未来より
靴を持って不恰好に忍び足で廊下を進む今のあたしのお兄ちゃん。その背中を見つめながら脳裏を巡る言葉に思考を巡らせる。
それはあの過去であたしが彼の父親を突き飛ばして制限に抵触し、戻ってきた後。泣き崩れたあたしに静かに話を聞いてくれた由緒さんが気を遣って傍を離れたときに。
彼女の両親の寝室らしい場所で自分を責め、蹲っていたその背中に掛けられた言葉。
「その涙を止められたらいいのに……」
聞き馴染んだ音。記憶に刻み込まれた彼の声。
涙を拭い損ねて思わず振り返った歪んだ視界で。こちらを寂しそうに見つめるお兄ちゃんの姿に逃げたくなった。
「待って。話だけ、聞いて欲しい」
咄嗟に駆け出そうとして滑った足。受身さえ取れないほどに力の入らなかった体を、後ろから引っ張って助けてくれた彼のその温かさに、泣いても泣いても枯れない涙が泉のように溢れてきて。
どうしてと、どうすればと…………その先が言葉にならないまま、ただただ答えを我武者羅に求める子供の我が儘で泣き崩れれば、その背中を優しく摩りながら彼は呟く。
「……大丈夫。俺はちゃんと分かってるから。だから帰ってきたら話をしにいこう?」
……当たり前だ。今ここにいる彼は、きっと未来から来たお兄ちゃんだ。だから全て過去のことで、全部納得してるに決まっている。
けれどあたしにとっては現在進行形で苛む戒めだ。
彼の父親を突き飛ばし、その心に癒えない傷跡を刻み付けた張本人。
例え彼が許せたとしても、自分が自分を許せないやりきれない思い。
だから例え彼の言う通りだったとして、それを真っ直ぐに見据えるには時間が掛かりすぎると。
自分で自分を追い込みながらずっとずっとその心を追い詰めていく。
「…………もし許せないなら、分かってもらえばいい。許せないって事を、分かってもらえばいい。だって彼は、そうやって君の居場所を作ってくれたでしょ?」
彼、とは……。きっとあたしの胸にいるただ一人の拠り所のことだろうか。
だとしたら彼は彼に会っていて、彼の事を知っていて……。やっぱりあれはお兄ちゃんの未来が齎す、あたしの邂逅にして彼の再会なのだろうと。
気付けば伸ばしていた手が、兎結びにした髪留めへと届く。
「それを貰った時のこと、覚えてる?」
囁くような声にしゃくり上げながら肩を揺らして強く頷く。
これは彼から貰った思い出。彼とあたしを繋ぐ、矛盾の証。
「……だったら信じてあげて。彼と彼の事を。その出会いを、なかった事にしないで」
強く、強く、頷く。
解いた髪留めを胸の中に抱きながら何度も首肯する。
そうだ、あたしには、これがある。
過去にして未来のあの時間があるという事実を信じていられる証がある。
矛盾には成り得ない矛盾を紐解く鍵がある。
だからそう、認められなくても受け止めなければならない。
あたしの過去を再現するために、彼の未来を繋ぎ止めなければならない。
その分岐点が、今この時なのだ。
「……信じてるよ、未来」
「…………うんっ」
優しく笑った彼は、それから静かに立ち上がって最後の言葉を零す。
「それじゃあ一つ助言をしよう。俺のお願い、聞いてくれる?」
「……もちろんっ。だってあたしは、お兄ちゃんの妹だからねっ」
彼の言葉に涙を拭って笑顔を浮かべれば、少しだけ元気がでた気がした。
「あいつを……由緒を助けてくれる? その始まりは──ここから三日前にあるから」
「三日、前……?」
彼の言葉に疑問を浮かべる。
今は過去へ向かったあの時間から三日後だ。つまり彼は制限抵触によって出来上がった空白の時間に何かがあると言っているのだ。
そしてそこに、由緒さんを救う手がかりがあると。
けれどそもそも由緒さんを助けるとはどういうことだろうか? また彼女が何かの被害にあうのだろうか?
そんな疑問は、しかし言葉になる前に遮られる。
「これ以上は、聞くよりその目で確かめて。────俺は未来を信じてるから」
「っお兄…………! ……ちゃん…………」
伸ばした手のひらは、けれど届く前に彼のいた場所を通り過ぎた。
空を掻いたその得られなかった感触を、けれどそこにいたのだと言う実感を刻み込んで受け止める。
彼は、託したのだ。これから起こるその景色を。
そうある通りにしか流れない彼にとっての過去を。
あたしが知らないまだ見ぬ未来を。
だったら彼の妹として、その任された役目はしっかりと成し遂げなければいけない。
それが何よりも、彼への償いになると信じて────
「…………いこうっ」
呼吸を整えて一歩を踏み出す。その手に握り締めた髪飾りに勇気を貰いながら確かに前へと進む。
そうしていつの間にか戻ってきたいたお兄ちゃんと再会して、その空気に込められた雰囲気にまた涙が溢れてはしまったけれど。どうにか乗り越えて今この足を踏み出している。
目の前の背中はきっと未来の彼に繋がっている。
そう信じられる根拠を胸に、彼に続いてその玄関を潜り抜ける。
そうして目にした景色。降り注ぐ陽光の下、道路の真ん中で動かない由緒さんと、彼女に向かって突っ込んでくる暴走車両の姿に、つい先ほどの過去の事を重ねて二の足を踏みつつもどうにか手を伸ばす。
その手のひらにしっかりと掴んだのは、今にも由緒さんの元へ駆け寄ろうとするお兄ちゃんの腕。
彼は驚いた風に切羽詰った声で叫ぶ。
「未来、何して────」
「そっか、そういうことか…………」
彼にしてみれば目の前で起ころうとしている惨劇を引き止める悪魔の手に感じられるだろうか。
けれどあたしには確かな確証があるのだ。
この景色こそが、さっき未来のお兄ちゃんがやってきて告げた由緒さんの危機なのだと。
それを回避するための手がかりが、あたし達のいない三日の空白の時間に存在するのだと。
「お兄ちゃん」
「未来、手を離────」
「目を閉じて」
説明する間も惜しいと端的に告げる。
「目、閉じて」
「何言ってんだ! 由緒が────」
…………あぁ、駄目だ。やっぱりあたしには彼みたいに冷静には振舞えない。
「いいから言うこと聞いてっ! じゃないと由緒さん助けられないっ!!」
焦るお兄ちゃんの声にあらん限りの息を吸い込んで、今出来る最大限の声量で遮って告げる。
けれどきっとお兄ちゃんはそんなことでは怯まないのだろうと。だったら何処までも非道の仮面を被って従ってもらうだけだ。
謝る事なんて、後で幾らでもできるんだから。
気付けば考えるより先に動いていた手のひらがセイフティの掛かったままの『スタン銃』の銃口をお兄ちゃんの眼前に向けていた。
咄嗟の事に目を閉じる彼に、心の中で謝りながら異能力を行使する。
瞼の裏に思い描くのは今から三日前の、過去にも利用したあの拠点。お兄ちゃんの記憶にある景色の、時間のずれた空間。
彼がホテルなどと夢物語を想像して裏切られた、とても現実的で寂れた狭い一室。
全ての辻褄は、終わった後の未来のあたしが合わせてくれる…………。
その暴論を振り翳してかの場所へと焦点を合わせ時空間を超越する。
「由緒ぉおおおおおおおおおっ!!」
直ぐ傍にいる彼が叫んで、きっと精一杯の手を伸ばす中で、無情にもあたしはあたしのやりたいようにそうあるはずの歴史を再現する。
この三日後より、彼女を救う。
それが妹としての、あたしの今やるべき事だ。




