第二章
それが物語ならば、きっと本当の主人公が現れて悪役を倒したり。ゲームならば間違えた選択肢からやり直す事もできるのだろう。
けれどこれは現実で、都合も不条理も関係ないただそうあるがままの歴史だ。
観音楽の傀儡として《傷持ち》の仮面を被り、遠野要に別れを告げて世界に牙を剥かんとするこの行いは、しかし物語のように都合良くは決着しない。
だってこれは要にとってたった一つの人生だから。喉を掻き切る事のできないこの身では、ただ無情に紡がれる歴史を再現するほかない。
例えそこに、意味も興味も抱かなくとも。
時間を確認すれば夜の七時。約束の時だ。
ブースタをまた一つ飲み下し、呼吸を整えて階段を一つ下りる。するとそこに、苛立ちの募る見慣れた過去の姿を見つけた。
鉄骨に縛られた由緒に駆け寄ろうとした過去の要に、期待などしない平坦な声で呼び止める。
「由緒っ」
「律儀な奴だ。本当に一人で来るとはな」
たった少しの未来を知って哀れに踊る己自身に今更何も思わない。
あの要は、俺じゃない。あんな間抜けで幼稚な確信を持った未来に縋るだけの人形を、自分だとは思わない。
あれはもう、他人だ。要の知らない何かだ。
だからどんな感情さえも沸いて来ない。ただ単純に、目障りなだけだ。
「お前が脅迫状でそう指定したんだろうが」
「ご苦労なこった。もう少し自分の矮小さを弁えたらどうだ?」
何も知らない夢見る少年が、歴史を変えようと奮闘する。なんと滑稽で、物語染みた道化だろうか。
手に取るようにわかるキャラクターの動き。その胸に宿る論ずるに値しない熱に浮かされた感情論。
一人歩きなんて絶対にしない。チェスの盤上で、ピースが決められた動きしか出来ないように……目の前の憐れなマリオネットの後ろには光を反射する幾本もの糸が見える。
舞台の上でさえもっと感情豊かにアドリブだって交えるのに。
そんな遊びを許さない、仕組まれた機械仕掛けの舞台の脚本を紡ぐ著者になった気分で音を奏でる。
「……約束通り俺だけで来たぞ。由緒を返してもらう」
「そんな事を約束した覚えはない。俺はただ、お前だけで来なければその女を殺すと記しただけだ」
舞台にしてはありふれた出来。大道具も小道具も、そればかりが豪華で役者に何の魅力も感じない……見る者に不快感しか与えないやるだけ無駄な茶番にも満たない何か。
当然と言えばそれまで。舞台に立つ者が、夢見がちな理想を信じて疑わない半端者と、全てを達観して演じる事さえ放棄した操り人形なのだ。
これならまだ、幼児のおままごとの方が幾分か奇想天外でドラマチックに楽しめるというもの。
「…………お前は由緒を傷つけられない。お前は時間移動者だ」
「だからどうした? ここでこの女が俺の手で死ぬことが正しい景色なら俺はこいつを殺せるぞ?」
あの時交わしたはずの言葉を記憶に頼るまでもなく口にすれば、きっとそれが歴史に肯定されるただ一つの再現。
もう既に、これは歴史再現でも未来改変でも何でもない。
ただその場で紡いだ事が歴史として承認され、過去へとなり誰の記憶にも残らない……これまで人が積み上げてきた現実だ。
未来だとか過去だとか。そんな論争をする事自体間違っている。
全てが最初から決まっているなんて嘘だ。覚悟によって歴史が変わるなんて嘘だ。
世界は、ただその瞬間が連続しているだけに過ぎない。
それは動画のように。一つ一つは静止画で、けれど連続させる事によって時が紡がれているよう覚える錯覚。
人間が、その刹那と刹那の継ぎ目を認識出来ていないだけの事。
だからこそ納得のいく説明もある。
タイムマシン論で、過去に移動して。どうやって時空間を超越した先に異物を差し込む?
過去に未来の語った言葉を借りるのならば『瞬間移動』……物質の空間跳躍は実を言うと今の世界でも成功例が存在する。もちろんそれはよく語られるような、A地点からB地点への瞬間移動ではない。量子テレポーテーションと言う、A地点とB地点に存在する繋がりを持った二つの内、片方に変化を及ぼす事でもう片方にも同様な変化を齎し、情報が伝達されるというそれだ。簡単に言えば糸電話。片方から発した言葉が、糸で繋がったもう片方に届くというあれの、視認出来ないほどに早くありえないほど遠い距離を跨ぐものだ。
けれどそれには、それぞれの場所にある二つに確かな繋がりが結ばれていないと成立しない。前提に、同じ物質が二つ別場所に存在していないといけないわけで、人間は一人であるからこの方法では情報の伝達が出来ない。
いわゆるテレポーテーションは、一人で、その縁を無しに空間跳躍をするというものだ。
ここまで技術が発達しているのだから、その内空間転移くらいは科学でも出来るようになるかもしれない。
もしそうなった時に問題になるのは、物質の転送と記憶の保持。
よく聞く話、空間を超越するためには一度その物質を分子や原子レベルにまで分解し、移動先に同じ構成で再構築する事で空間跳躍をするというのが定番だ。
この際によく問われるのが、移動前と移動後で全く同じになるのかどうかとか、その再構成した体に移動前と寸分違わぬ確かな記憶が引き継がれるかと言う話。魂や精神の移動だ。
何かが欠落すればそれはよく似た別物で、足りないものがあれば全く別のものとして置換される恐れだってある。細胞を構成する原子一つが足りないだけで別人にだってなりえるのだ。
その分解や再構築……それに際した莫大な情報のスキャンや記録に膨大なエネルギーが必要で、それを供給できる手立てがあったとしても机上の空論の域を出ない話。
しかし例えば、世界を一時的に制止させ、その一瞬を切り取る事が出来たのならば────そんな前提など必要なくなってしまう。
世界が刹那の連続で、その一瞬を切り取り、寸分違わず分解も再構成もすることなく、別時空間の刹那へ差し込む事が出来たなら────それは時空間転移とは言えないだろうか?
宛ら風景を写真に収め、持ち運ぶように。その一瞬を切り取る事で時間を閉じ込め、静止画として移動する。そしてそれを、何らかの方法で再び写真と言う軛から解き放ち、別の場所で現実に同期させる事ができるのならば……それは時空間転移と呼べないだろうか?
その理屈を、世界が一瞬の連続で、それに干渉する異能力であると胸を張るのならば、未来や由緒の異能力の仕組みが解明される。
一瞬を切り取るだけだから、そこまでエネルギーも必要なくて。それさえも異能力と言う未知の事象で語れば過程を有耶無耶に出来る。
知っている場所にしか移動できないのだって、その空間に切り取った時間移動者を書き込む必要があるから、周りの景色を鮮明に覚えておく必要があるのだと。
……これが正解かどうかは別にして、今までずっと分からなかったその仕組みにようやく自分なりの納得を見つける。
少しいらない事を考えすぎたと。けれどまた一つ疑問が解消されて、自分に意味をなくす。
要を見失えば、それだけ目の前の空虚な舞台で踊る事に集中する事ができた気がした。
「それは出来ない相談だ……。何せ由緒は俺が助けるからな」
「いいね、その啖呵。威勢のいい鼓舞は士気を上げる……。楽しませてくれるんだろう?」
「あぁ、もちろんだ。それに──お前は俺を傷つけられない」
「────っ!」
益体もなくつらつらと考え事をして、上の空で返答を紡げばどうやらようやく景色が動くらしい。
傷をつけられないという、《傷持ち》であるこの身に対して振り翳した矛にフルフェイスの奥で一人笑う。
そうして構えた『スタン銃』。実際、目の前の要はどうだったか。
えっと確か、ここへもう一人の要を送って、それから制限で帰って……あぁそうだ。空白を作るために時間移動をしているから、確か未来人扱い。つまり彼を攻撃したところで要は制限に抵触しない。
それを示すように、幾ら撃とうと心構えをしてみても制限に抵触するという危機感は沸いて来ない。
と、そんな事を考えていたからか、いつの間にか目の前に迫った過去の自分。まだ『抑圧拳』さえも着けていない素の拳。ブースターで強化された感覚が、亀が歩くような速度で迫る肌色の一撃をじっと見つめて、それから後ろへと跳んでよける。
別に食らったところで、ただ腹部に蚊に刺された程度の感触しかないのだろうが、そんな事で体に我慢を強いるのも忍びない。
幾ら楽の言いなりになっているとは言え、この体は要のもの。自分で自分の体を痛めつけて喜ぶようなナルシズムにも似た特殊性癖は生憎だが持ち合わせていない。
そうして跳び退って鉄骨の向こう側へ。過去の自分に準備をする間を与えながら少しだけ考える。
まだこの頃の要は、《傷持ち》の正体も、黒幕の存在にも気付いていない間抜けだ。だからこそ由緒を誘拐したことに憤りを感じ、彼女を取り戻そうとここへ来た。つまり、彼にしてみれば《傷持ち》の姿をした自分こそが元凶にして巨悪に感じているはずだ。
……だったら与えられた役割。こうして紡ぐ過去再現さえもせめて楽しむために舞台へと仕立て上げて。悪者の仮面をしっかりと被り偽善とも偽悪とも知れない何かを演じる。
「……法螺を吹いたな? しかしそうと分かればこちらも容赦はしない。安心するといい。衝撃は一瞬だ、直ぐに意識を失う」
彼の目にこの身が敵だと認識するように。物語の中に出てくる悪役の如くありえそうな台詞を紡ぐ。
そうすればほら、自分が正義だと信じて疑わない憐れな操り人形の顔に優越感が浮かぶ。一周して愛しくさえ思えてきた。
「残念だがそれは叶わない望みだな。今度はこっちから攻めさせてもらうぞ……!」
っと、そうだ。このタイミングだ。
思わず忘れかけていた過去からの未来干渉。いきなり現れたもう一人の要に、その蹴りに反応してとっさにナイフを振るう。
「貴様……!」
「遅ぇっ!」
が、そういえばこの要はブースターで強化されているのだったと。先ほど生温い攻撃を仕掛けてきた要の所為で勘違いをしていたためにカウンターにはならない。直ぐに身構えて攻撃を防御へ。腕に力を入れれば、それでも振り抜かれた一蹴にナイフが弾き飛ばされる。
更に体を襲った確かな蹴りの衝撃には、わざと大きく飛ばされて勢いを殺し、鉄板の床を転がって無傷で事なきを得る。
「ちゃんと約束は守ってるぞ? ここにいるのは、俺だけだ」
「クソがっ」
悪態はそうある通りにしか流れない歴史に胡坐を掻いていた自分に対して。
そうだ。例えそうなる歴史でも、その通りに行動しないと結果は得られない。何より、ようやくここから真っ当に戦える相手が現れるのだ。
油断をするつもりはないが、気は引き締めないといけない。この辺りの記憶は熱に浮かされたように戦っていたからか、少し曖昧で不確定な事が多いのだ。何が起こってもいいように動かなければ。
呼吸を一つ整えて、それから景色を再構成する。
記憶ばかりに頼るな。アドリブで紡いだものが過去と繋がる。そんな歴史再現があったって不思議ではない。
これまでに《傷持ち》と交わした戦闘。そのどれだけに思い通りがあったのだと笑って、構える。
刹那に、こちらへ駆けて来るブースターを服用した要。道中、床に転がるナイフの柄頭を蹴ってこちらへと飛ばす。
銀色の切っ先が迫る威圧感に少しだけ驚きつつ、けれど体は冷静に『スタン銃』で弾く。この未来道具も大概頑丈だ。ナイフと斬り結び弾丸さえ弾く。もちろんそれを振るうだけの妙技あってこそだろうが、要の知らない未来の技術でも使われているのだろう。
体験してきた景色で麻痺していた感覚が段々と目の前に置換されていく。
そうだ。これはただの歴史再現ではない。意味のある、確かにやるべき筈の歴史干渉なのだ。
考えて、気付けば目の前まで迫っていた過去の自分。繰り出される右の素直な拳を避けて顎へフックを見舞う。
まだこの頃の要は、ブースターの使い方を知らない。ただ飲めば超人的な力を発揮するだけのブースタードラッグだと思い込んでいる。
けれどそんなのは表面上の使い方に過ぎない。鋭敏になる感覚はやがて銃弾すらも視認し、ありえないほど人間離れした技を繰り出す。その気になれば瞬間的に爆発させて、ブースター以上の力だって出せる。
沸いてくる力を際限なく振るうのが目の前の要。それをコントロールし、必要に応じて最大限の効果を齎すのが今の要。
包丁だって使いよう。食材を切ることも出来れば人を殺す事だって出来る。ようは振るう者の器量に左右されるのだ。
カウンターの攻撃は、けれど届く前に視界の外から迫った一蹴に体を吹っ飛ばされる。
そうだった、蹴りがあったんだった……。
無様な自分に呆れつつ、体勢を立て直して後退。ナイフの近くまで下がると拾い、そのままこちらへ飛来する銃弾を弾く。
当たらないという否定。たったそれだけで相手の策を一つ潰せる。
守るだけで相手を追い詰める事だって、やりようはあるのだ。
けれどしかし、ブースター同士の戦いは埒が明かない。幾ら経験を積んでいるとは言え決定打さえ意識していれば千日手だ。だからこそ狙うのは、もう一人の要。ブースターを飲んでいない、極一般的な男子高校生。
威圧するように睨んで、踏み切る。
下手な攻撃をすればオーバーキル。ナイフ一突きでさえきっとかわせない要に、致命打は使用できない。
考えて、それから『スタン銃』をしまった左手で喉元に掴みかかる。
「がっ……!?」
そんな急接近に鈍く響いたのは腹部への痛烈の一撃。
見ればそこに突き立てられた準備万全な膝。
そう言えばそんな事もやったんだったかと。ブースターを飲んだ過去の自分との記憶による視界共有から導き出される予知反撃。
それはただ攻撃を食らうという以上に、自力が凌駕する相手から攻撃を貰ったという精神的な苦痛。
その敗北感が胸の奥に炎を燃やす。だらしない。もっと慎重に、後の事も考えなければ。これから先、眩暈がするほど沢山の交錯があるのだ。苛烈さを増していくそれらのためにも、無駄な被害は受けていられないと。
冷静になれと自分に言い聞かせて『スタン銃』を引き抜き、目の前の要に向ける。
同時、視界の端の、もう一人が動く気配。
そちらに向きつつ襲来した弾丸を弾いてお返しにと『スタン銃』を一発。振り向き様には、先ほど膝をくれた過去の自分へ蹴りを見舞う。挟まれた防御で衝撃を殺されつつ、けれど振り抜いた一蹴は要を吹っ飛ばす。
そんな相手にするのも馬鹿らしい平凡な要には目もくれず、構えた先はブースターを体内に宿す要。撃った『スタン銃』はどうやら避けられたようで。視認でどうにかなる距離なら近づいて圧倒してしまえばいいと目的を切り替える。
平凡な要はどうにでもなる。問題なのは、対等とはいかずとも無理にでも着いて来ようとするブースターの方。あちらが横槍を入れてきては鬱陶しい事この上ない。
ならば強い方から……場を託された頭を叩くのは擒賊擒王、兵法の常。
小さく呼吸を整えて鉄板の床を蹴ればナイフを握り込み近接戦闘へともつれ込む。
急速接近から突き出した切っ先をかわすとカウンターを放つ過去の自分。それを手の甲で流しナイフで一刃。さらにかわした動作に蹴りを叩き込めば後ろへと下がる要に笑う。
経験地で言えばこちらが上。何よりこれはただの歴史再現。そうある通りに過去は紡がれる。
答えにもならない道理を振り翳せば、近くにあった箱から鉄パイプを一本抜き放ち構える姿を目にする。
得物があれば対等なんて、それはただ見た目上の問題だろうと。
ナイフよりはリーチのある武器だが、だからこそ存在するデメリット。中距離を埋める『スタン銃』とその内側を捌く鉄の棒。けれど更にその内側……拳の距離にまで詰め寄れば最大限は発揮できない。
対してこちらが握るのは体に突き立てる事で確かな事象を引き起こす鋭利な刃物。必然接近する事になり、こちらの距離はあちらの不得手。
ならば当然、そこに生まれる有利を掴み取ろうとする交錯こそが最も激戦となる間合いだ。
覚悟して詰め寄る。
鉄パイプと言えど殴るだけが能ではない。突き出せば立派な刺突……刺しはしないから打突か。
特に力の集中する一点を貰えば事実以上の衝撃が体を貫くのはわかりきった事。
もちろんそんな事はどんな武器でも一緒。物は使いようだ。
考えて、振り下ろされた鉄パイプは弾くでなく避ける。流石にナイフで切り結ぶのは得策ではない。
そうして生まれた隙に首筋を狙えば、振り下ろしの勢いそのままに反転した要が器用に体勢を変えて手に持つ得物で受け止める。
それは戦闘の勘、と言うよりは野生児染みた動き。参考にしたのは少年漫画の戦闘シーンや殺陣だったか。
脳裏を過ぎるその頃の事を思い出しつつ、そうして始まる近接戦闘。
足元、後ろに飛んでかわし、着地と同時に跳んで接近。紙一重で避けた次の瞬間には放たれた『スタン銃』の連射。
既に当たり前になった妙技で弾けば視界の外から横殴りに迫る鉄の一撃。パイプと言う形状上、空を切るたびに鳴る音がノイズと鳴って視界を揺らす。気の抜ける音。思わず笑いが込み上げてきそうな間抜けな風鳴りは、けれど考慮を許さないほどに間断なく振るわれる攻撃。
避けて、弾いて、かわす。そうして下がりながら空間把握。背後に感じた突き立つ鉄骨に気付いてその場にしゃがめば、鉄が鉄を叩く鈍く甲高い音が辺りに響く。
ブースター任せな攻撃。だからこそ予想外にはそれ相応の反動が走る。
不意に肘や膝をぶつけると走る衝撃。ファニーボーンのように、予期せぬ衝撃には体が勝手に反応するもの。振り抜こうと放った一撃が途中鉄骨に当たって弾かれれば、手のひらに返る逆向きの力が勝手に指の間からパイプと言う形を伴って逃げていく。
鉄骨へぶつけた一撃。同時に要の手から離れたその隙を見逃すはずもなく切りかかれば『スタン銃』で弾く要。
咄嗟の偶然だったとしても悪運の強いやつだと他人事のように語って。それから襲い掛かった蹴りの衝撃を逃がせば、受けた腕を足場にして後ろへと距離を取る過去の要。
曲芸染みた動きはブースター特有の人間離れを実現してみせる夢見がちな想像から。出来るかもしれない……を試した時には既にできている不思議な感覚。要もこれまでに何度も経験した妙技は、まるで自分が別の誰かに操られているように錯覚する。
息を整える間を開ければ再びパイプを手にする要。
胸に宿る正義が行き着く先を知らないままに振り翳す意思には、よくもまぁ尽きないものだと称賛さえ浮かぶ。
そんな要の表情はどこか楽しそうで。笑みは恐怖を殺すためか、それとも純粋に命のやり取りを楽しんでいるのか。
歪んだ目の前の自分を思えば、今の自分も笑ってる事に気がついて答えを見つける。
自由が無いわけではないこの体が覚える高揚感は、やはり人とは違う興味を宿して動いているのだと思いを滾らせる。
こんな殺伐とした状況下でそれでもまだ続いていればと願うのはやはり狂っている証なのだろう。
生まれる世界を間違えた……。そんな風に過ぎった感慨は、またいつの間にか体を動かして。
それはまるで何か光明が見えたように一瞬だけ未来を知る。
再び手にして突き出された鉄パイプのその先に、ナイフの切っ先を絡めて軽く外へ弾く。僅かにずれた軌跡が真横を通過していく感覚を味わいながら懐へ潜り込む。
合わせて目の前に突き出された銃口。そこから発射される弾丸がブースターの感覚以上にスローに見えて。気付けば引いていた引き金から発射された空を駆ける弾が、こちらに届く前にぶつかって互いの軌道を逸らす。
そうして迎える刹那の交錯に──紫電一閃の道行きに重ねてナイフが走る。
その一陣が、確かに捕らえたのは肉の感触。彼が体を捻った所為で急所を外れた一撃は、その右の二の腕を切りつける。
呼応するように疼く自分の古傷。自分でつけた自分の傷が熱く重く鈍く轟く。
重なる視界は恐怖と同時に達成感。
ここに居る三人の要の視界と記憶が、判別のつかない数瞬の間に何かを介して繋がって。
次の瞬間には《傷持ち》を襲った靴の裏。半分ほどしか衝撃の乗らない反撃に、けれど防御を忘れていた体が少しだけ飛ばされる。
痛い……のは今し方食らった蹴りか。それとも過去の自分につけた切り傷か。
益体も無く考えて、心地のいい戦いの空気に満たされた世界に無粋な異音が景色を裂く。
思わず向けた視線に映るは、遠くに『スタン銃』を構える凡夫の要。こちらに向けて睨みを利かせる黒い虚がその奥に確かな悪意を湛える。
撃ち貫くと。ここで全てを終わらせると。
ようやく興が乗ってきた、そんな折に差された水に憤る。
ふざけるな。今ようやく何かに手を伸ばしかけたのにっ。
ヘルメットの奥から睨み返せば、次いで耳にした音。それは一瞬注意を逸らしたブースターの要から。鉄板を重く蹴る音に視界を向ければ目の前に迫る拳。
『抑圧拳』……!
思わず跳ねさせた動悸は腕を勝手に動かして、そうして『スタン銃』の代わりに手にする『音叉』。
……………………あぁ、そうだった。ここで一旦舞台からはけるのか。
空虚な喪失感が胸の内を駆ける。
もう少しこの場に興じていたかったと。《傷持ち》としてやるべき事を見せつけてやりたかったと。
けれど頭はこの過去で起こった事を確かに覚えていて、まるで何かに操られるように退散の音階を響かせる。
同時、目の前の要が反転して遠ざかっていく。
そうだ。ブースターの『抑圧拳』はフェイク。本命はあちらで構える『スタン銃』。
ようやく追いついた思考が景色を再構成しながら、けれど既に体の感覚はここにはなくて。
最後に見たのは鼻先三寸まで迫った『スタン銃』の弾……その注射針の尖った銀色。冷たい異物が眉間を通り抜けていく錯覚を味わいながら、気付けば足が床を踏み締める。
浮遊感が終わって見据えた景色は由緒の眠る廃ビル。吹き抜けに差し込む光はまだ明るく、鉄骨にも先ほど出来た鉄パイプでのへこみはない。と言うことはここは恐らく由緒を誘拐したその日だろう。裏では逆位相のやり取りが終わった頃だろうか。
矛盾なく捩れた歴史を思い返す。この辺りは時間移動の連続で経験した時系列が絡まっている。
最初の未来との時間移動や、その空白に成した逆位相のやり取り。楽にしてみれば刺された後、善人を装って景色を引っ掻き回した後で、今の要にしてみれば《傷持ち》として最初の襲撃と由緒の誘拐を済ませた直後。
重なっているのは要だけだが、まともに現代人をしているのが由緒くらいのものと言う極めて異質な背景だ。
全く、頭が痛くなる。考えるだけでその歪さに眩暈を覚える。
ここまで来たらもう目の前しか見たくない。過去の事ばかりを考えているとそれだけで濃密な時間に押し潰されそうだ。
溜め息と共にその場に座り込む。
……少しだけ休憩。その後に再び歴史再現へ戻るとしよう。
動いた所為か蒸れて熱くなったヘルメットを脱ぎ去る。そうして頬を掠めた風が、生暖かいはずのそれを心地よく感じる。
熱い息を吐いて、それから脳裏を過ぎったのはふとした疑問。
そういえばあの後、もう一度要が現れて『スタン銃』で撃ったのだったか。けれど確か、あの要には傷が無くて……だから要は《傷持ち》じゃないと推理から外したのだが。だったらあの傷のない要は何時の存在だろうか?
まず考えて、《傷持ち》になる前の要ならばこの記憶に無い以上ありえない。そもそもどうして自分を撃つ必要があるのかが分からない。
《傷持ち》になった後だとしても、ならば傷が無いのはおかしい。『変装服』で変装したって傷が消せないのは未来が言っていた事。
だとしたらあの時現れた要は一体何なのか。矛盾の上に立つ存在に少しだけ頭を悩ませる。
けれどそんな事、今考えても仕方が無い。歴史がその通りにしか流れないのであれば、その時は何れ来るはずなのだ。だったら要は、今目の前を生きるだけ。この操り人形としての終わらない悪夢の物語を、悪役として紡ぎ続けるだけ。
諦めのようなそれで結論を下せば、この景色にも似たような感覚を前に味わったと。それはこの廃ビルで由緒を取り戻すために《傷持ち》と相対して、追い払って。過去の自分も帰り、由緒と未来も時間移動で家へと戻って。しばらく体を休めたいと残ったその時に。
あの時に吹いた風と、今髪を揺らすそれを重ねる。
《傷持ち》だって、生きている。
そんな事を考えたのがもう随分前に感じる。
生きているからこそ、過去の要が肯定され、これまで自分が紡いできた道に後悔するのだ。
結局今こうしているように、全て意味がなくなるのだと。
……もし要が物語の主人公ならば、楽に捕まった時点でゲームオーバー。バッドエンドで終幕だ。空想の物語なら、それで丸投げしてしまえば後味悪く終われてしまう。
けれどこれは現実。要の命はまだ燃えていて、《傷持ち》と言う役割を与えられ、それを演じる事を任されている。
現実は、物語のように美談では終わらない。例え何かに終止符を得たのだとしても、その後も際限なく……人としての死を迎えるまで助長に続いていくのだ。
────いっその事、今ここで死んでしまうことが出来たならどれ程楽だろうか。
落とした視線で目に入った、手首の傷にそんな事を考える。
けれどきっと、それは許されない。要がこれまで経験したように、要は《傷持ち》として、歴史にそう刻まれるためにやるべき事をやらなくては。
それが例え、未来や由緒の顔を曇らせるのだとしても、斯くあるべしと紡がなければ。
今一度、確かな理を胸の中で反芻する。
歴史は、そうある通りにしか流れない。
何かを落ち着かせる間を空けてブースターを飲み、次いで向かったのは要にとっても辛い思い出の残る過去の時間。父親である、雅人が事故死した知るはずの無い過去にして未来。
その行き着く先を知っていながら、だからこそ過去の知らない《傷持ち》としての視点を紡ぐ。
降り立ったアスファルトの道。傾いた陽光が照らす住宅街に見つける背中二つ。
見慣れない自分の背中と、居る事こそが歪で確かな未来の背中。
たった数日前の二人の後姿が、今はとても小さく見えるのは全てを知っているからだろうか。
そんな二つの背中が振り返る。その視界に、こちらの姿を視認するのを確かに見て取って、それから悠々と紡ぐ。
「やぁ、諸君────」
「《傷持ち》…………!」
睨む形相へと変化したその顔にヘルメットの奥で笑いながら、開いた手のひらを無防備な首筋へ向けながら突貫する。
けれどそれを止めたのは、何処へそんな力が秘められているのか分からない白く細い未来の手。素早くこちらの手首を掴んだ彼女は、そのまま背後へと回って組み敷きにかかる。
「動か────っ!」
しかしいくら戦闘になれた未来と言えどその体は小柄な女性のもの。ブースターを飲んだ要にしてみれば取るに足らない小さな荷物のような軽さで、試しにと記憶の中の幼馴染の真似をするように釣り手で彼女の襟を掴み、肘を脇に入れて思いっきり体を前傾させ、投げ飛ばす。
引き手を使わない片腕での一本背負投。少し不恰好ではあるが、細かい技術を余りある力で凌駕して技にする。
途中で襟首から指が離れて放り投げる形に。その刹那に、彼女は空中でホルスターから抜いた『スタン銃』を構えて引き金を引く。
それを見たのが早かったか、それとも記憶の通りに体が動いたのが早かったか……。気付けば迫っていた『スタン銃』の弾をナイフで弾き終えていた。
「いってぇっ!?」
「ごめんお兄────」
反撃に行動を割いたからか。それとも型破りな一本背負投が彼女の常識を崩したのか。受身を取らなかった未来を過去の要が受け止めて、その背をコンクリートレンガの壁へぶつけ、悲鳴を漏らす。
格好の悪い、良い様だ。
胸に過ぎった嫌悪感を更なる引き金にして、無駄話をさせる暇さえ潰すように大地を蹴れば再び飛来する『スタン銃』。走りながらでもと試せば当然のように弾は銀閃に叩き落される。
そんな視界の先でこちらを睨んだ未来が要を突き飛ばす。
優先順位、強い方から無力化。
視界の端に転がる過去の何かは一旦認識から除外して、壁際に座り込む未来へ蹴りかかる。
すると彼女は片腕で勢いを逃がし、もう片腕を地面について蹴りの勢いを利用して側転から立ち上がる。曲芸染みた体勢の立て直し。咄嗟でもそんな事ができる辺り、彼女も十分に人間離れしていると。
「お兄ちゃん、『スタン銃』と『抑圧拳』っ!」
「っ、そうだ……!」
背後から援護されては面倒だ……。そんな事を考えながら未来へと振るったナイフが『スタン銃』と切り結ぶ。
少し安直な攻撃過ぎたかと過ぎったのは危機感。次の瞬間には結んだナイフと『スタン銃』を軸に滑るように懐へもぐりこむと、鳩尾へ強烈な掌底を叩き込んでくる。
体の内部へ響く衝撃。ブースターさえ貫く一撃に浮き足立ったのも刹那、顎を下から打ち抜かれた一撃が視界を明滅させる。そうして最後に、よろめいて数歩下がったところへ流れるような回し蹴り。鋭い未来の足技を腹のど真ん中へと貰って、けれど体が勝手に衝撃を殺すために大袈裟に後ろへと跳んで、ブロック塀に背中を預けて座り込む。
全く、一番化け物染みているのは素の状態でブースターと互角に渡り合う未来の方だと。対峙して初めてわかる底知れぬ実力に面白くも感じる。
きっと幼い頃から『Para Dogs』で悪事を正す牙として訓練をして来たのだろう。その研鑽が今こうして要に向けて突き立てられている。そう考えると彼女の攻撃の一つ一つが、道理に適った要への制裁に思える。
同時に、真っ向から渡り合えるからこそ、退屈しないで済むと笑う要もどこかに居て。そんな歪んだ自分にまた一つ人間らしさを見失う。
「無事……?」
「何とか…………。未来はすごいな」
「これくらい出来ないと『Para Dogs』では事件解決に使ってもらえないよ」
そうして取った距離の中で要の手に嵌る『抑圧拳』。《傷持ち》としての要が今手に嵌める黒い皮手袋とは正反対な、眩しいほどの白色に思う。
正義が白で、悪が黒で。そんな安直な記号があるからこそ、黒尽くめ足るこの身は《傷持ち》として正しい悪役の意味を持つのだ。
考えた刹那に襲い掛かった『スタン銃』での攻撃を、まだ動ける事を殊更に誇示するようにブレイクダンスの如く足を振り回して立ち上がりながら弾く。
思い願うだけこの体は好きな事が出来る。人間離れした、想像だけの妙技が形になる。
一体何が出来ないのだろうか。その限界さえ見てみたい気がする。
それはこの先にも沢山ある彼らとの交錯への期待だろうか。思えば、次いで発した言葉に僅かだが楽しげな色が混じった。
「いやー、厄介厄介……。もう少し楽に済むと思ったのに。それにしてもよくこの時間が分かったね?」
「逆に質問だ。どうしてお前がこの時間を知っているっ?」
彼らからしてみれば《傷持ち》が過去改変をしようとこの時代に来たと認識していたはず。
けれど事実は逆だ。
《傷持ち》として要がここにこれたのは、今目の前に居る要がここへ居たから。
《傷持ち》は要で、時間移動に由緒の異能力を使っている以上、要の知っている場所にしか移動できない。
「何を馬鹿な事をっ……。どうして君を襲える? 単純だっ。君が歴史と言う過去において何処で何をしているか知っているからさっ。もちろん、君がこの時代に来る事も知っている。俺にとってこの過去は誰かが死ぬ過去ではない。お前が来る過去だっ!」
それをそのまま、馬鹿正直に言葉にしてみる。
けれど彼にしてみれば認めることの方が阿呆らしい戯言に聞こえるだろう。
全てを知っているなんてありえない、と。
「……ならどうして楽や由緒が一人になる時間を知っていた。俺の行動範囲までは分かっても由緒や楽が一人になるかどうかなんて分からなかったはずだっ!」
「おいおい、何的外れな事を聞いてるんだい? いいか? 知ったんじゃない、知っているんだ。あぁ、そうだ、知っているぞ? お前が未来で何をするのかもなっ」
「なん────」
だ、それは。
確かそう続けようとしたのだったか。
その時の記憶が脳裏を過ぎりつつ笑う。
俺はお前を知っている。遠野要と言う人物が、どんな冒険の果てに《傷持ち》へと墜ちるのか。だからこそその言葉が己への戒めとして響く。
「ならどうしてあの病院で俺を襲ったっ! もし俺の過去を知ってるんだったら、未来が来る事も知っていたはずだっ!」
「あぁ、知っていたさ。けれど知ったところでどうなる? 変える過去が一つ増えるだけだろう? そんなもの、実力で捻じ伏せてしまえばそれで構わない」
もちろんあの場面に未来が居る事だって知っていた。その交錯の末に、《傷持ち》が逃げる事も知っていた。
終わった事として語れば、知っていた過去をその通りになぞっただけに過ぎない。ネタ晴らしとも呼べない幼稚な謎解きだ。
「実力を過信してるならあの時未来を跳ね除ければよかった話だろ。どうしてそうせず退いた。由緒や楽に手を出したっ」
「使える手管を使ったまでだ。どうやらそこのお嬢さんは少し厄介だそうだからな。廃ビルのときには驚かされたさ。まさか自分を重ねて状況を覆して来るとは思わなかったっ」
先ほどの交錯でも身をもって味わった。未来は規格外すぎる。だから彼女を無力化する事は早々に諦めたのだ。
由緒を狙ったのはもちろん利用するため。彼女の身柄をこちらで一時的に拘束する事が何よりの根底に存在するやるべき事なのだ。
彼女を利用しなければ《傷持ち》は時間移動を行えない。……否、時間移動が出来る《傷持ち》が由緒を捕まえる事で矛盾を解消し、歴史をその通りに流す。
考えるだけで始まりを見失い、頭が痛くなってくるほどの間違いなどない時空交錯。
けれど何故か破綻しないのは、それが歴史に肯定されているからか。
「……どうして廃ビルの名前を知っている。俺が何処にいるかまでは知っていても、その単語は俺達の間だけで使われるものだ。未来人のあんたが、どうしてその名称を知っているっ?」
「だから何度も言っているじゃないか。俺は、知っている──」
「出任せを言うなっ!!」
空を駆けた亜音速を斬り捨てる。
廃ビル、その名前を知っていて当然だ。それを日常で使っている側なのだから。
それに、目の前の要からしてみれば確かに《傷持ち》である要は未来に生きる未来人。そんなところまで辻褄合わせなどしなくてもよかったのにと偶然に笑う。
「貴様は、誰だ!? お前の目的は、何だっ!?」
熱の篭った糾弾の声に、道理の分からない子供を説き伏せるように零す。
それは同時に、自分への戒めの言葉。
「俺は────お前を……お前達を、知る者だ」
《傷持ち》は未来の要なのだから、当然の事。過去の要が経験し、見聞きしたものを、《傷持ち》は全て知っている。
嘘など答えていない。世界には真実しかない。
認められないのは、言い訳を探す負けた者の性だ。
平等に見下して気を張れば目の前に未来の姿。小さな体に秘められた幾つもの技。
これから幾度となくそれと相対するのかと考えると気が滅入るが、先を考えたところで詮無いこと。その場その場で即興劇を演じるだけ。
考えて、繰り出される攻撃を裁きカウンターを挟む。
少しだけ胸の中に生まれたのは未来への手心。
前提として、未来は女性だ。幼馴染に叩き込まれた性格の所為で異性に手を上げるなどして来なかった人生。必然未来を目の前にすれば心が鈍る。
幾ら人から外れた感情を持つ要でも、だからこそ人間たろうと振舞う自分が居て、それが表向きの人当たりのいい遠野要を演じていたのだ。
その優しい要は、今もどこかに眠っていて。言うなれば良心のようにこの現実を否定し続けている。
そんな人間らしくあろうとする要の気持ちと、これは歴史再現のために必要な事だと割り切ろうとする冷酷さが綯い交ぜになる。
結果、未来へと向ける攻撃は少しだけ鋭さを落として、彼女を自由にさせてしまう。
けれど手数が増え、攻め立てられるからと言って《傷持ち》としてのこの身がここでは捕まらないと知っているから、無益な交錯が積み重なる。
……だったらいっその事、これ以上未来を巻き込むのは忍びないから、出来る限り安全な場所に居てほしいと願いが生まれて。
過ぎった逡巡に未来を見失ったのが刹那、開いた腕に潜り込む未来の姿に少しだけ寂しくなる。
どうして彼女と戦っているのだろう。
「っ、このぉ……!」
客観視して冷静な要とは裏腹に、目の前に精一杯な口は咄嗟にそんな事を零して。そうして視界の端から迫る要の姿に考える事をやめる。
…………もういい。どうせ全部経験した通りにしか流れないのだ。
理想を描いたところで希望を打ち砕かれるのならば、最初から夢など抱かない方がましだ。
至った結論を冷たく肯定して、いつの間にか未来の首筋に伸びていたナイフを手のひらの中で反転させる。向けた先は体勢を崩したこちらへ急接近して来る過去の自分。記憶に重ねるように振った手のひらから、握った柄の感覚が遠ざかる。
喪失感を掴んだ指先が伸びた要の首許。伸ばした右腕が生暖かい肉の感触を掴んで、力任せに投げ飛ばす。
同時、反転する視界。見れば懐にもぐりこんだ未来がこの体を投げ飛ばしていた。
過去の要に何かをされるのは嫌だけれど、彼女にならば償いとして受け入れよう。約束を破って彼女の敵になってしまった事への贖罪だ。
「あまり無茶しないでよ……あいつの狙いはお兄ちゃんなんだよ?」
「悪い…………」
少し距離を置いて体勢を立て直す。交わされる言葉に暢気な事だと小さく息を吐いて急接近。『スタン銃』を要へと向ければ、咄嗟のカウンターに拳が伸びてくる。
『抑圧拳』での攻撃を食らえば異能力での干渉が出来なくなる。
あの時は確か、《傷持ち》が『催眠暗示』能力保持者だと思っていたから、それさえ止めてしまえば『音叉』で逃げる事もできなくなり、捕まえてしまえると思っていたのだったか。
浅はかで愚かな推理だと吐き捨てて、更に近づいた一歩に力を入れ、後ろへと下がる。
そうすれば伸びた拳もこちらには届かなくて。ただ『スタン銃』の暗い視線が要を射抜くのみ。後はトリガーさえ引っ張ってしまえばあの間抜け面を撃ち貫いてしまえるのにと。
睨む銃口に何かを覚悟したのか目を閉じる要。敵を目の前に目を閉じるなんて死ぬ事と同義だ。神頼みなんて最後にすること。出来る限りの努力をしてその末に縋るものだ。こいつみたいに諦めて責任を丸投げするための便利な道具じゃない。
けれどそんな悪態は横から入ってきた未来によって遮られる。
引き金を引きかけたその刹那、それができないように器用に可動域へ人差し指を差し込む妙技。確かに効果的で、その気になればこの手から『スタン銃』を取り上げる事さえできるだろう。
未来道具の扱いに手馴れているに決まっている。だからこそ対策だって幾通りか知っているのだろう。
相変わらず人間離れしているのがどちらか分からないと紅の兎に辟易しながら、更に後ろへステップ。
次いで突き出された拳は空を切って、休む暇もなく迫る未来からの『スタン銃』。
彼女の細い指を振り払うと、そのまま体を捻ってかわし、回った動作に合わせてそれなりの回し蹴り。
防いで足を止めた未来との距離が一歩二歩と連続して跳ねる度にどんどん開いていく。小気味いいバックステップに合わせるように響く空気の破裂音。集中して、要から放たれた迫る弾丸を『スタン銃』で叩き落す。握れるものさえあればなんでもいい。それを射線に横切らせて弾くだけ。物は使いよう。
そうして距離を取れば要と未来が肩を並べて言葉を交わす。
「……大丈夫か?」
「ただの鈍痛だよ。痛いけど…………」
「飲んだ方がいいか……?」
「…………やめて。これ以上無茶しないで。それにそろそろだと思うから」
腕を摩る未来と銃口をこちらに向けたまま彼女を心配する要。仲睦まじい事だと胸の内で吐き捨てて、過去の言葉に考える。
まだこの時は優しい方か。
流石に未来に加えてブースターを飲んだ要がいるとこの身一つで相対するのは難しい。その未来も、その内訪れるのだと言う経験と言う名の確信が少しだけ胸の内を震わせて。
そうして小さく息を吐くと見据えた過去の自分へ向けて再び疾駆する。
未来が語ったそろそろと言う言葉。それはこの身に滾るブースターの効果時間だろう。
体感で五分ほど。その気になれば余熱のように後を引く感覚で時間以上の効果は望めるだろうが、それも僅かな引き伸ばし。
目の前の要と交錯を始めてから、会話もいくらか交えたからそろそろタイムリミットだ。
これが最後の衝突……。
瞬時にそこまで考えが巡って、接近する最中に近くを通り過ぎたナイフを拾い上げる。
詰めた距離の中でナイフを振り被れば妨害の一発が未来から。要を斬る事をやめて弾けば隙を縫うように迫る『抑圧拳』の拳。『スタン銃』で受け止めて力を逃がすと、目の前に唸る銃口。咄嗟に斜線上にナイフを投げて、波状攻撃のように更に襲い来る未来の上段蹴り。しゃがんでかわし構えた『スタン銃』。サイトの向こうにはみ出るほど大きな要の体。睨んでトリガーを絞った刹那、視界の端から飛来したもう一つの弾丸が要に届く前にぶつかって軌道を逸らす。
銃弾同士をぶつけての弾き。きっと撃った未来だって殆ど運任せだった筈だ。ブースターを服用していない彼女では『スタン銃』の弾を認識する事はできない。だから向いた銃口から計算した射線に横槍を入れただけ。それが偶然衝突して狙いをずらしただけ。
未来と紡いだ経験上、彼女は戦局を賭けに任せる事が多い。気付いたら体が動いていたという類の、天性の戦闘の勘。厄介にして景色を歪ませる、要にとってはイレギュラーだ。
言ってしまえば歴史にとってその通りに流れる過去で、そうなるなならないかの二択。分かるはずのない未来の出来事に、けれど未来は時空間移動能力に目覚めた恩恵か、直感のようなそれで世界を味方につけているのだろう。
だとしたら由緒にも同じように数瞬未来を予知する事が出来るのだろうか。はたまた楽には、その瞬間にどんな『催眠暗示』が有効だと天恵のように悟るのだろうか……。
未知の異能力だからこそ膨れ上がる想像は空想の域を出ないまま、要にとっては全て信じがたい否定に変わる。
要は要の知っている事しか信じない。宇宙人も、超能力も、異世界も、運命も、勘も、未来でさえも。存在が不確定なものを信じたり、それに縋るのは要が許せない。
だからこそとても現実的に経験でしか全てを語らない。何処にも面白味のない、やっぱり主人公には向かない一般人だ。
考えた刹那の後に、動いた次の景色は全てを諦めて歴史の通りに成すべき事を成す。
下から迫る要の蹴り。力の乗らないそれはこの際切り捨てて視線を未来へ。構えた『スタン銃』を彼女へ向ければ、自分でやったことだと言うのに銃弾を撃った事に驚いた様子で。少しだけそんな未来に場違いにも可愛いなどと考えて優しく引き金を絞る。
次の瞬間襲った過去の要の蹴りは、腕をかち上げて衝撃に背後へと後ずさり。視界の端で未来へと確かに着弾する『スタン銃』の弾を見つめて、そうして感じた軽い拳の感覚。
見なくとも分かる。過去の要が唯一突き立てた牙。この時空に《傷持ち》を繋ぎとめる『抑圧拳』の一撃。
ここから先、12時間は異能力から隔絶される。『音叉』での移動が出来ない。つまり半日どこかで時間を潰さないといけないわけだが、さてどうしようかと。
考えつつ『スタン銃』を要へ向けて容赦なくトリガーを引けば、彼は横へと転がって返しにと『スタン銃』を連射してくる。
既に僅かに残るだけのブースターの余力を最大限に行使する。集中力を引き上げれば見えた四発の弾。確かあれでホールドオープン。追撃はないと冷静に自分に諭して引き金を押し込み、先ほど未来が偶然に任せてそうして見せたように、今度は連続で全てを弾いてみせる。
……さて、これで終わりだ。後は分かり切った結末へ導くだけ。
少しだけ跳ねる心臓の音を耳元に聞きながら立ち上がり零す。
「ほら、下ろせよ。構えてたって意味無いぜ?」
せめてもの慈悲に優しく提案すれば、けれど警戒を解かないまま未来を庇うように位置取る要。相変わらず見栄を張るのだけは一流な事だ。
それは俺も同じかと笑って可能性を潰す。
「鬼ごっこでもするかい? やめておくのが得策だと思うがね」
「黙れっ」
「さて問題だ、俺が逃げつつその女を人質に取るのと、お前が俺を捕まえるのと、一体どっちが早いかな?」
今はまだ、《傷持ち》と言う名前が悪でなくてはならない。そのための振る舞いと、ここから逃げるための算段を同時に重ねる。
要の伸ばした手、その先にある未来が眠り、その手から零れ落ちた『スタン銃』が目に入って釘を刺す。
「その女の『スタン銃』を取るのはいいけどよ、後何発入ってるのか知っているか? 俺は、知っているぞ」
もちろんはったりだ。数えている暇などなかった。けれど迷いが生まれるならそれでいい。全てを制止させ景色を硬直へと持っていく。
「俺はこれ以上ここで危害を加えるつもりは無いさ。さっきその拳で異能力封じられちまったからな。今俺にできることと言えばお前達を刺し殺すことくらいだ。けどそれは望むところじゃない。ならどうだ、ここらで一旦互いに手を引こうじゃないかっ」
提案には、しかし強情で慎重な過去の自分が食い下がる。
「…………ブースター、切れてるんだろ?」
「試してみるか? 不毛だと思うがね」
一番不毛なのはこの歴史再現だと笑えればどれだけ救われるか。
仕方なく《傷持ち》である事を言い訳に目の前を威圧する。
「それともお前も飲むか? 自分の身を犠牲にしてまで俺を捕まえるか? もっと慎重に考えろよ、ガキが」
どうせ最後には抵抗なんて意味のなくなる茶番。何をしたってこの胸に渦巻く喪失感は救えない。
ただ厳然と、要は《傷持ち》であるという方程式だけが事実を突きつけるだけだ。
面白くない。退屈だ。同じ景色を別の視点からやり直すだけの面倒な時間。これが物語なら、きっと語られることの無い悪役の裏話で済んだのにと。
無情な時の流れ、確かな結末を噛み締めるように刻まれる再現に歯噛みをしながら。たった一つしかない世界の結末を夢想する。
「……だったら早く消えろっ。お前を見てると嫌気が差す!」
「そうかい、それは失礼な事をした。ならば君の願い通り俺はここで退かせて貰うとしよう。また会えるのを楽しみにしているよっ」
「二度と来るなっ」
ようやく僅かにだが相対する事で今胸に募る嫌悪感とは一時的におさらばできるのだと少しだけ気をよくする。
あと半日。この時間で彼の目の前から姿を消す事ができる。その間に何をするべきかなんて、分かり切った事でぜんぜん分からないけれど。
唯一つ。誰の目も届かないこの過去でやっと心を落ち着けられるのだと考えれば見つけた安息地だと溜め息を吐く事ができた要だった。
要の目の前から姿を消して行く当てもなく歩く。
お金は持っているが、殆どが未来製。清算の際にそこまで一々確認されるかと言われれば微妙なところだが、それで面倒事が起きても心労が増えるだけだ。結果お金を使うことは出来なくて。黒尽くめを一旦脱ぎ、人目のつかないところへ隠してコンビニへ。財布の中から持ってきた使える硬貨の金額内で菓子パンとお茶を買って夕暮れの公園で休息を取る。
この時代なら廃ビルもない。どこかへ不法侵入するわけにもいかず、となれば仕方の無い終着点だ。幸いか先住人はいなかったようで、快適な橙色の天井の下、吹き抜けにしては開放感のある地球と言う名の家の中で公園の茂みに脱いだ黒尽くめを敷いて寝床を確保する。
どうせ一日限りの野宿。贅沢を言えるほどこれまでが恵まれていたのだと思い返せば気温以上に肌寒く感じた。
そうして気付けば燃えていた空が何時しか群青の天幕を下ろし、そのうち瞬く星の顔を覗かせ始める。
ここは要がいた時代より十八年昔の八月十日。父親たる遠野雅人が死ぬまで残り一日……。
またあの事故を経験するのかと考えて溜め息一つ。
そう言えばこの体は意外と自由なものだと。『抑圧拳』を受け、『音叉』での異能も『催眠暗示』の記憶操作からも解き放たれた元の要に一番近い状態。
後催眠暗示は……異能力ではないから『抑圧拳』の効果を受けてはいない。残念ながら下手な事はできない。幾ら裏で楽は刺され、意識不明だとしても。彼の事だ、そうなる事を見越して何かしらの対策はしているはず。変な行動をして彼の不信感を煽るのは得策ではない。
ただ、ある程度自由ではあるから。要は要を取り戻して一人考える。
この先に、一体何があるのだろう。彼の望む歴史改変とは……未来で何があったのだろうか。そこに要がどんな風に関わっているのだろうか。
別に正義感の塊みたいに何かの味方を気取るわけではないけれど。要の未来が彼を動かしたのだとしたら、それを変えられなくとも知っては見たい気がする。
楽を動かすほどの歴史干渉の原因。要が行動する事によって変わるもの。それはきっと、要の周囲に関係する問題なのだろう。
未来、由緒、結深、透目、冬子。近い場所だけならその辺り。級友や隣近所の誰かと言うならもう要には把握することもできない可能性の粒だ。
今より未来でどうなってるかなんて分からないけれど。少なくともこの胸に灯る気持ちは唯一つの矛盾が解消される事だけを祈り続ける。
楽や未来がもといた未来の時間は、存在する。
その言葉が、要がこれから行く先を教えてくれている気がするのだ。
だったら、この体もそういうことなのだろうと。
見つめた手のひらを空へと伸ばして拳に握る。
ちっぽけなこれだけの手に、大きな世界の矛盾は余りある。だからこそ許されるべき歴史は、一つだけ紡がれるのだ。
大丈夫。そんな根拠の無い感情が行き場を求めて暴れ出す。
分からない未来に、ありえるだけの想像を馳せながら。数多ある星の如く煌く空想を追い駆けて、目を閉じる。
明けたその先に、語るべき未来がある事を信じて。




