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パラドックス・プレゼント  作者: 芝森 蛍
狡兎三窟の向こう側
20/70

第五章

 目の前に立つ冬子(とうこ)。右手に持った包丁と、虚ろな瞳、揺れる体。その得体の知れなさが事実以上の恐怖を煽る中、(かなめ)は確信する。

 冬子は、『催眠暗示(ヒュプノ)』に掛かっている!

 刹那に、それまでゆらりくらりと体を揺らしていた彼女が、要目掛けて地を蹴った。

 それは普段温厚そうな彼女からは考えられないほどに鋭利な突撃で、刺し貫こうと構えられたその包丁の切っ先に直ぐに後ろへと下がる。

 同時、隣に立っていた未来(みく)が示し合わせたように銀色の伸縮式警棒のようなそれを抜き放ち、冬子の持った刃物を受け止めた。


「っせい!」


 僅かな擦過音。その直後、気合の声と共に冬子の体が押し返されて後ろへ下がる。

 よろめいた姿勢に、けれど既に要は視線を逸らして走り出す。後からついてくる足音は要に追いついて隣に。


「予想通り、だったなっ」

「となればあとはあの事故を現実にしないように後催眠暗示を解除するだけだね。けどその逆位相が聞くかどうか」

「それは、大丈夫だろ」


 未来からの疑問は、けれど要の中では既に解決されている。


由緒(ゆお)透目(とうもく)さんに護衛されてるって事は、多少は冬子さんもその影響下に入ってる。つまり由緒が『催眠暗示』に掛かっていなくて、冬子さんが掛かってるなら、冬子さんは家じゃなくて外で『催眠暗示』に掛けられたって事だ!」


 《傷持ち》の所在地は把握していないが、けれど確証はある。


「それに冬子さんが『催眠暗示』に掛かっても、歴史は歪んでない! つまりその『催眠暗示』は歴史に肯定された異能力で、解決するはずの未来だ」


 もし冬子に掛かった『催眠暗示』が歴史に許されない事なら、それが例え要の与り知らぬところで行われた事でも、事実として存在する以上その時点から歴史は歪むはず。

 けれどそうなれば未来がここへ来る事もできなければ、要達のいるこの時代にも何か変化が起きるはずなのだ。

 それが起きていないという事は、裏を返して大丈夫だと言う事だ。


「ならこの逆位相でも効果はある……。後催眠暗示は暗示中に掛ける時限式だ。ならば今回に限って言えば『催眠暗示』を掛ける時に同時に掛ける筈。『催眠暗示』の音楽で心に穴を開けたのなら、後催眠暗示だって逆位相で解けるっ。そうじゃないと歴史はその通りには流れない!」


 得た情報から類推した可能性を最大限に振り翳して己を叱咤する。

 大丈夫だ、まだ、大丈夫。歴史はそうある通りにしか流してはいけない。

 世界の真実のようにそう反芻して、それから目的地へと走り続ける。


「逆位相で解けるなら、それを聞かさないといけない。つまりこのUSBから音楽を流さないといけない……再生デバイスが必要だ。それを買うのに……」

「ショッピングセンター、だね?」


 走りながらの会話。途中呼吸で言葉に詰まった要の、その先を酌みとって未来が答えてくれる。

 一つ頷いて、それから背後へ振り返れば、冬子の姿はない。どうやら見失いでもして、追いかけて来てはいないようだ。

 試すような事をして悪かったと心の内で彼女に謝りながら、ようやく歩調を歩きのそれに戻す。

 上がった息、上下する肩と苦しいほどの胸の鼓動に、けれどそれは先ほどの恐怖と、少しばかりの運動だけが理由ではないはずだと気付く。

 見つけたのだ。未来が未来の要に教えて貰った通り、確かに由緒を救う手立てはこの時間に存在した。

 だからこそ助けられる。その希望が、胸を高鳴らせる。


「ショッピングセンターの『催眠暗示』も、行けば分かるって一石二鳥だ」

「……そこまで考えてた?」

「いや、今思いついたっ」


 呼吸を整える傍ら、軽口で補って歩く。

 何にせよ、結末はもう見えた。後ありえる可能性と言えば、《傷持ち》が襲って来る事くらいだ。

 もしそうなのだとしたら、もう一つ希望が見える。

 これより先の事は要にも分からない。それは経験のない未来だからだ。

 つまりここで《傷持ち》を捕まえられれば、全て決着する。

 どんな動機があって要を狙ったのか。本来の目的は何なのか。誰が絡んでいるのか……。

 幾つもの推論を重ねてきた想像に、真実と言う名の結末が見える。

 もう十分だ。これ以上要の周りで問題を起こした所で何になる。そんなのは要がただ、《傷持ち》に対して憎しみを増すばかりの、不毛な諍いだ。

 そろそろ気付いて欲しい。こんな過去干渉に、意味などないのだと。


「…………よし、行くとしようか」

「うん」


 落ち着いた動悸。一つ深呼吸をして宥めた緊張を、確たる一歩を踏み出して振り払う。

 もう懸念は必要ない。

 何があろうと《傷持ち》を捕まえて、由緒を助けて────未来とまた会うその時まで、一時の別れを記憶と共にするだけだ。


「なぁ未来」

「何?」

「色々悪かったな、迷惑掛けて」

「なに、今更? 思ってるなら心配掛けないでよ」


 肩を揺らして笑う未来に、けれど要は至って真剣に告げる。


「いや、謝るべきだろ。本来なら、ありえないはずなんだから」


 例え歴史に許されても。この現実がそうある通りに流れるものだったとしても。

 要と未来は交わらざるべき時間軸の存在だ。

 だから倫理的に考えて、これはありえない、御伽噺の物語。


「無理言って、無茶をして、ここまで着いて来た。未来に対して嫌な事も沢山言ったし、許し難い業も押し付けた」


 全てを許してもらえるとは思わない。許してもらおうなどとは、思わない。


「けど感謝もしてる。ありえない非日常に、未来のお陰で日常の大切さを知った。本当に大切なものも見えた」


 要にとってそれは、歴史改変なんて瑣事ではなく、ただ隣の家に住む好意を持ってくれる少女。


「だから謝って、それから────」

「ストップ」


 そうして言い掛けた感謝の言葉に、けれど未来は笑って先を遮った。


「そう言うのは、お別れのときでいいから。その方が、絵になるってものでしょ?」

「……ハッピーエンドって言うには程遠い道のりだぞ?」

「終わりよければってやつだよ。だからあたしだって────」


 その先は、やっぱり未来の言う通り別れの場で聞くべきなのだろう。

 ならば彼女の望むようにそうするだけだ。記憶を消され、例えこの経験を覚えていなくとも。時間と空間の理の外で確かに紡がれる彼女の記憶には刻みつけられる。数多ある時空間事件の幕引きの一つだ。

 これだけドラマチックなほどに色々あったのに、彼女にとっては余り大したことではないのかと思うと少しだけ妬けるけれど。

 だったら我が儘でもいいからその別れの記憶だけでもいいものとして残して欲しいと。


「……ま、そうだな。由緒の事は解決出来ても《傷持ち》を捕まえられるという確証はないわけだし」

「…………今それでもいいかもって思ったでしょ」

「お、もってないよ?」

「何で詰まったの?」


 半眼で呻く未来。

 いや、だってしょうがないだろう。

 事ここに至っても非日常は非日常だ。要の望んだありえない世界だ。

 その要らしくいられる貴重な時間が終わってしまうというのはやっぱり遠くに想像を馳せてしまう。

 幾度も夢想したが、危険なんてなければこのありえない非日常にいつまでも浸かっていたいと言うのが要の本音だ。


「まったく、お兄ちゃんはお兄ちゃんだねっ」


 呆れたように告げる未来に、けれど責められているとは感じなかった要は仕方ないと言い訳をしつつ歩く。


「こんな俺じゃないとここまでこれないからな」

「自己弁護しないでよっ。それに何? さっき謝ったくせにその舌の根も乾かないうちにそんな事言うの?」

「…………」

「いや、だからお兄ちゃんなんだけどね」


 その仕方のない赤子の喚きを見るような目をやめてはもらえないだろうか。

 しかし何と言われたってこれが要だ。ポジティブと言うよりは不屈。曲がらない自分らしさ。

 日常に揺蕩う仮面の裏に形成された本当の俺自身だ。


「何でこんな人が…………」


 言い掛けてやめる。一体彼女は何を言おうとしたのか。少しだけ気になって視線を向けてみたが、直ぐに逸らされた顔で目の前の目的地を語られる。

 まぁいい、未来で要と未来がどうなっていようと、それは何れ訪れる歴史だ。彼女が言ったように、その楽しみを胸に抱いてその時まで邁進するのも悪くはない。

 それを夢や希望と言うには些か無謀に欠ける気がするけれども。


「ほら、目的地。で、どうやってその逆位相を冬子さんに?」

「未来はちょっとこの時代を馬鹿にしすぎてないか? ニュートリノにだって手を掛けた時代だぞ?」

「そうじゃないよ、具体的な方法を聞きたいだけっ」


 技術革新は目覚しい。日本だからこそ誇れる技術と言うものも幾つもあるのだ。その行く先が何に結実するのかは別として、過程たる目的には未来への想像が詰まった証なのだ。


「音楽再生デバイスにはUSB直付けで内部の音源を再生できるものもある。小型のものになればSDメモリーカードに────」

「あー、うん分かった。別にそこまで聞きたいわけじゃないから。と言うかそもそもそういう技術がないとあたしの知ってる未来はないし。……そうじゃなくてただ単純にどんなやり方をするのかって思っただけ」

「未来はそういう技術的な話には余り興味ない?」

「興味ないというか、その行く末を知ってるから何とも言えない気持ちになるだけ」


 そんなのは要にだって想像できる。

 カセットテープがCDの台頭によってその占有を縮小していったように、今要の身近にある最新技術だって時間が経てば古い時代の産物と成り果てる。

 けれど要にとっては今あるこの技術こそが有り触れた最新だ。

 それを否定されているようで、未来の言葉に少しだけ対抗心さえ燃やす。


「例えそうでも、俺にとってこの時代こそが全てだ。俺からしてみれば未来の持ってきた『スタン(ガン)』や『抑圧拳(ストッパー)』の方がオーバーテクノロジーなんだよ」

「だから本来あたしたちはそこまで深く現代人に関わらないんだよ。その壁を壊してきたのは誰って話」

「《傷持ち》だろ」


 責任のありかを丸投げすれば、未来は溜息と共に分かりやすく肩を竦めた。

 面白い返答だと思ったのに。未来にしてみれば解せない話だったらしい。

 何にせよ、やはり未来と要は生きる世界が違うのだ。そもそもの性格や信じて疑わない自己からして異なる他人なのだから仕方の無い事だとは思うけれど。


「……さて、突っ込むけど覚悟はいい?」

「もしもの時は未来が守ってくれるんだろ?」

「例えそうだとしてもそれに胡坐を掻いてるなら容赦しないよ?」

「……まぁそんなこと俺自身が許せないんだけどな」


 未来の力になると約束した。彼女にできる限りの迷惑は掛けないと自分に誓った。

 だから可能な限りの降りかかる火の粉は己で振り払う。そのために力を借りている。

 驕るな。例えそうある未来、歴史だとしても。そこには行動という過程が存在するのだ。要にそれを変えるだけの力はないのだ。

 だからこそ出来る事を確実に。

 胸の中心に疑わない自分自身を一本刺して、そうして辿り着いたショッピングセンターの自動ドアを潜り抜ける。

 途端少しだけ集まった視線。けれどその殆どは隣の未来に対するもの。

 そうだ、既に要の中では常識になっていて疑う事を忘れていたが、未来のその身形はこの現代日本では規格外なのだ。

 鮮やかな赤色の長髪に兎結び。橙色の瞳はまるで異世界の理のように光る。整った顔立ちは精緻な人形のようで同時に隣にいる要の場違いさが際立つ。

 視線を集める事には由緒の幼馴染をさせられていることで慣れていたつもりだが、ここ数日で体験した異常な景色。その中に幾度か存在した要を狙う視線のおかげで感覚が磨耗してしまっていたようだ。

 人の視線を集めることがこんなに居心地の悪いものだとは思わなかった。

 今までそうではなかったものが、何故か悪意や疑惑の色を持つように感じる。

 何かの本で読んだが、人間いい話は他人事に感じ、悪い話は自分のことかもしれないと勘繰ってしまう嫌いがあるそうだ。その似たようなものなのだろうが、事実《傷持ち》に狙われ、幾度か危険に晒された身としては敏感になるというもの。

 心の内を覗かれているような気分になり、思わず止めていた足を逃げ出すように進める。


「…………大丈夫そうだね」


 数瞬遅れて隣に並んだ未来が、それから辺りを見回して小さく呟く。そうしてようやく要も気付く。

 奇異の視線は沢山ある。けれど要をどうこうしようと言う意志はそこには存在しない。

 どうやら後催眠暗示や『催眠暗示』の影響は、既に残ってはいないようだ。

 そういえばここへ入るとき疑問には思わなかったが、自動ドアが普通に開いた。

 ここを離れるときには空間固定弾で封じたはずの開かずの扉。同じ空間固定弾を打ち直すしか解除方法のないそれが、解除されていたという事だ。

 つまり誰かがそれをやってのけた。恐らく要達が隠れ家に帰って休息をとり、冬子の事を確認している間に。

 それが出来るのは、あの自動ドアが空間固定弾で固定されている事を知っている人物……つまりは未来か要のどちらかだけで、未来は彼女の異能力では同じ時間に二人以上重なることはできないはずだから、要なのだろう。……いや、未来から話を聞いた別の人物でも可能な話か。

 しかし未来が重なれないのならばどうやって帰ったのだろうかと少しだけ考えて、けれどそれに答えを見出すより先に目当ての電子機器の販売店に辿り着いた。

 取りあえず後回しか。何より今要の周囲にいる人たちに問題がないのならいいとしよう。辻褄合わせは最後でいい。


「えっと……あ、これだ」


 店内に吊るしてある案内板を頼りに再生デバイスを見つける。

 値段はどうにか予算内。最悪後二日ほどいる予定だったために食事用にと残しておいた分で足りた。

 未来が、必要なものなら『Para Dogs(パラドッグス)』の経費として払うと申し出てくれたが流石にそんな迷惑は掛けられない。

 その場限りの言い訳として、前から欲しかったのだと否定の出来ない個人的な理由を付け加えれば、未来は渋々と言った様子で引き下がってくれた。

 そうして買い求めた必要機材。軽くなった財布に、家には後どれだけの小遣いが残っていただろうかと考えつつ店を出る。

 やはり何をするにしても先立つものは必要で、特に未来と行動し始めてからは普段はしない出費が多かったと。

 まぁそれを全て異性との買い物だと割り切ればどうにか諦めがつく。必要なのだから仕方ない。

 さて、あとはこれで冬子の乗る車が引き起こす事故を防ぐだけだ。

 この時間で特にやる事もない。事故が起こる少し前に飛んでどうにか冬子を《傷持ち》の魔の手から開放するだけだ。

 そんな事を考えながら取りあえず休憩のために一度隠れ家に帰ろうと相談してショッピングセンターを後にする。

 ここへ来た時はまだ茜色の空だった景色はいつの間にか薄墨色に染まり、立ち並ぶ街灯に明かりを灯していた。

 少し視界を回せば、太陽の沈んだ方とは逆に白銀に輝くまあるい月が見えた。どうやら今夜は満月か、それに近い月齢らしい。

 望月と、餅搗き。響きの似通った掛詞。同時に脳裏には季節の風物詩的としてのお月見の事を益体もなく考える。

 月におわす餅搗くウサギに、月見団子を捧げ豊作を祝う。確か中国の伝説から生まれた行事……いや、話の成り立ちは逆か?

 どうでもいいけれど兎と言えば要にとっては小学校の学習発表会での題材に取り上げ演じた因幡の白兎の方が馴染みが深いだろうかと。

 そういえばあの頃から何かを演じるという事に興味を持って、中学でも高校でも演劇部に入ったのだと。そのお陰でいろいろな知識を身につける面白さを覚え、読書を趣味とも言えない興味にした。

 懐かしい記憶だと思い出して、それから脳裏を掠めた違和感に頭を傾げる。

 ……何故だろう、その時の記憶、が…………。


「……どうかした?」

「ん、あ、いや…………」


 そんな要に何かを感じたのか、未来が可愛らしくこちらを見上げながら尋ねてくる。仕草に兎結びが揺れて、くだらない冗談が思い浮かぶ。


「月の兎……物語の世界だと月に異世界があったりするけどさ、俺にしてみれば未来もそんな月の兎と大差ないのかもなって」

「何それ恥ずかしい……」

「言うなよ、途中で俺も気付いたんだから」


 まるで寒気に襲われたという風に顔を引き攣らせて告げる未来。答えれば、いい気味だと言う風に笑ってスキップで跳ねるように前へ。

 そうして月面で踊るようにくるりと振り返り、手を後ろで組んで笑顔を浮かべる。


「あたしは兎ほど寂しさに飢えてないよっ」

「それ世話をちゃんとするようにって言う思いを込めた迷信な?」

「知ってるよ、そんな事」


 そうして笑う未来。

 もちろん彼女の言いたい事も分かる。

 兎ほど飢えていない。飢えられないほどに、要が意味を見出していると。

 そんな彼女の語らない言葉に何かを返そうとして、それから未来の背後へ映った黒い影に反射的に『スタン銃』を抜き放っていた。


「っ……!?」


 突然の要の行動に驚く未来。けれどすぐさま背後に気付いたか、こちらに向かってステップを取り、反転して構える。

 そうして見据える黒尽くめたる《傷持ち》の姿。

 軽薄そうな立ち居振る舞い。まるで世間話をするような気楽さで、その手に持った鈍く影を落とす刃を弄ぶ。

 やがて僅かな間を挟んで、何かを尋ねるように首を傾げたそのフルフェイスヘルメットがこちらに向かって突っ込んで来る。

 独特な間合い。思わず解きそうになった緊張の合間をすり抜けてくるような接近にやり辛いと歯噛みして後ろに飛ぶ。

 もう何度目だろう。アイコンタクトなどなくとも既に形式化されたやり取り。

 近接戦闘に持ち込もうとする《傷持ち》と、それから要を守ろうと受けに出る未来。後ろで庇護され援護しようとする要。

 どうあっても要は極一般的な男子高校生だ。由緒のお陰で柔道を齧ったとも言えない程度の受身が取れること以外、喧嘩に強いわけでもない。どちらかと言えば非力な方だ。

 だからこそ、こんな戦いなど、本来は望んでいない。ブースターを飲んでいるなら物の本で読んだ記憶を頼りに格闘技の真似事は出来るかもしれないが、それも未来によって止められている。

 結果要にできることと言えば、未来に守られ、隙があるなら『スタン銃』を撃ち、カウンターのように『抑圧拳』での攻撃を叩き込むことくらいだ。

 ならば出来ない事を無理にする必要はない。この身を守るために、できることだけをすればいい。

 分不相応に驕るな。要は、要だ。

 考えている間にも交わされる攻撃の応酬。

 ブースターで強化された《傷持ち》の攻撃に返す刀で反撃を撃ち込む未来。

 しかしそのどれもが当たらない。当てようとはしているが、当てられない。

 片や普通に傷つけ、命さえも奪う刃。更に片やは一撃にて相手を無力化する『スタン銃』。

 どちらかの攻撃が当たれば決着さえありえる攻防は、しかし互いがそれを分かっているからこそ、攻撃に対して防御ではなく回避を取る事が多くなる。

 それでも人間離れした妙技で《傷持ち》は未来の弾丸を弾き、未来は《傷持ち》の刃を受け止める。

 一体どれ程の研鑽を積めばあれほどまでに渡り合えるだろうか。今の極一般人である要には到底無理な領域だ。

 響き渡る擦過音。時折繰り出される拳や蹴りが、捉えはしないもの掠って相手の体制を崩す。

 まるで消耗戦だ。そんな二人の間に、要が入っていけるわけも無く。誤射の可能性を鑑みて銃口を向けることしか出来ない。

 足手纏いだ。分かっている。けれどどうしたら打開できるかなど、要には分からない。戦いの勘など、平和な一市民にあるわけないのだ。要は、物語の中で戦い、成長する主人公とは違うのだ。ただの無能の、下手をすれば村人A。

 異能力と言う特別な力にさえ目覚めない、この世界のその他大勢の一人だ。

 あるのはたった十七年ぽっちの知識。だからこそ、考える。

 どうすればいい、どうすればいい…………!

 そんな風に思考を巡らせている視界の先で、景色が歪む。

 開いたのは未来の両腕。その防御のなくなった胸部に向けて、《傷持ち》の左の拳が唸る。

 賭けは、嫌いだ。だからこれは、当たる。それしか、認めないっ!

 直ぐに掛けたトリガーを引く。放たれた弾丸は、宙を掛けて……しかし《傷持ち》が投げたナイフで弾かれ双方が宙を舞った。

 未来には当たらなかったと。それだけをどうにか心の拠り所にした刹那に、一瞬だけ止まった《傷持ち》の動きを見て取って未来が一つ後方転回をする。

 器械体操のような優美なその姿に見惚れたのも束の間、振り上げた足が《傷持ち》の顎を狙って迫る。

 しかし《傷持ち》も直ぐにそれに気付き後ろへ跳躍。人の脚力とは思えないほど俊敏に下がった黒い影は、どうやら未来の反撃の蹴りをかわしたようだった。

 事今更にどうでもいいが、未来は近接戦闘において、蹴り技と言うものをよく使う。これまでもそうだったが、見惚れるほどにしなやかで強かな一撃。

 見事なバック転に合わせた蹴り上げは、しかし今だけはして欲しくなかったと。

 不覚にも見えたその足の奥。それ以上を語るべからずと自分に言い聞かせて脳裏に刻まれた景色を振り払うように視線を逸らす。

 それとほぼ同時、近くにまで後退してきた未来が要の様子に気付いて尋ねてくる。


「どうかした……?」

「っ、いや、何でも…………」


 どうにも悔しい事に、要は男だ。だからその性に抗う事を難しいのは、きっと世の男達は分かってくれるはずだ。

 例え一瞬とて、それが見えてしまえば嫌でも視線が動く。不可抗力なのは分かっている。無意識なのは分かっている。だからこそ仕方ない理不尽をその身に甘んじて受けるのだと、物語の中で制裁を下される主人公達に同情する。


「何もないわけ…………っ!? へ、へんたいっ!」

「だから不可抗力だっ!」


 そんな頭の中が顔に出たか、気付いた様子の未来が顔を赤くして怒鳴る。

 だったらスカートではなくパンツを履いていて欲しかったと。

 そうして他愛ないハプニングに時間を割いた瞬間、視界の先にいた《傷持ち》が再び急接近してくる。

 要たちにとっては気を回すことでも《傷持ち》にとっては関係のない隙だ。だから当然と言えばそれまで。一足飛びに近づいてきたその距離の中で、いつの間にか拾った右手に持ったナイフが銀閃を空に描いて要に迫る。

 しかし未来も気を緩めたのは刹那。直ぐに構えなおして伸縮式警棒のようなそれで鍔迫り合いに持ち込むと、得意の足技で《傷持ち》を転倒させに掛かる。

 けれど《傷持ち》も既に未来の特技がそれだと気付いたか、視線さえ向ける様子なく交わして再び斬りかかる。

 駄目だ。これでは結局決定打がない。消耗戦の末に、どちらかの体力か削られて足元を掬われるだけだ。

 《傷持ち》はブースターでランナーズハイに近いような状態になっているはずだ。それは要も一度経験したから分かる。

 疲労を疲労と感じない。体が軽くなったような感覚は、地面の感覚すら曖昧なほどに自由に俊敏に動く事が出来る。

 だからこそ、と気付く。

 探せ。ブースターにだってデメリットはあるはずだ。

 切れるのを待つ? 後どれくらいの時間効果が持続するか分からないものを? それにもしそこまで長引くようなら《傷持ち》の方から逃げるはずだ。ブースターを飲んだ状態の《傷持ち》と要を守りながらでもほぼ互角に渡り合う未来の技量が、ブースターの解けた《傷持ち》を逃がすわけはない。つまりその瞬間が一つの弱点。

 未来が過去に語ったように、《傷持ち》の持つ『音叉(レゾネーター)』は手に持たないと発動しない。つまり片手が塞がるし、もしそれを《傷持ち》の手から奪取できれば逃走は困難になる。

 けれど先の分からない戦いほど気の遠くなるものはない。何時終わるか分からないうちからその一瞬を待ち続けるのは愚策だ。それはもしそうなったときに行動に移せばいい。

 ならば更に考えろ。ブースターが発動中に使用者に齎すデメリット……。

 『スタン銃』のサイトで狙いをつけて、撃たずとも牽制だけしながら模索する。

 痛覚緩和……些細な変化への注意不足。それを《傷持ち》が許すか?

 鋭敏だからこそ逆手に取れる手段。

 持っているものだけに頼るな。周りにあるもの、使えるものを考慮に入れろ。

 そうして見渡す……アスファルトの道路、コンクリートの壁、電柱、誰かが捨てたカン、夕焼け、カラス────

 どうでもいいものばかりの景色に、けれど思考は止めない。伸ばせ、もっと伸ばせ。ここじゃなくてもいい。近場で、連想で求められ、利用できるもの…………。


「…………そうだっ……! 未来、こっちだ!」

「えっ、何っ!?」

「いいから早く!」


 答えにならない答えを返して方向転換。脳裏に過ぎった目的地に向かって全力疾走する。

 体力は大丈夫。買った再生デバイスは少し重いけれど、気にしてはいられない。

 背後からは《傷持ち》を『スタン銃』で牽制しつつ着いて来る未来。

 目的地までのルートは脳内で設定済みだ。あとは全力疾走するだけ。

 流れ行く景色は逢魔が時に夕日色に染められた住宅街。遠くに主だった道路を走る車の騒音をききながら、細い路地を幾度も曲がって疾駆する。

 蘇るのは子供の頃の記憶。あれは、何歳の頃だっただろうか。

 学校の宿題で家族に関する作文があって、子供心に無邪気な質問を母親である結深(ゆみ)に投げかけて。そこに存在する普通の家庭との差異に遣り切れなさをぶつけた……まだ雅人の死をそうとは受け止めていなかった……確か小学一年生の頃。

 帰って来ない父親が恋しくて、友達の休日に遊んでもらったという自慢でもない何気ない言葉達が要の心を傷つけて。

 そうしてぶつけた疑問には、けれどその頃の要にはまだ事実は早いと思っていたのか、真実を教えてはくれなかった結深に対して癇癪を起こして行く当てもなく飛び出した記憶。

 あぁ、そうだ。あの時に、出会ったのだ。

 感情の赴くままに走り、気付けば見知らぬ道の真ん中で一人孤独に気付くあの感覚。今思い出してもトラウマ染みて蘇る景色に、泣きっ面に蜂とはよく言ったもので、こけて擦り剥いた膝の傷が事実以上に痛く感じて。

 泣き喚いて知らない父親と謝りたかった母親を声に出して。

 そんな時に目の前に現れた、あの人。要の記憶では、確かにそこに生きて、手を繋いで、背負ってまで貰ったあの大きな影。

 未来に話した、父親の記憶。

 あの過去は、よくよく思い出せばこの近くで起こったものだと疼く記憶に急きたてられるように────あの頃の自分を助けに行くように走る。

 今この時間はあの過去ではないけれど、隣に生きているような感覚と共に心を揺さぶられる。

 同時に、願う。

 あれは本当は誰だったのだろうと。今だからこそ、その真実を知りたいと。

 懐かしむようにざらついた記憶を撫でて、そうしてようやく見えてきた目的地に苦しくなる息をどうにか気力で補って辿り着く。

 途端その場に崩れ落ちる要。煩く鳴る心臓の音に目を瞑って体が酸素を求めて脈動する。


「ここは……公園?」


 鍛え方が違うのか、流石の未来は先ほどまで《傷持ち》と戦いを繰り広げていたというのに既に肩で小さく息をするに留まっている。

 走るのにも技術はいる。声量と演技力はある程度持つ要でも、運動はそこそこしかしないひ弱な男子高校生には随分と無駄な体力の使い方をしたと。

 急きたてられるように全力で逃げたのは《傷持ち》が追いかけてくるだろうと踏んでいたから。ペース配分などなく視界から消えることだけを考えて走った末の失敗だと。

 胸の鼓動を宥める傍ら、客観視してそんな事を考えながら先ほど走ってきた道に視線を向ける。

 《傷持ち》の姿は今はない。

 取りあえず撒けたのだろうか……。いや、要の全てを知っていると語った《傷持ち》だ。もしそれが本当ならここで逃走する事も、何処へ行くのかも知っている事になる。ならば急ぐ必要はなくて、ここで待ち構える覚悟の要に対して体力を温存して追いかけてくればいいだけのこと。

 もっと言えば、恐怖感を煽る演出だ。

 ホラーゲームなどでは国民性が出るもので、日本産の本格的なそれは幽霊などが走って追いかけて来る事は余りない。

 逆にゆっくりと、じわりじわりと迫ってくるその速度に合わせてスリルを感じさせるようにキャラクターの速度を調節していると聞いた事がある。早い速度で展開する物語より遅々として確かに迫ってくる方が人間混乱に陥りやすいのだ。早くと急かす心がそうさせる、その心理をついた巧みな技術だ。

 反面、パニック系はスピードとインパクト重視で、よくあるゾンビモノのように昨今のパニックゲームは歩くより走るゾンビの方が多い。お化け屋敷などがこちらの部類だろうか。

 と、どうでも良い事を語っていたのはゾンビを倒していくアクションゲームを嬉々としてプレイする楽だったか。

 たしかにその通りだと。恐怖感で言えば這い寄るように迫る危機感の方が緊張する。現実に要がそう感じているのだから事実なのだろう。

 暢気にそんな事を思い出して無意識に危地へと追い立てながら覚悟を固める。

 だからこそ、逃げるのではなく攻撃に利用する。

 相手がその気なら、こちらも反撃を用意して叩き込むだけだ。


「お兄ちゃん、ここで何をするの?」

「はぁはぁ……《傷持ち》を、迎え撃つ……」

「何かいい作戦でも思いついた?」

「耳貸して」

「…………いや」


 《傷持ち》に聞かれるかもしれないと想定しての提案。

 けれどそれに返った思わぬ否定に少しだけ唖然とする。


「え、何で……」

「いやだから、いや」

「…………早く」

「だめ……」

「あぁ、もうっ!」


 時間がないのだと。焦ったように彼女の腕を引いてその耳元に囁きかける。


「あのな────」

「ひゃぅっ!?」


 途端飛び退いて耳を押さえた未来。

 突然の行動に思わず支えを失ってアスファルトの地面に頭をぶつけた。


「ぁだっ!?」

「だから、その。駄目なんだって……耳は、弱い、からぁ…………」

「はぁあ?」


 そんな個人的なことで拒否しないで欲しいと。

 しばらく見つめて恥ずかしそうに身を捩る未来に溜息を吐く。


「……その兎結びは伊達じゃないってことか」

「関係ないからっ。あぁ、もうぅ……」


 知られたくない秘密を知られた子供のように顔を赤くする未来は、年相応の可愛い少女で。少しだけどきりとした要は、けれど直ぐに仕方ないと諦めて普通に話し始める。


「……ほら、公園にはさ────」

「命に関わる遊具がたぁくさんっ」


 そうして作戦を告げようとした要の言葉を遮るように、ノイズ交じりのブラックジョークが響き渡る。

 気付いて直ぐに立ち上がれば数メートル先にはいつの間にかやってきていた《傷持ち》の姿。


「この公園、墓場に変えてもいいかい?」

「ふざけるなっ!」


 隣の未来が叫び返して、それから未来と相談が出来なかったと歯噛みする。さっきの一幕さえなければ細かい連携だって組めたかも知れないのに。

 こちらのタイミングを絶妙に乱してくる嫌味な振る舞いに睨み返して『スタン銃』を構えなおす。


「……その能面、剥がしてやる…………!」


 もういい加減うんざりだ。

 これ以上好きにさせない。全部ここで決着を。

 そもそも《傷持ち》さえ捕まえてしまえば全ての『催眠暗示』や後催眠暗示を解かせる事が出来る。一々要が走り回る必要もなくなるのだ。

 ならば全てを解決に導くために、今ここで続いてきた連鎖を終わらせる。

 まるで共に踊るパートナーを誘うように。手の差し伸べて掛かって来いと招くその黒尽くめに、脳裏に描く理想を押し付ける。

 アスファルトの大地を踏み込んで《傷持ち》へ向けて急接近。当たらない事を承知でトリガーを絞り撃ち放つ。

 当然の如く弾かれる金属同士の擦過光。けれどそれさえも必要な戦略に組み込む。

 例えブースターと言えど、人に出来ない事は出来ない。

 同じタイミングで別場所に二発以上弾を撃てば、きっとその片方しか弾けない。弾く技能だって、腕の届く範囲にしか意味はない。

 ならば最大限にそれを逆手に取る。

 集中力を限界まで引き上げ、目の前の黒尽くめを脳内で試射用の的へと置換する。

 《傷持ち》だって要の命に関わる攻撃を仕掛けてきているのだ。ならばその逆に牙を剝かれたって文句は言えない。その覚悟がないのなら、こんな事をしでかすはずはない。

 最初に弾かれたのはナイフを持つ右手を狙ったもの。直ぐに狙いを足に変えて膝へ向けて連射。

 閃く銀閃。街灯の光を反射して輝くその軌跡が、火花と共に音を上げる。

 しかしそれでもまだ止まらない。次いで左肩に向けて一発。撃つ中で更に接近して迫る。

 近づくだけ弾くまでの猶予が減る。そうなれば当たる可能性も増える。

 少しだけ後ろに下がったその足に、確かな手応えを感じて迫る。

 しかし要がその懐に飛び込むのは自殺行為。《傷持ち》の目的が要なのだから、基礎の自力で勝るその力に真っ向から相対すれば状況が悪化するのは必至。

 だからこそ、ここまで温存して来た。

 不意を突く為に。《傷持ち》の予想を裏切るために。たった一撃、叩き込むために……!

 そうしてついに、目の前にまで接近する。ともすればそのフルフェイスの奥の顔が見えそうな距離まで。

 しかしすりガラスのように加工されているのか残念ながら顔までは分からないと。けれど分からなくてもいい。たった一撃でいいのだ。この左手さえ当たれば、『抑圧拳』でこの時間に繋ぎとめておける。


「こんのぉっ!」


 そうして突き出した拳。けれど分かりきった狙いこそテレフォンパンチと呼ばれる所以。受け止めるでなく手首を撫でるように内側から開いて狙いを外させる。

 しかし陽動。《傷持ち》が恐れるべきは『抑圧拳』と同時に『スタン銃』も筆頭だ。

 今までは遠距離で撃っていたからこそその射線を予測されて弾かれ続けた弾丸。だが銃口を押し当てる接射なら弾ける要素はない。物の本で読んだデリンジャーの射撃方法。その自動拳銃版だ。

 そうしてこれでもかと押し付けた『スタン銃』。異物が腹にめり込むような感覚をグリップを通して味わいながらトリガーを引く。

 そうして絞った引き金……推進力を得て銃身を経由し放たれた一発は────けれど嫌に鮮明に視界を横切った銀閃で目標に到達しなかった。

 要が放った接射。それに合わせて更に一歩後ろへ跳んだ《傷持ち》が、僅かに生まれた隙間にナイフの腹を挟み込んで防いで見せたのだ。

 ともすれば自分の腹を切りかねない状況で、その危険に臆することもなく興じた度胸に唖然とする。

 刹那に、銃口に切っ先を引っ掛けた《傷持ち》が要の手から『スタン銃』を弾き飛ばした。


「あっ……がっ!?」


 同時、放った蹴り。腹部を強烈に打ち抜いた靴の底が痛烈な衝撃となって要の体を貫く。

 途端痛みに飛ばされ、地面に転がった要に、視界の端で《傷持ち》が悠々と『スタン銃』を構え向けてきた。

 これでも駄目ならと。既に他力本願さえ通り越して未来視になりつつある未来の行動を都合の言いように脳内予測。鈍痛に嘆く腹を押さえて下がると、入れ替わりに疾駆してきた未来が《傷持ち》に格闘戦を挑む。

 揺れる後ろ髪。鮮烈なその姿に確かな確信を得ながら目的に向かって疾駆する。

 これでいい……。要は無力だ。通らなかった一撃で、これ以上の策がない事を露呈させた。

 だからこそ、不意をつける。最初から念頭にあったそれを視界に捉えて、気力でそこまで辿り着く。

 そこにあったのは、赤い長方形の立体。公園のフェンスに設置された──消火器と書かれた箱。

 そもそも、だ。《傷持ち》の超人的な反応速度は視覚に頼りすぎている。『スタン銃』の弾丸予測に由来する曲芸のような銃弾弾きは、その銃口から逆算された射線と弾速に裏打ちされた妙技だ。

 しかしその銃口さえ見えなければ、『スタン銃』の弾を発射音だけで弾き飛ばすことは出来ないはず。蝙蝠(こうもり)のように超音波を出すことの出来ない人間は視界を奪われた時点でその行動の殆どを制限される。

 強い光を見つめてしまえば視覚失調を起こすように。幾ら《傷持ち》でも唐突な景色の変化についていくだけの反応速度はないはずだ。

 そんな未来予測は、人間には備わっていない。


「これでも食らえぇええっ!!」


 あらん限りの声量と共に鈍く痛む体に強制労働を強いて威圧するように消火器を投げ飛ばす。

 一概に消火器といっても大きさはそれぞれだ。確か小さいもので約2.5キロ。大きいものだと10キロ近かったように思う。

 持った感じそこまで重くはない。恐らく中型の、5キロ程度のものだ。

 しかしそれでも十分な重さで、ステンレスかスチール製の容器は金属の塊。当たるだけでも質量で鈍器となり得る凶器だ。

 声を出せば人間力が出るというのは科学的に立証されたデータ。こちらに興味を引くという意味を込めてその金属の円柱を《傷持ち》に向かって投げれば、放物線を描いて迫る。

 勢いのついた質量は事実以上の衝撃を生み出す。だからこそ受け止めたりすればそれでも十分なダメージだ。

 当たれと願って飛ぶ最中、未来がその落下地点から下がる景色で、《傷持ち》は『スタン銃』を連射する。

 しかし幾ら亜音速の弾丸と言えどエアガンのようなもの。火薬の爆発で推進力を得るそれと比べれば威力は落ちるし、鉛玉と言う訳でもない。

 要を捕まえる事が目的の《傷持ち》にしてみれば深手を負わせる事は考慮の外だ。ナイフだって恐らく牽制用。

 ならばこそ『スタン銃』のセイフティー、当たるの語呂合わせの最後。ルガーの頭文字のパラベラム弾は、もって来ていないはず。

 結果威力の足りない無力化制圧用の弾では、僅かに軌道を逸らす事が限界で、そのまま《傷持ち》に向かって落下する。

 刹那に、右手に持ったナイフを突き出して消火器を貫く《傷持ち》。そうだ、そうするしか止める手立てはない。なぜなら逃げるという判断は、未来が牽制して潰してくれているから。

 狙い通り。そう頭の中で確信して叫ぶ。


「未来っ!」

「分かってる!」


 阿吽の呼吸。視線さえ合わせずに要の狙いを看破して行動に移す。

 直ぐに駆け出した紅の風。それと同時、穴の開いた消火器から暴発するように中に込められた消化剤が辺りに飛散する。

 雪のような霧が泡と共に綺麗に踊る。

 一瞬にして染まりあがった泡沫の世界。その一寸先さえ分からない白い世界の中に未来が消えていく。

 時間にしてみればその次の瞬間、一瞬の間を開けて広がった半球状の白い繭の中から何かが二つ転がりでてくる。

 一つは『スタン銃』。要の足元へ転がったそれは一体どちらのものだろうか。

 それからもう一つ。それはそこにある事を少しだけ疑いたくなる、球体をした────黒いフルフェイスヘルメット。

 中で何が、と考えたその刹那。横殴りに吹いた風は細い路地を通ってきたからか随分と強風で、目の前の白い靄を吹き攫っていく。

 そうして、事実を目にする。

 僅かに泡沫の漂う景色の中、未来が睨むように《傷持ち》を見つめ、その奥に確かに黒い影を見つける。 

 その姿……黒いレーシングスーツは消化剤の白で染め上り、灰色の《傷持ち》へ。それから腕は──肌を露出させた顔を庇うように覆われている。


「くそがっ……!」


 僅かに見えた口元から、唾棄するようなノイズが響いて。悪態と共に『スタン銃』を一発未来へ向けて撃ち放つ。《傷持ち》が持っているという事は、転がったのは未来のものか。

 しかし殆ど狙いをつけていなかったのか、横へ転がった未来が悠々とそれを避けた。

 それと同時、要にできる唯一にして最大の援護だと、足元の『スタン銃』を拾い上げて、そのまま視界の先の的へ向けて叫び放つ。


「顔を、見せろっ!」


 まだ薄く延びる消化液の名残を切り裂く銀閃。風さえ起こすその鋭い一閃は、顔を隠して殆ど見えていないにも関わらず確かに弾丸を切り捨てて。そうして開いた両腕のその奥に、ようやくその《傷持ち》の素顔を────


「なん……で…………」

「おいおい、勝手に人の仮面剥がしといてそれはないだろぉ、なぁ…………」

「お兄、ちゃん…………」


 遠野(とおの)要の顔を、捉える。

 …………ま、て。待て、待てっ!

 何で、何で俺がそこにいるんだっ!?


「絶句かい? 酷い話だな。ほら、ずっと拝みたかった《傷持ち》の顔だっ。(とく)と御照覧あれ!」

「ふざけるなっ!」


 ありえないと。それは許されてはならないと。

 理由がないと。


「ふざけるな? ふざけているのはどっちだ? 理解したくない現実を否定しているのはどっちだ? 歴史を歪めているのは、誰だ?」

「やめろっ! お前は、俺じゃないっ!」


 言葉にして、けれど胸の内に湧き上がるこの嫌悪感は、まるで本物だ。

 過去に要が体験した、時間軸の異なる自分を見たときに感じたあれと、同じだ。

 けれどしかし、やっぱり駄目なのだ。それは、許されるべき現実ではない。嘘に決まっている!


「お前は俺で、俺はお前だ。嘘なんかじゃない。……だからこれまでもそう言ってきたじゃないか────知っているぞ、と」


 俺はお前を知っている。

 その絶望より這い出たような怨嗟にも似た言葉に、愕然とする。

 何故だ。どうしてだ! こんなの夢に決まっているっ! 認めていい現実なんかじゃないっ!


「っ理由は、理由は何だ!? 俺が俺を狙う……そのパラドックスさえ孕んだ理由はっ!?」


 そうだ、《傷持ち》…………要の行動はつまり、歴史に牙を向く行為だ。そうしか流れない歴史を歪める世界改変の異物だ。だからこそおかしいのだ!

 もし目の前のあの《傷持ち》が、本当に要だとしたのなら、あれは恐らく未来の自分だ。けれどならば、その未来の自分はここで過去の要が襲われる事を知っている……。その末に何も起こらなかったから、その過去を変えたくてこうしてここにいる。

 でもならばっ! 歴史はそうある通りにしか流れないのだから、目の前の彼がその過去で経験したように、歴史を歪めることなんて出来ない。《傷持ち》は、過去の要を変える事はできない!

 未来の要がいるのなら、そこへ繋がるためにこの時間の要には何の影響も及ぼせないっ! そんなのは、分かりきった事なのだ!


「何れ知る理由だ。けれどそれは今じゃない。矛盾がないから世界が回る。そうさ、分かりきった事だ。だからこそ、気付くだろう?」

「っ……! それは…………!」


 認めるわけにはいかない。そうだとしても、納得するわけには行かない!

 だってそれは、何度もそう確信してきたことだから。

 歴史はその通りにしか流れない。鬱陶しいほどその論を振りかざしてきた。

 けれどその曲がらない真実には、唯一つだけ可能性の側面が存在する。

 過去の歴史をその通りに流すためには────経験した通りに再現しなければならないのだ。

 そこに未来の要が関わっているのなら、その通りにするために襲わなければならないのだ!

 しかしならばこそ分からない。

 そもそもどうして再現する必要があるのか。再現した先に、何があるのか……。何のための、過去干渉なのか。

 その理由が、分からない。


「知りたいだろう? 何のために過去へ干渉するのか。歴史は何故こんな事実を未来から過去へ伝えなければならないのか……。あぁ、知れるとも。お前は俺だから。その時が来れば分かる話だっ。そしてお前は決心する。今の俺のように行動に移すっ。それが必要なのだと悟る!」


 彼の言葉は、真実だ。

 未来の要の言う事なのだから、既に経験した過去の事を語れば、それは今の要にとってこの先起こりうる予言とも言えない確定事項だ。

 だからこそ信じたくない。例えそこに正義があろうとも、その裏に確固とした目的が────裏……?


「…………そうだ、お前は、俺じゃない」

「ほう」

「俺は俺の意思で誰かに従おうとは思わないっ!」


 そうだ、考えれば単純だ。

 遠野要は、『催眠暗示』能力保持者ではない。

 つまり『催眠暗示』持ちは別にいて、そいつが裏で未来の要を操っている可能性が存在するっ!


「それがお前の答えか?」

「俺は、お前を、認めないっ!!」

「結構っ! ならば答え合わせをしようじゃないか。真実は俺を追いかけてくれば見つかるだろう」


 言いつつ、ゆったりとした動作で、転がったフルフェイスヘルメットを持ち上げ肩に担ぐと、左手に『音叉』を持って鳴らす。


「楽しみにしているぞ、過去よ」

「待ちなさいっ! 偽者っ!!」


 未来が叫んで、それに答えるように要が今一度『スタン銃』を構えるも、そのトリガーを引くより先に、《傷持ち》の姿は時空の奥へと消えていた。

 残された景色の中、要は未来に尋ねる。


「……偽者、ってどういうことだ?」

「その可能性があるってこと。あれがお兄ちゃんだなんて、あたしも認めたくないし…………。けどごめん、詳しい話は後だよ。今は由緒さんをっ。《傷持ち》が何してくるかも分からないし」

「っ……そう、だな…………。時間が惜しい、直ぐにいけるか?」

「もちろん」


 現実味のない感覚の中、言葉を紡ぎ投げ捨てられた要の『スタン銃』を拾い上げると片方を未来へと返し、彼女の言葉に頷いて差し出された彼女の手を握る。いつもの柔らかい感触……とは少し違って消化剤のぬるぬるとした感触に少しだけびっくりしたのも刹那、次の瞬間には未来の手のひらが消えていく感覚を味わう。

 思わず目を開けようとした要に、けれど未来は目隠しをするように要の顔を抑えて遮る。

 刹那に要一人時間移動に巻き込まれる感覚。伸ばしかけた手は、けれど脳裏に形と色をつけるあの隠れ家に置換されて。重力方向の変化はまともに頭の上から足に向けて。咄嗟の事で体制を崩したからか、体感の数倍にまで錯覚した重力衝撃に膝を折りそうになって、それから直ぐにとまった感覚に声を上げる。


「未来っ!」


 開いた視界。目にしたのは見慣れた隠れ家の部屋の中。何で一人だけ、と考えた刹那に、耳が声を聞く。


「あ、やっと来た」

「未来、お前…………」

「出迎えは無し? ……あぁ、説明はするからっ。落ち着いて?」


 玄関で靴を脱ぎながらそう答える未来。察するに外へ行って帰ってきたところらしい。その手にはコンビニの袋が提げてある。


「少しする事があったの。確認。確かめておかないと今後に関わるからね。だからお兄ちゃんだけ飛ばしたの」

「確認って……?」

「《傷持ち》について。でもほら、それは後回し。まずは由緒さん、ね?」


 少しだけ癪に障るけれど、確かに今の要にとってはそれが最優先だ。今は飲み込むとしよう。


「それで、どうやって冬子さんの『催眠暗示』解くの? 相手は車に乗ってるんだよ? 幾らあたしでも動いてる座標にピンポイントで移動先を合わせるのは出来ない。ほぼ失敗だろうし、そうなれば言葉にしたくないほど酷い結末になるよ?」


 切り替えた思考であぁ、そうかと。彼女の異能力の過程を覚えなおす。

 未来の『時空間移動(タイムトラベル)』は記憶にある時間と空間を指定して移動する異能力だ。時間は年月日や、細かく言えば秒まで。流石にそこまで細かくはないだろうから恐らく分単位だろうか。それから空間は場所だが、その場所と言う移動先は記憶にあるところしか選べない。

 しかし景色を知っているだけで移動が出来るその技能は、厳密に言えば座標を指定しているものなのだろう。

 前にこの隠れ家に移動してきたときにも彼女は言った。もし移動先に足場がなければ事故死をしてしまうと。

 つまり記憶にある目的地が、移動先の時間では存在しないという可能性もあるわけだ。もしなければ、その建物を指定しても移動は出来ない。しかし事故が起こると言う事は移動自体はできる事になる。

 ならば記憶を頼りにするその空間指定と言うのは建物や景色を指しているのではなく、恐らく座標────緯度や経度、標高と言った三次元的な地球の座標を指定しているのだ。

 未来の場合はその細かい設定が出来ない代わりに、記憶の情景を元に近似値に移動するというのがその仕組みだろう。もし東経135度、北緯34度38分と細かく指定できれば、日本の標準時子午線の通るかの場所に記憶はなくともいける事になる。

 それが出来ないのだから強ちこの論は間違っていないはずだ。

 そうして考えれば彼女の論も納得がいく。

 自動車は移動する。例えばその後部座席に『時空間移動』をしようと思うと、その車がどの時間何処にいるかを知っていなくてはならない。その上走行中であれば移動先の座標は絶えず変化する。そんな不確定要素に飛び込めば、僅かにずれただけで座席ではない場所に移動してしまう。その移動先が、例えば車行き交う道路の真上だったりすれば語るべくもない結果だ。


「……それは大丈夫だ。あの時間なら多分、車で外にいた理由はある」

「理由?」

「ごみ捨てだよ」


 要たちが帰ってきたのは過去へ行った時間から丁度三日後。時間は朝。そんな時間から冬子が車で帰ってくるというのは、目的があって外へ出ていたという理由がないといけない。

 それがごみ捨てだ。

 要の記憶では冬子はごみを捨てに行く際、車で運搬する。と言うのも要の住んでいる地区のごみ捨て場は要達の家から少し離れたところに存在するのだ。流石にごみ袋を幾つも抱えたまま歩いたり、何往復もするのは非合理的。楽をしたければ車で運ぶのが一番だ。何よりも時間の短縮になる。

 その帰り道に恐らく由緒の事故が重なる。


「つまり冬子さんは……」

「ごみ捨て場に行けば会える。後催眠暗示は由緒の事故に関わってるだろうから今度は俺が顔を合わせても問題はないはずだ」


 『催眠暗示』はその場限りの一つの暗示。後催眠暗示と違い、一度効果を終えれば再発はしない。『催眠暗示』の際には暗示を一つしか組み込めないのだから、一度しか効果はないはずだ。


「なるほどね。なら直ぐに……の前に、手洗ってきたら?」

「え……? あ、そうか」


 そう言えばここへ来るためには未来の手を握らなければで、その前に彼女はあの時消化剤立ち込める中へ突っ込んで行ったのだ。あの時のぬめぬめとした感触を思い出す。見下ろせばその手は少しだけ泡立っていた。

 直ぐにシンクで汚れを落とせば、ふと脳裏に閃くものが。

 あの時は気にしなかったが、よくよく思い出せば彼女の全身は消化剤塗れだったと。ならばそれを綺麗にするためにも一度風呂に入らないといけなかったはずで、そうするために要だけ先に飛ばしたのかもしれない。

 もちろんそれ以外にも何か理由はあったのだろうが。

 手を洗い終えて未来の元へ戻れば、彼女の服装が変わっていない事に気付く。洗濯をして、けれど別の服にはしなかったらしい。そのコーディネート気に入ったのだろうか?

 あぁ、いや違うか……。先ほど《傷持ち》に襲われたのは、濃密で考える事を放棄していたが、三日間の空白に来てまだ一日目の事だ。つまり要の今要るこの時間はあの時から二日後……由緒の事故が起きる当日で、普通に着回しただけかもしれないと無駄な考察。


「じゃ、行くよ。ごみ捨て場の場所はあたし分からないからお兄ちゃんお願いね」

「もちろんだ」


 差し出された綺麗な肌色の華奢な手のひら。要の感覚では先ほどまでこの手が《傷持ち》と戦いを繰り広げていたのだと思うと大きく見える。

 《傷持ち》…………その素顔は、要だったが、けれどやはり認められない。

 そもそも本当に要であるという確証は何処にもないのだ。誰かが真似ているだけかもしれない。そんな異能力もあるかもしれないと。

 少しだけ想像をしながら目的地を思い描く。

 今度は消えなかった未来の手のひらの感覚は、瞼の裏に描く景色に色をつけて感覚を置換して行った。




 もう何度目になるか分からない時間移動。未来が移動できた以上、まだこのときには未来も要も過去から帰って来ていない。

 時間制限は未来が帰ってくるまで。それまでに全ての仕込みを終えて事件のその瞬間に割り込むのが恐らく唯一の回避の方法だ。

 要も未来も、あの時見たのは由緒が轢かれそうになるという現実で、轢かれたという結果ではない。つまり過去の要が三日前へ飛んだ直後に、入れ替わりに戻れば何の問題もないはずだ。

 だからここですべき事はその仕込み。恐らくもう直ぐやってくる冬子の後催眠暗示を解く事。時間はあまりないが、しなければ由緒が危険なのだ。どうやってでも成し遂げるだけ。

 深呼吸一つ。それから辺りを見回せば、緑色のごみ捨て場と共に、向こうからやってくる赤色の車を見つけた。

 近くまでやってきてゆっくりと止まり、彼女が顔を出す。


「あら、おはよう」

「おはようございます」

「ごみだしの手伝いかしら?」

「はい。それから未来の案内も兼ねて」

「ふふっ、仲のいい事ね」

「……お手伝いします」

「ありがとう」


 柔らかい雰囲気の冬子。要を襲ってきた彼女とはぜんぜん違う、いつも通りのその振る舞いに、ようやく日常の音を聞いた気がして要も安堵する。

 雑談をしながらごみ袋の運搬を手伝って、それから彼女の好意に甘えて同乗させて貰い、家まで送ってもらう。

 後部座席に未来と二人。並んで座ればどこか慈しむように笑う彼女と車内ミラー越しに目があった。

 そのときふと、彼女の顔色が悪い事に気付く。


「……もしかしてお疲れですか?」

「え……? あぁ、ごめんなさいね。ほら、事件があったじゃない、あの子がその場に居合わせたって言う」

「はい」

「あの件でね、少しだけ警察さんとお話をしたりでね。その所為かしら」


 現実的に考えれば、楽の事件は通り魔の犯行と言う世間を騒がせるニュースだ。犯人は捕まっていないだろう。その恐怖は知らず空気を蝕む。


「由緒も……少し滅入っているのかしらね。中々部屋から出てきてくれなくて。もう二日もまともに顔を見てないのよ。心配で仕方ないわ」

「そう、ですか……」


 彼女の言葉の端を捉えれば、由緒がいるという事は彼女も知っているという事だろう。

 誘拐云々の時は要の家に泊まっているという建前だったが、その後一度家に帰った時に顔でも合わせたのだろう。

 考えつつ、それから要は心の内で謝る。その天岩戸の一端はおそらく要の所為だ。《傷持ち》に襲われる事を懸念して、彼女にはできる限り家を出るなと釘を刺している。

 幾ら柔道有段者で、異能力を持っているとは言え、由緒はか弱い女子高生なのだ。いきなり色々な話を聞かされて、納得も出来ないままに巻き込まれて。話を整理するだけで精一杯だろうし、ましてやそれを納得していつも通りに過ごすなんて無理な話だ。

 その上に警察からもきっと幾度か接触があって。例え一時的な記憶障害でその時の事を忘れていても、刻まれた体験は知らず彼女の神経を揺さぶる。あんな血溜まりの光景を、普通の女子高生が何事もなく受け入れるという方がおかしな話だ。

 少しくらい引きこもっても仕方の無いこと。

 助かったのは、今がまだ夏休み中だと言うこと。部活動に関しては、要のところにも連絡があったが楽の一件で学校側から全ての部に対して休部と言う命が下されたらしく、今はどの部活も活動はしていない。妥当な判断で、そのお陰で要も好き勝手にこうして動けているのだ。

 色々な要因が重なって、どうにか矛盾には至らないでいるこの現状に少しだけ感謝をしつつ。けれど冬子にも心配を掛けていると心の内で謝りながら用意しておいた言葉を零す。


「あ、冬子さん。すみません、ここで止めてください」

「どうかしたの?」

「少し買出しを頼まれてて」

「送っていくわよ?」

「いえ、大丈夫です。そこまで迷惑は掛けられませんし。俺も由緒を一人にしておく方が心配ですから、冬子さんは早く家に帰ってあげてください」

「…………そうね。分かったわ。じゃあ気をつけて」

「ありがとうございました」


 いつもの要らしい人当たりのいい仮面。もうきっと脱げないだろう、大人の仮面で感謝を告げて冬子の車から降りる。

 その際に、手元で細工しておいた再生デバイスのスイッチを入れて、忘れたように車内に落としていく。

 どうでもいいが、彼女は車に乗る際音楽を流しながら乗るのが好きらしく、とあるアイドルグループのファンで、よくそのCDを掛けている。だから要の仕込んだそのポータブルデバイスの音は、車内で反響する彼女の好きな音楽に紛れて、特別注意を引くことはない。

 それを知っていたからこそ、要はこの策で解決する手立てを思いついたのだ。

 別に他人の趣味に何かを言うつもりは要にはないけれど、前に由緒がどこか呆れたように年を弁えて欲しいと嘆いていたのを思い出す。アイドルとは偶像だ。だからこそ憧れるだけならば何も悪いことではないけれど。

 確かにそれを日常的に話題とされれば聞く方は少し面倒臭く感じるかもしれないと。楽が時折要にするアニメや漫画の話にも同じだが、聞く方に興味がなければそれはただの苦痛なのだ。

 脳裏に過ぎった幼馴染の疲れた笑顔を思い出しつつ、遠ざかっていく赤い車を眺めて気持ちを切り替える。


「さて、飛べるか?」

「もちろん。準備はいい?」


 角を曲がって見えなくなった冬子の車。消え行く走破音はやがて刻々と迫るその瞬間を紡ぎながら────要は向き直って未来へと尋ねれば、彼女は真剣な表情で聞き返してきた。彼女の言葉に一つ頷く。

 心の準備なら既にできている。

 後は思い描く理想を現実に押し付けるだけだ。

 由緒を助ける。そのために可能な限りの推論を重ね、出来る限りの対抗策を用意した。後はただ、彼女の事故を回避するだけだ。

 ようやく辿り着いたその未来を目の前に、こちらを見つめる未来の兎結びが目に入ってふと脳裏にある言葉が過ぎる。


「狡兎三窟の向こう側、か」

「なにそれ……」

「狡賢い兎は幾つもの策を用意して三つの隠れ家の先に身を守る。今の俺たちにぴったりだと思ってね」

「…………何酔ってんの? 馬鹿じゃないっ、お兄ちゃん」

「酷いな、妹よ」


 憎まれ口は、けれど笑顔と共に。差し出された白く小さな手。幾多の苦難と現実を一緒に乗り越えてきたその柔らかい手のひらを握り返して瞳を閉じる。


「じゃ、いくよっ!」


 もう言葉など必要ない。これだけ一緒に歴史を重ねてきたのだ。信頼と言う言葉では足りないほどに互いの事を大切に思っている。

 今ある景色は、どちらが欠けても起こり得なかったもなのだと。

 確かにこれは現実なのだと。

 今一度改めて確信してその経験を記憶に刻み込む。

 例え消えてしまう記憶でも。偽りに塗り替えられてしまう経験でも。

 そこには相違なく未来と歩んだ過去だったのだと誇れるように今を信じる。

 要は物語の主人公ではない。そんなものにはなれない。失敗を重ねて。取り返しのつかない事実を肯定して。そこに正義などありはしないのだと。根拠の無い証を振り翳すこともできなければ、負けを知らないヒーローのようだと誇る事はできないのだと。

 けれども確かに歴史に名を刻む何かにはなったのだと信じてこの先の未来を描く。

 体に掛かった重力衝撃は一瞬。もう何度も重ねたそのずれは、日常からずれた証だと悪役染みて胸に抱きながら肌に照り付ける陽光の色に違いを感じて目を開く。

 目の前には道路の真ん中で立ち尽くす由緒。その奥には背景として去渡(さわたり)家と、その横に並び立つ遠野家の見慣れた匂いを見て。

 ここを離れたときとは逆の側から道路を挟んだ位置に立っているのだと確信する刹那、直ぐそこに迫った赤い車の威圧感に咄嗟に大地を蹴る。


「由緒ッ!!」


 乱暴で悪いと。心の中で謝りながら突っ込んでくる車を横目に彼女の体を抱きしめて頭を庇い、勢いそのままにアスファルトの大地を転がる。

 その最中に一瞬見えた運転席に座る冬子は、目を驚愕に見開いて咄嗟に目を瞑りながらハンドルを勢いよく切る。

 次の瞬間────ブレーキ音さえ分からないほど辺りに響いた衝突音は、金属の拉げる音と共にコンクリートレンガの壁面を突き壊し、耳障りな破砕音と共に瓦礫を散らす。

 空気さえ振るわせた振動は要の肌を刺激して体を縮こまらせる。

 しばらく身動きが取れないでいた要に、幾つか飛んできた鼠色のコンクリートの小さな破片が体に当たっては傍へと転がっていく感覚。

 震える体。覚悟していたとは言え、現実が伴うと人間突然のことには萎縮していしまうもので。景色は収まったにも関わらず由緒を抱えて転がっていたその肩を未来が叩けば、要は怯えるように声を上げた。


「ひっ……!?」

「それはないんじゃないかな…………」

「え、ぁ……未来、か…………」

「立てる?」

「…………あ、あぁ……」


 まるで生まれたての小鹿のように震える四肢に意志の鞭を打って、未来の手を借りながらどうにか立ち上がる。

 そうしてようやく目にした景色は凄惨なもので、フロントの大破した赤い車はコンクリートの瓦礫に突っ込んで止まり。車の中ではエアバッグに体を埋めた冬子の姿が確認できた。遠目で見る限り出血はなさそうで、運がよかったのか気を失っているだけのようだ。

 まだ煩雑とした記憶をどうにか遡って思い出せば、直前に正気を取り戻したような冬子の事を思い出して一人推論を紡ぎ出す。

 恐らく逆位相の効果はあった。そのお陰か、由緒を轢く数瞬前に意識を取り戻し、思わずハンドルを切って壁に激突。そのまま停止したのだろう。ショッピングセンターのときもそうだったが、逆位相での中和はある程度時間が掛かるものらしい。

 望んだ必然と歴史の偶然に助けられて手繰り寄せた現実はどうにか要の想像しうる最小限の被害。

 事故は回避され────否、そうあるべき通りに起こらず、冬子も意識喪失で、要にとって最大の目的である由緒の安全は彼女の寝息と共に確認された。

 それは後催眠暗示の後の気絶だろうか。それとも衝撃的な事実を覚醒しきらない心が拒絶しての防衛本能だろうか。

 どちらにせよ、健やかに胸を上下させる由緒の姿にかつてないほどの安心感を覚える。


「…………どうにか、なったな」


 声が震えたのは仕方の無いこと。気持ち悪いくらいに汗ばむ手のひらはようやく体が危機を察知したように慌てて示す生理現象。

 高鳴る胸の鼓動に確かに生きていることを実感しながらようやく音の止んだ景色を見渡す。


「一件落着、には程遠いけど。まずは第一目標達成だね……」


 少しだけ暗く沈んだ語尾はこれからの事を考えてのものか。

 《傷持ち》には逃げられ、現状も十分な大事。見れば騒ぎを聞いた辺りの住人達が家の窓や玄関から覗きながら何事かを喋っている。


「要っ!」


 と、他人事に語っていた景色に母親である結深の顔を見て、その目に涙が溜まっている事に気がついた。


「無事、無事よねっ?」

「……ん、大丈夫。元気だよ。少し背中とか痛いけど」


 咄嗟に心配を掛けまいと笑顔で答えて、それから崩れるようにしてその場に座り込んだ母親の姿に今一度現実味を取り戻す。

 あぁ、何だか色々面倒臭いけど……大方理想通りの結末だと。安堵しながら胸の内で何かのスイッチが切り替わる音を聞く。

 それからしばらく、しつこく体の事を尋ねてくる母親を宥めながら時を過ごして。警察車両の音が遠くに聞こえてきた頃にようやく由緒を彼女の部屋へと運び終える。流石に病院には連れて行けない。あの場所で由緒は過去に誘拐されたのだ。そんな危険の孕んだ場所へ再び送り込む何て事は出来ない。

 ベッドに横たわる由緒の姿。少しだけ汚れた彼女の頬を指で拭いながら近くにいた未来に向き直って言葉にする。


「…………未来。もうそろそろいいだろ……」

「……うん」

「これ以上は、もう限界だ────捕まえるぞ、《傷持ち》……!」

「うんっ」


 力強い返答を真っ直ぐに見据えて頷く。

 もう沢山だ。もう十分だ。エンターテイメントだなんてクソ食らえ。喜劇も悲劇も知った事かっ。

 要の周りに手を出した罪、全てその身につき返してやると。

 何処に眠っていたのか分からないほど胸を突く怒りに突き動かされながら誓う。

 例えあいつが未来の要であろうとも、この手で捕まえてその罰を贖わせてやる!

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