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パラドックス・プレゼント  作者: 芝森 蛍
傍目八目の追憶策謀
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第二章

 『Para Dogs(パラドッグス)』の施設を抜け出して外で出会った女性。白く長い髪にたおやかな仕草と優しい雰囲気を纏う、由緒(ゆお)と名乗った彼女に連れられてやってきたマンションの高層階。いわゆる超高層マンションといわれる建物。

 当然のオートロックに加え、個人の玄関には異能力由来の錠。そこまで来てようやく彼女が異能力者だと言う事を知る。となるとその髪は異能力が開花した際の変色か。……単純に黒髪で、流れた年月で色素が薄くなっただけなのかもしれないが。

 ふと脳裏を過ぎる雑学。それは確か、『催眠暗示(ヒュプノ)』をコントロールする訓練の際に、人の体の構造とかを調べていた時のこと。頭皮や髪の毛についても載っていた本で、そこには確か白髪の事も書かれていたと。

 よくある話、ストレスで白髪が増えるとか髪が抜けるとか言われるが、あれは数ある要因の一つに過ぎないらしい。だからもちろん正しくもあるのだが、それ一つが全ての原因なら、生まれた頃から意識無意識に関係なく何かしらのストレスを抱えている人間の文化には、スキンヘッドが大流行だ。

 髪の色は、そもそもはメラニン色素。髪の毛が抜けるのは不健康な生活の証なのだ。それも全て、普段の生活が齎す結果に過ぎない。ストレスを感じたり、血の巡りが悪くなったりなど身体機能が低下する事で体が備わっている機能を発揮できずに仕事をやめてしまう。結果に色素が作られなくなったり、髪が抜けたりするらしいのだ。そしてその体の機能は年を経る事に低下していくから、高齢の人は白髪が増え、髪が抜けやすくなるという話。

 つまるところ年を取れば仕方のない現象。若いうちのそれは自己管理のなっていない証拠なのだ。

 異能力者がそう言った髪や目に変化を受けるのは、そもそもの根幹である脳に異能力の発現が干渉してしまうから。

 異能力者が夢を見るのもその一つ。頭にそれまでなかった信号が送られる事でその命令を実行して目に見える形で変化を齎すのだ。

 俺の見た目は、ドイツの血が半分入っていると言えばいい方便になるけれど、生まれた時からそうだったのだから真相は不明だ。もし異能力なんて宿らなければ、母親の日本人の血を引いて黒髪だったかもしれないと。

 だったら隣の彼女のそれはどちらだろうか? 昔から白い髪だったなら、子供ながらにからかわれたのかもしれない。


「さぁ、開いたわよ。中へどうぞ」


 考えて気付けば見つめていた視線が、扉を開けて促す彼女のそれと交わる。その刹那に見えた黒い瞳が、光の加減か少しだけ青み掛かって見えた気がした。

 上品で優しそうな笑顔に返す表情が分からなくて視線を逸らして部屋の中へ。

 と、そうして見渡した部屋に少しだけ懐かしさを覚えた。

 板張りのフローリングの床に、清潔そうな水色の壁。遅れて着いた廊下の電灯が照らす先には木製の扉。

 それはまるで、俺が両親と暮らしていたあの部屋に似ていたからだろうか。込み上げてきた何かは、やはり懐かしさと言う言葉で正しかっただろう。

 何かに誘われるように靴を脱いで歩みを進めその扉を開けば、更に広がった景色に息さえ忘れる。

 見回すほどの広い部屋は簡素ではあったけれど温かみがあって。大きなガラス戸の向こうにはこの辺りを一望できる絶景とも言うべき景色。丁度夕暮れ時に染まった街並みは鮮やかな茜色に厚塗りをされて、いつもは摩天楼の如き睥睨を寄越してくるビル群とほぼ同じ背丈を体感する。

 まるで王様になって、有象無象を見下ろしている錯覚に陥る。それほどに高く、圧倒的な光景だった。

 少なくとも、一般庶民には得られない贅沢な景色。どこかで感じていた彼女に対する普通ではないと言う感想が、胸の内で新たな疑問を渦巻く。

 彼女は一体……。


「いい景色でしょう? 私大好きなのよ。夜景も素敵なんだけれどね」


 そんなこちらの心を知ってか知らずか、変わらず優しい雰囲気のまま隣に並んだ彼女が、それから何かに手を伸ばすようにガラス戸へ手を重ねる。


(らく)君はどうかしら?」

「……綺麗、だと思います」

「他の人がちっぽけに見えるから?」

「っ……!」


 続いた彼女の言葉に、思わず胸の内を覗かれたのかと肩を跳ねさせる。と、そんな反応に隣の彼女はくすりと笑う。


「いいわね。世界征服とか、そんな夢は誰でも一度は描くものよ。私だってこの世界が思い通りになったらって考えることがあるくらいだものね。……それとも、そんな事を考えるのは貴方の胸にある異能力の所為かしら」


 値踏みするような視線は、やがて真っ直ぐで意思の灯った確かな色へ。そこで天恵のように悟る。


「……俺を、施設へ連れ戻しに声を掛けたんですか?」

「あらら、ばれちゃったわね。けどそれだけじゃないわよ?」

「…………?」

「単純に、貴方とお話がしたかったの、観音(かんのん)楽さん」


 強制力の滲まない、けれど逃げることの出来ない響きに諦めたような安心が胸の奥へ落ちる。

 連れ戻されるのは分かっていた事。その相手が、なんだか少しだけ話が出来る大人だっただけ。その小さな違いに安堵をしてしまったのかもしれない。

 それは、恥ずかしく言い換えれば、甘えだろう。

 母親を失って久しい俺が感じた、寄る辺のような何か。施設の管理人である女性にも感じなかった母性。だからじんわりと浮かんで染み渡っていくような温かい何かに、気が付けば彼女に感じていた警戒と緊張を解いていた。


「……それで、その、話って言うのは?」

「喉渇いてない? 水と、お茶と、ジュースと……後紅茶やココアもできるけれど、何がいいかしら?」

「…………紅茶でお願いします」

「ならお菓子も用意しないとねっ」


 楽しく跳ねる口調と共にキッチンの方へ向かっていく由緒。その背中を眺めていると、視線の交わった彼女は部屋の中央にあるソファーに促す。

 ここまで来て今更断るのも失礼な気がして腰を下ろせば、沈み込んだ柔らかい感覚にまた警戒心が和らぐ。人間は現金な生き物だ。温かく光のある部屋で飲食が用意されれば、僅かでも心を許してしまう。そのどれかを受け入れてしまった時点で、既に後には退けなくなっているのだ。

 そんな事よりも、彼女の振る舞いに敵意や悪意が感じられないのが、何よりの原因かもしれない。こと人間関係に慎重な身からすれば、彼女は嘘を吐いている気がしないのだ。……そう信じたいだけかもしれないが。

 考えていると目の前に用意された琥珀色に輝く紅茶。隣にはバウムクーヘンとスコーンが並ぶ。

 紅茶はイギリスのイメージが強いが、その元は確か中国だったか。バウムクーヘンは名前こそドイツだが、これも起源は別。ドイツの印象は名前もそうだが日本に伝わった際にそれを持ってきたのがドイツ人だったからだろう。そしてスコーンはスコットランドのパンの一種。

 それらが日本の机の上に並んでいるという異国情緒溢れる光景だが、グローバル化が当たり前の今の時代には何の違和感もない。


「苦手な物はあったかしら?」

「いえ……」

「それはよかったっ。さぁどうぞ召し上がれ」


 湯気の昇る白いティーカップ。一口含めば、広がる匂いと温かさに最後の錠が外れる音を聞いた気がした。


「それじゃあ、そうねぇ……さっきはどうしてあんなところにいたの?」


 掛けられた問いには既に疑う気持ちもなく。あった事をそのままに話し始める。それはこれまで余り他人と関わってこなかった弊害か、話を組み立てる事になれていなくて、どこか支離滅裂気味に話題が転がっていく。最初は聞かれていた事に答えていたはずなのに、繋がっているようで繋がっていない話はいつの間にか過去のことへ。

 どうして俺が施設に入っているのか。どんな罪を犯したのか。これまで他人には語ってこなかった、きっと一番弱い部分を、気付けば殆ど目の前の彼女に話していた。

 由緒は、けれどその全てをただ頷いて静かに聴いてくれていた。話の途中に飲み干すティーカップには、なくなる度に次を注がれ、お菓子に至っては食べきれないからと彼女の分も貰った。

 そんな風に過ごした時間。気が付けば窓の外の景色は夕日色の景色から街の光が目立つようになり、薄墨色に染まった空には既に星の輝きが浮かんでいた。

 時間にすれば一時間くらいだろうか。一人でずっと話していたこれまでの出来事が、ようやく一巡して施設を抜け出した現時点へ至ったころには、いつの間にか部屋の電気も点いていた。


「…………そう、そんな事があったのね」


 殆ど相槌ばかりだった由緒の声に、確かな納得の音が混じって、そこでようやく視界の焦点が目の前に合う。すると丁度、こちらを見つめる彼女の瞳と交わって、その奥に揺れるどこか楽しそうな色に呼吸さえ忘れる。


「本当に辛い時は、辛いなんて言えないわよね。でも大丈夫。話をしたら……ほら、少しは気分が晴れたでしょう?」


 そうして続いた言葉に頷いて、彼女が笑う気配に顔を伏せる。

 けれど今更後悔したって、結局全て終わったこと。物語の中みたいに歴史を変えることもできなければ、都合のいいハッピーエンドが待っているわけでもない。現実なんて、そんなものだ。

 だから自分からそれを遠ざけて、壊したかったのかもしれない。


「自分の力で解決しようとする事は良い事よ。けれどそれで自分を殺してしまってはいけないわ」


 彼女の言う通りに、確かに俺は自分で自分を殺しているのかもしれない。

 加々(かがみ)の嫌がる事をして、自分の事が信じられなくなって。そんな俺が『Para Dogs』に入って何が出来るのかと。

 そんな胸の奥を覗かれた気がして怖くなる。


「だから、怖くなったら誰かを頼りなさい。一人で死ぬ前に、誰かを巻き込みなさい。そうすれば貴方は、誰も殺せなくなるから」

「っ……!」


 殺すとか、殺さないとか。そんなのは言葉の綾だ。

 単純に、一人が辛いなら誰かを頼ればいいと。そんな当たり前で難しい事を言っているに過ぎない。俺には、きっと最もハードルの高い選択肢の一つだ。

 けれどそれが正しいのもその通り。『催眠暗示』に関しては既にコントロールできている。だから今更怖がることなんてないのに、トラウマ染みてまだ母親の事が残り続けているのだ。


「それから、もう少し顔を上げてみなさい。貴方の周りには誰がいて、どんな事をしているのか。貴方のために、誰がいるのか。それを知る事も、必要かしらね?」

「……………………」


 優しく何かを解きほぐすような声につられて顔を上げれば、目の前の彼女は当たり前のように笑顔を浮かべていた。

 胸に浮かんだどうしてと言う感情は、一体何に対してだったか。

 そんな事も曖昧になるほどに彼女の言葉が素直に染み渡って。


「さて、そろそろ時間ね。戻ろうかしら」

「…………はい」


 彼女の言葉に促されるままに頷いて立ち上がる。そうして向かう先は施設。

 結局色々な人に迷惑を掛けただけの独りよがりだったと。その程度の人間なのだと自己嫌悪に陥って。

 色々な事を覚悟しながらの道行きに、隣を歩く由緒が目に入る。

 彼女は、何故こんな俺に声を掛けたのだろうか。考えてもそれは分からない……。けれど一つ分かるのは、どこかで彼女に救われたということ。

 少なくとも、施設を飛び出したときに比べれば胸の中は整理が付いている。何をすればいいかも分かっている。そうしたところで誰かを余計傷つけるのだとしても、けじめとして謝るべきだと。

 考えていると、不意に隣の彼女が音を零す。


「そう言えば、どうするの?」

「…………何が、ですか?」

「ほら言ったでしょう。家に来ないって?」


 的外れの事を聞かれている気がして、視線で訴える。それは一体どういう事かと。


「……あぁ、えっと私の言い方が悪かったわね。家に来るっていうのは、私のところの子にならないって意味」


 養子縁組。そんな言葉が脳裏を過ぎって直ぐに答えを返す。


「施設にはいますけど、父親はいます」

「あら、そう。ごめんなさい、悪い事を聞いたわね」


 彼女の勘違いは(もっと)もだろう。そもそもあの施設は親元で暮らせない子が集まる場所なのだ。途中から入った俺の方が場違いなのだ。施設にいて親の顔をしっているなんて殆どありえない話なのだ。


「……どうして俺なんですか?」

「うーん……何かしらね。貴方が気になるから、かしら」


 それはどういう意味だろう。


「一人でいる貴方を見て、心配になった。だから少しでも助けてあげたかった。それじゃあ理由にならないかしら?」

「…………いえ」


 他に理由はありそうな気もするけれど、それが本心にも聞こえる。何が正しいかなんてそれこそ彼女にしか分からないことだ。聞くだけ無駄だったかもしれない。


「理由なんていつも曖昧なものよ。だからこそ、夢なんていう言葉が(まか)り通る。貴方は何かしたい事がある?」

「……………………」


 飛躍した気のする会話。けれどどこかで繋がっているその疑問に、自分に今一度問う。

 俺は何がしたいのか。誰かに言われるでなく、俺自身がしたいこと。

 直ぐに脳裏に浮かんだのは、母親の顔で、『Para Dogs』。

 それは『催眠暗示』を扱えるようになったから目指す目標かもしれない。己の後悔を振り払うためかもしれない。色々と世話になったことへの感謝かもしれない。

 それこそ、曖昧な話だ。自分のことなのに、まだまだ不安定で現実味がない。

 けれど手を伸ばせば届きそうな気はする。


「あるのなら、したい事をすればいい。難しい事は大人に任せて、子供は甘えていればいいのよ。甘える人がいなかったら、その時は私を頼ってくれる?」

「…………ありがとうございます」


 なんと言葉を返すのが正しいのだろうか。分からなくて、結局偶然声を掛けてもらって色々迷惑へ掛けたことへの謝罪のような何か。その言葉に、彼女は肩を揺らしてまた一つ笑う。

 迷子になったような。道が分かったような。何に迷っていたのかすら分からなくなる程に曖昧な今の場所に、小さく息を落とす。

 気が付けば施設まで戻ってきていた。


「さぁ、やるべき事をしてきなさい。失敗も後悔も、本気で生きている証よ」


 彼女の言葉に顔を上げれば、施設の門のところへ一人の少女が立っている事に気が付く。

 彼女は、こちらを見つめたまま何かを待つようにその場から動かない。自然と踏み出した足が少女……加々美の目の前で止まると、言葉もなく突き出された何かを受け取る。

 それは、手紙……だろうか。

 桃色の便箋に入ったそれをしばらく見つめて、それから謝らなければと巡った頭で上げた視界には、既に彼女が背を向けて施設の中へと歩いていた。

 期を逃した……けれど。手紙なら後で書いて返せばいいと。文字で気が収まるのかといえば頷き難いが、彼女が話す以外での対話を提示してくれたのだ。だったら彼女の考えを尊重するとしよう。

 手の中の便箋がまだ少し温かい気がしながら、それから由緒へと向き直り頭を下げる。そうしてきっと沢山怒られるのだろうと思いつつ施設へと戻る。

 ……そう言えば、ずっと一所(ひとところ)に留まっていたのに、施設の人が誰も連れ戻しに来なかった。もしかすると由緒が何かしら根回しをしてくれたのだろうか。

 だとすれば思っている以上に迷惑を掛けたのかもしれないと考えつつ、いつの日かその御礼もできたらと言う考えに小さな目標を見つけて。覚悟を決めて戻った施設のロビーには、怖いほどに笑顔な管理人の女性が仁王立ちをしていたのだった。




 一頻(ひとしき)り説教を受けて自室へと戻りベッドへと倒れ込む。開放感に浸れる一人部屋。周りに迷惑を掛ける心配をしなくていいここは、数少ない安息の場所。

 なんだか色々な事があったその日の事を思い出しつつ、このまま目を瞑れば眠りの底へ落ちていけそうな気さえしながら。ベッドの感触にいつも通りを取り戻して机へ。そこには施設へ戻ってきた時に加々美から受け取った手紙が一通。

 開封し、中身に目を通す。書かれていたのは、曰く寝る前に部屋に来て欲しいとのこと。

 ……色々と言いたいことと言うか考える事はあるけれど。少なくとも手元で綴られた筆跡には言葉以上の深い意味は感じられない。そもそも相手は十歳の女の子だ。男だとか女だとか、恋だとか愛だとかそんな話には成り得ないだろうと。

 冷静にそんな事に至って深く考える事をやめた。

 俺だって彼女に話があるのだ。いい機会なのだからそれ以外に何が必要かと。

 考えつつ夕食を食べ、風呂に入って気が付けば丁度いい頃合に。異性の部屋を訪ねるというのは年頃の男としては少しばかり恥ずかしいが、今回は別に疚しい気持ちがあるわけではないのだと何かに言い訳をしつつ……。叩いた扉の音には中々聞くことのない少女の声が返って少しばかり緊張をする。

 けれどもここまで来て今更引き返せないのだと今一度自分に言い聞かせれば、意を決して自分の部屋と変わらない扉を開く。

 そうして踏み入れた彼女の部屋は女の子らしく華やかな景色を彩っていた。一目見た限りでは、ぬいぐるみが多い。犬、猫、兎。軽く数えただけでも両手の指では足りないほどに大小様々な同居人。

 そんな部屋の中で、机の向こう側に大きな熊のぬいぐるみを抱えて座る少女が一人。真っ白な長髪は天然なのか緩く波打ち彼女の小さな体を包むように柔らかく床に落ち。こちらを見つめる紫紺の瞳は感情を宿さないかのごとく平坦に色を灯す。

 稲生(いのう)加々美と言う、まるで人形のような少女。その印象も、彼女が纏う女の子らしい服の所為によるところが大きいかもしれない。

 首元に赤いリボンの着いたインナーに部屋の中にしては少し不釣合いな厚手のカーディガンを重ねて、長い丈のチェック柄プリーツスカートから覗く足はタイツに覆われている。頭にはメイドが身に着けるようなレース付きのカチューシャ頂いていて、きっとそれが人形らしさを際立てているのだろう。

 全体的に柔らかい雰囲気を纏う少女。その双眸には全てを見透かされるような錯覚さえ覚えながら少しだけ立ち尽くして。そうして流れた沈黙にぬいぐるみの向こうへ顔を隠した加々美が小さな声で呟く。


「…………戸、閉めて。座って……」

「あぁ、ごめんっ」


 慌てて彼女の言葉に従い部屋へ入ると言われたままに机を挟んで向かいに座る。

 拭えない緊張に深呼吸をすれば慣れないにおいにまた一つ身を硬くしながら。横たわった静寂にするべきことのきっかけを見失ってどうするべきかと迷う。

 定まらない視線はやがて目の前の少女に落ちて、改めて真正面から見据えた彼女の空気に息を呑んで。

 それから気付いた震え。それは目の前の彼女が熊を抱くその腕が、体が見せる心情。

 ……当然か。これまでしつこいまでに声を掛けて彼女の世界を荒らしたのだ。怖がられて当然。

 けれどそれを謝りに今ここにいるのだと。

 当初の目的を思い返せばようやく自分を取り戻して口を開く。


「……えっと」

「っ…………!」


 びくりと震えた肩。彼女怖がらせている事に怖くなりながら、しかしこれ以上の沈黙を嫌って無理矢理に声にする。


「これまでは、その、ごめん。不躾に色々な事を言って……怖がらせたよな。それを、謝りたくて」

「…………ちが、ぅの……。わたし、が、へんじを、しなかったから……」


 返すように零れた声。鈴が転がるような細い響きは、胸の奥を擽るように繊細に届く。もし雑音があったなら聞き逃しそうなほどに小さな音。

 それは施設を飛び出た最大の理由である彼女の拒絶の言葉とは似ても似つかないほどにか細い声に、直感で悟る。

 恐らく、今目の前で震えている彼女が、本来の性格なのだろう。そんな彼女に付き纏って痛いくらいに俺へと向けたあの言葉は、我慢の末の爆発……。そうなるまでに追い詰めていたのだと知って後悔ばかりが胸の中を埋め尽くす。


「けど、うれしかった、の……」

「……え?」


 失敗してばかりだと。異能力があったってなくたって、結局そう簡単に誰かのためになんてなれないのだと。

 そんな事を考えていると、続いた言葉に聞き返す。


「不安、だった……。ずっと別のところにいて、どうにか異能力がうまく使えるようになったからここにやってきて、でも皆の中に入って友達が出来るかなって……。もしかしたら誰かにめいわくを掛けるかもしれないって。それに、わたし、こんなのだから。自分から声を掛けられなくて。そんな時に、あなたが声を掛けてくれて、うれしかった」


 いつの間にかこちらを向いていた顔。

 紫紺の瞳が優しい色を湛えてこちらを見つめる。

 加々美の感情の篭もった瞳を真正面から見たのはこれが初めてだっただろう。だから少しだけ戸惑って、思わず顔を逸らしてしまった。


「でも、うれしくても、それを言わなかったから……言う勇気が出なかったから、あなたはわたしのために何度も声を掛けてくれたんだよね……?」


 ここが彼女の空間だからだろうか。どこか饒舌に語られる心の内側に、今度は俺が何も言えなくなって口を閉ざす。

 加々美の言っている事は正しい。だから頷きたいのに、今まで自分がして来た事がどこか的外れだったと認めてしまうような気がして恥ずかしいのだ。


「とっても、うれしかったよっ。……けど、わたしに話しかけてると、あなたが悪者にされちゃう。みんながね、あなたはわたしをだまそうとしてるって、そう言ってるのを聞いちゃって」

「っそれは違う!」

「うん……そうだよね。わたしもそう思ってた。けど違うって言う勇気もなくて……あなたは悪くないのに悪者にされるのが嫌で。だから、あなたが悪者にされるなら、わたしは一人でいいって。ひとりは、慣れてるから……」


 だから彼女は、あんな悲痛そうに俺を遠ざけようとしたのだ。


 ────うるさい、じゃまっ


 彼女だって、本気でそう思っていたわけではない。そもそもこれだけ優しい少女なのだ。あんな尖った言葉を選んだのだって、その場限りの間違いだったのだろう。


「でも、あなたはそれでも声をかけてくれて。酷い事を言ったのに……優しくしてくれて、うれしくてっ」


 それは俺に思慮が足りなかっただけ。もう少し彼女の周りへと視線を向けるべきだったのだ。今になって考えれば、もっとやり方はあったように思うのに。


「うれしいのに、お礼も言えなくて……。そうしたらあなたが施設を飛び出したって聞いて。わたしが、もっとしっかりすればよかったんだって気付いて……。それを、謝りたくて…………」

「……違う。俺が謝るべきなんだっ。君の事を何も考えずに馬鹿みたいに周りで騒いで、君にそんな苦痛を背負わせて」

「違うよ、わたしが…………」

「いや、俺が……!」


 論点がずれていくのを感じながら伏せていた顔を上げて。そうして目の前にこちらを見つめる可愛らしい彼女の顔があって、その先の言葉を飲み込む。

 そこでようやく、二人して何か間違えている事に気が付き、同時に笑みを零す。

 一体何で言い争っているのだと。そもそも何をしにここにやってきたのだと。

 最初の目的も曖昧に己の馬鹿さ加減に腹を抱えれば、久しぶりに笑った気がしながら。机の向こう側で同じように肩を揺らす彼女の鈴を転がしたような笑い声に嬉しくなりながら。

 何が悪いなんて、そんなのは些細な事だ。必要だったのは勇気と冷静さ。それを一緒に混ぜ込んだ、ただ真っ直ぐな会話だけだったのだと。

 難しい事を考えすぎて嵌っていた泥沼から、二人して顔を汚しながら這い上がって。


「……ごめん、色々迷惑をかけて」

「ううん、こっちこそ……!」


 気付けば差し出していた手のひらには、温かく小さな感触と共に白い指が重ねられた。たったこれだけの事に随分と遠回りをしたとまた一つ言葉もなく二人で笑う。

 そうしてしばらく意味もなく声で部屋を満たせば、やがて目尻に涙を湛えた加々美がぬいぐるみを持ったまま立ち上がる。


「わたし、稲生加々美って言います。わたしと、お友達になってくださいっ」

「観音楽だ。こちらこそよろしく、加々美ちゃん」

「ちゃんは、恥ずかしいです、楽さん」

「可愛いのに」

「かわっ!? ……いく、ないです!」


 大人になるほど友達が作りにくくなる。なんてのは、一体どの本で読んだ誰の台詞だったか。全く持ってその通りかもしれないと考えながら、彼女に見送られてその日は部屋を後にした。

 翌日、朝食を食べに食堂へと向かい、用意された食事をトレイに載せて椅子に座ると、しばらくして隣に加々美が腰を下ろした。


「おはよう、加々美」

「おはようございます、楽さん」


 友達らしく笑顔で挨拶を交わせば、辺りに広がったざわめき。その音に、二人して顔を見合わせまた一つ笑みを落としたのだった。




 その日から、友人である彼女とはよく話をするようになった。加えて、俺の前だけかもしれないが、よく笑うようになった。

 人見知りである分、心を許した相手に見せる顔は極端と言っていいほどで、それまでの何かを遠ざけるような無表情からは考えられないほどの可愛らしい笑顔を浮かべる彼女に、こちらの胸の奥まで揺られる気がしながら。

 また二人の間で話し合った結果、周りの人たちには好きな風に言わせておけばいいと。例えどんな噂をされようと、二人が友人であることには変わりないと信じていれば、何を言われたって気にすることは無いのだと。

 その内本当の事が知れて、噂はただの噂で嘘だったと真実に塗り替えられるだけだ。そんな結論を出したから、周りの目を気にすることなく彼女とは付き合いを持つようになった。

 食事を一緒に取り、勉強は俺が彼女の分を見てあげたり……逆に異能力の分野に関しては加々美の方が詳しかったため、教わったり。自由時間には好きな本の話や未だ完全には解明されていない異能力についての個人的な見解を議論したりと、そんな在り来たりで当たり前で、けれどどこか特別な時間を一緒に過ごす事が多くなった。

 中でも俺が一番特別だと思っていたのが、異能力制御の練習時間。普通の勉学とは別に、実技で異能力の使い方やその応用を学ぶ特別授業。俺の場合は、コントロールの段階から一緒に歩んできた『催眠暗示』の先輩である『Para Dogs』の人としていた訓練だったが、その空間に加々美が何かに興味を示したらしく、それまで一人だった練習を彼女と一緒にするようになったのだ。

 理由を訊いては見たが、心を開いてくれたらしい彼女には珍しく秘密との一点張り。何度か聞き出そうと質問方法を変えても見たが、その都度的外れな回答やあからさまにはぐらかした様子で本当のことから逃げ回られた。

 幾ら楽でも、二度も失敗をすれば学ぶ。答えたくないと言葉の外で訴えてくる彼女に無理強いはやめて、好奇心をどうにか殺す事で何でもなかったのだと言い聞かせてその話題は避けるようにした。

 しばらくして、もし必要な時が来たら彼女の方から話をすると言われたために、その日からは待つ事にしたのだ。誰にだって秘密はある。それは本人が言いたいときに言うべき事だと。……結局、その理由は今になっても教えてもらっていないけれども。

 何にせよそうして加々美とするようになった異能力の特訓。

 加々美の異能力、『能力転写(コピー)』は、俺と同じ間接的作用系異能力だ。複写先が物理的作用系異能力……例えば『瞬間移動(テレポーテーション)』だと、擬似的にその力を使うために分類こそ安定しないが。『能力転写』に限れば異能力の波形……体の内側に干渉するために間接的に分類される。

 彼女の『能力転写』における制限は以下の通りだ。

 制限①、一度に一つの異能力しかコピーも保持も出来ない。制限②、異能力の波形まで事細かにコピーし、その制限も付随する。制限③、コピーをした異能力には五回の使用回数制限がある。

 他の異能力に比べれば数も少なく単純で分かりやすい制限だ。前提条件は、異能力の複製をする際、コピー先の異能力保持者の承諾を得て、その人に触れていること。

 恐らく最も効果を発揮するのは制限よりもその前提条件だろう。

 例えばの話、異能力同士の戦いになったとき、彼女は無力だ。なぜなら承諾や接触を経る必要があるために、その場で相手から無理矢理奪うことは出来ない。近づいている間に相手に先制されて終わりだ。予め何か別の異能力をコピーしていれば別だが、それにも回数制限があるし、いつもそうしているわけには行かないだろう。

 それにコピーした異能力についてを把握しておかなければ上手に扱えない。例えば俺の異能力である『催眠暗示』をコピーしたとして、けれど彼女は制限を直感的に知るわけではない。ただ俺が使っている『催眠暗示』と同じものを使えるようになるだけだ。つまり理解をしていない制限に抵触する可能性がある。その上で、俺の『催眠暗示』は聴覚干渉型。それさえも知らなければそもそも相手に『催眠暗示』を意識的に掛けることすらできなくなる。

 緊急時には殆ど無力。更に外的要因に制限として、近くにコピーするべき異能力保持者がいなければ、無能力者と同義だ。下手をすると格闘技などを習っている一般人にすら負ける。

 それほどに強力と無力が極端な異能力なのだ。そもそも一人ではどうしようもないのだから、異能力としては無価値に等しい。だから強さの尺度である制限も三つと少ないのだ。

 ただし、裏を返せば強力である側面もやはり捨てきれない。制限を読む限り、同じ人物から複数回コピーできないわけではない。そしてその際に、回数制限がリセットされる。つまり『能力転写』を重ね続ければ何度でも他人の異能力を借りる事が出来るのだ。

 使いようによっては強力で、けれどそのための準備が欠かせない力。そんな異能力は、けれど戦いに向かないだけで、もっと別の役立て方が存在する。

 根源にしてたった一つで言えば、異能力の解明だろう。

 なにせ加々美の『能力転写』は、異能力で異能力に干渉する力なのだ。つまりそこに人の意思が介在するならば、意思のない機械で調べるよりも、もっと早くに結果を追求する事が出来る。

 うまくすれば今まで分からなかったことまでもを解き明かすことだって可能かもしれないのだ。

 どちらかと言えば補助向きな異能力。争いや騒乱を好まない、心優しい加々美らしい異能力だろう。

 また、彼女の『能力転写』は面白い特徴として、コピーした異能力の、その本来の持ち主の色を受け継ぐということだ。

 これも例があれば分かりやすい。加々美の『能力転写』で俺の『催眠暗示』を映した際、彼女の白色の髪は金色に、紫紺の瞳は青色に変わるのだ。その色は、楽が持っているこの見た目と同じもの。

 見た目まで真似るというのは、恐らく異能力の波形までコピーするからだろう。つまり波形が人体に影響を及ぼして、異能力覚醒者の見た目を変えてしまうという過程と結果を示すのだ。

 ここから少しだけ発展して考えれば、俺のように親から受け継いだ遺伝子的にもありえて、異能力的にもありえる見た目の変化。それが一体どちらの影響で起きている事なのかを判別する事が出来るわけだ。

 『能力転写』に伴い彼女の見た目が変化すれば、その色は異能力発現による物。変化しなければその人本来が持つ天然の色と言うわけだ。

 先の例であげた通り、二人で異能力の訓練を始めてからは俺の『催眠暗示』を彼女にもコピーしてもらった。その際に、見た目の変化は起きた。つまりこの金髪碧眼の見た目は、異能力の発現による影響と言うわけだ。

 もちろん可能性としては、そもそも生まれながらに遺伝で金髪碧眼で。その上に異能力の影響で金髪碧眼が重なったということもありえるだろう。その場合も異能力由来として反応が見られる。

 ただどうあっても、俺の場合は異能力由来の金髪碧眼である事に変わりは無いと納得する事が出来たわけだ。

 そんな彼女との異能力の訓練。『催眠暗示』と『能力転写』は影響の仕方こそ違えど、根本は間接的作用系異能力として同じだ。だから基本の部分では似通っていて、注意すべき点ももちろん同じだ。

 間接的異能力の多くは、対象に物ではなく人を取る事が多い。その影響範囲が人に関わる事が多いのだ。人に関わるという事は、良くも悪くも転ぶ。特に意図しないままに異能力を扱えば、景色を混乱させてしまう事もあるだろう。その最たるものが俺の過去の失敗と言えばいい例だ。

 直接人に干渉するからこそ、異能力や異能力保持者全体への雰囲気さえも左右する。

 俺も何度も思った事だが、異能力そのものに罪は無い。それを扱う者にこそ良識が問われるのだ。けれど拡大解釈をすれば、異能力があるから人の心を惑わすとも批難をされる。

 そもそも夢想したとは言え、望んで手に入れたわけではない。そんな力を勝手に与えられて、それを理由に批判されるなんておかしな話だ。

 そんなのは、料理のために台所で包丁を持っているのに、それだけで誰かを傷つけるためだとありもしないレッテルを貼られることと変わらない。

 だからこそ、そんな言葉に踊らされないよう。不必要な敵を作らないよう。必ず自分で制御をするための特訓が基礎であり主なのだ。

 加々美は、一応制御こそ出来るが完璧ではない。彼女曰く、興奮したりなどで周りが見えなくなると暴走しやすいらしいのだ。

 俺に教えてくれる先輩の話では、異能力の波形に干渉する分、その者達の影響を受けやすいのだろうと言う事。つまり気性の荒い誰かが傍にいれば、それに引っ張られて制御が難しくなるという話だ。俺の『催眠暗示』は音楽を介して一方的に影響を及ぼすだけまだ大丈夫らしいが、記憶に干渉したりなど精神の深くに自分自身を潜り込ませる様な異能力に多い傾向らしい。

 彼女も大概大変な異能力に目覚めてしまったものだと。同情するだけ侮辱かもしれないが、似たような気持ちで彼女の痛みはよく分かった。

 だから俺は、できるだけ彼女の力になろうと手を貸した。俺の『催眠暗示』をコピーして加々美が使えば、最悪の場合逆位相さえ用意しておく事で第三者でも暴走した際の対処は出来る。そんな風に都合がよかったというのも一つの理由だろうか。

 断る理由もなく彼女との訓練が続き、それ以外にも一緒に過ごす時間が多くなって。その気は無かったけれど、まるで見せ付けるように隠すことなく振舞っていれば、必然周りの者達も興味を示す。

 俺自身が穿ち、加々美が望んで遠ざけた友人と言う溝。それぞれに拒絶を振り撒いていた二人が仲良くなり纏う雰囲気も変わったのだろう。最初こそおっかなびっくりだった彼らの声も、話すうちに段々と砕けていくようになった。

 俺自身も、加々美との訓練のお陰で前以上に『催眠暗示』の扱いに慣れた。その自信からか、今更誰かを拒む事もおかしな気がして友達付き合いをするようになった。施設に入って五年……ようやく友達らしい友達が出来たのだ。

 加々美の異能力の制御には、まだ少し彼女自身も納得していない部分もあったが、隣に俺が居る事に安堵を感じていたらしい。

 信頼、なのだろう。もし人前で暴走した時は、『催眠暗示』を掛けて止めて欲しいと頼まれたのだ。一回限りしか使えない安全装置だが、確かな鍵があるという安心感は心に余裕を生む。結果として、彼女の異能力の制御は俺に追いつくほどに上達していくこととなった。

 そんなある日、いつものように隣へ加々美がいる日常を過ごしていると、訪問者がやって来た。管理人の女性の話では、年に数度ある視察らしい。恐らく『Para Dogs』への抜擢なども兼ねているのだろう。これまでは面倒事に巻き込むまいと周りの事をシャットアウトしていたからか、その存在すら思考の外に抜け落ちていたのだけれども。

 外から人がやって来るのは珍しい。時々俺も含め施設に入っても親子の縁を切らなかった誰かの親が顔を見に来る程度の来客はあるが、それだけだ。施設に中で暮らしていれば娯楽に飢える。一所に留まる者が旅人に憧れるように、子供の俺達にしてみれば外の世界に興味が沸くのは当然だ。

 今日は一体何だろうかと。時期的に新年度前の視察。引き抜きも十分にありえると管理人の女性と別室で会話している声を、扉の前まで行って盗み聞きしようと耳を(そばだ)てて。

 そうして聞こえた声の響きに、聞き覚えのあるその優しそうな声に、思わず廊下へ立ち尽くす。

 もしかして……そんな想像が、都合よく色々な記憶と共に裏打ちされていく。

 『Para Dogs』からやって来た人物。基本『Para Dogs』は異能力保持者で構成される。ならばここに立ち寄る人物も異能力者である事が多い。それにもし引き抜きであれば、ある程度の権限を持った御偉い方が来てもおかしくない。

 過去の記憶の限りでは、彼女もきっとそちら側の人間だと。だからきっと、そうなのだと。


「楽さん、ばれたら怒られますよっ」


 心配なのか興味なのか。一緒についてきた加々美が服の裾を引っ張って小声で戻るべきだと提案してくる。


「…………いや、多分大丈夫。と言うか、俺はここで出迎えたい」

「何が大丈夫なのかわかりませんよっ」


 まぁそうだろう。けれど、もう、時間切れだと。

 近づいてくる足音に口の端を吊り上げれば、加々美の紫紺の瞳に焦りが生まれる。今更逃げたところで見つかる。どうしようかと目に見えて慌てる彼女は、それから恐らく意味がないのに俺の背中にその身を隠した。かくれんぼでもそんな間抜けな隠れ方はしないだろうと。

 そんな彼女が服を強く掴み引っ張るのを感じながら、目の前で開いた扉の向こうに視線を向けて笑う。

 同時、姿を見せた彼女。綺麗な白く長い総やかな髪に、黒い双眸。こちらを見つけたその瞳の奥に、珍しさと懐かしさを湛えて小さく笑う。


「あらっ」

「お久しぶりです、由緒さんっ」


 俺が施設を脱走した時に色々と話を聞いてくれた彼女。あの時から言うと半年以上の時間が過ぎて、瑣事だと思われていたなら覚えてもらってなどいなかったのだろうと考えながら。けれど目の前の彼女のその表情にはそんな様子は感じられない。

 どこか不遜さを纏って彼女に向けて放った挨拶に、由緒の隣へ立つ管理人の女性が怒ろうとしたところへ由緒が腕を上げて制した。

 我ながら、今になって思えば随分と相手依存な考え方だ。忘れられている可能性だってあったのに。全く持って子供の思い込みは恐ろしいと。


「あの時以来ね。元気そうで安心したわ」

「お陰さまで。あの時はありがとうございました」


 差し出された手をとれば、彼女は愛おしそうに笑みを浮かべる。彼女の隣で、怒るに起これない様子の管理人に言葉なく睨まれる。後から怒られるのは覚悟の上だ。それを差し引いても、ここで由緒に挨拶しておくだけの意味がある気がしたのだ。せめて巻き込まれただけの後ろで人見知りに震える彼女だけは見逃してもらうとしよう。


「後ろの子は?」

「俺の友人です」

「…………稲生加々美、です」

「……あぁ、君が『能力転写』の。よろしく、私は由緒よ」


 どうやら『能力転写』の事も知っているらしい。彼女と繋がりがあったなら、俺を挟んでやり取りなどしないだろう。と言う事は由緒の一方的な記憶か。それほどに『能力転写』は類稀な力なのだろう。


「そうだ、楽君、ここの案内を頼めるかしら?」

「え…………?」

「貴方なら間違いは無いでしょう?」


 唐突に降りた思わぬ提案。驚いている間に、由緒が管理人に視線の端で許可を取り付ける。彼女が頷いたのだからこちらにに拒否権は無いのだけれども。


「どうして俺に?」

「久しぶりに貴方とお話がしたいから、じゃあ駄目かしら?」

「…………わかりました」


 挨拶だけのつもりが、気付けば思わぬ方へと話が転がっていたと。意外と自由でマイペースな調子の由緒に振り回されている気がしながら、とりあえず任されたのだからと施設の案内に足を出す。


「……あの人誰?」


 すると、縋るように服を離さない加々美が、詰問するように疑問を投げかけてくる。


「誰って、さっき挨拶したじゃん」

「そうじゃなくて……。いい、何でもないっ」

「なんだよ、それ……」


 途端何故か顔を逸らす加々美。服の裾は掴んだまま顔を合わせようとしない彼女に、けれど考えても分からなかったために一旦横へ。全く、何だと言うのか。

 そんな事を考えつつ見慣れた施設の中を紹介して回る。いつもは気にも留めない視点から見た施設の中は、物の配置まで覚えていて、その気になれば目を閉じていても自由に歩き回れる筈なのに、少し新鮮に映る。

 環境と言うか前提と言うか、見方が変われば違う視点で景色に色が着くのだと気付きながら一通りを案内し終えて。いつも施設の皆で集まって話をする大広間にやってくれば、こちらに気付いた視線が殺到する。

 少しだけ怖く感じたのは仕方の無いこと。この施設にいるという事は、外との関わりが薄いということだ。それは興味と共に、忌避も植えつける。見慣れない顔に抱く不躾な感情。俺だって、初対面の相手には警戒くらいするだろうと。そういう意味では彼女と先に知り合っていてなんだか特別な気分がしながら。

 由緒の事を紹介すれば、目に見えて彼らの警戒が和らぐ。

 『Para Dogs』の人と言うのは、つまるところ施設にとっての後見人だ。全幅の信頼と言うわけにはいかないかもしれないが、少なくとも味方だろう大人だ。そんな人物との間に壁を作るのもおかしな話。

 何より、俺のように『Para Dogs』志望の子も幾人かいる。繋がりを作っておけばなにかが有利に働くかもしれないのだ。打算的に考えればそんな見え透いた心の内も感じられるようで。

 彼らと挨拶を交わす由緒の後姿を見つめていると、再び加々美が裾を引っ張る。


「……あの人、誰?」


 先程もされた同じ質問。同じように答えればその先に帰る声も更に同じ。考えるに、あの答えは彼女の望むものではなかったのだろう。だから改めてこうして疑問をぶつけてきているのだ。

 けれど彼女が由緒である以上に、俺は何も知らない。だから知らないなりに、どうにか答える。別に隠すべき事でもない。


「…………ほら、加々美と喧嘩、じゃないけどさ。仲良くなる前に俺が施設を飛び出した事があっただろ? その時に外で会ったのが由緒さんだ。彼女のお陰で、今の加々美との仲直りがあると思ってる」

「……喧嘩は、してないです。だから仲直りも、違います」


 これまで余り話題には出してこなかったあの時のこと。それは彼女が避けている事もあったし、俺自身もあんな独りよがりで彼女を困らせた事を悔いている。だから意識して避けてきた話題だが、今回ばかりは逃げてもいられないと。


「そうだな。けどすれ違いで加々美を困らせて、そのやり直し方を教えてもらったんだ。だから、感謝をしてる」

「…………好きなんですか?」

「え…………?」


 想像だにしなかった返答に、思わず聞き返す。視線を向ければ、そこにはこちらを見上げる真剣な瞳。


「いや、えっと……。美人な人だな、とは思うけど」

「……くふっ」

「……っあ! ……だって、そういう質問かと」


 流石にありえないと。否定するのは彼女に悪い気がして言葉を濁すと、遅れて漏れた笑い声に彼女のからかいだと気付く。

 彼女の言う好きは、尊敬をしてるか、と言う意味だ。それに対して異性として、なんて答えた自分が恥ずかしくなる。

 声を殺して笑う加々美から視線を逸らす。まったく、そんな曖昧な質問をしないで欲しい。


「それにっ、そういう意味なら加々美の方が……」

「……へ…………?」

「あ……」


 このままでは年上としての小さな面子がと過ぎった思考が考えとして纏まる前に音となる。と、笑っていた加々美が、驚いたようにこちらを見上げて声を零した。

 直ぐに自分が何を言ったのか気付いて、弁明を……いや、弁明ですら彼女を傷つけるかもしれないと。

 そんな逡巡に、加々美は顔を赤くして俺を弱く突き飛ばすと、由緒を囲む彼らの輪の中へと走っていく。

 ……軽率だった。別に、気持ちとしては嘘ではない。彼女は人形のように可憐な少女だ。だからと言ってそれが恋心かと言われれば違う気がするけれど。

 そんな曖昧な感情でまた彼女を困らせたと。己の迂闊さを呪ってどこか熱い息を吐く。

 なんと言うか、仲良くなりすぎた弊害だろうか。俺にも加々美にも、人に対する壁があった。それがぶつかり合って消失したことで、互いに心を許した関係になれたのは素直に嬉しいことだ。

 けれど許しすぎているというか……見せなくていい部分まで見せている気がして距離感が図り辛いのだ。

 意識していると言えばその通り。同時に一度は取っ払ったはずの人に対する忌避が、今度は遠慮や失敗に対する恐れとなって渦巻いている。

 仲がいいからこそ、傷つけることに怖くなるのだ。

 ほんとうに、ままならない……。

 人に飢えているからこそだろう。こんなことなら愛される温かさなんて知らなければどれ程自由なことか。生んで、愛し、育ててくれた母親の顔を思い出しながら心の中を整理する。

 人間らしくて良い事だ。

 そんな風に考え事をしながら時間を過ごして由緒が帰ると言う頃になって。加々美から逃げるようにいつの間にか自室へと篭もっていた俺は、最後くらいと見送りに部屋を出る。

 と、そこで丁度部屋の目の前に立っていた由緒とぶつかりそうになる。


「あら」

「っと、ごめんなさい」

「いえ、いいのよ。帰る前に貴方に話があって来たの」

「俺に……?」


 思わぬ言葉。少しの間彼女の顔を見上げて、それから由緒の後ろに管理人である女性の姿を見つける。どうやら大事な話らしい。……それとも説教だろうか?


「中に入れてもらってもいいかしら?」

「えっと、はい」


 由緒の言葉に頷いて招き入れる。丁度その時、廊下の向こう、曲がり角のところからこちらを見つめる加々美と視線が交わった。どこか隠れるようにしてこちらを見つめていた彼女は、隠れるでもなく何かを言いたそうにしていたが、結局声を掛けてこなかったのでとりあえず後回し。扉を閉めて由緒の目の前に腰を下ろせば、彼女は笑顔のまま告げる。


「ごめんなさいねいきなり押しかけて。実は大切な話があって」

「どんな話ですか?」

「……『Para Dogs』についてよ」


 どこかで気付いていた通りの言葉が返って息を呑む。


「よく考えて答えて頂戴ね。……少し前からね、『Para Dogs』への入社希望者の受付が始まっているの」

「知ってます。でもそれは一般の方達に向けた公募ですよね?」

「えぇ。有望な人材の力を借りて『Para Dogs』の名に恥じない規範を守るための選ばれた仕事。異能力者がその身を治安維持のために使う保安組織」


 『Para Dogs』は異能力集団の警察だ。『Para Dogs』とは別に警察も存在しているが、今回はいいとしよう。事異能力絡みの事件に応対する組織が『Para Dogs』だ。

 俺も、色々考えた結果やはり『Para Dogs』への入社を希望している。あの場所なら、この力を正しく使えるから。間違えた時に正したり、裁いたりしてくれる正義が周りにいるから。万が一の時のためにもあの場所は俺の居場所になるはずだと。


「今年も例年通り募集が始まったのだけれどもね。そこには一般向けに開かれる窓口と、それからもう一つ別の門があるのを知っているかしら?」

「……引き抜きですか?」

「えぇ。既に『Para Dogs』に所属している人の子供であったり、類稀な力。強力な異能力を持つ者達を保護管理する目的も含め、そういう人たちには私達の方からお誘いがあるの」


 この施設からの引き抜きもその一つだ。『Para Dogs』の庇護下にある施設で育った者達は、そのまま『Para Dogs』に入ったり、『Para Dogs』と関わりのある会社に入ったりと言うのが最も多い可能性。もちろんそれらを蹴って自分の夢を追いかける者も何人かはいる。

 こうやって聞くと将来に困らない便利な施設だと聞こえるのかもしれないが、実際のところは違う。『Para Dogs』から誘いを受けるという事は、基本的に『Para Dogs』関連以外の希望を捨てる事に他ならない。

 だからもし『Para Dogs』の外にやりたい事を見つけてそちらを目指すのであれば、『Para Dogs』の庇護を受けることは出来なくなる。

 親もいない、伝もない。殆ど何もない状態から目指す夢は、中々に困難だ。だからこそ『Para Dogs』関連の仕事に就く方が楽で、当たり前となっているのだ。こう聞けば、選択の自由が少ない分夢ばかりを追いかけていられない。


「もちろん数は少ないわ。そしてお誘いも絶対ではない。そもそもその人にあるかもしれない将来の可能性を否定して、国のために働きなさい……なんて、受け取りようによっては横暴もいいところよ。もちろん、それだけの保護や後ろ盾は用意されるけれども」


 『Para Dogs』は異能力の普及したこの時代において国家権力にも等しい力だ。その背後にいるのは国で、他の国営組織と肩を並べる程には大きな存在だ。尽くすだけの十分な見返りはあるだろう。だからこそ、そこで誰かの可能性を潰すことへ疑問を抱く者も少なくない。

 結局は主観の問題。嫌なら断って自分の夢を追いかければいいだけのことなのだ。もちろんその場合でも、希少な異能力持ちであれば『Para Dogs』からの監視は避けられないのだろうが。


「そういうお誘いはね、基本色々なところから得た情報を元に精査されて、幾人かに候補が絞られるの。簡単に言えば特待生ね。今回の話はそれよ」


 ぼんやりとしていた話の焦点が、由緒の言葉で一気に目の前に集中する。

 『Para Dogs』に所属しているだろう由緒がいて。管理人の女性がいて。その目の前に俺がいて。

 期待ですら封殺されるような事実が、否応無しに目の前に突きつけられる。


「観音楽さん、貴方を次期『Para Dogs』特別抜擢権においての特別試験許可をここに下達します」


 それは唐突にして何処までも夢に見た俺の理想の言葉だった。

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