第四章
隠れ家へと戻ってきて。鼻先に香る畳の匂いに安堵を覚えた瞬間、重いほどの睡魔が体を襲った。
「そんなところで寝たら体痛くなるよ?」
笑って、床に転がる要を見下ろしながら告げる未来。
垂れ下がった紅の枝垂桜が、窓から差し込む日の光に照らされて揺れる。
埃舞い、音のない色の世界で。幻想的なほどに整ったその顔立ちに胸の内が跳ねる。はにかむようなその笑顔はまるで女神のようで。
こちらを見下ろす可憐な彼女は、小さく肩を竦めた。
「ほら、布団引くから」
「……ん」
横へごろりと転がってスペースを空けるとそこへ白くフカフカとした敷布団が並べられた。
「あ、目覚まし掛けとかないと……」
取りあえず九時間。今から九時間後となると起き出すのは夕方になるだろうか。そんな時間に起きてなにをするのだろうと。
けれどやるべき事は沢山あって、本来ならばこうして眠りに落ちる時間でさえも貴重なほどに追い詰められた状況で。
まるでそんな現実から逃げ出すように夢の世界へと思考を投げる。
隣に転がった未来に背を向けるように横になって。重く長い息を吐けば体の中から緊張がほどけていく感覚。
重いほどのタオルケットと。どこか詰まったような部屋の空気と。鼻先に香る暖かな布団の香り。
重苦しく感じるのは風の流れがないからだろうかと。そんな事を考えつつ目を閉じて幾度か深く呼吸をする。
寝るときに習慣のようなものがあると寝つきがよくなるらしいと何かの本で読んだ事を思い返す。
決まった回数寝返りを打つとか。どちらを向いて寝るとか。枕が変わると寝られないと言うのはそういう類のものなのだろうと。
要にしてみれば、こうして色々な事を意味もなく考える事がその儀式。
意識して呼吸する事を忘れ、頭の中でとりとめもない事を考える。
今日何があったとか、寝て起きたらなにをしようとか。叶う事ならどんな夢を見たいとか。
妄想に空想を重ねて幻想の世界を夢想する。
けれどそんな夢の世界よりも、現実である今の方が余程要の理想に近い気がするのだ。
時空間が歪み、騒動が起きて、異能力を用いて、世界を揺るがす。
刃が閃き、銃弾が飛び交い、拳が唸り、足が振るう。
日常と言うには現実離れで、非日常と言うには現実的過ぎる研ぎ澄まされた刃のようなこの実感。
鼻先を掠める緊迫感の匂いにその景色を曖昧に感じる。
もしかするとこの経験は全て夢なのかもしれないと。
自分の思う通りになる夢……明晰夢と言うもの。非現実の夢落ちなんて使い古された幕引きだ。落語にだって存在する。
けれどあれは夢だと気付かなければ思う通りには動かせないはずで。ならばやはりこれまでの事は現実なのだろう。
これまで《傷持ち》と幾度も交わした言葉。意思を宿した攻撃。要を狙うその刃。
初めの頃よりはずいぶんと近づいた気がする……けれど最後のピースだけが足りない《傷持ち》の目的。
段々とまとまりがつかなくなってきた思考で、けれど眠りにおちるその寸前までおいかけつづける。
みらいの要に由来する、過去へのりゆう。そうまでして変えたいとねがう、みとめがたい歴史。
それはいったいどんな現実だろうか。それはいったい、どんなかこだったのだろうか……。
かんがえるほどにわからなくなって、そうしてやがて、しこうが、ねむりの、ふちへ、おち────
頭の揺れた感触に段々と意識が戻る。
肩に添えられた温かい感触に目を開ければ、直ぐ傍で顔を覗きこむ未来の姿が視界に映る。
「……おはよう、お兄ちゃん」
「ん、あぁ……おはよう」
「気分はどう? 起きられる?」
「あぁ、大丈夫だ……。っと、あ、時間は?」
「ご飯時かな。買ってくるけど何か食べたいものある?」
起き抜けにそんな事を尋ねられても。
上体を起こして布団に座り込むと目の前に差し出された水のペットボトル。受け取って一口煽るとようやく頭が覚醒し始める。
「……未来が食べたいもの買ってきて。任せる」
「そういうの一番困るんだけど…………」
何が食べたい? 何でもいい。
有り触れた会話にして、その先に沈黙と僅かな口論のある組み合わせ。
要がよく思うのは、何が食べたいよりもどんなものが作れるのかを問うて欲しい。
作れないものを要望したところでそれもまた口論の種だ。ならば最初から幾つかの選択肢を提案して欲しいと。その方が共に楽ではないだろうか。
「まぁいいよ。但し文句言わないでよ?」
「そんなに我が儘じゃないよ」
「じゃあ行ってくる。まだ目が覚めないならシャワーでも浴びて来るといいよ」
「いってらっしゃい」
重い動きと共に開かれた玄関。そこから流れ込んできた風に少しだけ身を震わせて、それから閉じた扉を少しの間見つめる。
そうしてしばらく。あぁ、目覚ましついでに要が買出しに行けばよかったと。
小さく溜息を吐くと、それからまだ揺れる頭を持ち上げて風呂場へと向かう。
取りあえず未来の助言通り目を覚ますとしよう。考えれば睡眠と同じだけ風呂にも入っていなかった。意識すれば少しだけ気分が悪くなる。
寝汗も掻いただろう。穢れを落とすにも最適だ。
寝起きの不十分な覚醒と休息をとった体の軽さ。その絶妙なバランスの中で衣服を脱いで脱衣所にあった棚に投げ込むとシャワーを捻って湯を頭から被る。
初めの、その熱いほどの感覚に鳥肌が立つのを感じながら体を温めていく。
血流がよくなれば酸素が巡り気分もよくなる。少し水道代が勿体無いがどうせ借り物。請求はきっと『Para Dogs』持ちだと高を括って、浴室に湯気が溜まり始めるまでシャワーを浴び続ける。
と、そうしているとようやく頭が働き始めてきたのか、記憶の差異に引っ掛かりを覚えて歯車を軋ませる。
先ほど買い物に言った未来。彼女のその姿が、寝る前とは違う装いだった気がした。
ショッピングセンターにいたときは白いキャミソールにクリーム色の薄いカーディガンで、下は黒いスラックス。
けれど先ほどの未来は、違った気がする。
白いパーカーに赤と黒のチェック柄のスカート。それから黒いストッキング。
要より早くに起きていた事から着替えたのだろう。女の子なのだから、きっとそれだけではない。彼女も要と同じように、風呂に入ったのかもしれない。
そう言えば心成しか彼女の髪も濡れていたような……。
そこまで考えが至って、それから気付く。
だとしたら、少し前までここには未来が入っていて────
「って違うだろ、俺……」
その体験はもう一度した。二度目で不躾にも男の性を持て余すほど要は学習能力がないわけではない。
無心だ、無心。あるとすれば、ほんの僅かにかもしれないとそんな事はないの狭間で揺れるだけ…………。
何だっけ。前に楽に借りた覚えのある漫画では無関係な事を考えて邪念を取り払おうとしていたんだったか。えっと、フィボナッチ数列?
0、1、1、2、3、5────
と、そうこうしているといつの間にか立ち込めた湯気が熱いほどに浴室へ充満する。
こういうのは考えれば考えるほどに泥縄だと。他にも考えるべき事はあるはずだ。例えばそう、《傷持ち》とか、由緒の事とか……。
泡立った石鹸を少しだけ見つめて無数の気泡一つ一つに未来を描く。
今要がするべき事はなによりもまず由緒を助ける事。その上で《傷持ち》を捕まえる事だ。
未来だって今更要を止めたりはしない。そういうものだと呆れて納得している。
ならそれを最大限に活用するだけだ。
餌としての価値。《傷持ち》の今後の行動予測。要たちに有利な情報……。どこかにあるはずの可能性をゼロになって消えてしまう前に拾い上げに掛かる。今までの記憶を頼りに《傷持ち》の性格からその行動基準を逆算。ありえる未来予想図を全て記憶に植え付け、その上でこちらが取れる手を捜す。
体を洗いながら真実だけを信じて現状を再構築する。
妄言に騙されるな。騙りに踊らされるな。例え《傷持ち》が要の事を知っていようと構わない。ならばその上で、要ではないところから責め崩すだけだ。
《傷持ち》は語った。未来の存在は知っていた。知っていた上で、それを打ち倒せばいいと軽視した。
しかしそれは未来がこの時間にいるという事を知っているだけで、未来の言動全てを知っているわけではないはずだ。
だとしたらやり様はある。
要にとって《傷持ち》の行動がイレギュラーであるように、《傷持ち》にとっても未来は条理の外の存在だ。
だから使う。未来が最も活躍できる舞台を、要が作り出す。
要がそうする事を知っていても、その先で未来が振るう攻撃までは予測できない。
考えろ。思考が焼け爛れてもいい。未来が最大限に実力を発揮できる景色とは何だ? どんな舞台だ……?
そんな風に覚醒しきった頭をフル回転させて可能性を追求する。
気付けば頭までしっかりと洗い終わり、滝に打たれる様にしてうな垂れたまま一人考え込んでいた。
ふとした拍子に思考が戻って来ると指先が皺だらけになっている事に気付く。
一体どれ程ここにいたのだろうか。あれから何分経ったのだろうか……。
呆れるほどに没頭した一人での空想試行錯誤。
幾つか断片的にやるべき事は見えた気もしたが、けれど結実までは至らずに曖昧なまま記憶の奥に仕舞い込む。
未来の力になりたいのに、これじゃあ足手纏いもいいところだと。
要にはこうして考えるだけしか出来ないのだから。そこに意味を見出せないで何とするのだ……。
こうして追い込めば何か出てくるかとも思ったがそんな事もない。一体要にはどれ程の価値があるのだろうかと。そんな要の未来に、《傷持ち》を動かすほどの何があるのだろうかと。
考えて、けれどやはり未来の事。分かってしまえば決められた歴史だ。それはつまらないから、誰だって想像止まりの無限の可能性なのだと。
流石にそろそろ出ないと熱気で倒れてしまいかねない。
どこか揺蕩うような判別のつかない思考を首の上に据えたまま脱衣所へと戻る。
備え付けられた棚にはふかふかなバスタオル。流れ落ちる雫を拭い去って熱っぽい溜息を吐く。
そうしてその部屋の中を見回して、ある事に気がついた。
…………着替えを持って来るのを忘れた。
当然といえばそれまで。ここは一時凌ぎの隠れ家であって要の家ではない。
遠野家では風呂上がりに着る服の一式は脱衣所の箪笥に入っている。その感覚を疑わないまま、そのままに風呂に入ってしまえば当然、下着もなければ寝巻きもない。
失敗したと濡れた頭を掻いて、それから取りあえず湯冷めしないようにと綺麗に水気を拭う。
それから、水分を含んだバスタオルを腰に巻きつけ脱衣所から外へ。
着替えはショッピングセンターで買った袋の中。その袋は畳敷きの居間にある。
そこまでの道行き。流石に裸族ではない要は、例え少しの道のりと言えど生まれたままの姿で闊歩するのは精神的に許せない。
空調機器のない玄関から吹き抜けの一室だ。肌を擽る廊下の空気は寒く、足裏の感触は氷のように冷たい。
早く服を着なければ。本来衣服と言うのはおしゃれのための物ではない。防寒用具として……菌やウイルスから身を守るための防具なのだ。
いつも着ているからこそ、なければ心細さも感じると、そんな事を考えながら電気の点いた居間の扉を開ける。
それとほぼ同時、脳裏に閃く事があった。
あれ、電気、消して風呂に入ったよな……?
そんな疑問とは裏腹に、体は当たり前のように扉を全開にして────
「あ、お兄ちゃんっ。ご飯だけど、どっちぃ~がっ! え、まっ、なにっ? は、はだ……!」
そこにいた未来とばっちり再会した。
視界の先で、こちらへ振り返った彼女は瞬く間に頬を紅潮させ手をわたわたと振る。
対する要だが……何故か恥ずかしさは込み上げてこない。それより先に頭が鳴らした警鐘は、彼女が妹だと言う虚偽だった。家族ナラ恥ズカシクナイ。
と言うか帰ってたのか。気付かなかったのはシャワーに重ねて考え事をしていたからだろうか。
「……ごめん、服取ってくれる?」
「な、なっ……っへんたい! 早く服着て!」
「その服がそっちに…………」
「いやいやいやいやっ! ご飯はそこにあるからっ、あたし食べても美味しくないからぁ!」
一体なにを慌てているのだろう。お願いだから話を聞いて欲しい。と言うか未来を食べるって何だ。俺は狼か。
「いや、だから服を…………」
「ひぃっ」
これでは風邪を引いてしまうと。諦めて一歩踏み出せば、搾り出すような小さな悲鳴と共に後ろへと下がる未来。
あの、それだと俺の服取れないんですけど…………。
「未来……」
「へんたいっ、変質者、こっち来るなぁっ!!」
呼んだ名前に返ったのは痛烈な拒絶。流石にそこまで引かれるとこちらとしても傷つく。
と、目の前に飛んできた紙袋。咄嗟に受け止めてそれがお目当てのものだったと気付く。
どうやら目の前の彼女は錯乱中。しかし偶然にか、近くにあった紙袋を要に向けて投擲してくれたらしい。
取りあえずこれ以上面倒臭い事になる前に早く着てくるとしよう。
考えながら必要なものを取り出そうと袋の中に腕を突っ込む。指先に触れる感触は肌触りのいい布。コーディネートはどうでもいい。まずは一式揃えてから……。
思って掴んだ布きれ。外に引っ張り出して広げどの部位かを確認する。
吊るしたその形は……三角形。柔らかい肌触りと丸みを帯びたフォルムは全体的に薄い桃色に彩られ、所々に可愛らしいフリルやリボンがあしらってある。
しばらくその布を見つめて、ようやく思考が再開される。
こんな可愛らしい帽子を買っただろうかと。
いや、そんな資金の余裕はなかったはずで、できる限り無駄なものは省いたはず。
それにそもそも、要はピンク一色の衣服なんて買わないわけで。
そこでふと、脳裏に過ぎる直感が。
あぁ、そっか。これ上下逆か。当たり前だ。こんな手のひらに納まるような小さな衣類なんて、種類が限られている。
靴下か、手袋か、後身につける布と言ったら…………。
と、そこまで考えが至って、ずっと視界の奥に映っていた彼女の様子に今更ながらに気づく。
青ざめた表情。現実離れした橙色の双眸の端には、キラキラと光る水の雫。やがて視線が合うのと同時、彼女の顔色は急激に赤みを増す。
…………そうだよな。うん、知ってた。気付いてた。
今俺が手に持ってるこれが────彼女の下着だと言うのは、分かりきった事じゃないか。
よくある。よくあることだ。ほらラブとコメディなお話のちょっとした読者サービスだ。
青少年を性少年足らしめる、男の性を逆撫でする凶器にして境地。
お色気的なサービスの、その一端だ。
だからそう、その後の事も知っている。
不用意にヒロインのデリケートな部分に触れた主人公が、どんな扱いに身を投じるのか…………そんなのは、考えなくても分かる事だ。
でもだからこそ、声を大にして明言しておきたい事は確かにあるのだ。
これがなければそもそも成り立たないハプニングなのだと、主張させて欲しい。
「ふ、不可抗力、だよな?」
「うっさぁいッ!!」
直後に飛んできた綺麗な回し蹴り。重ねて見えた、スカートの奥のその秘境は────何も言うことがないほど綺麗な白色をしていた気がした要だった。
「痛ってぇ…………」
歪んだのは何も時間や空間だけではないということ。人の体だって捩れるわけで。
もちろんそんな事実はないけれど。そんな風に錯覚してしまうほど彼女の痛烈にして爽快なる蹴りは要の側頭部を見事に蹴り抜いたのだ。
「ご、ごめん……。その、いきなりだったから…………」
「いや、俺も悪かったと思うから。取りあえずこれ以上は無益だ。俺も見た事は忘れるから、許してくれとは言わないけど、許して欲しい……」
「うん、大丈夫……。最後に纏めて記憶は消すから」
今ほどその言葉に救われた事はないと。ただ男としてなら少し残念な事かもしれないが。
未だ揺れる視界。鈍痛響く頭を摩りながら畳の上に座り込んで声を絞り出す。当然だが、服は着た。重要な事だ。明言しておこう。服は、着た。
「で、えっと……これからどうするんだっけ? さっきの衝撃で今後何すればいいか忘れたんだけど」
「……由緒さん、助けるんでしょ?」
「ん、あ、そうだ……。そのために冬子さんの『催眠暗示』解くんだよな」
「ショッピングセンターでの事も考えないとだけどね」
そういえばそんなのもあったと。ようやく思い出してきた記憶を遡りながら未来の買ってきたおむすびを頬張る。
具は鶏の唐揚げ。一緒に入ったマヨネーズと辛子のアクセントがまろやかさと刺激を絶妙に織り成して舌の上で転がる。
「どっちから考えふ?」
「ふって何だ。食べながら喋るなよ」
「…………んく。だってお腹空いてるんだもん。お兄ちゃん起きるまで待ってたんだから」
「それはすみませんね」
可愛らしく上目遣いで見上げて来る未来が今しがた咀嚼したのは昆布。そのコンビニ特有の煩いほどの塩加減もまた食欲をそそる一因か。
そうして誰かが美味しそうに食べていると自分までそれが欲しくなる、と言うのはよくある話。隣の芝生はなんとやらだ。
どうでもいいけどご飯に昆布、それから包む海苔と言う組み合わせは、白米に対して海草の過剰積載ではなかろうか。塩分取りすぎると体に悪いよ?
「まぁどっちからって……由緒の方は取りあえず試す事は決まってるだろ。逆位相をぶつける。なら考えるべきはショッピングセンターだろ」
彼女の疑問に答えつつ、しゃっくりで肩を震わせた未来にお茶を差し出す。
しゃっくりと言うのは単純に言えば横隔膜の痙攣だ。だからそれを起こさないように水分を取りつつ一口を小さく細かく咀嚼して嚥下すればそれで回避できる。
物事を静かに過ごしたい要にとってしゃっくりの様な音はノイズだ。それを減らすために、体感でどうすれば起きないかと試行錯誤した結果、方法を見つけた。今では要にとっては常識で、例え水がなくともしゃっくりを起こさず食べる事が出来る……と言うどうでもいい特技を身につけた。由緒に話をしたら鼻で笑われたけれど。
「んー、一度『催眠暗示』に掛かった人たちをもう一度操る方法かぁ」
「やっぱり『催眠暗示』持ちが二人ってのはない可能性か?」
「だね。まずありえないよ。そもそも異能力の発現自体そう多い事例じゃないからね。確立で言えば……十万人に一人くらいかな」
「今の日本の人口だと……それでも千人ちょっとくらいか?」
「あれ、一万人に一人かな」
「曖昧だな、おい」
自動車事故の死亡率が大体一万分の一。おおよそそれか、その更に十分の一ほどの確立と言うことだろう。
数字にされてもよく分からない。が、確率論で語るなら必要な値なのだろう。
「異能力も沢山種類がある。その中でもやっぱり偏りがあって、発現しやすいものとそうでないものもある。あたしの『時空間移動』は言わずもがな発現し難い方だね」
「『催眠暗示』は?」
「微妙なところだけど……異能力保持者二百人捕まえて一人いるかいないか、くらいかな?」
ならば計算して……異能力者の中だと精々五十人くらい。日本人口だとの約二百五十万分の一ほど。確かにそれほどの確率なら局所的に集められない限り複数人が揃うのは中々ない話か。となれば殆ど切り捨てていい可能性だ。
……いや、可能性は、あるか?
「『Para Dogs』には異能力保持者の名簿みたいなのはあるのか?」
「そんなのあたしが言えると思う?」
「分かった、あるんだな」
視線を強くする未来。こんな即答が確信なわけないだろう。もちろん鎌を掛けただけだ。
けれど彼女のその表情で肯定された。
つまり、その異能力者を保護や監視する『Para Dogs』に何らかの繋がりがあれば、合法なり非合法なりで起き辛い低確率を引き上げる事はできる。
けれどしかし、未来が何度も言っていたが、『Para Dogs』は時空間犯罪に代表される異能力絡みの問題を解決する組織だ。一枚岩ではないにしろ、その問題のそもそもの原因を生み出す温床にはならないはず。そのための対策もしてあるはずだ。
未来の言を借りるならば、『Para Dogs』が事件を起こす事はない。つまりこんな可能性こそ、『催眠暗示』が二人揃うよりありえないほど遠い絵空事だ。
「とは言え『Para Dogs』の手引きで、なんてまぁないだろうな」
「そうだね。となると本格的にどうするか、だよ」
『催眠暗示』一つで二つの暗示を同じ人物に掛ける方法。
『催眠暗示』と言うその異能力を解き明かせば分かるだろうか?
「……例えば、『催眠暗示』で掛ける暗示を、これをしろ、じゃなくて『催眠暗示』能力保持者の言う事を全て聞くようにしろ、見たいな汎用性のあるものにする事は可能か?」
「それは出来ないよ。『催眠暗示』で掛けられる暗示は、具体的な行動指針じゃないといけない。お兄ちゃんの知ってる催眠や暗示と違うのはそこだね。『催眠暗示』中に幾つもの命令をする事はできない」
ふむ、つまり『催眠暗示』影響下で目的の人物をずっと操り続ける事は不可能と言うことか。
『催眠暗示』に込められる暗示は一つで、それは明確な命令でないといけない。
「由緒に自殺しろって吹き込むだけならいつ起きてもいいわけだよな。なら逆に、どうしてあの時だったんだ? 俺たちが三日後に帰ってくるのを知ってたのなら、その空白の時間に由緒を亡き者にする事も出来たはずだろ? わざわざ俺達の目の前で起こす理由は?」
「…………それに意味がある、から? ……ううん違うね、その時じゃないと、暗示が作用しなかったから?」
再構築しろ。
あの時、由緒が車道に出て自殺を試みるまでに、何か変わったことはなかったか? そこに、何があったのか。
あの時にあったもの……いや、あの時にしかなかったもの。……視点を逆に、由緒から見てあの時にしかなかったもの。
冬子、透目は違う。結深もきっと違う。その三人ならばいつでも引き起こせるはずだ。
ならばやはり、あの時帰ってきた未来や要に意味はあるはず。
帰ってきてから、要たちは何をした……?
憔悴しきった未来と再開し、会話を交えてどうにか納得を織り成し、それから事故が起きた。
《傷持ち》が由緒に『催眠暗示』を掛けたなら、きっとその要因は要にあるはずだ。
だってあいつは要の事を知っているから。そう何度も妄言を吐いてきたから。
ならば今だけはそれを認めよう。《傷持ち》は要の事を知っている。いつどこで何をしてどんな言葉を口にするか…………言葉?
言葉、声は、音だ。そして、《傷持ち》の『催眠暗示』も音楽……音によって干渉する力だ。
だとしたら、例え音楽でなくても、特定の響きを持った音……言葉に反応するように組み込む事は可能か?
しかしならば、幾つが前提が覆る。
由緒の顔馴染みでなければ誘拐時に『催眠暗示』が必要だ。不意がつけない。しかし顔馴染みならその記憶が由緒にある事になり、未来人である《傷持ち》は『催眠暗示』を使わなければ顔馴染みにはなれない。
つまり、どうあっても誘拐か、記憶の植え付けか、どちらかで『催眠暗示』を使うはずなのだ。
だから普通ならば由緒に自殺の暗示は仕込めない。
…………いや、違う。そもそもあの自殺行動は『催眠暗示』によるものなのか?
ただの暗示と言うだけなら異能力を使わなくても出来るはずだ。
そうでなくても『催眠暗示』と言う前提で心に穴は作りやすい。ならばそこに付け入る隙はあるはずだ。
とても物理的な…………要がよく知る催眠や暗示と言った、異能力ではない眉唾なそれ。
『催眠暗示』と言う異能力を知っていれば、それを活用するために原初の……異能力になる前の人の理想たる催眠や暗示の事を調べるはずだ。
どういうメカニズムで、どういう手順で暗示を掛けるのか。
それを、異能力と言う解明の出来ない力で過程を省いたものが『催眠暗示』。
ならば原始的に要がよく知る眉唾な方法で……五円玉を使った催眠術のようなそれを使う事も《傷持ち》には可能なのではないか?
考えろ、ならばもっと方法があるはずだ。
何処で読んだ……その本を、何処で読んだ…………!
今まで退屈しのぎにと漁ってきた知識の穴を覗き込む。
「別に異能力に頼らなくても、暗示は掛けられる……。暗示や催眠術自体は俺のいるこの時代にも存在する。それどころか、一回『催眠暗示』で暗示に掛けてしまえば、そこをトリガーに掛けやすくなるはずだ、違うか?」
「…………確かにできない事はないと思うけど」
「なら別に、由緒の自殺を『催眠暗示』で掛けなくてもいいはずだ。その原始的な、異能力の元となる、俺達の知識で語れる催眠や暗示で同じ事は……いや、オリジナルの暗示を掛ける事はできるはずだ」
タイムマシンに憧れたから『時空間移動』が生まれたのだとすれば、脱出マジックに憧れたから『瞬間移動』が生まれる。
ならば同様に、人を操る事を望んだから『催眠暗示』が生まれたのだ。
五円玉を使う催眠術は、いわば『催眠暗示』の原初にしてオリジナル。その根源とも言うべき理論だ。
だからこそ可能性がある。要が知るとても物理的で眉唾な催眠術や暗示は、多種多様にしてきっとその気になれば誰もが使える異能力だ。
「『催眠暗示』を扱うなら、元となる暗示に詳しいのは当たり前か?」
「……有効に使おうと思うとその構造ややり方、リスクを調べるのは当然だよね」
「なら《傷持ち》は、『催眠暗示』だけじゃない、普通の暗示も使えるはずだ。それこそ、異能力である『催眠暗示』を応用したものが」
ならば考えろ。『催眠暗示』に縛られるな。その原初たる暗示に、そこから派生する全てを考慮に入れろ。要の知る知識を総動員しろ。
と、考えた思考が脳裏に閃きを捕まえる。
そうだ、暗示、催眠……それに関する小説を、要は読んだ事がある。
推理小説。ミステリーと言うには些か配慮の欠けたお話だったような記憶は、だからこそ別の面白ささえも見出す事ができた作品だ。
【ノックスの十戒】的に言えば催眠術や暗示なんて言う不確定にして曖昧な証拠が事件の真相の、ミステリーとは言えない三流推理小説だったけれども。その作者の言葉回しに引き込まれる魅力は、まるでもう一人の探偵になった気分でその世界に没頭できた。
まぁそんな要個人の読書感想文はいいとして、その中に出てきた単語にして技術。
「…………後催眠暗示か」
後催眠暗示。暗示の解けた後、特定の言動を取ったり景色を見ることで、それがトリガーとなり仕込まれた暗示が遠隔、遅延で発動する暗示の技の一つ。
例えば、ある人に猫になる暗示を掛ける。その暗示を解く前に、『貴方は犬を目の前にすると怯え逃げ惑う猫に変貌してしまいます。視界から犬が消えると貴方は人間に戻ります』と言った具体的な内容の暗示を仕込む事により、暗示が解けた後でも、その状況に相対した際、そのすり込みに従って行動に移してしまうと言うものだ。
大抵の場合、暗示が解けた後、暗示に掛けられた事は忘れてしまうという使い方をされる技術。要が読んだ小説でも、その暗示によって実行犯と黒幕が別人で、アリバイや動機云々のシナリオ展開だった気がする。
これを使えば、『催眠暗示』に掛かった人物を、再び暗示に掛け、その上掛けた本人にはアリバイが生じる時間差トリックが可能だ。
催眠療法と言う言葉の通り、注射の痛みを感じないとか、乗り物酔いを一時的に克服できるとか、そんな類の使い方もある技術。
同様に、例えば未来で起こる事を全て知っている人物が、ある言葉をトリガーに後催眠暗示を掛ければ、きっと思い通りに暗示に掛けてしまえるはずだ。
「ごさいみ……何それ?」
「簡単に言うと暗示を解いた後に再度暗示を起こさせる技。ある特定の条件下でのみ発動する暗示みたいなもの」
「そんなのあるの?」
「……暗示で夏場に冬物の分厚い上着を着せて、そこに後催眠暗示で『貴方は催眠が解けた後、寒気に襲われて温かい飲み物が飲みたくなってしまう』って吹き込まれると、着ているものとか周りの温度とか考慮の外に、その通りに感じて行動してしまう暗示だよ」
「ちょっと怖いかも……」
確かに未来の言う通りだろう。
もし催眠が解けた後に、『貴方は無性に自殺したくなり、そこの窓から飛び降りてしまいます』なんて掛けられた日には、解けた後だとしても例えそこが20センチしかない段差だろうが恐怖を感じてしまうはずだ。
もちろん後催眠暗示だってそんなに万能なわけではない。
「ただやっぱり、本能的にこれは駄目だって思う事は暗示に掛けられないからそんなに過激な事はできないはずだけどな。倫理的に人を殺すのが駄目って言う規範が胸の中にあるなら、それを後催眠暗示で無理やり捻じ伏せる事はできない。但し正常な判断が出来るなら、だけど」
「それって…………」
「後催眠暗示の前の暗示で、その常識やモラルを壊されれば、間違っていると思う心がなくなれば行動に移せる。暗示に掛けられる。そもそも暗示って言うのはそういう事に抵抗がない人ほど危険なんだよ」
もし由緒がそんな風に何かを────自殺をする事への恐怖や抵抗、異常だと思う心を抑制されたならば、それを心は厭わない…………暗示のままに行動へと移してしまうはずだ。
恐ろしい話で、だからこそ眉唾にして信じない人は沢山存在する。
けれどもし、心のどこかで少しでも信じてしまえば、そこを切り口に暗示には掛かってしまう。催眠術や暗示と言うものは、本来そう言った心の隙に付け込む技術……。それを極一般的に応用したのが人身掌握術やメンタリズムと言うものだ
そして更に、その原初となる人を騙す事において誰もが知る娯楽と言うのが────マジック、手品や奇術だ。
視線移動、意識の掌握。目の前を何か物体が右から左へ横切れば無意識にそれを目で追ってしまうように。それを逆手にとって人の動体視力外の技術や意識の拡散、錯覚によって恰もありえない事が起こったように見せる技術。
だからこそ、《傷持ち》の手管には今更ながらに感心する。
人の興味と集中が勝手に操作されるマジック会場で、その無意識となる音楽に、更に『催眠暗示』まで仕込んで混乱を引き起こす。
そもそもの前提から《傷持ち》の手のひらの上だったのだと考えれば、ただ単純に時間移動で未来人になった要たちは『催眠暗示』に掛からず幸運だったと言うほかない。
「……つまり由緒さんはその常識の道徳を少し書き換えられたって事?」
「恐らくは。その上で、後催眠暗示によってあんな行動を起こした」
後催眠暗示も暗示の一つだ。だから掛けた本人を捕まえれば解除することもできる。
けれど流石に《傷持ち》の尻尾を逃がし続けている要たちにはそれは難しい話。
ならばもう一つの正攻法で由緒を助けるだけだ。
「暗示ってのは結局のところ言葉に先導された自主的な行動、だから。そこには確実性はない。例え銃で自殺しろと言われたところで現代日本じゃ銃なんて手に入れるのは困難だ。だから普通現実にはならない」
「まぁそうだね」
「だったら、由緒の視点に立って……由緒が自主的に車の前に身を投げ出して自殺をしたのなら──その運転手が『催眠暗示』に操られているならその運転手側をどうにかすれば事故は防げるはずだ」
「……車が走っているところに飛び込んで自殺をする。だから由緒さんを変えるんじゃなくて、その自殺の原因である車の方に細工をする、か」
「俺はまだ、由緒が事故に遭うという現実を、この目で見てない。その前に未来にここへ連れてこられたからな。ならまだ歴史的にも不確定な未来の出来事だ。不確定な未来なら明確な意思を持った干渉で変えられる……。それは可能なはずなんだ」
もちろんこの論には一つの前提が存在する。
「……でもそれって歴史を変える事……ううん。由緒さんを救う事が正しい歴史ならそうなるけど…………。例えば、由緒さんが事故に遭う事が正しい歴史ならお兄ちゃんの言ってる事は────」
「それはない」
「え…………?」
未来の疑問は尤もだ。要も言っていて途中で気付いた。だからこそ、そこから裏を返した視点で否定が出来た。
「そもそも時空間事件自体起きちゃいけない話だ。つまり普通に考えれば、元の歴史では俺は未来には会わない筈だし、由緒が危険に晒される事もない。なら由緒の自殺は起きちゃいけないことで、回避する事は歴史通りの正しい事のはずだ」
「……そっか…………」
「それにもう一つ。俺たちは、今までもそうして来た」
それは根拠のない結果論ではない。根拠しかない空想論だ。
「由緒の誘拐も、父さんへの干渉も……全部どうにか防いで、歴史通りにして来た。未来、言ったよな? 俺達の言動は歴史の修正力みたいに働くって」
「うん」
「それはきっと起きてはいけない時空間事件が解決して、元の歴史に沿うようにするために必要な修正力……未来や俺達の言動全てを指す言葉だ。なら裏を返せば、だ。起きる時空間事件は全て解決される事が前提の、起きることすら歴史の中に組み込まれた一部なんじゃないか?」
過去に未来は真逆の事を言った。
歴史は普通そうある通りにしか流れなくて、時空間事件はイレギュラーの起こってはいけない歴史干渉だと。
けれどそれは、今までに数多く全てにおいて解決されてきたはずだ。そうでなければ、未来の生まれた未来は過去干渉によって歪み、既に存在しない。
「歴史改変がイレギュラーで、それを阻止しないと歴史や未来が歪む。俺もそう考えてた。未来にそう言われたからな。けど逆じゃないか? 未来の生まれた未来に辿り着くために、全ての時空間事件は解決されて然るべきなんじゃないか?」
「っ……!」
驚愕に見開かれた未来の瞳に、要は更に追い打ちをかける。
「……未来、一つ聞かせてくれ。未来が生まれるより過去に発生した時空間事件は全部解決したんだよな?」
「…………うん」
「その中で、未然に防げたものとそうでないものがあっただろ?」
仮定の話、今回で例えれば《傷持ち》は過去に来て過去干渉をしている。けれどもし予知ができて、どの時代のどの人物がいつの過去に行くのかをあらかじめ分かっているとすれば、その過去へ行こうとする直前を取り押さえれば時空間事件すら起こらずに解決されるはずだ。
つまり《傷持ち》が過去に来る前に捕まえられたなら、それは未然に防げたと言う事で、そうでないものが時空間事件として未来がこうして対処する事になるという話。
「……それは確かにあったけど、でも明確な予知があった時だけだよ?」
「ならどうして全部そうならなかったんだ?」
「え……?」
「過去に起こった時空間事件なら予知は関係ないだろ? 既に起こったことなんだから予知なんかに頼らなくても人伝言伝で伝わって、大きな問題になる前に解決できるはずだ」
Aと言う地点で時空間事件の火種が燻って、後のBと言う時間に未来のような存在が生まれたとする。
この場合、Bより前にAが起きている以上、Aの時に起きた事は口伝や調書などでBの時代に伝わるはずだ。
だからつまり、Bの時点では既に解決された事で、その解決法もどんな結末だったかも知っている。知っているからこそ、何処で起きるかを確実に言い当てて、そのタイミングで時空間事件になる前の火種を潰す事ができるはずなのだ。
なぜならBと言う未来がある以上、Aと言う過去で起きた物事は、全てを知ったBからの干渉によって未然に防がれるはずだから。
「つまり未来が『Para Dogs』として働き始めるより昔に起きた時空間事件は全て、本来ならその事件が起きる前に解決されるべきなんだよっ」
だからこそきっとこの論での時空間事件と言うその言葉の意味合いは、過去に行って歴史改変をすることではなく、過去へ行こうとしたその行為自体を指す事になるはずだ。
「けど事実は違う。事件には未然に防げたものとそうでないものがある」
「…………そう、だったからね。あたしが体験してるんだから、間違いないよ……」
反論するように答える未来の声は、けれど小さく掠れるように絞られていく。
ここまで言えば彼女も気付いている。だからこそ、事実にするために言葉にする。
「つまり未然に防げなかったものがある以上、その事件は起こる事が歴史によって肯定され、解決する事自体が正しい歴史って事だ」
「……………………」
「過去で行われる全ての時空間事件は、その最中で起こる全ての言動を含め────歴史によって全て肯定されている」
時空間事件が起こり、それを解決するまでが歴史の一部。そしてそれはきっと、未来が生まれるより前に限らず、これから未来に起こるだろう時空間事件にも当て嵌まる理屈だ。
「だったらっ、今俺達の目の前で起きてるこの時空間事件も、解決されて然るべき問題だ。解決しないと未来の生まれる未来は消えて、未来はここにいないはずだからな。だから解決される事を疑う余地はない……つまり、由緒が助かるのは決定事項で、そのために俺が動く事は正しい事だ!」
言葉にしてまた一つパズルのピースが噛み合う。これが、何よりの証明────
「だから未来、そうだよな?」
「……………………」
「未来は未来の由緒の異能力でこの時代まで来たんだもんな?」
初めて要の前の前に現れた未来は、自分の名前を告げる事ができなかった。それは由緒の異能力の制限③に該当するからだ。
同時に、裏を返せば、当たり前が見える。
そうして由緒の異能力で未来が過去に来るためには────由緒が未来で生きていなければいけないのだ。
だからそう、この論は、全ての辻褄を完璧に繋ぎ止めた、真実足りえる。
「同時にもう一つ言える事がある……。それは、未来はそう遠くない未来からこの時代へやって来ると言う事だ」
由緒が未来をこの時代へ送るにはそこに由緒が生きていないといけない。つまりそこまで幅のある時間移動ではないということだ。
十年か、二十年か……。今後の異能力保持者の急増による管理機構の確立……『Para Dogs』の設立を考えても半世紀ほど先が限界だろう。
そうなると未来は要達の世代から考えて次世代……息子や娘や、孫などの層に当たる生まれだと言うことだ。
「なら俺と未来は、もしかすると同じ時代に生きているかもしれないって事だ。違うか?」
そうしてそう遠くない未来、由緒の生きている時代と言う事は、普通に考えれば要も生きている時代だ。
「未来はもう一度俺と会うって言ったよな。ここではない別の時間で。それがもし今より過去なら、既に一度時空間事件に巻き込まれた事になるけど……なら俺の周りには何かおかしな変化があったはずだ。これでも自分の事は馬鹿じゃないとは思ってる。例え記憶を消されようとも、その気になれば文字に記して日記みたいに後からその事実を自分に教える事もできるからな」
けれどそんな書物は要の知る限りでは存在しない。つまり今より過去に既に会っているということはないはずだ。
それにもう一度会う、と言う事は今より未来に会うと言う事だ。もし過去に一度でも会った事があるのならば、もう一度会うなんて言う未来を想像させる言葉は選ばない。
「けどそれは多分違う。そんな事実はないからな。だから未来だ。そうなれば可能性は幾つかに絞られる。……未来が生まれるより前に起きた時空間事件で、今より未来の俺が狙われる問題に、未来が解決へ乗り出したと言う可能性。それから、時空間事件以外の要因で、単純にこの地球のどこかで、同じ時間に生きる人として顔を合わせた可能性……。一体どっちが現実味が────」
「もうやめてっ!」
少しだけ楽しくなりつつあった要の推理は、けれど裂けるような叫び声で遮られる。
「……そんなのは、今関係ないことだよ。話は、由緒さんを助けるためにどうするか、でしょ? あたしが言った通りもう一度会うのなら、その時にそうだったんだって一人納得しててよっ」
泣き出しそうなほどに掠れた声。俯いた未来の姿に、そこまで責めるつもりはなかったのだと今更ながらに後悔して謝る。
「…………悪い。言い過ぎた」
「………………で、例えば時空間事件が歴史に肯定されて、解決する事が定められてるならどんな方法が取れるの?」
「……さぁな。ただ結末が決まってるなら、その取った行動こそが正解って事だ。それからショッピングセンターの事も後催眠暗示で説明がつく」
無理やりに戻した話題で、元の議論にも終着点を見つける。
「『催眠暗示』で操って俺たちを襲わせる。それを逆位相で解除する。その後で特定の言動や景色をトリガーに、再び俺達を襲わせれば再現可能だ。でもそうなるとまた一つ疑問が生まれる」
「疑問?」
「……さっきも言った通り、未来が生まれるためにはその時代まで歴史が存在していなくちゃいけない。それは時空間事件の原因となる犯人が行動を起こすためにも必要な事だ。つまり予知の届かない未来がいたより未来の時間から時空間事件を起こしたのなら、そこまでの歴史も存在する事になる。この論に至れば、時空間事件を起こしたところで歴史は変えられないどころか、その時空間事件を起こすことこそ歴史改変どころか歴史再現の一部だって気付くはずだ。それに《傷持ち》は気付かなかったのかって事だ」
「…………もしかしてお兄ちゃん、《傷持ち》が歴史改変じゃなくて歴史再現をするために時空間事件を起こしてるって言いたいの?」
「どうだろうな。ただ、そうとも考えられるって話だ」
少し飛躍した考えなのは分かってる。もしかすると、それは全てを分かった上での干渉なのかもしれないと。
けれどそうならば、何故要を襲うのか。歴史再現と言うならば要を襲う理由があるはずなのだ。要を襲わなければ世界が歪む理由……。要を襲う事で守られる歴史。
時空間事件には理由がある。過去を変えたい、そのたった一つの単純な願い。けれど《傷持ち》のやっている事は歴史再現と言うには残虐すぎる。
時空間事件を起こす事自体が目的? だとしたら起こす事で何が変わるのか……。
しかし考えたところで、《傷持ち》の思惑は分からない。ならばやはり歴史再現ではなく歴史改変と言われる方が納得できる話だ。
「何にせよ、当たってるかどうかは別として、あの景色を作り出すことは可能って訳だ」
「そうだね……。けどだとしたらどうやって後催眠暗示って解くの?」
「普通の暗示と同じだと思う。掛けた本人が解くのが一番手っ取り早い方法かな」
「一番? それ以外も可能って事?」
「催眠療法ってのがあるからな。そう言う分野の人に手伝ってもらって、少しずつ解いていくって話は聞いた事があるけど。まぁ多分、今回は解かなくてもいいんじゃないか? 事故さえ起こらなければそれでいい」
もちろん今後由緒の事を守るためには後催眠暗示は解いておくべきだろう。他にどんな暗示を掛けられているか分からない。掛けた本人しか知らないのだから当然だ。
ならばやはりショッピングセンターの事も含めて《傷持ち》を捕まえる事は必要な事なのだと改めて確信する。
「…………もしお兄ちゃんの言う通りなら今考えてても仕方ない、か。《傷持ち》を捕まえれば全部解決する話。じゃあまずは由緒さんのお母さんが最初?」
「あの車を運転していたのが冬子さんであるという確証を得ないとな。もしその通りなら冬子さんの『催眠暗示』を解く。話はそれからだ」
「分かった」
時間はあるに越したことはない。休息もとったし食事と風呂も済ませて英気は養った。直ぐに行動に移すべきだ。
未来と最終確認をしあって頷くと腰を上げる。
そうして外に出れば景色は逢魔が時。朱色に染まった景色が遠くに消えつつある幻想的な風景に不気味ささえ感じながら目的地に向かって歩き出す。
もしもの時のために時間が惜しい。出来る事は早目にだ。
長く伸びた影を横目に歩を進めて、それから脳裏を過ぎった別の事に意識を向ける。
「なぁ未来」
「何?」
「後催眠暗示ってのは結局トリガーがないと発動しない暗示なんだよ。つまり俺を襲ったショッピングセンターの人たちは、俺が目の前からいなくなったらその暗示からは一時的に開放されるはずだ。そうなった場合、あそこに残るのは少しだけ記憶の飛んだ一般人だ。あの店自体を空間固定で固めたのはいいけど、それいつ解くんだ?」
「あー……えっと、後で大丈夫だよ。全部解決した後で、あたしたちに害がないタイミングで未来から来た重なってもいい誰かが解除すればいい。お兄ちゃんを目にしないと発動しない暗示なら、お兄ちゃん以外の人が解除すればそれ以上の問題は起きないはずだよ」
つまり後々彼女が辻褄を合わせてくれるということだろう。ならば余り心配する事はないか。
先ほども論をぶつけた通り、恐らくこの時空間事件自体が歴史に肯定されている。つまり解決する事まで確定なら、その解決した後で矛盾や問題を取り除けばいい。
後付の解決策だが、時間移動でその時代にいけるのだから歴史的に見れば何の不都合もないはずだ。
「……お兄ちゃんの言った通り解決する事が定められてるなら、《傷持ち》も捕まえてるはず。なら司法取引なりで餌ぶら下げて暗示を解除した後に開放するだけだよ」
「司法取引まであるのか……」
「もちろん条件は幾つかあるよ。もし歴史改変でなく歴史再現が目的なら、そもそもこれは事件とも呼べない茶番になる。そんなことに手を焼いた事実を、『Para Dogs』は表沙汰にはしたくないよね。なら内密に、《傷持ち》との交渉で終わらせるのが一番簡単で穏健な方法だよ」
そんな事を言ったら今まで未来が担当してきた時空間事件も茶番ではないかと。考えつつ未来の言葉に辟易する。
面倒臭い事後処理だ。けれどきっとそこに要は関係ないはずだから、未来や『Para Dogs』に一任するしかないのだろうけれども。
どうあろうと歴史がその通りにしか流れないのであれば、綺麗に矛盾なく解決する話だ。ならば一々細かい事に突っ込むのはもうやめようか。
そんな風に考えながら歩けば辿り着いた目的地。
隣に見える遠野の表札と見慣れた家の外観と共に、幼馴染として長年を過ごしてきた去渡の門の前に立って見上げる。
由緒はきっと、今あの部屋で一人帰りを待っていることだろう。
直ぐに帰って来なかったら過去で何かあったと思え。そう告げて過去へ向かった要達が戻ってこない事に、心配を重ねながら一人の孤独に身を委ねていると思うと、少しだけ要も寂しくなる。
もし許されるなら、今ここから入っていって、由緒に無事を知らせてやりたいと。心配をかけたと謝りたいと。
けれどそれは許されない。これより先に、彼女が危険に晒される事を知っている身からすれば、それを回避しない限り顔向けなど出来ない。
幾つもの推論を重ね、もしかすれば解決さえも既に決められた歴史だという可能性も浮かんだが、それは絶対ではない。その想像がどこかで違えば、これは歴史再現ではなく歴史改変となって、由緒の犠牲を目の前にしてしまう。
その可能性も、拭いきれない。
だからこそ、まだ謝れない。それは由緒を助けて、《傷持ち》を捕まえ……助けて、全てが円満に終わってからでないと要自信が許せない戒めだ。
元はと言えば、きっと要にこそ理由がある時空間事件。だからその原因として、巻き込んでしまった彼女には謝っても謝りきれないほどの後悔がある。
けれどしかし、今回の事で確かに分かった事も存在するのだ。
この胸に燻る、あの中学の卒業式から蟠っていた違和感と、背け続けていた自分の気持ち。
彼女の千切れそうなほどに細く頼りない、要への告白。
優柔不断な要に代わって、待つと答えてくれたその覚悟に、答えを返すために。
それをようやく見つけた要は、どうあっても自分の気持ちとして伝えるために、嫌な想像は打ち消さなくてはならない。
《傷持ち》への感謝、と言えばそれは違うと言いたいけれど。
隣の彼女がいてくれる心強さと、改めて客観視した自分と言う存在に気付けた事実に、謝っても謝りきれない思いが募る。
何のために未来に縋ってここまで来たのか。
改めてその気持ちを胸の奥に据えて行動指針にする。
その気持ちは、もう疑わない。目を逸らさない。だからこそ、俺は俺を疑わずにいられる。
「で、ここまで来たはいいけどどうするかな……。流石にチャイム鳴らして呼び出すのは矛盾が…………あ、いや、大丈夫なのか」
要が由緒の家にいる事は、結深と透目しか知らない。直ぐに過去へ飛んで、もしもの三日間の空白を誤魔化すために、由緒の家へのお泊り会と言う嘘を作り上げたのだ。
そもそも過去では何も起こすつもりはなくて、解決すれば未来の異能力で過去へ飛んだ直ぐ後に戻ってくるつもりだったのだ。そうして、何もなかったら辻褄を合わせるために本当に三日ほど、由緒の家に居させて貰うつもりだった。
しかしそうはならなかった。過去では問題が起き、戻って来るのは三日後。だからこの時間軸で言えば、この時間、由緒の家には未来も要も居ない事になっている。
だからきっと、由緒も冬子さんには要達が来た事は伝えていないはず。つまり冬子の視点で考えれば、要が外からやってくるのは別に問題ないわけだ。
後はこの接触が冬子経由で由緒に伝わらなければいい事だが、きっとそれは大丈夫。
もし伝わっていれば、三日後に帰ってきて、何かなかったかと聞いたときに彼女はその矛盾を教えてくれたはずだから。
それがなかったと言う事は、例えここで冬子を呼び出しても何の矛盾もない…………いや、矛盾どころか歴史はその通りになるはずだ。
「……よし、呼び出すぞ?」
「うん」
要の硬い声に何かを察した未来が頷く。
そうして響く呼び出し音。鳴った電子音に、けれど答えは返らない。
変わりに家の中から響く足音。
そうだ、そうなるはずなのだ。そうでなければ要の推理は当たらないから。
「くるぞ、未来……」
足音は、静かに。そうしてガチャリと言う音と共に玄関が押し開かれ────包丁を持った虚ろな瞳の冬子が姿を現す。
そう、由緒に要が来たという連絡は行かない。
なぜなら、冬子はインターホンの音に反応して後催眠暗示が発動するようにトリガーを仕込まれているから。
暗示中の事は、覚えていないはずだから。
だから彼女の記憶には、要の存在は残らない。残らないから、伝わらない。
そうして、確信する。
由緒を轢こうとしたあの赤い車の運転手は、紛れもなく彼女なのだと。




