第四章
未来と目的を共有して一時の絆を強くすると話題を由緒のことへ移した。
彼女は現状誘拐されている。
脅迫状が届いていた以上どちらかが偶然と言うことは無い。
彼女を狙ったのは要との交渉材料にするためだろう。
「とりあえず由緒さんを誘拐したのは《傷持ち》の可能性が一番大きいかな」
「まぁそうだな……『催眠暗示』で操れば…………」
「……どうしたの?」
言葉の途中で考え込む。
『催眠暗示』の干渉は意図されていない過去の出来事だ。だとしたら過去への干渉で未然に防げるんじゃないか?
「……例えば少し前に飛んで由緒の誘拐自体を不発には出来ないのか? ほら、俺を助けてくれたみたいに」
言って、それからできるという根拠を並べる。
「過去に飛べる時間はあるよな? 病院から家に飛んだとき、時計を確認したら体感より進んでた。それに未来もさっき言ったよな、十五分未来に生きてるって。ってことは未来も俺も存在しない十五分間の空白の時間があの時に存在する。そこに行けば──」
「それは無理だよ」
けれど要のそんな提案は、彼女の言葉で一蹴される。
「だって由緒さんの誘拐は今から考えて過去の出来事。過去の出来事は変えちゃいけない。脅迫状がそこにあるよね。それが偶然って事は無いでしょ? 現に昨日由緒さんは帰ってこなかった。つまり帰って来なかったって言う結果がある以上、あの時間に行っても由緒さんを救えないよ。それにあの時間に由緒さんが誘拐されたかどうかも分からない……。過去になっている以上、それは正しい歴史だよ」
「そう……か…………」
いい案だと思ったが無理なものは仕方ない。
「ただ確かにお兄ちゃんが言う通りあの時間には十五分の空白がある。あれは何かあったときのための緊急避難時間として作った空白なんだ。何かに使えればと思って……」
「そう言えば透目さんは? 間接的な異能力の干渉なら過去を変えられる。透目さんの異能力って何なんだ?」
「そういえば話してなかったね……。お父さんの能力は『記憶操作』、人の記憶を書き換える能力だよ」
先程未来道具を説明するために書いた紙の余白に未来が記す。
名前の通り記憶操作。これまた強力な異能力だと恐ろしくなる。
「制限は?」
「見たほうが早いでしょ。取って来るから待ってて」
言って階段を昇っていく未来。
一人残された空間で手持ち無沙汰だったのでとりあえず減っていた未来のコップにお茶を注ぎ足しておく。それからピッチャーの表面に結露した水滴を拭っていると未来がファイルを丸ごと持って下りてきた。
机の上に透目のページを開いて見せる。
「これだよ。何か分からないことがあったら聞いてね」
広げられたページに目を落として綴られた文字を読んでいく。
前提条件、一度に操作できる記憶は二人まで。
記憶の消去、記憶の書き換え、記憶の転写が行える異能力。
制限①、記憶を覗かなければ、この異能力は使用できない。
制限②、異能力保持者の記憶の消去、他者への転写は出来ない。
制限③、時間移動能力保持者には記憶操作を行えない。
制限④、この異能力で無能力者へ記憶を転写した場合、その記憶は一日しか持続しない。
制限⑤、この能力で異能力保持者に記憶を転写した場合、その記憶は半日しか持続しない。
制限⑥、記憶操作をするたび異能力行使者の記憶が少しずつ消えていく。
制限⑦、この能力は72時間に一度しか使えない。
幾つか嫌な文章が目に付くがとりあえずは最後まで読んで納得する。
未来は制限は五つほどが平均と語った。それより少し多いという事はやはり強力な異能力なのだろう。
「……なんだか異能力って欠陥品ばっかりだな。完全な異能力ってないのか?」
「ないよ。制限があるから無闇には使えないで、ある程度平穏は保たれてる。逆に完全な異能力があったら、それこそ戦争が起きちゃうよ」
「それもそうか」
彼女は超能力とは違うと語った。
確かにその通りだと思うし、期待を裏切るというのは要個人の感想に過ぎない。
「それじゃあ質問。制限②の中に他者への転写は行えないってあるよな……。これって異能力保持者の記憶を別の人物に転写することはできないって事だよな。それじゃあ逆に異能力保持者へ誰かの記憶を転写する事は出来るのか?」
「できるよ。ただし、転写元となる記憶は無能力者のものだけだから、それしか転写できないけどね」
「殆ど無能力者限定の記憶操作か……そう考えると出来る事が少ないな。それにこの能力を使っても異能力を持ってる《傷持ち》には効果がないんだよな」
「そうだね。例えば記憶が消せるなら、過去に来る前を突き止めたり、由緒さんに接触する前に記憶を操作して誘拐を起こらなくする事はできたかもだけど、それは異能力保持者には効果がないから」
「記憶も、なくなるしな……」
要が一番引っかかっているのは制限⑥だ。
他人の記憶を操作する変わりに自分の記憶がなくなっていく。異能力を使いすぎればいつしか彼は自分の事も分からなくなってしまう……。
彼の記憶を犠牲にして受ける異能力だ。そう簡単には使えない。
「未来が言ってた記憶がなくなるってこういうことだったんだな」
「移動先の時代の人たちは知っちゃいけない事を知るわけだからね。あたしたちが未来に帰る時に関わった人の記憶を消すのは当たり前と言えばそれまでだよ」
できることなら覚えていたいけれど、それが理由で未来を変えることだってあり得る。バタフライエフェクトの火種を消すのに必要なことだ。
「……これって時間移動とセットに使うことが多いよな?」
「一応それ以外にも使うけどね」
「って事は直接干渉じゃなくて間接干渉って事になるのか?」
「……言われてみればそうだね。今までは疑問に思わなかったけど、制限に抵触してないんだからそうだと思うよ」
やっぱり未来は何処か抜けている。
彼女はそれが愛嬌になるのだからその見た目が卑怯だ。
そんな事を考えていると未来が零す。
「…………因みに、ね。お父さんはあたしの事を覚えてないんだ」
「え…………?」
「便利な異能力だからね、あちこちで必要になるわけ。そうなれば必然沢山異能力を使って、沢山記憶を失う……。その失った中に、あたしに関する記憶が含まれてたらしくてね。あの時は少し悲しかったなぁ……家に帰ったら誰って言われたんだよ…………。お母さんのことは覚えてたのにね……」
「未来」
「あはっ……大丈夫だって。今はお父さんもちゃんと理解してるし、愛してくれてる。ただちょっとだけ、昔のお父さんとは違うときがあるけどね」
「記憶は、一度失った記憶は戻らないのか?」
「夢は叶わないから夢。人の夢だから儚い……。もし戻ってるなら、お父さんが気付くし──何よりもう一度忘れる可能性があるんだから、思い出さなくていいんだよ…………」
顔を背けた小さな声は僅かに涙に掠れる。
親に忘れられるというのはどんな感じだろうか。要には想像が付かない。
やがて鼻を鳴らした彼女は、笑顔で告げる。
「それに、あたしが覚えてるからっ。あたしの記憶はお父さんにも操作できない。だからあたしが覚えてる限り、お父さんはお父さんだよ」
その虚勢いっぱいの笑顔に何も出来ない自分が嫌で、せめてもと彼女の肩を抱く。
「……お兄ちゃん?」
「…………そうだ。今は俺が兄だ。……だから辛くなったら、俺に言え。俺が聞いてやるから」
「…………うん……ありがとっ」
壊れ物にでも触るかのように要の背中に手を回した未来は、それから軽く服を掴む。
華奢な体。知らない人のばかり場所で、心細い思いをしただろうその心に、せめて少しの間でも拠り所になればと手を差し伸べる。
そんな要の気持ちに、未来は頭をこつんと肩にぶつけて、それからゆっくりと離れた。
「……さて、兄ウムも補給したから話に戻ろうかっ」
「何だよ、その謎成分」
「妹が活動するための最重要物質だよ? 知らないの?」
「……未来では新しい元素が発見されたんだな」
「因みに発見したのはこのあたしだよ」
「ほんとどうでもいい情報だなっ」
笑顔で告げれば未来は少しだけ赤い鼻で笑う。
彼女には笑顔が似合う。
だからせめて要の前でだけは、笑顔で居てほしい。それが兄として妹に望む最大限だ。
「で、えーと、どこまで話したっけ?」
「由緒を誘拐したのが恐らく《傷持ち》で、その過去が変えられないってとこまで」
「そうだったっ」
「それでさ、一つ思ったんだが廃ビルに行くのはどうなんだ?」
「《傷持ち》が居るよ? ホルスターを下げてたから多分『スタン銃』も持ってるはず。ブースターも使ってるし、普通に戦ったんじゃあんまり価値目がないよ。それにあたしが行くと由緒さんを危険に晒す事になるし……」
そう言えばそうだった。それに今の要は未来人だ。今度は《傷持ち》も要に直接危害を加えることが出来る。
脅迫状の事もあるし、下手に行動することは出来ない……。
単純なやり方だが、こういう場合脅迫状と言うのは一気にこちらの打てる手を減らしてくる。
ただの紙切れの癖に、生意気な…………。
「……脅迫状…………」
「お兄ちゃんに武装させるってのも一つの手だけどね……」
思考を巡らせていたところに未来の言葉が飛び込んできて、一つの可能性を脳裏に閃かせる。
「……未来のページってどこだっけ?」
「次のページ。何か思いついたの?」
未来の疑問に直ぐには答えず、彼女の異能力の制限の項目をもう一度読み返す。
そうして、可能である事を確認して顔を上げる。
「…………一つ方法見つけた。けど反対されるかも」
「それは聞いて判断する」
未来の真っ直ぐな視線に思考の箍を外して言葉にする。
「脅迫状には俺が来いとだけ書いてあったよな? 未来が来たら由緒を殺すって」
「そうだね……」
「でも俺が一人で来いとは書かれてなかった」
「一人も何も、お兄ちゃんは一人だけしか────」
言って、未来が何かに気づいたように目を見張る。
「あぁ、そうだ。────そこにいるのが『遠野要』だけなら何人居てもいいんだよな?」
「まさかお兄ちゃんだけ未来に行くつもり!?」
「可能だろう? 未来の異能力を使えば」
「け、けどどうやって戻って……」
「制限⑥、時間移動者が移動先の時間軸で本人に名指しで呼ばれてはならない」
「それは────」
単純なことだ。
要だけ未来に行って、未来の要の助力する。用が済んだら、未来の要に名指しをしてもらい、制限を犯して過去に戻って来る。
名指しが無理なら現代人に軽く危害を加えて制限⑤で戻って来るだけだ。
「それは駄目だよ、お兄ちゃんっ! チャンスは一回しかない! 予知ができない以上、未来で何が起こるかわからないんだよっ? それに制限を犯したらお兄ちゃんは五感の一つを失うっ。そんなこと、あたしは許せない! それに《傷持ち》はブースターを……」
「ブースターなら未来が持ってるだろ?」
「……っけ、けど…………!」
未来の気持ちは分かる。守るべき対象が、こんな事を言うのは彼女にとっても想定外のはずだ。
「だったら未来が考えて。僕が体を張らなくて済む方法。何か代替案はある?」
要の言葉にしばらく他の解を探した未来だったが、その口から妙案は出てこない。
「一人より二人の方がいいのは確かだ。それにチャンスは一回じゃない。一度制限を犯して戻ってきた後、未来が来るより前の過去に飛んで一日過ごして制限⑩の24時間のリミットを過ぎればもう一度干渉できる。それに一回目で後どれだけ干渉すればいいかも分かる」
「それは駄目! 本当に駄目っ!! もし二回の強制送還で聴覚と視覚を失ったらどうするの? 二つ一緒には補助具を着けられな──」
「制限⑪の五感欠損は12時間だよ。24時間待ってる間に元に戻る」
「……っ! ……そう、ブースター! さっきは冗談だったから言わなかったけど、ブースターは体への負担が大きいの! それに持続時間も短い。そんなに沢山使ったらお兄ちゃんの体が……!」
「由緒を救えるなら俺の体なんてどうでもいい」
「っ……!?」
狂っているだろうか。
けれどそれほど由緒は大事だし、そんな幼馴染を攫った《傷持ち》に激情を抱いているのだ。
「…………嫌だよ。だってお兄ちゃんは、あたしが守らなきゃなのに……」
俯いた未来の表情は分からない。けれどきっと自分を責めているのだろう。
守らなければいけない対象に言い返されて、きっとそれ以外の対策案が浮かばない。
だから自分の無力さを呪って、どうにかしないとと躍起になって……。
彼女の気持ちがわからないわけではない。けれどそれが由緒を救う上で一番リスクの少ない手だ。
「……大丈夫だ。俺だってそんなに自分の体を痛めつけたくは無い。やるなら一回でどうにかする」
「できるかどうかもわからないのに……」
「出来る出来ないじゃない。やる。その気持ちがなくちゃ出来るものも出来なくなる」
可能性の問題ではないのだ。そんなの計算したって失敗する時はするし、成功の確率に安心するだけ。
だったら最初から成功以外の理想はいらない。そのために、必要な準備をするだけだ。
「……駄目か?」
顔を上げない未来に問い掛ける。
彼女は否定したいはずだ。駄目だと言葉にして、別の提案を振り翳したいはずだ。
けれどそんな方法があるなら既に思いついている。
だから肯定しかなくて、そうして頷くことが嫌なのだ。
「…………条件。条件付きなら、いいよ」
「どんなの?」
「絶対に一回で終わらせる。それが飲めないならあたしも最終手段をとるから」
「最終手段?」
「未来に帰って『Para Dogs』の協力者を連れて来る……」
「……何だ。意外と単純なんじゃ────」
「もちろん簡単にできるならこんなところでお兄ちゃんと言い争ったりしてないよ」
拳を握る未来に思わず言葉の先を引っ込める。
どうやらその方法は出来れば取りたくないやり方らしい。
一体どんなやり方なのだろうか。
少し気になったが、未来のこと。あまり詳しく聞くのもまた彼女を困らせる事になるのだろうと納得して飲み込む。
「分かった。その条件でやろう。一回だけならここから飛んでもいいしな」
出来る限り笑顔で。これ以上彼女を追い込まないように告げれば、小さく溜息と共に納得してくれた。
折れてくれた未来に感謝をしつつ準備を始める。
服は動きやすいものへ。着替えてリビングへ下りれば、彼女は机の上に道具を並べていた。
要が知っているのは自動小銃型の『スタン銃』だけだ。
「……これは?」
「そっちのグローブが『抑圧拳』。殴った相手が異能力保持者ならその異能力を半日使用不可にする未来の道具。その人が使用する異能力もそうだけど、他人からの異能力の干渉も阻害するように出来てるから、一発打ち込めれば時間移動で逃げられることは無いよ」
対異能力保持者用の制圧道具らしい。
確かに異能力が開花した未来では必要不可欠な存在だ。
「で、そっちのカプセルがさっき言ってた『Para Dogs』で支給されてるブースター。飲んでから効き目が出るまで少し時間がかかるけど人体への影響は少ないよ。ただ簡単に言えば超人になっちゃうわけだから体への負担は大きい。特にお兄ちゃんは体を鍛えてるわけじゃないでしょ?」
「まぁそうだな。極一般的な男子高校生だ。運動部に入ってるわけでもないし」
「だから注意はしてね?」
「あぁ、分かってる」
後のことはそのとき考えればいい。今はやるべき事をするだけだ。
思って、それから目に付いたもう一つについて尋ねる。
白い筒状の物体。大きさは10cmほどだろうか。
「これは?」
「それは『変装服』。変身スーツ、的な? もし必要ならと思って」
「見た目を変えるだけ?」
「うん」
「でも逆効果だろ。俺以外の姿を見られたら由緒が危険なわけだし」
「あ、そっか……」
何処か抜けている。
そんな彼女の天然に肩の緊張を解しながら笑うと、未来が少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ブースターはもう飲んだ方がいい?」
「五分くらいで効果はでるから全部準備できてからでいいよ。それとホルスターはどれがいい? レッグ、ヒップ、ショルダーと一応有名どころは持ってきてるけど」
現代にも存在するがサバゲーでもしなければ目にすることのないホルスター。
要も知識としては知っている程度で身につけたことはもちろんない。
太腿につけるレッグ、腰につけるヒップ、肩につけて脇に下げるショルダー。未来が語った通り有名なのはこの三つだ。
加えて、銃を横向きに入れるホリゾンタルと、縦向きに入れるバーティカルの二種類に細かく分類できる。
要の記憶が正しければ未来はヒップホルスターのホリゾンタルを後ろ腰に着けていた筈だ。
「そう言えば全部右利き用なんだな。未来って左利きだよな?」
「普通右利き用に作られてるんだ。薬莢とかの排出は右にされるからね。それに右手で持てば左利きだって隠すこともできるし。訓練はしてるから右でも外さないよ」
言って自分の『スタン銃』を抜き、構える未来。
そこにあるということはこれらは予備らしい。
「それに少し改造すれば左利き用になるし」
「そう言うのって矯正されるもの?」
「される場合もあるんじゃないかな? あたしはどっちでも使えるように訓練されたから。いつも障害物が左側にあるとは限らないしね」
言われればその通りだと、『スタン銃』を手に持ってみる。
未来のもので、無力化制圧の道具とは言え見た目は殆ど要の知っている自動小銃と同じだ。そういう事に詳しくは無いために何に似ているかとか比較できないが、少なくとも要みたいに一般人が手にするのは場違いなものだろう。
グリップを握った感覚も少し曖昧で緊張する。
「握り方は分かる?」
「本で読んだ知識なら……」
手を縦に。下の指三本でグリップを握り、人差し指をトリガーガードに宛がう。親指は隙間を作らないように高い位置に添える。後は銃口と腕のラインが真っ直ぐになるように。
出来たら今度は左手。中指と薬指に力を入れて右手を包み込むように四本の指を重ねる。小指はグリップから外れているがスルー。親指を右手のそれに重ねれば出来上がりだ。
「……うん、問題ないかな。撃つ時はセイフティーを外すのを忘れないでね。弾はもう入ってるよ。試射してみる?」
「的は?」
「えっと……んじゃこれで」
言って取り出したのは先程『変身服』だと語った10cmほどの筒。それの黒い版。
彼女は丸まったそれを解く。形は人型。その頭の部分を軽く叩くと、見る見るうちに膨らんで人型のバルーンが出来上がる。
「囮とかに使えるかなって持ってきた『人型風船』。頑丈に出来てるから『スタン銃』程度じゃ壊れないよ」
語源はドッペルゲンガーだろうか。
ずんぐりむっくりな見た目だがきっと見た目を似せることができるのだろう。
顔のないのっぺりとした風船を見据えて、それから『スタン銃』に視線を移す。
セイフティーは三種類。安全のア、単射のタ。それから……。
「あれ、ル……? 普通セイフティーの最後って連射のレなんじゃ? で、語呂合わせで当たれ」
「あぁ、それはルガー弾のル。一応実弾も撃てるって事。『スタン銃』は連射が効かないから。それに当たれって言う神頼みより、当たるっていう確信の方が縁起がいいでしょ?」
「なるほど」
ルガー弾はパラベラム弾の別名だ。『Para Dogs』のParaもパラベラム弾のパラ。
やはりその名前を付けた人物は洒落好きらしい。
未来の説明に小さく笑って構える。
体を正面に向け重心を少し前に。膝と肘は伸ばしきらずに余裕を持たせ、足は肩幅に開いて呼吸を整える。
セイフティーを単射へ。
フロントサイトを目標に合わせ、リアサイトから覗く。両目は開けたまま。
右手の人差し指をトリガーガードの中へ。トリガーには指の腹を掛けて第二関節を外へ開く感覚でトリガーを絞る。
緊張の一瞬。まだか……とゆっくりトリガーを絞る中で、突如衝撃が走る。同時に軽い空気の破裂音と共に『人型風船』が後ろに傾いだ。
手には僅かな感覚。
思っていた以上に反動がない事に気付いてセイフティーを掛けると腕を下げ未来に問う。
「……何だかあっけないというか、これやっぱり普通の銃と違うんだな」
「そうだね。派手な音は鳴らないし、反動も実銃と比べると小さい。でも弾は相手に当たればちゃんと無力化してくれるからしっかり機能するよ。それから撃った後のセイフティーだけは忘れないでね。撃てた事が嬉しくなってそれで暴発ってことがあるから」
「あぁ。それは大丈夫だ」
「後反動が少ないからって片手での水平撃ちはやめてよ。薬莢が上に飛ぶから顔に当たると痛いよ?」
「片手撃ちはいいのか?」
「……そうしないといけないなら許可するけど基本両手で。そう考えておけば無茶なことは出来ないでしょ?」
無茶を前提、片手撃ちを前提で行動を起こせば怪我をする可能性がある。
ならば最初から両手で撃つものと決めておけば、自分から進んで無茶な事をしようとは思わない。
危険な道具なのは確か。安全が第一だ。
「装弾数は?」
「15発。実銃と違って薬室に一発込めるとか出来ないからマガジン内の数だけ」
「やっぱり構造が少し違うんだな」
「まぁね」
普通の拳銃とは違うがこれも立派な銃だ。持つ者には責任を。
「それから一つ、有名な言葉を送っておくよ」
「何?」
「Si Vis Pacem, Para Bellum. 汝平和を欲さば、戦への備えをせよ、だよ」
この言葉は要でも知っている。
戦をしたくなければ抑止力となる武力を持てという警句だ。確かラテン語だったか。
「その力はより大きな戦争を引き起こさないための抑止力だよ。だからお願い、その武器に力がある事を忘れないで。必要最低限以上の力を振るわないで」
「あぁ、約束するよ。俺はこの力に驕らない。未来からの借り物だしな」
「……これがマガジン。交換の仕方は分かる?」
「ここのボタンだろ?」
未来の質問にマガジンキャッチを示しながら答える。
マガジンを外すボタンだ。弾の入ったマガジンを同じ場所に入れてスライドを引けば再装填完了。次弾が撃てる。
未来から受け取ったマガジンはどうやら要がよく知る実銃と同じようなものらしい。
試しに一発撃ったマガジンを取り出して再装填する。もちろん薬室に残っている一発もしっかりと取り除いてからだ。
スライドを引いて装填すれば未来も頷いてくれた。どうやら間違いは無いようだ。
「大丈夫そうだね。……とりあえず三十発もあれば足りるでしょ?」
「過剰武装……と言いたいけどあの人間離れした反射神経があるからな。問題はあれをどう攻略するかだが……」
未来からホルスターを受け取って『スタン銃』をしまう。ちなみにホルスターはヒップのバーティカルにした。
要は純日本人。特別腕が長いわけでもない一般的な体型だ。そうなれば腰が一番邪魔になりにくいはずだ。
その異物に慣れるために腰に下げたまま対策を考える。
「《傷持ち》の使ってるブースターに左右されるね。『Para Dogs』で使ってるのは人体に影響の少ないもの。安全性を取れば必然その能力は低くなる。もし《傷持ち》が強力なブースターを使ってたら取り押さえるのは少し難しくなるかな……」
「例えば未来の持ってるそれを飲んだとして、銃弾を弾くことはできるのか?」
「……できないことはないと思う。けど、どこに撃って来るか分かってないと難しいと思うよ」
「《傷持ち》は異能力保持者なんだから未来人で……だとしたら過去の事を知る術を持ってたとしてもおかしくは無いんじゃないか? それこそ《傷持ち》に協力してる異能力者の能力でその景色を確認した後に襲ってくるとか……。過去が決定されてるなら可能だろう?」
「…………まぁ、たしかに。もちろん否定はしたいけどね……」
否定云々はその未来が知る時間移動能力保持者の協力に対してだろうか。
未来がその人物にどんな感情を抱いているのかは分からないが、要の視点は客観視のそれだ。知らないからこそどんな想像でも平坦に行える。
「そう考えると俺がこれから行く未来は、《傷持ち》にとって決められた過去かもしれない。俺にとっては知らない分不利か……」
「予知で知った未来は変えられないものとして確定するけど、知らなければ未来は変えられるよ。あたしはその可能性を信じてるから、お兄ちゃんに託すの」
「……そうだな。知らないからこそ、その不条理を覆すんだ。この手で、未来を作る────」
自分の手のひらを見つめて、それから顔を上げる。
やる事は分かっている。《傷持ち》を捕まえる。ただそれだけだ。
難しいことは分かっている。けれどしなければならないのだ。やり遂げるだけ。
胸の内に意志を灯して目標を定めると未来に告げる。
「手柄、横取りして悪いな」
「調書にはあたしの手柄って書くから問題ないよ」
……何だか少しだけやる気が減った気がする。
未来の冗談に笑って、それからブースターを飲む。
効果が出るまでの間、『抑圧拳』を身に着けて準備する。
「『抑圧拳』は拳で殴ればいいから。相手もナイフを持ってる、接近戦は注意してね?」
「ナイフ程度なら……」
「ブースターで強化した攻撃だからね。忘れないでよ?」
「そうだった……。ったく、未知数だから怖いんだよ…………」
物語の中の主人公はこんな未知数にいつも挑んでいるのかと考えると阿呆じゃないかとさえ思えて来る。
やっぱり俺は主人公じゃなくていい。それこそ未来が主人公の話の方が読むと数倍面白い気がする。
彼女の仕事柄、話のネタには事欠かないのだろうと思いつつ、そうして危険に晒されて尚、事件を解決しようと取り組む彼女の精神に脱帽する。
「そう言えば未来は事件を解決し損ねたことはあるのか?」
「ないよ。だって未来はあたしの手の中にあるから」
「……何そのキャッチフレーズ…………」
「言わないでっ。あたしも恥ずかしいんだから」
「自分で言ったんだろ……」
「お父さんが昔勝手につけたのっ。あの頃はまだそう言う事に抵抗がなかったから…………」
言って行き場のない感情に身を捩る未来。
そんな風に小さく狂っても美少女は得だなどと、どうでもいい事を考える。
「……勝利の女神が味方についてるんだから大丈夫だな」
「……何それ恥ずかしい」
「ちょっとでも庇おうと思った俺が馬鹿だったっ」
お願いだからマジトーンはやめてくれ。
女の怖いところに触れた気がして少し気を落としながらしばらく待つ。
するといつしか体が軽くなって、手足が理想のヒーローみたいに機敏に動くようになった。
「体はお兄ちゃんのものだからね。あんまり無茶すると後で動かなくなるよ」
「その時は未来が助けてくれ」
「『スタン銃』で眠ってればいいよっ」
酷い事を言う妹だ。
悪戯な微笑みに笑顔を返して彼女の手を取る。
「……それじゃあ行くよ。目を閉じて時間と場所を想像して──」
鈴の音の転がるような心地よい響きが紡がれる。
体を委ねるように未来の声にしたがって視界を閉ざす。
脳裏に思い浮かべるのは今夜七時、ショッピングセンター近くの廃ビル。
そう言えば脅迫状には廃ビルと書いてあったが、どうしてその名前を《傷持ち》が知っていたのだろうか。あれは要の周囲で使われている単語なのに……。
そんな事を考えたのも束の間、次の瞬間未来の手のひらの感触がなくなって体が右へ引っ張られる。
後ろの次は右か。一瞬とは言え重力方向が変わるというのは頭の中が揺さぶられているようであまりいい気分ではない。
ぐにゃりと周囲が歪む感覚。そんな異次元に迷い込んだ雰囲気を抜けて、要は一人未来へ飛ぶ。
その先に変えたい未来があるから。
* * *
未来の感覚からしてみれば一瞬の出来事。
未来へ飛んだ要が、空間を捻じ曲げて再び目の前へと現れる。その体は傷を負い、腕や襟が局所的に赤黒く染まっていた。
あまり他人だけを未来に飛ばした経験のない未来は、その感覚に慣れないまま問い掛ける。
「…………どうだった?」
「──未来は理想通りだ。そうなる歴史になったらしい。それから────俺が二人いた」
呟きに息を飲む。
彼が語るのはこれから起こる未来の出来事だ。普通ならば未来のことは言葉には出来ない。
けれど未来の異能力の制限は行った先でしか効果を発揮しない。つまり、制限に抵触して強制送還で戻った先では、未来で経験してきたことでも制限に抵触せずに言葉に出来る。異能力の制限の輪から外れるのだ。
これは言わば抜け道だ。強制送還で五感の一つを失う代わりに決定した未来の出来事を知ることが出来る。
「けど二人なら問題ない。この後時間を進めてこの俺が廃ビルに行けばいいだけだ……。それで今この時間から飛んだ俺と、現地に足を運んだ俺とで、二人…………。やったぞ、未来。歴史を再現してきた……!」
何処か疲れた表情で微笑む要に、聞きたかった言葉を聞いて胸を撫で下ろす。
知らない未来の歴史と言えど、歴史という完全なる第三者の視点からしてみれば、この時間の要が未来に行くことも、その先で理想通りの景色を手に入れることも決まっていた事だ。
だから彼の歴史を再現したという言葉は正しい。
今目の前にいる彼にとって、廃ビルでの出来事は既に過去だ。
要は、過去から未来を再現して正しい過去の歴史にして見せた。あたしの願いが現実になる事を証明してくれた。
「……お疲れ様、お兄ちゃん」
「あぁ…………。けど、眠いな……。昼頃にまた起こしてくれ」
「うんっ」
労いの言葉を送って床に座り込む要に頷く。
そうして、気を失うように倒れこんだ彼を受け止めて、感謝と尊敬を胸に抱いたまま彼をソファーに横たえる。
起きていれば未来が彼を抱え上げた事に慌てていたのかもしれない。もしかすると軽口を叩いて睦言のように笑顔を浮かべたかもしれない。
切り傷のついた頬をハンカチで拭って絆創膏を貼り、救急箱を準備する。もちろん未来製だ。深く刺されでもしていなければ処置できる。その程度の知識は身につけているし、それができるのが未来の技術だ。
少しだけ迷って服を切るのは止めておく。上着をどうにか脱がし、目ぼしい傷を見ていく。
流血はしていたが幸いか大きな傷は腕にあるだけ。それも軽く切りつけられた程度だ。この程度なら直ぐに手当てできる。
一体どんな戦闘を繰り広げてきたのか。調書のためにも後できっちりと聞かなければと思いつつ、処置を終えて腰から抜いた『スタン銃』で扉を一発撃つ。
空間固定弾。これでこのリビングは彼とあたしの二人きりだ。例え時間移動能力保持者でも時空間の切り離されたこの空間に割って入ることは出来ない。
誰にも邪魔されない、二人だけの時間。
その小さな幸福を噛み締めて笑みを浮かべる。
「……ありがとう、お兄ちゃん。あたしの────」
言葉には出来ないけれど。心の中で彼の事を想う。
事件が起こるのは嫌だけれど、今回ばかりは感謝だ。
だってあの人の過去を、こうして一緒に紡げるから。
* * *
気を失うように眠った意識が音と匂いを感じて浮上する。
まだ少し重い体を持ち上げれば、耳が何かが弾ける音を捉えた。音のしたほうに視線を回せばそこはキッチン。コンロの前に立つ未来は何処か楽しそうに鼻唄を奏でながらフライパンの中で具材を躍らせていた。
どうやら料理中だったらしい。壁に掛かった時計を見れば針は昼飯時を指し示していた。
「……っと」
ソファーから立ち上がればふらついた体。くらりと揺れる視界を片手で覆えば、手のひらに覚えのない感触。指でなぞればどうやらそれは絆創膏らしかった。
刹那、眠りに落ちる前の未来での出来事が脳裏に蘇る。
そうだ、俺は未来に行って、あいつと────この傷はその証だ。
幾つもの交錯を思い出す中で、袖を捲って腕の傷を見る。そう言えば服が違う。きっと彼女が着替えさせてくれたのだろう。
思いつつ、切られた辺りに指を這わせてみるが目だった傷跡は無い。確かに切られた記憶はあるのだが……。
記憶を順に旅して、その最後に笑みを浮かべた未来の姿を捉える。
その後の記憶がないところを考えるに、あれから眠ったのだろう。恐らく彼女に対して告げただろう言葉も曖昧であまり思い出せない。
そんな風に幻想と現実の狭間で揺れていると目の前に水の入ったコップが差し出された。
「起きたなら言ってよ。とりあえず飲んで」
「あぁ、ありがと……」
どうにか受け取ってそれから口に運ぶ。
ただの水だ、味もなければ冷たいだけ。けれど意識を覚醒させるにはそれで十分。
喉を通り過ぎた冷たい感覚に天井を仰いでしばらく。それからようやくしっかりと戻った意識で未来に視線を向ける。
「気分はどう?」
「……あぁ、うん。まだ少し頭はくらくらするけどとりあえずは大丈夫だ。腕の傷は……」
「それは治しておいたよ、未来の技術で」
「詳しい手順とか聞かなけりゃ、何でもありに思えて来るな」
「そんなに万能じゃないからね? あと耳も聞こえてるね。目も見えてる。まずは大丈夫そうかな」
耳に目。彼女のその言葉で脳裏に異能力や制限の事が蘇る。
そう、俺はあの未来から制限を犯してこの時間に戻ってきた。その代償に、五感を一つ失ったはず──
自分の手のひらを見つめて纏まりきらない頭でどうにか考える。
未来の言う通り目も見えている。耳も聞こえている。コップや肌を触った感触もあったから触覚も無事。後残っているのは味覚と嗅覚だが…………。
「……いい匂いだな。何作ってたんだ?」
「野菜炒め。ご飯は昨日の夜の残りだけどいい? お味噌汁はインスタント……。殆どあたしは作ってないけどねっ。もう直ぐできるよ、食べられそう?」
「あぁ、そう言えば腹も空いてるな……」
嗅覚も問題なく機能している。と言うことは失ったのは味覚だろうか。口にしたのが水だけなので何とも言えないが。
冷静な思考がそんな結論を下すのと同時、台所の方へ小走りで向かった彼女が皿に色鮮やかな野菜を盛り付けて運んで来る。
別に何も特別なことは無い、有り触れた品目だ。なのに何故か未来が作ったり並べたりしているというだけで何か別の料理のように綺麗に見えてくる。
一番問題がありそうなのは頭の処理能力かと。
「それじゃあ食べよっか」
「……いただきます」
要が動くより先に目の前に用意された昼食。
これじゃあまるで病人では無いかと呆れるもう一人の自分を余所に、箸を手にとって彼女手製の野菜炒めに手を伸ばす。
「……ぁれ…………。指がうまく……」
「もしかして痺れる?」
「いや、その……思うように動かないってだけで……」
「ブースターの影響かな。多分効果が切れて感覚が変になってるんだと思う。そういう話を聞いたことがあるよ」
「そっか…………」
彼女の言葉を聞きながら幾度か試してみるがうまく野菜を掴めない。
恐らく一時的なものだろうがこれでは折角の彼女の手料理が食べられない。
どうしようかと思考を巡らせつつ、視線の合った未来にとりあえず笑顔を見せてみる。
すると彼女は少し悩んだような仕草を見せた後何故か深呼吸をして姿勢を正した。
「…………あ、の。あたしが食べさせたら、駄目……かな?」
「え……?」
「お、お兄ちゃんはあたしの護衛対象だからっ。何かあったら助けるのは当然の事だよ、うんっ」
何やら言い訳がましい言葉を顔を逸らして紡ぐ未来。その頬が少しだけ色付いている事に気がついて要も居心地が悪くなる。
「いや、多分頑張ればどうにか食べられるし……」
「あぁ、もうっ。お兄ちゃんはあたしの言いなりになってればいいの! これはあたしに心配を掛けた罰っ、いいっ?」
「お、おうっ……」
剣幕に思わず押し切られて頷く。
言って失敗したと悟ったが彼女の言いだした事だ。今更言葉の先を引っ込めさせるわけにも行かないし、折角の好意。素直に受け取るとしよう。
「えっと…………あ~ん……」
要も要で何かに対して言い訳をして、それから彼女の差し出した一口を受け入れる。
未来から守りに来てくれた人物とは言え、一度は家族になる事を受け入れて妹として接した少女だ。見た目も現実離れして可憐だし、こうして真正面から向き合えば気恥ずかしさが込み上げて来る。
一応要の周囲には大和撫子っぽい身形をした彼女が異性として存在していたが、彼女はやはり幼馴染で異性と言う枠組みとは何か違う。
言わば未来は要の周囲で一番女らしさを意識する人物だ。
そんな少女が、恥ずかしそうに頬を染めてこちらを見つめて来るというのは流石に勘違いを起こしても無理は無いと思いたい。いや、起こしたところでその先に待ち受けているのは別れなのだから痛みが残るだけなのだろうが……。
気付けば咀嚼していた未来の手料理。思わぬ形で口にする事になったなどとどうもでいい事を考えて、それから気付いた事に少しだけ落胆する。
「……どう、かな? 美味しい?」
「…………美味しい、んだと思う」
「……あ、そっか。味覚か…………」
曖昧な要の返答に未来も思い至ったのだろう小さく零した。
どうやら要は未来への時間移動と、それに伴う強制送還で味覚を失ったらしい。
匂いは分かる。食感も分かる。けれど味がしない。
人間の味覚は嗅覚の情報が殆どだ。人間は味を舌で感じているわけでは無い。匂いから味を感じているのだ。もちろん味の正体が全て匂いかと言われればそれも違うと何かの本で読んだ気がするが。
簡単な話、鼻を摘んで食べれば味は殆どしない。だから嗅覚がなくなれば味覚はなくなるのだろうとは思っていた。
けれどどうやら味覚がなくなるというのはその嗅覚からの信号さえもなくしてしまうらしい。
匂いは分かるのに味が分からないというのはつまるところ、味覚に関する情報が麻痺しているということだろう。
だから匂いが分かっても味が分からない。不思議な感覚だが、今回ばかりは少しだけタイミングが悪かった。
端的に、未来の手料理の味が分からない。
「噛んでる食感はあるんだけどな……一切味がしない。これならまだ目がやられる方がよかったな」
「それはそれで大変だと思うけど……そっか、味覚かぁ…………」
「まぁ体の中に入れば栄養にはなるからさ。味はしないけどそういうものだって納得すれば食べられないことは無いから」
「……無理してない?」
「未来の手料理なら無理してでも食っとかないとな。もしかしたらこれが最後かもだし」
「っ…………!」
胃に入れば何も変わらない。
彼女の好意を無下にするのが嫌で、思った事を口にすれば未来は肩を揺らして頬を染めた。
本心をそのまま言葉にしただけなのだが、何かまずい事言っただろうか?
何か言葉が返るだろうかと未来の瞳を真っ直ぐ見据えれば、彼女は視線を逸らして早口で捲くし立てる。
「あ、やっ、違っ。別に、その、そういうのじゃ……。いや、その……うん。……また、作るから…………」
「うん? うん」
何やら要領を得なかったが自己解決したらしく小さく呟いて口を閉じる。
うむ。女心ほど男の手に負えないものは無い。深く考えるのはよそう。
変な誤解で彼女を追い込んでも仕方ない。ここは兄として振舞うだけだ。
「……まぁ、そういうわけだからさ。よかったらもう一口」
「えっ……あ、そうだね。ごめん。えっと、はい、あ~ん……」
二口目を咀嚼しつつ思う。
どうでもいいがこれから毎度その「はい、あ~ん」を言うつもりなのだろうか。だとしたらこちらとしては少しむず痒いのだが……。
そんな事を考えているとはっとした未来が立ち上がって台所に何かを取りに行く。静かな部屋にカチャカチャと小さな音が響いて、それから彼女は一対の食器を持ってくる。
未来が手に持っているのは、銀色に輝くスプーンとフォーク。
「……何でもっと早く気付かなかったんだろう。はいこれ。箸じゃなければ自分で食べれるよね?」
「………………折角だから未来に──」
「テレビつけるよ?」
無視ですかそうですか。
渋々差し出された食器を手にとって食事を始める。
もう少し駄々を捏ねて粘ればよかっただろうか……。テレビの喧騒を味のしない食事のお供にしつつ時間を過ごして、食べ終えた食器を片付けるとソファーに体を横たえる。
食べて直ぐに横になるのは体にもよくは無いのだろうが、実を言うと座っているだけでも意外と体力を使う。
おそらくブースターの所為なのだろう。体が異様にだるくて重たいのだ。
もちろん要が意地を張った末の自業自得といえばそれまでだ。しかしこうなる事を知っていればあんな策は取らなかったかもしれないと過去の自分を少しだけ恨む。
そんな昔に対する小さな不満。
それが例えば取り返しのつかない景色を生み出したりしたら、その過去を変えたいと願ったりするのだろうか……。
「なぁ未来」
「何?」
「後悔とか、しないのか? 俺の護衛は未来にとって仕事だろ。失敗したことがないとは言え、嫌なこととか納得したくないこととか、なかったのか?」
「……もちろんあるよ。嫌な光景見たりもした」
「…………どんな?」
興味本位で尋ねる。
降りた沈黙。地雷だったかと未来の方を窺えば、視線が合った彼女は薄く笑って話し始める。
「時空間事件ってのは、大抵の場合過去を変えたいと願った人が決められた過去に干渉しようとすることで起こる。だから追いかけていけば過去に起こったその人の嫌な事にあたしも直面する事になる」
「……………………」
「……一番記憶に残ってるのはね、ある女性が亡くなった自分の夫の死をなかった事にしようとしたこと。亡くなった人を助けようとしたんだ」
回る思考が、分かりきった結論を脳裏に描き出す。
「もちろんあたしは過去を変える事を見過ごせないから、それを止める。男性は他殺だったらしくってね、目撃者の少ない事件としてその当時は取り扱われたの」
「……犯人は」
「捕まってなかった。だから犯人を見つけるっていう目的もその人にはあったんじゃないかな」
最愛の人物が誰かに殺されて、犯人も掴み切れずにその死を受け入れろだなんて酷な話だ。確かに行動に及ぶ動機は理解できなくは無い。
「あたしは事件の概要を調べて、その人の代わりに犯人を突き止めようとした。そう言う事ができるような場合もあって、その時はそれが出来たから」
「それで?」
「結論から言えば歴史は改変されずに、事件は解決。その人を殺した犯人も分かったよ……」
言葉を濁す未来。彼女の冷たく感情を押し殺したようなその声に、要もそこでようやくその事件の鮮明な景色を思い描く。
「その男性を殺した犯人は──未来からやってきた女性だった?」
「……………………」
黙りこんだ未来。無言の肯定に要は小さく息を吐く。
過去への干渉は意図された歴史でなければ現代人に危害が及ぶ前に強制送還のような形で仲裁が入る。
けれど例えば、未来から来たその女性が過去のその人物を殺すことが決められた歴史だったなら──その景色は必ず再現されてしまう。再現しなくては、ならないのだ。
その女性にとっては不幸だったとしか言えない。
同時に、犯人が見つからなかった理由も納得できる。
だって夫を殺した未来のその女性は、きっとその後過去に危害を加えたために未来に戻されるから。その時間に、犯人はいなくなる。
ただただ、運が悪かったとしか言いようがない。
「……嫌な事を思い出させてごめん」
「ううん。過去に干渉するってのはそういう報われない結果に終わることが多いから、納得はしてたつもり。…………ただちょっと、あまりにも衝撃的だったからね」
彼女の脳裏にはきっと今そのときの景色が思い起こされていることだろう。
彼女の異能力がいつ開花したもので、いつから『Para Dogs』に所属し、そう言った事件に当たっていたのかは分からない。
ただ今の彼女はまだ16歳の小さな少女で。少なくともそれより若いときにそんな鮮烈な光景に直面したのだ。はっきり言ってトラウマ物だろう。
「どうして未来は今の仕事を続けてられるんだ?」
「歴史を……世界を歪めないようにする為だよ。死は平等だって言う人が要るけど、それと同じように過去は嘘をつかないんだ。だから正しいこととして、曲げちゃいけない。だからあたしはそれを守るために今もこうして時空間事件と向き合ってる」
「……嫌だったりしない?」
「誰かがやらないと、世界は歪んじゃう。あたしの知ってる未来には繋がらなくなっちゃう。世界が壊れるかもしれないし、誰かが生まれてこないかもしれない。戦争が起きるかもしれない。何が起こるか、わからない」
「今ある平和を守るために、か…………」
「例えそれが誰かの不幸の上にある平和でも、やっぱり歴史は変えちゃいけないし、それを真っ直ぐ見据えて納得しないといけない。それを教えるためにあたしはこうしてるんだろうね……」
何処か寂しそうに呟く未来。
それではまるで彼女の未来が全ての過去に縛られているみたいだと。
要だって幾度か夢を見たことがある時間移動能力。けれどそれを持った者は、過去や未来と言う軛に縛られ、その外側の理で世界の管理者のように感情を殺すのだと。
そこに彼女の意志はどれ程あるのだろうか。
そんな事を考えて近くに座る彼女の存在を遠く感じる。
「それでも未来は未来だ。今ここに存在してる」
「どうしたの、急に……?」
儚く笑う彼女が目の前からいなくなってしまうような気がして必死に繋ぎとめるための言葉を探す。
けれど要はただの人間で、たった十五分程未来に生きているだけの少しずれた存在だ。
彼女の痛みを分かち合うことも、彼女の全てを理解することも出来ない、小さい誰か。
けれど知ってしまった事を手放すには彼女と関わりすぎてしまったから。自分なりの納得を求めて言葉を紡ぐ。
「……未来は、もっと自分を大切にした方がいい」
「…………お兄ちゃんがそういうならそうしよっか。とりあえずこの事件が片付いたら有給でも貰うとするよっ」
殊更明るく言い放った未来の笑顔にやっぱり何も出来ない自分が悔しくて。
彼女が少しでも自由を得られるようにと要は要の出来る事を探す。
部屋を満たすテレビの音声が、今だけは嫌に耳障りだった。
「……暗い話になっちゃったね」
「……………………」
「体はどう?」
「ん……あぁ、大丈夫そうだ」
気付けばいつも通りに持っていた体の調子。
指先を動かしても思った通りに自由に動く。体を動かしてもだるさはなく、立ち上がって跳ねてみれば少しだけ視界が揺れた。
どうやら体調は元に戻ったらしい。ブースターの影響は一過性のものらしい。
体が満足に動くというのはそれだけで幸福なことなのだと噛み締めつつ、過ぎった感慨を言葉にする。
「しかし今後どうやって《傷持ち》を捕まえるかなぁ……」
「え゛?」
返ったのは濁点のついたような濁った声。
どうやら気を失う前の俺はその事については触れなかったらしい。
「…………あれ、言ってなかったっけ? 《傷持ち》には逃げられたよ」
そう言えば今の俺は未来の出来事が言える。強制送還で戻ってくると制限の外側と言うことだろう。
そして異能力の制限は一般的に上書き。
以上から分かったことが一つ。
未来に行って強制送還で戻ってきた場合、移動先の未来では制限の影響下だが、戻ってきた後はその制限からは開放される。更に、戻ってきた時間では未来に行く前に掛かっていた制限が再び効果を発揮するということは無いのだ。
上書きをしているから、その上書きされた異能力の制限の外側に出てしまえば、全ての制限の影響下からは外れる。
そこで新たな疑問。
こうなった場合今の要の扱いは十五分先を生きる未来人ではなく、廃ビルの未来から戻ってきた十五分先に生きる現代人と言う事になるのだろうか。それとも異能力が絡んでいない、純粋な未来人になるのだろうか。
「とりあえず由緒は助かってるはず。《傷持ち》は『音叉』で逃げやがった……」
「……そういうことはもっと早く言ってよ…………」
呆れたように告げる未来。
いや、俺は言った気になっていたのだから知りたければ未来が聞くべきだったのではと……。
不毛な争いになることが想像できたのでとりあえず謝っておく。
「えっと、それじゃあ《傷持ち》は確保できなかったんだよね」
「そうなるな」
「だったら……えっと…………。よしわかった、移動しよう」
「移動? どこに?」
そうして要がいつも通りに満足していると未来が提案を投げかけてくる。
疑問を返せば彼女は答えてくれた。
「ほら、病院から家に移動する際に十五分の空白の時間があったでしょ?」
「あぁ……」
「時空間事件には幾つかの種類があるんだけど今回は随分特殊で犯人が時間移動をできるって言うケースなわけ。つまり相手も制限さえ守ってれば逃げ放題」
「だな」
「ってことはあの十五分みたいに、どこに逃げられても追える様に中継地点とか自由に行動できる地点が多いに越した事はないの」
なるほど。未来の異能力の性質上、過去や未来の基準は大事だ。
だから未来が行動できる範囲……特に相手の行動できる範囲を狭める策は多いほどいいわけだ。
今ある空白の十五分では彼女は今後足りないと踏んでいる。だからそのための空白をこれから増やすということだろう。
「……理解した。で、どの時間に飛ぶんだ?」
「…………お兄ちゃんは廃ビルに行かないといけないでしょ? ってことはその直前、午後六時頃、かな。今からなら五時間くらい空白を作れるから後々使い勝手はいいと思う」
未来の提案は彼女が築いてきた経験に裏打ちされたものだ。そこに要が口を挟める余地は無い。
「…………異論は無い。直ぐに飛ぶか?」
「そうだね。時間があるに越したことは無いから」
「じゃあ行くか」
手を差し出せば、その手のひらを未来が掴む。
柔らかい感触。何度繋いでも慣れない温もりに、けれどやはりあまり恥ずかしさは感じない。
それ以上に要の心は踊っていて、それを言葉にすれば彼女はどんな顔で歪んでいると否定してくれるだろうかと楽しくさえ思う。
慌しく彼女を困らせる景色の中で、要はいつしか未来に異世界染みた距離感を感じていない事に気付く。
それほどに親しくなった証だろうか。それとも他の何かに起因する感情だろうか。
兄としては前者に、要個人としては後者に理由があって欲しいと願いつつ瞼を閉じる。
「……あ、そうだ。空間固定弾撃ったの忘れてた…………」
踊った感情が出鼻を挫かれる。
ここはもう少しテンポよく行く場面ではなかろうかと。こんな調子を外される物語は、要ならあまり読みたくないなと思いながら空間の歪みを元に戻す彼女を待つ。
「何でそんなもの撃ってたんだよ……」
「き、《傷持ち》に襲われたらいけないからっ」
慌てたように答える未来。その頬は少しだけ染まっていて何か別に理由があるのでは無いかと思いつつもとりあえずは詮索せずに目を閉じる。
「それじゃあ思い浮かべて。場所は、あたしの部屋で。結深さんと鉢合わせると後が面倒だから……」
「分かった。時間は午後六時だな」
「……飛ぶよっ」
瞼の裏に描いた景色。
途端その風景に色が着いて、体が引っ張られる。
今度は上かっ。
相変わらず規則性のない重力方向の変化だと思いながら、そのランダムに何処かアトラクションのような楽しさを感じている自分がいる事に気付きつつ未来へと向かう。
その先の未来で起こる出来事を、今の俺は知っている。
だから由緒を救うために。この身を賭して未来を再現するのだ。