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パラドックス・プレゼント  作者: 芝森 蛍
五里霧中の記憶の先に
30/70

第一章

「お目覚めか?」


 浮上していく意識が遠くに声を聞く。

 体が重い。自由に動かせない。胸の奥に何かが詰まったような感覚にようやく息をしながら瞼を開ける。

 そうして目にする景色。鉄の骨が幾本も聳え立ち、凹凸の激しい鉄板の床が腰の下に存在感を示す。冷たく感じないのはずっとそこにいた印か。

 段々と覚醒していく体の不自由さに結ばれた焦点が男の姿を中央に据える。


「初めましてと言うには少し親しすぎるか?」

「……ら……く…………」

「自己紹介する手間が省けたな」


 掠れた声で呻けば目の前の男は嗤う。

 観音(かんのん)(らく)。記憶にある彼の情報が脳裏を巡る。

 金色のウルフカットと青い瞳は異国、ドイツの血が混じる証。我が友人にして現代では既に一般的なものとして愛好されるアニメや漫画と言った文化に深い造詣を持ち、傍らで作曲なども嗜む意外といろいろできるやつ。

 異国の血が入っているからか、日本人離れしたその顔のつくりは俗に言うイケメン。悪友で、ノリのいい、その場の空気で生きているようなお調子者。

 …………そんな偽りの記憶が軋む。


「とは言っても今のお前は俺を必要以上に知ってるだろう? 今更それに縋りはしないだろうがな」


 そうだ……彼に関するその記憶は、この頭に植え付けられた虚偽だ。

 本当の楽は、そんな場当たり的な生き方をしていない。

 何処までも狡猾で、打算的で、趣味の悪い────この事件の犯人だ。

 僅かに動く体。背中に当たる固い鉄骨の向こう側で縛られた手首を動かしてみるが、きつい結び目は解けそうにない。


「……随分凶悪な目をするなぁ、親友よ」

「誰が…………」


 確かに記憶の限りでは彼は仲のいい友人だ。けれど、それはやはり中身のない関係。気付いてしまえば、否定することなんて容易い。

 ブロンドの髪も、透き通るような青色の瞳も、全て彼が異能力保持者であるという証。ドイツの血など、きっと入ってはいない。

 サブカルチャーへの知識だって、この時代に溶け込むための仮面の一つ。音楽への知識だって、それは異能力が聴覚への干渉型だから……それを最大限利用するためにきっと仕方なく身につけただけの事。

 それを(あたか)も有り触れた趣味の一つのように語って、この時代の縮尺に合わせて偽っていただけ。

 彼は、そんな風に自分を演じてまで近づいてきたのだ。

 まるで悪意のない善人の振りをして…………。


「おっと、無駄な抵抗はやめた方がいいぞ? ほんとは余り趣味じゃないが、お前の意識は今俺が握っている。そういう異能力を手に入れちまったからな。『催眠暗示(ヒュプノ)』……聴覚干渉型の音で作用する間接的作用系異能力。お前は一体、この真実の何処まで辿り着いた?」


 何処まで……と問われて答えるのならば、今楽が語ったところまでだ。それ以降の──彼の本当の思惑までは分からなかった。

 それさえ分かれば、逆手にとって今この景色を作り出すこともなかったのだろうと。

 茜色に染まる景色の中、頬を撫でる生温い風が髪を揺らす。遠くに聞こえる車の走破音。体に感じる鉄の硬い感覚。

 そうしてようやく自分自身がおかれている立場を認識する。

 ここは廃ビル。きっと全ての始まりにして、終わりを紡ぐ場所。この人の来ない無骨な鉄筋の並ぶ建物の中で、今両手足を縛られ身動きの取れない状態にいる。

 手足の感覚が薄いのは、彼が先ほど語った『催眠暗示』の所為だろうか。

 異能力。全知全能にしては些か不便な、制限の付き纏う異能の力。時空間を超越したり、人を操ったりできる……歴史の中で人が幾度も望んだ想像の行き着いた先の、歴史に肯定された答え。

 この身に施された最初の干渉は目の前の彼に関する記憶。そして今身動きが取れないのは、その心の穴を利用した暗示による意識の掌握。……話はそんなところだろうか。

 どこか朦朧とする思考でそこまで辿り着くのと同時、楽が口を開く。


「どうだ、思い通りに体を動かせない感覚は? せめてもの慈悲に言葉だけは交わせるようにしたんだ。思って言葉にしても、体がその通りに動かないんじゃ意味ないけどな。全てを縛るのは性に合わないし、何よりお前の記憶通りに友人としての心遣いだ。感謝してるといい。それにもし何かあるなら言葉にすればいい。答えるだけの余裕は持ち合わせてるつもりだ」


 随分と横柄な態度での上から目線。見下すような物言いに視線を返して、ならばと最大限の牙を立てる。


「…………何が、目的だ……? どうして俺を狙った…………?」

「簡単だ。お前が、遠野(とおの)(かなめ)だからだ」


 遠野要。それが俺の名前にして、個人を指す言葉だと言うのは分かりきった事。

 けれどそういう意味ではないと。俺を狙って、何をしようとしているのか……その答えを聞きたいのだ。


「そんなに怖い顔するなよ。……けどそれは駄目だ。お前に教えるだけの理由がない。それじゃあ楽しくないだろう?」


 楽しいとか楽しくないとか、そんなのはどうでもいい。ただ要は、目の前の楽を捕まえるために今まで戦ってきたのだ。それさえ知らずに彼の言いなりになるのは、自分が許せない。


「何よりお前は既に俺のものだ。俺の言う通りに動き、俺の思う通りにやるべき事をしてもらう。意思なき人形に何を言っても仕方ないだろう?」


 今持てる最大限の敵意を込めて目の前の黒幕を睨む。

 しかし彼にしてみれば戯れ。要のそんな視線をひらりとかわして背後に回りこむと、その手に持ったナイフで縛っていた縄を切る。


「……ほら立て。それから着替えろ」


 言いなりになって抵抗する気も起きないままに、視線を向けた先にある戦装束に着替える。

 黒いレーシングスーツに黒いフルフェイスヘルメットと、黒い皮手袋。それから小型の無線イヤホン……『時空通信機(リンカム)』に、回収されただろう『スタン(ガン)』。一緒に置いてある小さなケースが二つ。手に取れば片方はブースタが幾つか入った容器。もう一つの中には肌色の丸く薄い何か……。


「『小型変声機(ミニマイク)』だ。喉に貼れば違和感などなくなる。ここまで揃えば言わなくてもわかるだろう? お前にはこれから──《傷持ち》として歴史再現をしてもらう」


 《傷持ち》。その名前に息を飲む。

 そんなのは、分かり切った事だ。

 彼に捕まった時から……いや、もっと前。《傷持ち》に手首を切られた時から、同じ位置についた生々しい傷跡に嫌でもその想像をさせられた。

 思わず右手首の甲の側を見やる。そこに刻まれた生々しい傷跡。血が止まっているのは時間が経ったからか、それとも何か処置を施されたか。

 何れにせよ、要には逆らう術がなくて、ただ従順に楽の言葉通りの準備を進める。

 服の上からレーシングスーツを重ね着し、皮手袋を嵌める。ホルスターにはマガジンが再装填された『スタン銃』を収め、喉に張るのは『小型変声機』。耳に『時空通信機』を着けてフルフェイスヘルメットを被れば正真正銘、これまで要が追い駆け続けてきた《傷持ち》の出来上がりだ。

 つまり、幾つかの推理は外れていた事になる。

 『変装服(フォーマー)』を使って要に似せていたのではない、要本人。『小型変声機』も、情報を増やして推理を撹乱するための策の一つ。

 そして何より、《傷持ち》の語ってきた言葉が本当の意味で頭の中に何度も反響する。


 ────俺はお前を知っている


 そんなの、当たり前だ。

 だって全てを経験した、未来の要なのだから。過去の自分の言動を知っていて当然だ。

 辻褄あわせなんて、それほどに呆気なく、残酷なものだ。

 分かってしまえば、どうする事もできない。だって真実は……歴史は一つしかありえないから。

 今ほど未来(みく)に語ったその持論を否定したいと願った事はないと。


「…………『音叉(レゾネータ)』は……?」

「あぁ、忘れてた」


 趣味悪く惚けたように嗤って、少し遠くに鉄骨へ縛られて眠る由緒(ゆお)の額を軽く叩き、『音叉』をリンクすると、それを投げて寄越す。

 受け取って、その重さに口を閉ざす。

 これが、全ての根幹。由緒を利用し、要を追い詰めた、時空間超越の悪用の最果て。

 未来と時空間移動をしていた時は、それが正しい事だとどこかで嘯いて歴史を守るために利用していたからそこまで沸きあがってこなかった罪悪感が、今は確かに胸の内へと渦巻いて蟠る。

 これから振るう時空間移動は、過去を翻弄し、再現する、全て仕組まれた紛れもない悪行だ。

 楽の策に負け、《傷持ち》に負け、今こうして言いなりになるしかない己が身を悔いる。

 未来との約束が守れなかったと。由緒を巻き込んでしまったと。

 今更にして最後の砦を崩され、絶望する。

 分からない。どうすればこの景色を覆せるのだろう。ここからどうやって楽を捕まえられるのだろう。

 一人残された未来は、彼女だけでは時空間移動が出来なくて、要の帰りを待っているというのに。

 例え彼の支配から抜け出したところで、どんな顔をして未来に会えばいいのだろうか……。

 考えるだけで憂鬱に、そして億劫になる。いっそこのまま、《傷持ち》として楽の思惑通りに歴史再現をし続ける事が正しいのではないかと。その方が楽で、何も考えなくて済むのではなかろうかと。

 振るう悪行に目を瞑れば、流されて、自分を見失って…………それ以上に簡単で意味をなくす事はない。

 要自身が消えてしまえる。望んだ非日常に、浸かっていられる。

 それは、要が望んだ事だから。夢が叶うのだから、やはりどこかで嬉しくて────

 思わず浮かべた笑みにどんな意味があったかなんて既に過去。気付けば顔を上げて楽の方を見ていた。


「……それで、最初は何処に行けばいい? 何をすればいい?」

「そこまで縛ったつもりはないがなぁ。まぁいい、その気なら一々説き伏せるのもやめにしよう。────最初の邂逅だ。お前の記憶に一番古い、《傷持ち》との出会いから再現しろ。そこから順に、追ってきた歴史をなぞり返せ。すべてはその通りにしか流れない世界のために────」


 言って嗤う楽。

 最初。《傷持ち》との最初は────あの病院だ。いきなり襲ってきた黒尽くめに驚いて、未来が全て片付けてくれた衝突。


「全てお前の記憶にある出来事ばかりだろう? 経験は過去で、記憶に残る事ならば、彼女の時空間移動で事足りる。……何かあれば連絡しろ、その『時空通信機』が俺に繋がっている」

「…………分かった」


 楽の言葉に頷きつつ、由緒を見つめる。

 彼女の異能力『時間遡行(Re:タイム)』。記憶を基準にその時へ時空間超越を行う技能。

 それを、楽が知っているという事は、やはり全て彼の手のひらの上だと納得して、やるべき事を思い浮かべる。


「さて、では俺も行くとしよう。今お前がここに居るように、俺にだって経験した事のない過去……未来が存在する。それを再現しないとな?」


 その最初は、きっと要や由緒に接触して、『催眠暗示』で記憶を植えつけること。今に至っても、いつそれを行われたのかは思い出せない。きっとそういう風に仕組まれたのだろう。

 屈服…………と言うよりはただ呆れるように彼の策をなぞって、要もまた《傷持ち》としての仮面を被る。


「次なる再会は過去と未来の境界線上で────要、過去のために未来を紡げ。お前の未来が、過去となる」


 全く、黒幕の癖して随分な物言いだ。それではまるで彼が正しい事をしているみたいに聞こえるではないか。

 胸の内で一人ごちて、それから由緒の頭に手のひらを置いた楽が姿を消す。彼が向かったのだ。要も行くとしよう。

 さぁ、何の面白味もない、全ての過去を巡る長い長い再現の旅の始まりだっ。




 脳裏に描いたのは楽が刺された後の病院。まだ由緒が無事な頃で、非日常の片鱗を僅かにだけ味わっていた頃。

 未来が少し変わった風貌の、ただの少女だと思っていた頃……。

 病院の裏手側。そこに降り立った要は時間を確認してブースターを一粒喉の奥へと流し込む。

 これから起こるのは全て過去にして、決められた歴史。

 今更ながらにその違和感に笑う。

 よくある話。タイムトラベルをする小説や映画では、主人公の行動如何で未来が変わり、それによって大切な人や世界の危機が救われる、語られない英雄物語。

 普通ならばきっと、そんな有り触れて希望に満ちた空想は、けれど現実には存在しないのだと。

 世界は、どんな干渉によっても変化を遂げない。

 歴史は、変えられない。

 それが要の知る事実だ。

 例え何かの拍子に変化をしたところで、それを知覚できるのは歴史干渉を行った者だけ。全てを終えて元いた場所に戻れば、変わったという錯覚に包まれながら平穏を謳歌するだけ。

 けれど、それは主観の物語だ。

 歴史が変わったなんて、客観的にはどうやって知るのだろうか?

 未来人が来て未来で問題が起こるから今からそれを止めて欲しいと教えられる?

 どうしてそれを信じられるというのだろうか。主人公は、その未来から来たと語る誰かの言葉を信用するだけで、実際にその未来を見たわけではないのに。

 【信頼できない語り手】。ただその未来人の記憶を語られたからといって、それが本当に正しいと誰が証明できる。

 それこそ本当の事を知っているのはその未来人ただ一人で、その者が語る主観だ。

 信頼を得るために未来人が近い未来起きる事を予言する場面があるかもしれない。確かにそれは当たるだろう。

 けれどそれ一つ……いや、複数個を取ってみても、それは別々に起きた関係のない事柄だ。

 反対側の歩道をゆくソフトクリームを持った子供がこける。そんなの未来の歴史に何の関係がある。

 例えそれを言い当てられたからと言って、未来人の全ての言動が正しいとは限らない。

 それはただ、その瞬間を語っているだけで未来を語っているわけではない。

 戦争が起きるというのが嘘かもしれない。

 ……いや、違う。

 そもそも、戦争が起きると(そそのか)して主人公を動かす事が未来人の目的だ。つまり未来では戦争なんて起きない。

 恰もそうであるように語って、錯覚させて主人公を動かす。

 戦争なんて起きるはずはない。なぜならそうして未来人の口車に乗せられ、主人公が勝手にお人好しな信用を振り翳すから。その末に歴史を変えたと驕るから。主人公は未来で本当に戦争が起こったかどうかも知らないのに。ただ未来人の言葉を信用しただけなのに。

 そんな物語の本当の黒幕は、戦争を起こす要因になる犯人の言動じゃない。そうして過去の主人公を唆し、戦争なんて起きるはずのない未来を再現するために過去に干渉する、未来人こそが全ての黒幕だ。

 歴史改変の物語なんて、その殆どが歴史をその通りに動かすための仕組まれた茶番だ。

 それを読者や鑑賞者が、さも当然のように歴史を変えたと誤認する事で物語が成り立つ。

 言ってしまえば、その物語の未来人が干渉しているのは出てくる主人公にではない。それを見聞きする、我々視聴者の側にだ。

 知らぬ間に観測者となって主人公と同じ境地に陥る……。それこそが未来人が齎した、たった一つ過去干渉だ。

 だからそう、これもそんな数多あるうちの一つ。

 これは要が紡ぐ物語ではない。誰かが勝手に想像して、茶番だと笑うための過去干渉。

 だから少なくとも、要は主人公を気取ろう。演劇や舞台の如く、狂言回しと洒落込もう。千両役者でもいいかもしれない。

 ダブルキャストの逆、兼役として《傷持ち》と言う仮面を手に入れてしまったけれど。利用される主人公の方が幾らか気分は楽だと笑い飛ばす。

 そうして体に漲るブースターの感覚を持て余しながら、幕開けに踏み出す。

 ナイフをちらつかせ、表情のないのっぺらぼうのフルフェイスの奥からその姿を捉える。

 まだ何も知らない……純真無垢と言うには随分と捩れた性格の過去の自分。そして、その隣にいる絵本の中から飛び出してきたような、綺麗に整った少女、未来。

 そんな二人の姿に、けれど胸の奥にはどんな感慨も湧いてこない。

 ただただ、空虚な現実だと言う認識が存在するだけだ。

 あの頃……今から思えば随分昔に感じるこの邂逅を思い出しつつ、その時に交わしただろう言葉を紡ぐ。


「……悪いが、こっちに来てもらおうか」


 きっと間違いはないはず。そこまで事細かに覚えていないけれど、それこそが正しい言動だ。

 プロンプター……カンペを出す者などいない、ぶっつけ本番一発勝負のそれが正解な物語。全ての言動が演じたままに肯定される、即興劇(インプロヴィゼーション)にも似た何か

 あの時にそうしたように握ったナイフの切っ先を向ければ、それに対するように過去の己が言葉の矛を携える。


「お前が、楽を……!」

「だったらどうした。敵討ちか?」


 憐れにさえ思えてくる。非日常に溺れる事を望み、未来に何があるかも知らない……子供染みた夢を抱く自分の過去に。それを今こうして無情に見つめている自分に、嘲笑さえ浮かぶ。

 茶番にも程がある。仕組まれた物語……舞台の上の棒読みな演劇以上に色の曖昧な景色だ。


「何が目的っ?」

「……お前に用は無い。用があるのは──貴様だっ!」


 言って、躊躇なく大地を踏み切り接近する。

 どうせ変わらない景色だ。ならば本気で────殺意に似た何かをぶつけてみるのも面白いかもしれない。

 普段ならきっと出来ない事を、外れた思考、歪んだ景色に丸投げして感情を殺す。

 そうして事ここに至ってようやく気付く。

 現代人を攻撃すれば制限に抵触してしまう。それが防がれる歴史なら確かにそうなってそのまま次の景色を紡ぐ。……そんなのは、でたらめだ。

 歴史にしてみれば、それは決められた干渉。刃が届くか届かないか……結果論ただそれだけだ。そこから逆算して、刃が決定的な意味を持つのであれば……それが許されない干渉であるならば、責任の在り処を異能力に託して時空間の掟に裁いてもらうだけ。脚色する必要も潤色される事もない。ただそのままのある通り。

 そんな、制限でもなんでもない……ただ言葉を借りただけの世界の意思染みた修正力のような何かは、けれど今の要にとって何の障碍にもならない。

 全て知っているから。この身が全て、歴史に許された存在だから。

 少しだけ甘めに振り下ろしたナイフを、一歩前に出た未来がその手首を制することで止め、返しに見惚れるほどのハイキックを叩き込んでくる。

 分かり切った攻撃に、ゆったりと……しかし確かな動作で受け止める。

 これは、まだ軽い方だろうか。彼女も様子見と言った具合だろう。

 ここから始まる未来や要との戦いを想起して、段々と苛烈さを増すその幕の数々に心が躍る。

 直ぐに距離を取れば向けられた銃口。見慣れた『スタン銃』の黒い虚を見つめ返すと、彼女が問うて来る。


「貴方、何者?」

「それはこっちの台詞だろう? なんだいその物騒な代物は」

「答えなさい! 貴方は誰! 目的は何っ!」


 分かり切った答えを返して僅かに昂った未来の語調、その端に少しのずれ……隙を見つけて踏み込む。

 突き出した切っ先は半身をずらしてかわされ、代わりに向けられた『スタン銃』を子供をあやすように優しく跳ね上げ射線を逸らす。直ぐに突き出された拳。まだ『抑圧拳(ストッパー)』のない肌色の華奢な拳を弾けば、脳天に振り下ろされた『スタン銃』。グリップの底……一般的に故障の原因となるために使われないマガジンでの殴打は、ナイフの、刀で言うところの柄頭をぶつけて相殺する。

 衝撃に反発した二人の腕、揺らいだ未来の姿勢に更に掌底を叩き込む。その攻撃は避けられはしたが、確かに彼女の体制を崩す。その刹那に、《傷持ち》としての最重要目的……過去の要に全ての理由を擦り付けるために狙いを定め加速する。

 未来の傍を抜けて急接近。ここで捕まえる事が出来たならどれ程楽かと夢想してナイフを握り、斬りかかる。


「ぉわあああぁあああっ!?」


 情けない声だと。自分の事ながら恥ずかしくなりつつ、そうしてここ一番の瞬発力を発揮する。

 それは要へと襲い掛かったこの瞬間、背後の未来から放たれた『スタン銃』での一発。その亜音速の空気銃を、音さえ聞き及ぶ前に反転してナイフで弾く。

 それはまるで過去の自分を守るように────

 そんな事実は何処にもなくて不本意の極みだと胸の内で悪態を吐きながら呟く。


「厄介な銃だな……」

「銃弾とほぼ同速の弾を弾くとか何その反射神経……怖いんだけど…………」


 『スタン銃』。無力化制圧の代名詞にして中近距離で意味を持つ未来の道具。

 当たれば……という接頭語がつくけれど、確かに厄介で、面倒なアイテムだ。

 何せ今後、未来や要と相対するたびにその存在を突きつけられ、一々弾いたりかわしたりしないといけない。そうなると分かっていても、そうしないといけないというのはやはり億劫だ。

 無意識に避けられるようにはなれない。そこに僅かに注意を割く以上、神経が磨り減るのは必然だ。

 けれどそれは、逆も同じ事。今後それが殆ど意味を成さないとしても、相手を掻き乱すだけの道具にはなる。


「やはり銃には銃か……」


 目には目をの精神で、せめて過去の者達に同じ苦労を背負わせようとホルスターに手を伸ばす。

 その刹那、脳裏に過ぎる既視感。今の自分……黒尽くめの背中を見上げる視点が不意に景色と重なって直感的にその場で跳ぶ。

 同時、足元を通り抜ける背後からの干渉。かわして、そう言えば過去の自分がそんな事をしたと終わった事として思い返せば、後ろから驚愕の声が漏れる。


「なっ……!?」


 ……少しだけかわいそうに思えてきた。同情をする分だけ今の自分さえも惨めにはなるが、それでも落胆は禁じえない。

 浅はかで、その場限りの無意味な行動。するならばもっと効果的に、羽交い絞めや裸絞め(チョーク)に及べばいいのに……。

 どうでもいい雑学だけれども、よく言われるチョークスリーパー……チョークスリーパーホールドと言う名称は矛盾表現だ。チョークは気管を絞める事、スリーパーホールドは頚動脈を絞める技でそれぞれ独立した別の名前。それを繋げて短縮したチョークスリーパーと言う語は、訳せば『気管を頚動脈絞めする』と言う意味不明な語だ。気管を絞めてるのか頚動脈を絞めてるのか、どっちかにして欲しい。それともあれだろうか、頚動脈で絞殺でもしてるのだろうか。ならその頚動脈何処から持ってきたんだ。誰の頚動脈だよそれっ。……などと過去に突っ込んだ覚えもあるけれど。

 過去の記憶が蘇りつつ、けれど今はそんな事に着地地点を見出している暇はなくて。一瞬過ぎったそんな感慨を思考の外へ。こちらに向けられた銃口を睨んで瞬間的に集中力を張り巡らせる。

 ジャンプをして空中に身を躍らせる要に向けて放たれる未来の『スタン銃』。身動きの取れない中空で、けれど来ると分かっていれば予め行動に起こせる。

 銃口……そこから予測される射線に当たりをつけてナイフを一振り。歴史がそうある通りに流れる事を既に疑いもせず、当たらないという未来を強引に……確実に掴んで手の中へ。


「っ……!」

「残念!」


 相手の意思を挫くように、わざと口にしてその場に残す。

 通じないという事実を突きつけるだけで、相手は無駄な行動を勝手に捨ててしまう。その可能性をより高めるために、それが当然だと告げることで相手の戦意と手段を有象無象の如く切り捨てる。

 俺に『スタン銃』は通じないぞ、と。


「…………貴方、ブースター使ってるわね……?」


 着地と同時に飛来した第二射、その二つの凶弾も一瞥さえせずに叩き落す。

 そうして立ち上がれば、勘のいい未来がこちらの事を言い当てる。

 時空間事件……それも今後彼女が経験した事が無いほど複雑で面倒な歴史へと成り果てるその第一歩目に、抗い難い事実を刻み込む。

 すべてが《傷持ち》としての地盤と背景をつくり固めていく。

 紡ぐ返答でさえも相手に委ねて勝手に悪役の偶像を作り出してもらう。そうする事で、未来たちは後手に回らざるを得なくなる。

 こちら側に立てば、すべてが客観視して見えてきて、余計に胸中が黒く渦巻く。


「……だったらどうした? その『スタン銃』で取り押さえて────」


 勝手に畏怖して恐怖を植えつけてくれるならこれ幸い……それこそが《傷持ち》としての役割だと嗤えば、突如耳元で声が響く。それは『時空通信機』を介した彼からの指示。


『要、俺だ。少し話がある。一度退け』

「分かった」


 聞き違えられない楽の声。どこか安心さえする記憶に深い親友の声に返して、今立つ舞台に一度緞帳(どんちょう)を下ろす。


「残念だが今回はお暇させてもらう。次はお前の大切なものを、奪う」

「待ちなさいっ」


 呟きは背後に座り込んでこちらを見上げているだろう過去の自分に向けて。

 声と同時、未来が再三トリガーを絞るが、当然だと諦めて金属の擦過音。舞った銃弾を僅かに視界の端で追い駆けながら、『スタン銃』をしまい代わりに『音叉』を取り出す。


「音叉……?」


 これが全てを掻き回す。矛盾と真実を肯定し、全ての裏に存在する覆らない未来を突きつける最後の鍵。

 その二又は、まるで今の自分と過去の自分の二人を示しているようにも感じながら────

 次いで僅かな振動と共にラの音階を辺りに響かせて視界が歪む。

 時空間転移。これからは、沢山経験した未来のそれではなく、由緒の異能力によって経験した過去を《傷持ち》として再現していくのだと改めて感じながら、幾つもの感慨を胸に募らせる。

 由緒に、巻き込んですまないと。未来に、心配を掛けると。そして何より要自身に、悪いと。

 何に対してかと問われても、一言で纏められない煩雑な思いに僅かに残った良心を焦がしながらその場から消える。

 そうして次に紡ぐ景色は、要の記憶にない幕間(まくあい)の物語。




 どうせ再現するのだと辿り着いたのは過去の要が始めての時空間移動を経験し、家で幾つかの話をしている舞台裏。

 ここしかありえない、由緒を誘拐するタイミングだ。


「それで、話って言うのは?」


 物陰に隠れながら病院を見上げる。由緒が病院から出てきて誘拐されるのは、過去の要がこれから向かうというメールを送ってから。メールの送信履歴を見ればいつ送ったのかも簡単に分かる。そこから計算すれば由緒の出てくる時間なんて分かりきった話だ。

 辻褄合わせなんて道理の通った話ではない。ただの間抜けな、己が残した罪だ。

 その過ちを清算するように全てを脳裏に描きながら『時空通信機』の向こう側に意識を向ける。


『まずは彼女の誘拐だ』

「もうその時間に来てる。……暇なら話相手にでもなりに行こうか?」

『その時の俺は今の俺からしてみればまだ未来の存在だ。こうして話をしている俺は何せまだ刺されていない。過去のお前に家に呼ばれてすらいない。赤い毛並みの時の兎だってこの時代には来ていない頃だ。先ほどようやく今の俺がやるべき仕込みが終わったところだからな』


 仕込み、と言うのは記憶の植え付けだろう。

 彼の生い立ち、身の上に関する虚偽の情報。それがあったから、疑いたくなくて、疑う要因になったのだ。

 そして何より、その最初の『催眠暗示』こそが全ての元凶。


『暇つぶしと言うなら付き合ってくれたまえ。問題っ、『催眠暗示』使用後、どうやって君を操り彼女の誘拐を容易にした?』

「……後催眠暗示」

『ふむ、正解だ。要……偏った知識だな』

「聞き齧った偶然だ」


 どうでもいい答え合わせをすれば、『時空通信機』の向こうの楽が笑う気配。その陽気な声音は、要の記憶にある彼と紡いだ確かな時間……要の旧友、観音楽の善人の仮面を被って振舞っていたあの頃と同じもの。

 要だって何かを演じる事に掛けては得意分野だ。だからこそ直感で気付く。……演技だなんてとんでもない。一緒にショッピングセンターを巡り、煩雑で適当な紡いだ過去は、紛れもなく彼の中に眠る楽そのものだ。

 あの時に笑っていた笑顔も、紡いだ言葉も。必要に駆られて取り繕ったわけではない……確かに彼が心の底から望んで刻んだ彼自身だ。

 この頭に植え付けられた彼に関する記憶も、中には真実が含まれているかもしれない。

 ドイツ人とのハーフ。本当にハーフかもしれない。

 ブロンドの髪に綺麗な青色の瞳。地のもので、異能力の発現に際しての変化ではないかもしれない。

 英語が苦手なのだって。音楽に造詣が深いのだって。左利きで絶対音感なのも。アニメや漫画が好きなのも。それは彼自身の中に眠る本当の事かも知れない。

 ただやり方が違うだけの、彼なりの自己紹介だったのかもしれない。

 そんな風に考えれば、少しだけ面白くもあり、寂しくも感じる。

 彼が彼のままなら、要は楽を好きになれたかもしれないと。


『その後催眠暗示で、幾つか細工を施した。全て分かるか?』


 どこか楽しそうな……なぞなぞを出す無邪気な子供のような問い掛けに記憶を遡って経験と言葉を重ね合わせ、知っている限りをぶつける。


「…………由緒の誘拐時、彼女の無力化。『スタン銃』が撃てないからな。トリガーは分からないけど」

『『スタン銃』を向けるだけさ。その銃口を目にすれば、強烈な眠気に教われてその場に崩れ落ちる。その彼女を連れて行けばいい』


 それがまずこれから要がやる事。きっと最初にして最後の、由緒への直接干渉。


「ショッピングセンターでの事も後催眠暗示か? 二回目の……逆位相を流した後の襲撃」

『そうでないと成り立たないものは全て理由を丸投げしてみればいい。……分かっていると思うが『催眠暗示』は同じ人間には複数回掛からない。それを隠れ蓑にした後催眠暗示なんだからな』


 今でも思い出せば、数多に伸びてくる人の腕の光景は恐怖体験だ。


「……あとは、冬子(とうこ)さんの運転か? 俺を襲うことが『催眠暗示』で、由緒を轢こうとするのが後催眠暗示」

『よくもまぁ限られた情報だけでそこまで至ったものだ。俺をあそこまで追い詰めてくれたんだから当然と言えば納得の推理力だがな』


 一つ、裏を返せば嫌な想像もある。

 要を捕まえるための過去干渉。ならば別に、《傷持ち》と言う駒を使わなくても可能なやり方がある。

 わざと隙を見せて、要だけをおびき出して捕まえる。未来と別行動を取らせるというのが策の根幹で、そこまでのお膳立てとして敢えて道化を演じていたというのならば、あの廃ビルで相対する事も折込済みか。

 その上で自分に矛先が向きづらくするように……《傷持ち》を囮に使って要を翻弄し、あの景色を作り出す。

 狡猾と言うか、単純と言うか。だからこそ尊敬するほど彼の手腕には今も尚驚かされる。

 それから今の楽との会話で分かった事がもう一つ。

 冬子に楽の個人的な情報の『催眠暗示』は掛かっていない。つまり彼女は、楽の事を知らなかったのだ。

 今になって思えば不自然な点が記憶にある。

 最初にショッピングセンターに向かって冬子に出会ったとき、彼女は未来と同列に楽のことも驚いたような視線で見ていた。あれは、知らない人物に対する疑問だったのだろう。あの時はただ金髪と赤髪とで珍しいから見比べているのだと思っていたが……。見落としなんて言えるのは全てを知った今だから。

 それから同様に、冬子は楽の名前を口にした事がない。それも彼が未来人であるというヒントと言えばその通りだったのだろう。

 今更な答え合わせ。今までの景色に。確かな違和感は散らばっていたのだ。それに気付けなかった過去の己を叱咤する。どこかで気付いていれば、こんな景色にはならなかったかもしれないと……。


「俺の誘導にクラスメイトを使ったのもそれか?」

『不必要な干渉をするつもりはない。最小限の痕跡をすべてにおいて考えれば答えは出る』


 ……つまりクラスメイトに対しては後催眠暗示ではなくただの『催眠暗示』か。冬子のように俺を見たら襲うように暗示を掛けたのだろう。

 目的のためなら他人を利用する事は厭わない。最後に切り捨てられる道徳と引き換えに得られる景色を壊す方法の一つ。

 要だってそちらの側なら、できる限りの策は取っただろう。考慮にも入れるはずだ。そもそも、黒幕や《傷持ち》がそんな非道なやり方をぶつけてくるのは百も承知だったのだ。それでも尚とめられなかったのだから、そこに介在するのは既に運と言う名の必然だけなのだろう。

 終わった事とは言え、納得と否定が渦巻いて頭の中を埋め尽くす。思っても、この体は未だ答えを見つけられないままだ。


(むな)しいか?』

「……どうだろうな」


 有り触れた雑談のように零してそれから小さく息を吐く。


『何にせよ、お前にはこれから彼女を迎えに行って貰う。丁重に扱えよ?』

「分かってる」


 由緒を大事に思う気持ちが、抗い難い歴史とぶつかって後者に天秤を傾かせる。必要な事だと割り切って感情を捨てる。

 由緒は助かるのだ。この誘拐は、あの廃ビルで解決するのだ。その未来を思えばこそ、すべてに理由はあるのだと諦めて気持ちを固めた。


『……それから、少しの間指示ができなくなる。これから刺されて来るからな』

「いい気味だな」


 楽を刺すのは、きっと未来の要……《傷持ち》としての歴史を再現する中でこの身に訪れる彼との再会だ。

 見方を変えれば、彼に突きつけるたった一突きの刃。ならばこそ、例えそれが命令通りだったのだとしても、できる限りの思いを込めて深く刺してやりたいものだと。

 まるで復讐を滾らせるように思い描いて僅かに笑う。こんな事で心を躍らせるあたり、やはり要は人間としてずれているのだろう。


『俺からの指示がなくてもやることはやってもらう。お前にしてみれば既に一度経験した過去の再現だ。何をどうすればいいかは分かってるだろう?』

「忘れてなければな」

『とりあえずはそれを片付けて来い。次に声を聞く時は、すべてが終わった後である事を願ってるよ』


 変わらない声の表情に答えは返さずに少しだけ考える。

 《傷持ち》としての役割は楽の影響下だ。『催眠暗示』に起因する後催眠暗示。だったら彼が意識を失った際にどうなるのだろうかと。

 『抑圧拳』で殴られれば異能力が使えなくなるように、言わば統治者たる楽の意識が眠ってしまえばその管轄から外れて自由な行動が出来るのではないだろうか……。そんな事に思い至って、けれどどこか冷静な頭がそれを否定する。

 外れるのは、異能力の干渉だけだ。そこから派生した後催眠暗示は要の知識にもある確かな存在で、眉唾であっても異能力ではない。

 そもそも後催眠暗示は暗示を掛けた者が近くにいなくとも発動する命令だ。ならば眠ったとしてもその暗示は解ける事はない。

 それに『催眠暗示』だって解けないはずだ。

 楽の視点に立って時系列を考えれば簡単なこと。彼はこの時代に来てまず過去へ、要たちへ虚偽の記憶と後催眠暗示を全て施した上で観音楽として目の前に現れ刺された。けれどそうして倒れ、病院へ運ばれ眠った後にも、現に今要の記憶には楽に関する偽の記憶が存在する。

 つまり『催眠暗示』も後催眠暗示も、楽が意識を失ったところでそれに呼応するように勝手に解けたりはしないのだろう。

 もちろん、彼が眠っている間は『時空通信機』を通しての彼からの監視はなくなる。けれどなくなったところで過去干渉と言うやるべき事がある以上、それはこなさないといけない。例え何か自分の意思で行動を起こせたとしても、それは僅かの時間だけで、そこで何が出来るかと問われれば分からない。そもそも何をすればいいか分からない。

 自由は確かにあるかもしれないが、しかし要一人で出来る事など高が知れていると。

 随分と手探りな未来予想図を掴み損ねたまま、気付けば視界に病院から出てくる由緒の姿を捉えた。

 楽との会話や考え事で、いつの間にか時間が経っていたらしい。

 ……とりあえずは歴史再現。そうすれば行き着く先で何かチャンスがあるかも知れないと。その時が来る可能性を僅かにでも抱きながら足を出す。

 貨幣を投入し、自販機からスポーツドリンクを取り出すその後姿。長い黒髪と、要より一回り小さな背丈。そこに込められた彼女らしさと、冴え渡る柔道の技に尊敬さえ抱きながら、何度目か分からない後悔と謝罪を渦巻かせつつ声を掛ける。


「──去渡(さわたり)由緒だな?」

「んぇ?」


 間の抜けた返事。いつもの由緒らしい声に彼女が振り返る。

 ノイズ交じりの声。黒いレーシングスーツに黒いフルフェイスヘルメット。黒の皮手袋には抜いた『スタン銃』を構え、その銃口を彼女の目の前に突き出す。


「眠れ」


 今はただ、眠っていて欲しい。ただ静かに何も知らないままにいて欲しい。

 彼女を助けたいという思いと間逆の事をしている違和感に苛まれながら、紡いだ声に(もっと)もらしい理由を添えながら。


「……ぁ……ぇ…………ま…………」


 言葉にならない声を零してその場に崩れ落ちる由緒。手から滑り落ちたペットボトルからは、透明な中身が滔々と流れ出て水溜りを作る。

 俺は一体、何をしているのだろうか。

 倒れた由緒を少しだけ眺めて、それから深く考える事をやめると、彼女の体を背負う。

 柔らかい、女の子特有の感触。特に女性らしい幼馴染はこれまで触れた事がないほどに密着して。

 そうして聞こえ始める寝息に小さく安堵する。

 楽に言われた通り、銃口を見せた事をトリガーに後催眠暗示が問題なく作用してくれたと。それ以上彼女を傷つけなくてよかったと。

 眠った所為か少しだけ重く感じる彼女の温かさをしっかりと背負いながら小さく告げる。


「由緒を保護したぞ」


 呟きには声は返らない。もしかしてもう刺された後だろうか?

 そんな事を考えながら背中の彼女と二人、廃ビルへ向かって歩き出す。

 その命を、今は要が背負っているのだと、改めて感じながら。




 廃ビルの六階部分。記憶の通りに彼女がいたそのフロアに辿り着けば、壁のない吹き抜けに腰掛ける背中が一つ。

 ブロンドのウルフカット。どこか遠くを見つめる青い瞳。記憶に深い彼の声。


「……お疲れ様。とりあえず、そこの柱に括り付けとこうかね。あ、丁重に頼むよ。彼女は大事な賓客なんだから」


 観音楽。それは、この時代に来たばかりの……何も知らないはずの全てを想像し終えた未来人。要を《傷持ち》として扱う張本人。巻き込まれた時空間事件の黒幕。

 幾つもの肩書きを持つその背中を見つめて、それから言葉も返さずに静かに由緒を下ろすと、鉄骨に彼女を括り付ける。

 出来る限り優しく。けれど痕が残らないように。本結びで後ろ手に縛り、足首も結んでおく。

 これは念のための処置。後催眠暗示で、今の要のように身動きが取れなくなるはずだから本来は必要のないことだが、外連味と言う意味でも縛るという行為は心にまで影響を及ぼすと、前に何かの本で読んだ覚えもあったりなかったり。


「あぁ、そっか…………そう言えばこちらにしてみれば初めましてだね。何だか不思議な気分だ」


 この時代に来たばかりの楽にとっては、見るもの全てがはじめましての筈だ。けれどそれであってもどこか浮世離れした振る舞いの彼は、何もかもを分かったような言動を見せると違和感を覚える。

 全てを知っているならそれは今の要と同じ過去再現。しかしその先に、彼さえも知らない歴史改変があるのだろうと考える。

 本当に、一体。何が目的で要を捕まえたのだろうか。そうするために《傷持ち》何ていう役割を作り上げて景色を掻き回したのだろうか。

 彼の願いとは……?

 事ここに至っても分からないその最後に、僅かに向けていた視線を外す。

 目の前には眠る幼馴染。その、前髪を指先で一房退けて、それから立ち上がる。


「……なんだ、もう行くのか? つれないな。もう少し四方山話に付き合ってくれればいいのに」


 言われても、従う気は起きない。

 ただの戯れだからだろうか。そこに彼の感情が宿らないから、要だって命令だと思わないのだろう。

 どうでも良い事を考えて『音叉』を握れば震えて響かせるラの音。

 そうして歪んだ景色が、次の瞬間には自分の家を目の前に出現させる。

 ここは遠野家。その玄関前。分かり切ったその感慨に、ポケットから一枚の紙を取り出す。

 視線を落とせば、そこに書いてあるのは継ぎ接ぎの文字列。


 ────明日の夜七時に、遠野要だけでショっピんグセんター前の廃ビるへ来イ。お前ダけデ来なケれば由緒ヲ殺ス


 これはナイフや黒尽くめの衣装と共に渡された楽が用意してくれたもの。先ほど由緒を縛った縄もその一つだ。

 今一度その文言を読み返して気付く。

 これは、楽の失敗の一つだ。

 彼はきっと、この脅迫状で呼び出した要を捕まえるつもりだった。最初のその接触だけで、全てを終わらせるつもりだったのだ。

 けれど全てを曲解して、抜け道を示した過去の自分。遠野要が二人重なる事で、約束に違わずに景色を変えて見せた奇策。

 そのお陰で、楽にしてみれば直ぐに終わるはずだった要の捕縛は、随分と長引く事になったのだ。

 だからこそ、《傷持ち》と言う役割が必要になった。それを最大原に活用して、末にようやく要を捕まえるという同じ結末を得た。

 すべてはきっと、ここから狂ったのだと。

 例えばもし、本当に彼の思惑通りにこれで彼を捕まえられていれば、何の痕跡も残すことなくこの時代を去っていたはずの彼は、しかし修正せざるを得なくなり、結果追い詰められた。

 そこまで行っても捕まえられなかったのだから、今更全てが分かったところで後の祭りではあるのだが……。

 誤算の始まり。その最初をしっかりと自分の家の郵便受けに突っ込んでまた『音叉』を鳴らす。

 次いで要が向かったのは廃ビル。由緒が誘拐された一日後の夕方。

 楽を追い詰め、彼に捕まった後にして、これから過去の要が由緒を取り戻しに来る、その直前だ。

 歪み捩れた歴史の始まりにして終着点。随分と縁のある場所だと見上げて、それから中へと入り、階段を上ってゆく。

 カツンカツンと響く鉄板を踏み締める規則的な音に段々と心が凪いで行く。

 雑音は嫌いだ。メトロノームの拍子を刻む音だって好きじゃない。集中力を乱すそれを無視する事は要には難しい。だからこそ普段から平穏無事にノイズの少ない日常を演じていた。そうしていればいつでも落ち着いていられたから。冷静に、辺りを観察して、クラスメイトとの会話でさえ一歩引いた場所から自分ではない何かを演じていた。

 打てば響く……相手が欲する答えを見つけてはそこに上辺の感情だけを乗せて呟く。そうして、有り触れた日常を揺蕩(たゆた)っていた。

 けれどそんな要でも好きな音は存在する。

 自分で出した、鼓動と共に鳴る規則的な音。今足元から響くそれ。

 言葉にしてぶつければ、自分勝手で我が儘な理由だと言われるかもしれない。

 他人が出す音は嫌なのに、自分が出す音は許容できるという押し付け。

 けれど要にしてみればそう言う物なのだ。自分のペースで刻み、他人に左右されずにマイペースに紡ぐ。協調性がないと言えばそうだろう。もちろん、だからこそ他人の気配には敏感で、体の言い仮面を被る事に慣れてしまったのだろうけれども……。

 そんな、歪んだ中心こそが要だ。

 だからそう、この《傷持ち》としての意味にも心地よさを感じる。

 楽の言いなりに歴史を再現している現状は、けれど最終的に心の持ちようだ。歴史に肯定され、そうせざるを得ないと押し付けられていると考えればこの胸を掻き毟りたくなるけれど。そこに宿る一挙手一投足、音にする言葉は確かに要の中から出てきたものなのだと認識を書き換えれば、すべては要自身が作り出した旋律だと不遜に胸を張れる。

 そして今、この胸を埋め尽くすのは後者だ。

 《傷持ち》として、全てを知った上で、必要であり、自分の意思で紡ぐ道程。

 すべては過去に起こったことだからと納得して、改めてその通りになるように自分が振舞っていると言う自己満足。

 これから連続する過去の要との衝突が、全て自分の勝利で終わるという予感にもならない確信が失敗をしないと教えてくれる。その美酒に、今からでも軽く酔う。

 未来が分かれば面白くないなんて、そんな戯言は、分からないから言えるのだ。

 知ってしまえばそれまで、面白くないなんて事はない。どんな風になるか分かるからこそ、そこに自分が関われば思い通りになるという実感。全てが都合のいいようには運ばないかもしれないけれど、それさえも失敗するという事を分かっているからこそ安心して失敗できる。失敗するという現実に、正しく失敗してその先を歩むのだと勝利が胸を突くのだ。

 言ってしまえば、優越感にして、負け知らず。失敗などない、何処までも安全で確かな将来だ。

 誰だって不安になる未来の事に、けれど今の要はそんなものを抱かない。

 だって知っているから。全てが思い通りになるから。

 歴史は、そうある通りにしか流れないから。

 歯車の外れた思考でその歪さに嗤う。

 未来は、知る分だけ面白くなるっ。

 ようやくその場所に来られたのだと客観視する自分と視界を重ねれば、神様のように全能の記憶を遡る。

 ここから紡がれるは、愚にも付かないほど絵になる茶番狂言。分かり切った結末へ向かって紡がれる、最高に面白味のない決められた手順のチェスゲームだ。

 宛らこの身は、【デウス・エクス・マキナ】を起こす機械仕掛けの神……舞台風に言うなら強盗返(がんどうがえし)だろうか。

 なんにせよ、全く持って進展のないただただ心踊る要のための自己満足が紡がれる。

 その際たる始まりにして終わりが、ここ廃ビルだ。

 過去の要との直接的な交わりにして、要が《傷持ち》へ至るための最後の戦場。因縁の詰まった縁の深い場所だ。

 過去の自分がそうしたように階段を上って由緒の元へ。眠る彼女は、主観にしてつい先ほど連れて来たままに眠っているが、現実的な時間では彼女が誘拐されてここへ縛られ、一日以上経過している。

 鉄骨に縛り付けられてはいるが、風邪を引かないようにと厚手の毛布が掛けてある。それがせめてもの好待遇。出来る事なら今ここでその縄を解いてあげたいが、それはどうにか押し留める。どうせこの後、過去の要が彼女を連れて帰ってくれる。

 その後も、色々と災厄は降りかかるが、その(ことごと)くを打ち払ってくれる事に期待にもならない過去を思い返して小さく息を吐く。

 そんな風に考えながら眠る由緒を見つめて、それから過ぎった感慨に足を動かす。向かった先は一つ上の階。《傷持ち》の正装たる黒いレーシングスーツを着るにあたり、脱いだ上着を置いてある場所へ向かい、そのポケットからハンカチを取り出すと廃ビルの外へ。

 施工敷地内にあった蛇口を捻れば、水が出たので軽く濡らして由緒の元へと戻る。

 せめてもの償い……というか、やはりこれも自己満足。幼馴染にして、要を動かしたその一番の理由たる彼女には、何処にいても理想でいて欲しいと。

 攫っておいて今更という感ではあるが、それは楽の命令であって要が本来したいと思って成した事ではない。こんな事になった今でも、彼女の事は大切で、これ以上巻き込みたくないとは思っているのだ。……言っている事が撞着しているだろうか?

 なんにしても、どうあろうと由緒は要の大切な人で、その頬に付いた汚れを見過ごすわけには行かなくて。

 そこまでするならばいっその事眠る彼女の全てを綺麗にしてあげたいが、今はそんな時間もない。そもそも、どんな状況であろうと要は男で、由緒は女。流石に了承もなく女性の肢体を拝むのは流儀に反する。……もちろん、男としてそういう欲がないかと問われれば別問題だが、この気持ちは間違えられない。

 ただ要は、由緒を大事にしたいだけなのだ。


「…………悪いな、こんな事に巻き込んで。後で小言なら幾らでも聞くからな……」


 後で、なんて。そんな約束したところで叶うかどうかも怪しいのに。

 けれど言葉にする事に意味があるのだと信じて優しく笑う。

 謝るべき事は沢山あるのに、目を見て話を出来ずにすれ違う……そんなもどかしさが募る。

 しかしそんな言葉よりも確かなもので、目の前の由緒とは繋がっているのだ。

 『音叉』。《傷持ち》の時空間跳躍トリックの、そのリンク先。それが目の前の由緒なのだ。より正確に言えば、彼女を誘拐してきてからすぐの時間にいた由緒。つまり今要が持つ『音叉』の繋がった先は、目の前にいる由緒より一日過去の彼女だ。

 要は彼女の異能力で《傷持ち》としての役割を果たしている。そこには厳然と成すべき順番があって、同時に裏ではその度に由緒の異能力が行使され続けている。

 つまり、今の要の時間は、『音叉』をリンクした時の由緒と同列の時間を歩み続けているのだ。

 要が旅する時間、前後する時間は、殆ど由緒とは重ならないけれど。今要が一日寝て休めば、この時間移動の裏に生きる由緒も同じように一日の時間を消費する。

 そんな、言わば運命共同体のような、空間を越えて時を共有する唯一無二の繋がりだ。

 だからそう、今目の前にいる由緒は、あの『音叉』のリンク時から約一日後に生きている。同時にそれは、由緒の裏で要もまた《傷持ち》として今より一日未来を生きている事になるのだろう。

 目の前にいる由緒……その裏で、未来の要は《傷持ち》として一体何をしているのだろうか。どの辺りにいて、何の再現をしているだろうか。もしかすると、全ての再現を終え、その先に楽の求める歴史干渉に手を貸しているのかもしれない…………。

 楽の目的。それを少しだけ考えて、諦める。

 想像したところで、それは想像に過ぎない。事実であるという確証がない。その確認も、今きっと刺されて目を覚ますまで眠っている楽には取る事が出来ない。

 ならばもう、毒を食らわば皿まで。全てを諦めて、彼の手駒として《傷持ち》の仮面を被るために本当の事を彼の口から聞けばいいと。その時までせめての楽しみは取っておこうと。

 小さな目的を見つける共に考える事を放棄して立ち上がると、綺麗になった由緒の顔に満足感を覚えてハンカチを置きに上の階へと上がる。

 そうして脳裏を過ぎった懸念。

 本当に、今更でどうでもいいことだけれど。未来の事を置いて来てしまった。

 楽の言いなりになっている以上、彼女に本当の事を伝える機会など永遠に訪れないだろう。

 だから本当に今更で、ならば未来は今どうしているだろうかと。

 事件の黒幕…………楽を捕まえに行くと意気込んで要を送り出した彼女は、一人で要の帰りを待っている。語った約束を胸に抱いて、次の瞬間には無事に帰ってくると刹那を永劫にも感じている事だろう。もちろん、彼女の視点に立てばそれは一瞬で。歴史的に見ればすべてに決着をして直ぐに戻って来るか、それとも何かがあって戻って来ないかの二択。

 そして恐らく────彼女が現実として刻み付けるのは、後者。

 だって要は、楽に捕まってこうして《傷持ち》としての役を演じているから。この身は、もう何も知らない要には戻れないから。

 それは寂寥感、だろうか。それとも未来に対する懺悔にして、後悔だろうか。

 何を思っても、その気持ちを彼女に伝える事はできないのだろうけれども。

 今までを全て経験してきて、その末に客観視した遠野要が冷静に告げる。

 これにて、物語は終了。結末は、事件を解決できずに負けを噛み締め、絶望と共に歴史を歪める────BAD END。

 何て心地のいい響きだろうか。人間らしさを忘れた俺には、当然にして当たり前の終着点だ────

 失敗という終わりに、正しい花丸をあげようじゃないかっ。

 だからほら、誰でもいい、笑ってくれ。

 遠野要は、物語の主人公ではなかったのだと。

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