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パラドックス・プレゼント  作者: 芝森 蛍
六根清浄の夢の思い出
37/70

第一章

 陽光差し込む狭い部屋の真ん中。ようやく戻ってきた元いた場所で座り込み、重苦しく息を吐く。


「その、本当にお兄ちゃん、なんだよね……?」

「あぁ。少なくともそれは間違いないな」


 体に圧し掛かる疲労感はこれまで経験してきた過去の代償。敵の手に堕ちて彼女の敵として振舞い続けた拭えない証。

 《傷持ち》。今となっては利用されただけと分かる操り人形にして、ついさっきまでの自分の役割。思い出すだけで目まぐるしいその経験に吐き気さえ覚える。

 人の身を超越した行動。許されざる行為に、未だ手に残る肉の感触……。

 思わず蘇った鮮明な記憶に今更ながらに手が震えてくる。それは今いるここに安心感を抱いているから。

 記憶を遡って今いる時間を同期すれば思い出す。ここは過去。俺が生まれる前に死んでしまった、父親たる遠野(とおの)雅人(まさと)の事故死が確定した直ぐ後。俺はその血を受け継ぐ彼の息子、(かなめ)

 何かの中心にいるような名前で、誰よりも正義からは遠い行いをして来た歪んだ性根の持ち主。

 きっと殆どの人は、これまでの経験を語って聞かせたところで俺の事を主人公とは言ってくれないだろう。幻想の中の正義感溢れる彼らとは似ても似つかないのだから仕方ない。

 人の輪から外れた自分は、けれど思いのほか気に入っていて。そこまで歪んでいて、けれど心のどこかに確かな信じるべき自分を持っているから、どうにかここまでやってこられたのだ。

 そんな正義の皮を被った何かをずっと信じてくれていたのが目の前にいる少女。先ほど縋るように問い掛けてきた、異邦人。

 長く綺麗な赤い髪を頭の横で兎結びにしてその殆どを後ろへと流した彼女は、それだけでの異世界風を吹かせた上に日本人にはありえない橙色の瞳を拵えた人形のような整った身形をしている未来人。明日見(あすみ)未来(みく)。方便とは言え、要の妹だ。

 背丈が二回り近く違う彼女は一つ年下。けれどその体には非力な男子高校生たる要を凌駕するほどの技を秘めていて、その力に《傷持ち》として幾度も対峙した。改めて、整った顔立ちも、その身に宿した技量も規格外な少女だと。


「……大丈夫?」

「ん……あぁ…………」


 重ねられた問いかけは震える手を優しく握ったそれ。どうやら手の震えに気がついて心配してくれているらしい。

 大丈夫、と答えられない程度には疲弊して、精神も擦り切れている。お陰でうまく笑えているかも怪しい。


「…………うん、色々ね、聞きたい事はあるんだよ。けどその前に、休もう? 疲れてるでしょ?」

「いいのか? 直ぐに追いかけた方が……」

「どうせ行く先は同じだよ。だったらここで幾ら時間を使ったって、その瞬間にしっかり辿り着く。ずっと振り回されてきたけど、こういうときは便利だよね異能力って」


 異能力。人の身に宿りし超能力染みた力。時を渡り空間を越えて人さえも操る人の身には過ぎた力。万能でもなければ全能でもない、欠陥だらけの中途半端な異能。我々人類が望んだ、便利な想像の、その顕在化の証。


「だから、今はちょっと休憩。その間に、何があったか聞かせて? お兄ちゃんの口から聞きたいの」

「…………分かった」

「っと、その前にその服どうにかしないとね」


 きっとその胸に渦巻く疑問を、今にも沢山ぶつけたいだろう。それだけの時を経てここに帰ってきたのだ。

 けれどそれをどうにか飲み込んだまま、要を壁に寄りかからせて傍に寄り添って一緒にいてくれる。

 一度は裏切った彼女との約束。少し形は違うけれど、今こうして横にいられる事に言葉にならない感情を募らせる。


「…………なぁ未来」

「何?」

「腹減った…………」


 呟きに少しだけ唖然とした未来は、それから小さく笑って答える。


「……何か注文はある?」

「………………まかせる」

「じゃあ少し待ってて」


 笑顔で言い残すと遅れて響いた扉の閉まる音。途端に辺りが静かになった気がして、窓の外かすかな音さえも良く聞こえてくる。

 耳鳴りさえしそうなほどに静寂に満たされた空間で、座っているのも体力を使う気がしてそのまま横へと倒れ込む。仰向けに天井を眺めれば、僅かに色と模様の違う板が規則正しく張られていて。それを眺めながら頭の中を整理していく。

 俺は……失敗した。

 未来に託されて要の周囲で起こった事件……異能力を中心に渦巻いた時空間事件の犯人を捕まえようと画策して、後一歩のところまで行って、けれど届かなかった。

 その後この身は事件の黒幕……未だ記憶に虚偽の思い出の残る友人、観音楽(かんのんらく)の手に堕ちて悪役の道を歩んだ。与えられた役割は《傷持ち》。この右手首の甲の側に刻まれた確かな証。

 ただの記号だったそれは、いつしか縋るべき名前になって、要と《傷持ち》は別人だと言う幻想をどこかで描いていた。

 《傷持ち》と戦っていた過去の要はそれを認めたくは無かったし、《傷持ち》として振舞っている要もそれは仕方の無いことなのだと割り切ろうとしていた。

 けれど事実は確かに一つで、要は《傷持ち》。その道行きに下した幾つもの卑劣な言動は、紛れもなく要自身が紡いだ罪だ。

 誰が悪いのか、なんて問われれば責任は全て楽へと丸投げするけれど。それでも手を下したのは間違えようの無く要なのだ。

 罪の意識、なんて言葉では語りきれないほどの、諦め。

 そうしないと今にでも首を掻き切ってしまいそうなほどの自責の念はどうにか納得を紡がなければで……。それを求める先、懺悔して何かに許してもらうには……要自身が気持ちを整理するには、やっぱりいつだって正義を振りかざしていた紛れもなく正しき妹、未来に全てを打ち明けるべきなのだろう。

 その上で、この先どうするかを慎重に考えなければ。

 今更、ここまで失敗した身だ。これ以上なんて殆ど考えられないけれども。それでも彼女を危険に晒したという自責から、危険な方法を自らとろうとは思わない。

 驕って失敗した。その後悔は、嫌と言うほどに今も胸を締め付けている。

 何よりも許せないのは、自分の心に嘘を吐いていたからか。

 歪んだ性根に委ねて、必要なことだからと(うそぶ)いて、悪事を行った。いけないことだと気付いていたのに、それをやめようとは思わなかった。やめれば思惑が楽に勘付かれるからと、それも方便に振り翳して《傷持ち》に溺れていた。

 演じる事には慣れていたつもりだった。けれどそれと、自分を捨てる事は別問題なのだと気付かされたのだ。

 ただ役割を与えるだけなら、魂の宿らない木の人形を糸で操って喋らせればいいだけのこと。人が演じる事に意味があって、そこに滲む生の動きに、人である事を見る側は求めているのだと。

 そういう意味では、物語の中で『生きて』いるキャラクター達に感情移入するのも同じこと。だから娯楽足りえて、刺激を求めるのだ。

 それは言ってしまえば、日常(リアル)非日常(ファンタジー)の境目に立っているから……日常を知っているから非日常を感じられる楽しみ。

 例えば日常なんて知らなくて、物語の中で起こる事件を有り触れたものだと勘違いしてしまえば、そこにこそ最も危険な次の扉があるのだと。

 人はそれを、理性と言うのかもしれない。

 普通なら手を伸ばすこともないその向こう側に、半分ほど足を踏み入れていた要。いつの間にかなんて言葉では言い訳出来ないほどに、自分から進んで踏み出していた一歩。あと少しで、人の輪から外れて……時の理からも放逐されて、そこに生きていることすら間々ならなかったのかもしれない。

 それを繋ぎとめてくれた、彼女との約束。


 ────絶対無事に帰って来て。大丈夫だって証明して。全部終わったって認めさせて?


 だからまだ、どうにかここに帰ってこられて、要として生きている。

 して来た事を忘れたわけではない。忘れてはいけない。それを背負ったまま、もし償える機会があるのならば、全力を賭そうと。今まで迷惑を掛けた彼女に、今度こそ力になろうと。

 いつしか忘れていた最初の約束。


 ────知らない事を知らないままにしておくのは嫌なんだ。だから俺にも未来の事を助けさせてよ


 本来ならば要は狙われた被害者で、彼女に守られるべき存在だ。いつからか履き違えていた自分の立場を今一度胸の奥に据えて、未来の事を第一に考えていく。

 もうこれ以上、彼女に心配は掛けたくない。


「ただいま」


 と、納得よりも先に放心が頭に浮かんだ頃、未来が戻ってきた。

 重い体をどうにか持ち上げて座り込めば、目の前に腰を下ろした彼女が飲み物を差し出してくる。


「はいこれ……って言うかあれだね。お兄ちゃん一度お風呂入った方がいいんじゃないかな?」

「あー……そうだな。未来の感覚だとさっきだけど、俺的には一日以上経ってるし……」

「いいよ、準備はあたしがするから。お兄ちゃんは休んでて?」


 指摘されて思い返せば体の不快感が顕著に感じてくる。ブースターを使って必要以上に体を酷使したのだ。最後の方はブースターを飲まずに戦って無様に鉄板の上を転がったりもした。汚れているだろうし、汗臭いはずだ。

 気を使ってか顔をしかめるような事は彼女はしないけれど、きっと随分なにおいのはず。消火剤も被ったし……。まずは話よりも一度綺麗さっぱりするのが先か。


「……後出来る手当てはいましておこう? 傷とかすごいよ?」

「…………勲章だって胸を張れたららどれだけ救われただろうな」


 笑い飛ばす事も出来ずに胸の内へ落とし込めば、心配そうに視線を向けてくる未来。そんな彼女の顔をこれ以上曇らせたくなくて、咄嗟に笑顔を浮かべる。


「いや、悪いことばかりじゃないか。黒幕とか色々分かったこともあるし、それの代償だなっ」

「……その話は、後でゆっくり聞くとするよ。じゃあお風呂が沸くまで先に食べちゃおっか。……それとも、食べさせてあげよっか?」


 可愛らしく首を僅かに傾げて問うてくる未来。絵になるその仕草に胸を跳ねさせて言葉を詰まらせれば、彼女はくすくすと肩を揺らして笑う。


「……からかうなよ。未来は可愛いんだから、そういう冗談は心臓に悪い」

「可愛いとかまたそういう……」

「本当のことだろ。それとも嫌だったか……?」

「………………お兄ちゃんならいいよ」


 はにかむような音。嬉しそうな響きにどこか懐かしさも重なって……。それから未来の買ってきたコンビニ弁当を広げつつ浮かんだ疑問を音にする。


「……そう言えば会って直ぐの時も同じ事言ってたな、俺ならいいって。まるで前から俺の事を知ってるみたいな口ぶりだったけど」

「それは……うん。未来の事に関わるから制限の禁則事項だよっ」

「便利な逃げ道だな、それ」


 別にそこまで深く追求したいわけではない。ただ教えて貰えるならとあわよくばで尋ねてみたのだが、どうやらそれは彼女にとってのトップシークレットらしい。


「まぁ未来でもう一度、俺と未来は会うらしいしな。それが未来がここへ来る前の、未来にとっての過去の出来事なら別におかしいことじゃないか……」

「想像力豊かだね」

「未来の愛嬌には負けるよ……」

「………………?」


 時折見せる彼女の抜けた部分。普段しっかりしている部分とのギャップを指摘してみたが、どうやら小さな失敗は直ぐに忘れる主義らしい。前向きで良い事だと。

 そんな風に他愛ない話をして湯の張り終えた風呂へ。服を脱げば体の至る所に切り傷打撲痕。見るだけで痛々しいそれらは、既にかさぶたになっているものもあって時間の流れを確かに感じる。

 あぁだるい。ブースターの過剰使用の影響か、体を洗うのも面倒に感じると。無駄に運動をしてなんだか少しだけ逞しくなったような体つきを少しだけ眺めて、それから冷える前にと石鹸を泡立てる。


「……お兄ちゃん」

「ん、どうかしたか?」


 と、そうして傷に注意しながら体を洗い始めたところで、背後の扉一枚はさんだ向こうから聞き慣れた声が響く。

 恐らく脱衣場にいるのだろう。振り返ればモザイクの掛かった戸の向こう側に彼女の姿を捉えた。


「…………入っていい?」

「……は…………?」


 次いで放たれた言葉に、自分の声ではないような惚けた音が漏れる。


「あ、えっと。別に変な意味じゃなくて。背中とか流そうかなって……疲れてるだろうし」

「…………え、あぁ、そういう……。未来が、いいなら……」


 何か企みでもと勘繰ってしまったのは《傷持ち》としての要が抜けていなかったからか。けれど続いた未来の言葉に納得を生み出して答える。

 確かに体を動かすのも億劫なほどに節々が痛い。幾らブースターと言えど体自体は要のもの。特に運動を好んでする訳でもない身からしてみれば、いわゆる筋肉痛なのだろう。

 それにきっと、背中だって怪我をしている。転げまわってぶつけたりを繰り返したのだ。下手に患部を刺激すれば悪化する恐れもある。無理は禁物かと。

 どこか諦めと共に彼女へと決定権を委ねれば、扉向こう一枚から頷く気配。

 それから伺うように浴室へと入ってくる。


「……なんだか、恥ずかしいね」


 その姿。たった一枚、大きなシャツを羽織っただけのラフにも程がある身形。シンプルで、けれどだからこそ絵になる彼女と鏡越しに視線が交わる。


「…………あ、下はつけてるからっ。変な想像しないでよ?」

「お、おうっ……」


 と、まじまじと見つめすぎたか。恥ずかしそうに身を捩る未来はシャツの裾を引っ張ってどこか怒ったように告げる。

 別に、そこまで想像したわけではない……というか、言われると余計に想像してしまうというか。


「ほら、洗うから貸して?」

「ん、悪い。頼んだ」


 何かから逃げるように視線を逸らして肩越しに渡せば、背後へと座る気配に緊張する。

 なんと言うか、仕方ないだろうと。どうあっても要は男で、彼女は人形のように可愛い女の子だ。意識するなと言う方が難しい話。それに服装だって無防備といっていいほど簡素で、先ほど見えた白い太腿だって嫌に鮮明に記憶に焼きついて離れてくれない。

 ……っ、駄目だ。考えるな。……そう、未来は妹。家族。だから、大丈夫……。

 言い訳は縋る対象になって無心になりきれない気持ちをどうにか落ち着かせる。

 そんな風に葛藤をしている背中に添えられた温かい感触。少なくとも体を洗うそれではない……人の温かさ。


「……未来っ?」

「…………大きいね、お兄ちゃんの背中。男の人って皆こうなの?」

「どう、だろうな……。少なくとも俺は特別大きいわけじゃないと思うけど」

「へぇ……」


 言いつつ彼女の指がなぞったのは肩甲骨の線。くすぐったい感覚に少しだけ身を震わせれば、彼女は驚いたように手を離した。


「っごめん、痛かった?」

「いや、どちらかと言うとくすぐったいと言うか……別に見ても面白くないだろ?」

「好きな人の背中だから……」

「え…………?」


 問い掛けに返った一人事のような言葉。思わず振り返って声を上げれば、彼女はそれから慌てて否定する。


「あ、いやっ。違くてっ。恋とかそういうのじゃなくて……ごめん、言えない」

「……それは、制限か?」

「…………うん。気を悪くした、かな……?」

「いや、ちょっと驚いただけ」


 いきなりの発言には流石に肝を冷やす。要だって最初に会った時は綺麗だとも可愛いとも思った。けれどそれは直接恋とは繋がらないし、未来も同じだろう。だからきっと、その好きというのは擬似的とは言え家族でとか、そういう意味。

 後考えられるのは、制限に抵触すること……つまりは未来で要と未来の間に何かあるということだろう。

 少なくとももう一度要は未来に会うから。未来にはその記憶があるから……恐らくそこで起こる何かのことを言っているのだと。

 それをつい零してしまう未来は、やっぱりどこか無防備で。


「……未来ってさ、やっぱり意外と抜けてるよな」

「そんな事無い……って言っても説得力ないかなぁ。ここまで失敗すること滅多に無いんだけどね。全部時空間事件が悪いんだよっ」


 逃げるように言ってそれから背中を流し始める彼女。流石にそれ以上を追求する気にはなれなくて彼女にされるがままに委ねる。


「この傷は……?」

「色々無茶やった証だな」

「《傷持ち》として?」

「…………あぁ」


 彼女も気付いている要の過去。

 どこかで話す事を後回しにしていた事実。彼女に報告するべき現状の最重要項目。

 いい機会だと一つ息を整えて。それから優しく背中を流してくれる彼女に少しずつ語り出す。


「……未来に見送られて、あいつのところに向かったよな……?」

「黒幕……観音楽、だよね」

「あぁ」


 どうやら彼女もそこまでは想像が追いついたらしい。彼を確かな悪と認識したが故の変化か、呼び方も呼び捨てに変わっている。


「あいつは、俺の記憶にも、それから由緒(ゆお)の記憶にも虚偽の思い出がある。携帯の電話帳にだって名前が載ってる。相変わらず用意周到だよな」

「そうじゃなければここまで面倒事になってないよ」


 吐き捨てるような、自嘲するような響きに要も小さく笑う。笑えるほどに、彼が悪という答えは明確に胸の中に収まっている。


「それが俺と由緒に掛けられた最初で最後の『催眠暗示(ヒュプノ)』。それをトリガーに、後催眠暗示を幾つも掛けてたんだ」


 由緒の誘拐。彼女の異能力の利用。それから自殺未遂……。どれも全て後催眠暗示で、最初はそれが全て『催眠暗示』の仕業ではないかとも疑っていたけれど。

 アナログで、要からすれば現代的な眉唾な暗示と合わせる事で広がった彼の手管に翻弄され、そうしてどうにか真実へ辿り着いた先で。


「聴覚干渉の『催眠暗示』異能力保持者。それが楽で、あいつを捕まえに行った俺は、そこに現れた《傷持ち》と戦闘になった」


 終わった今になって思えば、あの景色ほど茶番はありはしないと。楽を捕まえようとした要は、楽が言ったことで《傷持ち》は被害者だと気付いたし。《傷持ち》としての要だって過去再現だと割り切って再演した過去に流れを任せて必死に踊っていた。

 互いの目的が目の前以外にあって、けれど矛をぶつける先はその敵とも言えない自分自身で……。

 一人二役でもいいし、ダブルキャストだって構わない。なんにせよ、足りない構成員で兼ね役を幾つもこなして矛盾など何処にもない面倒な景色を作り上げたのだ。


「そこで俺は、《傷持ち》に……未来の俺に負けて、同時に傷をつけられて、《傷持ち》と言う記号を与えられた」


 見下ろせば今も確かにそこにある傷跡。ずっと過去の要を、未来を苦しめ続けたたったこれだけの証。ナイフ一振りの残した象徴が、全てを引っ掻き回したのだ。

 今更にどうでもいい感慨を思い浮かべれば、その傷が手の甲の側でよかったと。もし手のひらの側だったら、そこはリストカットをする際に傷つける橈骨(とうこつ)動脈と呼ばれる血管を切っていた事になる。沢山の血が流れる太いそれを傷つければ、静脈を切るよりも遥かに高い確率で死に至る。

 偶然とは言え、防御姿勢に切りつけられた傷。素人感覚で腕を交差させて防いだ際に、甲の側が外になっていてよかったと感謝をする。もちろんそれでも血は流れたのだろう。目が覚めたときには既に止まっていて、傷しか残っていなかったけれど。


「斬られた後に『スタン銃』で撃たれたのも覚えてる。で、次に目を覚ました時には傷だけが残ってて……きっとそこまで長い時間眠ってたわけじゃないと思う。その間に血が止まって治るほど不死染みた回復力なんて持ってないからな。多分処置されたんだと思うけど」

「未来の道具だろうね。痕は少し残るけど傷口を塞ぐ程度の事は出来るから。ちなみにお兄ちゃんがそれを使われるのは二度目」

「一回目は?」

「今になってみれば随分昔だけど、由緒さんを助けるために廃ビルに行ったの覚えてる? その一回目、制限抵触で戻ってきた後気を失ったお兄ちゃんを介抱した時にね。許可を取らなくて悪かったとは思うけど、体に害はないし、そもそもお兄ちゃんに傷ついていて欲しくなかったから」

「…………それは悪い事をしたな」


 今現在だけを考えても随分とぼろぼろだ。切り傷に打撲痕、それから擦過傷と小さな勲章のオンパレード。こんな傷だらけの、それこそ《傷持ち》な姿を見せているのは、彼女には酷な話か。戒めと思えばとても重く受け止められる。


「この傷はどうする?」

「…………いや、いいよ、直さなくて。その方が気分がいい」


 自傷して喜ぶ特殊性癖、なんてものではなくて。ただ単純に彼女への償い。振り回したことへ対する後悔と、それを忘れないための確かな証。重ねた悪行の印。消せない過去だ。


「……で、未来は何してんだ?」

「…………労い?」

「俺の背中を撫でる事がか?」


 長話をすればその間に背中なんて流し終えて。途中から手持ち無沙汰に彼女の小さな手が要の背中に添えられていた。

 指摘するのもなんだか恥ずかしかったけれど、流石にこのまま浴室の中にいられると外にもでられない。


「ほら、心配を掛けた、その責任だよっ。(アニ)ウムの補給っ」


 その場限りの言い訳には追求しないまま小さく笑って。それから立ち上がる気配を見せた未来が告げる。


「早く上がらないと風邪引くよ?」

「誰の所為だよ」

「いい感じに話を省略しなかったお兄ちゃんが……とぁ!?」


 分の悪くなった話題から逃げようと結末を有耶無耶にしようとした彼女。その言葉が途中で短い声に掻き消える。

 遅れて響いた大きな音。思わず振り返れば、そこには浴室の床に尻餅をついた未来の姿があった。


「ったぁぁぁ……シャワーのホース踏んじゃった……」

「怪我とか……大丈夫か?」

「うん、大丈夫……だけど、どうかした?」


 直ぐに心配して尋ねて、それから気付く。

 ここは風呂場で、水際だ。特に先ほどまで彼女は要の背中を流していて、それをシャワーで(すす)いでもくれた。それにはもちろん感謝をしている。

 けれどまぁ、注意していたとしても仕方ない事はあるわけで。きっとそのシャワーの飛沫が彼女にも散ったのだろう。

 未来が着ていた一枚の大きなシャツは水分を吸って濡れ、彼女の肌に張り付いていた。

 白く綺麗で華奢な体躯。女の子らしい体つきは、控えめでもその存在を主張していて、前に不意の事故で見てしまったときも思ったが、まるで妖精のようだと。

 透けたシャツの向こうに稜線と胸部を隠した女性用下着の柄が薄らと浮かぶ。尋ねた途中で視線を外したが、見てしまった景色は嫌に鮮明で拭えない桃色。

 けれどそんな事に気付いていないのか、濡れた髪を一房、首筋に這わせた彼女は怪訝そうに首を傾げる。

 充満した湯気が結露したのか、それとも単に暑いゆえの汗か。傾げたその仕草にその白磁の肌の上を珠の雫が流れ落ちて、首許から僅かに覗く鎖骨の辺りで止まった。


「……いや、その…………。未来も風邪引くから早く出た方が」

「んー、そうだね。シャツも濡れちゃったし着替えないと…………。っ!?」


 そうして次いだ言葉に自分の事を見下ろして。それから濡れた肢体に気付いた彼女は驚いて体を震わせる。

 次の瞬間にはこちらを睨む橙色の瞳。どうやら要が顔を逸らした理由には至ったらしい。これでも紳士足りえようと直ぐに背けたつもりなのだ。だからっ、これは致し方ない事故だと納得して欲しいと。


「……へんたいっ!」

「いいから早く外へ出てくれっ。これ以上ここにいても何もいい事無いだろっ」


 理不尽だと弁明する暇もなく飛んできた罵倒。どうしていつも怒られるのは要の方なのだろうか。そもそもそうなることを予測しなかった未来が悪いのではないだろうかと……。

 思っても、けれど口にすれば彼女の感情を逆撫でするだけなのは分かりきったことで、どうにか飲み込んで。直ぐに体を元の向きに戻して鏡とご対面。と、その鏡の向こう側に……。


「っ……!」


 浴室を去る未来の後姿。その曲線の美しい臀部を覆う下着さえもシャツへと張り付いて、間違えようの無い黄色と桃色のストライプを目にしてしまう。

 それから閉められた扉の向こう。まだそこにいる気配がある未来に注意しながら小さく溜め息を零す。

 だから、どうしてそう未来はドジなのだろうかと。こんな場所で転べばそうなる事は分かりきっているのに、それにさえ気付かないほど目の前に一所懸命で……。

 それが彼女の良さなのだと着地地点を別にしてどうにか気持ちを落ち着ける。

 ……例え人間らしくなくても、体は人間で、男なのだから。仕方ないものは仕方ない。


「…………もう少し温まり直すか……」


 誰に言うでなく呟いて、それから浴槽に体を沈める。

 そんな先ほど沸かしたばかりの湯船がぬるく感じるほどに、要の体が熱くなっていて自制心の足りない自分に余計に恥ずかしくなった。




 少し視界が揺れるほどに体の芯まで温もれば、廊下に出たときに頬を撫でた外気がいつも以上に冷たく感じて。

 今回は忘れずに準備していた着替えをしっかりと纏い部屋に戻れば、未来がこちらに背中を向けていた。

 兎結びを解いた後ろ髪はいつもより少しだけ長く見えて、その毛先を梳きながらドライヤーで乾かしている様子。そんな彼女が要の気配に気付いて振り返る。


「……長かったね?」

「色々考え事をしてたんだよ」


 本音を言えば要らぬ想像をしないように無心を心がけていたのだが、そんな事で幻滅されたくはないのでどうでもいい言い訳を答えにしておく。

 と、少しだけ熱っぽい声で答えれば、彼女は小さく笑って手招きをした。

 何事かと近くに腰を下ろせば、未来はそのまま要の背後に回る。


「あ、動かないで。髪乾かすから」

「……ん」


 基本的に自然乾燥な要からしてみれば少しくすぐったい感覚。特に未来の細い指が髪の間を撫でれば、また少しだけ心の奥が居心地悪くなる。


「お兄ちゃん癖っ毛?」

「伸びてくると毛先が跳ねる事はあるけど……」

「男性だから固いのかな……」


 他愛ない会話に曖昧な着地点を見ながら随分と過保護な彼女の気持ちの裏を考える。

 先ほどの風呂場での事も含め、これは全て要の蒔いた種だ。

 心配を掛けたから必要以上にここに居る事を確かめたくて。有り触れた日常に縋ってここに縫い止めようとしてくれている彼女の好意……未来の自己満足か。

 思っても、それを拒否する術は要にはない。ただされるがままに彼女の言動を肯定するだけ。それで彼女が救われて、要が少しでも自分自身を取り戻せるのならばそれでいい。

 髪を乾かす柔風が頬を撫でる心地よさに忍び寄る睡魔の影を感じつつゆっくりと話題を戻していく。


「髪って言うなら未来のそのストレート、よく似合うな」

「なにそれっ」

「綺麗で真っ直ぐで、男の偏見と言えばそうだけど女性らしくて、個人的な好みかも」

「……誰と重ねてるの?」

「違うって。ただ大人びてみるから」

「つまりいつものあたしは子供っぽいって?」

「褒めてるんだから素直に受け取ってくれよ……」


 疲れた様に告げれば肩を揺らす未来。分かっていて意地悪に拗ねて見せるのだから質が悪い。


「……そう言えばその髪の色は異能力発現の証だよな? 名前からして未来は日本人だし……やっぱり元は黒か?」

「だったんじゃないかな?」

「なんだそれ?」

「知らないんだよね。あたし物心つく前に異能力が開花したから、気付いたら髪も目もこの色だった」

「写真……子供の頃の記録とかは?」

「探せばないこともないだろうけど、あんまり自分から見るものでもないしね。一応言うと純日本人だから多分想像通りだよ」


 黒髪に黒い双眸。有り触れたその記号で記憶の中の未来を書き換えれば華やかさよりも妖艶さが先に立つ。例えるなら日本人形のような精緻さ。想像の中でさえ比較対象が造形物なのだからどんな時でも美人は得だと。

 それから一つ分かったこと。異能力者の子供だからと言って、生まれたときから奇抜な色の髪をしているわけではないという話。そもそも異能力が突然変異のようなものなのだから、髪や目の色だってそれに準じるのだろう。

 もちろん生まれた時から異能力に目覚めている事もあるのだろうが。


「今はこの髪にも慣れたけどね。別に珍しくないし」

「未来じゃ異能力者は沢山居るんだもんな。ファンタジーの世界みたいに色取り取りな頭が見られるわけだ」

「あえて染め直す人も居るけどね」


 異能力者には異能力者なりの苦労があるのだろう。そしてそれはきっと、今後由緒にもついて回る話だ。

 そんな要と同じところに至ったか、話題は彼女のことへ。


「由緒さんは見た目殆ど変わらないからそう言うのあんまり無いだろうけど」

「性格はあれだけど黙ってれば大和撫子だからな。そこは変わらなくて安心した」

「お兄ちゃんは黒髪ロングのお淑やかな女性が好きと……」

「世の男の多くが求める女の理想像だからな」


 電子の世界の片隅で流し読みした世論調査か何かの事を思い出す。例に漏れず要だって理想はその通りで。それを分かったかのように彼女はずっと髪を伸ばしている。

 そう言えば随分前に由緒にも聞かれた好みの容姿。そういえばあれから彼女は髪を伸ばし始めたのだったか。彼女なりのアピールだといえば、やっぱり早くに答えを返さなくてはと胸の奥でやるべき事を燃やす。


「お兄ちゃんにも人間らしい部分はあるんだね」

「人間辞めてるつもりはないからな。異能力もないし」

「お兄ちゃんが異能力なんて持ったら手がつけられないよっ」


 確かにそんな要は既に要ではない。それに認め難い力を手に入れたからと言って、何をしようというのだろう。それこそ、手持ち無沙汰に何か大きな事をしたくて楽のような思い付きを世界にぶつけようとするかもしれない。


「運が悪ければ新しい時空間事件の幕開けだな」

「……今回のは大分終わりが見えてきたね」


 少し強引に戻った話題に部屋の中が静かになる。気付けば髪を乾かしていたドライヤーの音も切れていた。水気の殆ど無い温かい頭を少しだけ撫でて、それから未来の方へと向き直る。


「黒幕は楽で、《傷持ち》は俺。……って、この場合だと俺も共犯者で捕まるのか?」

「どうにか被害者扱いで話を通すから大丈夫だよ。事情説明くらいは求めるかもしれないけど」

「人生二度目の取調べだな」


 その全二回が、今回の時空間事件に起因していると言うのだからやはり非日常染みていると。


「《傷持ち》の行動については殆ど知ってる通りだ」

「雅人さんの事故死の時は?」

「あれは純粋に運転手の居眠り。『催眠暗示』は関係ない」


 そこに僅かに干渉した未来の手のひらは、今更語るべきものではない。


「ショッピングセンターでの事は?」

「大体想像してた通りだな。あのマジックショーの裏で『催眠暗示』音楽が使われて、居合わせた冬子(とうこ)さんは後催眠暗示を掛けられる。逆位相で打ち消した後襲われたのは、あの逆位相の音楽が後催眠暗示のトリガーだっただけだ」


 未来の疑問に答えれば彼女も納得を掴んだのか、頭の中で纏め上げるような間を開けて頷く。


「……うん、なるほど。分かった。……で、これからだよね」

「黒幕は分かってるからな。後は捕まえるだけだけど……」


 少し言葉を濁すように想像を馳せれば、恐らく未来も同じ部分に至って、それから仕方なさそうに告げる。


「……本来なら《傷持ち》であるお兄ちゃんはここには居なくて、相手のところに居る」

「けど機転と偶然に助けられてあいつの手から逃れたからな。今頃俺が操られてなかった事に気付いて逃げる算段でも立ててる頃だろうな」

「あの人が最後にこの時間に居たのはいつ?」

「……確認した限りだと由緒の誘拐の話を聞いた時だな。あれ以降は会話こそしたけど顔は直接見てない」

「ってことはこれだけ振り回されたのにあの人は二、三日しかこの時代に居なかった事になるんだね」


 それだけ用意周到だったと言えばそれ以上の愚考を捨てる。

 それからどうでも良い事を一つ。

 要たちは病院に居る楽を目撃していて、それが殆ど最後の所在確認だった。それと同時に、あの時の彼が要達の知る最も未来に存在する楽だったから、彼のそれまでの存在を肯定し、彼の計画が恙無くなされた証明を知らずしていたのだ。

 だから当然、この時代にやってきてからの彼の全ての言動はあの瞬間に肯定されていて、あの廃ビルでこの時代に来たばかりの楽を狙ったところでその結末は既に分かりきっていたと言うことだ。

 彼にしてみればそこに《傷持ち》が居ることこそが何よりの証明。手のひらの上だったと嘆けば、けれど終わった事だとも納得できた。


「何にせよ、向かうべきは最後に確認をしたその瞬間だな。時間軸で言えば……脅迫状を受け取った裏か」

「けどその時間は無理、過去のあたしが居るから重なれない。早くてもその次の日の午後から。五時間に渡る長い空白にしか移動できないよ」


 過去に未来から異能力や時空間事件について聞き、誘拐された由緒を助ける算段をつけて生まれた空白。

 まるで何かに仕組まれたように用意されたその時間に呆れさえ抱きながら可能性を口にする。


「あいつの事だ。きっと病院は直ぐに捨てるだろうな。来るのが分かってて悠々と待ってる犯人は居ないだろ」

「問題は何処に逃げるか、だけど……」

「腹の傷がある以上徒歩ならそこまで遠くはいけないはずだ。別の手段を使われたら何とも言えないけどな」


 病院から抜け出すのだって『催眠暗示』一つで可能だろう。同様にタクシーを使うのだってそれで操ってしまえば問題ない。タクシーどころか、病院に来た赤の他人に取り入る事もできるはずだ。


「けど当て所も無く逃げたところで時代に縛られてる事に変わりはないよ。だったらそんな失態はしないはず……可能性は絞られる」


 楽は時間移動者。誰かの力でこの時代にやってきて、成すべき事を成せば元いた未来に帰るはずだ。

 彼の目的が達せられたかなんてのはこの際どうでもいい。逃げるにせよ帰るにせよ、方法論は限られる。

 制限抵触による一つ前の時間への強制送還か、新たな時空間移動干渉による縛られた時代からの脱却か。考えて、それから片方の可能性を潰す。


「制限抵触は考え辛いな」

「って言うと……?」

「何にしてもまずは由緒への接触が不可欠だろ?」

「普通はね。由緒さんの力でこの時代から元いた未来に帰るのが一番簡単なはずだから」

「ならあの廃ビルにはやってくるはずだ」


 大前提として、未来がこちらの味方なのだから彼女に手出しは出来ない。

 となれば『催眠暗示』に掛かっていて操る事の出来る由緒を利用するのが当然の形。


「制限がリスクって程でもないだろうけど、もしその方法をならどこかで俺と再会しててもおかしくはない。《傷持ち》として行動してる最中、主な拠点はあの廃ビルだったからな。由緒の力を借りてる以上、誘拐が終わるまでが《傷持ち》としてのタイムリミットだったんだ。だから時間制限もあって殆ど間を開けずに行ったり来たりしてた」

「その時に顔を合わせてないんだね?」

「今から行って廃ビルに定点カメラでも置いてみれば分かるだろうけど、頻繁に出入りしてるからな。時間を考えれば俺の居る時にあいつが来ないのはおかしいんだ。だから制限抵触で戻って来てはないはずだ」


 となれば絞られた可能性は残り一つ……。


「だったらお兄ちゃんの居ない時間を見計らって由緒さんを利用しようとするはずだよね。自分の足ならその調節も出来る……」

「分かると拍子抜けだけど、ここまで来るのに随分な時間を使ったな……」

「事件によっては最初の予知がそのまま解決に繋がる事もあるんだけどね」


 考えに区切りを付けるように嘆息すれば、未来もどこか疲れたように零す。とりあえずここまでの報告と行き違いのすり合わせ、それから今後の予定を組み上げた。後はしばらく休憩して、彼を追いかけて動くだけだ。とは言え向かう先は空白の時間しかないために、彼に直接出会えるわけではないだろうが。

 それでも見えてきた終わりの時に寝転がって天井を見上げながら呟く。


「……沢山迷惑かけて悪かったな」

「本当に思ってるぅ?」

「思ってなかったらずっと楽の側についたままだったさ。それで、期を見て裏切ればよかった話だ」


 全てを一人で背負い込む。

 一見簡単そうに聞こえる話だが、何処でばれるとも分からない芝居だった。覚悟があったところでそれを現実に出来たかどうかは定かではない。

 何より、一人でやり遂げようとして失敗したのは要自身だ。

 どこかで思っていたそんな策とも呼べない無謀はいつしか消えて、最後に残った本来頼るべき相手に縋っただけのこと。それを謝罪と言う免罪符で誤魔化しているに過ぎない。

 未来だって気付いていて、けれど触れないでいてくれる。その優しさに感謝をしてもし切れない。


「けど解決するその場面に未来がいた方が絵になるしな。何より二人の方が何かあったときに助け合える」

「誰に見てもらうわけでもないのに?」

「未来の記憶にはしっかり残るだろ?」

「こんな面倒な話、忘れろって方が無理な話だよっ」


 未来の言葉に当たり前だと笑う。そしてきっと、当たり前のように要も忘れてしまう。


「……大丈夫だよ。誰が何て言おうと、これは確かにあった事だから…………」


 そこに居る事を確かめるように告げる未来の音に彼女の方へと視線を向ければ、どこか嬉しそうに笑う姿。その笑顔を見られただけで、何よりの非日常が楽しかった事を噛み締める。


「…………さて、ある程度体は休めたけど、行くか?」

「まだ駄目。我慢も無理もしないで。この時代にいる間なら時間は沢山あるんだから出来る限り体調を整えてからだよっ」

「……分かった」


 逆らう気も起きなくて素直に従えば立ち上がる彼女。それから未来ももう一度風呂へと入って、戻ってきた彼女が準備を始めたのは二度ほど世話になった白い布団。


「時間も時間だしね。行くべき時間は同じだからここで幾ら過ごしたところで変わらない。だったら今出来る事をするべきだよ」


 楽しそうな未来。窓の外を見れば群青から更に深く色を落とす帳の色に体を襲う微睡の重さが一気に圧し掛かってくる。


「ほら退いて?」

「……どうでもいいけど未来は俺が隣で寝てていいのか? いや、今更なのは分かってるけど……」

「何それ。お兄ちゃんは妹に欲情するへんたいじゃないよね?」


 当たり前の事だと告げる未来にそうだなと肩を竦めて布団を並べる。

 確かに未来は美少女だ。要の知り得る限り最も女の子らしい異性だろう。もしも何も知らずに有り触れた関係を紡いでいたなら、男心に恋心を募らせたかもしれないほどに魅力的だ。

 けれど何よりも先に立つのは、事ここに至っても縋るように口にする兄と妹の関係。まるでありもしないその一線があるから安心していられると確かめるように……戒めるように紡ぐ音。

 要だって由緒への気持ちを裏切らないために、彼女を妹だと思い込もうとしている節は確かにある。

 しかしきっとそんな事よりも胸の内に巣食うのは、彼女との別れか。

 その時が来た時に後腐れなく別れられるように、その距離を崩したくないのかもしれない。

 どこかで感じていた居心地の良さは、互いに恋心ではないと言葉にしなくても納得しているからか。

 考えつつ準備し終えた寝具に体を差し込んで電灯を消す。

 支配する静寂。外の音が煩いほどに静まり返った暗闇の中で微かに聞こえる吐息。意識するようなその音はまだ寝ては居ないのだろう。

 と、何か眠るのが勿体無い気もしながら開けていた視界が暗闇に慣れた頃、隣の布団に寝転がった未来が声を掛けてくる。


「……ねぇ、要さん」

「…………なんだ?」

「手、繋いでいい?」

「何のために……?」

「確かめるために」


 何を……なんて。今更言葉にするのも恥ずかしくて手を差し出せば、彼女の細く柔らかい小さな手が要のそれを包み込む。


「ん、爪痛い……」

「……明日の朝にでも切っておくよ」


 不安定に揺れていた雰囲気が傾く音が聞こえたのは気の所為か。だったら、握った手のひらが冷たかった事を言い返してやろうと横に向けた体。その先に、同じようにしてこちらを見つめる未来の瞳と交わって。優しく浮かべた笑顔に言うべき言葉を見失う。


「……おやすみ、お兄ちゃん」

「…………おやすみ」


 全く、美人は得だな。




              *   *   *




 繋いだ手のひらの感覚から握る強さがふと消える。そうして立て始めた健やかな寝息。疲れたように深く眠る彼の顔を見つめて色々な事を考える。

 始まりは一方的に知っているだけの関係。この身にしてみればここへ来る前に一度会って僅かに行動を共にしただけの接点。

 何を知っていたのか、なんて些細なことだろう。彼は彼で言うべきことと言えない事の境目で揺れていて、あたしはそれをたった少し信じてみようと思えただけ。

 ……どこかで、少し嬉しかったのかもしれない。

 時空間事件を解決するために、全てを知った風な口を聞いて歴史を振り回す自分が。まるで神様にでもなったかのように錯覚する事が時折ある。

 何が起こるか知っているから。その辛い現実に突き当たって、変わらない事に絶望するから。いつしかその感情は同情から憐れみへ……そして考える事さえも放棄して他人事だと切り捨てた。

 けれどそんなあたしの目の前に現れた彼……。あたしにしてみれば邂逅で、彼にしてみれば再会の出会いは、その景色を逆転させた。

 あたしの人生はあたしのものだ。幾ら予知があるからといって、それで自分の未来を全て知っているわけではない。時空間事件が起こる事を知っていても、その具体的な解決法までは分からない。……今まではそう難しくない話で、今回のように入り組んで面倒臭くは無かったから、どうにかやって来られたけれど。

 だからあたしの未来の事なんて、あたしにだって分からない。分からないから、変えられると思っていた。

 そんなあたしの目の前に現れた彼は……あたしより未来に生きる過去の人物だった。

 知っていたのだ、未来のあたしが、何をするのか。

 今まで自分が歴史の最前線を歩いていると思っていた。事実、そうだった。あたしの事を知っている人なんて居なかった。

 けれど彼は違ったのだ。あたしを知っていて、あたしの未来を知っていて、あたしより未来に生きていた。

 その時初めて分かった事がある。

 過去は、無力だ。

 別に未来に生きる者が驕って道標を立てるわけではない。けれど敷かれたレールを走るように、自分の前を生きる人の背中を過去が着いて行くしかない。

 まるでその人物に未来そのものまで縛られている感覚……。

 未来を知れば、その分だけ安心できた。結末を疑わないからその分だけ悲しくもなった。

 けれど知らなければ、それ以上に怖いことはないのだ。

 どうなるか分からない。何が起こるか分からない。何処へ向かうか分からない。

 分からないことだらけのそれに直面して、ようやくそれが正しい感慨なのだと思い出した。

 もしこんな異能力を手に入れなかったら、彼のように歴史に従って未来を夢想していられただろうかと。どうなるか分からない歴史に期待して、心躍らせただろうかと。

 あたしの未来にも、そんな希望はあるのだろうかと…………。

 考えてしまったから、縋ってしまった。

 もし知らない景色を見せてくれるなら、彼に着いて行ってみても面白いかもしれない。……彼なら、あたしの知らないどこかへ連れて行ってくれるかもしれない。

 未来と過去を知り時空間を渡るあたしでさえ到達できない、本当の未だ来ぬ歴史を、目に出来るかもしれない。

 それはいつの日か置き去りにして来た感情。どこかで抱いてはいけない夢だと律していた……サンタクロースを夢見るような子供心。

 こんな未来だったらいい。あんな事がしてみたい。そうなりたい。どこまでも…………。

 果てない想像が生み出す、自由の翼。

 彼がくれた、矛盾の(パラドックス)贈り物(・プレゼント)矛盾し(パラドックス)た現実(・プレゼント)


「過去のために未来を変えて────」


 呟きは、あたしの大好きな言葉。

 未来のために過去を変える、なんて有り触れた物語。誰もが思う時間の逆接(タイムパラドックス)を孕んだタイムトラベル物の主題。

 けれどその逆。過去のために、未来を変える。未来に変化を齎すことで、過去を助け、過去を紡ぐ。

 普通ならありえない捻れた言葉は、けれど今回に限ってはぴったりだ。

 彼の未来が、あたしの過去を助ける。そして、あたしの未来が、彼の過去を守る。

 歴史はそうある通りにしか流れない。彼はそう結論を下した。

 けれどどこかでそれを否定してる自分も居る。

 もしもの話、あたしがこの過去へ来なかったら。歴史はどうなっていたのだろう。何かが噛み違え、歴史がずれたらどうなっていたのだろう。

 そうならないための役割で、歴史を守っているのは、紛れもなく自分。だったら捻れて壊れるはずだった歴史を変えて、元通りに修正する……。そんな見方があっても別におかしな話ではないはずだ。

 最初から全てが決められているのか。それとも歴史が歪む余地を残したまま、あたしが修正力となっているのか。

 二つに一つなんて極論は言わない。どちらだって構わない。

 だって至るべき未来は一つだけだから。そのために、何かを守り、何かを変えるなんてのは些細なことだ。

 ただ少し、守っている自覚が欲しいがために歪むはずだった歴史を変えて元に戻したのだと思い込む事にする。

 そうすればほら、この先に待つ未来の彼が、今度はきっとあたしの過去を救ってくれるから。


 ──過去のために未来を変えて


 変えるために、そこに居た証を刻んで。

 誰もを、一人になんてしないで。

 あたしの未来はあたしのものだけど。世界の歴史はみんなのものだ。

 だからそこにわずかでも名前を残せるのなら、精一杯の希望と理想を胸に抱いて突き立てる。

 あたしは今ここに居ると。

 あたしは、今、ここに、居る、と!




              *   *   *




 《傷持ち》としての言動。それらは要の想像以上に心身ともにすり減らしていたようで。最後に見た未来の儚い笑顔が最後の記憶。目が覚めてそこまで遡ればようやく頭の中が再起動されていく。

 光差し込む窓の方へと視線を向ければ太陽の位置から大体の時間が類推できた。

 そう言えばここには時計はないのだと。小さな部屋を見回して探った手が見つけたのはスマホ。が、しかし、度重なる時間移動で曖昧になった感覚と無情にいつも通りを刻むその時間が同じなはずはないと悟って残り少なくなった充電に電源を落とす。

 どうせ使う事なんてない。時計としての役割も意味が無い。もちろん腕時計も同じだ。途中までは合わせていたが、雅人の事故があった後からは弄っていない。あの時から狂ったままだ。

 因みに要の身につけているこれは表示こそデジタルだが自分の手で調節するタイプ。個人的な話、勝手に調節されるよりも、自分の手で合わせた方が信頼できるのだ。だからこのタイプを使っているのだが、今回ばかりは運が悪かったと。

 と、そうして関連して思い出したのは未来の腕時計。彼女のそれは特別製で、時空間事件に従事するために行う時空間移動……それに合わせて勝手に今居る年代などを表示すると前に聞いた事を思い返す。

 本来ならばそんな些細な雑談忘れていてもいいのだが……事、異能力が絡むと要の脳内には勝手に記憶されるらしい。興味があるからこそだと言えばそれまでだが随分な執着だと笑う。

 何処まで非日常に縋っているのかと自嘲しながら近くにあった彼女の右手首を覗く。浮かんだのは違和感。……あぁ、そっか。左利きか。

 それから、寝ていると言うのに腕時計をつけているとは……彼女も疲れていたのだろうか。

 示す時間は朝の十時前。どうやら随分長く寝ていたようだ。


「……何してるの?」

「どわっ。お、起きてたのか……」

「ついさっきね。お兄ちゃんの寝顔見てるのもつまらなかったから二度寝してたら手首に感触を感じたから」


 寝転がったまま半眼で呻く未来。それから二人下ろした視線で、まだ彼女の手をとっていた事に気がついて直ぐに離す。


「……悪い、時間が知りたくて」

「……んく…………あぁ、そうだっ。おはよう、お兄ちゃん」

「え……あ、うん、おはよう」


 そうして状態を上げた未来は、一つ伸びをして少し遅れた挨拶を投げかけてくる。どんな状況に居てもマイペースな未来。それも彼女らしさだと納得すれば要も体を動かす。腕を少し後ろに動かしただけで鳴った音。少し面白くて体中を動かせば間接と言う間接から楽器のように奏でられる小気味いい音。


「ロボットじゃないんだから……」


 呟きつつ小さく笑って布団を片付け始める未来。要も直ぐに立ち上がり手伝えば、一度起きたときに買って来ていたのか遅い朝ごはんを取り出す彼女。お品書きは三角形のご飯の塊数種類。個性はお腹の中の味のみぞ知る。

 ……どうでもいいけれど、おむすびの本来の主役はご飯だろうと。言ってしまえば中に入っている具材はおまけに過ぎない。だと言うのにその中身に好き嫌いを求めて。

 ご飯に限らず、パン然り、麺然り。主役を飾る脇役ばかりが目立っている印象だ。……というのは随分前に由緒が口にしていた憤りだったか。相変わらず彼女は面白いところに思考の論点があると。

 考えつつ腹ごしらえをしながら脳裏を過ぎった彼女の存在を話題に出す。


「そう言えば由緒を迎えに行くの、もう少し伸びそうだな」

「だね。でも由緒さんからしてみれば移動した先にはきっと全て終わった後のあたし達が待ってるから、待たせてるって事にはならないと思うけどね」

「便利だな、異能力」

「だからこんな事件が起きるんだよ」


 噛み締めるように零す未来。何よりもそれをよく知っているのは彼女自身だと。

 今更語るべくもない事に口を噤めばそれぞれにおむすびを頬張る。要はおかか。未来は梅。

 と、咀嚼していた景色に混じる異音。震えたのは未来の肩。


「……未来ってさ、食べるの下手だよね」

「うるっ……さい…………」


 可愛らしいしゃっくり。指摘に顔を逸らした彼女は傍に置いていたペットボトルのお茶を少し乱暴に掴んで煽る。

 相変わらず愛嬌に事欠かないどこか抜けた妹に小さく笑って。


「食べ終えたら移動するからっ」


 拗ねるような声に笑顔で頷けば飛んできたおむすびの袋。だからゴミはゴミ箱へ。

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