第四章
眠る由緒を背負って向かう目的地。陽光降り注ぐ過去の時間。要にしてみれば既に経験のし終えた過ぎ去った場所。
面倒な事件に巻き込まれて、そこに楽しみを見出す歪んだ性格のお陰でこんな場所に居る……。
今更ながらに遠くまで来たものだと嘆息して、隣を歩く赤色の兎結びに長く綺麗な髪を着流した時空間の理の外の少女、未来に声を掛ける。
「……少し休憩しちゃ駄目か?」
「…………ん、まぁいいけど」
体に残る疲労感と鈍痛。
先ほどまで《傷持ち》から楽と、二人続けて相手をし、酷使を強いた身の上で眠る幼馴染を背負っているという状況は、高校生のしがない演劇部員たるひ弱な要には許容量を越えたことだったらしく。
ブースターの超人染みた力を頼るわけにもいかず、疲弊した身でどうにか少し歩いては来たが限界らしいと。
未来の言葉に自動販売機とベンチを見つけて由緒を横たえると飲み物を買い腰を下ろし休息を。
「……なんか、疲れた…………」
「面倒ではあるよね。あたしも一つの時空間事件にこれだけ時間費やしたのははじめてかも……」
それほどに規格外な問題だというのは、他を経験した事がない要でも察する事が出来る。
なにせややこしすぎるのだ。時空間の交錯だけでも追いかけるのに精一杯で、時折自分が今どの時間に居るのか分からなくなる程に入り組んだ事件で。更にそこへ異能力や制限が関わってきて頭がパンクしそうになる。
よくも要は話についていけていると。偏にそれは興味が齎す好奇心に助けられているだけかもしれない。
その好奇心も、今となっては段々と薄れてきて……。戦っては逃げられてを繰り返す一進一退のやり取りに予定調和さえ感じながら、目新しい事もなくただ歴史がその通りなのだと言い訳を振り翳して……。
言ってしまえば飽きているのかもしれないと。
いつ終わるか分からない追いかけっこ。分からない楽の思惑に振り回され、極論巻き込まれただけの要にはそもそも時空間事件を追いかけるだけの正当な理由などありはしない。
ただどこかで楽しいと思って居られたから、その興味を満たすために非情で卑劣な物言いで着飾って景色を揺蕩っているに過ぎない。
こんなことなら、異能力に覚醒でもして最初から未来と一緒の側に立って何かしていたかったと。
そんな風に要の中で既に日常になりつつあるこの一時の時空交錯に新たな変化を求めつつ、冷たい飲料水を喉の奥に流し込んで青い空を見上げる。
「俺にしてみたらさ、得るものなんてないだろ? 悪い事をやめさせて、その見返りに何が手に入る? 記憶だって失うだろうし、時間を浪費するだけ……。意味なんて、自己満足以外に何もない」
「……………………」
「けどなんでだろうな。例えこれが日常になったとしても、それで投げ出す何て事はしないとは思うんだよ」
それは飽きを通り越した不変なのかもしれない。
変化の先の安定感に心地よさを見出して、更に新たな色を求め続ける……。
短い波と長く続く興味。
その矛盾にも似た感慨が胸の内を埋めていく。言葉にして気付く。
「未来に出会えた事もその一つだろうし、巻き込んだとは言え由緒と同じ景色を見られてる事に……感謝、なのかもな。だから未来、記憶、消さないでくれないか?」
「……………………」
「未来……?」
いつもなら直ぐに返る否定がなくて隣に座る彼女に視線を向ける。と、未来は小さく笑って零す。
「……うん、考え事してた。もし可能性として、お兄ちゃんの記憶を消さなくて済むのなら、それがいいなって」
「心変わりか?」
「ただの我慢、だったんだと思う」
呟きは、温かいものを抱くように。
「ずっと、自分のしてきた事に自信が持てなかった。正しい事をしてても、皆あたしと出会ったところで最後には忘れちゃう。そこに、誰の記憶にもあたしは残らないんだって。まるで存在を否定されたみたいで、寂しかった。嫌だったんだと思う、誰にも覚えてもらえなかった事が」
時空間を旅して歴史に干渉する彼女の正義。あるべき姿に戻すと信じてやってきたその行いは、視点を変えれば歴史から見ればない方がいい行いだ。
過去改変なんて起きなければ、それを正す者も必要ない。
そんな歴史を守るために番人として彼女のような存在が居て、けれどそれは歴史から見れば異物で、存在を消す事が求められて。
「覚えてるのはあたしだけ。未来に帰って、あたしの居場所であるあの人のところで愚痴を零したって、それはあたしが経験したことであって、ただの口伝てで。そこにはあたしが感じたようなそのものの思いは足りなくて……。その上に今回は、色々な失敗をしたよね……?」
彼女の視点から言えば、由緒の誘拐を防げず。敵を取り逃がし続け。要の父親たる雅人の死因にすら関与して。要の思い上がりを止められずに《傷持ち》と言う苦を押し付けて。今もまた、由緒を巻き込んでこんなところで曖昧な感情を持て余している。
「いつの間にか、だよ……。あたしね、お兄ちゃんならいいかなって。……お兄ちゃんには、覚えていてもらいたいなって。そんなの、許されないのにね」
言って浮かべる寂しい笑顔。僅かに染まった頬に、可憐な微笑みに。美少女が美少女たる所以に思わず胸が跳ねる。
「好きになっちゃいそうなほどに、お兄ちゃんの事が好きなんだよ」
「……でもそれは、恋愛感情じゃないだろ?」
「うん。大丈夫、お兄ちゃんは、絶対にそういう対象にならないから。あたしにとっては、それ以上だから」
それ以上、とは。要の知らない要を未来は知っている。未来人なのだから、この時空間事件が要との二度目の出会いなのだから、その通りなのだろうが。
未来の不確かな言葉に少しだけ疑問を募らせる。
「じゃあ俺は未来の何なんだよ……」
「…………それは、秘密」
擽ったそうに笑って答えた未来は、その指先で髪飾りを触る。
それは、勘で。でも確信にも似た、未来予知、だろうか。
彼女の髪飾りに、要の未来が関わっているのではないだろうか…………?
そんな想像が脳裏を過ぎる。
「それにお兄ちゃんにはちゃんと好きな人が居るでしょ?」
「……そうだな」
隣で健やかな寝息を立てる由緒。僅かに身動ぎをした彼女の、その頬に掛かった髪を一房指先で優しく払う。
「うわぁ、いやらしいんだ」
「何が……」
「女の子の髪勝手に触るとか死罪だよ」
茶化すような音には、どこか本気の色も宿っていて。からかいにここばかりは譲れないと反論にもならない意見を返す。
「既に背負っておきながら髪を触るのは駄目とか……」
「髪は女の子の命なんだよ? それに触るって事はその子の心に触れるって事っ。いやらしいよっ」
「…………未来って意外と乙女だな」
「うっさいっ。普通の恋愛なんて諦めてるのっ。夢くらい見てもいいじゃん……」
「未来に惚れられた相手は大変だな」
夢見がちな少女らしい言い分をからかえば、怒ったように立ち上がって一人歩き出す。
「ほら、休憩終わりっ。いくよっ?」
「はいはい…………」
可愛いとは思うけれど、要には彼女の相手は荷が重過ぎる。割り切ってそうならないでいられた事に少しだけ感謝を。
揺れる兎結びを後ろから眺めて、それから飲み干した飲料水をゴミ箱に叩き込むと由緒を背負って再び歩き出す。
温かさと重みに。彼女は生きている事を実感しながら。要が居るべきではない時代に未だ少し留まって先を模索する。
とりあえず帰ったら色々状況を整理しなおさないと……。今それを考えるのは億劫だ。
空を流れる雲と青空を背景に飛ぶ黒い影を見上げて鳥は楽でいいなどとどうでも良い事を考えながら。
そんな風に未来に追いついてしばらく歩けば不意に耳が異音を捉える。
それは小さな……泣き声。路地一本向こうから聞こえる嫌に胸の内をざわつかせる男の子の声。
それが誰かなんて、考えるより先に気付きつつ足を止める。
「……何、お人好しの異能力でも発現した?」
「そんなのがあるなら根拠もなく時空間事件を解決する異能力があって欲しいところだな」
意味もない答えを返して未来をじっと見つめる。少し先から振り返ってしばらく視線を向けてきた彼女は、それから小さく溜め息を吐いた。
「好きな人の安全より子供を選ぶとか」
「比べるものじゃないだろう? それにきっと…………それこそが正しい歴史だ」
「……どういうこと?」
脳裏に描くのは可能性と理想といつかの記憶。
今要が居るこの時代は、由緒を隔離するために選んだ時空間事件とは関係のないはずの時間だ。だから普通なら、この時代に意味なんてない。だからこそ由緒を隠せると思っていたのだ。
けれどしかし、本当にそうかと客観視して問えば冷静な自分が否定する。
今まで嫌と言うほど振り回されてきた楽の思惑に……その通りにしか流れない歴史に、無駄があっただろうかと。
答えには過程が存在するように。全ての結果には原因があったのだ。
だったらそう……この時代にも、要がここを選んだことにも、何か理由があってもいいと。
一つの矛盾が、それを肯定してくれる。
「未来には随分前に……家に来た最初の時に語ったよな。俺が過去に、死んだはずの父さんに会った事があるって」
「……うん」
「それからここへ由緒を隔離する時に色々説明したよな。この時代のこの時間……一番記憶に根強く残るこの瞬間は、俺が迷子になった時だって。だから幼い頃の記憶でも、移動先の指定には十分だった」
それは暴論かもしれない。結果から過程を紡ぎ出しているだけなのかもしれない。
けれど全てを手繰り寄せるだけの条件は揃っているのだ。
「死んだはずの父さんは、もちろんこの時代には居ない。だったらそれは誰だったか……。なぁ未来、『変装服』持ってきてたよな?」
「…………でも、それは……」
「いや、あるよ。さっき未来が《傷持ち》から受け取ったものは?」
「……あれが、雅人さんの髪の毛だって言うの?」
『変装服』は、遺伝子情報を元にその人物へと身形を変える未来の道具だ。
元々の目的は由緒に成り代わって《傷持ち》や楽の思惑の裏を掻く策だったが、そんな暇もないほどに巻き起こった戦いに振り回されたから出来なかった方法論。そのために用意した『変装服』だが……。
「辻褄は、合うだろ? 過去の俺は死んだはずの父さん助けられる。俺はそう記憶してる。けれどそれは、勘違いじゃない。……『変装服』で、その髪の毛を使って俺が父さんになれば、矛盾を正当化できる」
この時代を選んで今ここに居る事が、ただ由緒を中心に渦巻いた一連の騒動だけに留まらないのならば。それは再現して然るべき歴史で、そのために条件が整っているのだ。
「……歴史をあるべき通りに紡ぐのは、『Para Dogs』にとっても必要なことだろ?」
「…………どうせ言っても聞かないんだよね?」
「さすが俺の妹だな」
溜息一つ。それから彼女は『変装服』と一緒に《傷持ち》に渡されたという袋を差し出してくる。
代わりに由緒を背負った彼女はそれから使い方だけを口頭で説明する。
「えっと、首の後ろにまずその遺伝子情報を入れて、服の上からでいいから着たら左の手首にあるボタンを押して。そしたらその遺伝子を持つ人に変身できるから」
「分かった」
「それじゃああたしは先に戻ってるから」
言って異能力、『時空間移動』で由緒を背負ったまま目の前から消える未来。
思えば未来が来てからほぼ初めての自由意志での一人行動。それほどに彼女と一緒にいたし、誰かの目があったのだと。
必要に駆られてして来た過去再現だが、けれど今回は少しだけ違う。
確かに必要なことかもしれない。歴史がそうある通りに流れるための歴史再現。
しかしそれ以上に、要の中には矛盾を正当化する理由と、確かに過去の自分を助けられるという達成感。
過去の朧気な記憶が、半分ほどは間違いではなかったのだと嬉しくなる。
未来に言われた通り準備をして、左手首にあるボタンを押せば僅かに体が締め付けられる感覚。それから少しだけ遠のいた目や耳の感覚が再び辺りに同化していく。
やがていつも通りの自分の体を取り戻せば見下ろして小さく笑う。
これが、父さんの体。変わるのは見た目だけ、身長や元からある傷は要自身に由来するから違和感はないけれど。触った輪郭や体つきの僅かな違いに心が躍る。
触れた事のない父親の体。それが今要の上に上書きされているのだと思うと温かく感じる。
……何かが違えば、父さんと一緒に有り触れた日常を送っていたのかもしれないと。遊んで、喧嘩して、笑いあって。
そんなどこにでもある筈の当然に溺れていたのかもしれない。
けれどそれがないと悟ったのが、今この要がいる時間だ。
まだ由緒の苗字が此野咲で、要が帰ってこない父親の真実を教えられた過去。それが嫌で家を飛び出して、行く当ても分からぬまま子供の体で走り回り、気付けば知らない土地で迷子になっていて。
泣き叫んだ言葉は支離滅裂気味に、覚えているのは居ない父親に縋る声。
「おとぉさぁあん……!」
軽くて、儚くて、小さくて。今にも崩れて消えてしまいそうな泣き崩れる背中を見つけて胸の奥が痛くなる。
制御の効かない感情が混線したか。それともその死に際を少し前にこの目で居た事がフラッシュバックしたか。
綯い交ぜになった寂しい感情が脚を突き動かしてその背中に声を掛ける。
「……泣くな、要」
あの頃より低くなった声で。七歳の自分に優しく語り掛ける。
「…………ぅえ……だ、れ…………?」
「助けに来たんだ、要。お母さんに謝りに帰ろう」
この辺りの会話は、殆ど記憶にない。けれど確かに覚えているのは、子供ながらに写真で沢山見た父親の顔が目の前にあることへ覚えた安堵。
「おとぅ……さん…………?」
「……もし、そうだとしたら?」
「っ…………!」
そう明言するのが憚られて逃げるように言葉にすれば、次いで腹部に感じた小さな衝撃。見下ろして、そこに顔を埋める小さな自分に胸の奥が暖かくなる。
気付けば撫でていた小さな頭。すると彼は、顔を上げて大きな笑顔で告げる。
「かえろう、お父さんっ!」
その声に答えるより先に、少年たる彼が手を取って歩き出す。
その繋いだ手の感触に。淡い記憶に残る温かさが重なって記憶が疼く。
嬉しかったのだ。嘘だと自分を騙したのだ。
実を言うと、心のどこかで気付いていた。
家に居ない父親。頑なに話には出さないようにする母親。テレビのコマーシャルでみた仏壇が、和室にあって、そこに写真が飾られていて。
どこかで、分かっていた。分かっていて、けれど認めたくない気持ちが母親の言葉を信じていた。
遠くで頑張っているのだと。だから距離ではなくて……心が繋がっているから大丈夫だと。
お父さんの代わりに、自分がお母さんを守るのだと。
子供ながらに男だった心が、そう言い聞かせて真実から目を逸らし続けていたのだ。
そんな中で夢見た事が何度もあった。
いつか父さんが帰って来て、周りの家族みたい一緒に遊んで、買い物に出かけて……家族らしい事をするのだと。それまでの我慢なのだと。
その夢が誰かに届いて。お父さんが帰って来てくれたのだと。
我が儘で、純粋で、たった一つの願い。子供心にサンタクロースに願って、きっと母親を困らせたのだろう思い。
お父さんに、会いたい…………。
「ぅぐっ……」
「……どうした?」
「……んん、なんでもないっ。だいじょうぶだよ、お父さんっ」
どこかで、気付いていたから。だからそんな言葉が口から出てしまったのだろう。
大丈夫。例えこれが夢でも、お父さんはもういなくても。ちゃんとここに居て、強くなるんだって。止まらない涙を拭って飲み込みながら、嬉しさと寂しさの上で揺れ動きながら決心したのだ。
大丈夫だと。
それが虚勢なのは分かりきったこと。だからこそ、夢ならば夢らしく甘えてみたいと。
「お父さん……歩くの、つかれた…………」
「……そっか」
過去の自分の夢を叶えるとか、悲しい思い出に僅かな希望をとか。そんな偽善染みた思いではなくて。
ただ単純に自分がそうしてあげたいと。気付けば少年の前にしゃがんで背中を差し出していた。
「ほら」
「ん…………!」
小さく軽い体。たった十年前のこと。干支だって一巡もしていないのに、そこにある身長や体重と言う身体的な大きな差に隔たれた時間の壁を感じる。
誰にだって存在していた子供の時間。違うのは、未来の自分が過去の自分と触れ合って、こうして同じ景色を見ていること。
過去の曖昧な記憶の歴史再現だと言ってしまえばそれだけだ。
けれどそれで言い表せない感情が募って、嬉しくて、寂しくなる。
彼にとってはこれは夢。要にとっては辛い未来が待ち受けることの証明。
この過去の自分は、これから要が経験した人生を歩むのだと。それを押し付けるといえば違うのかもしれないが……自分の未来に少しだけ心配と、それから過保護な愛情が募る。
彼の未来が今要が経験しているような歴史に繋がっていなければいいに、と……。ありえない想像を脳裏に描いて背中の温かさに意識を向ける。
と、小さい体は見慣れない土地に来て迷子である事に心細く泣き崩れ、心身ともに疲れたのか健やかに寝息を立てていた。
平穏といえばその通りだろう。
同時に気付いた事が一つ。
先ほど逃げた楽は、この時代を指定してやってきた。あの時は考えに至らなかったが、可能性としてこの時代に生きている過去の要に干渉するという手もあったはずなのだ。
要を欲しているのならばそれで叶えられたはずの野望。
けれどそれを、彼はしなかった。それは主に二つの理由からだろう。
一つは目的が要ではなく由緒だったから。要を手に入れる事が目的なら、あの時無防備になった折に捕まえればよかっただけのこと。しかしそれを捨てて、彼は由緒に手を伸ばし彼女の異能力で別の時間へと跳んだ。
裏を返せば、楽はこの時間に由緒が居る事を知っていた事になる。そしてその由緒を利用して、まだ彼には次の策があることを示しているのだ。
逃げられたのだから終わっていないのは当たり前なのだが……。
それから二つ目は、彼の必要な要と言うのは、この時代に生きる十年前の要ではないということ。もしそうならば、そもそも十七歳の要は襲われていない。
未来が受けた予知の通りに事件の根幹で最初に襲われたのは未来と一緒にここへやって来た要。この時代から言えば十年後の高校生の要。
つまり楽が手にしたい要と言うのは、どの時間でもなく今こうして過去の自分を背負っている要なのだ。
……と言う事は、だ。それより過去の要に意味はないということだろうか?
いつの要でもいいのならば狙いを絞る必要はない。いつの要かと限定をするのならば、それにも意味はあるはずだ……。それが楽の思惑に関係している?
だったら、楽が変えようとしている未来の歴史は、未来がやって来た頃に原因がある…………?
…………何だ、何を見落としている……? 要の周囲で起きたこと。それに起因する未来の変化。それが更に未来……楽のいた時間で何かを起こす。だからその歴史を認められなくて、こうして時空間事件を起こしているのだとしたら……。
考えてみる、が、既に見落とした筈の可能性。要一人の視点に頼ったところでそれは分からない。忘れている事を無理矢理に思い出そうとしているのだ。大抵そんな時は泥縄に嵌って答えなど見つからない。
一人で悩んでも無駄か。だったら別の視点を頼るだけだと。
そのためにも今はこの歴史再現を。要のために必要な、偽りの思い出を。
そうしてしばらく歩けば、見慣れた道は終着点へ。景色はいつの間にか茜色に染まった夕方。住宅街を通ればそこらの家から夕食の匂いが混じって漂ってくる。
煮魚、カレー、味噌汁、ラーメン……。多種多様な家庭の匂いが絶妙に撹拌されて胸の内に重く蟠る。
と、腹部に感じた急激な空腹感。時間の感覚は曖昧で、最後に食べたのはこの時代に来る前の夜。寝て起きて楽を追い駆け始めてからどれくらいたっただろうか。体内時計的には次の日の朝ご飯を抜いた昼食時なのだろうと。
先ほどまでの戦闘に加え子供一人を背負って歩けばそろそろ体力の限界か。
相変わらず体力の無い事だと自分の事ながら呆れつつ、そうして辿り着いた家の近辺。
ここら辺りなら子供の要でも一人で帰れるだろうと。
「……ここでいいよ…………」
いつから起きていたのか。不意に響いた耳元の声に少しだけ肩を揺らして驚き、それから彼を地面に下ろす。
隣に立った小さな自分は、それから縋るように手のひらを握ってくる。
「お父さんも、一緒に帰ってくれるの……?」
それは聡いと言うには無邪気な問いかけ。けれどその奥に宿る寂しい色に、返る言葉はどこか分かっているのだろう。
彼の考えている通り、残念ながら家までは一緒に行けない。ここでお別れだ。母さんに……この時代の結深にこの姿を見せるわけには行かない。
「……悪いな。まだやるべき事が残ってるんだ」
「…………そっか、それじゃあ仕方ないねっ」
強がって笑う小さな体に胸の奥が引き絞られる。
同じ事を、経験した。今になって鮮明に思い出す。その時に何を感じ、何を志したのか……。
「大丈夫っ、お母さんは、ぼくが守るから!」
「……そっか、それじゃあお願いしようかな」
帰ってこない父親。その真実に気付いて。嘘を吐く事をやめて。全てを認めるわけではないけれど、交わした言葉に力を貰って心に決める。
大切な家族を守るのだと。大好きな人たちを守るのだと。
いつの間にか当たり前になっていたその中に、今では由緒に加え未来まで入っていて。胸の奥で燃える炎は、同時に今ここで過去から貰った贈り物でもあるのだと。
そうして、過去と今が同じ気持ちを抱いたままその手を解く。確かにあったその温もりに……角を曲がって見えなくなった過去の思い出に縋るように自分の手のひらを見下ろす。
「おせっかいは済んだ?」
「……来てたのか」
そんな背中に掛けられた声。振り返って声を返せば、そこに立っていた未来は僅かに顔を逸らした。
少しだけ考えて、それから至る。
そういえば雅人の姿をしているのだったと。未来には辛い過去と罪悪感を思い出させてしまう。要にそれを責めるつもりはないのだけれども……。
言っても、彼女の事だ。仕方の無い事だと割り切ってそれから『変装服』を脱ぐ。
「それ暑いでしょ?」
「通気性はそこまでよくないかもな。夏場の着ぐるみよりはいいだろうけど」
逸れた話題に乗っかって、それから元通りにコンパクトサイズへ小さくした『変装服』を未来へと返す。
「疲れたでしょ、帰ろう?」
「…………そうだな」
一度だけ。見慣れた屋根へと視線を向けて。そちらから聞こえる結深と小さな要の声に声なく笑い、差し出された未来の手を取る。
「お腹もすいたね。何が食べたい?」
「……コンビニの品揃えと相談だな」
少しだけ浮ついた感覚を彼女の温かさに引き戻される。
そうだ、これは歴史再現。そうあるべき歴史を紡ぐ必要なこと。
過去の自分と紡いだ思い出も、夢のように曖昧な記憶も。全ては確かにあったことで、意味のあること。
この過去があったから、要は一人で何かする事を覚えた。良い子の仮面を被る事を覚えた。
それを作り出したのが未来の自分だと言うのだから変えようにも変えられないこの性格に小さく笑って。
それから瞼を閉じれば時空間移動と共にその場を去る。
やるべき事はまだ沢山ある。その一つ一つを、順にこなしてあるべき答えへの道程を描くとしよう。
『時空間移動』で戻ってきたあの和室の一室。未来と近くのコンビニで食事を買って戻れば、部屋の中で座り込んだ由緒が辺りを見回していた。
「由緒」
「あ、よー君……。ここって」
「拠点といえば拠点だな。体は大丈夫か?」
「ん……うん。少し重たい気もするけど、なんともないよっ」
「……風呂入るか?」
「…………えっち」
そういう意味じゃないと。分かっていて肩を揺らす由緒にいつも通りを感じて要も緊張を解く。
目が覚めてくれたのは嬉しいがこれ以上巻き込みたくはないという気持ちは確かにある。
楽の行方を追う以上、蔑ろにはできないだろうが、さてどうするべきかと。
「……がく君は…………」
「…………逃げられた」
考えていると確認のように響いた音に、少しだけ間を開けて、それから覚悟を決めて答える。
「……悪い。俺がもう少し気を配ってれば、逃がすことはなかったんだ」
「なっちゃったことは仕方ないよ。それに、よー君がしたくてそうなったことじゃないでしょ? ぼんやりとしか覚えてないけど、よー君は悪くないよ」
「…………ありがとな」
要が向けた『スタン銃』の銃口。それをトリガーに彼女へ再発した後催眠暗示で、楽は由緒の力を使ってどこかへと逃げて行った。
その行く先に……逃げる際に見せたあの悲しそうな顔に。要はまだ事件が終わっていない事を確信しながら考える。
「逃がした以上、まだ何かを仕掛けてくるはずだ。今度こそその先を制して止めないと……。これ以上引っ掻き回されるのは癪だからな」
「結果論、由緒さんの隔離も意味はなかったわけだしね」
未来の言葉に、それから問いかけを浮かべる。
「……楽は、本当に由緒がここにいる事を知ってたのか…………?」
「どういうこと?」
「母さんを利用してこの時代に来たのは分かる。その先に由緒がいたから利用したのもその通りだ。でも最初から由緒を知っていたかどうかは微妙なところだな……。もしかしたら別の目的があって今時代に来たのかもなって」
今となっては全て終わったこと。結果に逃げられている以上、彼の思惑に振り回されたのだから諦めに似た納得も出来るのだけれども。
そもそも、楽は由緒がこの時代に居る事を知っていたのか。ただ偶然、そこにいたから利用して逃げたのかもしれない。《傷持ち》から聞いたという可能性も考えてはいたが、それはさっきの交錯で霧散した。
《傷持ち》は要の味方をしてくれたのだ。操られている振りをして、楽を欺こうとしたのだ。
だから《傷持ち》と楽の直接的な繋がりはない。繋がりがなければ由緒の事を知れないはず。
だとしたら、最初の目的は何だったのか。それは達せられたのか……。
「あれだけ元気に走り回ってたからな。療養の意味もあったのかもしれないけど」
「……例えば、あたし達が今こうして話し合ってるように、何か策でも考えてたのかも」
「それで由緒を利用してその策を実行するために逃げた……か。ありえない話じゃないけど、どうだろうな?」
楽にとってもここから先は想定外のはずだ。
全てを分かって振舞っているのだとしたらそれこそ演技派だと褒めてやりたい。
「と言うか、がく君どうやってここに来たの? がく君が敵なら、よー君はそれを教えたりしないでしょ?」
「……あぁ、それは俺の母さんを利用したんだよ。『催眠暗示』で操ってな」
正確には後催眠暗示で、ではあるが、この際はいいとしよう。説明が面倒だ。
「……どうやって?」
「どうやってって?」
「だってがく君は……一人で移動できないんじゃないの?」
「『音叉』だよ。他人の異能力を受信する未来の道具だ。あの時は多分、持ってた。じゃないと辻褄が合わないからな」
楽はこちらの不意を突きたかった。だから廃ビルから移動した時も『音叉』ではなく由緒の頭に手を置いて直接飛んで見せた。そうして『音叉』を持っている事を隠していたかったのだ。
その後、守られていない結深のところへ出向いて口先で丸め込み後催眠暗示を発動して、『音叉』で更にこの時代へやって来た。恐らくその行動を止められたくなかったのだろう。
至った話の筋道は違うが、結果として要は由緒への干渉を止められた……。だとしたらやはり由緒へ手を出す事が目的か?
「……いや、違うか。知ってたんだ。由緒がここに居る事を。じゃないとおかしい」
「何が……?」
「母さんを利用してこの時代に来るためには、『催眠暗示』以外に後催眠暗示を仕込んでないと無理だ。そもそも利用する余地がなければそんなもの仕込まない。……つまり最初から、母さんが利用される事を……利用する事が計画に入ってた…………。じゃあ俺が《傷持ち》として裏切る事も計画内ってことか……?」
今まで冗談に捨ててきた可能性。
例えば楽が、この事件そのものを歴史再現だとして納得しているのだとしたら。未来が来る事も知っていて、由緒が異能力を発現する事も、要が《傷持ち》になる事も、その先に裏切ってこの過去までやってくる事も……全部最初から知っていたのだとしたら?
だったら結深に『催眠暗示』に加え後催眠暗示を掛ける必要性もわかる。……何よりも、結深に『催眠暗示』を掛ける事に意味が生まれる。
違和感はあった。
彼がこの時代に初めてきた時……まだ要が《傷持ち》になる前に楽を廃ビルに追い詰めた時、疑っていなかった。《傷持ち》が来る事を、当たり前のように信じていた。
それはそうだ、知っていたのだから。この過去で何が起こり、どんな道順を辿って楽の思惑が紡がれるのか。
全部、分かっていたのだ。
「全部知ってて、その通りになるように再現してた……? だから由緒がここに居る事も知ってた……。でも、だとしたら何が目的なんだ…………?」
歴史改変ではなく、歴史再現なのだとしたら。楽はその先に何を見ている? 歴史が変わらない事を分かった上で、何を夢に描いている?
彼の目的は……?
「…………がく君は、ここへくるために結深さんを利用したんだよね。ってことはこの時代には一緒に来た結深さんが居るってこと?」
「……そうですね。結深さんの記憶を使ってきたなら、どこかに居るはず」
要が何かに迫っている横で、由緒と未来が交わした言葉が耳に飛び込んでくる。
そうだ、母さんの事も考えないと。彼女を利用したのなら、後催眠暗示で操られたままの彼女がまだこの時代に取り残されているはず。
楽の事だ。どこかへ隠したのだろう。どこへ……?
「そう言えばさっき目の前に現れたとき、『音叉』でこなかったよね。歩いてきた……。つまり少し前からこの時代にいたって事?」
「俺たちが来るより前に、何かする事があった……」
その際に結深を隠し、彼は何か細工をした。まだ何かこの時間に隠されている……。
まだ考える事があると。座り込んだまま目を閉じて景色を静止させ客観視する。
それぞれの居る場所。思惑。分からない部分は想像で補って、それから至る可能性の道。
視点は楽へ。全てを分かっていて歴史再現をしたのだとすれば、それは要だけではない……未来や由緒の行動まで知っている事になる。
だからこそ彼は未来がやって来るを事を知った上で、《傷持ち》と言う尖兵を作り上げ利用し、由緒の異能力さえ計画のうちに取り入れた。
だとすれば、やはり彼はこの時代に由緒が隔離されている事を知っていた事になる。
ならばもう一つ踏み込んで。全てを知っているというのは、即ちどう行動を起こすかを知っているということであり、行動に移すにたる根拠……要たちがどんな推理を経て楽を追い詰めようとするのか、その動機たる思考を理解している事になる。
ならば当然の如く分かりきった歴史をその通りに再現するために、要の思惑に乗っかったまま楽も楽としてやるべき事を成す。
それは言ってしまえば要の思い描くことは全て楽の計画の内。……要が想像する事は楽も知っていることと同義だ。
であるならば、幾ら推理をしたところで関係のない。要の思考の先を知り、それが必要だから再現する……。
つまり楽にとって、要や未来の行動は全て歴史に記された物語を読むのと同義で……アカシックレコードと俗に呼ばれる概念の一端に干渉するような行為。
そもそも異能力で歴史が書き換えられるのであれば、それこそがアカシックレコードへの反旗ともいうべき力なのだろうが。
そんな風に楽は、要の……この事件に関わる者の頭の中を全てを知っている……。
そう仮定するのならば、ここで考える事は楽には筒抜けで、想像するだけ無駄だということ。
だったら初めから敵意など抱かない方が正しいのかもしれない。
楽の思惑が歴史再現だと言うのならば、それは正しいことなのだ。未来が歴史を守ろうとするのと同義なのだ。
全ての禍根を拭い去り、敵ではないと自分の中で認められるなら……楽と手を取ることだって叶うはずだ。
それが全て、楽がなそうとする思惑で、結末に未来が言うような歴史を守る事があるのならば。
────ただ望むのは、この身に託された矛盾の正当化だけだ
彼は語った。戦争を起こす気はないと。歴史が正しくあるために矛盾を無くすのだと。
それはつまり、そういうことなのだろう。
ヒントなら貰っていた。それを曲解して、彼の野望が歴史を歪めるものだと決めて掛かっていたから、ここまで失敗を重ねたのだ。
一番の失敗は、彼を敵だと思い込んでいたこと。
…………いや、違うか。わざと悪役に仕立て上げて、要を巻き込もうとしたのか。そうして事の中心に据えて置きたかったのだろう。
分かりきった彼の考えに至って小さく笑う。
だったら要がこれからするべき事も理解できる。
要が考える事は、楽が知っていて。彼が正しいと言うのならば、一番に良かれと想像することこそが彼の望む正しい歴史。歪めるのではなく、正そうとする行いが、彼のと距離を縮める。
楽が敵ではないという前提を信じるならば、これ以上に簡単な道はない。
「あぁ、そうか…………。なぁ未来」
「何?」
「過去はそうある通りに紡ぐべきだろ?」
「そうだね」
「母さんが利用されてこの時代に居るのなら、まずはそれをどうにかしないとな。俺たちは意思を持ってこの時代に居るけど、母さんは違う。本格的に巻き込まれただけだ。だったら元に戻さないと。居るべき場所に帰さないと」
頭の奥では出来上がっている今後の行く末。けれどそれは、楽が敵ではないと分かるからこそ納得できる破滅とも言うべき一手。
未来は、敵を追い駆けている。楽が全ての黒幕だと疑わないだろう。それを覆す事は要には出来ない。だから今更説明して説得させるのも面倒だ。
そもそも、未来がこの時代に来たのは歴史改変を防ぐため。歴史再現をするため。けれど後者は、歴史改変に伴う修正力のようなものだ。未来はそれが誰かの意志だなんて思っていない。
その守ろうとするやり方の、一番簡単な方法は『Para Dogs』と協力することだろう。
もし未来たちと協力できるのならば、それが一番楽だったはずなのだ。
けれど楽は『Para Dogs』には頼らなかった。……違うか、頼れなかったのだ。そこにもきっと彼の動機が絡んでくるのだろうが、彼は彼の力だけで歴史再現をなそうとして、『Para Dogs』にはそれは歴史改変に見えたから未来を送り込んできた。
目的が同じなのだから手をとればいいのに、これだけややこしくなったのは偏に楽の計画性のなさだ。彼は大局が見えていない。責任感が強いと言い換えれば美徳だろうか。
何にせよ、彼は敵ではないが、未来にそれを納得してもらう必要はない。
これまで同様、楽を追い駆ける体裁を保ったまま、その矛先を同じ方向に向けさせるだけだ。それが出来るのは────なるほど、今回の事件の肝心『要』の俺だけだ。
────要って名前、物語の中心って感じでわくわくはするよな。俺ももっと主人公になれるような名前がよかったよ
だから楽、そういうことだろう?
悪かったな、あの時は曲解して。今ならお前の言いたい事が分かる。
でもごめん、一つだけ分からない事がある。
何のための、歴史再現なんだ? 鈍感な俺に教えてくれ。お前のなそうとするべき理想の未来ってのは、そこに俺はどんな形で関わっている?
この時空間事件……歴史再現を全て知ってるだろうもう一人の主人公──読者たるお前には、何が見えてる?
たった一つだけ分からないその根幹を夢想しながら未来に告ぐ。
「楽が今より過去の時間にこの時代へ来てすることと言えば、一緒に連れて来た母さんを利用しきることだ。さすがの俺でも母さんを人質に取られたら身動きが取れないからな」
「……ならまずは結深さんを助けないとね」
未来を騙すようで悪いが、少しだけ付き合ってもらうとしよう。
尤もらしいやるべき事を並べ立てて未来を動かす。
さぁ、ここからは本格的に歴史再現だ。世界を動かすつもりで、主人公気取ってやってみようじゃないか。
待ってろ、楽。お前が夢見るその未来、俺が解決してくれるっ。
ここまで来て由緒を置き去りにと言うのは彼女にとっても酷な話。
何より要が彼女を一人にしておくのを耐えられなくて、彼女も連れての時間移動。
三人で行動するのはいつ振りだろうかと遠い昔のように感じる過去の記憶を遡りつつ辿り着いたのは要たちがこの時代へ来るより前。
楽が巻きこんだ結深に何かをするより早く、取り戻す……。表向きの行動指針を掲げつつ、要は一人覚悟する。
今更気付いたところで過去に起こってしまった事は変えられない。もっとやり方があっただろうとか、後悔をしたって仕方がないのだ。だから今出来る事を。気付いた先にある未来に向けて、彼も同じ結末に至っているだろうと確信をして脚を踏み出す。
そうしてしばらく歩けば、偶然のように決められた歴史が再現される。
当て所もなく歩いたところで、結末は変わらない。この時代に楽が来ていて、その目的が同じならどこかで噛み合う景色だ。
そう疑わないで居られたから、焦りを通り越してその時を待っていた。
角を曲がって見つけた楽は、意識のない結深を肩に担いで大変そうに歩いていた。ちょうどこちらに向かって歩いてきていた彼は、こちらを見つけるや否や片頬を吊り上げる。
「……やぁ、要。元気にしてたか?」
「元気が余って迎えに来てやったぞ。……母さんを返せ」
「なぁ、もっと楽しく行こうぜ? だから答えは、もちろんノーだ」
分かりきった歴史をなぞるように余裕な振る舞いに少しだけ同情する。
歴史を再現する。それは《傷持ち》として要も経験した事がある。
決まった歴史をその通りに紡ぐ。そのなんと面白味のないことか。
退屈な台本通りの、細かいところだけアドリブ任せな半端な自由に。彼は一体どれ程の思いを費やしているのだろうかと。
想像で語るだけ貶める気がする彼の思惑に、ようやく手を掛けたから共感する。
そろそろ辛いだろう。だから今、楽にしてやる。
「さて、交渉は決裂……。なら行き着くべき景色はたった一つだ、違うか?」
「っ! 未来、母さんを頼むっ」
「任せて!」
楽の声に息を詰めて。それからきっとこれまでのどの衝突よりも空虚で意味のある交錯に踏み込む。
にやりと嗤った楽。駆けて殴りかかればその拳を彼は受け止める。
ここで交わされる戦いは、捕まえる事が目的ではない。何より、これより先に逃げられる事を知っているから、捕まえられない。
だったら『抑圧拳』はいらないと。先ほど時間移動をした際に外した。
もちろん理由はそれだけではない。
敵意がないこと……捕まえようという意思がない事を示す。それだけで僅かな間が生まれる。
返った拳を受け止めて額を突き合わせるように睨み合う。そうして、彼にしか聞こえない距離で小さく囁く。
「……なぁ、もういいだろ。そろそろ素直に巻き込んでくれたらどうだ?」
「…………っ、待ってたよ、要」
言って戦っている事を示すように一度距離を取る。
そうして向き合った彼の顔には、それまで見せていた好戦的な笑みではなく、何かを達したような悪い微笑が浮かぶ。
……よかった。間違いじゃなかった。やっぱり楽は知ってたんだ。この時空間事件がどんな結末を迎えるのか。
だから今ここで要が楽の思惑に気付いて助力しようとする事も計算づく。……だったらやっぱり初めからそうなるように敵として振舞わなければよかったのに。
随分な遠回りをしたものだと考えつつ、けれど同時に至る。
歴史に嘘はない。世界に歴史は一つ。だからこそ、これまでの衝突も歴史再現に必要なことだったのだ。そんな色々を経た上に要が気付く事に意味がある。
長く辛い舞台づくりだったのだと笑えば目の前の未来人に称賛が浮かぶ。
要ならそんな回りくどい事はしないのに。……いや、違うか。すべてに意味があるのなら、これまでの歴史再現も未来に影響を及ぼす一因なのだ。
こんな助長な戦いの連続が、一体何の因果に繋がるというのか……。
「…………未来、次で取り返せるか?」
「もちろん」
様子見で由緒に着いていてくれた未来に問い掛けて、確かな答えを聞くと一つ頷き、再び大地を蹴る。
疾駆と共に詰めた距離で、楽はそれが正しいと分かっていて結深を手放し後ろへとステップを取る。
男に踊りの誘いをされても……何て考えつつ結深の傍を通り抜け楽に急接近。背後で未来が倒れ込む結深を抱えるのを気配で確認しながら再び殴り掛かる。
右の拳は受け流される。けれどそこから裏拳で楽の右側頭部に殴りかかればそれを止めた彼の右の手のひら。合わせて伸ばした右の腕で彼の視界を遮りながら顎へ向けての左のアッパー。しかしそれさえも知っている彼は慌てる様子もなく左手で受け止める。
そうして出来上がる硬直に再び顔を寄せれば、彼は楽しそうに笑っていた。
「ようやくここまで来てくれたな、要っ」
「やり方が迂遠過ぎる。もっとあっただろ、メールで伝えるとかっ」
最初こそ彼の事は友人だと信じていたのだ。その時に力を貸してくれと頼まれれば、騙されこそすれ彼のやるべき事に手を貸しただろうに。
「あの人がいたからな……メールなんかでやり取りしたら覗かれるだろ? そんなへまをしてばれたくなかったんだよ」
あの人というのは未来か…………。いや、未来なら未来で名前で呼べばいい。それにあの子、ではなくあの人、と言った。それはまるで目上の人に向ける呼び名のようで。
何かを掴み掛けた思考は、けれど一旦外へ。今は何よりあれの手助けをする事が、歴史を守る事に繋がるのだ。
「……で、どうすればいい。お前に着いていけばいいか?」
「ここでそんな事したらこのあと俺がお前を襲う建前がなくなるだろうがっ。もう少し頭を使え。……今は見逃せ。それから、未来から『パラドックス・プレゼント』について聞け」
「何だそれっ」
「聞けば分かる」
事ここに及んでまた新たな情報が増えた。『パラドックス・プレゼント』……。一体それが何だと言うのか。
けれどここで彼が嘘を吐く必要はどこにもない。ようやく彼の手を取れたのだ。疑う余地は要らない。
それに楽が言ったのだ。それが必要だと。つまりは『パラドックス・プレゼント』とやらが彼の思惑に大きく絡んでいると。
だったら要も要らしく、答えを聞くのではなくそのヒントから自分なりの納得を見つけるのも面白いかもしれない。
推理小説の謎解きと同じだ。
フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット……犯人と、トリックと、動機の推理小説を支える三本柱。犯人とトリックは既に分かりきっているから、その最後のホワイダニットへ至るために。
推理小説らしく、犯人に白状させるでなく、探偵が全てを詳らかにする最終幕の幕開けだ。
気付けば取っていた距離。要が下がって視線を向ければ、結深を抱えた未来が頷いてくる。問題なく彼女の回収も出来たと。ならば後は一旦この場に緞帳を下ろすだけ。
「……流石に二人相手は分が悪いな」
「戦いに卑怯もクソもあるか。勝てば官軍、負ければ賊軍ってな」
「あぁ、そうだな。だから勝てる方法を取らせてもらうとしようかっ」
言って途端に踵を返す楽。これまでならその背中に反撃を警戒しつつ襲い掛かったのだろうが今回は違う。
楽を逃がす。そのために今必要なこと。
駆け出した彼の背中を見て、それから隣に未来を腕で制す。
「……お兄ちゃん?」
「ここでは捕まえられないだろ? これより未来に、あいつは由緒の異能力を利用して俺達の前から逃げた。ここで捕まえられてるならあいつはあの時あの場所に現れない。無駄な力を使う必要はない。違うか?」
「…………そうだね」
尤もらしい建前と同時に楽の援護。これが彼は逃げ果せる。何処まで行ったのかは定かではないが、その目的をある程度共有している以上、要が至った想像こそが彼の思惑と重なるのだ。
深呼吸一つ。それから緊張を解いて二人に向き直る。
「…………で、だ。まずは出来ることから……母さんを元いた場所に戻さないとな」
意識を失っているのか僅かな呼吸と共に肩を上下させる母親。その健やかな寝顔に外傷がない事を確認して続ける。
「母さんが利用されたのは楽に警戒心がなかったから。つまり楽の『催眠暗示』にかかった後。それで居て、誰の目からも逃れた瞬間は俺が知ってるのは一箇所だけ」
「ショッピングセンターに、あたし達が初めて行ったときだよね?」
「つまりその裏の時間に家に帰せば辻褄は合うはずだ」
確かに警戒心こそある。けれどそれは人間の本能としての話で、結深個人の性格はどちらかと言えば天然だ。終わった事は気にしない。楽天家で前向きなその笑顔に、要も幾度も呆れては救われた。そんな母親だったから、要も要として育ったのだ。
そんな底抜けた明るさを纏う彼女は、こうして眠り意識を失っている事を疑問にこそ思うかも知れないが、その原因を追究しようとはしない。それでいいのかと度々思うのだが、今回はそれに助けられるはずだからいいとしよう。
「分かった……」
未来の異能力は今いる時間から見て未来には一人で、過去には未来と一緒に時空間移動を行う。由緒と違い彼女自身の記憶から時空間跳躍先を選べるから、その辺りが使い勝手のよさか。
当然、この要の迷子の過去から見れば要たちが最初にショッピングセンターに向かった時間は未来の出来事。つまり結深一人を送る事が出来る。
こんなところまで来て母親を巻き込んでいた事に気付くなんて、息子として失格なのだろうかと考えつつ。それから未来の異能力によって姿を消した結深のいた場所をしばらく見つめて気持ちを切り替える。
「……さて、それで、これからどうするの?」
「…………とりあえずあの家に戻るか。これ以上ここに居る理由もないしな。とりあえず父さんの事故、あれがあった過去に移動しよう」
「なんでその時間?」
「俺たちが知ってる中で一番の過去。あの場所に居れば、それ以上過去に楽は移動できないし、未来への移動も簡単だからな。何よりこれ以上現実の時間を蝕みたくないだろ? だったら既に過ぎ去った過去で異邦人として時間を消費した方が、最後に帳尻を合わせるときに未来にとっても都合がいいはずだ」
要の言葉に未来が考える間を開けて頷く。
どうあっても未来との別れは避けられない。その時、要は現実に戻らないといけない。有り触れた日常の歯車を噛み合わせないといけない。ならば本来要がいるべき時間と誤差が少ない方がいいのだ。これ以上要の知る未来の時間を進めない方が最後に戻る時に辻褄を合わせることが少なくて済む。まだどうにか、これまでに吐いて来た嘘で収まる範囲なのだ。
この事件に関わった者の中で、最も現実時間と差異がないのは冬子だ。彼女の視点から考えれば、最も未来の要と未来は遠野家に、由緒は去渡家に居る事になっている。
最も未来の時間は、由緒の後催眠暗示で彼女の自殺未遂があって、空白の三日間に赴いてそれを止めた後。《傷持ち》と乱戦を繰り広げ終えたのが要たちが刻んだ最も未来にして現実的な時の最後。
客観視と言うか要だけの視点に限れば、楽に捕まったのが色々な面倒の再現だったから……要にとっての一番遠い未来は《傷持ち》四人と未来の要に未来と繰り広げ七人での混戦後だ。
そんな要個人の認識はいいとして、冬子にしてみれば由緒を轢きそうになってしばらく後が、最も進んだ時間の最後。
つまり今要たちがいる時代に楽を追いかけてくる寸前…………あそこが要が最終的に戻るべき最前線だ。
あれ以上時を進めれば今度は結深と交わした三日の期限を過ぎてしまう。
由緒の家で親睦会をする。そう嘘をついてどうにかその三日以内にここまでやってきたのだ。もしその時間内にこの問題を片付けて何事も無かったかのように現実に同期しなければ結深への嘘を増やさなくてはならない。
そこまで歴史を捻じ曲げたくないから、だったらあれ以上の歴史を刻む事を避けて、浪費してもいい時間……自由がある中で最も動きやすいだろう事故の過去を指定したのだ。
それに気づいた未来も静かに肯定してくれる。
「……まだ解決が見えないから何とも言えないけど。確かに無闇に未来を刻むのは得策じゃないよね。それだけあたしの異能力も制限されていくし」
何よりの制限は未来自身が重なれないこと。時間を消費するというのは即ちそこに彼女の存在を刻み込む事に他ならない。そうなれば移動先が限定される。事件を追い駆ける事が困難になる。
例えばの話、一度未来が訪れた時間……要たちが《傷持ち》と交戦している裏に楽が潜んでしまうと、そこには既に未来が居るから楽を追い駆けられなくなる。
もちろん彼の考えをある程度把握しているからそんな面倒事は今更引き起こさないと割り切れるが、彼女はまだそれを知らないから仕方の無いことか。
少しだけ迷う。未来に、楽の思惑を言うべきかどうか……。
順序立てて説明すれば彼女は納得してくれるだろう。そして『Para Dogs』の存在意義に疑問を抱くかもしれない。
けれどそれは要や未来の都合で、楽の思惑とは異なるはずだ。
つい先ほど想像した。楽は『Para Dogs』を頼らなかった……頼れなかったと。借りを作りたくなかったのか、それとも他の何かか。何にせよ彼には『Para Dogs』に追い駆けられてでも成すべき事があった。
だったらそれは要が仲介をするべきことではないはずだ。
言わば男の矜持と言うか。曲げたくないのだ。
誰かの力ではなく、自分の力で。彼は歴史再現の先にホワイダニットの実現を夢見ている。
……その言葉にしない彼の信念を、要は柄にもなく応援したいと思ってしまう。
それが歴史にとって正しいことなら……偽りでも結んだ友人と言う関係に理由を丸投げしてもいい。
楽が悪者でないのなら、友達を助けるのは当然だ、と。
「だったらこの時間に居ることも未来の存在を刻むその一つだな。早く行こう」
「……がく君は?」
「それについては休憩しながら考えよう」
「そうだね……」
由緒の声に答えれば未来が握ってきた手のひらの感触に瞼を閉じる。
さて、ここからだ。目的がはっきりした今、躊躇は要らない。要の考える想像が楽の思惑と共有され、理想の未来を描く。
全ては、要を中心に渦巻く価値ある未来のために。




