第二章
眼前に唸る暗い銃口。その存在に、けれど想像通りだった景色を重ねて思いの外冷静に体が動く。
直ぐに左手で銃口を斜め上へ逸らすと、カウンターのように右の拳を黒尽くめの腹部へ。
しかし突き出した力は、感触を得ることなく宙を掻く。同時に後ろへと飛ぶ《傷持ち》の姿を視界が捕らえて、すぐさま『スタン銃』を抜いて構えた。隣で未来も目の前の捕まえるべき標的を睨みつけて構える。
そうして僅かな距離を開けて対峙。降りた沈黙が嫌に重苦しく蟠り動く事を躊躇する。
《傷持ち》を捕まえる。そう息巻いては見たもののその具体的な方法論まではまだ思いついていない。策をぶつけようにも安易な作戦は逆にこちらにも被害が出る恐れがある。
けれど長引かせるのは得策ではない。本当に、そろそろ捕まえないとこちらも我慢の限界だ。《傷持ち》一人にどれほど手を拱いているのだと。面倒臭い犯人を睨みつけて呼吸を整えると、意を決してこちらから踏み込む。
走る中で『スタン銃』を連射。その軌跡に、銀色の刃が閃いて弾き飛ばす。
視界さえ遮ればあの妙技を使えない事は一つ前の接触で確認済みだ。けれどそう簡単に視界を奪う方法などない。フルフェイスヘルメットがあるからこそ、《傷持ち》は顔への攻撃を度外視してこちらに襲ってこられるのだ。
それに顔を狙えないからこそ、的が絞られて余計に『スタン銃』での攻撃を弾かれているのだ。ならもう一度、あのヘルメットを剥がす所から。
刹那にそこまで考えて、それから《傷持ち》の後ろへ回るように駆けて撃ち続ける。
幾ら《傷持ち》と言えど、人間背中に腕も目もない。ならば背後からの奇襲なら効果がある。
更に言えば《傷持ち》の目的は要のはずだ。だからその優先順位は要の方が上。要が動けば、それだけ《傷持ち》の意識を分散させられる。
『スタン銃』の距離から一歩踏み込んで徒手格闘へ。由緒の見様見真似で『抑圧拳』を着けた拳を打ち出す。
それを容易にかわす《傷持ち》。まるで踊るように身を翻したその足取りで、背後から迫る未来の蹴りを腕で受け止める。同時、開いた片手で握った『スタン銃』を要に向けてトリガーを絞る。
咄嗟に横に転がって回避。その最中に未来が《傷持ち》の注意をひきつけて連続的な近接戦闘へと持ち込む。
今の内だと。取り出したブースターを喉の奥へ流し込んで再び立ち上がる。
これで数分もすれば《傷持ち》と同程度の動きが可能だ。それで未来と協力して身柄を取り押さえるだけ。
できることならこれ一回で決めたいところだが……さてうまくいくだろうかと。
『スタン銃』のマガジンを交換して再び構え直すのと同時、未来が《傷持ち》から距離を取る。その黒い背中に向けて二連射。
けれどその攻撃を、《傷持ち》はやはり全てを知っているような身の軽さで持って大地に這うようにしてかわし、刹那にアスファルトの地面を踏み込んで反転、こちらに向かって急接近する。
流石に飲んだばかりでその効果は出ないブースター。気づけば目の前に迫った黒い影から伸びる手が、要の首を掴んで持ち上げる。
人一人を片手で。そんな人間離れした力。万力で締められているような握力に声さえ出せないまま宙吊りに。
息をするのにも苦しい状況で、『スタン銃』をどうにか向けるも、手首を弾かれて取り落とす。滑る『スタン銃』が視界の端、心の内で悪態を吐けば何故かいきなり《傷持ち》の腕が要の首から離れた。恐らく未来が横槍を入れてくれたのだろう。
太陽照り付ける黒い大地に転がって受身を取って咳き込む。それと同時、顔を上げれば未来が『スタン銃』を構えたまま叫ぶ。
「大丈夫っ!?」
「っぁあ……どうにか…………」
近くに転がった『スタン銃』を拾い上げて再び《傷持ち》へ向けて一発を撃つ。その景色の中で、感覚が段々とゆっくり伸びていくのを味わう。飛んでいく弾の軌跡が鮮明になっていく。
どうやらそろそろブースターの効果が出始めたらしい。ならばここから一転攻勢だ。
当然のように弾丸を弾く《傷持ち》を睨みつけて、それから大地を踏み切る。いつの間にか呼吸も通常通りに。久々の超人的な感覚に拳を握れば、必要以上の力を込めてフルフェイスヘルメットにストレートを叩き込む。
瞬間、これまで手を抜いていたのかと思うほど鋭敏な反応で回避行動を取った《傷持ち》。けれど流石にいきなりの加速。体が追いつかなかったか、ヘルメットの端を拳が捉えて吹っ飛ばす。
そうして宙に舞った黒い玉。幾度か跳ねる音を響かせる中で、《傷持ち》が今度は顔を隠すことなく要の顔でこちらを見据える。
「……そうか、ブースターか」
「だったら……どうしたっ!」
歪む表情。不敵な笑みに苛立ちを募らせながら再び接近して殴り掛かる。
この胸の不快感は自分の顔を見たからだろうか。それは『変装服』で被った仮初の顔でも同じように感じるのだろう。
他人へなりきる仮面なのだから、自分の顔なのだからその通り。それは要個人ではなく、要の顔に対する嫌悪感かと。
鏡を見たときよりも明確に募る拒絶感は心の内をざわつかせる。
目の前の誰かが要でないのだとしたら、そいつは今要が感じているような拒否反応を覚えてはいないという事になるのだろう。その不合理に、更に拳が唸る。
その悉くをかわし続ける《傷持ち》。お返しとばかりに振るわれる銀色の刃が、今は鮮明に目の前を通り過ぎる恐怖に慄く間さえ置き去りに景色は次へ。
腹部への殴打。《傷持ち》が半身逸らしてそれを流し、そこから半回転で上段回し蹴り。しゃがんでかわし、そのまま足払いを掛ければ、《傷持ち》は飛んで逃げるとこちらに向けて『スタン銃』を連射。
見えた銃口に、いつもは思っていても出来ない想像を超人的な身体能力に任せて決行する。
大地に手を突いてそのまま前へ。前宙で飛来する弾丸を飛び越え、勢いそのままに踵を落とせば両腕を交差せて頭の上で受け止めた《傷持ち》。直ぐに足首を掴まれた視界が、コーヒーカップのようにぐるりと一回転。気付けば視界の先に未来を見つけて、慌てて《傷持ち》から離れる直前でその肩を蹴って少し方向修正。次の瞬間握られていた足首の感覚がなくなると空中へ放り出される浮遊感。ジャイアントスイングの要領で投げ飛ばされたのだろうと。
考えつつ数秒の滞空の後、コンクリートレンガが積み重ねられた家の塀に着地して息を吐く。
よかった。未来にぶつからなくて済んだ。
胸を撫で下ろしたのも束の間。次の瞬間駆け出した未来に合わせて要も跳ぶ。
そうして始まる二対一。景色に彩る赤い髪は未来の攻撃に合わせて流麗に。その軌跡で《傷持ち》の視線を遮って急接近。未来の蹴りに交差するように時間差で回した左の脚が《傷持ち》の首を捉えて蹴り飛ばす。けれどそれで意識を失わないのが《傷持ち》。分かり辛かったが当たった瞬間に衝撃を流され、減らされた。お陰で、蹴り飛ばしたにも関わらず自分の意思で回転する《傷持ち》がこちらへ向くたびに『スタン銃』を撃ち放って来る。
それを目視でどうにかかわして未来と二人並んで息を整えれば、視界の先で猫のように着地を決めた《傷持ち》がこちらを見据えてくる。
「いいねぇ。心踊るじゃないか。感じるだろ? 刹那に交わされる言葉以上の感情……。言葉なんてなくても人と人は分かり合える」
「うるさいっ!」
叫んで一発。予定調和は《傷持ち》が立ち上がる動作に合わせて弾かれる。
このまま時間が稼げればブースターが切れるのは向こうが先。その瞬間が取り押さえるのに絶好の機会か……。
まるで舞台の上で演じるように無駄な言葉を操る《傷持ち》。
「だったら嘘かい? その胸に滾る熱はっ。急くほどに振るうその腕はっ、脚はっ!」
「減らず口を……っきゃぁっ!」
唾棄した未来の言葉。その音が途中で途切れて彼女の体が前へと転がる。
何で前へ……!? 考える頭が直感で悟りながら振り返って、腕は顔を庇うように防御の姿勢。
そうして目にした視界の中で、目の前に《傷持ち》の姿を見つけた体が未来同様に蹴り揺さぶられる。
気付けば取っていた受身。膝立ちで『スタン銃』を向けて構えればその光景に愕然となる。
《傷持ち》が──二人。
「物量作戦って事か……そろそろお前もネタ切れか?」
「同じ景色に二回も時間を割く事は無駄だとは思っていたのだがね、反面便利だとも気付いたんだ……。教えてくれたのは君だろう?」
要は廃ビルで同じ事を《傷持ち》にして見せた。今し方吐き出された言葉を信じるのなら、新たに現れた目の前の《傷持ち》はあのときより後にここへ来たことにはなる。つまり過去から未来への移動……それが一人で可能ってことか。
冷静に回る頭がそこまで思いついて壁を背にしながら二人の《傷持ち》を視界に収めて息を吐く。
片方が古く、片方が新しい《傷持ち》。そう考えるならば古い方は新しい方が来る事を知らない。つまりそこに僅かな迷いが生まれて動きがずれるはず。
それに、ここに二人いるという事は少なくともどちらかがこの戦闘では捕まえられなかったということだ。でなければ二人重なる事など出来ない。
戦闘構築をしやすいのは古い方。捕まえるべきなのは新しい方……。どっちを優先すべきかと問われれば後者だ。
ならば見極めろ、どちらが新しい《傷持ち》だ?
「…………お前が未来の俺なら知ってるんだろ? 次に俺がどっちを狙うのか」
「あぁ、知ってる」
「俺はお前を知っている」
先に答えたのは……右。元々ここにいた《傷持ち》。それがはったりだと言うのならば随分と頭の回ることだと悪態吐きながら────左の《傷持ち》へ疾駆する。
もし未来の俺なら、過去の俺を翻弄するために嘘など好きなだけ吐くだろう。その迷いに付け込むだろう。
だからこそ迷わない。考えるだけ鈍るなら直感だ。
それに根拠もないわけではない。
先ほど新たに現れた《傷持ち》はヘルメットを被っていない。つまり少なくとも顔がばれている事を知っている《傷持ち》だ。
対してもう片方の、先に現れた《傷持ち》はフルフェイスを被っていた。それは裏を返せばまだ顔がばれていない時の《傷持ち》と言うことにはならないだろうか。考えすぎか……?
しかし答えを出すより早く接近した視界の端で、未来もこちらへ来ている事に気付く。
そうすれば右にいた……今は背を向ける事になった《傷持ち》がフリーになる。
けれど────大丈夫。歴史がそうある通りにしか流れないのなら、大丈夫。
「なぁ、そうだよなぁ!」
目の前に迫った《傷持ち》。その顔に向けて拳を放つも、後ろへ跳んで避けた中で撃つスタン銃。その着地地点に未来が疾駆する中で、要は『スタン銃』をかわして後ろに何度か飛びながら、そうして背中をぶつける。
その温かい────同じ大きさの背中に、安堵する。
振り返らなくとも分かる。そこにいるのは────助太刀に来た未来の要だ。
「考える事は同じだな」
「物量には物量をぶつける他思いつかないからなっ」
目の前の《傷持ち》の言葉に吐き捨てて、後ろにいるはずの《傷持ち》は未来の自分に任せる。
出来ることなら未来の自分がどう動くかを知っておきたいが、流石にブースターを使用した相手に余裕を作れるほど要は秀でているわけではない。目の前から繰り出される攻撃に反応してこちらから一、二発叩き込もうとするので精一杯だ。
未来は戦場を俯瞰して適宜どちらかに加勢してくれる。冷静に客観視して必要な干渉を。一番面倒臭い役割を押し付けたと少し反省しながら《傷持ち》を蹴り飛ばす。
僅かに生まれた隙。駄目元で『スタン銃』を撃ち放つが、その弾は僅かにずらされた銃口で逸れる。
見ればいつの間にか接近してきていたもう一人の《傷持ち》。咄嗟に空いた右の拳を打ち込むも、かわされてカウンターに腹部へ蹴りを貰い、後ろへと飛ばされた。
超人的なのは攻撃も防御も一緒。重い一撃は頑丈な体に鈍痛となって蓄積される。
下手に打たれ強い分余計に体が痛みを背負い込んで後々に響く。
ブースターの弱点と言えばそれまで。痛覚緩和は細かい刺激への無神経さと表裏一体だ。
交わした攻防は数知れず。既に何分経ったかも分からない景色の中で、しかし整った呼吸は人並みはずれた体力を動くべき力として蓄える。
ストップウォッチなどない。ブースターを服用した状態での体感ほど当てにならないものはないと曖昧な時間の感覚を睨みつけながら二人の《傷持ち》と対峙する。
こちらは三人。けれどそれでさえ互角と言うのは歯噛みする。
人数差では勝っているのに。確かな手応えがない。
攻撃は全て往なすかかわされ、カウンターにと打ち出される攻撃は鋭く唸る。
戦闘の勘……と言うよりもまるでそれが当たり前だとでも言うような振る舞いと絶妙な身のこなし。もしかすると数を増やしても通用しないのではないかとさえ錯覚する。
一体どんな手品を使えば戦力差を拮抗まで持ち込めるのか……。
そんな事を益体もなく考えて、それから理由にもならない暴論が脳裏を過ぎる。
《傷持ち》が異能力持ち……予知能力のようなそれを持っているのだとすれば嫌な納得は出来ると。
攻撃の先を全て読み、有利に戦闘を運ぶ。
けれどそこまで異能力を使いこなしているのなら『Para Dogs』は放って置かない筈。そもそもそんな統治機構があるのだから有用な人材は『Para Dogs』にいて然るべきだ。
ならばきっとそんな事はありえないはずで、目の前の《傷持ち》には戦いに慣れた経験か……それとも────
いや、それは認めたら駄目だ。それを認められないから、《傷持ち》を捕まえられると未来に想像を馳せられるのだ。
《傷持ち》は、要の周囲の誰かだ。
学校のクラスメイトに虚偽の記憶を植え付け、暗示で操って、由緒まで誘拐して見せた。そんなのは、要の周囲にいるはずの誰かしか行えないっ。
「お前は……だれだ…………!」
苛立ちを募らせた声でそう突きつければ、目の前の顔が歪んで答える。
「俺は、お前だ──」
「違うっ!」
「認められないのならば否定していればいい。その時が来れば分かる事だ」
言いつつ片方の《傷持ち》が『スタン銃』をしまい、そうして取り出したのは『音叉』。咄嗟に未来と同時に『スタン銃』のトリガーを引くも、もう一人の《傷持ち》がそれを難なく弾く。
刹那に、大地を踏み切った二人の《傷持ち》。波状攻撃のように連続して迫り来る銀色の刃を、片方は未来が、もう片方は未来の要がそれぞれ弾く。
散った火花。それさえも置き去りに横を通り過ぎる二つの影は要の後ろへと駆け抜ける。
直ぐに振り返って『スタン銃』を構えるもそこには《傷持ち》が一人だけ。逃げたのは恐らく最初にここにいた方の《傷持ち》だ。
そこまで気付いて想像が一つの結末を導き出す。
恐らく今目の前に残っている《傷持ち》は、今し方『音叉』で逃げた《傷持ち》の未来の存在……。ショッピングセンターで要が要を助けたように、《傷持ち》も《傷持ち》に助力すべく今より少し前に飛んで、要を襲ったのだ。
どちらかならば捕まえられるという想像はあっていた事にはなるが、ならばそれはこれから訪れる未来だろう。
現状一対三。二対三で拮抗していた戦力差なら、この景色は変えられる筈。
「……ブースター、そろそろ切れるだろ?」
「切れたところでお前を連れて行けばいいだけの話だ」
向けられた切っ先、揺るがない意思とそれを現実にさえするという確信染みた物言いに息を飲む。
窮鼠猫を噛む。下手に刺激すれば博打を打って景色を掻き回しかねない。
安全に、確実に。将棋やチェスの如くどうすれば追い詰められるか、幾多もの筋道を脳裏に描く。
物量で押せばその危険を増長する事になる。ならば策で…………先ほどの《傷持ち》のように今度は要同士で撹乱……仕切り直しが必要か。
この場で打てる策をと降り積もる沈黙の中、《傷持ち》を見据えながら考えていると、隣の要が言葉を零した。
「……俺はお前を知っている」
まるでそれはこれまでの意趣返しのように。
そこでまた一つ気付く。未来の要ならば、この後どういう結果に行き着くのかも知っているはず。つまり歴史再現のためにここに来たと言う事だ。
未来のことを聞くわけには行かないが、彼に話を合わせればその通りにはなる筈。例えここで捕まえられなくとも、《傷持ち》が消えるのならば仕切り直しが可能だ。
「この後どうなるのかも、知っている」
言葉の網。はったりではなく、覆しようのない事実。
今要がこうしている事が、未来の要を作り上げる。
そう言えばと。その姿……服装は今の要と変わらない。つまり彼はそう遠くない未来の自分と言うことだ。
これまでの動きを鑑みるにブースターも使っている。理由や根拠もなく無茶を重ねることはできないはずだから、今ここにいる未来の要は《傷持ち》との決着を知っているのではないだろうか……?
重ねた想像は、けれど動いた景色で掻き消える。
こちらを睨むように目を細めた《傷持ち》。刹那に構えた『スタン銃』をこちらに向けて絞る。
同時それを知っていたのだろう、未来の要が器用に『スタン銃』で弾いて……その僅かな間に駆け寄った《傷持ち》のナイフでの攻撃。けれどそれを、今度は未来が受け止めて蹴りを見舞った。
未来を知る要にブースター相手は訓練を重ねた未来。二人を相手に幾ら《傷持ち》と言えど捌く以上は無理だ。
蹴り飛ばされた《傷持ち》は、まるで猫のように空中で体勢を立て直すと降り立った壁を足場に更に上へジャンプ。黒い瓦屋根へと一呼吸で昇るとこちらを睥睨して告げる。
「お前達は知らないさ。知っているのは知らないと言う未来だけだ」
「っ……!」
そうして取り出した『音叉』。直ぐに未来が逃がすまいと『スタン銃』を撃ったが、家の奥へと落ちて消えた姿には当たらず、《傷持ち》との交錯が一旦幕を下ろす。
消えた《傷持ち》の姿に『スタン銃』を下ろして息を吐く。
鼬ごっこ。一体後何度あの背中を追い駆ければ済むのだろうか。
募る苛立ちは、けれど吐き捨てたところでどうにもならないのだと納得を見つけて思考を切り替える。
要に出来る事を。今しかその時間はない。
「……とりあえず、俺が来たって事は何か理由があるんだろ?」
「そうだな。まず最初。この時間の過去を守る。昔の俺がそちら側だったようにな」
溜息と共に緊張を解く。その傍ら、隣に立つ自分に言葉を向ければ有り触れた言葉が返った。
未来の要。未来の事を明言するわけには行かないが、通り過ぎた過去については告げてもいいと言う制約。
だからこそそこから話を抉じ開ける。
「未来の俺はこの後どうなるかも知ってる……。だからこれから先の事は任せる。逆に俺にしかできない事もある……。例えば《傷持ち》の対処とかな……」
未来の要が居る以上過去の要たる自分は《傷持ち》には捕まらない。だから安心して囮として撹乱要因になれる。
そう呟いて、それから思考の海へと落ちる。
これまでに経験した過去。それから重ねてきた推理。全てをひっくり返して撹拌しながらその中にある綻びを探す。
「…………さっき、《傷持ち》の前に俺たちを襲ってきた奴ら。あいつらは俺のクラスメイトだ。つまりあいつらは『催眠暗示』か暗示に掛かってる」
今はもう姿が見えない。恐らくあの時限りの誘導のための利用だったのだろう。
「『催眠暗示』を掛ける必要性だよね」
「あぁ。それは、隠れるためだろうな」
未だここに至って《傷持ち》以外の顔が見えてこない。恐らくそれ以外の誰かが裏にはいるのだろうが、その尻尾さえ掴めない。
だからこそ視点をその暗雲立ち込める中へと向ける。
「そもそも、だ。《傷持ち》は『催眠暗示』持ちじゃあないだろ」
「理由は?」
「ここまで用意周到なんだ。『催眠暗示』持ちが前線に出てきてわざわざ危険に飛び込むとは考えにくい。それに、身代わりだ。《傷持ち》に罪を被せることで、黒幕の存在を隠してる」
これまでの《傷持ち》の行動、周りで起こった『催眠暗示』だって要たちはその掛けられた現場を直接見たわけではない。音楽と言う媒介がある以上、それを介せば『催眠暗示』持ち本人でなくても可能なトリックだ。
「《傷持ち》が黒幕なら隠れるべきで、擬装を施す……。静観して事件を俯瞰するために、目の届くところに隠れてるはずなんだ。『催眠暗示』や暗示だって俺たちが解こうと思えば解けるはずだ。そこに不確定が絡む以上、監視は必要だ」
けれど最前線に居る以上、その線は消える。
「《傷持ち》だって、その黒幕の知り合いとは限らない。この時代に居る、誰かを操って使っているだけかもしれない。用済み、危険が迫れば切り捨てることもできるからな。その上で俺が手を出しにくくするための人選……俺の知り合いを《傷持ち》に仕立て上げれば、無茶な事が出来なくなる」
由緒を人質に取り、雅人を狙ったように。要の心を揺さぶる手段は幾つも存在する。
「自分の居場所を偽り、それを更に流用してこちらの手を抑え込ませる……。ストックが出来て、使い捨てられて、意味を持つ。なら候補は絞られて、それはきっとクラスメイトだ」
要の級友を使って要を追い詰める。下手に《傷持ち》を刺激すれば新たな被害者を増やすから、こちらの干渉を押し留める事が出来る。そもそも現代人だから不用意に手が出せない。
更にその中に自分の身を紛れ込ませることでこちらの見当を混乱させる。
「俺の周りで、クラスメイトで、黒幕……俺に近しければなおよし。そんなの、もう一人しか居ない」
前の時には冗談で口にした程度だが、別に理由がなかったわけではない。その線もあると頭の中でも納得していた。
それが今この状況で、一番の可能性として浮上する。
「あいつなら、由緒を誘拐する事も、クラスメイトを使う事も理解できる。……となるとあれは偽装か。犯人の候補から外すための演技」
幾つもの景色が脳裏を蘇っては理由を見つけていく。
「……だとしたら《傷持ち》は誰だ? 長く命令に従ってるから『催眠暗示』じゃなくて後催眠暗示。だとしたら先に何か『催眠暗示』を掛けられた人が候補か? っ多すぎて絞れないな…………」
けれど少なくとも、《傷持ち》はあいつではないはず。
《傷持ち》とは別に黒幕がいる事は確かだ。恐らくそいつが『催眠暗示』持ち。
《傷持ち》、『催眠暗示』、時間移動能力者……。最低三人。
中でも最も分からないのは《傷持ち》だ。
「俺が時間移動に巻き込まれて現代人じゃない以上、『催眠暗示』は効かない。だから『催眠暗示』での干渉は度外視して、実力行使で捕らえに来てる。それが尖兵としての《傷持ち》の役割だ。だから《傷持ち》は『催眠暗示』持ちじゃない。それどころか、多分俺と同じ無能力者だ」
ブースターと時間移動。それから言葉で翻弄しているが、《傷持ち》は被害者。使い捨ての駒に過ぎない。
「つまり《傷持ち》は、お兄ちゃんと同じこの時代に生きる誰かって事だよね」
「考えるだけ無駄だ。だからこそ、入れ替わりの策が使える」
「そもそも今までの《傷持ち》が同一人物って確証はないわけだしな。『変装服』で俺に化ければ中身なんて関係ない。複数人を使ってブースターのデメリットも受け回せば次から次へと《傷持ち》を送り込む事も出来る」
呟くような未来の要の言葉に答えて可能性を振り翳す。
「それをするために、そいつは一旦馴染む必要があった。だから『催眠暗示』で記憶を植えつけて、違和感なく溶け込んだ。そうして『催眠暗示』を軸に暗示を掛け、《傷持ち》として利用した……」
ならばやはり《傷持ち》についてを考えるのは無粋だ。それは時間の無駄。
絞るべき焦点は『催眠暗示』持ちと時間移動能力保持者。『催眠暗示』持ちについてはある程度想像がついているから、残るは『音叉』の向こうの誰か。
「実行犯と黒幕を別にして煙に巻き、この時代の人たちを利用する事で無限に駒を得る……。けどこの時代では難しい問題もある。それが時間移動だ」
《傷持ち》は『音叉』で要の前に現れ、掻き回しては去って行く。
その背景には必ず時間移動能力保持者の存在が必要だ。
「時間の逆接を防ぐために未来や由緒は重なれない。重なっても異能力が発動しない。だから普通なら《傷持ち》のやってる事はできないはずだ」
「もちろんあたしや由緒さん以外の人の異能力を使ってる可能性もあるけど……」
「未来からその人を連れてくる、だろ? けど未来でも時間移動能力は貴重だ。その存在を予知で捕捉すれば『Para Dogs』は保護する。幾ら予知の届かない未来からの干渉だとしても、未来の時間が存在しているならその時代にも『Para Dogs』はあるはずだ。つまり未来の『Para Dogs』が先に手を打ってる筈で、その第三者を利用するなんて普通は出来ない」
もちろん例外はある。黒幕が『Para Dogs』の関係者で、立場を悪用した場合だ。
けれどきっとそれはない。
一度時間移動を行えば現代人ではなくなる。そうすれば『催眠暗示』に掛けて操る事が出来なくなる。暗示に掛けるのも極端に難しくなる。
『Para Dogs』が馬鹿でないのなら、その第三者を捕まえた時点で『催眠暗示』への対抗策としてその人物を現代人の枠からは外れさせるはずだ。例えば未来、由緒の異能力で僅かに時間をずらすだけでいい。
異能力者を保護管理する事が目的の組織。その身と歴史を守るための番犬が、たったそれだけの策を講じていないという方がおかしな話だ。
だからこれも論の外。
ならば残る可能性。
「だとしたら残るのはこの時代に居る時間移動能力者を利用する事だ。未来か、由緒か。そのどちらかを捕まえて『音叉』でリンクすればいい」
未来ならば彼女が重ならない、未来がこの時代に来る前へ。由緒なら由緒が居ない今この時間へ。
異能力を発動できる時間……彼女達の存在しない空白の時間さえ知っていれば、そこに当て嵌めて『音叉』を介して《傷持ち》を動かす事で可能だ。
問題は、それを黒幕が知っているかだろうが……。
「別に『催眠暗示』がなくても暗示自体は掛けられるはずだからな。掛かり難いってだけで、掛からないわけじゃない。なら現代人であるかどうかもそれほど関係ない。この先未来か由緒……どちらかが捕まればそれが《傷持ち》の『音叉』のリンク先になる。だから俺だけじゃなくて未来も《傷持ち》の標的に入ってる可能性もある……」
前提を考えるだけでも面倒臭い。けれどしかし、だからこそ確信する。
「何にせよ、あたしか由緒さんが狙われるって事だよね。でも由緒さんは既に隔離してる。つまり危険なのはあたしだけ……」
「《傷持ち》や黒幕があの時間を知らなければ、だけどな」
もしもの可能性。安全だと考えて由緒を隔離した時間。もちろん安全だと言う根拠はあるが、それと同時に相手がその時間の事を知らないという確証もない。確率で言えば五分。
「けど考えるだけ無駄だ。未来が《傷持ち》の後ろに居るって言う考えの方がまだありえる話だと思うけどな」
「……あたしの異能力だと《傷持ち》一人で行動するには未来へしかいけない。つまりその黒幕とかは、雅人さんの事故より更に過去の時間から《傷持ち》を未来へ送ってる事になる。……そうなるとお兄ちゃんの周りに黒幕がいるって言う推論は確証がなくなるんじゃない? そもそも過去からこの時代に干渉してるなら、この時代で隠れる必要ないんだし」
それはそうか。だとしたらそう要たちがそう考えるように仕向けている策か? そこから更に裏を返して、要の記憶に残る誰かだからこそ過去へと視点を向けさせているのか……。考えるほどに分からなくなる。
「けどクラスメイトが巻き込まれてる以上、一度この時代には立ち寄った……それは確かだ」
そもそも黒幕は未来人。この時代には居ないはずの異物だ。考えるだけ面倒臭いのはその通りだが……。
「黒幕ってのはそもそもこの時代には生きてない。つまり何かしら齟齬があるはずだ。記憶には残せても、記録には残せない」
「…………とは言っても簡単にそれを調べられる記録なんてないぞ?」
未来の要の言葉に否定を返す。
要の周囲に居る誰か……要の記憶に残るその顔も分からない誰かとの記憶を頼りに記録と照らし合わせて見つけるなんて時間が掛かりすぎる。
要は写真など撮らない。特にクラスメイトなど、学校に行けば会える間柄だ。意味もなく記録には残さない。
中学からの知り合いなど数は知れているし……いや、そこまで遡る必要はないのか。
「俺に不信感を抱かせない程度の記憶を植えつけておけばいいんだよな? つまりここ最近……数ヶ月の思い出さえ『催眠暗示』で信じ込ませればいい。ならそこまで数は多くないか……」
長い付き合いの友人は除外。高校に入ってから……いや、二年生になってからでも十分にいいはずだ。
クラスのメンバーが変わって付き合いのない奴とも顔を合わせる。その中に混じっているのだとしたら……春から四ヶ月程度でいい。その中に居る──誰か。男とは限らない。異性を含めても……両手で足りる。
絞った名前。記憶に根付く思い出を遡って出来る限り古いものを探す。
「…………一人、いるだろ? 気付きたくもない、認めたくない奴が」
「あぁ、そうだな」
この結論には、既に至っていた。至っていて、認めたくなかった。
冗談で口にしたその人物が、本当に黒幕で居て欲しくないと、心のどこかで否定していたのだ。
もしもそうだとしたら、この記憶にあるその顔は、偽りで、真実ではない繋がりだから。偽者であると、疑いたくはなかった。
けれど、駄目だ。それ以外に、見つからない。
「なら《傷持ち》は誰だ? 馬鹿な演技してまで気付かれまいと隠してきたんだ。下手に手を広げて自爆するような策は打たないだろ?」
ここまで要に信頼を植え付け、騙し続けてきた人物。これまでの事を考えても、《傷持ち》に入れ知恵をした全てを知ったような駒の動かし方に疑問が募る。
用意周到だからこそ、墓穴を掘るような真似はしないはず。ならば管理が杜撰になり、手が届かなくなるような不確かな方法は取らないだろう。
だからこそ、根拠もなくそれが真実だと確信する。
「《傷持ち》は一人だ。その中身も、一人だ。全てを把握するために、無駄と混乱は省くはずだ。だから自分の身を脅かす……俺たちが考えてるような入れ替わりの挟む余地を出来る限り無くすために、《傷持ち》は一人以外に許されない」
不特定多数を操るのはリスクが大きい。危険を避けるために、黒幕だって策を講じるだろう。
入れ替わりの案は使えなくなるが、代わりに絞る事が出来る。
《傷持ち》は、黒幕に関係のある人物だ。誰であってもおかしくはないが、黒幕の想像を遠ざけるためには現代人である可能性が高い。
未来から来た人物による歴史干渉。だからこそすべては未来人が仕組んだ事だと考えるのが普通だ。
けれどその中に現代人を混ぜる事で関係性をあやふやにして推理の確実性を欠かせる。現実を掻き乱す事で足跡を曖昧にさせる。それくらいのこと、例えば要が黒幕だったとすればするのが当然だ。
だからこそ利用できる人物は限られる。黒幕があいつならば……《傷持ち》の正体も要の知る人物だ。
「……けど分かったところでどうなる。入れ替わりが使えないならそいつが居る場所に直接乗り込むしかなくなる」
問題はそこだ。例え犯人が分かったところで、その居場所まで分からないと取り押さえる事はできない。目の前に現れた《傷持ち》を捕まえただけでは、話は解決しない。直ぐに次の新しい《傷持ち》……実行犯が来て堂々巡りだ。
だからこそ変える必要がある。策を練り直し、確実に解決するための新しい方法論……。
「その黒幕と時空間移動能力保持者が、協力じゃなくて一方的な支配で利用されてるなら黒幕はその人の近くに居るはずだよね?」
未来の言う通りだ。
普通に考えれば由緒も未来も歴史干渉がどんな悪影響を及ぼすのかなんて知っている。だから進んで自分から手を貸したりはしないはず。ならば強制的に従わされていると考えるのが順当だ。
だとすれば、永続的に利用するならば一瞬の命令しか掛けることのできない『催眠暗示』では無理だ。操るためには後催眠暗示が必要となる。
「…………暗示に掛けて操るなら、『催眠暗示』と違って直接言葉で指示しないと意味がない。だとしたらその二人は同じ場所にいる事になるのか」
となれば『音叉』のリンク先さえ分かれば、何処から《傷持ち》を飛び道具として使っているかが逆算できる。そこが掴めれば敵の本陣に乗り込む事も可能だ。
と、そこで別の可能性も浮上する。
「……あ、いや。『時空通信機』だっけ? あれ使えば離れていても命令は飛ばせるだろ」
脳裏を過ぎったのは未来に教えられた未来道具の一つ。
要の知る無線機……トランシーバーの発展型。空間だけでなく時間までをも越えて繋がる通信機。それを使えば近くに居なくとも命令だけならば出せる。
「だとしても、《傷持ち》のこれ以上の悪事を止める事はできるよ」
「そこから黒幕の足取りだって辿れるかもな」
未来と未来の要の言葉に頭の中を整理する。
黒幕は、要の知る人物。《傷持ち》は一人、『音叉』のリンク先は未来か由緒。本拠地さえ分かれば止める手立てはある。
「……なら考えるべき事は一つだね」
「由緒か未来か。どっちが操られていいように使われてるか…………」
未来であればどれほど楽な事かと考えて、それから思いつく。
「そう言えば、《傷持ち》は未来一人の時に襲っては来ないんだよな……。狙われてるのが俺だから当たり前といえばそれまでだけど。こっちの行動を制限するなら未来を狙うのが正しいやり方じゃないのか?」
「別に狙われてないって訳じゃないと思うよ。ただ優先順位が、お兄ちゃんの方が高いってだけ」
確かにその通りだろう。どうあっても相手の目的は要なのだから。
「……後少しな気がするのになぁ…………。何が足りないんだ?」
行き詰った思考に何かへ感情をぶつけたくなる。
「未来の俺は想像ついてるのか? あいつが何処にいるとか……」
「想像だけならな。ただ事実とは限らないし何れお前も辿り着く結論だ。ここに俺が居る事がその証明だ」
「上から目線だな……」
そこにいるという以上の嫌悪感を覚えながら一旦話を脱線させる。
「そう言えば戻らないのか? いや、一人出来たんだから戻るには制限に抵触するしかないんだろうけど……」
「あぁ、それは大丈夫だ。そこは矛盾なく綺麗に回るから」
「回る?」
「問題はこの後なんだけどなぁ…………」
流石に情報が少なすぎる。彼の言っている言葉の意味が分からない。
「とりあえず今の俺の使命は経験した過去を再現する事だ。そのうちお前も同じ事を経験するから分かるさ。……って前の俺の受け売りだけど」
今の要が目の前の要と同じ事をするのは、歴史再現のために必要な事だ。何より要の身を守る事に必要な事だ。
けれど今目の前にいる未来の要にも、この要と同じように過去だった時間があるわけで……過去の自分と未来の自分が交錯すると言うのは永遠にも似たループの中を生きる事に他ならない。
だからデジャヴのように顔を見ただけで嫌悪感を抱くし異物だとも感じる。
改めて今のこの状況が日常から逸れたありえない景色だと実感する。
「置いてけぼり感がすごいんだけど……結局どうするの?」
黙っていた……と言うか口を挟めないでいた未来が全てを纏めるように尋ねる。
少し抜けている未来だ。話に着いてこれない、と言うわけではないだろうが、要同士言葉の外で分かり合う意思疎通に疎外感は味わっていたのかもしれないと。
頭の片隅で考えながら彼女の問いに答える。
「……打って出るべきだろうな。行動で変えられないなら言葉で。幸いこっちには何が起こるか知ってる未来の俺が居るから。騙って案内でもして貰うか?」
「連れて行ってはくれないでしょ?」
「ようは行き先さえ分かればいいんだよ。それを吐かせる」
歴史改変には『音叉』の向こうの時空間移動の力が必要不可欠だ。だからこそ、そこを敵の本陣と定めて場所を特定する。
「具体的にどうするかだけど…………」
「その役目は俺が引き受ける。再現するだけだからな」
「……もしかして最初から全部知ってて黙ってたんじゃないだろうな?」
「知っていても、それをお前に教えるわけにはいかないだろ?」
「便利な言い訳だな」
追求を諦めて零せば、隣の未来が肩を揺らす。
ずっと緊張をしていても仕方がない。来るべき時に全力を出すために今はしばし休息の時だ。
気付けば訪れていたのは《傷持ち》のフルフェイスの下を初めて見たあの公園。砂場に遊具と子供の頃よく遊んだ覚えのある懐かしさを感じながら近くの自動販売機で飲み物を買って休憩スペースへと腰を下ろす。
そうして降りた沈黙。話題を無くせば途端に重くなった空気に理由を見つける。
今までは考える事ばかりで考えた先から新しい事が起こっていた。だから息吐く暇など殆どなくて、全力でここまで走ってきたわけだが、今回は既に作戦が決まっている。
その詳しいところは未来の要しか知らないが、一度この歴史を経験した者で、どうなるかも知っている。だからこそ任せられる安心感と、それから知らないという少しの焦燥感に苛まれる。
縋ったところで未来の事を教えてはくれないのだろうが。知っている者が近くに居ると嫌に考えて自分の無力さを知らず呪う。
「…………そういえばさ。お兄ちゃんは……あ、えっと、未来のお兄ちゃんは、あたしの事知ってる?」
「知ってるも何も未来は未来だろ?」
「んーと、そうじゃなくて……。どう言えばいいかな。……あたしの過去の事知ってる? ここに来る前のこと」
と、そんな事を考えていると未来が零す。それは彼女がこれまで語ってこなかった、未来のこれまで。
今から考えれば未来の事。制限に抵触するために具体的には言えないのだろうが、随分と遠回しに尋ねてくる。
「あぁ、未来に聞いてるかって話? それなら聞いてるけど」
「……その様子だと実際には知らないんだね」
「どういうこと?」
伏目がちに何かを納得した様子の未来。彼女だって話せることなら言葉にしたいだろう事。
けれど未来の事を伝えられたからといって今の要がどうこうなるとは思えないのだが。
「……実のところを言うとね、あたしとお兄ちゃんが会うのはこれが初めてじゃないの。いや、初めてなんだけど、それはお兄ちゃんの視点でって話。あたしはここに来る前、既に一度お兄ちゃんに会ってるの」
既に会っている? つまり数日前に未来が再婚の連れ子と言う蓑を被ったまま出会うより前に、彼女は要に会っているということか。
「……それを俺が忘れてるって話か?」
「いや、実際に会うのはこれが初めてだからそれは違うんだけど……」
「どっちだよ…………」
既に会っているのに会うのは初めて。矛盾しかないその響きに呻く。
そんな要の呟きに、未来の自分が補足を入れてくれる。
「……未来が言いたいのは、つまりこの時代で会うのが俺にとっては初めてで、未来には二度目。それ以前に俺は未来に一度会っていて、それを知らないって事だろ?」
「ん、ありがと。そういうこと」
「…………これから先、俺は未来にもう一度会うってのは知ってるけど。それが未来にとっての初めての出会いになるってことか? で、俺にとってはそれが二度目」
ようやく追いついた納得を言葉にすれば未来が頷く。言葉では答えられないが仕草では返答が可能だ。制限の外、抜け道の一つ。こちらが納得をしてそれを言葉以外で肯定すれば未来で起こる事を伝えられると。こちらがある程度の推論を立てられるだけの知識を身につけていないと成り立たないやり方だ。
「で、この話をこの時に聞いたから、今の俺は知ってるって答えた」
「あぁ、そういう」
未来の要の言葉にようやく辻褄が合う。
今の要が未来からこの話を聞き、後々一巡して過去の要を助けるこの歴史再現で再び同じ話を聞く。だから未来の要は話だけを聞いていたと答えたのだ。
で、話だけ、ということは未来との再会はまだまだ未来の話。
「それで、未来はどうしてそんな話を今したんだ?」
「……今しておくだけの理由がある気がしたの。もしかしたらって言う想像があたしの過去と繋がるかもしれないから」
その想像は、一体どんな道を辿り結末に結びついているのだろうか。
「今になって考えれば、この経験を知ってるからこそ危機感を抱く要因になったんだと思うんだけど……」
何かを考え込むように俯く未来に、けれどそれは彼女が感じたものだと、とりあえずは思考の片隅に追いやる。
「もう確信してるだろうから言うけど、そう遠くない未来だよ。言ってしまえば、あたしの過去のために今お兄ちゃんを助けてる節はあると思う」
薄々気付いていた。彼女が要に対して一線を引いていること。その上で、初めて会ったにしては近すぎる距離まで踏み込んできた事。
その曖昧でちぐはぐな距離の取り方に、しかしようやく納得を見つける。
彼女は要を知っていた。それは護衛対象と言うだけの簡素な情報ではなく、それ以上に彼女個人が要の事を知っていた。
好みだとか苦手なものだとか、そういう話ではない。要の性格。その片鱗を、彼女の言うその過去の邂逅で知っていたのだ。
彼女の初めてにして要の再会。彼女の過去に眠る要にしてみれば未来の出来事。
その出会いの中で、少なからず何かを紡いだはずの接近。
要にとってはまだ未来の事。何が起こるかなんて分からない不確定な歴史の曖昧な景色。けれど彼女にとっては既に過ぎ去った過去。そこに一体どれ程の交錯があったのだろうかと考えて。
「経験して終わった事だとは言え、この再会はあたしにとってはまだ見ぬ未来……。だからどんな風に繋がって、お兄ちゃんの未来があたしの過去に結びつくのかは分からないけど…………。けど少なくとも、これから先のどこかで、お兄ちゃんは過去のあたしに出会う。きっと今この瞬間の記憶を持ちながら……」
「……例えば、歴史再現とかじゃないのか? 《傷持ち》の……目の前の問題が解決した後で、記憶を消す前にその出会いを再現したとか言う」
「もちろんその可能性もあるよ。……ただ、うん。あたししか知らない事だけど、あたしが知ってることで語れば話はそんなに簡単じゃ無いと思う。だってお兄ちゃんはもう知ってるでしょ? 歴史はその通りにしか流れない。未来に起こる事を告げれば、避けられない真実に固定されるって」
それはこの未来との出会いで要が至った極論。幾つもの推論と可能性の上に成り立った、きっと外れていない空論だ。
「ならその時に出会うお兄ちゃんは事件を解決した後で、あたしの身の上に何が起こるかを知ってて……禁じ手を使うならそれを全部あたしに話して聞かせればこの時代で起こる事は確定された歴史だって諦めてただ冷静に事を成してると思う」
確かにその通りだ。
要の過去を肯定し、未来の未来を揺るがぬものにするため……事件解決への助力としてその解決策と道筋、黒幕を語ってしまえばそれを聞いた未来は結末から逃れられなくなる。
その場合に限っては、解決すると分かっている茶番にも似た未来追憶に過ぎない。
単純に安易に解決するためならば、要はその手を厭わず振りかざすだろう。もちろんその言葉を信じるかどうかは彼女次第だろうが。
「けどそんな事実はないでしょ? 失敗を恐れてこうして逃げ回って、後手で拱いてようやく解決の糸口を見つけた。もしその事を聞かされてて、その通りに歴史が流れてる事に気付いたのならあたしだって武器の一つにする。もっと早くに解決していてもおかしくはないよ」
しかしそうではない。
これまで彼女が見せてきた驚愕と悲痛の、数々の顔を嘘や演技だとは思わない。あれは全て彼女の中から出た感情だ。
ブースターを使った要の手助けをしてくれてその中で向けた笑顔と。雅人を突き飛ばして見開いたあの絶望と後悔の表情と。由緒を助けるためにと四苦八苦して逃げ惑った先に掴んだ希望を。それが全て要を動かすだけの歴史再現のための演技だとは思わない。
「もちろんそんな事もお兄ちゃんには言われなかった。言わない事が歴史再現だって言うならそれもそうかもしれないけど……けど逆の可能性も思いつくの」
「逆?」
「言わなかったんじゃなくて、言えなかった。まだ解決して無くて、その途中だったから全ての道を示すことが出来なかった。中途半端な助言で混乱を避けるために、言わなかった」
もちろん想像に過ぎないと語って。けれどどこか確信の篭った声で未来は言い切る。
「だから、覚悟はしておいて。もしかすると、ここまで来てもまだ、簡単に解決する話じゃあないのかもしれないから」
理由を見つけるとすれば、可能性は語れる。
《傷持ち》や黒幕を後一歩のところまで追い詰めて、けれど欲しい結末を得られなかった。だから今度は目標を要の捕獲から、要の周囲を守る未来に向けて、彼女がこの時代へ来る前の過去を変えようとした……。その上で、要を再度狙おうと考えたのかもしれない。
それを追って、要が未来へと向かい、ここへ来る前の過去の未来と出会う…………。筋は通る話だが、けれど認めたくはない。
なぜならばそれは《傷持ち》や黒幕をその時に至っても捕まえられていないことの裏返しだから。
それを認めるわけにはいかない。もう随分と追い詰めているはずだ。後一ピース……それをこれから手に入れさえすれば話は収まるはずなのだ。
その先など、否定したくて当然だ。
「……全て解決した後でその未来の過去を再現するために行動したって可能性もないわけじゃないだろ?」
「そうだね。だとしたら随分な演技派だって尊敬するけど」
「これでも演劇部員だからな。誰かの仮面を被る事には慣れてるつもりだ」
「演技? それとも素?」
「さぁ、どうだろうな?」
曖昧に答えて、それから話を切り上げる。
分からないことを悩んでも仕方が無い。それはその時が来れば自然と分かる事。
歴史はそうある通りにしか流れない。飽きるほどに戒めたその言葉に従って今はただ目の前を向く。
「何にせよ、目の前をどうにかすれば見える道だ。次で決められるならそれに越したことはない。だろ?」
「だねっ。ごめん、無駄な時間だったかな?」
「俺は少し嬉しかったけどな。未来の事知れて」
「どうせ忘れるんだよっ。知ったって意味なんてないよ……」
少しだけ掠れた声は寂寥感か。
驕り気取ってもいいのなら、要は未来の理解者だ。だからこそそれを失う事が、怖いのかもしれないと。
「記憶、消さなければいい話だろ? ……もしかしたら消さなかった先で俺が何かの用で未来のところに行ったのかもだしな」
「自惚れないでよっ。記憶は消す。それは歴史を守るために必要な事だから」
必要な事と、彼女個人の気持ちは違う。
思ったけれど、しかし言葉にする事は飲み込んで肩を竦めた。そうすればほら、彼女も少しだけ辛そうな笑顔で笑ってくれるから。
嫌な思い出を積み重ねる必要はないと。出来る事なら思い出してよかったと思える経験を重ねるのが彼女にとってもいい事のはずだから。
気付けば飲み干していたペットボトル。公園の片隅にあるゴミ箱に放り投げれば綺麗に入って少しだけ得した気分。
行儀の悪い事だと胸の内で自嘲して腰を上げれば素直に動いた足に少し疑問。
「ブースターの弊害……そこまで辛くないな」
「言っちゃえば薬だからね。何度も使ってると抗体ができて効き難くなるように、体に馴染む。超人的な力も何れはそこまで脅威じゃなくなるし比例して使用後に返る影響も小さくなる。お兄ちゃんは既に一度経験して、心構えも出来てたからね。休憩もしたしそんなものじゃないかな?」
「薬って言うなら効き易さ難さって言う個人差もあるか。体質かもな」
手のひらを広げたり握ったりしてみるが、最初に使ったときほどの体のだるさはない。どちらかと言えばまだ少し体が軽く感じるほどだ。もう既にブースターの効力からは外れているはずだが。
「……となると《傷持ち》は俺より随分と先輩だな」
「やめてよ。使うだけ人間離れするんだから……」
「ブースターの弊害を、次のブースターで打ち消すことって可能か?」
「……できないことはないけど、ブースターの効果が少し薄くなるよ。緩んだゴムをもう一度強制的に引き伸ばすようなものだからね。……使う事を許しはしたけど、そんなに沢山使わないでよ? 数にも限りはあるんだし」
「必要に応じて、な。だからこそそれも含めて早く解決したいんだろ?」
先ほど飲んだ時にブースターの効き目が早く感じたのもその所為かと。頭の片隅で考えながらポケットに手を突っ込んで残りの数を確認。
残弾三。頼るにしては随分と心許ない数字だと思いながら、だからこそその中でどうにか決着をと考えて至る。
そう言えば今隣には未来の要が居る。つまりこの時間を二度経験する事に他ならなくて、もしかするとこの後襲ってくる《傷持ち》との戦闘にも関わるかもしれない。
そうなればブースターの消費は二倍。となると今要が使える残弾数は一発か……。
次の一回で捕らえると胸に秘めながら公園を後にする。
次で打開できなければその後は足手纏いになる。だからこそ考える。どうやってでも次で…………。
「言っておくけど、今渡してる分がなくなったら次はないから」
「わ、かってるよ…………」
心の内を見透かしたような未来の言葉に思わず詰まる。
……大丈夫だ。歴史はその通りにしか流れない。だから解決はする。すべてはその通りに…………。
縋るように自分に言い聞かせればそれまで必要最低限以外の沈黙を貫いていたもう一人の要が告げる。
「……くるぞ」
声と同時、気付いた気配は背後から。咄嗟に未来が回し蹴りを放ってその体を蹴り飛ばす。
遅れて振り返れば視界には吹っ飛ぶ要の顔をした《傷持ち》と、こちらへ疾駆するもう一人の黒尽くめ。最初から二人か。
咄嗟に『スタン銃』を抜いて撃ち放ったが弾かれた一発。そこから流れるように仕返しとばかりに未来を蹴ったその《傷持ち》の持つナイフ。銀閃閃いた軌跡が首元に迫って……。
「っ────!」
けれど既のところで未来の要がそれを『スタン銃』で受け止め弾き飛ばすと、要から距離を取りながら近接戦闘へと。
直ぐに立ち上がってきた未来が加勢をしに隣を疾駆。我に返った要もブースターを一粒喉の奥に流し込んだところで後ろ腰に違和感。
けれど考える間も無く肘を叩き込むと確かな感触。遅れて振り向けばそこには更に黒尽くめ。
三人目……!
『スタン銃』で牽制をしながら距離を取ったところで未来と、未来の要と背中を合わせて足を止める。
三対三。面倒臭い乱戦になりそうだと目の前の《傷持ち》を睨んだ瞬間、更に追い打ちの景色が降り注ぐ。
それは上空より。差した影に見上げれば駄目押しの如きもう一人────四対三!
数的不利に追い込まれながらアスファルトの大事を転がってかわすと、壁を背に位置を取って景色を睨む。
数の暴力と言うには些かに先鋭揃いすぎると。
覆らない劣勢に歯噛みして、けれど口は饒舌に煽る。
「……物量作戦。そろそろお前もネタ切れか、《傷持ち》っ!」
どれが一番新しい《傷持ち》だと睨みながら考える。
未来と話した中で想像した未来。物量作戦は《傷持ち》が最後に取るだろう形振り構わない策だと。
だからこそ頭のどこかで外れない勘のように急く心が告げる。
これが《傷持ち》との最後に交錯になれと。この先に解決の未来があるのだと。
これ以上は許さない。全てをここで、終わらせる…………!
「……知れよ過去の存在がっ。俺はお前を知っているっ!」
真実でしかない未来の要の言葉。研いだ牙を剝くように、取り出したのは未来も持っている伸縮式警棒のようなもの。
銀色に輝くその武器を翳して《傷持ち》を睨むその姿に要も志気を上げる。
「捕まえる……それで、終わらせるっ!」
未来の声。よく通る女性らしいソプラノに混じった強い音に、そうして要は大地を蹴った。