第一章
生まれはここ、日本の中心である東京。日本と言う国の中で最も異能力によって栄えている首都。そんな都会の中である年に生れ落ちた男の子。名前を、楽と名付けられた、観音家の一人息子。
誰しもそこまで変わらないはずのただの生まれに、聞こえない亀裂の音が響いたのは、小さな赤子に映えた髪の毛が生まれつき見事な金色だったからだろうか。
生まれて保育器に入れられて直ぐ行われたらしい検査で判明した、異能力者の証明。髪色だけなら、父親のドイツの血と言う理由もあったのだが。異能力の波形が計測されてしまえば、この髪の色は遺伝ではなく異能力発現者の証としての識別記号となった。
実際にはお腹の中にいる頃に異能力が発現することは無いから、生まれて直ぐに覚醒したのだろうけれども。
まだ生後一時間経つか経たないかの赤子。その男の子がこの先に歩んでいくちょっとした苦労の道の始まり。
俺の両親はどちらも異能力を有しては居なかった。だからこそ愛すべき子供が異能力保持者として生まれてきたことに少しだけ話し合いがあったらしいと後に聞かされた。話し合いの結果、俺は『Para Dogs』の施設ではなく生みの親の下で育てられる事になった。それを間違いだとは、俺には思えない。少なくとも、記憶に僅かに残る両親に注いでもらった愛情だ。忘れるわけにはいかない。
この体に宿った『催眠暗示』と言う異能力は、言葉を喋らない幼い頃には目立った騒動を起こさなかった。暗示とは、その者が理解の出来る指示を催眠状態で無意識に刷り込まれる事で効力を発揮する。だから、喃語と呼ばれる乳児の発するような意味のない声に幾ら異能力を乗せたところで、誰かを暗示に掛けることは出来ない。
しかし子供の成長とは早いもので、一年もすれば意味のある言葉を喋り始める。となれば意図せずに力を暴走させてしまうことだってあるわけで。特に俺が手にした力と言うのは、そういう意味で制御に難のあるものだった。
耳から入って効果を発揮する。聴覚は五感の中でも、無意識である時間が多い感覚だ。必然、無意識下に入り込み、催眠状態を誘発し、暗示に掛けやすくしてしまう。
年を経るに連れて言葉を知る。意味を知る。子供は、やはりどこかで我が儘な生き物だ。親に駄々を捏ねたりする事もあるだろう。世話を焼いてくれる事に当然と思って、横柄な態度になってしまうだろう。時にそれは、命令と言う形を取るはずだ。
俺の時も、そうだった。
人生で一度しか掛からない『催眠暗示』。一度効果を発揮すればそれで終わってしまう一発勝負の異能力。そのたった一度で、俺は失敗した。間違いを正す猶予もないままに、間違えた。
『催眠暗示』を掛けてしまった相手は、母親。それは本当に些細なことだった。
その日は休日で、当時十歳だった俺は家でゲームをしていた。携帯機で、周りもやっている流行の娯楽。子供の集団心理として、みんながしているから自分もやるのだと。
確かリズムゲームだったそれを、耳元で奏でられる曲に合わせて譜面をクリアしていく。
そんな時に部屋に広がった、別の音楽。それは母親が大好きなグループの、リズムも、歌詞も、使われている楽器でさえも空で言えるくらいに無意識下に刻み込まれているだろう歌。スピーカーから流れるその音楽に、あまり興味のなかった俺でさえも覚えてしまうほどに聞き続けた曲。
リズムゲームの最中に割って入ったその音に、それまでミス無く続けていたコンボが途切れて癇癪を上げる。
「だぁあああっ!? 間違えた!」
「宿題はちゃんとやったの? ゲームばっかりしてないで勉強しなさい」
「うるさいなぁっ、母さんが音楽掛けたから間違えたのにっ」
きっと何処にでもある家族の景色。喧嘩なんて少しやんちゃなら当たり前。何よりも息苦しい勉強よりは楽しいゲームの方が優先順位の高い十歳だ。そんな息子を母親が窘めて……そんな、当たり前。
だからこそどこかで積もっていた不満。勉強は楽しくないと。宿題が面倒臭いと。一々母親が煩くて、その所為でもう少しだったフルコンを邪魔されたのだと。恐らく最後の要因が引き金だったのだろう。
いつもの事の様に喧嘩腰で言葉をぶつけた。
「煩いから音量落とすかヘッドホンで聴けよっ」
「楽が宿題を全部終わらせたらそうしてあげるわよ」
「今やれって言ってんだ!」
結局最後には夕食や端末を人質に取られて言い負けるのに。それでも言葉にしなければ胸の内が収まらなくて、中身なんて殆どないその場限りな暴言を吐き連ねる。
そんな子供の俺に言葉では分からないと悟ったか、やがて言い争いを避けて言われた通りにヘッドホンで音楽を聴き始める彼女。恐らく、ゲームをするだけして宿題を放棄し、結果担任に怒られて彼女が正しかったのだと教えようとしたのだろう。放任主義や育児放棄にも似た、少し乱暴な道理の教え方。
彼女のそんな考えには、けれど子供の俺は気付く事もなく久しぶりに言い負かしたと達成感を得ながら再びゲームに戻る。
そうして最後に零した、勝鬨のような子供らしい呟き。
────ったく、もっと優しい人が俺の母さんだったらよかったのに
本音の交じった、小さな音。それが偶然か、ヘッドホンで曲を聴く彼女の耳に届いてしまったのだ。
異能力の乗った言葉が、無意識下に刷り込まれた音楽と共に彼女の鼓膜を震わせる。それは俺が後にこの『催眠暗示』を効率よく行使するために編み出した方法の、偶然に成り立った最初の証明でもあったのだと、今になって思う。
そこからの事は、詳しく覚えていない。なにせ言い負かした事に気分を良くしながらゲームに意識を傾けていたから外の事が認識から抜け落ちた。遠くで、何か物音がしていたような気もする。
ゲームに没頭する子供の俺。その無意識で放った『催眠暗示』に従って、彼女が起こした行動。それは端的に言えば、家出だった。
どんな風に解釈をされたのかは今でも分からない。なにせ『催眠暗示』を掛けた方は、相手が暗示に掛かっている事を実感する術は無いのだ。ただその通りに動いている事を見ているほかない。だからどんな命令を果たすために彼女が動き出したのかは分からない。
気付いた時には、玄関の扉が開く音がしていた。ガチャリと言うその重い音に思わず顔を上げて玄関の方へと視線を向ける。そこには旅行用の大きなトロリーバッグを引いた母親の姿。もちろん疑問には思った。外出の予定なんて聞いていない。買い物にあんな大きな荷物を持っていくとも考え辛い。
けれどもそんな疑問は直ぐに手元のゲームへと意識を塗り替えられて深く考える事を放棄した。そうして俺は、生まれた時から十年間愛情を注いで育ててくれた母親を失ったのだ。
異変に気付いたのは陽も落ちて夜の帳が日本を覆い始めた頃。仕事から帰ってきた父親が部屋にやってきて尋ねてきた。
「母さんはどうした?」
「……さぁ、まだ帰って来てないけど」
「どこかへ行ったのか?」
「うん、荷物を持って。何処に行ったのかは知らないけど」
「そうか…………夜何が食べたい?」
父親も、その時は深く考えなかったのだろう。きっとなにか用事があって家を空けていただけだと。
けれど結局、俺が寝るまでに彼女は帰って来なかった。起きてももちろん、その姿は家には無い。俺が学校に行っている間、流石に不審に思った父親が仕事を休んで彼女を探したが見つかる事もなく。最後に『Para Dogs』へ行方不明届を申請して連絡を待つ事になった。
それから何日経っただろうか。日が経つに連れて俺の胸の中で募った感情。それは母親である彼女に対する子供の我が儘。
まだ十歳だったのだ。喧嘩こそ沢山したけれど、子供だからと、親だからと甘えていた部分があった。
言ってしまえば、張り合いがなくなって寂しかったのだ。喧嘩も、家族としてのコミュニケーションの一つだったのだと後になって悟った。
過ぎる時間に段々と怖くなって行ったのを覚えている。『Para Dogs』から連絡は無い。休日には父親と一緒に探してはいるものの手がかりは掴めない。そんな現状に嫌な想像ばかりが膨らんで、その内探すことも無意味に思えて諦めた。
彼女が居なくなったのは俺の所為ではあるが、その行動は唐突に。そして『Para Dogs』から連絡が入ったのも、これまた唐突に。
その日は学校で普通に授業を受けていた。楽しくもない国語の授業。教壇で生徒に教科書の内容を教えるその景色に、不意に交じった雑音。授業中にやってきたのは教頭先生で、彼が担任を外に連れて行ってしばらくの後、今度は俺が廊下に呼び出された。
そもそもが異能力者だ。周りにも幾人かはいたが、人数で言えば異能力を持たない者が多数。必然距離が出来て諍い事も増える。それに加えて、母親が居なくなったことが原因で教室での居場所を失いかけていた俺に、廊下に出て行くその背中へ向けてクラスの視線が集まって刺さる。子供らしい無遠慮な視線には飽き飽きしていた。だからいっその事、このまま『Para Dogs』の異能力者が集まる施設に入ってしまえばどれ程楽かと考えてすらいたほどだ
そんな俺の耳に飛び込んできたのは早退の話。曰く、母親が見つかったと『Para Dogs』から連絡があったらしいのだ。
父親を経由して伝えられたその言葉に胸の内が締め付けられたのを覚えている。薄々、気がついていたのだ。彼女が出て言った理由は自分にあるのでは無いかと。
どんな顔をして会えばいいのだろうか……。渦巻く感情に答えを見つけられないままに荷物を纏めて学校までやって来た父親の車に乗って『Para Dogs』へ。彼もまた仕事中だったのだろう。急いでいたのか、いつも持ち歩いている鞄がない事に気がついて、けれどそれを口にはしなかった。出来るほどに、車内の空気は軽いものではなった。
その面持ちに。何かを覚悟したような横顔に、俺もまた言葉にならない何かが込み上げてきた。そしてそれを、認めたくなかった。
嘘であればいいと。そんなはずは無いと。否定が願望に変わっていく移動が終わって『Para Dogs』に駆け込むと、出迎えたのは町中で見慣れた紺色の制服姿の大人……ではなく、白衣を着た男性。その事実に、避けられない現実を目の前に突きつけられたように、指先が冷たくなっていく。
違う。違うっ、違うっ!
そう何度も否定しながら案内された部屋の中に居た──ベッドで横になったま動かない母親の姿に、自然と涙が溢れて止まらなかった。
覚束ない足取りで傍に寄って重ねた手のひらは冷たく白く。俺が知る彼女の手より一回り小さく硬く感じたのは、今でも怖いくらいに覚えている。
「すみません。発見された時には既に……」
「…………いえ、ありがとう、ございます」
後ろで、細く弱い父親の声がした気もした。
何でと。どうしてと。後悔と否定が幾重にも折り重なって心の中で渦巻く。
ふと目に入ったのは壁に掛けられた無機質なデジタルの時計。時間は午後の二時を少し過ぎた頃。日付は────
「っ……!!」
その日は、母親の誕生日だった。何歳に、なっただろうか。現実逃避をするように過去に聞いた話から逆算する。
確か俺を生んだのが二十四歳の時……だから今年俺が十歳で、彼女は、三十四歳か。
とても、信じられなかった。目の前で眠る彼女が死んでいるなんて、思えなかった。だってただ寝ているだけじゃないか。ただ冷たいだけで、白いだけで、やせ細っているだけで。だってほら、今にも起き上がってまた頭を叩いて、来そうなのに……。
どれだけそんな想像をしても、目の前で横たわる彼女は起き上がっては来ない。
身近な者の死は、悲嘆に暮れて心を揺られるより、ただ単純に受け入れられなかった。子供である俺には、人が死ぬなんてフィクションの出来事のように曖昧で縁のない物にしか思えなかった。
どのくらいそうしていただろうか。気付いた時には家に戻ってきていて、鍵の開く音でようやく現実に意識が浮上する。
それと同時に、ありもしない期待を膨らませて玄関を蹴り開けるように家の中に駆け込んだ。
先程見たのは何かの間違いで、夢で。そこにはいつものように大好きな音楽を聴く彼女が居るのだと。
けれどそんな想像は、もちろん現実には起こりえない。見回した部屋は随分寂しく色褪せて冷たく見え、いつも彼女が座っていた場所にはまだ微かに残り香があるような気がして。いつの間にかその毛布を体に巻きつけて何かに抱かれるように蹲っていた。
まともな食事もとらないままそうして数日。学校へ行く事も拒否して、考えながら何も考えない日々を過ごしていた。
その中で分かった事が二つ。
母親はもう戻ってこないこと。そしてきっと、その原因を俺が作ってしまったこと。
その気は無かった。客観視すればそれは純然な事故だ。だって本気ではなかったのだ。なのに異能力が働いて、望まない景色を手繰り寄せてしまった。
ならばやはり、責任は俺にあるべきなのだろう。俺は、望まず母親を殺したのだ。
そんな事実に、けれど泣くほどの涙は残っていなくて。憔悴した何かを癒すように眠りに落ちる。そうすれば、少しだけ現実から目を背けて居られたから。
それでも逃げられないのが深い後悔と言うものだろう。
異能力者は、夢をよく見る。安息を求めて目を閉じた先の世界でも、俺は母親を殺す夢を何度も見た。
最初は追いかけても離れていくだけの母親の後姿。それを息が苦しくなりながらも追い駆け続けると、やがて立ち止まった彼女に追いつくのだ。そうして縋るように飛びついたところで色々な景色が起こる。
伸ばした手が彼女を突き飛ばす事があった。それは高層ビルの屋上で。はたまた駅のホームで。そう言う時は必ず彼女の体が遠くに消えていくのだ。そうして喪失感に苛まれながら、早くなった鼓動に目を覚ます。
触れられない時は、透明になった彼女の体を通り過ぎた事もあった。思わずこけそうになりながら振り返れば、光の粒子となって消えていく母親の姿。これもまた喪う事に拒否反応を示してやがて意識が覚醒する。
当然追いつけないままに見失って喪失感に苛まれる事も多々あった。
そんな夢の繰り返し。やがて眠ることさえも怖くなって毛布の中で静かに震えるようになった。
今になって思えば、そうして彼女の存在を身近に感じている事がそもそも原因だったのだろう。人間の夢には嗅覚が大きく作用する。過去に実験が行われ、脳波を測定し夢を見ているだろう人の傍ににおいの強いものを置くと、それが夢の中に出てくるというものだ。確かその時はバナナだったか。詳しくは覚えていないが、まず纏まりがない夢の世界で、更に支離滅裂気味に関係のないバナナが突然現れるという、話にしてみればシュールな夢をその人は見たそうだ。
同様に、彼女のにおいが染み付いた毛布を身に纏って眠れば、普通の頻度が多い異能力者の夢に彼女の事が出てくるのは当然と言えばそれまでだ。
夢に彼女の事を見て、現実では彼女の事を考えて。子供だった俺にはその悪夢から覚める方法も知らずにその螺旋へと溺れ続けていた。
やがて曖昧に過ぎた時間の中で気付かない変化が起きていて。ようやく少しだけ上げた視界に映ったのは、僅かに荒れた部屋の惨状。一瞬泥棒かとも思ったが、それにしては強く残る生活の痕跡にようやく知る。
……まぁ男二人だ。これまで家の事を頼ってきた分、家事の能力が底辺をうろついているのは仕方ないのだろうと。
やる事も見つからなくて、気晴らしに掃除でもしようと食べたそのままの食卓を見渡して小さく笑う。
皿には食べ残したらしい焼きそばが三分の一。インスタントのカップ麺は、中身こそ食べきっていたがスープは残ったままに、油が膜を張って子供の分離実験の再現。それから、皿に盛るのも面倒だったか、せめてもの気遣いにと布かれた新聞紙の上に鎮座する煮物の入った鍋。
それ以外にも空の飲み物に酒の缶。店で買ってきたのだろう出来合いのサラダのパッケージなど色々な物が並んで、宛ら懐石料理の如く色々な食べ物が中途半端に残っていた。小蝿が集っていないだけまだましかもしれない。ここに黒く光るあ奴が現れたら、幾ら俺でも見兼ねて片付ける気なんて起きなかっただろうと嘆息しつつ。
一つに手をつければ眠っていた導火線に火が点いたのか、気付けば時間を忘れて部屋丸ごとを掃除していた。作業は脳裏に過ぎる母親の見よう見まね。
現実に引き戻されたのは浸け置きしておいた汚れのひどい洗い物を片付けている最中のこと。響いた玄関の開く音にそう言えば部屋の換気がまだだったと考えながら手早く最後の食器を乾燥機に突っ込んで部屋の窓を開けに向かう。
そうして重く感じたガラス戸を引けば、吹き込んできた風にカーテンが揺られて、胸の内から何か重いものを持っていってくれた気がした。
「…………楽……」
「おかえり、父さん」
「……あぁ、ただいま」
久しぶりに見た気のする父親の顔。疲れて少しやつれた気のするドイツの色をした彼に振り返れば、彼は少しだけ沈黙を挟んだ後頭を掻いて零した。
「……夜は、どこか食べに行くか?」
「父さんが疲れてないなら」
「ならそうしよう」
「……風呂に入ってくるよ」
不健康で不衛生な生活をしていたのは分かりきったこと。溜まった体の不快感は既に許容量を越えていて、何かから逃げるように脱衣所に駆け込んだ。
そうして準備を整えて……いつ振りだろうか、父親と二人で歩くのは。何だか少しだけ変わって見える外の景色は、掃除をして整理された心境の変化だろうか。それとも育ち盛りに背でも伸びたのだろうか。食事はまともにしていなかったが、睡眠は十分以上に取っていたのだ。もしそうであれば随分と捻くれた成長ホルモンだと笑えるのに。
向かった店は近くのレストラン。外食と言えど流石に高級料理とは行かない。俺の家は、ただの一般家庭だったのだ。
頼んだのは好きでよく母親に作ってもらったオムライス。店で食べるそれとは違って、とろっとふわっととはしていなかったが、それでも何故か大好きだったのだ。今になって思えば、母は余り料理が得意ではなかったのかもしれない。オムライスも、よくよく思い出せば所々に焦げ目がついていた気がすると。
スプーンですくって一口。外食らしい、万人がよく求める柔らかい食感に焦げ茶色のデミグラスソース。そんな有り触れたオムライスに、見た目も味もそこまで似ていない母親の手料理を重ねて懐かしく思う。
「……おいしかったね、母さんのオムライス」
「…………あぁ、そうだなぁ」
思わず零れた声に、父さんが寂しそうに零す。
……そうだ、悲しんでいたのは俺だけではないのだ。今だからこそ分かる。子供で甘えていただけの俺よりも、大人で愛していた父さんの方が、きっと何倍も辛かったのだ。
「…………俺が、原因だよね」
「そんな事は無いさ。事故だった。楽は何も悪くない」
優しい音。父親らしい言葉に、スプーンを強く握って黙り込む。
ずっと、ずっと考えていた。俺の所為で母さんは死んだんだって。例え偶然でも、俺が殺したんだって。
子供だから、責任の取り方なんてわからなかった。だからどうしたら許してもらえるかずっと考えていた。戻ってこない景色に憧れたまま、どうにか前に進みたいとも思っていた。その葛藤が、いつの間にか一つの答えを胸のうちに渦巻かせていたのだ。それもまた、掃除をしたからかもしれない。
掃除の途中で休憩をした際に、少しだけ端末で調べ物をしたのだ。言ったら父さんは怒るかも知れないけれど。けれどもう、俺にできることなんて、考えられることなんてこんなことしか思いつかないから。
「父さん、俺……施設に入ろうと思うんだ」
「施設って……楽、それはっ……」
「分かってるっ。でも、俺がそうしたいんだ」
それは『Para Dogs』にある異能力者が保護される場所。施設、なんて名前で話にはよく出るけれど、実際のところ隔離だ。
「ずっと考えてた……。考えて、けど母さんは戻ってこないんだって。悪いのは俺なんだっ」
「だからって楽がそんな事をするのは違うだろう。母さんだってっ──」
「父さんのためなんだ!」
話し出した感情は止まらないまま、父親の声を遮って続ける。
「俺はこの力を制御できてない。また無意識に使うかもしれない。だから、今度は父さんがいやな目に会う前に、俺が父さんを守りたいんだっ」
「……どうしてそんな事を」
「…………家族、だから。家族で、居たいから」
もうこれ以上耐えられないのだ。自分の所為で誰かが傷つくのは。誰かを、傷つけるのは。それで胸が痛くなるから。
「施設に行っても、会おうと思えば会えるよ。完全に離れ離れになるわけじゃない。ただ俺が迷惑を掛けないようになるまで、少し頑張ってみたいんだ。一緒に暮らすのが嫌とか、そういうのじゃないから」
「…………本気か?」
「……うん」
きっとこの傷は、いつまで経っても消えることは無いだろう。例え記憶を書き換えたとしても、事実に母親の死に加担したことには違いない。
だったら逃げるのではなく、向き合うために。同じ過ちを繰り返さないために、この力を制御できるようにならなければ。そうすればきっと、少なくとも自分なりの納得を生み出して事実と向き合える気がするから。
固い意思と共に告げた言葉。しばらく、彼はこちらの瞳を見据えていたが、逸らすことなく見つめ返して。やがて小さく「そうか」と呟くと、彼はメニューを差し出してきた。
「だったら父さんとして、応援しないとな。好きなものを食べなさい」
「っありがとう……」
そうして俺は、償いとも後悔とも呼べる時間を許されたのだ。
それからの日々は随分と早く鮮烈に時が過ぎて行った。
何か目標があれば、それに向かって邁進する。過ぎる時間はいつもより早い気がして、刻々と時が刻まれていく。
諸々の手続きと荷造り。『Para Dogs』の施設に入れば、基本外には出られない。
大抵は生まれて直ぐに預けられるために、余り多くを知らないままに施設に入ることになるのだが、俺の場合は違う。
自ら選んであの場所に行くのだ。この広い世界を置き去りに、狭い箱庭へ向かうのだ。未練は、ある。
自由な娯楽は無いだろう。途中から輪に入れるか。
けれどきっと、そんなのは気の持ちようなのだ。
できると思って臨まなければ、得意なことでも失敗する。最初は誰だって初めてだ。だったら何より大切なのは、己のための楽しむこと。楽と言う両親から貰った名前に恥じないように、精一杯にしたい事をするだけだ。
気付けばやってきていた施設への移動の日。学校の退学手続きとか、諸々の事は父親である彼が全てしてくれたおかげで、滞りなく。退学、とは言っても施設内ではほぼ同じような授業が受けられる。言わば転校だ。新天地で始めるだけ、そこに現実との大差はそれほどない。
覚悟と共にやって来た『Para Dogs』。紺色の制服に身を包んだ女性に連れられて向かった先は、日常でよく目にしていた『Para Dogs』本社の天を貫く建物、ではなく、その敷地内に立てられた白い球形の建造物。ちらりと見えた案内板には異能力保持者特別養護施設と堅苦しい名前。監獄とも紙一重な、わけありのあつまる施設だ。
中に入って部屋で待っていたのは、この施設の管理人である四十代の女性。四十代とは言っても、童顔なのかそれとも薄い化粧のせいなのか、柔和で背の小さい見た目は三十代……下手をすると二十代に見えてもおかしくは無い美人だった。
話を聞いたところ、彼女は無能力者らしいと。語ってくれた身の上は、過去に異能力者だった自分の子供を失って、それから今の職に就いたのだと聞かされた。
それが俺の事を思って吐いた嘘なのか、それとも真実なのかはどうでも良い事。ただ単純に、そんな失敗をしても衣食住さえあれば生きていられると。やりたい事を見つけたいと生きていれば、その内何かが噛み合って景色が変わるのだと。
前向きに意思を持って生きなければ死んでいるのと同義。だから自分で選んでここに来た俺には、まだ未来があるのだと優しく語ってくれた。
その言葉に後押しもされながら。俺は『Para Dogs』の施設へと入ることとなったのだ。
施設の中は清潔で簡素な造りをしていた。一面白色に無駄なものの殆どない建物には、俺を含めて全員で二十七人の子供たち。彼らは殆ど全員が親の顔を知らないうちからここに預けられた、生まれながらの異能力保持者達。特に目立つのは髪色で、ファンタジー小説の登場人物のように色鮮やかな身体的特徴。異能力を持った者達を目にすることには外にいた頃に慣れていたつもりだったが、そもそも異能力者はまだ数が少なく、無能力者の方が人が多い。結果『Para Dogs』のあるこの地域でも目に付くのは日本人らしい黒や、せめて少し染めたのだろう茶髪が主だ。だから見回した景色の九割に鮮やかな色合いがあることには流石に少し驚いた。
中にはもちろん髪色が黒いままの子もいた。けれどその子も、異能力を使えば見た目が変わる。
そんな少し不思議な空間で、俺は想像以上の歓迎を受ける事になった。
どうやら彼らは外に興味があるらしい。まぁ物心ついたときからこんな場所で過ごしていれば当然のことか。そこに外の事を知る者が現れれば、期待の眼差しが向くのは必然のことだったのだろう。
知らないうちに周りには人が集まり、気付けば俺は外で経験し、見聞きしたことを色々と話していた。
最初の覚悟がどれ程悩んだ末かなんて、結果論うまくいけばそれでいいのだ。
そうして受け入れられた俺は、施設で日々を過ごす事になった。
することと言えば外でしていた勉強に加え、異能力についての座学と実技。まずは正しい知識と世間から見た異能力者の立場を改めて学びなおす事になった。
異能力保持者が歴史にいつ現れたのか。どんな種類があって、どんな効果を及ぼすのか。それを利用した犯罪や、『Para Dogs』の存在意義。
異能力を持っているからといって、それで世界が平和になる何て事はない。日本ではないどこかでは、異能力を軍事利用して戦争だって起きている。それくらいには危険で、色々な意見があるのだ。
結局物は使いよう。その気になれば道端の石だって立派な凶器なのだ。だからこそ、最も大事なのは正しい知識と正しい行い。それに失敗したからこそ、ここにいるのだろうけれども。
学ぶ事を学んで、食事をし、寝る。すべてが施設内で行われ、時折『Para Dogs』の敷地内で外の空気を吸いながら遊ぶ。健康的で良い事だが、少しばかり退屈だったのは否めない。
なにせ少し前までは娯楽の沢山ある世界に居たのだ。それと比較すれば、随分と質素で面白味にかけるのは仕方ない。けれど自分で選んだ道。気持ちに嘘を吐けば、犯した罪から逃げる事になる。無理を通した意味がなくなる。
誰のためか……それを何度も考えては自分に言い聞かせて生活に馴染む努力をした。
そうしてしばらく経ったある日、施設に父親が顔を見せた。話は、どうやら彼は前の会社を辞めて『Para Dogs』で働く事にしたらしいと。無能力者でも事務仕事なら『Para Dogs』でも勤まる。そこにどうにか居場所を見つけたらしい。特にドイツ人である事を理由に、他国との綱渡しとしての役割も勝ち取ったのだそうだ。
そのためか、これから色々と忙しくなり、今までのように顔を見にくることは出来ないと聞かされた。
確かに寂しくは思ったけれど。傍に居ようと『Para Dogs』に入社したのだ。それにもう十歳。ある程度の事は自分で決められると、彼の事を笑って祝福できたのが何よりの成長だったかもしれない。
同時に、考える事もあった。これで本当に、頼るべき相手が居なくなる。だからしっかりして、一人でもどうにかなると伝えられれば、少しでも安心してくれるだろうか、と。
もうこれ以上、自分が理由で誰かを不幸に振り回したくないのだ。
そんな風に志してからは、それまでよりも真面目に勉強をするようになった。
管理人の彼女曰く、施設は十八歳までしか居られない。その後は、色々な場所に引き取られるのだ。
異能力に秀でた子はそのまま『Para Dogs』の社員として働き始めたり。養子縁組をして生まれた家族とは違う場所に引き取られたり。その辺りは様々らしい。もちろん、十八までと言わず、もっと早くにこの施設を去る子も居るそうだ。
だったら自分が目指すものは何か……。直ぐに考えて答えが見つかった。
この『催眠暗示』と言う異能力は危険だ。使い方を誤れば他人を傷つける。それを制御できたなら、今度は誰かを助けるために使うべきだろう。
少なくとも誰かを傷つけたいとは既に思えないから。
となれば選択肢に一番に上がるのは『Para Dogs』で正しいことの為に使うこと。
『Para Dogs』は国が……世界が認めた異能力の統治組織だ。全てにおいて絶対に正しいなんて事はないけれど、少なくともルールがあるから成り立つのだ。そのルールを振り翳す者になれば、自分を正しいと騙せるはずだ。
規則に溺れずに正しい行いをしようとする気持ちに、正義らしさはあるはずだから。
見つけた夢は目標となり、確かな道になる。生きる事に意味が生まれ、前に進む力が生まれる。
そうして目的を叶える為に時間を割き始めるのと同時、いつの間にかいなくなっていた周りの子供達の姿。一月もすれば興味なんて失せて俺は普通に施設の子供として生活をしていた。代わりとして傍らには、いつも本が幾つか。
自主勉強と言うなら聞こえのいい、努力と言えば否定したい、そんな我武者羅な方法論。
何かに集中をしていると時間が過ぎるのは早いもので。父親が最後に来たのがいつだったかさえも忘れるほどに色々な事を知識として詰め込んでは、異能力の実技の教師としてやってくる『Para Dogs』の構成員に時間を見つけて色々な事を尋ねた。
どうすれば『Para Dogs』に入れるのか。そのための勉強をどんな風にすればいいのか。
回数をこなす毎にやがて異能力の方向性が見えてくれば、管理人が口添えをしてくれたのか、それとも何か光るものがあったのか。異能力に関しては専属の先生がつくようになった。
とは言え催眠や暗示と言う類はやはり危険だ。やり方を一つ間違えれば大惨事にだってなる。当然、最初から人間相手の練習などできるはずは無い。
そこで取った方法が動物に対する『催眠暗示』。人体実験が出来ないならモルモットで……何て言うと聞こえが悪いかもしれないけれど。少なくとも一番安全で管理のしやすく、周りに害のない方法であったのは確かだ。
何より異能力と言う特性上、人間相手でなくとも簡単に掛かってしまう。練習には丁度よかったのだ。
それに動物への催眠と言う話は別におかしな事では無い。手品などで使われる鳥も、事前の仕込みで催眠に掛けて暴れないようにする事で成り立っているタネもあるのだ。魚の眼を覆うと動かなくなるというのも有名な話かもしれない。
色々なところで催眠や暗示は利用されている。それこそ、人間の集団意識だって暗示のようなものだ。
しかしそうは分かっていてもどうにもならないものも存在する。俺個人のトラウマだ。
そもそも『催眠暗示』が原因で施設にやってきて、その最初に歪めた景色は母親の死だ。肉親を手に掛けたも同義。そんな事実をまともに受け止めることが、十歳の子供に簡単に出来るはずもなく。
訓練と言えど最初の二年ほどはメンタルケアが主だった。
なにせ『催眠暗示』を使おうとすると体が拒否反応を示して吐くほどだったのだ。根が深く残る過去の記憶。犯した過ち。その度に脳裏を巡る母親の顔に何かを責められているようで怖かったのをよく覚えている。今でも時々思い出す。
だからまずはその深くに根差す記憶に対する意識の修正から。その段階から『催眠暗示』に頼るわけはいかず、地道に重ねた二年。
そうしてようやく『催眠暗示』に対してどうにかまともに向き合えるようになり、更に相手が動物だと言い聞かせる事で何とか『催眠暗示』を試す事が出来たのは、俺が十二歳になってからだった。
『催眠暗示』は一回限りの暗示だ。だからしっかりと意思を持って行う無害な命令ならば何も怖くは無いと。
施設にやってきて志し、二年越しでようやく始まった異能力制御の訓練。問題が一つあったとすれば、俺の『催眠暗示』は音を媒介するということ。つまり、耳が弱い動物には掛からないし、注意しなければ教えてくれる先生にも影響が及んでしまう。それを起こさないための訓練だと言うのに、本末転倒では話にならない。
だから最初は個室で通信機を介しての指導。どうやら機器を間に挟むとノイズが走って効力が弱まるらしいのだ。それでもその気になれば機材など関係ないほどに相手を『催眠暗示』に落としてしまえるのだと聞かされて、改めて自分の力の大きさに驚きもしつつ。
ある程度自分でコントロールできるようになった後で、まずは詳しく教えてくれる先生……『催眠暗示』の先輩に誤って掛けてしまわないように先に別の暗示を掛ける事によって事故を防いだ。
『催眠暗示』の内容は彼が俺に『催眠暗示』を掛ける事。そして彼が俺に掛ける『催眠暗示』は、先程彼に掛けた『催眠暗示』を解くというもの。これで互いが互いの『催眠暗示』を経験する事で、三大制限の一つである、『催眠暗示』は一度しか掛からないを満たす。
よくもまぁそんな方法が思いつくものだと関心さえしながら彼に『催眠暗示』を使ったのを覚えている。
なにせ他人に対してはどこか距離を置いていたのだ。母親の事で、会話の端に滲む『催眠暗示』にいつ目の前で言葉を交わす相手を狂わせてしまうか分からないと気が気ではなかったのだ。
だから施設にやってきて直ぐに他の人たちに囲まれた時も、恐怖から余り込み入った話はしなかったのだ。そうする事で少なくとも警戒心が生まれるから。ある程度自制や壁があれば無意識とは言え『催眠暗示』には掛かり辛くなると聞かされていたのだ。
お陰で、一時期持て囃されたその扱いも鳴りを潜めて、逆に必要以上の壁を作ってしまった気もしないでもないが。
けれど自分から意識して『催眠暗示』を掛ける事に少しでも自信がつけば、そこから心を乱すことさえなければ基本暴発するような事はなかった。もし暴発をしても、慌てずに『催眠暗示』を解けばいいだけのこと。
その事を煩いほどに教えてくれた先輩には今でもとても感謝をしている。お陰なのか何なのか、彼が眼鏡を掛けていたから、眼鏡を見ると今でも彼の事をよく思い出す。これも立派な後催眠暗示といえばそれまで。己の中で立派な抑止力となっているのだから、暗示の有効活用だろう。ただまぁ、関係のないときに思い出すのはなんだか囚われているみたいで嫌ではあるのだが……。
何にせよ、彼のお陰で色々な事を学ぶ事ができたのは確かだ。
更には『催眠暗示』を利用するための自分なりの方法を見つけろとも言われた。今では既に確立されたやり方……音楽の中に『催眠暗示』を混ぜ込んで、それを聞いた者に『催眠暗示』を掛けるという相手の無意識を突く少し悪役染みた方法論も、彼の提案のお陰だ。それを見つけるまでにももちろん色々な苦労はあった。
『催眠暗示』を掛けるというのは、即ち相手の無意識に入り込んで操ることと道義だ。それが原因で施設にやってきたのに、今度はそれを有効活用する方法を見つけろなんて酷な話だろう。
けれど『Para Dogs』で異能力者が働く以上、その力を頼られるのは必然。いざと言うときに使えないと言うのであれば『Para Dogs』にも居場所がないと言われて、どうにか見つけたやり方だ。それもまた自己暗示といえば少しだけ笑える話だ。
音楽と言う媒介に頼ったのは、そこに意思が介在しないから。少なくとも、自分が『催眠暗示』でどうにかしようと思わない限り誰かを巻き込むことは少ないから。そうして確かな形を経る事で、音楽を『催眠暗示』を操る時のトリガーにする後催眠暗示を自分に掛けたのだ。
そこからは音楽全てに反応しないように条件付け。自分で作った音楽に限れば、『催眠暗示』を使う機会は極端に減る。となれば音楽を作れなくてはいけなくて、そうして興味と必然性から音楽について色々学んだのだ。
何よりの決め手は、母親を失ったきっかけが音楽だったから。親に貰った名前に観『音楽』と付いていたから。単純で、胸の奥に蟠っていたからこそこだわりがあったのだろう。
気付けば義務感からではなく、単純に音楽が好きになっていた。ピアノ、ギター、ベース、ハーモニカ……。手軽なものから少しだけ技術の必要なものまで、色々な音を聞いてはそれに手をつけた。
そして何より、声も音なのだと気付いた。人間も一つの楽器だ。口笛にタップやクラップ、叩けば音も出るし、指を鳴らす音ですら確かな旋律になる。少しだけ楽しくなってボイスパーカッションやヒューマンビートボックスにも挑戦してみたが、あちらの世界は俺には難しかったらしい。
そんな脱線と経験を繰り返しながら自分の異能力を確立して行ったのだ。
押し付けられるでなく、自分の意思で学んだからこそ苦痛に感じる事もなく必要な事を吸収して。異能力への恐怖がやがて扱えるという自負に変わるまで何度も練習を重ねて。
そうして俺は『催眠暗示』とようやく向き合う事ができるようになったのだ。母親の死と言うトラウマがあったのだから、大袈裟な話ではない。俺にとってはそれだけ大切なことだったのだ。
確かに実感が得られたのは施設にやってきて五年も経ったころ。それくらいには母親の事が胸の奥に支えていたのだ。もちろん、今だって忘れたわけではない。ただ自分がしでかした罪だと認めて、その上で納得しているだけ。どれだけこの力を良い事に使ったとしても、それで過去の罪が消えるわけではないのだ。
五年も掛かった制御だ。それだけ苦労をすれば、当然削ぎ落としたものも存在する。
友人だ。結果として施設で一緒に暮らす子供たちとは随分と距離を置く事になった。最初は巻き込む事が怖くて。制御訓練を始めてからは、そちらの心身の疲労で避けていた友人たちがいつの間にか傍を去って。俺は俺で『催眠暗示』を克服する事に必死になっていたから余計なものだと切り捨てて。
気が付けば『催眠暗示』が制御できるようになった時に、友達と呼べる相手が一人も居なかった。
それでも小さな施設だ。決められた時間の食事や風呂では嫌でも顔をあわせる事になる。基本同年代が多い空間。十五歳と言う思春期真っ只中の者達が作る人の輪に、今更入って行ける訳も無く。互いに関心はありながらも何かが怖くて一歩を踏み出せなかったのだ。
別に何かを抱えているのは俺だけではない。生まれた時から親と離れ離れで施設で暮らす子達だ。それぞれに色々な悩みがあって、壁だってできるだろう。必然で当然と言えば当たり前の結果だ。もし過去に戻れて歴史改変が出来るなら、もう少しいいやり方で安心のできる居場所を作りたいと願ってしまうほどには後悔がある。
友達も居らず、ようやく異能力がまともに扱えるようになっただけの子供。出来ない事を知って、けれどそれを今更変えようとは思えなかった。
その頃既に施設を出た後の進路として『Para Dogs』への入社がある程度現実味を帯びてきていたのだ。それもきっと影響して、どうせ出て行くなら今更友人など作らなくてもいいと歪んだ決心を固め掛けていた。
これだけ歪んだ人生と心だ。要のことだって笑えないし、逆に同属だとも思えてくる。だからこそ心のどこかで相容れないからと悪態を吐いてしまうのかもしれないが。
そんな風に過ごしていたある日。また一人施設に新しい子がやって来た。時期外れの新しい子は、頻度としては一年に一人やってくるか来ないかと言う感じだ。基本そういう子達は年度の境である四月に纏めてやってくる。
感覚的には転校生と言うのがしっくりくるだろうか。そんな毎年転校生がやってくる学校なんて曰く付きな気がして遠慮したいところではあるが……。
また、基本生まれて直ぐに預けられる施設ではあるのだが、五歳から七歳くらいになるまでは別の場所で養育され、その後俺が居た施設へやってくるというのが基本だ。
その女の子……名前を稲生加々美と言う十歳の少女。俺が施設に入ったのも十歳の時で、その事に少しだけ親近感を覚えながら。異性と言う壁もあったが、それ以上に彼女の事が気になったのは仕方のないことだろう。
俺にとって十歳とは激変の時間だったのだ。それと嫌でも重ねてしまうのだから、気付けば目で追う様になっていた。
彼女は生まれた時から『Para Dogs』に預けられていたらしいが、この年まで施設に居たのには理由があったらしい。それもまた自己紹介のときに彼女自身が語ったことだったのだが、彼女が持つ異能力が不安定で稀なものだかららしいのだ。
それは、『能力転写』と言う名前の特別を秘めた力だった。
一つの異能力に限定をして、他人の異能力を使用できるというもの。もちろん前提に異能力であるからして、制限は存在する。詳しいところはその時には語ってもらえなかったが、よくある話では本物より劣化するとか回数制限があるとかだろう。
異能力の複製。それは使い方次第では大きな武器になるが、同時に危険にもなりえる。
まず複製したところでそれを上手に扱えるかとか……。彼女に限った話では、『能力転写』の使用に際してコピー先をまだ明確に固定できないと言うものがあるらしい。それは俺が経験してきた制御の途中段階。
意図せず複製して、それが暴走した場合……複製した異能力が強力であれば大きな被害を辺りに撒き散らす可能性がある。その経験は俺もしたから、よく分かる痛みだ。
また複製は制限までをも写し取る。つまり異能力を使用すれば、制限に引っかかり何かしらの代償を支払う可能性もあるのだ。
無意識で使ってその償いを勝手に押し付けられる。いつ暴走し、どんな効果が現れるかも分からない力なんて、ただの恐怖の対象にしか成り得ない。
だからこそ彼女は、どこか諦めたように人の輪を拒んだ。
加々美は心根の優しい少女だったのだろう。自分の所為で誰かを傷つけないように他人を遠ざける……。俺も同じやり方を見つけて、そして失敗したのだ。
時間は、戻らない。歴史は、変えられない。
だからこそ過去にも未来にも意味が生まれるのだ。
それに気付いたのが、彼女が施設にやってくる少し前のこと。『Para Dogs』の行動規範である歴史を守るという目的に色々考えて出した結論だ。
ならばその失敗の道を歩んだ先達として……勝手に色々重ねてしまった僅かなお人好しが、彼女を助けたいと思ってしまったのだ。
せめてこの苦痛を味わわないようにと……。気付けば施設に来て殆ど一人で過ごしていた加々美に声を掛けるようになっていた。
少なくとも、こうして話をしていれば彼女は一人では無い。誰かがそうしていれば、自然と他の人も接する事に躊躇いが薄れるだろうから。最初のその役割を引き受けようと。
心のどこかでは、俺も友達が欲しかったのだろう。その欲求を満たすために利用した側面も存在するかもしれない。そうして、彼女を利用して自分の過去を救いたかったのかもしれない。変えられない過ちを目の前で繰り返さないために……彼女が独りで無くなれば、自分が救われるような気さえしながら。
酷い自己満足だというならそう謗られても否定はしない。ただそれは本当に僅かで、一番には彼女の事が心配だったのだ。
そんな風に加々美と過ごす日々は、色々と大変だった。
そもそもが人見知りだったのかもしれない。そこに異能力と言う確かな形が偶然あって、彼女の孤独を加速させたのだろう。単純に、中々相手にされなかったのだ。
挨拶は当たり前のように無視。隣に座って食事をしても無言。問い掛けには頷きすら返らない。その内最初に聞いた彼女の声すら忘れてしまうほどに、自分のしている事が無意味に思えてきて募る思いもあった。
けれどそれでは何より俺自身が納得できなかったから。根気強く、何処までもポジティブに前だけを見据えて彼女に声を掛け続けた。その前向きさも、『催眠暗示』をコントロールする上で大前提に持ち直した心のケアの一つ。
異能力も結局は使う者次第。つまりは心がすべてだ。だからこそ、良い事に、ポジティブに考える事で理想を描きそれを現実にする事を教えられたのだ。
その事を彼女にも教えるように。言わばこれは、俺が彼女にしていた心のケアだったのだろう。知らず精神に干渉している辺り、『催眠暗示』がこの身に宿った意味も皮肉にさえ思えてくると。
どれくらいの間加々美に声を掛け続けていただろうか。顔を合わせれば何かその場限りな言葉を投げかける。意味さえも分からなくなる様な一方的なやり取りに、やがて確かな声が返った時には、最初それが彼女の声だとは気付かなかった。
「……うるさい、じゃまっ」
まるで喉の奥から精一杯に搾り出したように尖った声。悲痛な、聞くのも辛い自分でさえも殺してしまいそうな声。
それは想像をしていた言葉ではなかったけれど。少なくとも言葉を一切交わしていなかった頃に比べれば随分な進歩に思えながら。たったそれだけの事に再びやる気を思い出して声を掛け続けた。
否定されてもいい。それが彼女との意思疎通と言うのなら、そのまま突き通すだけだと。
傍から見ればストーカーに見えたかもしれない。もちろん彼女の後を着け回したことは無い。ただ目に入れば、なによりも優先して彼女に声を掛けていただけの事だ。
そんな風に時々返る彼女の鬱陶しそうな声に意味を見出している……なんだか危ない関係に時間と注意を割いていたからか、そのほかの事が疎かになって空気を悪化させていた事に気付いたのが、殆ど取り返しの付かなくなってからのことだった。
そもそもの話、俺は施設で独り者だったのだ。『催眠暗示』の件で遠ざけた施設の子達。彼らとの関係を同じように歩んで欲しくなくて気に掛けていたのに、けれど一向に改善する空気が感じられないと。思って見回した景色の中で、最悪の事態に気付いたのだ。
彼らから見れば、俺が彼女に声を掛けているのは異様に映ったらしい。それは彼女がこちらの言葉を跳ね除けている事も影響して……俺が友達欲しさに独りである加々美を『催眠暗示』で無理矢理に操ろうとしていると見えたのだろう。
当然、そんな事実はどこにもない。逆に、彼女の事だけは何があっても『催眠暗示』で現状を解決しないと心に決めていたのだ。
けれど彼らの視点も、確かにそう映っても仕方のない物だ。
狼少年……に近いだろうか。これまで他人を遠ざけてきた俺がいきなり一人の子へ優しくなったのだ。疑いもすれば警戒もするだろう。そこに彼女の言葉でやめて欲しいという拒絶の色が見えれば、定まらなかった焦点が像を結ぶのは明白なことだ。
誰かに悪気があった訳ではない。集団が起こす無意識で、言葉にならない違和感だ。誰かを責めようとは思わないし、自分がした事を間違いだとも思わない。
ただ少し、間が悪かったというか、これまで積み重ねてきたものの反動だろうと。
気付いてしまえば、どうすればいいかも自然と分かった。
これ以上こちらの事に巻き込んで彼女の印象が悪くなるのは望むところではない。ならば遅い引き際として不用意な干渉はしないべきだ。
弁明も、するだけいらぬ誤解を招きそうで控えた。少なくともこれで今以上の悪化は抑えられるはずだから。
けれどこれまでして来た事が誰かのためにならないと知って、やはりと言うべきか少しと言う言葉では収まらないくらいに落ち込んだ。その気がなくても誰かを傷つける。距離を置く事でしか助けになれない。情況が一切好転しそうに思えない。
自分が蒔いた種と言えばそれまでだが、少しだけ納得のいかない気持ちはあった。
どうして俺だけがこんなに失敗しているのだろうか。こんな俺が『Para Dogs』に入って異能力を使ったところで本当に誰かのためになるのだろうか……。
やっぱりそれは、どこかで自己満足に過ぎないのだと考えて、するべき事を見失い掛けた。
施設の子たちには距離を置かれ、己の目指すべき場所にも疑問を覚えて。施設に居れば嫌でも考えてしまうと至った頭が短絡的に施設の外へと足を向けていた。
行く当てなどなく、何をしたいのかも分からない。ただ自由で独りであれば、少なくとも誰かに迷惑をかけるリスクは減るかもしれないと。
頭のどこかでは分かっているのだ。施設に預けられた時から、個人は管理されている。脱走する者も時にはいるために、位置追跡用の腕輪を常時身に着けている。だからどうせ連れ戻される。
外に出たところで、頼る相手など居ないのだ。結局は何事も無かったかのように施設に戻るしかない。だからこの腕輪を壊す事もなく身に着けている。
そうして、誰かに見つけてもらって、自分に意味があるのだと確かめたかったのかもしれない。
久しぶりに外に出て吸った空気は思った以上に暑く淀んでいて、胸の奥に重く蟠る。こんな空気をほんの五年前には当たり前のように吸っていたのに、施設で少し寒いくらいの室温で過ごしていた所為かそちらに慣れてしまった。
たった五年の事なのに色々と変わってしまった価値観と環境。必然で自分の選んだことなのに、その行く末にこんな事で悩んでいるのが馬鹿らしい。
自分で選んだ道なのに自分以外に意味を求めて……。己の人生が自己満足以外の何かなら、それはその者の人生では無い。前に何かの本で読んだ気のする言葉を思い出しながら空を見上げる。
快晴模様の青い頒布。雲のない天上に輝く眩しい太陽。何も変わらないはずの景色が変わってみるのは、やっぱり主観だからだろうかと。
益体もなく色々な事を考えて立ち尽くしていると、不意に掛けられた声。
「何をしているの?」
思わず驚いて視線を目の前に。そこに立っていた美しく年を重ねた女性に言葉を忘れて見つめ返す。
そんな無礼な挨拶に、けれど目の前の彼女はどこか楽しそうに白く総やかな髪を揺らして柔らかく笑う。
「ごめんなさいね、邪魔をしたかしら?」
「……いえ」
「何をしていたか聞いてもいいかしら?」
「…………居場所が見つからなくて」
「だったら家来る?」
まるで遊びにでも誘う気楽さで問い掛けて来る女性。
……どうせ行く宛てもなかったのだ。彼女の道楽に付き合うとしよう。
「あぁ、そう言えば名乗っていなかったわね。私の名前は、由緒よ」
「観音楽、です」
「いい名前ね、よろしく、楽君」
そうして差し出された彼女の手のひら。七十歳くらいのおばあさんにしては肉付きも血色もいい生きた温かさ。知らずその手を握り返していて、同時に込み上げてくる物に疑問をぶつける。
体はそうでもないはずなのに、どうして心はこんなにも楽しそうに跳ねているのだろう。