第五章
言葉なく歩く景色の中、辺りに気を配りつつその時をじっと待つ。
いつ《傷持ち》が現れてもいいように準備は万全。奇襲もされると分かっていれば心構えだけは出来る。気の持ちようと言うのは意外と大切なのだ。
隣を歩く未来は未だ無言を貫いて思案面。何かいい方法があればと考える事を彼女に任せて要はその覚悟を振り翳す。
父親をこの手で殺す。
事故と言う結果を故意的に引き起こす。
その許されざる悪に手を染める覚悟が、歴史再現と言う建前を嘯いて要の気持ちを塗り替える。
非難されたって構わない。要にとっては……未来にとっても、歴史が変わる事は避けなければならない課題だ。
殆ど記憶に残らない悪行だ。本人さえも忘れてしまうその行いを罰せる者は……今隣にいる彼女しかいない。
紅の髪に橙色の瞳。整った顔立ちの小さな異国の風貌は異能力発現の証。
時空間の理の外に生きる少女。
そこにいるという日常すら許されない非日常に生きる彼女の隣で、要は今目の前に広がる異世界のような現実を心底楽しむ。
精神病質者だと罵られれば笑って受け入れられる人としての証だと。歪んだ人格がようやく間違った人の歩み方を人であると教えてくれる。
ならばいっその事人の身でさえも超越しようかと、よぎった思考にポケットに手を突っ込めば、指先がブースターに触れたところでその手首を温かい手のひらに掴まれた。
見ればその手はそれまで隣で俯いていた少女のもの。彼女は、絶望さえその瞳に灯して唇を噛み締め首を振る。
「やめて……お願いっ。幾ら日常が怖いからって、非日常に逃げないで…………。それはもう、人間じゃないよっ」
「……じゃあ何か改善策は思いついた?」
「…………………………」
返った無言に彼女の手を優しく解いてポケットから手を抜く。
流石にこれ以上彼女の顔を曇らせたくはない。要だって好きで彼女を責めているわけではないのだ。
それ以外の方法が見つからないから、そうするための選択肢を取っているに過ぎない。
既に一つしか、要の中に選択肢は残されていない。
「だったら予定通りだ。僕が父さんを殺す。それで世界は歴史に合わせて動いていく」
認められない、認めたくない要の冷淡な言葉に、未来がその手に『スタン銃』を握る。
そうして向ける銃口の先は、要の胸。
「…………言ったよね、もし何かあったら、話が決着するまでお兄ちゃんの身柄は拘束させてもらうって……」
「決着させるための策が未来にはあるの? だったらそれを教えてよ」
事実だけを言葉にしてその脅しに怯むことなく告げれば、彼女は顔を伏せたままその銃口を服の上から押し付けた。
彼女が許せないのは要が道を踏み外すことだ。
護衛対象である要が何かに加担する事を恐れている。要には有り触れた日常に戻ってもらわなければならない。
それは彼女が今までに経験したトラウマ染みた事件と重なるからかもしれない。
だったらと、もう一つの可能性を提示する。
「……それとも、未来が殺してくれる?」
「っ…………!」
「そうしたら僕は手を汚さなくて済む。歴史も守れる。僕から記憶を消せば、全てを知るのは未来だけで、全部自分の責任に出来る。未来だけが傷つく最悪の解決法だ」
沼の更にその底。地獄にまで落ちる最低の覚悟だ。
「…………確かにそうすれば、お兄ちゃんは傷つかなくて済むよね。あたしが父親の敵になるだけだから」
呟きは黒く歪んで小さく響く。
「過去に一回あったよ。過去に移動したあたしが事件を起こした話。直接手を下したわけじゃないけど、間接的に歴史通りの死をその人に強要した過去……。あたしの手は、既に死の色で汚れてる。だから今更もう一人殺したくらいで何とも思わないよ。そういうものだって納得するだけ。『Para Dogs』でも、そういう場合の特別な処置はあるからね」
自嘲するようなその声に言葉の奥の感情を聞く。
前にそうして誰かを死に追いやった時、彼女は一体どんな戒めを自分に背負わせたのだろう。他人から、どんな目で見られただろう。
「……時間移動能力保持者であるあたしは、『Para Dogs』にいる以上過去や未来の事件から逃れられない。歴史を守るため、その存在無しでは考えられない。こんな子供になんでそんな酷な事を、って言う人もいるけどね。あたし一人の苦労で世界が救われるならそれに越したことはないでしょ?」
移動した先で更に時間移動を行えるというのはとても便利で融通の利く方法だ。
彼女を含め、未来には未だ由緒と二人しかいない時空間移動能力保持者。その希少さは語るべくもない。
だからこそ背負う業は、彼女が生きた16年と言う年月にそぐわないほど汚く捩れている。
そんな中で少女らしく振舞う未来を、要は知っている。
「人間をやめる事に関しては、お兄ちゃんより先輩だよ。だからいいよ……? その役目、あたしが全部────」
「人を殺す事に今更、なんて思ってる人に殺されるくらいなら、俺がやる。……未来が手を下したところで、それじゃあ俺の恨みは何処にぶつければいいんだ? 後悔も感じないなら──責める理由がないなら、その責任を押し付けるのは俺自身が許せない」
彼女の壊れた覚悟を聞いて零せば、未来はびくりと肩を揺らした。
人を殺す事に何の感慨も抱かない者に大事な人を殺されても、その人の事を敵だとは思えない。そこに意思がないのだから、憎めない。
だったらせめてその死を美化できるように、この手で殺して記憶に刻み付けるのがせめてもの償いだ。
「それだって間違ってるよっ。お兄ちゃんが父親を殺す事に何も思わないんだったら、それはあたしと同じ──」
「だったら世界が歪んでもいいって言うのか?」
「…………………………」
「あの人の死は、俺の家の問題だ。だったら俺がけじめを付けるのは当然だろ? それに、既に死ぬ事が決まってる人を殺すんだ。未来じゃあ既に死んでるんだ。そこに感情を挟む方がおかしな話だ」
「人間として狂ってるって言ってるのっ!」
張り裂けそうなその声にいつの間にか止まった足に気付く。
遠くを見据える視界に雅人の姿はない。先の曲がり角を入ったのは知ってる。彼は今その先にいることだろう。
そんな事を意味もなく考えていると、要の胸に痛いほど銃口を押し付けた未来が叫ぶ。
「おかしいんだよっ、事件を楽しむとか、借り物の力で解決しようとか、自分の父親を殺そうとか! そんなの普通の人間がやっていい事じゃない! 何っ、物語の主人公でも気取ってるのっ? 悲劇のヒーローにでもなったつもりっ? 馬鹿じゃないのっ!? そんなの何処にも正義なんてないっ。偽善の悪役、趣味の悪い演劇っ! 大人ぶった子供の、質の悪い悪役だよっ!!」
言葉の一つ一つに有り触れた道徳心と彼女の信じる正義が滲む。
きっとそれは尊敬すべき言葉たちなのだろうと、壊れた心で聞き届けて、それから直ぐ傍に叩き捨てる。
「人を殺すのにいいも悪いもあるかよ。ただそれが必要なことだから行動に移す。極悪犯に幾ら説教したって結果も心も変わらない。変わったように感じるのはただ知らない未来だけだ。その未来を守るために必要なんだから、今はただ黙って見逃してくれ」
「……ごめん。できな────っ!」
俯いたその奥に隠された表情を少しだけ考えて、それからどこかゆっくりとした動作で『スタン銃』のトリガーが引けないように指を挟む。それから突いた不意で、彼女の手からその銃を奪い取る。
人間の手と言うものは不思議で、物を握る際意識していなければ力が入るのは人差し指から小指の四本だ。だから逆に、親指の方から物を取り上げると意外と簡単に奪う事が出来る。
例に違わず、その警戒を言葉で散漫にさせていた彼女の手からは笑えるほど簡単に取り上げる事が出来た。
直ぐにマガジンを抜き、薬室に残った一発も遊底を引っ張って排莢口から取り除く。
アスファルトの大地に転がった一発を拾い上げて、マガジンと共に未来へ返すと銃本体は要のホルスターへ。
変わりにそこから抜いた自分用の『スタン銃』を手に握る。
それから徐に腕を上げて、その銃口を未来へと向けた。
「ごめん。でもこれ以上迷惑はかけないから。家族の問題だと思って見逃して。そしたら後の事は全部未来に任せるから」
「お兄ちゃん────」
泣き出しそうなほどに歪んだその表情に、引き金を引くのは躊躇われてやがて手を下ろした。
それから要は一人雅人の歩いて行った方へと歩みを進める。
……これでいい。
彼女にとって要は数ある事件の内で出会った一人だ。本当の家族でもなければ、妹でもない。
ならば彼女をこちらに巻き込むわけには行かない。これは要の個人的な願いで、家族の問題だ。
彼女が気に病む話ではない。
随分ときつい物言いをしたと少しだけ後悔して、それから長い息を吐くと気持ちを入れ替える。
これ以上無駄なことはしたくない。
《傷持ち》を捕まえて、未来は未来に帰る。そのために要が出来る事をするだけだ。
思って伸ばした掌。ポケットの中に突っ込まれたその指先にブースターの感触を見つけてそれを手に取る、その瞬間────
「やめて……っお願い、だから」
「未来の協力を得られないならこうするしかないんだよ」
呆れたように言い放てば降りた沈黙。
何度この問答をするのだと呆れてその顔へと振り返れば、丁度こちらをきつく見据える橙色の視線と交じり合った。
「…………分かった。雅人さんのことは、任せる。けど《傷持ち》はあたしに任せて。ブースターも、使わないでっ」
覚悟に染まった真っ直ぐな瞳。
その奥に宿る強い炎をしばらく見つめて、それから可能性を追い求める。
「……分かった。それから────」
「謝らないでっ。そんな言葉のために許したんじゃない」
きつく言い放ったその言葉に、喉元まで出掛かった言葉を飲み込んで、それから代わりにと彼女の『スタン銃』をその手に返した。
確かに彼女への言葉は謝罪よりも感謝だ。ならばその言葉は最後の時まで取っておくとしよう。
「行こうっ。歴史を守るんだ」
「……あぁ」
未来の言葉に頷いて止まっていた足を出す。
曲がり角を折れ、視界の先に雅人の背中を見つける。
何があろうとも彼の死は現実のものに。そのためにこの手を振り下ろす事が必要ならそうするまでだ。
外れた人の道を世界のためだと嘯いてその背中を追いかける。
何処から来る? どんな手を使ってくる?
想像を巡らせるだけ巡らせて可能性を調べつくし、どうなってもいいように気構えをしておく。
そうしてしばらく彼の後ろを歩いていると、彼が通り過ぎた交差点から通行人のように現れた《傷持ち》。
茜色に染まる景色の住宅街で、一際目立つ黒尽くめのその姿。
死神のような怖気の走る黒の威圧感に一瞬足を止める。
その刹那、こちらに振り返った《傷持ち》がどこかゆったりとした動作で雅人に向き直り、駆け出す。
まさか直接────!
愚直すぎて策を弄するだろうと考えていたこちらの裏を掻く正面切っての思惑。
緊張と同時に踏み出したその足音と同時に、隣から駆け抜けた紅の風。
その疾駆は地を這うように瞬く間にその背中に接近して蹴りかかる。
未来の攻撃に振り返った《傷持ち》が腕を交差させてそれを防ぐ。
物音に振り返った雅人。その瞳に映った光景に、疑うような間を開けて恐怖が宿る。
ようやくそこまで事が運んで、喉につっかえた栓が抜ける音を聞いた。
「逃げろっ! 早くっ!」
叫びつつ走って『抑圧拳』をつけた拳で《傷持ち》の背中に殴りかかる。
その一撃を、一瞥くれることなく投げ飛ばす黒尽くめ。
全く、後ろにでも目がついているのかとその身軽さに歯噛みして受身と共に《傷持ち》と雅人の間に立ちはだかる。
背後を確認すればこちらに背を向けて走る雅人の姿。どうやら忠告を受け入れてもらえたらしい。
そんな事を考える暇も与えないと言う風に差した影。見れば目の前に拳を振り上げた《傷持ち》が要目掛けて襲い掛かってきていた。
咄嗟に後ろに飛んでそのパンチをかわすと、未来の見よう見まねで回し蹴りを放つ。
しかしあまりうまく力が乗らずに、左腕一本で受け止められた。
それから掴まれそうになった足首。冷や汗垂れる攻防は、けれど次いで横槍を入れた未来の攻撃で現実にはならなかった。
そうしてようやく距離を置いて《傷持ち》と睨み合う。
「ご苦労なことだな。まぁお礼参りも出来て一石二鳥か」
「言ってろっ、そのヘルメット剥がしてとっ捕まえてやる!」
吼えて『スタン銃』を抜き放つ。
例え効かなくとも陽動や行動制限になる。うまく流れを構築して取り押さえる。
隣で未来が先ほど見せた銀色の棒を構える。同時、《傷持ち》がその手にナイフを握った。
近接戦闘に巻き込まれれば要に対抗策はない。直ぐに組み敷かれてゲームオーバーだ。
だからこそそちらは手馴れた未来に任せて、要は隙を突いた一撃を放つ事に専念を……。
そんな事を考えた直後、隣の未来が小さく呟く。
「お兄ちゃんは雅人さんの方へ行って。その手で、殺すんでしょ?」
「……………………」
真っ直ぐに見据えたまま告げた未来の言葉に、しばらく考えて一歩足を引く。
「……大丈夫か?」
「いざとなったらブースター飲むから」
いざとなってからでは遅いだろうと。
けれど彼女のその覚悟を信じて息を飲み呼吸を整える。
「行ってっ!」
その声に頷く暇も置き去りに踵を返す。
刹那、《傷持ち》に向けて駆け出した未来。変声機を通したノイズ交じりの嗤い声が耳障りに辺りに響くのを背後に聞きながら走る。
信じよう。未来だって策もなしに《傷持ち》と一対一に望んだりはしないはずだ。
何より要は要に出来る事を。
後ろで聞こえる金属同士がぶつかり合う音を遠くに遠くにと願いながら彼女の無事を思って。
そうして要は雅人の元へと駆ける。
記憶を頼りに足音のした方へ。そうしてしばらく走れば、再び視界に彼の姿を捉えた。
彼は膝に手を突いて息を整えていた。
どうやらまだ無事のようだ。願わくば既に彼の身の危険が回避されていない事を願うばかりだ。
曲がり角に隠れつつその姿を監視する。
そろそろ起こるはずの事故。何処から何が来ると視界を回しながらそれを探す。
煩いほどに鳴る胸の音をどうにか静めながら待ち構える。
そうしてその時を想像していると、雅人が辺りを確認しながら歩き出した。
向かう先は……近くの店とは反対方向。そちらは駅の方面で、あるのは──交番だ。
警察に行くつもりなのだろう。
けれどきっと彼が辿り着く前にその事故は起こる筈。その時を見逃すわけには行かない。
先の分からない過去に少しだけ苛立ちを覚えながら彼が曲がり角に差し掛かるたびに緊張する。
いつだ、いつ起こる……?
逸る気持ちが急かす鼓動。それをどうにか足音と連動させて落ち着ける。
しばらくそんな風に今か今かとその時を待ち続けていると、遠くに大きなトラックの走る音を聞いた。
こんな住宅街に、と言う事は運送業者だろうか。となれば随分大きな車両だろう。
そんな事を考えながら頭のどこかでそれが事件の原因だと気付いて走り出す。
視界の先の父親は早足で交番の方へと向けて歩く。恐らく先ほどの景色に驚いて周りの音は入っていないのだろう。要が近づく気配も、段々と大きくなるトラックの走行音にも目を向けない。
その背中。大人の大きな後姿を間近で見て気付く。
目線は殆ど変わらないと。要の174センチの身長と比べて僅かに小さいその背丈。この年で父親の背を追い抜いていたのかと不思議な感慨に襲われる。
その疲れたような肩に、撫で付けた黒い髪に。それからあまり嗅ぎ覚えのない彼の匂いに。
記憶にない目の前の彼こそが要の父親なのだと実感のない事実を受け止める。
可能なことならその手に抱きしめてもらいたかったと。叶う事ならその声で名前を呼んで欲しかったと。
込み上げて来たないもの強請りに小さく笑ってそれから距離を詰める。
後ろから迫ってくるトラックに目を向ければ、その運転手は居眠りをしていた。
それが《傷持ち》の『催眠暗示』によるものなのか、彼個人の寝不足から来るものなのかは分からない。
ただ分かる事は、雅人は彼に殺されたのだということ──それに要が手を貸したのだということ。
雅人の視界も切れていて、運転手も眠っていて。目撃者のない事件だったのだと今更ながらに少しだけ寂しく思いながら手を見下ろす。
そこには『抑圧拳』の白い手袋。これのおかげで指紋すらもつく事がないと。偶然の必然に感謝をしながらその背中に手を伸ばす。
刹那────
「っ…………!」
差し掛かった十字路の横道からやってきていたのは《傷持ち》。その背後には追いかける未来の姿が見えた。
恐らく逃げる《傷持ち》を追いかけてここまでやってきたのだろう。
そこで気付く。このままでは《傷持ち》が雅人に接触してしまう、と。
咄嗟に踏み出した足で『スタン銃』を構えようとしたが、それより数瞬早く伸びた《傷持ち》の蹴りが横殴りに襲い掛かって壁に向けて吹っ飛ばされた。
コンクリートレンガの積み上げられた壁に打ち付けられて呻き声が漏れる。握った『スタン銃』が道を滑って遠くへ転がる。
その目の前を黒尽くめの影が通り過ぎて、必死に伸ばした手が虚空を掠めた。
届かない……と悟った次の瞬間、要を蹴るために減速した《傷持ち》の背中に未来の手が伸びる。
あぁ、大丈夫────《傷持ち》の指が触れる前に未来が捕まえられる。
そう確信して知らず顔に笑顔が浮かんだ。
そうして、歴史は再構築される。
雅人に向けて手を伸ばす《傷持ち》。
それに気付いて後ずさる雅人。
運転手を置いただけのトラックが迫り。
《傷持ち》を止めようと手を伸ばす未来。
それを壁に凭れた要が見る景色の中で。
《傷持ち》の手に持った銀色の『音叉』が無慈悲にラの音階を響かせた。
刹那に歪む景色。時空間跳躍の異物を排除するような移動が黒い点を中心に渦巻いてその中に《傷持ち》の姿を隠す。
それはまるで未来が背後から跳びかかってくるのを知っていたようなタイミング。
もし要がその手に『スタン銃』を持っていれば防げたかもしれない時間移動の、その直後。
《傷持ち》目掛けて跳んだ未来のその小さな手のひらが、雅人の胸を軽く押したのが見えた。
響いた衝突音。
嫌に生々しく響いたその衝撃と共に、遅れてアスファルトの大地に赤黒い液体が段々と広がっていく。
「ぁ……? …………あぁ、ぃゃ…………違っ……!?」
道路に座り込んでうな垂れた未来のその瞳が、震えながら要を射抜く。
そうして見た、彼女の涙────
「……嘘……そん、な……つもり、じゃ……ぁ…………」
うわ言の様に呟くその唇が色を失って瞳から色が抜ける。
無情なる時の流れは意味を持って時を刻み。次の瞬間彼女は色鮮やかな泡沫となって要の目の前から消えていく。
「ごめ、ん……っごめん、ごめん、なさいっ……!」
何をしていいか分からないという風に頭を振ってひたすらに謝る未来。
涙に濡れたその声は、けれどやがて空に溶けるように響いて要の前から未来と一緒に消えていく。
何が、起きたのだと。
茫然自失とした頭が不意に視界を下げる。
そこにはまだ温かい鮮血が水溜りのように広がり、力なく下がった要の手のひらを紅に染め上げていた。
「────あぁ、そっか……未来が」
雅人を、殺したのか。
始めからそうなる未来だったからその接触は阻まれなかった。制限に抵触して接触前に戻されることはなかった。
つまり歴史は最初から変わってなくて、《傷持ち》も運転手には何の細工もしてなくて。
ただ未来が雅人を居眠り運転のトラックに突き飛ばすことこそが、この過去で起こりうる唯一にして真実の答え。
そうして、未来が過去で現代人に危害を加えてしまったから、制限に抵触して戻された。
先ほどの未来の消滅は、つまりそういうことだと。
冷静に呆けた頭がそんな答えに至って、ゆっくりと立ち上がる。
そうか、未来が、未来が、未来が────
頭を埋め尽くす景色と名前が視界を霞ませて当て所もなく覚束ない足取りを進ませる。
事故現場から離れて角を曲がると、そこに腰を落としてうな垂れる。
確かに未来が殺せば要が傷つかないとは言った。けれどそれは彼女に責任を背負わせないための方便で、覚悟に口出しをさせないための脅しにして冗談だったのだ。
だから本気でそんな事を考えていたわけではない。要の中では要が手を下すのだと覚悟が決まっていたのだ。
それが、けれど終わってみれば結果は冗談で口にした通りになってしまった。
彼女がその最後の引き金を引いてしまったと言う事は歴史によって初めからそうだったと言うことだ。
つまりこれは決められた過去にしてそうなるはずだった未来。
もし別の要因が事故の原因なら未来はその手が触れる前に強制送還されるはずなのだ。
それを《傷持ち》が知っていたかどうかは定かではない。
ただ少なくともこうして要が打ちひしがれる事を見越して未来に手を下させると言う遠回りな手を取った。
そしてそれが、また彼女自身を蝕む戒めになる事も知っている。
精神的に傷を負わせるやり口。陰湿にして暗晦にして迂遠な何処までも悪質なやり方。
それでこちらの意気を消沈させられるのだから、《傷持ち》の目的としてはこれ以上ないほどに成功なのだろうが……。
胸の内に募る苛立ちは未来が犯した罪よりもそんな手口を平気で振るう《傷持ち》に対して。幾ら嫌悪しても仕切れない悪として目の前に立ちはだかる。
どうやって捕まえろと言うのだ。
嫌な過去を握られて、これまでの殆どが相手のペースで……。
何処に現状を打開する一手があるだろうか?
幾ら思考を重ねても掴み切れない幻影の尻尾に諦めさえ抱く。
「俯いてたら、前が向けなくなっちゃうよ」
その時に響いたのは声。
要にとってはとても馴染みの深い、既に聞き慣れた声。
ソプラノの鈴の音のような旋律に、思わず顔を上げる。
そこにいたのは紅の髪を風に靡かせ、夕日に染まる景色の中でこちらを見下ろす未来の姿。
咄嗟の事に思わず息さえも忘れて魅入る。
「どう、して……ここに…………」
「聞いたところでどうなるの? 歴史は変わらない。変えちゃいけない」
ふと先ほどの未来と服装が違う事に気付く。
白いパーカーに赤と黒のチェック柄のプリーツスカート。すらりと伸びる足を彩るのは黒のストッキング。
この服装の彼女は今までに見た事がない。つまり要の知らない未来……今より未来から来た未来ということだ。
「それよりもほら、立って?」
差し出された白く華奢な手のひら。その小さな手に、血の色を幻視して思わず手を止めた。
そんな中途半端に上がった手のひらを、未来は自分からとって要を引っ張りあげる。
その強さに、どこかで安堵した自分がいる事に気が付いて。
それから目の前で首を傾げる未来から視線を外す。
「…………嫌な歴史だったよね。お兄ちゃんはそんなこと本気で思ってなかったのに」
「…………あぁ……」
「でもそうなる事が決まってたんだよ。それを今更どうしようとは思わない。変えようと思ったところで、変えられない……」
呟きに僅かな後悔と寂しさが滲む。
きっと何よりも自信をなくしたのは彼女なのだ。
要に頼って、知った風な口を聞いて。剰えその結果に雅人を突き飛ばした。
気に病むのは仕方のないことだと言えばそれまでだ。
「だったら、さ……いつまでも過去を振り返ってるのは建設的じゃないよね? 前を見なきゃ。受け止められなくてもいいから、その失敗を取り返さないと。拭うんじゃなくて塗り替える。変えられないから上書き、だよ。それが可能性。失敗を乗り越える唯一の方法。人間が時空間を超越する事が出来ても尚、唯一越えられなかった一線……」
紡がれる言霊は静かに要の心を揺らす。
そうだ、この過去は、既に決まっていた過去。だからそうあるべき、正しい歴史だ。
だったらそれを踏まえて、前を見据えなければならない。
それこそが人間の持つ可能性と言うのものだ。
その力で、知らない未来を切り開く────
「……けど、どうしたらいいかなんて…………」
「考える事は進むことの第一歩だよ。……気付いていると思うけどあたしは未来の存在。だからこれから起こる事をお兄ちゃんに教える事はできない」
つまり今目の前にいる未来は彼女の異能力でここまでやってきたと言うことだろう。
もし由緒の異能力でやってきたのであれば未来の事は言おうと思えば言える。例えそうだとしても、彼女は未来が確定される事を嫌って口にはしないのだろうけれども。
けれど助言は貰った。
そもそも彼女が気に病む理由は要にあるのだ。
こうして要が過去についてさえ来なければ未来だって無理をして撃たれたりする事もなかったはず。
だったらその責任を取るのが正解にして要が最初にするべき償いと進むべき道だ。
「……戻れば、いいんだな?」
「あたしが手伝うから。強制送還は移動できる過去の選択肢を減らすからなしだよ」
……確か由緒の異能力の制限⑥。制限を犯した過去には由緒の異能力では再度向かうことは出来ない。
「でもあれって由緒の異能力じゃなければ移動は可能だよな?」
「そうだね。でもいざと言う時の保険としてこの時間に移動するとなればあって困らないでしょ?」
「…………未来が制限に抵触した以上、由緒の異能力だと俺しか移動できないけどな」
「それでも使い道はあるよ」
いざと言う時の緊急避難。未来にも要にもこうして過去に来たという記憶が残る以上透目に頼らなくともこの時代には来る事が出来る。
何よりこの時代には未来も要も由緒も居ない。つまり空間は記憶のまま、時間だけを前後させて、同時刻に重なりさえしなければいい。未来の異能力でも由緒の異能力でも、使い勝手のいい避難場所と言うわけだ。
「分かった。それじゃあ…………」
言い掛けて、それから曲がり角越しに事故現場を眺める。
あれが、要の父親、雅人の死に様。遠くに聞こえるサイレンの音にそろそろ時間切れだと悟って覚悟を固める。
「想像して。行く先は由緒さんの部屋。時間遡行より三日後。細かい時間はあたしが決めておくから心配しないで」
「あぁ…………」
「……昔のあたしをよろしくね?」
脳裏に描く景色に色が付いた瞬間、重力方向が一気に変わる。
これまで数度行ってきた上に、今回は由緒の異能力で移動したずれもある。結果要の体を襲った力は鉛の塊に体を押し潰されるような衝撃となった。
そんな最中に、彼女が残した最後の言葉が静かに響いて刻み込まれる。
未来の未来がああしていたと言う事は、この後どうにかその絶望から立ち直ったと言うことだろう。乗り越えたかどうかは別として、過去の事だと納得できたのだ。
そしてそれは、きっと要がどうにかしたはずの役割だ。
今の要に彼女を責めるつもりは微塵もない。ただそういうものだという感慨があるだけだ。
だからそれをそのまま伝える。どれだけ言葉を弄したところで事実は変わらないのだから。ならば否定するのではなく肯定して、それを半分に分けて彼女の負担を減らすだけだ。
何より今回に限っては全ての責任を要が背負っても仕方ない。
そこに理由を丸投げすれば、悪役の仮面を被るだけ済む話だ。
考えて、気付けば戻ってきていた由緒の部屋。要にしてみれば二日ぶりの現代。由緒にしてみれば三日ぶりの再会か。
感じた重力の感覚に少しだけ手のひらを見つめて顔を上げる。そうすれば後ろから扉の開く音が聞こえた。
「…………おかえり、よー君……」
「ただいま。……未来は?」
「そういうのを女の子に聞くのはいけないよっ」
無理に笑う彼女にそうだなと頷き返して腰を下ろす。
この様子だと話は少し聞いたらしい。
彼女がどんな風に語ったか……それが問題だ。
「どんな風に聞いた……?」
「…………みくちゃんが、ちょっとだけ失敗したって」
「そうだな、ちょっとだけ。少し想像が足りなかっただけだ。そうなる可能性だって考えられたはずなのにな」
話は聞いていたのだ。とある未来の女性が過去の夫の死因に直接関わったとか。彼女自身も間接的に他人を死に追いやったこともあるとか……。今回はそれの発展型。未来が直接手を下したと言うことだ。それは偶然であり必然。
そうなる筈だった正しい過去だ。
「どこまで聞きたい……?」
「────全部。隠したい事は隠してもいいから、全部っ」
青み掛かった黒い双眸。その奥に宿る覚悟の色に要も一つ息を吐いて語り出す。
そうして、熟々(つらつら)と滔々(とうとう)とあったことだけを語る。
過去について、要について、未来について、《傷持ち》について。そして──雅人について。
物語の紐を解くようにゆっくりと、丁寧に、冗長に結果を何処までも遠回しにしながら語る。
その殆どは他愛のない事だ。未来の服がよく似合っていたとか、電車に乗った彼女が目を輝かせていたとか。
余談にも満たない有り触れた日常の風景。
その最中に不意に混じる悪意の矛先。
《傷持ち》が振るった鈍色と、《傷持ち》が放った凶弾と、《傷持ち》が紡いだ痴れ事と。
返った要の拳や、未来の蹴り。
まるでファンタジーの冒険小説を読んでいるような気分でそのこと細かな部分を嫌になるほど丹念に語る。
誰に感情移入するでもなく、ただひたすらに客観的な言葉を紡ぐ。
足りない語彙と、表現しきれない感情と、筆舌に尽くし難い景色と。
そこに、知っている全てをありえるだけ真実にして詰め込んで形を、色を、においをつける。
何処までも無情に、非情に、淡々と。
要自身がその物語の著者になったような気分で名状する。
それは過去だったのだと。それは未来だったのだと。
誰もが理想を押し付けて出来上がった──二律背反の過去なる真実なのだと。
許し難い現実と、許すほかない過去と、許されるべき未来。
混在して曖昧に解けたその現実を解きほぐすように物語って……そうして時を今現在へと巻き戻す。
「…………そっか、そんな事があったんだね」
要が全てを語り終えてしばらく沈黙を保てば、やがて由緒は優しく笑って受け止めてくれた。
彼女にしてみれば全て過去のことで、終わった事にして変わらない歴史だ。
だからこうして聞かされたとて、そうだったのかと言う感慨以外出てこないはずだ。
彼女もそれなりに賢い。既に終わった事に一々悩むほど子供でもなければ愚かでもない。
ただ納得して、受け入れて、しまいこむ。
そうして降りた再びの静寂に要は少しだけ居心地の良さを感じる。
由緒は肯定してくれた。
要のしでかした失敗を、全て終わったことだと受け入れてくれた。
だから安心した。彼女が傍に居てくれる事に感謝した。
そうしてようやく要が要を取り戻す。
「……ちょっと喉渇いたね、何か飲む?」
「ん、あぁ。任せるよ」
言って立ち上がった由緒。彼女のその笑顔に救われつつ部屋についた窓から外の景色を眺めていると、耳に小さな驚きの声を聞いた。
「ぅをうっ?」
また何とも人間離れしたリアクションだと考えつつ視線を向けて、そしてそこにいた姿に息を飲んだ。
まるで自分を戒めるようにうな垂れた未来。
紅の長髪は髪留めさえも外して全てを背中に着流し、前髪は表情を隠すように垂れ下がっていた。
突然の雨に濡れて放心するように。静かに立ち尽くした彼女に、要はとりあえず声を掛ける。
「…………未来」
「っ……!」
声にびくりと肩を震わせたその姿が、まるで親に怒られる子供のようだと錯覚する。
そんな彼女の感情を殺して怯えるような小さな姿に、息を吐いて立ち上がると静かに近寄る。
それに気付た未来が、何を思ったのか直ぐに踵を返して逃げようとする。
咄嗟に手を伸ばしてその手首を掴めば洟を啜るような音と共に、膝からその場に崩れ落ちた。
未来にしてみれば衝撃だったのだろう。今だって要にもあれを何の理由もなしに受け止める事はできない。
けれど確かに言えるのは、未来はただ歴史を再現しただけで……少なくともそうしようと思ってそうしたわけではないのだということだ。そこだけは履き違えられないし、理解をしているつもりだ。
声を上げず肩を揺らすその少女の小さな背中に、要は一瞬全てを忘れて同じ目線に座り込む。
「……未来、話がしたいんだ。理由なら聞く。いい訳なら納得してあげる。だからお願い……まずは話し合おう?」
要には責めるつもりなど微塵もない事をどうにか言葉で伝える。
そんな気持ちが通じたか。しばらく俯いていた彼女は、やがて小さく頷いた。
うな垂れた未来に由緒も付き添って立たせ、彼女を部屋に招き入れる。
クッションを用意してそこに彼女を座らせれば、未来は膝を抱えて殻に閉じこもるように顔を埋めた。
分からないではない。
彼女だって分かっている。
だからこそ難しいのだと気付く。
「……未来がどう思っているかは分かるよ。確かに悲惨だったとは思う。けど、そういうものなんだって納得すればそこに糾弾する気持ちも未来を悪者にする必要も俺は感じない。ただそうあるべきだった歴史を、未来はその手で繰り返しただけだ」
「………………どうして……」
「ぅん?」
「…………なんで、そんなに……」
しゃくり上げながら声を殺して泣く彼女は、自責と後悔の言葉に押し潰されていく。
どうすればこの気持ちが伝わるだろうか。
彼女を救える言葉があるだろうか?
「あたしは、許せないよっ……。だってお兄ちゃんの、お父さん。なんだよ……? 会えない筈の、過去の人…………。その人と、会って、声を聞いて、……それなのに、そんなのおかしいって────」
「そもそもだ。俺があの人に会うこと自体がおかしなことなんだよ。だったらその結果が歪むのは仕方のないこと」
「だってっ……!」
要の達観したような言葉に顔を上げた彼女は、鼻の頭を赤くして睨むようにこちらを見つめて来る。
なめらかな頬を滑り落ちる涙の雫。啜り上げる洟の音に、潤んだ橙色の瞳に紅色の枝垂桜が幕を下ろす。
不覚にも、そうしてこちらを見つめる未来の姿が、景色と雰囲気に不釣合いに──綺麗だと思ってしまった自分がいた。
「みくちゃんは、何が許せないの?」
叫ぶように声を上げた未来の先を、由緒が遮って尋ねる。
「…………何もかも、だよ……。あたしが手を下した事も、《傷持ち》を逃した事も、お兄ちゃんを危険に晒した事も…………」
確かにそれは全て真実だ。けれど真実である以上に意味はない。
そこに未来の気持ちはない。
「違うんじゃない? みくちゃんはさ、よー君が許せないんじゃないの?」
「……………………」
「よー君が怒らないから。よー君が責めないから。よー君が、諦めてるから」
言ってこちらを向く由緒の視線に要も息を飲む。
そんなに直接的な言い方をするとは思わなかったと。けれどだからこそいつもの純真で素直たる由緒らしさだと納得する。
的確に心の内を覗くように零した言葉。その真っ直ぐな声に未来がこちらを見つめて来る。
「……そんなに言われてもなぁ。俺にとってはもう終わったことで、それを一々責めたてるほど思い入れがあるわけでもない」
「そんなの…………」
「おかしいって? けどそれが本心なんだ。ただ素直に、そういうものだった。…………強いて言うなら、それを知れたことと、その役目が未来だった事に──感謝さえしてる」
「よー君っ」
事ここに至って不謹慎だと嗜める由緒。
そんなものは今更だ。それこそ、過去に行くと言いだしたときからおかしいものを槍玉に挙げられても困る。
「結果として母さんの言ってた事は嘘だったけど、客観的に見れば犯人はその時代に居ないんだから間違ってはいない。そしてそれを知った上で、手を下したのが見ず知らずの愉快犯ではなくて未来だって言う事実に、今手の届く人が犯した罪だって事に安心してる」
「……おかしいよ。お兄ちゃんは────狂ってるっ」
「そっちが本当の俺だ。良い子の仮面を被って楽しくない日常に揺れている俺に意思なんてない。その狂った俺こそが本質だ。……幻滅したか?」
「おかしいよっ、そんなの!」
噛み締めるように告げて要の胸を叩く未来。
そうして倒れこんできた彼女を受け止めて、そこで泣く震えた肩を優しく抱きしめる。
「だって、だって……だってっ!」
「だから安心や感謝はしても、未来の事を責めたりはしない。もし未来がそれを望んでるんだとしても、俺はそれを返せない。それは俺の気持ちに嘘を吐く事になるから────自分以外に意味なんて見出せないよ」
最後に零したその音に、未来は要の服を強く掴む。
痛いほどに引っ張られたその力の強さに、歪んだ要を責める彼女に少しだけ嬉しくなる。
だってそうしていれば、未来は今ここにいられるから。
時間と空間の理の外に生きる彼女を、要の手の中に繋ぎ止めておけるから。
だから離さまいと必死に糾弾する未来を抱きとめて、それから寂しそうにこちらを見つめる由緒に笑いかける。
視線を逸らした彼女は、けれど辛そうに言葉を飲み込んだ。
嗚咽を殺して泣く未来に今だけはと言い訳を考えつつその髪を撫でる。
髪飾りを外しているのは何だろうか? 彼女なりに思うところがあって、その末の行動なのだろうが、生憎その詳しいところを知らない要には想像だけでは語れない。
何より無粋に彼女の過去に踏み込んでいてはまた由緒に怒られてしまうと。
そんな事を考えて、それからふと脳裏を過ぎる疑問。
「そう言えば由緒の方は何もなかったか? ここはあのときから三日後だろ? その間に《傷持ち》が来たとかは?」
「え……あ、うん。大丈夫だよ。えっと、透目さん、だっけ? みくちゃんのお父さんが気を配ってくれてたみたいだし。取り合えず私の知る限りだと特に何も起こってないよ」
「ならよかった……」
由緒への『催眠暗示』は既に使われているはず。だから認識を書き換えるような事はされていないはずで、だとしたら彼女がそう言うのだから大丈夫だと信じておこう。
一々そんなことまで考慮しないといけないほど《傷持ち》に振り回されている現状に少し苛立ちを募らせる。
そろそろ反撃に出たい。
未来だっていつまでも手を拱いているわけには行かないはずだ。あれだけ組み合えば相手の癖や隙から取り押さえる事もできるに違いない。
ならば早く彼女には立ち直ってもらう必要がある。
その責任が、要にはある。
気付けば聞こえなくなっていた啜り泣き。その小さな肩を軽く叩けば、彼女は僅かに唸った。
「未来……」
「………………大丈夫。うん、納得したから……」
そう言ってようやく要の胸から離れた彼女は、赤くなった顔を見られまいと背中を向けた。
そんな彼女に由緒が寄り添ってティッシュを差し出す。
まだ鼻に掛かった声で礼を言って、それから鼻をかむとそれから一つ頬を叩いた。
響いた音に、ようやく未来は要に向き直る。
そうして礼儀正しく背筋を伸ばして正座をした彼女は綺麗に頭を下げた。
「……ごめんなさいっ。色々と、迷惑をかけましたっ」
「謝るのは…………」
「お願い。今だけは、こうさせて……。そうじゃないとけじめがつかないから。前に進めないから」
それが未来なりの誠意だというのなら。要にも言い分はあるのだと振り翳す。
「気にするなって。未来は俺の妹なんだから。兄にはその責任を背負わせろ」
「……甘えなのは分かってる」
「甘えていいんだよ。そうじゃないといざと言うときに今度は俺が未来を頼れない」
どこまでも笑顔でそう言い切る。
そうすれば彼女は顔を上げて、照れたように笑ってくれた。
「よしっ、それじゃあこれで手打ちだよ!」
由緒の溌剌な声に頷けば未来も最後に目尻を拭っていつもの表情へと戻った。
例えその納得が、この場限りの飾った方便でも、要にはそれを責める事はできない。それを出来るほど、要は未来の事を知らない。
「それじゃあ改めて……。今度はこっちから打って出るよ。もう誰も傷つけさせないからっ」
「もちろんだ。それで、具体的にはどうするんだ?」
「過去干渉は防いだ……。だとすれば次に取って来るのはこの時代での行動だと思う」
「……どうして?」
そうしてようやく今を見つめなおし焦点を目の前に向ける。
「《傷持ち》だって馬鹿じゃない。今までだってそうだったけどあたし達に直接手を出してきて、けれどその全部がやり方の違う方法だった……。つまり同じ方法は二度と使ってこないし、一度使った方法は通じないって割り切るはずだよ」
確かにその通りだ。
そこに不確定要素は存在するだろうが、同じやり口で干渉したとしても既にある経験から対抗策を導き出されては《傷持ち》もしたい事を押し付けられない。
つまり自棄になって手当たり次第に暴走しない限り同じ方法論は相手にとって不利だ。
逆に言えば、《傷持ち》が同じ方法を取った瞬間からこちらの攻勢にも移れる。もちろんそれまでに捕まえてしまうのが最も願うべき結末ではあるが。
「こちらに対策を取られるのは嫌だからそんなリスクは負わないはず。もちろんいざと言う時のために頭の片隅には残しておいて」
「もちろんだ。もしそうなれば一転攻勢だな」
「……で、今度はどんな方法を使ってくると思う?」
由緒の疑問に考え込む未来。そうしてしばらく黙り込んだ彼女は重く告げる。
「……一番嫌なのはあたしたちがいない間に何かをされること。由緒さんには今のところ目立ったことはないけど、あたしたちには確かに今から三日間前までの存在の証がない。もしその間に何か手を打たれると厄介になる……」
「制限は仕方ないだろ。それに逆に考えればその三日間は未来にとっても都合がいいはずだ。移動の基点になる空白の時間だからな」
「でも何をして来るの? 私には何も出来ないよね?」
まず前提として《傷持ち》が要たちがいない三日間を知っているかと言うことだが……恐らくそれはその通りだろう。
《傷持ち》の過去での行動はどこか計算されたような……全てを分かったように動いている節があった。
今までもそうだが、背後からの攻撃に反応したり何ていう妙技は、幾ら人を超越したとしてもそう簡単に出来ることではない。
ブースターの限界は、人間が出来る事に限られるのだ。
ならば背中に目を増やすことは出来ない。
そこから抉じ開けて穿った視点を突き刺せば幾つか見えてくる事はある。
「例えば、こちらを撹乱するとか。あとは物量だよね」
「嫌な想像だな……」
こちらの戦力は未来と囮の要。そして柔道黒帯の幼馴染の由緒に透目だけだ。
その内まともに戦えるのは未来と透目で、透目には結深を守ってもらう役割がある以上その戦力は彼女一人に絞られる。
もしそこに物量をぶつけられたら幾ら未来と言えどそう簡単には捌けない。
まず《傷持ち》が使うだろう物量としては無辜の民だ。この町に住む、日常を謳歌する人々に『催眠暗示』をかけて手駒にされてしまえばこちらから手を出すのは難しくなる。
何せ『催眠暗示』に掛かるという事は即ち現代人で、そうすれば未来は彼らを傷つけられなくなる。
前提に空白の三日に移動すればそこには未来か由緒、どちらかの異能力の制限が付き纏うのだ。
そうなればこちらが取れる行動は一気に限定されてしまう。
「それが歴史に許されないことなら、『催眠暗示』に掛かった人たちをあたしたちは傷つけられない……。飽和した物量で押し切られればその内逃げる事もできなくなる」
「……そのためには予め《傷持ち》の行動の先を読む事が必要、か…………」
流石に一人一人に『催眠暗示』を掛けて回るのは大変なはずだ。もしそうなら物量作戦自体が破綻しかねない。
ならばどんな方法で『催眠暗示』を操ってくるだろうか?
「…………『催眠暗示』って人から人へ伝播したりはしないよな?」
「そうだね。異能力を持つ者が掛けたい人に直接掛けないと効果はない。それはどの異能力にも言える事だよ。分類が物理的であれ間接的であれ、その異能力の効果の発動には必ずそこに異能力保持者がいる」
「……最悪また後手か…………」
取り合えず鼠算式にゾンビの如くその効果範囲が広がったりはしないだけありがたい。もしそうであったならこちらは軽く詰んでいたところだ。
けれどだとしても《傷持ち》の居場所を突き止めるのが最優先だ。あの身形ならすぐに見つかるだろうが…………。
「見つけようにも俺たちはあの黒尽くめの姿しか知らない……。その顔を知らない。だからもし変装して一般市民に紛れ込まれたら見つける手段がなくなるぞ……?」
「例えば異能力者を見つけるための便利な道具とかないの?」
由緒の言葉に閃くものがあったが、その可能性に頼るのは中々に難しいだろうか。
異能力保持者はその見た目に変化が現れる。けれど由緒のように変わらなければ見分けはつかないし、髪を染めたりしている人もいるわけで、そうなれば目視で判断するというのは無理と言い切ってもいいだろう。
「……悪用する事になるけど『念写紙』を使ってって言うのは────」
「許さないよっ。それに由緒さんの事は分かってたから準備はしてたけど、それ以外の予備は持ってきてないの。だから出来ない。もし出来たとしても絶対にさせないけどっ」
頭の中、記憶を覗かれる異能力の調書。プライバシーを侵害するそのやり口に、未来は大きな憤りを見せて要を糾弾する。
別に本当にしようだ何て思っていない。だからそんなに厳しい視線を見つめないでくれないだろうか。
「……お兄ちゃんには無茶した前科と人並外れた発想力があふれるほどあるんだからね? 過去は嘘をつかないんだよっ」
「悪かったよ」
随分とオブラートに包んだ表現で助かった。確かに彼女からしてみれば要は火薬庫かもしれないが、そこまで嫌悪することはないだろうに……。
鋭い光に不満を心の内で零しつつ話を戻す。
「でももし《傷持ち》が『催眠暗示』を使うとしたら、今この時にもその影響は出てる可能性だってあるわけだよな?」
「それはそうだけど、そもそも使わせなければいい話なんだから使われた時の事はその時に考えればいいんだよっ」
それは丸投げだろうか。
幾つか考えてみたが浮かばなかった妙案に対する彼女の不満。心なしか声に険が宿っていた。
「どうなっても外に出ないといけないよね。ここに篭ってたら《傷持ち》のしたい放題だよ」
「そうしてつられる事こそが《傷持ち》の狙いなんだろうけどな……。…………仕方ない。無理しない程度にどうにかしようっ」
「次こそ捕まえてやる…………」
未来の橙色の瞳には既にやる気の炎が灯る。
その横顔に先ほどまでの憂いや後悔の色は殆どない。
それでいいのだと少しだけ嬉しくなれば、視線がぶつかってそれから彼女は確かめるように告げた。
「大丈夫。今度こそしっかりと守るからっ」
「気負ったら失敗しないか?」
「今までこれで失敗しなかったから大丈夫」
確信に満ちた響きにこれ以上は無粋かと察して飲み込む。
それからようやく正しい笑顔を浮かべた由緒は立ち上がると拍手を一つ打った。
「よしっ、それじゃあ再出発だね!」
「由緒はここで留守番な?」
「えぇぇ~?」
「当たり前だろうが。俺を守るのに手一杯なのに由緒まで守れるわけないだろ?」
「すみません……。由緒さんの安全を確保するためなんです。納得してもらえませんか……?」
二人の言葉に唇を尖らせる彼女。しばらくそうして情に訴えていたようだったが、こちらの気が変わらないと分かると静かに頷いてくれた。
「力になれると思ったのに……」
「もう十分なってるよ」
心の支えと言うのは自分以外にしか見出せない。だからこそ揺らがない信頼として由緒に手を出させるわけには行かないのだ。
出来る限り優しく説き伏せれば、最後に彼女は譲歩を掴み取った。
「……だったら見送りさせて? 帰ってくるのを待つんだから行くのを見届けるのは当然だよね?」
「…………分かった。但し家の前までな」
未来と頷きあって一線を引くと要たちも立ち上がる。
腰に下げた『スタン銃』の弾を確認してマガジンを交換すると再び仕舞い歩き出す。
部屋を出ると、何故か見送る側の由緒が一目散に廊下を駆け階下に降りていく。
本当に見送るだけで終わるのだろうかと不安になりながら、出来る限り静かに歩いて玄関へと辿り着く。
ここ数日で随分と歩き回り時間を共にした靴は、心なしか未来が来る前より汚れている気がした。
それはこの非日常の証であり、勲章だと小さく笑って玄関を押し開ける。
夏の太陽が降り注ぐ青空の下。アスファルトの道路の真ん中に立ち尽くす由緒。
きっと要たちとの約束を守って不健康に三日間外へ出なかったのだろう。住宅街の中で大自然を感じるように両腕を広げて空を仰ぐその姿に僅かに見惚れる。
と、不意に耳が騒音を捉えた。
音のするほうに視界を向ければそこには乗用車。あの赤い色の車体は確か、由緒の母親の乗る車だ。
そう言えばどこかに出ていたのか車がなかったと今更ながらに駐車場の方に視線をやって、それから気付く。
何で、減速しないんだ?
段々と近づいてくるエンジン音。そのタイヤが大地を踏みしめ前へと進む音が、僅かにだが音を高くしつつこちらに迫ってくる。
もう直ぐそこだ。あと100メートルもすれば駐車場。だと言うのに冬子の乗る車は減速するどころか煩いほどに走破音を響かせてこちらに迫ってくる────否、突っ込んで来る!
「由緒、由緒っ!」
思わず脳裏に雅人の事が重なって反射的に名前を呼ぶ。
しかしまるでその声に、音に気付いていないように、彼女はじっと空を見上げ手を広げたまま道路の真ん中から動こうとしない。
このままでは彼女が轢かれてしまうっ!
咄嗟に走り出そうとしたその体が、けれど既のところで止められた。
見ればその腕を掴んでいるのは未来。
「未来、何して────」
「そっか、そういうことか…………」
「は…………?」
要が問い質そうとして発した言葉に、未来もまたこちらの声が届いていないと言う風にうわ言のように呟く。
一体何を言っているのだ。何をしているのだっ! 由緒が轢かれそうなのだ、早く助けなければ…………。
「お兄ちゃん」
「未来、手を離────」
「目を閉じて」
振り払おうとしたその華奢な腕を、未来は強く離さまいとしっかり握り締めたまま要の事を射抜いて告げる。
「目、閉じて」
「何言ってんだ! 由緒が────」
「いいから言うこと聞いてっ! じゃないと由緒さん助けられないっ!!」
一体何を言っているのだと疑問が頭を埋め尽くす。
その刹那に視界に飛び込んできたのは虚のような黒い銃口。
思わず手で庇って閉じた瞼とほぼ同時、体に掛かる重力方向の変化を感じた。
これは未来の、異能力────!
駄目だ、駄目だ、駄目だ、未来っ! 由緒が轢かれて死んでしまうっ!!
「由緒ぉおおおおおおおおおっ!!」
咄嗟に叫んで開いた手のひらを伸ばしては見たが、そこに感触はない。
やがて瞼の裏に映る景色がどこかで見た景色に置換されていく感覚の中で。
俺は事故に会う目前の由緒を置き去りに未来と共へどこかの時間へと飛ばされた。