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パラドックス・プレゼント  作者: 芝森 蛍
狡兎三窟の向こう側
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第二章

 足の裏が大地を踏み締める感覚。その確かな感触に閉じていた瞼を開ける。

 そうして目にした景色は既に見慣れたあの一室。畳の床に少し汚い壁。雅人(まさと)の過去でも、そして帰ってきてからまた直ぐにお世話になった隠れ家的なあの部屋。


「さて、ここからは時間との勝負だよ。ここには十五分しかいられないからねっ」


 そんな風に愛着すら湧くこの場所を見回しているとソプラノの未来(みく)の声を耳が捉えた。


「やる事は覚えてる?」

「もちろんっ」

「あ、弾は空間固定弾だけでいい?」

「……そうだな。何があっても辿り着く未来は決まってるし」


 改めて頭の中で筋道を立てて『スタン(ガン)』ホルスターにしまう。幾ら(かなめ)と言えど、火薬推進の鉛玉を使う気にはなれない。

 そこは越えてはならない一線だと戒めて。それから再び未来の手を取る。


「じゃあ飛ばしてくれ。あと制限で戻って来るから帰ってきたとき何かあったら頼むな」

「任せて。それじゃあ、頑張ってっ」


 再び握った手のひら。

 柔らかいその感触にけれど必要以上の感慨は抱かず瞼を閉じる。

 脳裏に描くのはあのショッピングセンター。時間は……まだ要たちが服屋で商品を見ている頃。

 そう具体的に脳裏に描けば体に掛かる重力方向が歪む。

 幾度も重ねた時間移動。その衝撃はだんだんと体が痛いと感じるほどに大きくなっていく。

 けれどそれも一瞬。僅かに堪えれば済む程度の変化だ。

 それに、この痛みなんて未来がこれまでに積み重ねてきた記憶と経験に比べれば些細なものだ。肉体的な苦痛よりも精神的なそれの方が数倍辛い。それを想像するだけ、未来に失礼な気がした。

 そうして気付けばいつの間にか辿り着いていた目的地。指定した移動先はイベントホール近くの男子トイレ。

 ここからなら歩いてでも十分に間に合うと。

 呼吸を整えて人の波の中に混じる。

 この人たちが十数分後、要たちを追いかけてくるのだと思うと少しだけ怖くなる。

 もしかすると今腕を掴まれるかも知れない……。嫌な想像が脳裏を巡っては必死に振り払う。

 そんな風に目的地へ歩いて、吹き抜けに設えられたマジックショーの舞台を横目に人目を盗んで舞台裏へ忍び込む。

 ここでやるべき事は一つ。脱出移動マジックに使う箱の内壁に未来へのメッセージを書いて貼り付けることだ。

 まずは彼女がそうしたように──そうなるように一言書き記して近くにあったテープで貼り止める。

 簡単だな事だがこれがなくては景色は動かない。未来は串刺しにされる運命だ。

 胸を打つ早鐘はスタッフにばれないかと言う心配だけ。けれど幸運にも舞台の最後の打ち合わせをしているのか、小道具の方には注意は向かなかった。

 偶然に感謝しつつ細工を終えて舞台裏を出る。

 すると遠くにこちらへやってくる過去の未来と要を見つけた。

 これから起こる喜劇にして悲劇。恐怖さえ感じたあの一幕を、彼らは味わうのだと思うと少しだけ苦しくなる。

 けれど今の要にしてみれば終わった事。起こる事が確定した事で、避けられぬ歴史だ。

 今更何を思おうとそれが何かを変えるわけではない。

 そう納得して、それから観客席に紛れて過去の自分の背中が見える位置に場所をとる。

 既に一度見たマジックだ。二度見ればあの時は分からなかった手品の種が分かるかもしれないが、それを暴いたところでこちらの優越感が少し満たされるだけ。

 未来を刺そうとした事も『催眠暗示(ヒュプノ)』に操られていただけで、別に彼個人が悪いわけではない。ただ運が悪かっただけだ。

 それから、今ここにいる観客達も……。

 流れるBGMは陽気な調べ。気にしなければ気になどならない音楽と言う媒介に少しだけ嫌気が差しながらその時を待つ。

 しばらくして始まるマジックショー。

 舞台袖から出てきた奇術師は要が一度見た演目を再び紡ぎ始める。

 林檎、赤い玉、カップ&ボール。赤い果物から始まった手品が次から次へと種類を変えて辺りを歓声に包む。

 やがて一巡するように舞台へ戻ってきた林檎を、アシスタントが持ってきた銀色のサーベルで刺し貫いてみせる。

 滴り落ちる瑞々しい果汁。照明に当てられて輝くその刀身を滑り落ちる雫に、僅かに赤い液体を幻視して視界を外した。

 分かっていても嫌な想像と言うのは拭えないのだ。

 もしかしたらあの時未来が本当に刺されていたかもしれない。その鈍色の切っ先が箱ごと彼女を刺し貫いたかもしれない。

 ありえないはずの景色を想像してはその景色を作り出そうとした《傷持ち》を恨む。

 一体何のために要を狙うのだと。そろそろその目的も暴かなければならないと遠くないはずの未来を想像しながらその瞬間を待つ。

 出てきた黒い箱。上がる子供たちの手に混じる、未来の細く白い華奢な腕。

 冗談だったはずの話が現実になって、どこか恥ずかしそうに笑うその横顔に少しだけ切なくなる。

 このまま何も起こらなければいいのに。彼女の楽しい思い出の一つになればよかったのに。

 そんな理想が少しだけ胸の奥を擽って、ようやく出番だと気持ちを落ち着ける。

 変わる音楽。緊張感を孕むそのアップテンポな曲調に嫌悪感を抱きながら刻む時はその時を無情に示す。

 舞台上で落ちる箱。それを引き金にするように要へと向く数多もの視線。恐怖と言う言葉では形容しきれないおぞましさがその身を貫いた感覚が蘇って指先が冷たく凍る。


「お兄ちゃんっ、逃げて! その人たち、『催眠暗示』に掛かってるっ!!」


 突如響いた未来の声。

 彼女の予定通りなその響きに一歩足を踏み出して過去の自分の腕を取る。

 こちらに振り返ったその瞳。異能力を発現しない日本人らしい黒い双眸に、ドッペルゲンガーを見たような違和感と嫌悪を覚えつつ走り出す。


「走れっ!」


 途端開けた視界。人の海から抜け出したその足は止まることなく前へと進む。

 これから起こる事は全て知っている。知っているからこそ、そこには何の意味もなくて少しだけ寂しくなる。

 可能な事なら未知の事象に心を躍らせていたいと。まだ見ぬ未来の事をずっと考えていたいと。

 過去を再現したところでそれは全て経験した事を別視点でなぞっているに過ぎない。そこに新しさなんて一つもない。

 つまらない事だと一人ごちる。

 そんな風に考えていると隣に並んだ過去の自分が駆けながら尋ねてくる。


「え、俺…………?」

「話は後だっ、今は走れ!」

「あ……っ未来!」

「大丈夫だ、合流できる!」


 発する言葉は過去に自分が聞いた言葉。

 同じ景色を二度体験したとて、そこには何の意味もないと。ただ機械のように受け答えをしながら走る。


「どうなってんだっ?」

「さっきのショーだ! あの中で『催眠暗示』が掛けられた!」

「っどうやって!」

「……説明するよりまず先に逃げるぞっ。話はそれからだ!」


 けれどここで同じ過去を再現しないと、今ここにいる要は存在しないのだ。

 過去の自分が同じ結末に向かえるように、そこへ至るためのヒントを幾つも織り交ぜていく。

 未来の事を明言するわけにはいかない。だがこの言葉がなければ要が感じているこの未来にして過去は存在しない。


「外はっ!?」

「駄目だっ、直ぐそこは公道だぞっ? 連れて出たら大規模な事故が起きるぞ! 罪のない人たちを危険に晒す気か?」

「じゃあどうするんだよ!?」

「どうにもならないなら俺はここにいないっ!」


 僅かな苛立ちと共に告げる。

 全て終わった後にしてみればなんと退屈な事か。

 それが全て《傷持ち》の思惑の上だと言うのだから余計遣り切れない。


「『スタン銃』……?」

「二次被害を防ぐんだよっ」


 過去の自分がそうしたように。ホルスターから取り出したそれをリノリウムの床に向けて撃つ。

 空気の破裂音と共に発射された弾は床に当たって弾けると辺りに音も温度もない衝撃波のようなものを響かせた。


「何を……」

「空間固定弾だ。勝手に外に出られて事件起こされても困るだろ。解決しても何かあったんじゃ寝覚め悪いしっ」

「優しいことだな、未来の俺はっ。それで、これからどうするんだ?」

「まずは隠れないとな。落ち着いて話も出来ないっ」


 心の中で静かに思う。

 よく見ていろと。よく覚えていろと。

 これと同じ事をお前はするのだと。

 口には出来ない思いを飲み込んだまま必死に走る。

 目的地は分かっているが、そこまでは随分遠い。なのに面倒臭い事に足を止める事も出来ない。

 相変わらず嫌がらせだけは一級品だと、《傷持ち》のやり口に辟易しながら突き進む。


「さて、こんな大舞台での狂騒劇。じっくり楽しんでもらえているかな?」

「《傷持ち》……!」


 と、そんな風に走っていると耳に雑音交じりの声を捉えた。


「地獄絵図なんて酷いことは言わないでくれよ? これはただの余興だ。捕まえたければその先を追いかけて捕まえて見せればいい。勝負といこうじゃないかっ」

「ふざけるなっ……!」


 これまで嫌になるほど聞いた変声機を通したノイズ声。耳に痛いその判別のつかない声に胸の内を悪戯に擽られる。

 そんなに人を困らせるのが好きなのならば、それを大義名分振り翳した義賊のように使えばいいではないかとどうでも良い事を考える。


「俺が君を捕まえるのが先か、君が俺を捕まえるのが先か……。ならば舞台も整えないとなっ。雰囲気は大事だ、そうだろう?」


 隣の要が拳を握る気配。

 そう、その気持ちこそが今の要を突き動かす。全ての理由が《傷持ち》にあると押し付けてその悪事を清算させようと足を動かす。

 ノイズ交じりの音に先ほども聴いた音楽が重なって静かに感情が猛る。

 気に食わないのは、そのBGMが今だけはこちらの闘争心まで掻き立ててくれる事。


「単純明快、直截簡明(ちょくせつかんめい)。何よりも分かりやすい解だ。さあもう始まっているぞ? 知恵と地力と君の全てを賭けてその未来を変えて見せてくれっ! ショータイムの始まりだっ!」


 叩きつけられた挑戦状に小さく笑う。

 法螺を吹くフルフェイスヘルメットのその奥。顔の分からないその誰かを追いかけて必死に手を伸ばす。

 既に近いところまで来ているはずだ。

 『催眠暗示』の手品も割れた。こうして物量作戦にも出てきた。

 きっと残りそこまで多くない手管。全て凌いですり抜けて、その仮面の奥の素顔を暴いてやると意思を燃やす。

 それから幾つかの言葉を過去の自分と交わして、既に経験した新しい記憶の通りに目的地へと疾駆する。

 増えた追っ手の数はただそれだけの脅威で面倒臭いだけだ。それが『催眠暗示』の限界なのかは分からないが、随分とのろまな動き。まるで走らないゾンビ映画の如くゆっくりと伸びて来る腕は簡単に手で払い除けられる。

 想像ではあるが、『催眠暗示』と言うのは複数人に掛けられる異能力だ。だからその効果を分散させるほどに個への強制力や暗示は薄くなっていくのだろう。対して、個人に掛ける『催眠暗示』には強く深い、より複雑な命令が可能になるはずだ。

 例えばそれをあるタイミングで時限式に発動させるとか……。

 脳裏を掠めるそんな想像が、頭のどこかで似通った知識を求める。そんな話、前に何かで目にした覚えがあるが……。あれはテレビだったか、本だったか、それともネット上の真偽不明な殴り書きだったか…………。

 曖昧な情報は、けれど確固とした形になる前に目の前に次の目的を突きつけた。

 過去の自分が先導されてきたように、今回は先を走ったその辿り着いた先は放送室。

 どうにか人二人が横に並べる程度の細い通路の向こう側。視界の先からやってくる未来の姿に少しだけ安心する。

 個人的に、男二人の逃避行より華があった方がやる気が出るだろう。純粋な男として。

 肩で息をする未来と合流して放送室の中へと転がり込む。

 もちろんだがそこに《傷持ち》の姿はない。分かりきっていた事だが変わらない歴史に少しだけ悔しくなる。


「落ち着いたか?」

「ん、……うん。大丈夫……」


 浅い呼吸で会話を成そうとする過去の二人を尻目に要は一人放送機器と格闘を始める。

 メモリのついた複数の稼動部を見渡して、その中から音量と書かれた半分ほどまで上がっている突起をゼロにまで下げるとイコライザーの表示が小さくなってきた。

 どうやら当たりだったらしい。親切に色々書いてある盤上を見渡してまた一つ安心すると横のオーディオ機器からCDを取り出した。


「あのマジックの箱の中にね、張り紙があったの。《傷持ち》が『催眠暗示』を掛けにくるって」

「………………なるほど、お前の──俺の差し金か」


 と、丁度後ろで話をしていた二人の視線がこちらへ向く。

 だからこっちを見るなと。目が合うだけで気持ちが悪くなりつつ、逃げの口上を口にする。


「口は災いの元だ。俺だってまだ慣れてる訳じゃない。いらない事を言って歴史に干渉しても仕方ないだろ?」


 それから見せ付けるように振ったCD。これが記憶にあるからこそ、この後彼は今の俺と同じ歴史を辿るのだと。

 今更ながらによく仕組まれた経験だったと感心しながら質問に明確な答えは返さず足を出す。


「それは……?」

「直ぐに分かるさ。考える事をやめるなよ? それじゃあ俺は急いでるから」

「あ、おいっ」

「何処に行くの? それより、どうやってここまで……」

「未来の俺をよろしく」


 引き止めるような未来の声に、最後のヒントを残して部屋を出る。

 細い通路の向こう側、こちらへやってくる数人の『催眠暗示』に掛かった人の姿を見つけて叫ぶように告げる。


「空間固定弾でドアを閉めろ。直ぐに来るぞっ」

「待っ────」


 こちらへ手を伸ばそうとした過去の自分。今の要からしてみればそんな事よりも早く対抗策を考える事に時間を費やせと言いたいがそれはどうにか飲み込んで。

 彼を引き止めてくれた未来に心の中で感謝をしつつ半開きのドアを手で押して閉めると、その奥から小さな空気の破裂音が聞こえた気がした。

 ……さて、ここまでで要が知る過去の再現完了だ。CDも手に入った、二人はこれから《傷持ち》や『催眠暗示』について再考の時。

 後はここから元に戻るだけだが……。


「制限抵触しても空間固定されてると駄目なんだっけか……」


 ここへ来る前に未来へ取った確認を思い出しつつ再びリノリウムの床へと空間固定弾を撃ち放つ。

 空間固定の解除方法は一度見たから知っている。恐らくこれでいいはずだ。

 後は元来た時間に戻るだけ……。

 制限の抵触。それに付随する感覚器官の一時的不調。

 一体何処が持っていかれるのだろうかと、そこから先を知らない要からしてみれば一番大きな不安要素だ。

 一つ息を飲んで。それから意を決すると手に持った『スタン銃』をこちらへゆっくり歩いてくる一般客へ向ける。

 さぁ、戻ろうっ。

 意図しない歴史的干渉。現代人への危害を加えるという未来の異能力、制限⑤に抵触する。

 刹那、絞ろうとしたトリガーが、けれど指を掛けた途端、それを引くより先に体に異変が生じる。

 指先一つでさえ動かなくなった感覚。視界から色が薄れてモノクロの世界へと変わっていく。

 そう言えば目を開けたまま制限抵触をするのはこれが初めてかと。

 考えていると白黒になった世界に亀裂が入る。縦一閃、鏡が割れたように右と左で景色がずれる。加えて横一線。十文字に入った世界の崩壊は、やがて折り重なるように数多もの音と共に視界を引き裂いていく。

 まるでこの体が賽の目状に切り刻まれているような感覚を味わいながら細切れになっていく景色が、やがてシャッフルされたルービックキューブが元に戻っていくようにその皹が巻き戻り景色を再構成して縫い合わせる。

 気付けば見慣れた部屋の風景。

 はっとして辺りを見渡せば、そこはあの畳の一室へと変わっていた。

 どうやら無事戻ってこられたらしい。そんな事を考えて、それから視界に不調がないことに気付く。

 失った感覚は視覚ではなさそうだ。

 では一体どこだろうかと少しだけ考えて俯いたその肩、背後から叩かれた感触に振り返れば未来の姿を見つけた。


「あぁ、えっと、ただいま……」

「……………………」

「え……?」


 そこでふと、景色が歪む。

 どこか安心したように口を開閉する未来。けれどそこから発せられるはずの声と言う音が────聞こえない。

 思わず耳に手を当てて確かめる。

 手と耳にはたしかにその感触。耳があるという事実は確認する。けれどそこに音が伴わない。

 軽く叩いてみても、耳朶を弾いていても……音と言う音が聞こえない。

 そんな要の姿に、首を傾げてじっとこちらを見つめた未来が、やがて何かに気付いたように腰に付けたポーチから何かを取り出した。

 見れば小さな手のひらサイズの箱。

 視界を上げて、けれどそれどころではないと抗議しようとした中で、未来が何事かを呟く。

 しかしながらやはり聞こえない。

 やがて困ったように眉根を寄せた彼女は、それから紙とペンを取り出すとそこへ何かを書いて示す。

 聞こえないのなら文字で、と言うのは簡単な意思の疎通方法だと。突き出されたその綺麗な筆跡を読んで理解する。


『これ付けて』


 同時再び差し出された先ほどの箱。

 そこまできて、ようやく未来の持つそれが聴覚の補助機具なのだと思い出す。

 箱を開けて取り出した中身は薄く透明なコンタクトレンズ。そういえばそんなものだったと考えつつ、指先に持ったそれを恐々と目に嵌める。

 要は別に視力が弱いわけではない。だから眼鏡もコンタクトもしていない。

 小学生の頃、遊びで友人の眼鏡をかけた事はあったが、それ以降特に世話になるほど目が悪くなった事はなかったのだ。別に何か特別なことをしているつもりはないのだが……。体質か何かだろうか?

 思いつつ、記憶を頼りに瞼の奥へと異物を入れる。そう考えると怖い事この上ないと、それからようやくつける事のできたそれに少し安堵する。


『……これで理解できるかな?』

「え、あ……うん。音は聞こえないけど、言葉は」

『そっか、よかった。声は想像で補ってね。いわゆる読唇術みたいなものだから』


 『読唇コンタクト』。確かそんな名前だったと思い出しつつ、声の聞こえないのに言葉が理解できると言う不思議体験に少しだけ楽しさを見出す。こんなところで違和感を人並み外れた楽しさに感じてしまうから要は要なのだろうと。


『どうでもいいけど口開きっぱなしだったよ?』

「……なにが?」

『それ付けてる間っ。ちょっと間抜けだった』


 言って笑う未来。それは仕方のないだろう。初めて付けたのだ。目薬だって刺した事もない。無意識なのだから話題に出さないで欲しい。

 肩を揺らす未来の姿に、ようやく頭が追いついて声が脳内再生されてくる。

 ソプラノの、可愛らしい鈴の音のような、けれど芯の通った声音。

 彼女と初めて会った時の事を少しだけ思い出しつつ、それから話を戻す。


「取りあえずっ、過去は再現して来た。ほら、CDもここに」

「ん、お疲れ様。耳が持っていかれたのはちょっと残念だったけど……半日もすれば元に戻るから」

「けど休んでる暇はないだろ? ここだって後何分残ってるか……」


 言葉にして気付く。

 そうだ、ここはあの十五分の空白。タイムリミットはたったそれだけだ。無駄な時間を使っている余裕はない。


「それじゃあ早速で悪いけど行こうか。えっとお兄ちゃんの部屋、でいいんだよね?」

「……そうだな。まずはノートパソコンを持って……それから楽の病室だ」


 要が《傷持ち》に始めての襲撃を受けた後。未来の異能力で家に戻る際の、空白の時間だ。

 その十五分の間、要と未来はこの世界に存在しない……はずだった。

 けれどこうして今存在できている。そうする理由がある。しないといけない事がある。

 要や未来にとっては何もなかったはずの超越した時間。けれど楽や由緒にとっては普通に過ごした十五分だ。

 そんな事を考えて、それからふと思う。

 由緒(ゆお)。この時間の彼女は……きっとまだ《傷持ち》に誘拐される前だ。だから何も知らない……こちらへ巻き込む前の純粋な幼馴染。

 病院へ向かえば彼女と鉢合わせするかもしれない。

 そうなったとき、要は平常心でいられるだろうかと。

 しかしそう考えた先の想像で、要はいつも通りな気がした。

 だってこれは既に終わった過去だから。決められた歴史だから。

 今更何かをしようと変えられない。ただそうなるものだと納得するほかないのだと。

 いつも通りに諦めて、それから未来に手を差し出す。


「頼む」


 不必要な言葉は時間の無駄だ。手を取って握り返した未来は静かに頷く。

 後どれ程残されているか分からない時間。急ぐに越した事はない。

 考えて、それから閉じた視界。瞼の裏に描く自室に色が着いた途端、体が上へ引っ張られる。

 そこでふと、先ほどまで感じていた重力方向の変化に比べて、掛かる衝撃が小さい事に気がついた。

 何故だろうか……と考えて、けれど直ぐに至る。

 今の要は現代人だ。制限に抵触して戻ってきたのだから誰の異能力の影響下にもいない。つまり積み重なった時間移動の歪みは制限の抵触によって修正され、リセットされる。

 そして再び時間移動の付加が一から加算されるのだと。

 となれば未来は相当な加重ではなかろうか。

 彼女は未だ現役の時間移動者だ。つまりその体には時空間を跨ぐ歪みが幾重にも蓄積されている。一瞬とは言え感じる重力衝撃は要の数倍だ。……と考えたところで思い出す。雅人の件で由緒の制限に抵触したのだったと。とすればあの時にリセットされているのか。

 頭の中で結論を反転、それから辿り着いた先の見慣れた自室で未来に問う。


「……大丈夫か? 連続しての移動だろ?」

「大丈夫っ。怖いのは知らない歴史ってことだけ」


 言ってどこか辛そうに笑う未来。

 彼女にしてみれば時空間移動と言うのは知らない場所へ行くと言う場合が多いはずだ。積み重ねれば精神が磨耗して要らぬ事を考え苦労を増やす。

 出来る限り最小限で済ませなければ……。

 また一つ未来へ掛ける迷惑の課題を増やしつつ机の上のノートパソコンを回収する。

 これで歴史の通りだ。

 この後帰ってくる過去の要が、未来から未来人である事を明かされる。その後部屋に入ったときに、気付かないほどの違和感に苛まれる。

 全て分かった後で考えれば別になんて事のない当たり前の事だ。矛盾なんて存在しない。


「……よしっ、次。直ぐいけるか?」

「…………うんっ、いけるよ」

「無理するなよ?」

「もうここまできたらある程度無理しないとどうにもならないよっ」


 長い息と共に瞳を閉じる彼女。

 辛い役目だろうと、想像するだけ彼女に失礼な気がして、ならばと要は盲目に未来を夢見る。

 これ以上彼女に頼ってばかり入られない。ようやく《傷持ち》への対抗手段を見つけたのだ。ここからは最短最速で追い詰める──

 もう何度目か分からない時間移動。

 瞼の裏に描くのは(らく)の入院する病院だ。

 重力方向の変化。少しだけ身構えれば、地球上にいれば誰もが無意識に感じている上から下への衝撃。

 そう言えば力の大きさだけで、重力方向が変わらなかったのは初めてかもしれないと、どうでも良い事を考えながら楽の元へと向かう。

 と、ふと脳裏を過ぎったのは由緒。

 彼女は今楽の病室にいるはずだ。別に鉢合わせをして悪い事はないはずだが、今要は親に呼び出されて未来と二人家に向かっている事になっている。顔を見せるには何か理由が必要だが……。

 考えて、それから目的の階まで辿りついたところで未来に肩を叩かれた。

 何事かと顔を向ければ彼女は告げる。


「由緒さんの事は任せて。あたしが連れ出すから」

「……分かった」


 あぁ、そうか。読唇コンタクトは、相手の口元を見ないと翻訳が出来ないのか。

 だから一々顔を向けさせる必要があるのだと。ならば壁越しには何の意味も持たないのだと気付いて、やはりその不便さに少し歯噛みする。

 感覚の失調を補助する道具とて完璧ではないのだ。そこに使い勝手の悪さが出るのは仕方のないこと。未来で作られた道具だからといって、万能なわけではないのだ。

 だったら要も注意はしよう。話をするときは面と向き合ってから。視線を外したままではこちらからの一方通行だ。

 これ以上、彼女に負担はかけたくない。

 たった一つの決断が齎す幾つもの課題に面倒臭くなりつつ。けれどそれさえも受け入れる。


「ここで待ってて」


 病室より少し離れた場所で未来に止められるそれからしばらくして、病室に入っていった未来が由緒と一緒に廊下へと出てきた。

 幼馴染の、その後姿。

 これから彼女の身に降りかかる災厄を少しだけ想像してかぶりを振る。

 何を思っても仕方ない。今の要には、何も出来ないのだ。

 胸の奥に渦巻く遣り切れなさ。それをどうにか飲み込んで病室の扉を叩く。

 思わず聞こえないはずの能天気な声が脳裏を掠めて小さく笑う。頭の中の彼はどんなときでも軽薄で愉快だと。それから取り戻したいつも通りで中へと入る。

 顔を突き合わせて、どこか驚いた風な楽に、何かを聞かれる前に用意していた言葉を返す。


「さっき外に出たときに母さんに持って来てって頼んでおいたんだ。取りあえずノートだけな」

「おうっ、びっくりした。サンキューなっ、要」


 そんな事実は何処にもないけれど。外に出ていたのは時間軸的に正しい筈だ。

 色々な話をして、空気が重く感じたから病院の周りを未来と散歩して、そこで《傷持ち》に襲撃された。その後で、結深に危険が及ぶかもしれないと考えたから未来の時間移動で家へ戻った。

 けれど《傷持ち》に襲撃を受けていた事を、楽は知らない。教えていないのだから知るはずがない。これ以上彼をこちら側へ巻き込むのはごめんだ。

 知らないのだから、どう嘘を吐いたってバレはしない。彼にとってその時間の要たちは、散歩をして家に電話をしてそれから一度家に戻った。ただそれだけの事だ。


「後暇なら一つ頼み事してもいいか?」

「何?」

「このCDに入ってる音楽の逆位相、だっけ? その音源作って欲しいんだけど」

「いいけど何に使うんだ?」

「えっ? あ、それは…………」


 聞き返されて戸惑う。失敗した。そこまで考えてなかった。何か言い訳を……。


「ま、いいけどよ。イヤホンとかは?」


 けれどそれに答えるより先に、理由を聞かず引き受けてくれる楽。彼の人の話を聞かないいつもなら迷惑な部分に、今だけは感謝。


「あ、ない」

「ならソフトでどうにかする。ここだと迷惑で音出せないから完璧な逆位相じゃなくても文句言うなよ?」

「あぁ、頼む」


 言いつつ、ノートパソコンを立ち上げた楽は、カーソルをデスクトップ上のフォルダに──


「おまっ、何して!?」

「いや、暇潰しになる面白いもの入ってるかと思って」

「ないからっ」

「あるならパスつけとけよー」


 肩を揺らして意地悪に笑う楽。けれど直ぐに顔を顰めたその仕草に、心配になる。


「体調悪いなら無理するなよ?」

「わーってる。でもま、要からの音楽的な依頼だからな。実のところそこまで興味ないのかと思ってた」

「そんな事はないけど。ただ流行を追いかけるのが面倒なだけだ」

「新しいものには新しものなりの感性が宿るんだよ。要はもう少し流行に興味を持てって」

「気が向いたらな」


 交わす言葉にどこか懐かしさを覚えながら小さく笑う。

 楽は被害者だが意図して巻き込んだわけではない。要にとって彼は日常の最後の砦だ。

 だから彼の隣にいるときだけは、要も要らしく人間らしく笑っていられる。

 そんな事を考えて、ポケットから黒いUSBメモリを取り出した。


「出来たやつはこれに入れといてくれ。また見舞いに来たときに渡してくれればいいから」

「あいよー。で、時間大丈夫か? 家に帰るんだろ?」

「ん、そうだな。んじゃ直ぐ戻って来るから、由緒の事よろしく」

「そんなに大切なら早くお前が守ってやれよ」


 画面に顔を向けたままそう零す楽に、返事も返せないまま病室を出る。

 悪いな、どうにも俺には甲斐性がない。由緒の事は大切なのに、彼女の気持ちを背負い込むだけの覚悟がない。

 今だってようやく見つけた可能性に縋って、事故に遭うかもしれない由緒を助けるために奔走している。

 本当なら、その事故さえ未然に防げればどれ程良い事か。

 悔いたところで、けれど変わりはしない現実に歯噛みする。


「お兄ちゃん、終わった?」

「あぁ……」


 きっとこれで辻褄が合う。

 要の部屋からノートパソコンが消えた理由。それが病室にある事に、未来が気付く理由。そしてその後、彼女が楽からUSBメモリを受け取る理由。要が楽にしたという、お願いの真実。

 全てはこの瞬間に仕組まれた景色だ。

 先ほどUSBメモリを取り出した方とは逆のポケットからもう一つの黒いそれを取り出す。


「……それ」

「未来が楽から受け取ったやつだ。中に、あのCDの逆位相が入ってる」

「そっか、ならそれを使えば…………」

「あぁ、あのショッピングセンターの混乱を抑えられるはずだ」


 音楽の『催眠暗示』を逆位相の波長が中和をするのなら、これで解決するはずだ。

 つまり廃ビルで《傷持ち》と戦ったあの後に、要は既にその解決策を手に入れていたということだ。

 もちろん知らなかった事。こうしてそうなるように辻褄を合わせたから、中を確認しなくともそこに何が入っているかを知る事が出来る。

 結果論とは言え、もっと早くにそれに気付いていればと。ありえない歴史を脳裏に描いてUSBを握りこむ。


「未来、まだここにいられるか?」

「……えっと、後五分くらいなら…………」

「なら少し、我が儘聞いてくれないか?」

「……いいよ。どうせ戻る時間はこっちで決められるわけだし」

「ありがと」


 優しく微笑む未来には、きっと要の考えなんてお見通しなのだろう。

 振り翳す理由と言うのならば、病室に《傷持ち》が来ないように見張ると胸を張ればいい。

 そんな大義名分を振り翳して、待合ホールの一角に腰を下ろす。


「……由緒は?」

「聞いて後悔しないなら教えてあげる」

「何言って連れ出したんだよっ」


 大方要に対する悪口でも叩き合っていたのだろうと。変な事を吹き込んでいなければいいと思いつつ、今を見つめ直して小さく零していく。


「…………ずっと、何を理由に追いかけてたのか分からなかったんだ」

「理由?」

「《傷持ち》をな。ただ俺が襲われたからって、俺はその理由すら分かってなくて、だったら何のために《傷持ち》を追いかけてるんだろうと思って」

「……あたしへの協力、とか?」


 優しく解きほぐす様に会話の道標に幾つものヒントを灯してくれる。

 随分と聞き上手な事だと段々と楽になっていく心でその奥に手を伸ばす。


「それは方便だ。そう言わないと、未来についていけないからな」


 今更ながらに白状する。

 どれ程胸を張ってそう言ったとて、それは要の本心ではない。要の胸の奥にある衝動は、もっと個人的な理由だ。


「でも違う。未来の傍にいたいのは本当だけど、《傷持ち》を追いかけるのは、別の理由だ……」

「誰……?」


 誰、と聞く辺り彼女も気付いている。いや、きっと最初から、気付いていた。要がそれに嘘を吐き続けている事を黙認していた。

 けれどもう嘘を吐けない。別の理由で上塗りするほど、彼女から意味を逸らす事ができない。


「由緒だ」


 最初は()し崩しだった決意だ。《傷持ち》に狙われて、何も分からないうちから振り回されて、巻き込まれて。

 そこに非日常のにおいを嗅ぎ取ったから要はこうして首を突っ込んだ。

 けれど途中から、その行動原理は意味を摩り替えた。

 最初の憤りは由緒が誘拐されたときだった。もっと気を配っていれば起こらなかったはずの景色。あの時、何か別の方法を取っていればよかったのだと今更ながらに悔いながら。

 《傷持ち》が由緒に手を出した事に、要は知らず激昂していたのだ。


「由緒は、本来なら関係なかったはずなんだ。俺が狙われてるんだから、由緒に飛び火するのは間違いなんだよ」


 それを捻じ曲げて、人質として由緒を巻き込んだ《傷持ち》に怒っていた。否、由緒が巻き込まれる状況を作ってしまった自分に怒っていた。


「今更そんな事言ったって変わらないのは分かってる。けどそれで納得できるほど、俺は────」

「由緒さんの事が本気で好きなんだね」


 言葉にされて、逃げられなくなる。

 これまで背け続けてきた気持ちに嘘が吐けなくなる。

 既に答えなんて出ていたのに。それを言葉にして認める事が許せなかった。

 要にはそんな資格なんてない。ただ幼馴染で、少し長く同じ時を過ごしただけの、特に秀でた事も持たない、人間らしくないそんな男に。彼女が惚れた理由が分からない。

 だからそれを見つけられるまで──要自信が納得できるまで、答えを保留にしてきた。

 彼女を待たせている事を知っていながら、その焦燥感に苛まれながら一人悩んできた。

 この気持ちを、贅沢な一人よがりだと言うならそれでも構わない。ただ要にとって、どこか歪んだ世界で、唯一真剣に向き合わなければならない問題だったのだ。

 けれどもうそんな理由さえ程遠いほど。募った感情だけが盲目に彼女の事を好きだと叫んでいるのだ。

 そこに理由なんてない事を、認めたくなかっただけなのだ。

 ゆっくりと顔を上げて未来と視線が混じる。

 そうしてようやく、要の中の違和感が形を持った。

 未来に感じていたそれは──憧れだ。夢のような、希望のような……未来を知っているだろう彼女に抱く、強い願望。

 それは決して、恋心なんかではない。そんなのは由緒に失礼だ。


「……だから、嫌だったんだよ。償わせたかったんだ。《傷持ち》を捕まえて──俺が償いたかったんだ」


 危険な目に合わせて悪かったと。今まで答えを返さなくて悪かったと。

 その言い訳に、したかったのだ。


「……どこかで気付いてるんだよ。未来はきっと、未来の俺に関係する誰かなんだって。その未来には由緒もいて、その景色があるから、この事件も綺麗さっぱり解決するんだって。でもそれが分かったからって、理由を丸投げして考える事を放棄して、事件だけ解決しても俺は駄目なんだよっ」


 例えそうだとしても、結末が決まっていたとしても。要にはその仮定こそが必要なのだ。

 どうやってその景色を手に入れたのか。そこに納得するだけの理由はあるのか。

 それが《傷持ち》にある気がして、未来を利用してまで追いかけていた。


「《傷持ち》を追いかけてるのは理由に過ぎない。俺が今してる後悔を拭うための手段に過ぎない。本当に必要なのは由緒なんだ。そいつが今、危険に晒されてる」


 要が今ここにいる理由を思い出す。

 彼女の家の前で、車に轢かれそうになった由緒。

 その彼女を助けるべく、要は今ここにいるのだ。


「由緒を助けて《傷持ち》を捕まえる。……由緒を助けるために《傷持ち》を捕まえる。それが《傷持ち》を追いかける俺の本当の理由だ」


 だからもう嘘は吐かない。振り回す理由も要らない。

 要はこの非日常を謳歌して、誰よりも大切な由緒のために未来と共に歩むのだ。


「……悪い。愚痴に付き合わせたな」

「気持ちの整理ができたならそれでいいよ。さて、そろそろ時間だね。戻ろうか」


 腕時計を確認して、それから差し出された手のひらを見つめれば脳裏に過ぎるものが。


「あ、制限⑩は大丈夫なのか?」


 それは未来の異能力の制限⑩。強制送還された時間には24時間経たないと移動できない。


「え? ……あぁ、大丈夫。今回に限っては特例が効くから」

「……特例?」

「同じ時間に移動ってのは入れ替わりに移動するって事。つまり強制送還の直後に移動しようとすると24時間は発動しないの。けど今回は違う。お兄ちゃんの強制送還の後、あたし達はあの放送室に残って少し話し合った。その後ここに来て逆位相を頼んだ。つまりお兄ちゃんの強制送還とあたし達がこれからあの放送室に戻る間には、あの時間にいたあたし達がいなくなるための時間移動が挟まれる事になる。だから直後って扱いにはならないの」

「なるほど。と言うかそうならそうと先に注釈が欲しいな」

「あの念写紙は事実しか映さないから、抜け道までは教えてくれないんだよ」


 つまり強制送還の後、間に当人が関わった他の時間移動が挟まればリセットされるという事だ。後から掛けられた異能力の制限に前のものが上書きされるのと同じ理屈。制限の後、普通の移動で上書きされ、前の制限がなかった事になるわけだ。

 未来がそこまで考えていたのかと言われるとこれまでの行いを鑑みるに頷き難いが、まぁ今回はそれでどうにかなるのだ。目を瞑るとしよう。そうする未来がわかっていることなら有効利用は可能だろうが、普通はそんな事ないわけで狙って出来ることではない。ならばやはり今回のは偶然かと。

 納得して、それから彼女の手のひらを握り返すと瞼を閉じる。

 これももう日常になりかけていると、あまり心の躍らない事務的な感触を追いかけつつ描くショッピングセンターの放送室。

 重力方向の変化も左から右へ。

 一瞬の衝撃もやり過ごして足の裏に感じた感触に目を開ける。

 帰ってきた一室に少しだけ安堵しつつ、それからふと脳裏を過ぎった疑問をぶつける。


「そう言えばさっき時間確認してたけど一々飛んだ先で合わせてるのか?」

「ん、あ、いや。これは特別製。自動的にその時代の日時を算出してくれるんだ」

「便利だな」

「だね。ある人のアイデアで出来た道具なんだけどね」

「未来の知ってる人?」

「……そうだね」


 僅かな間。その瞬間にどこか嬉しそうに遠くを見据えた瞳に彼女は何を想像したのだろうか。


「って、そんな事はいいんだよっ。ほら無駄話は後。まずはそれ」

「そうだな」


 要の視線に気付いた未来が、どこか恥ずかしがるように話題を戻す。

 もしかして髪飾りの人物だろうか? 彼女にとって余程大切な人らしい。

 考えつつ、放送機器に向き直ってUSBを差し込み、少し操作して中の音楽を流す。


「……あれ、音量上がってる?」


 しばらくして未来が尋ねて来る。

 今要は音が聞こえていない。だから音楽が流れているかどうかも判別できない。だからその気になっていても確認する事はできないのだ。

 未来に言われてすぐに音量のメモリがゼロまで下がっている事に気がつく。ゆっくりとつまみを上げて未来に確認を取れば彼女も一つ頷いてくれた。

 逆位相の音といっても人の耳にはそう違っては聞こえないらしい。簡単に言えば逆の波長をぶつけて中和する技術だ。けれど逆再生だとか、違和感のあるほど歪んだ音と言うわけではない。普通に聞けば殆ど差異のない音楽だ。

 マジックショーで使われた盛り上がりを影から支えるBGM。きっと気分が高揚する旋律だが、今の要にはそれを聞き比べる事はできない。

 何より、その音楽で一度頭を悩ませた身としてはあまり聞きたくない音楽だ。


「……これであの音楽の『催眠暗示』は解けたって事でいいんだよな」

「だね。でも問題が一つ」

「何?」

「由緒さんが分からないよ」

「…………そうか」


 目下最大の目的を思い出して唸る。

 由緒はこの時間軸だと未来人だ。それに家から出ていないはず。『催眠暗示』に掛かりようがない。

 

「あの時の由緒さんは普通じゃなかった。ありえない行動だよ、車道に出て立ち尽くすなんて」

「普通に考えれば『催眠暗示』の影響下……。けどそれは成り得ない…………。何かトリックがあるってことか?」

「幾ら人を操れる『催眠暗示』であっても異能力であることには変わりないし、だったら制限がある」

「……現代人にしか掛けられない。一度しか掛からない。最初に掛けたものが優先される……なら由緒を誘拐したときに『催眠暗示』は使ってるはずだ」

「だからこそ分からないの。どうして由緒さんがあんな風になってたのか……」


 そうして考え込む。

 普通に考えればありえない話だ。一度『催眠暗示』に掛かった由緒が二度目の『催眠暗示』に掛かる。

 それを可能にする《傷持ち》の異能力? いや、制限に矛盾があってはいけないはずだ。

 となれば可能性は──


「……例えば、『催眠暗示』って時間差で効果を発揮したりってのは可能か?」

「無理だよ。それはできない。もし出来たとしても、一回の『催眠暗示』で二つ以上の暗示を掛ける事はできないっ」

「二人で矛盾しない『催眠暗示』を同じ人物に掛ける事は可能だよな?」

「そ、うだけど……。けどそれだと『催眠暗示』を持ってる人が二人必要になる。もちろんその可能性だって否定しきれないけど…………。それにやっぱり、その方法だと時間差で発動する事に…………あ、いや、できるかも……」


 途中までそう語った未来が、考えるような間を開けて呟く。


「トリガーをうまく使えば」

「トリガー?」

「えっと、『催眠暗示』ってのは暗示だから、潜在意識に刷り込みをする事になるの。その内容に例えば、ある景色を見たり特定の言葉を聞いてその命令が発動するように『催眠暗示』を掛ける事は可能だよ。ただやっぱりそれだと誘拐のときと、あの部屋とで二回……二人の『催眠暗示』能力保持者が必要だけど」

「……でもそれだと《傷持ち》は完璧にこの時代の事を把握してる事にならないか?」


 疑問を突きつけて続ける。


「《傷持ち》は馬鹿みたいなこと言ってたけど、例え俺の事を知っててもそれで由緒の事を知ってる事には繋がらない。言葉をトリガーにするのだって、その言葉を誰かが発して、それを由緒が聞くって言う状況が必要になる。時間差にするならそれは未来に発動する暗示だ。なら未来で起こる事を知ってないとその細工は不可能だっ」

「……時間移動があるんだから不可能って話じゃないと思うけど。でも多分、その可能性はないよ」

「どうしてだ?」

「《傷持ち》だから」


 きっぱりと言い切って、当たり前の事を語る。


「相手は《傷持ち》だよ。右手首の甲の側に傷を持った人物……。あたしが今までぶつかってきた《傷持ち》には、その傷がちゃんとあった。流石にそれだけのために同じ傷を付けるってのは考え辛いよ」

「あれが《傷持ち》が一人である理由、か……。で、一人なら暗示は一回だけ…………」


 今更ながらにその安直なネーミングセンスに助けられる。たったこれだけの事で可能性を潰せるのだから偶然に感謝だ。


「それに『催眠暗示』持ちを二人揃えるってだけでも大変だよ。その上志を同じにして行動するなんて……現実的じゃない」

「そうだな。《傷持ち》は一人、か……」


 改めて納得して絞り込む。

 ならばどうやって由緒に『催眠暗示』を──『催眠暗示』のような暗示を掛ける。

 制限と言う名の原則を覆す事はできないはずだが……。


「……一つ。これは《傷持ち》とは少し違うかもだけど」

「何だ?」

「由緒さんを助ける手がかりはこの時代にある。これは確かだよ」


 確信を持って告げる未来。その瞳は揺らがない。


「どうしてそう言い切れるんだ?」

「そうヒントを貰ったからだよ」

「誰に……?」

「…………言えない。けどあたしが信頼できる人から」

「もしかして俺か?」


 不意に頭に浮かんだ可能性。天啓のような閃きを言葉にすれば未来は驚いたように肩を揺らした。


「あ、言わなくていい。その反応で分かった」

「……そういうのやめてよ。あたしだって隠し事そこまで上手じゃないんだから」

「悪かった。ちょっと思いついただけだったんだ。まさか当たるとは思わなかった」


 頭の回転は速い方だがそうやって誘導尋問するような技術は要にはない。今のはただの偶然だ。

 けれどしかし、そうだと言うのなら未来の要の助言だ。いつそうしたのかは分からないが、それはきっと信じるに値する言葉。

 未来の自分なのだから、特に由緒の事で過去の要が不利益を被るような事を言ったりはしないはずだ。疑うだけ無粋だろう。


「どんな風に言ったんだ?」

「えっと……由緒さんを助けるための手がかりは三日前にある、だったかな。それを聞いたのがここへ来る前だから」

「三日前……って事は今俺たちがいるこの時間か」


 既に分かりきった事だが、《傷持ち》はこの要達のいなかった三日間に何かをした……いや、しようとしている。その結果に、きっと要を捕まえられなかったからその目標を由緒へと変えて、あの景色を引き起こさせた……。

 つまり例えこの後《傷持ち》が現れても、要たちはそれを退けるだけ、と言うことだろう。あわよくば捕まえたいが……いや、由緒のことは置き土産とも考えられるか。

 幾らここで考えを重ねたところで事実は一つしかない。その時が来れば直面するほかないのだ。


「由緒さんを助ける、と言っても方法は一つじゃないよ。あの車の方をどうにかするって言うのもある」

「車……あの赤いのは記憶違いじゃなけりゃ由緒のお母さん……冬子(とうこ)さんのだ」

「由緒さんのお母さん……? って事はそっちも『催眠暗示』かな」

「……そうか。自分の娘を轢きそうになって停まらないってことは正常じゃないもんな。けど何処で……」

「木を隠すなら森の中……その『催眠暗示』に気付かれたくなかったら」

「大規模な『催眠暗示』の中、かっ」


 けれどそれでは大丈夫なのではと気付く。

 音楽の『催眠暗示』は逆位相で中和した。それにそこに含まれる暗示は要を狙うもののはずだ。由緒に危害を加えるものではないはず……。


「でも中和はして────」

「その中和から逃げられてるとしたら?」


 可能性は、あるが……。


「でも音楽に込められた暗示は俺を狙うものだろ? 由緒を狙う理由にはならないんじゃ」

「上書きすれば別だよ」

「上書き?」


 新たな言葉に嫌な感覚を覚えながら聞き返す。


「『催眠暗示』の異能力にはその効果を発揮するまで幾つかの過程がある。簡単に言うと掌握、誘導、顕現の三つ」


 言って指を立てた未来は順に説明する。


「掌握は深層心理への干渉。暗示を刷り込む精神の空洞を作る事。誘導はその具体的な暗示のすり込み。顕現は暗示の表面化……行動に移すってこと。この三段階の内、掌握と誘導の間には少しラグみたいなのがあるの」

「……って言うと?」

「掌握をして、誘導で暗示をすり込むまでに、別の暗示を滑り込ませればそっちが優先される」

「それが上書きか……」


 暗示の上書き。綿密には上書きと言うよりはその間を利用した別の暗示のすり込みだが。確かにそれなら可能と言えば可能か。

 実際の眉唾な暗示や催眠術だって時間を掛けて段階的に準備を行う。

 それを短縮して、異能力と言う得体の知れない力で指先一つの暗示を掛けるのが『催眠暗示』。

 未来が語ったように異能力は科学で語る事が出来る。再現は出来なくとも語ることだけはできる。

 つまり要の知識でも恐らくは語れる。

 例え眉唾な部類の心理作用でもそれは立派な科学や医学だ。それに端を発するならば、未来の語る言葉は真実だ。


「お兄ちゃんを狙う『催眠暗示』のすり込みがされる前に、由緒さんを狙うようにすり込まれればそれが優先される。その上で、逆位相が流れる前にここを出たのだとしたら……」

「まだ『催眠暗示』は解けてない、か」


 少しだけ冬子の身に起こった埒外の力の正体に迫ってまた一つ前へ進む。


「だとしたら《傷持ち》はその音楽を聴いたとき冬子さんの近くにいた事になるよな」

「だね」

「でも上書きをしようと思うと近くまで行かなきゃならなくて、けど不自然に近くに居れば警戒される。だったら《傷持ち》の正体って…………」

「冬子さんの顔見知りってこと? でも背後から忍び寄ればそれでどうにかならない?」

「……そっか、気付かなかったのか。何か別の事に集中してたから…………」


 集中する別のこと。人の注目を集め、その状況下で『催眠暗示』に掛ける。その暗示に横入りして別の命令をすり込む。……その条件を満たす景色が一つだけある。


「マジックショー、だね」

「今更気付いても遅いってのっ」


 もしあの時《傷持ち》がそこに居る事を知っていて、それが経験する前の未来ならば止められたかもしれない。

 しかし既に要にしてみれば二度、再現までした過去だ。決められた歴史は変えられない。

 歯噛みして、けれど直ぐに思いつく。


「っけど、マジックのときに『催眠暗示』を受けたなら、その音楽の逆位相はこのUSBに入ってる。これを使えば……」

「解く事はできる。けど解くタイミングも重要だよ?」


 そうだ。要は既に見ている。冬子の乗る車が由緒目掛けて迫ってくる場面を。

 彼女は轢かれてはいないだろうが、そうなる寸前まではこの記憶にしっかりと残っている。


「あの歴史を曲げずに、由緒の死を回避する……。随分な無理難題だけど、出来ないわけじゃない」


 想像を現実にするためにそう言葉にする。

 超能力染みた異能力があるのだ。超常現象に今更嫌悪感なんて抱かない。神頼みと一緒に言霊も信じてやる。


「決まりだね。由緒さんを助けるために冬子さんの『催眠暗示』を解く。『催眠暗示』だって万全じゃないっ! 分かってるならその景色を再現させなければいいんだからっ」

「じゃあ行くか。そろそろここに長居するのも限界だろうしな」


 元々放送室だ。今は『催眠暗示』も解けて、ここにはいない担当者もじきに戻ってくる。そのとき要達がここへ存在していれば面倒な事になる。早くに退散するが吉だ。

 立つ鳥あとを濁さず。未来から了解を貰って逆位相の音源を止めるとUSBをポケットにしまいこんで放送室を後にする。

 店の中はショッピングセンター全体を巻き込んだ『催眠暗示』のせいで、一時的な混乱が起きていることだろう。

 巻き込まれた人には申し訳ないと心の中で謝りつつ通路を突き進む。途中、スーツ姿の女性とすれ違ったが急いでいたのか隠れた要たちには気付かずに通り過ぎていった。

 少しだけ逸った鼓動を抑えつつスタッフオンリーの扉から出て、何気ない表情で未来と二人まだ混乱が続く一般客の中へと混ざっていく。

 しばらくして流れた館内放送。内容は意図しない音楽の流れた放送事故に対するお詫び。

 音の聞こえない要に変わって、未来が口頭で説明してくれる。

 放送の話から類推する限り、どうやら『催眠暗示』に掛かる前の記憶は僅かに残っているらしい。『催眠暗示』影響下中の記憶は混濁しているのか、スピーカー越しの声色にも僅かに緊張の色が聞いて取れるようだ。

 取りあえず記憶の混乱以上の騒動にはなりそうにない事に安堵。そうしてようやく落ち着きを取り戻す。

 

「えっと、それじゃあ冬子さんのところだな。色々想像はしたけど、まずは本当に『催眠暗示』に掛かってるかどうか確認しに行かないと」

「だね」


 言って、それから景色の違和感に心の内が傾ぐ。

 音が聞こえない。特にショッピングセンターと言う場所は絶えず何かの音で溢れている場所だ。雑踏、会話、音楽。

 その殆どが目を向けなくとも勝手に耳へと届く音だ。だから聴覚を失い読唇コンタクトをつけている要には静寂の景色。

 世界から音がなくなればこんなにも冷たく感じるのかと。

 無音の中で一人孤独に立ち尽くす感覚を味わう。

 けれどそんな要の隣で、しっかりと目を見て話をしてくれる未来。その鮮やかな紅の髪が、何よりも鮮烈に輝いてて印象に刻まれる。

 まるでその他大勢がトルソーのように能面で違いが分からない中、未来だけがしっかりと神様によって作りこまれ、そこに存在しているような錯覚。

 世界に、自分と彼女しか存在していない孤独に似た何か。

 胸の内に湧き上がった焦燥にも似たその感慨に、少しだけ足を出す事を躊躇う。


「……どうしたの?」

「いや、これだけ景色は賑やかなのに、音が聞こえないのがすごい不安」


 自分の声さえも聞こえない。ただ脳裏に閃く未来の言葉の列だけが唯一の道標のように光り輝く。


「…………怖いよねそれ。あたしも一回なった事があるから分かるよ。……冷たいよね?」


 冷たい。その言葉がしっくり来る。

 まるで温度のない世界だと。

 そう考えて、けれど次の瞬間、少しだけ視界に色が戻った。

 見れば未来が要の手を握っていた。


「でもこうすればちゃんといるよ。心配ならこうしてよ?」

「……ありがと」

「妹だからね、お兄ちゃんを助けるのは何も間違ってないよっ」


 言って胸を張った未来。

 仕草に頭の横で括った兎結びの髪が僅かに跳ねる。

 それは彼女自身も求めた繋がりだろうか。

 少し前まで周り全てが敵で、追い掛け回された記憶が不意に蘇る。

 けれど今はもうそれすらも怖くない。それは直ぐそこに温度のある未来がいるからだろう──要がいるからだろう。

 繋いだ手のひらの温もりがその行動以上に意味を持つ。

 幾度も交わしてきたその感触は、しかし今だけは別の安心感を紡ぐ。

 だからこそ、欲するのだ。

 もう片方の空いた手に、彼女の温もりを取り戻すのだと。

 そのために、要は今一度決意する。

 もう迷わない。今はただ、由緒一人のために────

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