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パラドックス・プレゼント  作者: 芝森 蛍
傍目八目の追憶策謀
54/70

第四章

 記憶を頼りにどうにか(らく)の部屋へと辿り着いて。男二人なんて色気のない事だと思いつつ玄関を開ける。

 ここは由緒(ゆお)が誘拐を……楽の視点で言えば歴史を再現するために保護をしていた場所。少なくともセキュリティーは問題ないだろう。

 考えながら靴を脱いだところで、廊下の奥からなにやら話し声が聞こえて思わず足を止める。

 一瞬部屋を間違えたか、とも思ったが。続けて楽の声も聞こえて少しだけ安堵。

 と言うことはもう一人の声は誰だろうかと。少しだけ警戒しつつ廊下を歩んで、扉を開けばそこには見慣れない少女が楽と一緒にいた。


「──大体先輩は……あっ」

「ん、おう。おかえり、(かなめ)

「あぁ……えっと、その子は?」


 気配にかこちらに気付いた女の子。年のころ十二、三歳の小さい背丈の子で、総やかなウェーブロングの白い髪に紫紺の瞳。まるで人形のように整った顔立ちの少女。

 どうやら楽に何か文句を言っていたらしい彼女は、こちらを見つめたまま首を傾げる。


加々美(かがみ)だ。稲生(いのう)加々美」

「……確か異能力をコピーできる」

「……はい。はじめまして、要さんっ」


 楽が語った過去話に出てきた少女。彼の後輩にして、彼を慕う稀な異能力を持つ女の子だ。

 納得と共に胸を撫で下ろせば、静かに頭を下げて挨拶をする加々美。


「あれ、名前……」

「わたしもこの歴史再現を任された一人です。だから要さんの事も知ってます」

「ほら、ここにきたときプリンとか色々あっただろ? あれの準備も含めてここには一度立ち寄ったんだよ。それに彼女の力を借りたんだ」

「あぁ、そっか」


 抜け落ちていた景色の辻褄合わせに納得する。

 この部屋は楽の持ち物ではあるが、この時代の彼は寮生活でこの部屋にはやって来ていない。冷蔵庫などの家電は彼の父親がこの部屋を借りた際に買い与えたのかもしれないが、その中に食べ物まで入っているのはおかしな話だ。

 そのプリンやら、彼の昔話に出てきたナノマシンやらは、彼が予めそうなる事を知っていたからこそ準備していたものなのだ。


「とは言っても知ってるのは要を中心としたことだけで、俺個人の事はあの小説には書かれてなかったんだけどな」

「小説って……あぁ、歴史再現のための。未来の俺が楽に送りつけたあれか」

「あれの主人公はお前だからな。要の視点で紡がれる事は分かっても、俺の視点、俺の未来に起こる事までは分からない。だから一つ失敗もした……」

「失敗?」

「そうですっ。先輩、贈り物をなくしたってどういうことですかっ」


 どうやら怒っているらしい加々美が楽に向き直って告げる。贈り物とは何だろうか。

 そんな疑問に視線に楽が気付いて何かに弁明するように答える。


「……ほら、この歴史再現の目的だ。要の目的であると共に、俺も恩返しをしたくて協力をした。だから俺なりに彼女への贈り物を考えてたんだよ。それをこの時代に準備しておいたんだけどな……見通しが甘かった」

「火災が、あったじゃないですか。あれで燃えた建物が宝石店だったんです。そこにイヤリングを注文してたんですけど」

「燃えて、取りに行けなくなったと」


 あの騒動はどうやら、要にも、そして楽にとっても考慮の外の出来事だったらしい。だから楽も仕返しのような何かがしたくて、彼の逮捕に力を貸してくれたのだろう。


「一応確認はしに行ったんですけれど、やっぱり無理だったので」

「でもそれで俺が責められるのは何か違わないか……?」

「そもそもこの時代で準備しなければよかったじゃないですかっ」


 その所為で加々美に怒られているらしい。仕方ないだろうと助けを求めるような視線と共に肩を竦める楽。

 確かに、知らなかったから起きた問題だ。加々美の怒りは的を外れているかもしれない。けれど彼女にも責任と言うか、思い入れがあったのだろう。だからこうして怒って、それからどうするべきかと一緒になって悩んでいる。女の子だからと言うのもあるかもしれない。


「……結果論少し助かった部分もあったんだけどな」

「助かった部分?」

「由緒さん、宝石とかあまり身に着けないらしい」

「そんな事も調べずに贈り物をしようとしてたんですかっ?」


 楽の言葉に呆れた様子で溜め息を吐く加々美。彼女にしか分からないものもあるのだろうが、なんだか要まで同じ男として怒られている気分になってくる。

 と、そんな事を考えているとこちらに向いた加々美の視線。


「……因みに、要さんはどうするんですか?」

「え…………?」

「贈り物です。そもそもこれは由緒さんへの歴史再現なんですからっ」

「あー……そっか」


 失念していたというか、悩んだところで答えの見つからない問題だ。

 話の中心は確かに要だが、それは未来の自分であって、今この部屋にいる要が企てた歴史再現ではない。つまり俺が何をしたところで結局は未来の要の為に過ぎない。それは未来の要が未来の由緒に送る『パラドックス・プレゼント』だ。

 が、しかし、確かに由緒のことと言うのならばいつの要であっても関係があるのは確かだろう。だったら彼女の言う通りに何か用意するべきか。


「まぁわたしが口出しするべきではないんですけれど……」

「…………と言うか、楽の話だと稲生さんは人見知りって聞いてたけど」

「加々美でいいですよ。確かに人見知りではありますけれど、あの本の内容はわたしも読みましたから。それでどうにかお話は出来ます」


 にしては先ほどは随分と果断な物言いで要の事に言葉をぶつけてくれた気がするが……。まぁまだ十二、三歳だ。別にいいとしよう。


「加々美も極端だからなぁ……。ま、いいや。とりあえずはここで一旦休憩だ。この後の詳しい事は明日になってからだな。要もそれでいいだろ?」

「ん、あぁ。一応明日の朝に未来(みく)との約束があるから早く休憩もしたいな」

「彼女の為の歴史再現だって分かったのに他の女と約束とは要の神経も図太いな」

「うるせぇ。俺がそうする事も本を読んで知ってんだろうが」


 相変わらずの悪態を吐いて、それからソファーに腰を下ろす。と、加々美が冷蔵庫から水を取り出して渡してくれた。


「もう少ししたらお風呂の準備が出来ますから、要さんが先に入ってください」

「……うん、ありがとう」


 先ほどはなんだか責められていた気もするが、根底では楽と違い彼女は心根の優しい少女なのだろう。彼女の好意を無碍にするのも悪い気がして笑顔で受け取る。

 そんな風にしばらく体を休めながら食事を取り、それから風呂へと入り楽が用意していてくれたらしい服に着替えて就寝。

 これと言って娯楽も無ければ楽相手に話す事も特にない。加々美とも会話は必要最低限で遊びは無い。

 その分だけ色々考える事もあった。

 加々美に言われた贈り物のこと。それからこの歴史再現の根幹となった由緒のこと。

 恐らくだが、この歴史再現……それこそ『パラドックス・プレゼント』と言うべき騒動の中心には、要と由緒の間に交わされた約束が存在する。

 彼女と交わしたそれらは沢山で、どれが答えなのかは分からない。けれど幾つかに絞る事はできるから、その中のどれかだろう。

 一つは誕生日。プレゼントの意味に引っ張られるならこれが最も近いはずだ。もう一つは彼女の告白に対する答え。この騒動の中で見つけた答えだ。

 物語として客観的に考えるならば後者の方がよりドラマチックだろう。しかしならば、『パラドックス・プレゼント』なんて名前を付けるだろうか?

 そもそもだ。その約束が果たされるのは随分未来。要のいた時代で交わされた約束を、要達が年を食ってから履行するのだ。それを考えれば根幹にあるのは前者だろう。

 しかし、そうなれば一つだけ問題が起きる。

 未来で約束を果たすためには、過去で約束を果たしてはいけなくなる。つまりこれらの騒動が片付いた後、由緒の誕生日を祝う事が出来なくなるかもしれないのだ。

 一応幼馴染として毎年半強制的に祝わされてきた。その分だけ要の誕生日も祝い返してくれる彼女に本気で文句を言ったことは無いけれど。だからこそ毎年している事をしないとなると彼女の機嫌を損ねる事になるだろうと。

 特に今回に限ればこんな騒動があった所為で誕生日プレゼントも買えていない。まだ一週間あったから。そう高を括っていたつけと言えばそれまでだ。もちろんこんな事が起きるなんて想像だにしていなかったけれども。

 因みにだが……要の記憶が正しければ、未来や由緒の元を離れてこの時代に来たその日。あの過去の時間は由緒の誕生日当日だ。つまりこの歴史再現が終わった時点で、下手をすると彼女の誕生日を終えてしまっている可能性もある。

 もしそうなれば、せめて気持ちだけでもと彼女の気持ちに答えることすら、当日の誕生日プレゼントとして成り立たない可能性もあるのだ。

 失念していたといえばそれまで。そしてこの歴史再現のために、過去の誕生日をどうするのかもきっと重要なこと。

 楽は一区切りと言っていたけれど、俺にしてみればこれからの方がとても重要な気がするのだ。

 もちろん、形だけ祝うことは欠かさないつもりではあるけれど……いや、だからこそ半世紀ほどを経て『パラドックス・プレゼント』なんて仰々しい肩書きが付くのだろうかと。一個人の誕生日をそんなに盛大な話にされても困る……。

 ……とりあえず、ある程度怒られる覚悟だけはしておこう。

 全く、今更にこんな事に気付くくらいなら、最初から忘れたままで居たかった。知らぬが仏とはよく言ったものだ。こんな時になってまで要を悩ませてくれる幼馴染に小さく息を吐きながら。

 まずは目の前。後の事は歴史に任せて知らないままに歴史を再現してやろう。

 そんな風に諦めがついたのは、寝るために寝転がってから三十分ほど経ってからだった。

 どうでもいい情報として、要はソファーで、楽は椅子で、加々美はベッドで寝ている。加々美がベッドなのは、まぁ分かる。女の子だ。譲るのは納得が出来るというもの。

 問題は楽だ。彼の座っている椅子と言うのは、どうやら座って少しすると体勢に合わせてある程度変形するように作られているらしい。下部には毛布を入れるスペースもあるらしく、上に掛ければ簡易的な寝床になるのだ。

 要は、何も知らないままに巻き込まれた被害者で、言うなれば彼らにもてなされるべき側の人間では無いだろうか?

 自ら進んで首を突っ込んだのは確かだ。そこに居場所を求めて人としての理性の箍を外したのも認めよう。けれど今になって考えれば、要は彼らの歴史再現に利用された主賓とも言うべき存在だ。

 なのに楽よりも無理な体勢を強いられるソファーでの睡眠と言うのは一体どういう了見だろうかと。

 待遇の改善などと言う不遜な事を言うつもりはないが、どうやら彼の中には尊敬と言う概念はないらしい。どうせそんな事を言ったところで、対等こそがと言い出すのだろう。だからと言って楽と同じベッドで寝るなんてそれこそ嫌な話ではあるのだが。

 そんな事をつらつらと考えつつこれまでの事を整理しながら眠りの淵へといつの間にか落ちて。

 翌日微睡(まどろみ)から浮上すれば加々美が用意してくれたらしい手作りの朝食を三人で食べた。

 彼女の年である程度の自炊が出来ると言う事は、『Para Dogs(パラドッグス)』の寮はそういう自主性に主観を置いた場所なのだろう。未来も料理は出来ていたし、恐らく間違いは無いはずだ。それにしては楽が既製品ばかりなのは料理が出来ないのか、それとも効率的と(うそぶ)いた面倒からか。

 朝食を食べ終え準備を終えると、未来との約束を果たしに『Para Dogs』へと向かう。

 着いてしばらくすれば、建物から出てきた紅の髪を揺らした未来の姿を捉えた。

 要のいた時代なら目立つ髪色は、けれどこの時代ならば浮くことも無く景色に溶け込んで。その上で彼女の人形のような顔立ちはこうして改めて見ても慣れる気がしない。

 そんな彼女が少しだけ辺りを見渡して、それから要の姿を見つけると駆け寄ってきた。


「おはようっ、待たせた、かな?」

「いいや。今来たところだ」

「……何、デートのつもり?」

「そうして欲しいならそうするけど?」

「じゃ、行こっか」


 答えも曖昧に肩を並べて歩き出す。確かに客観的に見ればそう見えるのかもしれない。その場合要の容姿が未来に不釣合いで多生気恥ずかしくはあるのだが。


「と言うかお兄ちゃんにはそういう気障(きざ)なの似合わないと思うよ?」

「だったら言わない方が優しいと思わないか?」

「それで、何処に連れて行ってくれるの?」


 まともに会話をしてくれる気が有るのだろうかと。少しだけ気になって隣を見れば、俯いたまま一点を見つめる未来の横顔に彼女の内心を悟る。


「……もしかして緊張してる?」

「言わぬが花って知ってるかな? ……緊張って言うかね、少し変な気分なだけだよ」

「…………俺が要だからか?」

「……うん」


 曖昧な部分は彼女の肯定によって色がつく。

 これまで色々不思議に思っていたのだ。要のもといた時代でも、そしてこの時間でも。未来の振る舞いは自然すぎる中に、どこか遠慮が含まれている。その違和感は、まるで知っているものを更に理解しようとしているような距離の置き方。どこかで一線を引いた客観視。

 だから要が今より過去の時代からやってきた存在だとも気付いたのだろう。その要因とも言うべき、未来の中の葛藤。

 それは要が、この時代の『Para Dogs』の局長である遠野(とおの)要と同一人物らしいから。そして恐らく、彼女が尊敬し居場所となっている大事な人だから。

 ……なんだか不思議な気分だ。未来の自分と、未来の由緒と、過去の未来がいて。その三人が不思議な縁で繋がっている。捩れているように思えて、けれど確かな一直線が描かれている事に……それこそ緊張する。

 だから未来のその違和感も分かるつもりだ。


「と言うかそれに気付いたんだ」

「色々巡り会わせがあってな。偶然といえば偶然。終わったことといえば必然。一体どっちが正しいと思う?」

「分かってるのはただ、歴史は一つ以外に許されないってことだけだよ」


 その言葉には全面的に同意をしよう。何処まで捩れても歴史は一つ。この騒動に並行世界の自分が居ない以上、きっとその言葉は何よりも正しい筈だから。そうでないと、歴史再現なんて目的も意味がなくなってしまうから。


「だからきっと、お兄ちゃんがそれを知る事は正しいこと。知ったところでどうにも出来ないのも当たり前の事」

「こんな面倒な出来事がある事を知ったからな……。少なくともそれに抗ってまで何かを成そうとは思わないさ」

「それはいいねっ。あたしがお兄ちゃんを怒らなくて済みそうだよ!」


 既に随分と振り回して彼女を怒らせて、そして泣かせてしまった気もするけれど。それを言うほど要だって野暮ではない。

 何より、要の過去で起きたこと……それは未来のこれからに起こる事であり、それを告げるわけにはいかないから。ただその未来が最良の歴史へと繋がっている事を祈りながら。


「誰だって怒られるより楽しくいたいからな。と言うわけで、今この時だけは何の(しがらみ)も関係無く楽しんでくれると助かる」

「何それ、口説いてるの?」

「もしそうならこんなに饒舌じゃないと思うけどな」

「緊張してるのは一体どっちだろうねっ」


 未来の言葉に、それから二人して肩を揺らす。

 さて、これだけ要の内側を見せれば、未来もこの後向かう過去で問題なく振舞えるだろうと。どこかで演じていた遠野要の仮面を脱ぎ捨てて、要も自分らしく楽しむ事に専念する。

 彼女への贈り物は当然髪飾りだ。歴史を再現するため、要のよく知る桃色の珠が二つ着いたそれ。ここにも色々な辻褄がある事を昨日の夜要は知った。

 未来があの髪飾りを大事にしていたのは、それが要から送られたものだから。要が、彼女にとって大切な人物だから。

 これだけ色々な場所に伏線らしき物が張ってあったのだ。余程の間抜けでなければ気付くだろう。

 彼女には拠り所となる人物がいた。それは彼女のお爺さんだ。彼はこの時代にも生きている。少なくとも、未来の記憶には存在している。

 そして未来は、要がこの時代に来て目の前で名乗った時、疑うようなそれと驚いたような反応を見せた。知っていたのだ、彼女は遠野要という人物を。

 もちろんそれはその時向かおうとしていた過去の時空間事件に関わる人物としてというのもあるだろう。けれどそれ以上に要個人事を知っていたのだ。

 だからあまり言葉もないままに信用してくれた。幾ら方便を並べ立てたところで、普通なら『Para Dogs』の目の前で透目(とうもく)に組み敷かれた時、拘束されるのが当たり前だ。それを飲み込んで要の事を認めてくれた。それは同姓同名の俺を知っていたからだ。

 それから考え事をする時の癖。出会ってそれほど経っていないにも関わらず、彼女は要ですら知らなかった事を言い当てたのだ。観察眼だと思っていたが、それだって彼女が知っていることの証。

 さらにもう一つ。これは楽の過去に出てきた話。彼が語った中で、未来は努力と夢と、そしてコネがあって『Para Dogs』に入った。そのコネ……楽が由緒の目に留まって抜擢されたように、義務教育中だった未来を『Para Dogs』として正式採用するだけの強権。恐らく家族からの推挙のようなそれ。

 最後に付け加えるなら、要はその人物に既に会っている。これをまだ推理だと言うのなら、何処までも相応しくその人は目の前にいたのだ。なにせ好みが一緒なんてヒントまで出してくれた。

 ここまで前提が揃えばもう分かるだろう。

 未来の家族で、要が会った事があって、権力を持っている。そんなのはもう一人しかいない。

 『Para Dogs』日本局局長、遠野要。彼が未来のお爺さんだ。

 そんな彼から贈られたものだったからあのリボンも、そしてこれから送られる髪飾りも彼女は大事にしてくれる。なにせ同一人物なのだ。彼女が信じないわけ無いだろう。

 それに、要のことだからこそ、あの過去で未来は一所懸命に事件に食らいついて解決をしようとしていたのだ。自分を見出してくれたお爺さんに、その過去を救う事で恩返しがしたいと。それこそ彼女なりの『パラドックス・プレゼント』。

 茶番だと言えばそれまでだ。推理ものではなく最早ギャグだろう。

 要と、未来と、透目。それから結深(ゆみ)に家族としての繋がりがあって。由緒が見出した楽が後輩の加々美と連れ立って過去と未来の入り混じる歴史再現をこなす。最初から全て仕組まれて決まっていた事だと言えば、全く持って爽快だ。

 そこに要の意思なんて殆どない。本当に、ただ歴史に振り回されただけの再現だ。酷い演劇だ。

 しかしまぁ、だからこそ安心できる部分も沢山ある。

 なにせ時空間事件だと思っていたこの騒動に、本当の悪人などいないのだ。

 それぞれが歴史再現をしようと画策して、そこに僅かな悪意染みた何かを混ぜる事で面倒事の皮を被っていただけのこと。言わば正義と正義のぶつかり合いで、その歪みだ。

 だからこそ、目指すべき未来はたった一つで、誰もが手をとれるはずだとどこかで気付いていた。それがようやく実を結んだだけのこと。

 結局のところ、非日常に憧れていた要は、その中にある平穏を求めていたに過ぎないのだと。そうして何もない日常こそが素晴らしい事に退屈だっただけのこと。

 その子供の夢のような理想を、未来の自分が叶えてくれたのだ。それもまた『パラドックス・プレゼント』。

 ならば一体、どの贈り物が本当に『パラドックス・プレゼント』足りえるのだろうと……。

 そんな風に脱線していく思考がきっと本来の目的を見つけ始めたところで目的地へと辿り着いた。

 そこはこの時代へ来て当て所もなく彷徨っていた時に見つけた小物を売っている店。彼女に贈る髪飾りが売っている筈の小さな店舗だ。

 因みにお金はある。放火騒動の時の報酬で受け取ったそれが十分すぎるほどだ。後辻褄合わせにもならないことと言えば、前に未来が語っていたこと。時代に依存した物は時空間移動についていけない。それは逆に、その時代の中であれば基本咎められることはないと言うことだ。

 だから未来への贈り物だって歴史再現の一つとして認識されるし、この時代で貰ったお金はあるべき場所へ返るようになっている。それがこの小物屋というわけだ。もし余ったら、まぁ後で未来にでも返しておくとしよう。

 考えつつ小物屋に入って店内を散策する。別に買うものなんて彼女に贈る髪飾り以外にないけれど。幼馴染たる由緒と一緒に過ごした時間が長かったからか。いわゆるウィンドウショッピングに関しては彼女に振り回されたお陰で意外と好きになってしまった。

 買わないだけ店にとっては気分のいい客では無いのはわかっているけれども。色々なものを見てただ少しだけ感性を豊かにするかもしれない、記憶にも残らない無為な時間。そう知っていても、そうしている間だけは何かに集中していられて、自分という存在を考えないでいられたから。

 まぁそんな事よりも何よりも、隣を歩く由緒が衝動買いばかりするから反面お金の大切さに気付いただけの事。なにせ由緒と来たら直ぐに要に集りやがる。それに最初に答えたのが、きっと要の不運の始まりだったのだろうと思いながら。


「未来はこういうところはよく来るのか?」

「んー、あんまりかな。基本『Para Dogs』で何かしてるし、環境の所為か友達らしい友達はあまりいないし……。同年代が殆どいないからね」

「年頃の女の子としてどうなのさ」

「何も知らない癖してこんなところまでやってきたお兄ちゃんに言われたくないよ」


 全く持って主体性のない事だと。交わした視線でどちらからともなく小さく肩を揺らす。


「それにさ、あたしは人間してていいとは思わないから」

「……異能力者だから?」

「まぁ、そうだね」


 これまでも幾つもの時空間事件に関わってきた未来。そんな中で過去に語ってくれた絶望や救われない景色を幾度も見てきた中で、彼女の心もどこか歪んでしまったのかもしれない。

 その理由を、異能力者だからと、時空間の外に生きているからだと丸投げして、自分を捨てたのかもしれない。

 そんな風に彼女の事を無粋に考える分だけ侮辱している気もするけれど。自惚れてもいいのならそんな事を話してくれる彼女の、せめてもの捌け口になれたらと思いながら。


「俺も、人間になりたい何かかもな」

「こんな事に関わっておいて、今更無理な話じゃないかな?」

「だったら人ならざる者同士、何か結ぶ縁があってもいいんじゃないか?」

「兎との縁……だったらお兄ちゃんは狸かな?」

「どうしてそんなところを選んだんだよ……。せめて亀にしてくれ」


 かちかち山なんて。そう言えばあの話は色々物議を醸すものだったか。日本の民話の中でも随分と残虐な原典だった気がするが、今ではその残虐な部分を改変している場合が多いのだとか。個人的には目には目をの精神を地で行く少し残忍な物語の方が道徳らしくて好きなのだが。


「人を演じようとするお兄ちゃんにはぴったりだよ」

「……だったら兎として、象徴的な耳がないとな。ってことでこれどうだ?」


 他愛ない雑談をしながら探していた目的の物。丁度見つけたそれを一つとって未来に見せる。指先で揺れる桃色の珠。光を跳ね返す樹脂なのかプラスチックなのか、はたまた硝子なのか判別のつかない飾りを品定めのように見つめる未来。


「ピンクなんて、似合わないよ……?」

「そうか? 子供っぽくていいんじゃないか?」

「うっわ、そういうこと言うんだ……」


 兎結びが子供っぽいと言ったのは未来自身ではないかと。視線で訴えれば、それから彼女は小さく息を吐いて笑みを浮かべる。


「別に、構わないよ。お兄ちゃんが好意で選んでくれたものなら、きっとそれに間違いは無いだろうからね」

「随分な信頼だな」

「言葉にする方が男の子は嬉しいでしょ?」

「それを言わなければもっとよかったな」


 まるで恋に恋するように。互いがそうならないと分かっているから、じゃれ合うが如く意味のない上っ面の言葉を紡ぐ。


「大体、あたしに断る権利は無いからね」

「そっか。だったらこれにしよう。他に何か気になる物は?」

「意外と物欲ってないんだよねぇ」


 あっさりと決まった買い物から、再びどうでもいい会話と共に目の前に溺れていく。

 ヤマアラシのジレンマ……元の文章を直訳すれば確かハリネズミのジレンマだったか。あんな話ではないけれど。近づきたくても近づけない。けれどそこにいる事を確かめるように、ただ痛いだけの針で刺して刺されてを繰り返し、互いに意味を見出して傷ついていく。そうしていつか、互いが安心していられる距離を探し出して居場所を手に入れるのだ。

 未来との距離感なんて最初から分かっているから、今もそこにいる事を確かめるためにその針で刺して、刺されて……。

 どうでもいいけれど。実際のヤマアラシは針のない部分を寄せ合ってくっついたりするそうだ。


「と言うかそんなに迷惑を掛けられた覚えもないんだけど……」

「…………色々含めての償いだからな」


 それは彼女の未来に起こる出来事。沢山振り回したせめてもの礼だ。

 確かに未来は物欲が無いのかもしれない。けれどそれは居場所がないことの裏返しだろう。

 沢山の時代を渡り歩き、本来いるべき時間にあまりいられない。だからこの場所を自分の居場所だと思えなくて、自分の色を残す事に躊躇いがあるのだ。

 そう分かってしまうのは、きっと要も同じだから。

 他人に合わせて自分を変えて、主体性なく物事をすり抜ける。自分というものが曖昧で、決まった居場所が見つからない。だから自分自身の認識が甘くて、周りにその色が定着し辛いのだ。結果自分の部屋でさえ、どこか無味乾燥なものでしか彩られていない。

 そしてそれはきっと、他人への期待の結果なのだ。

 自分がないからこそ、他人に意味を見出す。その人がどこかへ連れて行ってくれる事を心の底で願っている。

 要にとっては由緒。未来に取ってはお爺さん、だろうか。だから本当のところで相手の気持ちを否定したりはしないし、その者に存在意義を見出している。

 依存と言えば聞こえがいいだろうか。

 そんな風に同じだから、未来の事も気になるし、理解が出来る。同病相憐れむという奴だ。


「それにほら、俺の頼みだって言えば未来は断れないだろ?」

「…………図々しい卑怯だねっ」

「未来の希望に失敗して欲しくないだけの独りよがりだからな」


 どこかで引いてきた一線。この時空間事件、歴史再現は、未来が望んで引き起こしたものではない。彼女はただ歴史を守るために振り回されているだけだ。それこそ、こうしてこの出来事に絡んでいることさえも、未来の要の思惑かもしれない。

 だとすれば、何よりの被害者は未来だ。犯人は要で、方法論が楽で、動機が由緒。推理小説らしく、フーダニット、ハウダニット、ホワイダニットを明確に語ればそういうことだ。

 そこに未来が関わる事で、時空間事件の体裁を保っているに過ぎない。言ってしまえば、これは未来の要の(はかりごと)で、彼の極個人的な自己満足なのだ。

 だから巻き込まれているのは要ではなく、未来の方。

 そんな彼女に責任を背負わせられない。彼女が掲げる大義名分と、黒幕が欲する償いは別物だから。

 最後の一線で未来は関係なく、ただ少し歴史再現に手を貸しただけのエキストラとして役を全うする。極論、未来は要が起こす歴史再現の全貌を知らなくていいのだ。

 だから他人事に、未来にとって関係のない出来事として処理をして、彼女の失敗など何処にもなかったのだと、それは要の思慮と采配ミスなのだと責任を被るのだ。そうして未来は、何者でもなく未来として再び彼女の日常に戻っていくのだ。

 それを強調するように、今目の前の彼女にこうして贈り物をする。ただ現実的に、こここそが彼女にとっての居場所であると刻み付けるために。


「……お兄ちゃんが何を言っても聞かないくらい頑固なのはあたしがよく知ってるからね。もういいよっ。それじゃあその髪留めも買って? ね、お兄ちゃんっ」

「それこそ卑怯だとは思わないか?」

「妹だからねっ」


 分かっていても可愛らしい頼み事に恐ろしささえ感じつつ答えて。彼女が指定した青色のピンを一緒に購入する。

 異性への贈り物としては随分と安上がりで子供っぽいものだが。だからこそ純粋で単純な思いが沢山詰まっているのだと嘯けば少しは格好がつくだろうかと。

 そんな風に小物店での時を過ごして、別段飾る必要も感じず帰り道に未来へと渡す。


「……なんだか不思議な感じ。でもありがとう。着けてもいい?」

「別に恋人でもなんでもないんだし、俺が何かを言える立場じゃないからな」

「なんだか随分とそういう事に拘るね? 何、一人身が寂しいの?」

「…………まぁ男としてはそんなものじゃないか?」


 由緒への気持ちを胸に渦巻かせて、けれどそれを言葉にするのは少しだけ躊躇う。

 どうせここで言ったところで何も変わらないのだろうけれども。これから過去の要に会いに行くと言う彼女にそこまで義理を通す必要も感じない。

 それにどうせ口の軽い由緒の事だ。要の居ないどこかで未来にその事を話すのだろう。考えるだけで要が恥ずかしくなる。

 と、考えていると一歩前に躍り出た未来がその場でくるりと半回転してこちらに笑顔を向ける。


「どう? 似合うかな?」

「あぁ、俺からしてみれば懐かしくさえ思うくらいだ」

「……そう言えば最初にそんな事を言ってたね。そっかそっか、この姿でこれからお兄ちゃんのところに行くから、第一印象に刷り込まれちゃったのか。インプリンティングだね」

「俺は鳥の雛かよ…………」


 いわゆる刷り込み。雛鳥が一番最初に目にした相手を親だと思い込む学習現象だ。

 まぁ人間が感じる第一印象も似たようなものだろう。それが例えば、想像の外にある赤髪で、橙の双眸をした人形のような美少女であれば、余計に強く印象付けられるというもの。今でさえ、最初に出会った未来の姿を服装から間違いなく思い返して、目の前の彼女と同じだと重ねる事が出来る。それくらいには彼女の第一印象は強烈だったのだ。


「まったく……。とは言えそれをお兄ちゃんは言えないから、きっとこんな場所にいるんだろうね」

「歴史なんて……未来なんて知ったところで、結局どうにもならないって事だ。だからこそ、憧れるんだろ? 空想の世界で、歴史を変えてよりよい未来を掴む……たったそれだけの自己満足な理想を」

「なに全てを分かったようなこと言ってんの?」

「分からないから分かった風な口を利いてるだけだ。それに、分からないからこそ、面白いってものだろう?」


 未来の言葉に答えて不敵に微笑めば、呆れたような溜め息を吐く彼女。仕草に見慣れた兎結びが揺れて、確かに何かが繋がった実感を覚える。


「……よく似合ってる」

「そう? ありがと……要さんっ」


 そうして浮かべた柔らかい微笑に。不意に呼ばれた名前に。男の性が情けなく胸を跳ねさせて小さく笑う。もしこの迷いが由緒にばれたのなら、きっとどこまでも真剣に浮気だと冗談を言ってくれるのだろうと。

 そんな彼女の為の歴史再現だ。だからこそ、この胸の気持ちに偽りは無い。すべてが本物で、何よりも大切な感情だ。


「っとと、時間だね」


 響いた鈴の音のアラーム。端末を取り出して通知を切った未来は、それからこちらを見つめて告げる。


「……これ、ありがとう。楽しかったよ」

「見送りが出来なくて残念だ」

「だから似合わないって。……お兄ちゃんも、するべき事があるんだよね?」

「あぁ。やり残した事が……やり残すべき事が幾つかな」

「それじゃあお別れ。今度会う時はあたしの再会で、お兄ちゃんの邂逅。ちぐはぐで、その通りな、たった一つの歴史の通りに」


 それはまるで約束のように。落とした音に確かな気持ちを乗せて互いの胸に落とす。

 交わした手のひらの感触は名残惜しいくらいにあっさりと離れて。そうして踵を返し去っていく未来の背中に、募った感情を投げかける。


「未来っ」

「ぅん?」

「過去のために未来を変えて」

「……っ! うんっ!!」


 きっとそれが、何よりも真実な答えだから。




 未来と別れて。予め渡されていた通信機を介して楽と合流する。指定されたのはINRToST……確か未来が国際時空間基準塔と言っていたガラス張りの建物だ。

 先ほど未来が向かったのが『Para Dogs』で、それに程近い場所にあるこの建物。ともすれば先ほど別れたばかりの彼女に再び遭遇する可能性もあるのだが、彼はそれを分かってここを指定したのだろうかと。

 ほぼ真下から建物を見上げて、降り注ぐ日差しに熱さを鬱陶しく感じれば背後に気配。振り返ってそこにいたのは間違えようもない楽と、それから加々美の姿。


「デートはどうだったよ?」

「別に。するべき事をしてきたまでだ」

「おいおい要ぇ、昼真っからそんな発言とは随分熱にやられてんなぁ」

「そういう意味じゃねぇよ馬鹿……」

「つれないねぇ」

「先輩、下品です」


 合流早々の集中砲火に、けれど楽は飄々とした様子で笑って建物の影へと歩いて行く。影へ入れば日差しの暑さを避け、僅かな風が頬を撫でる。平屋ばかりで遮る物が少ない場所に住んでいるからこそ、影がどれ程涼しいのかを知っている。

 そんな深く染まった建物の影で呼吸を整えて。ここに来るまでに買った飲み物を煽れば楽が当たり前のように告げる。


「ここでするべき事が一つある。未来の確定だ」

「誰の?」

「俺たちが認識する事で観測者が生まれ、歴史が収束する。シュレーディンガーの猫だな」


 起こる事全てを小説によって知っているらしい楽の言い分だ。間違いは無いのだろう。

 唯一つ、彼の言葉には間違いと言うか、誤解がある。


「……シュレーディンガーの猫ってそういう意味じゃないからな?」

「重なってる事象が観測した瞬間に確定する……。先輩は間違えてそう記憶してるって事です」

「あれってそういう話じゃねぇの?」


 要の言葉に続いたのは加々美の声。どうやら彼女も正しい答えを知っているらしい。さすが十二歳で『Para Dogs』に正式採用された少女だ。

 ……どうでもいいけれど、未来が十四の時に『Para Dogs』に入って、加々美が今十二歳。彼女が正式採用されているかどうかは知らないが、少なくとも楽の部下として優秀なのだろう。もしかすると、その内最年少記録を塗り替える逸材なのかもしれないと。


「シュレーディンガーの猫ってのは、正しくは量子力学解釈に対する思考実験の屁理屈や矛盾を指摘した誤謬(ごびゅう)だ。観測による事象の確定ってのは量子力学に対するコペンハーゲン解釈の事だ」

「確か過程に不確定な事があるから、それを論として認められないって言う反論でしたっけ?」

「それこそパラドックスを指摘した思考実験だ」


 可能性は複数あり、観測した瞬間に結果が確定する。よくある誤解だ。シュレーディンガーの猫とはその事を示した論、ではない。

 量子力学と言う、一般相対性理論とか物理学の根幹を成す理論がある。シュレーディンガーが思いつき、考えていくうちにシュレーディンガー自身によって否定されることとなった、一つの学問とでも言うべき面倒な考え方だ。

 楽の語った観測と確定の話は、その量子力学を理解するための解釈の一つだ。

 多くを語れば面倒だが、掻い摘んで話せば理解ならば出来るか。


「そもそも量子力学に対する反論みたいなものだからな。楽は量子力学については?」

「……講釈を垂れてくれようってか?」

「あぁ、知ればその分少しだけ賢くなれるぞ?」

「…………全然知らねぇ」

「あれは対象の状態の重ね合わせと観測による結果の収束が一つの答えだ。猫箱理論で言う、さっきの楽の勘違いがそれだな」


 観測と言うのならその時間までここで待つ事になるだろうから暇なのだ。楽に許されたのだから少しばかりこちらの訂正に付き合ってもらうとしよう。

 考えつつ、その場へ腰を下ろして続ける。


「箱の中に猫を一匹と、一時間の経過で50%の確率で猫を殺す装置を入れて蓋をする。一時間後、蓋を開ける前のこの箱の中には生きている猫が50%の確率で、死んでいる猫が50%の確率で存在することになる。それを蓋を開けて、確率が収束する。この蓋を開ける前の状態……可能性が重なり合っている状態をどちらもありえると解釈したのが量子力学だ」

「……なるほど可能性が並行に存在しているって事だな。んで、観測と同時に確定すると」

「あぁ。けどここでおかしな事が生まれる。理論として、確率としては正しいかもしれない。けど現実に考えて、箱の中に猫は一匹しかいない。ならば蓋を開ける前から答えは決まってるのが普通だろ?」

「そうだな」

「だったらここに一つ矛盾を作り出す。答えは一つで、それを知る事によって過程が決まる理論は、けれど現実的に考えればありえないことだと否定される。箱の中で猫が二匹に分裂したりはしない。一匹の猫が死んでいる状態と生きている状態を併せ持つこともありえない。この猫は、生きてもいないし死んでもいない……。つまり観測者のいない箱の中身が不確定であるそれを現実的な観点から論として認めることは出来ない。これがシュレーディンガーの猫と俗に言われる思考実験だ」


 だからつまり、楽が使ったシュレーディンガーの猫と言う言葉の意味は、量子力学を否定した言葉であって、本来の猫箱の話ではないと言うことだ。猫箱は量子力学に対するただの反論に過ぎない。


「そこから更に発展して、だったら二つの可能性が並行して存在し、観測できる結果と出来ない結果が存在する……観測できなかった結果は多世界解釈として分岐した世界線とする。これがコペンハーゲン解釈で、さっき楽が言った観測によって結果が確定するって話だ」


 簡単に言えば猫箱理論は量子力学に対する反論。コペンハーゲン解釈はその猫箱理論に対する更なる反論、と言う解釈でいいだろう。


「……んで、結局どっちが正しいんだよ?」

「楽はどっちだと思う? 確率は平等に50%ずつ存在するか。それとも答えは一つで過程も一つ。0か1か」

「可能性か、極論かって事か…………」


 可能性を取れば量子力学のコペンハーゲン解釈。極論を取ればそれを否定する現実的な猫箱解釈だ。

 問いに悩み始める楽。その問答こそが、シュレーディンガーの猫が思考実験たる所以だ。

 似た話なら、矛盾の語源である何物をも貫く矛と、何物をも防ぐ盾。それから卵が先か、鶏が先か。そんな命題と紙一重だ。

 もっと身近なところで語るならば、親殺しのパラドックス……あれに似た二律背反のような話なのだ。

 さて、彼は一体どんな答えを出すだろうか。そんな事を考えつつ、この話を知っていたらしい加々美にも疑問を向けてみる。


「加々美はどっちだと思う?」

「答えにならない答えなら知ってます。でもそれはきっと怒られますから、先輩が答えた後にお答えします」


 分かりきった答えを落とす加々美。どうやら彼女は、要と同じ結論を胸に抱いているらしいと。やっぱりそういう結論に至るのが何よりも思考実験として面白い証なのかもしれない。

 やがて降りた沈黙を割くように、顔を上げた楽が答えを零す。 


「……歴史再現の事を考えるなら、極論だな」

「それ楽の意見じゃないだろ? 逃げやがって」

「だったら二人はどうなんだよっ。お前らはこの命題にどう答えるっ!」

「そんなの、」

「決まってますよ」


 反論にもならない楽の言葉に加々美と視線を交わして、呼吸を整え声を被せる。


「「答えは猫に聞け」」

「…………はぁぁっ?」

「因みに量子力学を提唱して、それから猫箱理論で自己否定したシュレーディンガー先生は、その後物理学を辞めたらしい」

「……………………なんだそりゃ……」


 そもそも答えはあってないようなものなのだ。もちろん答えようによっては幾つかの派閥に分ける事はできるが、そうして仮定と言う名の解釈や論が複数重なり合っている事が、何よりの量子力学かもしれないと。


「この手の話は考え始めたらきりがないからな。AIの矛盾問答。それとも楽は極論として確かな答えでも見つけてくれるか」

「やだよ面倒臭い……。大体なんだよ、答えの無い問いって。問題として成り立ってねぇじゃねぇか」

「だったらそれを今より未来に向けて言ってみろよ。知らない未来に正しい答えがどこにある? 知ってるから成り立つ方程式は、けど夢や希望なんていう曖昧な思いと裏切りや絶望と言う相反する可能性が混ざり合って確定なんてしない。観測者たる俺たちにとって過去は猫箱理論で、未来が量子力学そのものだ。そのどっちだって正しいだろう?」

「結局詭弁じゃねぇか」


 元がそういう論争なのだから仕方ない。

 因みに、量子力学を応用したのが携帯電話やパソコンだ。その応用範囲は多岐に渡り、日常生活の色々なところに関わっている。


「まぁ知らなくても生きてはいけることだからな。知ったところで少し賢くなって、その分以上に悩みの種が増えるだけだ」

「じゃあなんでこの話したんだよ」

「楽が色々と間違えてたからな」


 まるでこれまでの仕返しのように。彼の数少ない失敗を大袈裟に取り上げて指摘する。

 そんな事をしたって優位に立つわけでもなく。そもそもそんな関係が正しいのかと言われれば分からないけれど。性格からして負けず嫌いな要の心が単純に何か仕返しをしないとつまらなかったのだろうと。

 そんな子供な自分に小さく笑って、それから呼吸と共に視界を回す。


「……それに、時間潰しはできただろ?」

「面倒な置き土産が増えた気がするけどな」


 悪態と共に頭を掻いた楽。そんな彼を見て加々美が肩を揺らす。

 どうでもいいけれど、加々美が楽を見ている事が多いのは気のせいか。まだ会って一日も経たない彼女との縁だが、傍から見ている限り話の中心には基本楽。その瞳も意識なのか無意識なのか彼を追っている事が多い。

 もちろん要の事を知らないし理解しきれていないから、どこかで人見知りとしてそう振舞っているだけなのかもしれないが。ここまで色々な事に巻き込まれて、そうしてようやく手に入れた平穏からか。一歩引いた視点から物事を俯瞰している自分が加々美の言動に少し気になる部分があると囁いているのだ。

 俗物的に言ってしまえば、それは恋心なのかもしれない。

 楽の過去話に出てきた彼女。人見知りである加々美と、施設で暮らしていた頃の楽との間に起きた色々。その結果に彼女が慕うようになったのは分かりきった事だが、その時に楽への気持ちが芽生えたのだとしても不思議ではない。

 これだけ性格が捻じ曲がった彼だが、見た目は文字通りのイケメンだし、その胸の奥には真っ直ぐな思いもある。そんな彼と心の内を見せ合うような経験をしたのだ。そうでなくとも意識をするというもの。

 とても浅慮で無粋なのは分かっている。けれどそれくらいの秘密があっても、別に驚きもしない。と言うか心のどこかで、そうであればいいのにと幸福を願っている自分が居るのだ。

 未来が己が身を犠牲にして時空間事件を解決しているように。楽だってその身を費やして歴史再現を行っている。そんな、正義とも言うべき行いに認めてくれる誰かの報いが無ければ、少し寂しいというものだろう。正義の味方が正義の味方足りえるのは敵に悪役が居るからではない。誰かが肯定してその言動を正しいことだと後押ししてくれるからなのだ。王様のための民と言う話だ。

 未来にとってのお爺さんであるように。楽にとってのそれが加々美であればいいと、まるで押し付けのように思っているのだ。

 そんな少女が何かを仕切りなおすように音にする。


「来ましたよ」


 声に見れば、INRToSTの前にはいつの間にか三人の姿。赤い髪を兎結びにした少女と、長い白髪を揺らした女性と、黒髪の男性。

 未来と、由緒と、透目。彼女達がこれからするべき事は要が一番知っている。

 由緒の異能力によって二人が過去へ。そうして要との再会を……彼にとっての邂逅を果たすのだ。

 それをここで見届ける事が、歴史再現にして過去の確定。楽の語ったやるべき事だ。

 考えていると辺りを警戒した三人がそれから手を繋ぐ。

 警戒は(もっと)もだろう。時間にしてみればまだ一日経つか経たないか。由緒の誘拐が解決されてからは半日経っただろうかと言う頃だ。内輪で解決している以上模倣犯のようなそれが出るとは思えないが、由緒自体も十分に狙われて然るべき人物だ。

 異能力を持っていて、楽の話から察するに『Para Dogs』内でも随分と上の方にいる様子。知らず人の恨みや妬みを買っているのは当たり前。狙われる可能性はいつも存在している。

 そこに偶然……いや、必然。楽の歴史再現が噛み合ってあの騒動が起きただけの事だ。

 とは言えその事があるからこそ警戒は必要以上。それに要達もこうして見ている。不審な動きがあれば直ぐに介入は出来る。

 それから結果論として、未来は要の目の前に現れた。その結果があるから、今この瞬間の猫箱も結局は一つの未来──過去に収束する。どんな面倒事が今起きようと、それは解決され未来たちは要の元へと行くはずだ。

 何より要の記憶が正しければ、つい先ほど未来と出掛けたときに重ねたように、未来の服装が最初に見たそれと同じだ。つまりそれだけでも今この時の彼女が過去へ行くことの裏づけになるだろう。

 可能性を潰すように根拠を列挙していると、やがて手を繋いだ未来と透目が由緒の目の前から姿を消す。

 傍から見れば瞬間移動したように見えたそれは、由緒の異能力である『時間遡行(Re:タイム)』の能力。呆気なく姿を消した事実に、それから遅れて実感が湧いて来ると吐息が零れる。どうやら知らずの内に緊張していたらしい。


「気を張ってどうなる。歴史はそうある通りにしか流れない」

「……それはそうだがな。俺が知ってるのはこれが歴史再現で、楽が俺の味方ってことだけだ。詳細にこの先どうなるかを知ってるわけじゃない。お前を信じればそれで終わりだけどな、それを俺自身が許せないから想像が絶えないんだよ」

「ご苦労なことだな。ま、精々神経すり減らして歴史再現に尽力してくれ」


 他人事のように告げる楽。因みに楽は今由緒の異能力の制限下だ。だから未来に起こる事を喋ることはできる。しかしそれを聞いたところで彼は答えてはくれないだろう。

 そんなネタ晴らしを嬉々とするほど楽は要とのやり取りを退屈には思っていない。彼にそんな風に期待されても嬉しくもなんともないのだが……。


「さて、これでここですべき歴史再現は全部だ」

「となると次こそ本当に楽の思惑を叶えにいくのか?」

「いや、それは最後でいい。まずは要のいた時代に戻るぞ」

「どうして……?」

「今更隠し事をする必要は無いだろう? 彼女達にも協力してもらう」


 彼女達。それが由緒と未来を指しているのは言葉にしなくとも分かる事だ。

 しかし彼女達は要の味方ではあっても楽の味方では無い。同じ『Para Dogs』と言えども、これまで重ねてきた対立の爪痕が消えるわけではないのだ。


「随分な度胸だな」

「なにせこっちには要がいるからな」

「人質でも演じて二人を説得するのか?」

「どうしてそんな面倒な事を。お前が全部説明してくれればいい。必要なら要が俺を捕まえた事にして取引に応じたとでも言えばいいだろう」

「……だからって楽がまた裏切らない証明にはならないぞ?」


 口ぶりから察するに、二人の協力は不可欠だ。けれどそれは信用の上にしか成り立たない。

 楽はこれまで要たちを振り回し続けた。その過去はそう簡単には拭えない。幾ら説得をしたところで、胸の奥に蟠る疑念は取り払えない。特に未来は、楽の事を簡単に信じられないはずだ。


「処遇は好きにしてくれればいい。加々美を理由にしたっていいぞ? こいつは正真正銘『Para Dogs』の第三者だ。俺との協力関係さえ語らなければ、俺を捕まえにきた味方で通る」

「……必要だから、か」

「何よりもこれは彼女のため。俺自身のためだ。そこに嘘は吐かない。それに一応、最終手段も準備してる」

「最終手段?」

「説得以上の事実だ。ただ問題は、あの小説にこの方法が出てこなかったってことだな」

「…………なら使わなくてもどうにかなるんじゃねぇか?」


 彼の語る最終手段がどんなものなのかは分からない。ただ少なくとも、未来を『催眠暗示(ヒュプノ)』にかけて誤認させると言った乱暴な方法では無いだろう。そうすれば今度は由緒の反感を買う。何より要自身が彼を信じられなくなる。

 楽だってその方法は取りたくないはずなのだ。となればそうならないための結末を手繰り寄せるはずだ……。その役目が要なのだろう。


「わたしからもお願いしますっ。先輩は、何よりも責任感の強い人なんです。そんな人が約束を破るなんて思いませんし、これまでもそうだった事は要さんがよく知ってると思いますっ」


 縋るような加々美の声。

 確かに、真実こそはぐらかしていた楽だが、嘘を言ったことは無い。それに彼はきっと、未来以上の要の味方なのだ。なにせ未来の要から受けた歴史再現の依頼。大切な彼女への恩返し。その前提を盲目に信じれば彼が正義だと言える。


「お願いします、先輩を、信じてあげてくださいっ」

「…………人を信じるってな、大概難しいんだよ」


 それはただの偽善で、自己満足だ。自分が傷つきたくないから、その責任を相手に押し付けているだけなのだ。


「なにせ信用する事に根拠なんていらないからな。気持ちがあれば十分なんだ。その気持ちが、俺の場合はいつだって可能性を模索してる。もしかしたらをいつも考えてる。だから無条件に信じるなんて、そんな事は出来ない」


 要の性格だ。捩れた気概の、最も中心にある一本線。その心情があるからこそ、何事にも穿った視点をもてるのだ。


「……けどな、信用と信頼は違う。未確定なこれからの事を信用は出来なくとも、これまでに積み重ねてきた経験を信頼することはできる。だから楽、俺が信頼するに足る理由を、教えてくれ」


 これまでの過去の行いだって、見方を変えれば全く信頼に足りないことばかりだ。要を(そそのか)し、人形のように操って悪事まではたらかせ、今でも彼の目的のために利用しようとしている。それを全て良い事のように肯定しろだなんて虫のよすぎる話だ。

 言ってしまえば、楽の事を信頼なんてしていない。彼のこれまでの行いは、信ずるに値しない。

 けれど確かに信じられるものが一つある。それは紛れも無く、要自身だ。


「……要が俺を疑ってる。それが何よりの答えだ」


 そんな俺の胸の内を知っている。だからこそ、彼を信用するに足る。


「その気があるなら、要の復讐はいつだって受ける。だからそれを目的に、今は俺に要を信じさせてくれ」

「……そんな目的必要ない。楽を裁く役目は、そうだな……加々美にでも任せるさ」

「わ、わたしですか? でも、それは……」

「出来ないか? だったらそれが俺の答えだ」


 結局、なにが言いたいかって。どんな道を辿ったって未来は一つ、歴史は一つ。行き着くべき結末は唯一なのだ。だったらそれを、都合のいいものとして信じるだけ。それが自分にとって何よりの最良だと嘯くだけなのだ。

 要の事は、要にしか決められない。だからこそ、自分自身を何よりも信頼して、信用して、その気持ちに嘘無く向き合うのだ。


「楽、教えてくれよ。誰もが笑えるハッピーエンドって奴を。世界は誰にとっても正しいって事を」

「俺にお前の未来を作れなんて、そんな酷い注文があるかよ、要」

「未来人らしい役目だろ?」

「過去が指図するなよ」


 言って、笑い合う。

 捩れ曲がった物語。面倒な歴史再現は、けれどきっと誰もが信じられるたった一つの答えに収束する。

 いいじゃないか、都合よくたって。だからこそ物語足りえるのだろう。理不尽な現実にうんざりしているから、空想に思いを馳せるのだ。

 だったら夢物語に夢を見ないでどうする。期待をしないでどうする。

 その希望こそが、物語の根幹にある、誰かの願いなのだ。

 ならばその答えに手を伸ばすことこそが現実で出来ることの最大限。望まなければ、どんな希望だって手には出来ない。

 裏切られるのは怖い。失敗するのは怖い。そんなのは当たり前だ。

 けれど失敗は、成功の裏に存在するのだ。そのコインの裏と表のどちらを手に入れるかなんて、猫箱を開けてみないと分からない。分からないから、確率論なんかで語りたくないほどに、願うのだ。

 世界が自分の思い通りであればどれほどいいか、と。

 世界はいつも、理不尽だ、と。

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