未来へ
叩かれた扉の音に顔を上げる。その叩き方に、向こうにいるのが誰かを悟りながら答える。
「どうぞ」
「お疲れ様。疲れてない? 少し休憩したらどうかしら」
「今日はどうした」
入ってきたのは長い白髪を揺らした、ゆったりとした雰囲気の女性。歳を言うだけ野暮な事は既に分かりきったこと。
重ねた年月で変わった風貌と、いつまで経っても変わらない色の瞳と性格に、また今日も面倒事かと考えつつ応対する。
「私がいつも邪魔をしてるような反応はやめて頂戴。お客さんよ、約束していたんじゃないの?」
「ん、あぁ……。もうそんな時間か。悪い、気が付かなかった」
事務的な会話に出来るだけ感情を殺して平静に振舞う。
今日は色々とやるべき事が多いのだ。この身は大きな会社の社長とも言うべき柱で、時間が過ぎていく毎にその忙しさは増していく。老体に鞭打つとはこの事で、全く持って度し難い。……そろそろ本気で次を考えるべきか。
今日も今日とてやるべき事は沢山で、それに押し潰されている現状だ。お陰で本当にやりたい事に未だ手をつけられていない。
とは言えやるべき事は成している最中と言うべきか、それとも既に終わっていることと考えるべきか。
未来が過去を動かし、過去が未来を作る。そんな矛盾さえはらんだ辻褄の中で、刻々と時間が目の前の大事に迫っていく。
そうして本当にするべき事を果たすために、今はただ堆く積みあがった日常を機械のようにこなす。
大丈夫、すべては歴史がそうある通りに。
小さく呼吸と共に椅子から立ち上がり、部屋の隅にかけてあった上着をはおりながら尋ねる。
「……そう言えば今日は未来はどうだったかな」
「今日は非番じゃなかったかしら。あの子だって年頃の女の子よ。使命漬けと言うのも可哀相でしょう?」
「別にそういうつもりではなかったが、そうか……。なら家に居るのか」
「出掛けていなければね。代わりに今はあの子達が仕事に出ているわ」
どこか嬉しそうに紡ぐ女性。そう言えば彼女はあの子達にも随分御執心だったか。
「その後の様子は?」
「問題ないわ。特に彼女……加々美ちゃんが来てからは確かなものを持ったように思う」
「自分を見失わないのは良い事だ。特にこんな面倒事に関わっているなら尚更のこと。理想に溺れない強さは、何よりも信じる武器になる」
「厳しい事ね」
「そうかな。逆にそうでなければ勤まらないことだと思うがね。由緒だってそうだろう?」
由緒。振り返ってそう呼んだ名前に、彼女は呆れたように溜め息を零す。
その仕草も既に見飽きたほど。彼女がこちらの癖を知るように、彼女の癖も十分に知っている。だからそれがどんな気持ちから出た溜息なのか、考えなくとも分かってしまう。嫌な知識も増えたものだ。
「私には貴方がいるもの。それが何より大切な理由よ」
「…………それはありがたいことだ」
「……それだけ?」
「他に何か言って欲しい言葉でも? けど残念ながら仕事だ。そういうのはまた後にしてくれ」
「つれない人……。案内するわ、ついていらっしゃい、要」
踵を返した彼女に、相変わらず臍を曲げるのが得意なことだと今度はこちらが呆れながら隣に並ぶ。
「怒っているか?」
「えぇ、とっても」
確認のように問えば当たり前のように笑って答える由緒。その薄く浮かべた笑みに、もう少しだけ待っていて欲しいと心の内で願いながら。
「それは残念だ。実を言うと仕事が終わった後少し君のために予定を空けていたのだが」
「それは残念ね。きっとその時間は既に予定で埋まっているもの」
意味のない言葉と共に約束を交わせば、どちらからともなく小さく笑う。
もしかしたら彼女は気付いているかもしれない。だからこそ怒っているのかもしれない。
けれどそんなのは、全てたった一つしかない未来のための布石だ。例え分かっているのだとしても、彼女はそれを言葉にしないだろう。
知らないのならばそれでいい。知っているのならばその優しさに甘えながら、ただこれだけの約束のために全ての種明かしをしようじゃないか。
「どうでもいいけれど、来客の知らせなら内線でよかったはずだが?」
「時間を有効活用しただけよ」
浪費の間違いでは無いだろうか。
思いつつ、それから案内された部屋の前で由緒と別れてロックを外し応接室に入る。
そうしてそこにいる人物に、懐かしさ以上の嫌悪感さえ抱きながら挨拶を向けた。
「久しぶり、で構わないかい?」
「俺にしてみれば一日ぶりですけれどね」
返った声と瞳に、そこに置いてきた全てが戻ったように、胸の内に響いて溶けた気がした。




