなかなかに難しい相談だ。
ぎりぎり許容範囲は異世界染みた色の楽までだろう。未来の燃えるような赤い髪と橙色の瞳も充分に現実離れしている。
今更ながらに彼女達とは決定的に何かが違うのだと胸の奥に感情が蟠る。
「と言うか加々美は随分と堂々としてるな。この時代だとその色合いは目立つって言うのに」
「人の視線に晒されることに慣れているだけです。強力な異能力保持者として、色々と経験してきましたから」
「そうか…………」
「だから決めたんです。誰にも左右されることなく自分に正直に生きて、欲しいものを手に入れるって」
「それがあいつか?」
話題は楽のことへ。曰く彼女は楽の事が好きらしいと。憧れと、尊敬と、好意。十二歳の少女らしい淡い恋心。
とは言え彼女相手に楽が本気になるだろうとかと言うのは冷静に考えれば答えは見えているような気もするけれど。
「別に今じゃなくてもいいんですっ。その時まで周りを牽制して、時が来たら想いを伝えるだけですっ。それまでに色々な事を一緒にやって、忘れられないくらいにわたしのことを刷り込むんですっ」
「……恐ろしい話だな」
光源氏計画、に似た話。長い時間を掛けて相手を自分好みに仕上げる、年下からの挑戦状。そんな事を考える加々美の気概に、楽へと少しだけ同情する。
と言うのも要にとってのそれがきっと由緒だから。
幼馴染として長い年月を一緒に過ごし、いつの間にかそこにあった彼女との関係。中学の頃も時折からかわれたくらいには仲がよくて、彼女がいつからそうだったのかは知らないが、要が意識するより先から要の事を想っていてくれたのだろう。
彼女が本当にそれを望んで要の横を、後ろを着いて回っていたのかは定かではないが、現実に要の中には彼女との思い出と言う名の過去が刻まれている。
妹を妹と思うように、幼馴染を幼馴染と思わせて。そうして彼女はその立場を利用して幼馴染と言う居場所を最も近い異性というそれへ書き換えようとしたのだ。それが、中学校の卒業式の帰り道のこと。
────言い訳で終わりたくない……
あの時に直ぐに言い訳を出来なかった辺り、心のどこかではそうなってもいいと思っていたのかもしれない。
けれど要にとって由緒は唯一無二の幼馴染で、片親を失った痛みを共有する共犯者で。言ってしまえば依存のようなそれで紡いだ関係が心地よかったから、先延ばしにしてしまったのだ。
怖かったのは、きっと日常に溺れてしまうこと。片親がいないと言う非日常から、それよりも大切な人が出来て有象無象の平穏と同じになってしまうという、特別性が失われる事が躊躇われたのだ。
何よりも憧れていたのだ。本を読んで物語に溶け込むように。自分も何かに選ばれるような人間であればいいと希望を抱いていたのだ。
その選んでくれる相手が由緒である事に……頷けば、心のどこかで願っていたその夢物語を裏切ってしまうような気がして嫌だったのだ。
夢見がちで特別を気取りたいだけの子供だと笑いたいくらいの純粋さ。そんな真っ直ぐな気持ちなんて、片親を知らない時点でありえないはずなのに。だからこそ、憧れたのだろうと。
けれどそんな夢も、どうやら本当に叶ってしまうらしいと。特別と言えば特別。異能力と言う未知なる力に関わって、自分は未来にその力を統括する組織の長になっているらしい。
それを特別と言わずしてなんと言う。少し形は違うかもしれないけれど、選ばれた者がするべきことだ。
そんな未来を知ってしまったから、少しだけ恐怖が消えたのだ。未来を保障されているから、今を選んでもいいのだと納得を見つけられたのだ。
だから逃げられなくなって、けれどそんな彼女に嘘を吐く事に罪悪感を覚える。
ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染なのだ。本当のところで嘘を吐くなんてやはり自分を騙しきれないと。
「因みにどんな気分ですか? 知らずの内に退路を断たれると言うのは」
「…………諦めるほかない事に愕然とするな。それこそ歴史を変えたいくらいに」
「変えられたら大変に迷惑なんですけれどねっ」
可愛らしく真実を口にする加々美。
歴史は、変わらない。たった一つの道は、歪むことなく答えだけを示し続ける。多世界解釈とか並行世界とか。そんなものを人間が認識できないのは当然だ。未来人曰く存在しないのだから。シュレーディンガー的に、皆無の可能性なのだから。
観測者が現実にしかいない以上、要達が何かに干渉することなど出来ない。単純に考えればそれが何よりの真実なのだ。
現実なんて、とてもつまらない。だからこそ、事実は小説より奇なり、なんて言葉があるのだろう。
「それでも変えたいなんて願っちゃうから、前に進めるんですけどね」
きっとそれが何よりの答え。十二歳の少女に道理を教えられるなんてなんだか癪だけれども。真実だからこそ受け入れられないことは何にだって存在するのだ。
…………仕方ない。最後の悪あがきだ。要の人生は要が選んだ未来だとして、自分の意思で未来を変えたのだと嘯く事にしよう。どんな歴史から変えたのかなんて、一人称たるこの身には比較対象もないのだけれども。
小さく溜息と共にコンビニの袋を揺らせば、戻ってきていた拠点と言う名のアパート。あの一室にも必要以上に世話になったと。五人で腰を落ち着けるには狭いことこの上なくはあるのだが。
思いつつ玄関扉を開ければ中から聞こえてきたのは話し声。どうやら要が買出しに行っている間に何かあったらしい。まぁ時間は平等に流れているのだ。要の主観は要の周りだけ。感知できない場所でも確かに紡がれているものはあるのだ。とは言え与り知らぬ話題に自分が出ているかもしれないと思うと知らぬが仏と言う話も無きにしも非ずだ。
「ただいま」
「あ、おかえり、よー君っ」
ここを出たときに比べ幾分か遠慮のなくなった空気。その筆頭たる由緒の顔と声に、少なくとも悪い方向への関係の変化では無いと悟って少しだけ安堵する。
特に気がかりなのは未来と楽の関係だ。未来にしてみればずっと追いかけていた黒幕。彼女はきっとこの歴史再現を時空間事件だと思っていることだろう。いわばこの空間は呉越同舟。楽からしてみれば全て茶番なのだろうが、未来にも歴史再現に協力する動機を持たせるためにわざと悪役の仮面を被っているのだろう。要が言うのもなんだが、不器用な生き方をしていると。
そんな彼にも立派な協力者……理解者が居て、その少女は女の子らしく恋をしているらしい。ここまで関わればその行く先を案じたい気持ちが生まれるのは必然か。願わくば彼と彼女の思いが全て正しくあれと。
「梅~。ゼリーっ」
「お、抹茶ラテじゃねぇか。貰うぞっ」
「……本当だったんだ」
「嘘吐く理由がないからな」
「……? どうかしたの?」
「いいや。未来先に選んでいいぞ」
差し出した袋の中身を覗きこんで目敏く好物を見つけたらしい由緒と楽が殆ど問答無用で奪っていく。コンビニで要が言った通り抹茶を選んだ楽に、加々美が驚いた声を漏らしていた。
まぁ分かりきっていた事ではあるが、事楽に関して要は加々美に信用されていない。恋は盲目と言うか、彼女は少し意固地な気が強いのかもしれない。声に視線を向ければ彼女は居心地悪そうに視線を逸らしてくれた。
まぁ好きな相手の事だ。知っておきたい気持ちは分からないでもないけれど。そんな事で一々目の敵にされても困るという話だ。
そんなコンビニでの一幕を知らない未来からすれば話の見えないことだろう。けれどそれはこの部屋の中で起きた事を要が知らないのと表裏一体。加々美の名誉のために言葉にするほどの事でもない。
秘密くらいあってもいいではないか。……未来にはそう思えるのに、相手が由緒になるとやはり少しだけ罪悪感は募るのは仕方の無いことか。加々美のことを言えた義理では無いだろう。
「加々美はどっちを食べる?」
「……要さんが食べたい方を食べますっ」
そこまで嫌わなくてもいいのに。
そんな加々美とのやり取りを視界の端でこちらを見たらしい楽が、何をやらかしたのだと言葉なく問うてくる。俺にそれを聞くな。それから、加々美の面倒はそもそも楽が見るべきだろう。その方が彼女も喜ぶはずだ。
溜め息を吐きつつ、残った弁当を見て少しだけ迷い、気分ではない方に手を伸ばす。と、横からそれを攫う加々美。
まぁいい。何も言わずに彼女に押し付けられたのだ。これが少し大人な狡賢さだ。12歳の少女にはまだ難しい駆け引きだったか。
思いつつ壁に背を預けながらようやく腰を落ち着ける。
この後やるべき事は既に分かっている。後はそれを順当にこなして辻褄を合わせるだけ。何よりご飯くらいは平穏無事に食べたい。
「それでぇ? 結局これからどうするんだ? 方針固めないと動けないだろ?」
「方針と言うかやるべき事は見つけたぞ。そうだな……役割分担するかな」
「分担?」
「目的は二つ。辻褄合わせと、『催眠暗示』の解除だ」
コンビニへの道中で色々考えて至った結論。そしてこの歴史再現を終える方法。
ここまでくれば全容も把握できる。これ以上面倒事も起きないし、そろそろ全てを収束させないと風呂敷が畳めない。何より要の許容量がそろそろ限界だ。
「『催眠暗示』の方は楽に任せる。逆位相は楽にしか作れないからな。ノーパソ回収して逆位相作って、今解ける分だけの『催眠暗示』を解いて回る。これは楽ともう一人で…………あぁ、いや、楽と未来と由緒の三人に頼みたいな」
「どうしてですか? わたしがいれば時間移動も簡単にできるんですけれど……」
「加々美には俺についてきて歴史再現をしてもらいたい。君がいないと無理な時間移動なんだ」
楽の逆位相は加々美でも、未来でも、由緒でも可能だ。だから順当に考えるなら楽と加々美を組ませるのが妥当だろう。
けれどそれだと要が担当する事になる歴史再現が出来なくなる。要がするべきそれは、時間で言えば楽や加々美がいた時代で起こすものだ。それは楽を追い掛けて要が向かった未来よりも、更に先の時間のこと。その時代に行くためには加々美の協力無しには難しい話だ。
一応遠回りな方法もないわけではないが、簡単に済むならそちらの方がいいだろう。
「……分かりました」
随分と不服そうな返答。彼女にしてみれば楽と一緒に行動したかったに違いない。けれど逆に考えれば、早く解決する分だけ楽と二人でいられる時間が増えるのだ。
まだ目先の事にしか焦点が結べないらしい。それもまた子供らしく純粋な証なのだろうけれども。
「それからコピー先は未来の『時空間移動』で頼む。今のままだと動き辛いからな」
「そんなに命令しないでくださいっ」
どうやら要が思う以上に加々美にはあまりいい印象をもたれていないらしい。単にこれまでのやり取りで少しいじめすぎた弊害だろうか。
今の要にとっては彼女との繋がりなどないに等しい。別に嫌われていてもやるべき事をこなしてくれればそれでいいのだが。
と、そんな事を考えていると上がった声は未来のもの。
「コピー……?」
「あれ、言ってなかったか? 加々美の異能力だよ。『能力転写』……他人の異能力を回数制限で借りて使用する力だ」
「…………あ、もしかしてあれかな。『Para Dogs』で話題になってた……」
未来の時代の加々美はまだ十か十一歳。施設で楽を追い掛けて勉強をしている頃で、楽もまだ『Para Dogs』には正式に認められていない時間だ。
けれど加々美の異能力自体は強力で希少なものとして噂にはなっていたはず。未来も小耳には挟んでいたのだろう。
「そっか、君が『能力転写』の異能力保持者か……。だからえっと…………と言う事は加々美ちゃんも楽さんもあたしより未来の人ってわけだ」
未来の知っている知識と、目の前の存在と。そしてここへ現れたときに加々美が提示した『Para Dogs』の証のカード。それらが彼女の中で噛みあったらしく、納得を見つけて一人頷く未来。事時空間の外に生きている彼女だからこそ、こういう話への順応性は極めて高いのだろう。
「……なんだか不思議だね。基本、時間移動した先だとあたしが誰よりも未来人だったから、自分より未来の人に会うって言うのは慣れないかも」
「それが普通の感覚なんだけどな。実感なんてないだろ?」
「そうだね。……と言うかお兄ちゃんはよくあたしの事を未来人だって信じられたね?」
「信じざるを得なかったというか、そうする事で非日常を謳歌できるなんて考えちまったからな。こんなに面倒な事になるとは思わなかったけどな」
「……もしかして真面目な現代人って私だけなのかなぁ?」
「異能力に開花しておいて普通だなんて思うなよ?」
「欲しくて手に入れた力じゃないもんっ」
自分の事を棚に上げようとした由緒に突っ込んで、それから話を戻す。大体この中で言えば異能力を持たない要こそが最も人間らしいのでは無いだろうか。……言えばきっとこの場にいる全員から否定されるだろうから言わないけれども。
「ふむ……と言う事はここから先は加々美ちゃんに任せた方がいいのかな。あたしよりも加々美ちゃんの方が確かな正しさを持ってるだろうし」
言いつつ右手を左手で覆って、要に向けて小さく笑う未来。もしかして雅人の死の事を思い出したのだろうか。
あまり考えないようにしていた事だが、雅人の死には未来が関わっている。歴史再現と言えば不可抗力と言う名の言い訳になるのだろうが、彼女はそれを認めないだろう。
正義を司り歴史を守るはずの自分が誰かを殺す手助けをしたなんて……そうなる歴史だったのだとしても受け入れ難いのは確かなのだ。要だって言ってしまえば由緒を危険に晒した身。何かが違っていれば彼女が車に轢かれる瞬間を違う結末として認識していたかもしれないのだ。その事を考えれば、未来の自戒も十分に理解できる。
その後悔に苛まれながら、けれどどうにか目の前の悪を裁こうと奮闘してくれていたのだ。それだけを鑑みても、これ以上未来だけに背負わせるのは酷な話だろう。
「明日見先輩が過去の人でも、わたしにとっては先輩ですから。それに時空間事件に正式に関わるのはこれが初めてなんです。だからあんまり期待をされると、その……」
「そっか。だったら対等に協力って事で、ね?」
「はいっ」
加々美にしてみれば未来は憧れなのだろう。若くして『Para Dogs』で活躍をするエース。楽に聞いた話や今のやり取りからでも、未来の事を尊敬しているのはよく分かる。未来も、それくらいには『Para Dogs』にとって特別な存在なのだ。何せ未来の俺の孫らしいから。
「……因みに未来のあたしがどうなってるとか…………」
「それは禁則事項ですっ」
「だよねー」
加々美に今掛かっている制限は由緒の『時間遡行』と同じものだ。だから未来の出来事を言えないわけではない。
けれど歴史を守るとか不用意な種を蒔くとか。そんな観点から未来の事を教えるなんて禁忌としてしかるべき行いだ。
「未来だって未来の出来事知りたいんじゃねぇか……」
「っ! ……気になるんだからしょうがないでしょっ?」
「よー君、変なことばっかり言ってると周りが敵だらけになるよ?」
「……そうだな。話も随分ずれたしな」
相変わらず息をするように脱線する話題。恐らくそうして無駄話ができるのも、どこかで確信しているからだろう。
この時空間事件……歴史再現は問題なく解決する。
俺は未来の自分を知っているし、そんな俺を由緒は信じてくれていて。未来は自分がいた時代より更に未来がある事で解決を知り、楽と加々美はその解決策を要達の目の前に持ってきてくれた船頭だ。
そうやって全員が心のどこかで大丈夫だと思っているから。少しくらい破目を外しても……と先ほどから話題がどんどん逸れていくのだ。
「とりあえずさっき言った通りに分かれて歴史を修正だな。その辻褄さえ合わせれば、後は必要な歴史再現をするだけだ」
「……一応聞くけどその言葉の確証は?」
「加々美と話をした結論だ。俺を信じられないなら彼女を信じてくれ」
別に本当の事を言ってもいいのだけれども。そうして由緒に勘付かれるとサプライズとして準備する意味がなくなる。そのためにも隠すべき事は隠し通さなければ。
その方便に加々美の存在はうってつけだ。彼女も目的が同じ以上現状を壊すような事はしないだろう。
「女の子を理由にするとかよー君酷いね」
「なんとでも言え。彼女に気付かされたのは嘘じゃない」
「…………分かった。加々美ちゃんが『Para Dogs』であることは確かだからね。お兄ちゃんじゃなくて彼女を信じる事にする」
「あぁ、後これ返しておく」
どうにか漕ぎつけた協力。その事に胸の内で安堵しつつ、それから彼女に借りていた『捕縛杖』と『スタン銃』を返す。
悪人がいない以上武装で着飾っても何も良い事などない。あるべきものをあるべき場所へ。これもまた歴史再現と言えば一歩前進だ。
「……それじゃあ別行動だね」
「ノーパソとって来たらここで作業しててくれ。俺も終わり次第合流する」
「ん、行ってらっしゃい」
慈愛の如く微笑む由緒の声に答えて頷けば、思い出したように楽が何かを差し出してくる。
「あぁ、そうだ。要、これ渡しとく」
「……『音叉』に、『時空通信機』?」
「きっと必要になるからな」
受け取ったのは散々《傷持ち》として利用してきた未来の道具。見るだけで色々な事を思い出してしまうのだが、どうやらこれが何かに必要らしいと。とりあえず疑問を飲み込んでポケットに突っ込むと加々美に向き直る。
今のやり取りの間に、彼女も未来から『時空間移動』の異能力を借りたらしい。髪と瞳の色が、それぞれ赤と橙に変わっている。
「……それじゃあ要さん、行きましょうか」
「あぁ、そうだな」
楽に素っ気無く扱われた所為か、少しだけ機嫌の傾いだ加々美。触らぬ神に祟りなし。
知らない振りで頷けば、加々美と手をとって目を閉じる。
次の瞬間、体を襲う重力方向の変化。なんだかこれも久しぶりに感じるのは、既に終わりが見えてきていることに起因するものだろうか。目の前が分かりきっているから、過去のことを遠く思う。それを記憶と言うのなら、確かに歴史は流れているのだと実感しながら。
足の裏に感じた地面の感覚に目を開ければ、想像通りの未来に到着。相変わらず規格外な力だとそれ以上追い駆けるのを諦めて、それからふと過ぎった疑問。
「他人の異能力なのに随分上手に使いこなしてるな」
「力を借りると分かってる以上それについて準備をしないほどに馬鹿では無いだけです。ほら、行きますよ」
「俺がすべき事を他人に促されるってのはなんだか変な気分だな」
「だってそうしないと無駄話ばかりで終わりそうにないんですもんっ。わたしははやく先輩と二人の時間に戻りたいだけですっ」
分かりやすくていい目標だと肩を竦めて加々美の隣に並び立つ。そうして辺りを見渡した景色。それは一度見た覚えのある摩天楼の如きビル軍の風景。
空には車なのだろう箱が飛び、深い青色に輝くガラス張りの建物が天を貫き、人々は当たり前のように色鮮やかな風体で歩き回る。
この光景は少し前にも見た近未来。異能力が受け入れられ、その不思議な力を中心に発達した科学と異能の入り混じる町。未来の東京。
ここは楽と加々美がいた時代で、きっと未来も、由緒も、そして要自身も存在しているだろう空間だ。けれど少し前に要が経験した未来とはまた少しだけ違う時間。あの時より更に未来の都会だ。
「……ここがついさっきの未来と……いや、過去か。未来がいた時代と比べてどれくらい未来なのかってのは気になるところだけど……」
「知ってどうするんですか?」
「それもそうなんだけれどな……」
分かることと言えば、どれくらいの時間でここまで急成長を遂げるのか。そして要は幾つまで生きている事を確約されるのか……。簡単に言えばその辺りだろう。
もちろん加々美の言う通り知ったところでどうにかなるものでもない。歴史は一つで、認識をすれば変える事は許されない。ただそうであるという未来を受け止めて、逃げる意味をなくすだけだ。
「そんな事よりやるべき事があるんですから」
「それは分かってる。まぁそこまで気負わなくても別に何の問題もないと思うけれどな」
加々美の言葉に答えて、脳裏を過ぎる目的。
色々な話から考えるに、未来の要がこの歴史再現の首謀者だ。だとすればそれはいつの要で、何をするために過去を巻き込んでいるのかと言うこと。
後者については既に見つけた答えだ。過去が騙し未来へ託す半世紀越しのサプライズ。それを果たすために必要な事は分かりきっている。
ならば前者……一体いつの要がそれをするべきなのか。過去の要がどの未来の要と協力関係を結ぶ必要があるのか。こちらの方が重要だ。
しかしこれも少し考えれば分かることだ。
楽や加々美がいつの時代の要からこの歴史再現の任を受けたか。それを考えれば、自ずと答えは見つかる。
楽たちが歴史再現を終わらせる事で準備が整う……。それは当然の事だ。だとすればその準備が終わった後が彼が目的を果たすべき舞台……。
つまり楽や加々美が歴史再現へ向かった後がその対象だ。
だから未来の記憶では辿り着けない。この場所は未来が歴史再現の任に就いた時代から、更に未来の時間だ。彼女が知りえない場所には幾ら時空間の超越と言えど不可能な移動。もちろん、この時代にいる未来の手助けを借りれば解決する話だが、それはこの時代にいる未来に会わなくては無理な話だ。幾ら未来と言えど未来の自分と記憶を共有は出来ない。
となれば必然この時代に事を知る楽や加々美の力を借りる必要がある。だからこそこうして加々美の記憶を頼りにこの時代までやってきたのだ。
ならばやってきて何をするか。それは当然、この歴史再現の首謀者と彼が果たす約束を共有するためだ。
彼……未来の要が動けないからこそ、時空間事件の体裁を保って過去の要を巻き込んだのだ。過去の俺にその舞台を準備してもらうために。
その台本をこれから受け取りに行く。そうして己の未来のために過去が奮闘する……有り触れた歴史干渉の皮を被るのだ。
その目的地。円柱形の、この辺りで最も背の高い建物。全面ガラス張りの建造物は、陽光を反射して海の如く深い青色に輝く。ここにくるのは今回で四度目だろうか。この時代では一回目だが。
『Para Dogs』。未来や透目……この時代では楽や加々美も所属する異能力を管理する組織。要が長を務めているはずのこの国の中心とも言うべき建物だ。
見上げたその外観は首が痛くなるほどに壮観で。一体何階建てなのかと考えるのが億劫になるほどに高く聳え立つ。
「なに立ち止まってるんですか? 早く行きましょう」
「……あぁ」
加々美に催促されて足を踏み入れる。自動ドアの向こう側は前に来たときと同じつくりのまま、広いロビーに受付と大規模な会社の玄関そのもの。どちらかと言うとホテルのような佇まいも感じる。
そんな事を考えていると加々美が迷うことなく受付へと向かい、なにやら話を取り付ける
まぁ分かっていた事だけれども。これは歴史再現で、加々美にとってはそうなって当たり前の歴史。未来の要への取次ぎや約束と言った準備は既に済んでいて当たり前だ。
結局これは未来の要が仕組んだ歴史再現。そこに過去の要の思惑などどれ程存在すると。
考えるだけ無駄な事だと小さく息を吐いて、それから戻ってきた加々美に案内されてエレベーターへと向かう。
「来る事は伝えてあったから、先に部屋に行って待ってましょう」
「俺はここじゃあ部外者だからな。加々美に全部任せるさ」
「でしたら飲み物は水道水でいいですか?」
「……そこはせめてミネラルウォーターにしてくれ」
「注文の多い客人ですね……」
確かに加々美は猫っぽいかもしれない。
他愛ない話と共に降りてきたエレベーターへと乗る。と、どうやら内部は外が眺められるらしく、ガラス張りの向こうに地面から生える幾本ものビルを目にする。
もちろんと胸を張るほどでもないが、外から丸見えのエレベーターなど乗った事がないしがない高校生男子だ。エレベーターも大型機械で、男心に興奮してしまうのは仕方のない反応だろう。
そんな様子に気付いたらしい加々美が呆れたように笑う。
「そんなに珍しいですか?」
「基本縁がないだろうと思ってたからな。何階まで上がるんだ?」
「53階。地上から200メートル……より少し上くらいですかね」
「東京タワーの特別展望台と同じくらいか?」
「あっちより少し低いかなぁ。わたし行った事がないので」
普段から身近にあるとそういうものなのかもしれない。
何より加々美は『Para Dogs』の管理下で育ったのだろう。外に出る事もそうなくて、『Para Dogs』に入ってからもまだ一年経っていないはずだから機会がなかっただけに過ぎない。
「上ったところでって話ではあるんですけれどね。要さんは……」
「男二人で景色を見渡して来たな。夜景と言うか、町の明かりはきれいだったな」
「そうですか」
興味がない……と言う風でもない声。思わず振り返って彼女を見れば、どこか睨むようにこちらを見つめてくる加々美。その橙色の瞳に彼女の感情を察して言葉を返す。
「……嫉妬されても困るぞ? 大体男二人でなんて嬉しくないし」
「うるさいですっ。……要さんに教えるんじゃなかった…………」
「言われなくても見てれば気付くと思うけどな」
「ほんと、なんで気付かないんですかね?」
「興味がないんじゃないか?」
「年頃の男性としてどうかと思いますっ」
「俺に言うなよ」
年齢を抜きにして考えれば、加々美は人形のように可憐な少女だ。楽だって彼女の事を女だと思っていない、と言うことは無いはずだが……如何せん十二歳と言う幼さが恋愛対象にはならないのだろう。そういう特殊性癖を持っていなければ難しい話だ。
そんな心の内が顔に出たか、加々美は拗ねたように零す。
「……分かってますよ。わたしが子供だから、先輩は相手にしてくれないんですっ。実際、十二歳の女の子に恋をされたらわたしも引きますし」
「恋心だけなら別におかしな話では無いと思うけどな。十七で極端な年下趣味ってのは色々と問題があるからな」
「だから早く大人になりたいです。普通に恋をしても許されるくらいに……」
「……逆に今だからこそできることってのもあるんじゃないか?」
追い詰めるのも酷で、少し考えて告げる。
「十七の俺が言うのもなんだけどな……十四かな。それ以降になると異性を好きなんて簡単に言えなくなるからな。子供である事を理由にその気持ちを武器にするのもいいんじゃないか? 答えが返るかとかは別にしてな」
「そこまで無邪気ならこんな悩みになってませんよっ」
十二歳にしては随分と大人で贅沢な悩みだと思うのだが。言えば子供扱いをしていると怒られそうでやめておく。
彼女がそんな風に落ち着いて振舞えるのも、育った環境故だろうか。少なくとも要の十二歳の頃と比べればとても大人びた雰囲気の少女だろう。
「いいですねっ、要さんは自由に恋愛が出来て」
「俺のこれが自由、ね……」
楽の事を言えた義理ではないが、色恋に殆ど興味ないのも事実。そこに由緒から告げられた一方的な気持ち。
それに向き合うべく出来る限り彼女に時間を割いてきた要の時間。けれどそれも加々美から見れば自由に見えるのだろう。少なくとも同年代である以上、周りから奇異の目で見られるということはない。加々美のような悩みも存在しない。
「……腹いせにその気持ちがどうなるか教えてあげましょうか?」
「やめてくれ。加々美だって俺にとやかく言われたくないだろう?」
「だったらそんな暢気な顔をわたしの前でしないでくださいよっ」
理不尽な悪態を吐かれて溜息を零し、逃げるように視線を外の世界へ。
見れば随分と昇って来ていたらしい景色が、人を米粒のように眼下へと移し。水平に見上げた視界には『Para Dogs』と同じように天へ向けて伸びる建造物が幾つか聳える。
と、上昇の感覚が緩やかになって体が一瞬重くなったように感じる。同時、到着を知らせるアナウンスが響いて流れていた景色が止まった。
そうして改めて見渡した景色には幾つかの建物の屋上が見える。流石にこの高さともなると背を比べる建造物も数えるほどか。
益体もなく思いつつエレベーターを後にする。どうでもいいけれど、途中で誰も乗ってくることはなかったと。だからあんな恥ずかしい会話を当たり前のように出来ていたのだけれども。高層階にはあまり用が無いのかもしれない。
考えながら先導する加々美に着いて廊下を歩く。白い壁に青い絨毯。清潔な印象を受ける空間は真っ直ぐに伸びて等間隔に部屋の扉を配置した景色。ともすれば幻想的で、時間を忘れて同じ景色に惑わされてしまいそうだと感じるのは、玄関ロビーで沢山見た人影がここでは見えないからだろうか。
「この辺りはあまり人が来ないのか?」
「そうですね。基本立派な役職を持ってる人とかが集まって会議をしたり、そういう少し特別な事に使われる部屋が沢山ありますよ。わたしも知ってるだけで来ることなんて殆どないんですけれど……。っと、ここです」
話しながら辿り着いた扉の前で立ち止まる。戸の横にはカードに埋め込まれたICチップのような何かを認識する機械。重要な事に使われるからこそ、セキュリティーは当然の用についている。
加々美が取り出した『Para Dogs』のカード。未来にも見せていたそれを翳すと短く電子音が響く。加えて扉の柄を掴んだ加々美は、下ではなく上へ軽く持ち上げる。再び電子音。同時、ガチャリと言うロックの外れる音が響いてようやく扉が開く。
「厳重だな」
「二重でですか? ここはIDと指紋だけですけれど、もっと重要なところだと網膜に声紋、静脈。それにDNAとかもありますよ?」
「生体認証か。けどDNAってどうやって……」
「色々ですね。血、髪、爪、皮膚、粘膜……。そこまで厳重となると一握りの人しか入れないような機密情報になりますけれどね。はい、どうぞ中へ」
「あぁ、ありがと」
当たり前のようなセキュリティーに、今更ながらにすごいところに来たものだと実感しながら部屋へと入る。
その際にちらりと見たが、どうやら指紋認証はドアの取っ手についていたらしい。察するに、握って上へ持ち上げると認識されるのだろう。一度持ち上げてロックを解除する仕組みは見た事があるから、それの応用らしい。
「座ってください。あの人が来るまでもう少し時間がありますから。それで、水でいいですか?」
「出来ればもっと選択肢をくれ……」
「えっとぉ……コーヒー、紅茶、麦茶、炭酸飲料、清涼飲料水…………」
「あれだけ言っておいて水ないのかよっ。……加々美はどれが好きなんだ?」
「コー…………メロンソーダです」
「じゃあ同じので頼む」
どうやら見栄を張ろうとしたらしい。楽相手ならその意地を突き通したのかもしれないが、要相手に飾るのも面倒だと判断が下ったのだろう。
別にその見栄を笑ったりするつもりはない。要には無い子供らしさは眩しくて羨ましい限りだ。
要の返答には、面白くなさそうに視線を逸らした加々美がサーバーから紙コップへ注いで出してくれた。
「要さんはもう少し女の子に優しくするべきだと思いますっ」
「俺にとっては協力者であり他人だからな。思い入れの無い相手に無償で優しく出来るほど人間出来てないんだよ」
「お金を取ったらそれは優しさでも気遣いでもありませんよっ」
憤慨した様子の加々美。彼女が怒っている理由は幾つか想像が付くが、何より楽が原因だろう。だからといって要に当たられても困るのだが。
「優しくされて当然だと高を括ってると恋愛対象として見られないぞ?」
「わたしだって相手くらい選びますぅ」
どうあっても要とは相容れないらしい。ならばその付き合い方を彼女との距離感だと思う事にしよう。気兼ねなく悪態を吐ける異性と言うのもある意味特別なものだ。
言葉にしない目でのやり取りで、どちらからともなく笑ってメロンソーダへ口をつければ、次いで耳が扉の鍵が開く音を聞く。どうやら目的の人物が来たらしい。ならば要も気持ちを入れ替えるとしよう。
深呼吸一つ。それと同時に開かれた扉の向こうから、想像通りの顔が姿を現す。
白髪を撫で付けた見た目七十代の男性。柔和な雰囲気と悪戯が好きそうな黒い瞳が交わって、胸の内に募る感情が謂れもなく嫌悪へと成り下がる。
嫌悪をする要素なんてないけれど。これは本能的なもので、仕方の無いこと。表にさえ出さなければそれでいい自己嫌悪だ。
そもそも今回の話において彼を嫌悪する理由が何処にあるかと言う話。確かに振り回されたことには呆れてはいるかもしれないが、必要な事で、何より自分自身の事。己のよき未来のために手段と力を尽くす事を心の底から否定しているわけでは無い。
ただそれとは別に、あの男性に対しては要も……そして彼も同じように胸の内へ違和感を抱えているはずなのだ。
「久しぶり、で構わないかい?」
「俺にしてみれば一日ぶりですけれどね」
交わした言葉は確認のように。少しだけしわがれた声に寂しくも思いつつ目の前に腰掛ける彼を見つめ返して反芻する。
彼は遠野要。この時代に生きる未来の俺自身であり、『Para Dogs』の日本局局長。そしてこの歴史再現の首謀者だ。
「いやぁ、しかしようやくと言う気がするな」
「俺の体感でも随分長く感じましたからね。それで、俺たちは一体何をすれば?」
「分かっていて聞くのか?」
「幾ら歴史再現とは言え、これから経験する未来に関しては想像でしか語れませんからね。それに、知って未来を確定させれば不安要素なく事を運べますから」
「可能性を追求するくせに決断力がないとは。それでは単に周りに不安を巻いて、責任を放り投げていることと同義だぞ?」
耳の痛い言葉に、けれど言葉以上の糾弾は聞こえない。彼にしてみれば過去の要は過ぎた時間。己の過去に説教をしたところで彼自身が変わるわけではない。過去が変わらないのは……未来を変えられないのは、何よりも彼がよく知ることだ。
「まぁここまでやってきただけ充分な功績だ。その褒美と言うならさっきの質問に答えよう」
上から目線と言うか、芯を一本通した物言いに頷く。食って掛かったところで意味などない。
それに、驕ってもいいのならほんの一週間前まで異能力なんて存在を知らなかったところから食らい付いて来たのだ。その適応力と我武者羅さだけは誰に否定されるものでもない、要自身の功績だ。
「君達には、彼女の注意を逸らしてもらいたい。その間にこちらで最後の準備をしよう」
「そしてそれが過去における最後の歴史再現になる、と。全く、何処まで計算ずくなんですか……」
「計算で歴史が語れるか? 予言者が大儲けだな」
「予知の異能力が泣きますよ」
仕返しに告げば肩を揺らした未来の要。随分な余裕を見せている彼だが、彼自身が行う歴史再現だってまだ到達し得ない未来の出来事。要がこうして可能性を潰すように、未来の要だって不安要素はあるはずだ。
それを無くすために過去の要を利用しているのだろうが。
「口だけが上手くても覚悟がなければ何も成せはしないぞ。……さて、わたしはそろそろ時間だ。彼女のこと、頼むぞ」
それを信用と呼ぶには些か信頼の欠ける物言い。きっと相手が要自身でなければ神事はしなかっただろうと思いつつ席を立って。それからふと足を止めた未来の要がこちらに振り返り忘れ物を告げる。
「あぁそれと。何か困ったら未来を頼るといい。あの子は今日は非番だ。場所は……」
「そっちはわたしが」
「そうか。ではよろしく頼む」
話からしてこの時代に居る未来のことだろう。となると全てを解決して一年か二年経った彼女に会う事になるのだろうか。どんどんと歴史再現の全容を知る協力者が出てくる事に、要の存在意義などない事を知りながら息を吐いて。
加々美と二人未来の自分について廊下へと出る。と、どうやら多忙だったらしく既に先を歩く背中を見て無駄話が過ぎたかと一人ごちた。
「……んで、とりあえず許可を取り付けて、あの人を連れ出す。具体的な方法はこちら任せって事だ。何かいい案はあるか?」
「ことある毎にわたしに丸投げしようとするのやめてくださいっ。……どうせプランはあるんでしょう?」
「あぁ。まだこれが歴史再現だって言うなら、あの人にも一役演じてもらおうかと。時空間事件の体で話に巻き込む。何が必要だ?」
「任務の発行ですね。『Para Dogs』から個人指定で出してもらえばいいかと」
「なるほど、だから未来に頼れ、か」
当然の如く見透かされた彼の言葉に理不尽すら感じながら頭を掻いて、それから昇ってきたエレベーターに乗って下まで向かう。
その密室の中。先ほどの逆再生の如く眼下からビルの屋上が近づいてきて、相対的に己が地面へ落ちていく錯覚を味わいながら。
「それで未来の家は……ってそうか、寮じゃないのか」
要の中で生じていた違和感。楽や加々美の件で『Para Dogs』に所属する者は寮にいると言う先入観が出来上がっていたが、彼女は寮生活では無いのだろう。
そもそも要の孫。『Para Dogs』では貴重な時空間移動を可能とする異能力保持者。特別扱いをされて然るべきな彼女の事だ。あの年で個別の豪華な部屋を持っていてもおかしくは無い。
それにもし寮生活なら、未来の要が場所を教えるような事を言い出さないはずだ。
「いくら明日見先輩でもまだ成人していない女の子なんですから。期待は過保護になって、彼女を縛りもしますよ。家です。局長の家が近くにあって、そこで一緒に暮らしてます」
「……透目さんも子煩悩だな」
認めるのが嫌で責任の所在を押し付ければ、隣の加々美が横目にじっと見つめてくる。
…………あぁ、そうだろうよっ! 未来が言っていたように、彼女はお爺ちゃん子だ。要だってこんな経験をして、あれだけ苦労をする孫を持つのだ。孫可愛がりだってするだろうさっ。
けど今の俺はまだ十七の男子高校生だ。孫の実感もなければ幾らそう言われたところで未来の事を孫とは思えない。
けれどきっと半世紀もすれば確かに彼女は生まれてきて。その身に降りかかる様々な苦労に溺愛するのだろうさっ。
結果未来を近くに住まわせて、彼女の拠り所になって────己の未来の事でありながら想像するだけで恥ずかしい!
「よく明日見先輩に普通に接する事が出来ますね……?」
「考えないようにしてただけだってのっ。例え事実だとしてもそう簡単に認められるかっ」
吐き捨てるように叫べば、加々美が意地悪く笑う。そんなに俺をいじめて楽しいか。
大体未来が要の血縁だなんて今でも信じられない。何がどうなって彼女に行き着くのかが想像できないのだ。ただ未来と言う少女は確かに存在していて、認めるほか無い現実が要にたった一つの可能性を示す。
その想像が、今要がここにいる理由だと根拠も無く信じているのだ。もちろんそれが真実であったとしても歴史に甘んじるつもりは無いけれど。
「そういう加々美はどうなんだよ。別に未来と直接繋がりがあるわけじゃないだろ?」
「さて、どうでしょうか。要さんが知らないだけで何かあるかもしれませんよ?」
「……その言い方だと加々美も知らないみたいに聞こえるぞ?」
これ以上掘り下げられると面倒なので話題の矛先を反転させる。と、要の言葉に詰まった加々美。その反応に直感も馬鹿にならないと要らない自信が付く。
「…………わたしの事はどうでもいいですっ。それよりも要さんは明日見先輩からどうやって協力を取り付けるのか考えておいてくださいっ」
「別に考えるまでもないと思うけどな……」
この時代にいる未来は要が今経験している歴史再現を時空間事件として解決し終えた彼女だ。その結末を知っている身からすれば歴史再現だと割り切って普通に協力してくれるはずだが。それとも何か一筋縄ではいかない理由があるのだろうか。
考えているとエレベーターが一階について既に見慣れた気がするロビーに戻ってきた。
「で、何処にいるかは知ってるんだろ? 案内頼むぞ」
「はーい。……はぁ…………」
それは一体何に対しての溜息だろうか。例えそれが要に関係のない事であっても、できることなら目に見える形であからさまな態度を取らないで欲しいものだ。そんな事で怒るつもりはないが、その雰囲気に引っ張られるのも事実なのだから。
十二歳の少女にそれを押し付けるのは酷な話かと考えて、それから不意に脳裏へ過ぎった可能性を口にする。
「……あれ? 許可貰うなら結局ここに帰ってくるんだよな? だったら迎えに行くんじゃなくて来て貰った方が手間取らなくていいんじゃないか?」
「これからお願い事をする相手に足労願うとかどれだけ横柄なんですか?」
「いや、分かってたけどな……。もっと効率的に事が運ばないかと思って」
それは方便かもしれないと。口にしつつ気付いた己の内の葛藤に嘆息する。
これから向かう場所は未来が一緒に暮らす、透目の未来の家だ。要のことだからきっとその手配にもぬかりは無いのだろう。そんなところまで自分の未来を知るだなんてある意味拷問にも思える仕打ちだ。
なにせ歴史がひとつである以上、その未来に辿り着くことが決定付けられる。どんな家を持つとか、どんな暮らしをするとか……。要が考える理想と掛け離れているほどに夢も希望も打ち砕かれてしまうのだ。
歴史を変えられるならこれほどに絶望しなくても済んだのに。変えられない未来を勝手に認識してその結末を教えられる事は、例えそれが理想なのだとしても遊びが無くて退屈な事だ。
だからと言って歴史改変なんて面倒な事に巻き込まれたくないのも事実ではあるのだが……。本当にままならない。異能力なんて万能でもなければ何処までも現実的な絶望だと。
「どうあっても変わらないものはあるんです。だからこそ歴史再現足りえるんです」
それは真実だろう。だからこそ『Para Dogs』が意味を成し、歴史が歴史として認識される。
「それとも回り道の無い最適解が歴史だと思いますか」
「……もしそうなら、人類は既に破滅を迎えててもおかしくないな」
「そう言う事です。結局歴史なんて、誰の都合でもないんです。だからそこに自分が何を残すかを決められるんです」
加々美は疑っていないのだ。真実しかない。だから全てにおいて何もかもが正しくて、それらは許されて、裁かれることのない悪なのだと。
そうして諦めなければ、自分がしている事に意味を見出せなくなってしまうから。居場所を見失ってしまうから。
要だって今までそうしてきたはずだ。ならばどんなに真実を得ようと、変わらないものであればいいだけのこと。
「それにもし知りたくないものでしたら、目を閉じて、耳を塞いで、何も言わなければいいんです。そんな意味のない傍観者が好きならば、ですけれど」
「悪いけど俺は俺だからな。何を言われようと好きにさせてもらうぞ」
「誰だって最後にはそうすることしか出来ませんからね」
なんだかいいように加々美に乗せられた気がしないでもないけれど。自分の事は自分で責任を取るのが道理だ。ならば己がいつ何処で死ぬと分かったところで、それを回避するなんておかしな話かもしれない。
歴史改変の方が間違っているのかもしれない。
もちろんそれも、自己満足と言う名の綺麗事かも知れないが。
少なくとも要の事は要が背負うべきもの。己の未来のためだと言うのなら、その未来からの贈り物をいいように解釈して飲み込もうではないか。
「さて、それでは行きましょうか。無駄話をしている方が時間の無駄です」
「その分楽に会うまでの時間が延びるからな」
「置いて行きますよっ!」