第三章
近くのコンビニで早めの夕食を買ってくると、それを食みながら今後の予定を詰めていく。
「まず《傷持ち》の目的。根底にあるのはお兄ちゃんだよ」
「俺が欲しいために、過去を変える……。いや、過去を変えると見せ付けて、俺をおびき出す、が正解か?」
「どうだろうね。どちらにせよ《傷持ち》にとってはお兄ちゃんこそが必要なピースだよ」
《傷持ち》の目的は依然分からないままだ。
何のために要を欲するのか。未来で何が起こるのか。要が何をするというのか。
異能力を発言しない要に何の利用価値がある?
「……未来は知らないのか? 未来で俺が何を引き起こすのか」
「少しは知ってるよ。もしかしたらそれかもしれないって事も」
「けど出来れば未来は未来の事を言いたくない。そうだな?」
頷いた彼女は、それから呟く。
「出来るからと言ってそれが正しいとは限らないよ」
未来人が未来のことを教える。それは歴史の成長を止める事に他ならない。
例えそれが歴史的に正しいことだとしても、言ってしまえば聞いた人物はその未来に向かってしか進めなくなる。未来に希望を持つ事を許されなくなる。
将来の夢だとか、どんな人と付き合うだとか。最後に行き着く先を知っていれば、過程なんてどうでもよくなってしまう。
だから彼女は言いたくない。
例えそうなると分かっていても、その言葉一つで過去の人物にとって進むべき道の未来を確定させたくは無いのだ。
「けど、もしそれが理由だとしたら少し面倒な事になるの」
「どういうことだ……?」
俯いた未来は、それから考えるように間を開けて告げる。
「…………お兄ちゃんは未来で何かをする。その成し遂げた事に対して、賛同できない人も存在する」
「まぁな……万人に認められる行いなんて高が知れてる」
「けど、今までそれを変えようとしてきた人は、あたしがどうにかしてきた。だからこそ、疑問が生まれるの」
言って、それから彼女は認めたくないという風に声を歪ませた。
「あたしがここに来るまでに起きた時空間事件は全て解決してる。つまりこの時空間事件は、あたしが居た未来より更に先の未来からの干渉って事だよ」
未来の言葉に要も追いつく。
未来は『Para Dogs』所属、時空間事件担当の時間移動能力保持者だ。彼女のやるべき事は唯一つ。歴史をそうある通りに成し遂げる事。
予知を受け、歴史が変わるという兆しを知れば、その干渉によって歪みが起きる前に止める。
そうして、彼女によって歴史は保たれてきた。
歴史や未来を改変するには、既に経験した過去へ干渉する事が簡単な方法だ。
けれど時間移動はその能力保持者の絶対数自体が少ない。つまりそう簡単には起こり得ない。
だからあまり時間を掛けずとも、過去において起きる事件を解決する事はできたはずだ。
過去に飛んで歴史を歪ませる時空間事件。
それを解決する優先順位は、未来が『Para Dogs』に入った時点より過去に起きたものが優先されるはずだ。
これから起きることよりも、歴史からしてみれば既に起きて、解決されたはずの事件をその通りに再現しに行く。
既に解決したはずの事件をその時点から次々解決していく。そうすればいつか、時空間事件が起きる前に未然に防ぐ事だって可能になるはずだ。
未来がいた未来より過去に起きた時空間事件を全て解決して、ようやく彼女は未来に同時進行に起こりうるそれらへ視点を向けられる。
つまり事件が起きたそばから対処が出来るようになる。
そうなれば未来が経験してきたより過去に時空間事件の発生はなくなる。
彼女が解決して歴史が守られてるから今未来が要の目の前にいる。
ならば過去に事件が起こっていないのならば、ありえる可能性は未来さえも知らない未来だけだ。
だとすれば、今回の時空間事件は、未来の元いた未来の時間と同時期か、それより先の未来で起きた事件と言う事になる。
そして彼女の言葉を信じるなら、未来がいた時間ではその事件の発生を認識していない。
つまり、予知が届くよりも先の未来で起きた時空間事件と言うことだ。
「……そうすると、幾つか想像ができる事はあるんだよね」
「《傷持ち》は、異能力保持者で確定か?」
「今までも現代人のお兄ちゃんに手出しして来てたしね。それから《傷持ち》が時間移動能力保持者でないとしたら…………」
「その後ろに居る時間移動能力保持者も、未来や由緒じゃない可能性もある、か…………」
《傷持ち》は『音叉』で時間移動をして要に接触を試みている。このことから《傷持ち》には時間移動能力保持者が協力している。若しくは《傷持ち》によって協力させられている。
けれど未来の話では、彼女の居た未来の時点では、未来と由緒以外に時間移動能力保持者は存在していない。
未来は要に味方する未来人であり、『催眠暗示』のような異能力には掛かり辛い。由緒も、今は安全が確保されているし、手出しが出来ないように透目が見張っている。彼女自身も進んで要を危険に晒す行為に手を貸すとは考えづらい。
ならば二人は恐らくシロだというのが要と未来の共通見解だ。
そして更に未来は語った。
予知できない未来に関しては、異能力発現者の情報は分からないと。
この仮定から考えられるのは、《傷持ち》の背後に居る時間移動能力保持者は未来とも由緒とも違う、第三の人物と言うことだ。
「流石にそうなると対処が難しいかなぁ……。制限は少しなら想像できるけど詳しく知らないとどうする事もできないし」
「抵触させたところで過去での歴史改変を先送りにするだけか。だったら今後出来ないように睨みを利かせる方がいいのか?」
「捕まえるのが一番だけどね。そのためには逃がさないことが先決で、決め手になるのは『スタン銃』か『抑圧拳』のどちらか」
「どちらにせよ不意を突かないといけないけど…………」
どうするべきかと黙り込んで、それからふと脳裏を過ぎる違和感に気付く。
「《傷持ち》は未来人で、未来がいた時間より未来から来たって事でいいのか……?」
「……そうだね。事件の発生自体を予知できなかったから、予知の届かない未来からって事になると思う。予知ができてればこうして事件が起きる前に解決することもできてるはずだから」
「でもあいつ、未来が俺を護衛してること知らなかったよな?」
呟いてその時の光景を思い出す。
「ほら、病院で。未来が《傷持ち》の正体を聞いたときに、あいつも聞き返したし。……もし未来が来る事を知ってればあんな反応をするのはおかしくないか? それ相応の対処も考えて来るだろうし」
「……そう言えばそう、だね。未来から来たのに過去で起こる事を知らない……」
「その辻褄合わせなら簡単だ。《傷持ち》は過去で起こる事を知らない。あいつが知ってるのは、俺が未来で何かをするということだけ。その都合が悪いから、過去の俺をどうにかしたいわけだ。つまり──」
「今居るこの過去の事を、《傷持ち》は知らない…………?」
背筋を悪寒が駆け上がる。
もしかして要らぬ時間移動をした? だとしたら早く現代に戻らなければ────
「あ、いやっ、待って。仮にそうだとしたらどうやって過去のお兄ちゃんを襲いに来るの? 過去で起こる事を知らなければ、どこにお兄ちゃんが居るかも分からない。そうしたら病院での事はどう説明するの?」
確かのその通りだ。過去の要が何処にいるかを知っていなければ襲うことは出来ない。
けれど要が過去でどこに居るかを知っていれば、未来が居る事が不信材料になるはずだ。
つまり前提が覆る。
病院で、初めて要を襲った《傷持ち》は、そこに未来が一緒に居る事を知った上で襲撃した────?
だとしたらどうして未来がいない時間を襲撃しなかった? いや、それは無理だ。未来が受けた予知は最初に要が襲われる過去だ。
だからもし要が一人のときを襲撃すればそれにあわせて未来もそこに存在する事になる。
となればやはり、未来の護衛がついている事を前提としての行動となる。
そうなれば《傷持ち》の思惑は薄っぺらい。単純に、武力で未来を圧倒できると思ったから襲撃した。
けれど失敗に終わったから、今度は由緒を誘拐したり、楽を傷つけて警告した。
となると、だ。《傷持ち》は要だけでなく楽や由緒の事も知っていたことになる。
初めから知っていたのか、それとも何か別の力で知りえたのか…………。
「……例えば、『催眠暗示』に掛けた相手から喋らせることはできるか?」
「可能だよ。……もしかして…………」
「あぁ。《傷持ち》が過去の事を知っていると言う可能性は二つある。一つは《傷持ち》のいた未来でも俺達の事を知る術があった、若しくは元々知っていた。それからもう一つは、この現代に来て俺の周囲の人物に『催眠暗示』を掛け、喋らせた」
要と、由緒と、楽。この三人に関する記憶を持つ人物は沢山居るだろう。
けれど《傷持ち》の視点に立てば痕跡は出来るだけ残したくないはず。つまりできれば少数から情報を集めたかった。
まず可能性として、要から記憶を吐かせると言うのは難しい話だ。要の周囲には未来や透目が居る。もしそうならその接触に対しての予知を彼女が受けているはずだ。
ならば由緒や楽はどうか。この二人なら未来や透目の観測を外れたところで『催眠暗示』に掛ける事は可能だ。けれどここで問題が生じる。
「まず俺は無いだろ。未来に守られてるし」
「そうだね」
「で、恐らく由緒と楽もない。もし二人に喋らせる『催眠暗示』を掛けたら、楽を自傷させる事も、由緒を傷つけずに誘拐することも難しくなる」
『催眠暗示』は同じ人間に一度しか掛からない。これは未来が語った『催眠暗示』の三大制限の一つだ。
《傷持ち》は未来人で、きっと現代人に危害は加えられない。だから廃ビルのときも要の嘘に一瞬でも騙されてくれた。
ならば由緒や楽には既に起きた過去から考えて、『催眠暗示』はその景色を作り出すために使われたと考えるのが妥当だ。
「次に高い可能性は俺や由緒の親に『催眠暗示』を掛ける可能性だ。もしそうなら今までにもチャンスはあったはずだ」
要、由緒、楽の事を知り。更には他の情報まで得る事が出来る。中でも群を抜いて狙われやすいのは要の母親、結深だ。
「……母さんが狙われてるとしたら、父さんに関する過去を変えようと行動を起こしても不思議じゃない…………。つまりこの過去にも意味は存在する事になる。それに最悪、この過去が無事である事を見届けた後でも現代に戻る事は可能だ」
「問題は、過去は変えられないって事だよ。もしお兄ちゃんの言う通りなら、あたしたちは既にその『催眠暗示』を防げなかった事になる。今からそれを正しに行く事はできない。」
「けど時間移動をこうして出来てるって事は歴史的にそれが正しいって事だよな?」
「そうだね」
裏を返せばここに来る事に意味はある……《傷持ち》がこの時代にいることの証明になる。
きっとどこかで未来や透目の目をすり抜けて、《傷持ち》はこの時代の事を手に入れている。
けれどそれはきっと歴史的に正しいことなのだ。そうでなければ、《傷持ち》が情報を吐かせるためにその人物に『催眠暗示』の干渉をした時点で歴史は歪んでしまうから。
だとしたらそこに関して考えるのは無駄だ。
「……とりあえず、《傷持ち》は俺に関する情報を、あの病院の襲撃以前に関しては知っていると考えるべきだろうな」
「だね。あとは、どれだけ未来の事を知っているかが分かれば、《傷持ち》が何時お兄ちゃん達の事をその人物から吐かせたかが分かるんだけど…………」
『催眠暗示』は現代人にしか聞かない。つまり現代人からしか情報は聞きだせず、その人物が経験した過去の情報だけを知る事が出来る。
例えばの話、未来が来るより前に結深に『催眠暗示』を掛けて要や由緒、楽の事を吐かせれば、未来や透目の事は聞き出せない。
つまり、《傷持ち》が要達について知っている情報が何処まで未来のことかが分かれば、どの時点の人物が『催眠暗示』に掛けられたのかは分かるということだ。
分かったところで聞いてしまえばそれが未来であろうと歴史は確定してしまうから、『催眠暗示』自体を妨害する事はできなくなるわけだが。
「けど分かったところで『催眠暗示』は止められないだろ?」
「うん、止められない。けど止められないだけで、痕跡としては覚えておける。その時代に立ち寄ったって言う証拠が残る。その証拠と、別の真実を組み合わせれば、《傷持ち》の次に起こす行動が分かるかもしれない」
何よりも《傷持ち》について後手に回っているのは、《傷持ち》についての情報が圧倒的に足りないからだ。
要を狙う理由。未来はそれを知っているらしいが、知っているからと言ってどうにかなる問題ではないのだろう。
何せ《傷持ち》は既に過去に来てしまっているから。来ないようにする事はできないから仕方ないのだ。
良くも悪くも、歴史はそうある通りにしか流れない。
「……まぁそれは運よく《傷持ち》から聞き出せたらの話だな。今はとりあえずこの後起こり得る事態への対抗策だ」
《傷持ち》はきっとこの過去の事も知っている。この過去を餌にすることで未来と由緒を別行動させることも一つの目的かもしれない。この過去に要と未来だけを隔離する事も思惑の一つかもしれない。
考えるほどにそのやり口に反吐が出る。
何処まで計算ずくか。何処からが偶然の産物か。
情報が少ない故にその線引きが曖昧になる。
だからこそ、最初に確信していた雅人の死への干渉と言うやり方も、起こらないという可能性すら浮かんでいるのだ。
けれど絶対に起こらないということはありえない。可能性がある以上、その未来を潰さないといけない。
「まずは目の前をどうにかする。もし当初の予想通り父さんを狙われたときに、その対処法がなければそれでおしまいだ」
「そうだね。…………とりあえずお兄ちゃんのお父さん……名前は、えっと…………」
「遠野雅人だ」
「その雅人さんがこの時間何処にいるかだよね」
「最悪家の近くで見張ってればいいけど…………」
「どんな仕事してたとかは?」
未来の言葉に記憶を旅する。
母親に教えられた知らない父親のこと。それから少し前に透目に転写してもらった記憶が混ざり合う脳内で、ようやくその単語を見つけ出す。
「……簡単に言えばサラリーマンだな。確か印刷業の、営業だった気がする…………。流石に何処に勤めてる、とかまでは分からないけど」
「やっぱり朝早かったりするのかな? で、夜は遅くなると……」
「嫌な想像するからやめてくれ…………」
何だか胸の内を抉られる様な気分だ。まだ学生の身なのに。朧気にしか将来の夢なんてないのに。ただ胸の内にあるそうなりたくないという願望だけは何故か人一倍に燃え盛る。
それは何処までも日常に埋没した機械のような日々を送るからだろうか……。非日常を渇望する要にとっては何処までも天敵だ。
「とりあえずその姿を目にしないことにはどうにもならないか……」
「腹ごしらえは大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だ」
散らかったコンビニ弁当のゴミをその店の袋に詰め込んで口を縛る。
話し合いをしながら食べるものは食べた。いつもより少し早い夕食だが、これから行動を起こすには丁度よかっただろうか。
「それじゃあ行こうか。まずは雅人さんを見つける。家に帰ったのを見届けて今日はそれでおしまいってことで」
「《傷持ち》が襲って来たら?」
「『スタン銃』か『抑圧拳』で捕まえる」
「……それを作戦と言うならこの世の全ては計画通りに進んでるだろうね」
「これは立派な作戦だよっ。だって未来は──」
「未来の手の中にあるから?」
「ちがうっ! そうある通りにしか流れちゃいけない過去だからっ! 恥ずかしいからやめてよ、もうっ…………」
からかえばようやく彼女は可愛らしく笑顔を浮かべる。
あまり難しい顔ばかりしていても空気が沈むだけだ。笑えるときには笑わなければ。
桃色に染まった頬は、けれど泊まるべき宿を後にすればその真剣な表情の奥に隠れる。
可愛らしく微笑む彼女も未来だが、こうして何よりも真っ直ぐに未来を見据える彼女もまたその一面なのだと。
凛としたその姿に異性以外の感情で惚れて思わず視線を逸らした。
要には足りない一欠片。未来に興味を見出せない現実主義な考え方。
だからこそ、この非日常を謳歌しようと未だ想像できない未来に手を伸ばす。
そんな風に少しだけ考え事をしながら向かった先。見慣れた一軒家に掛かる、遠野と言う表札に少しだけ安心する。
要の記憶より新しく綺麗な外壁。まだギンモクセイの木は育っておらず、庭にはきっとその小さな苗木が埋められていることだろう。
違うはずの景色。けれどそこに未来の自分が有する記憶を重ねて懐かしく思う。
ここが、要が生まれる前の、まだ二人だけの遠野家。
「……感動でもした?」
「似たような感じかな。俺はこの時代の事を知らないから、全部を理解できるわけじゃないけど」
本来ならば要には観測できないはずの時間だ。
だからこそ、そこに居るという事実と、殆ど何も変わらない目の前の景色の間で揺れ動く。
感動と呼ぶには些か記憶に欠けた感動。懐かしさと呼ぶには些か経験に欠けた懐かしさ。
知らないはずの知っている景色。
その違和感に何とも言えない温かさを感じる。
「会おうと思えば、会えるんだよな…………」
「会えば会うだけ、決まった過去を見つめる事が辛くなるよ? それを覚悟できてるなら、あたしは何も言わないけど」
遠巻きに見つめるその景色にあるはずのない勇気を探して足踏みする。
そのために来たわけではない。会ったところで、どうなるというのだ。
けれど会ったらどうなるのかと言う想像が巡っては、その胸の内でくすぐったく暴れる。
「…………いや、会わないよ。目的はただ一つ。歴史の再現だ」
零れた言葉は寂しい色を灯す。
そうして下ろした視線で、自分の手のひらをじっと見つめた。
幼い頃の記憶。死んだはずの父親と繋いだ手のひらの感触。その背におんぶをしてもらった高い景色。
あれは確かにあった出来事だ。その真偽は分からず仕舞いだけれども、今ここで何も考えずに目の前に縋りつけば、新たな思い出を刻むことはできる。
死んだ者との記憶。彼が生きていた頃の思い出。
けれどそれを持って帰ったとして、そこにあるのは、ただない事を噛み締めるだけの現実だ。
その喪失感に苛まれるくらいなら、始めから知らない方がどれほどましか。
「それにもし、言葉を交わしたりする事が正しい歴史なら、そうなるだけ、だろ?」
「だね」
「だったらそれを期待するよりも、そうなった時に受け止める覚悟だけで十分だ」
手のひらを握り締めて拳を作る。
そうして顔を上げていつも通りに戻る。
その横顔に、未来が視線を注いでいたが、けれど何も言わずに静かに顔を逸らしただけだった。
それからしばらく家の近くを監視していると、やがて写真で見ただけの父親の姿を見つけた。
黒いスーツ姿。その社会人としての制服姿に、僅かに感動を覚えながら、そこに動いて生きているという現実をただ噛み締める。
今はそれだけで十分だ。彼が無事ならば──
例えこの先どんな事が起ころうとも。
笑顔の雅人を出迎えた結深は今より更に若く見えて、学生服を着ても似合いそうなほどに童顔なその姿に少しだけ安堵する。
誰だって、赤ちゃんと、子供の……若い頃があったのだ。それが知りえない事だから想像だけに留まって、こうして何かの縁で知ってしまえばそれだけの感慨。
ただそこに生きているという事にうれしくなる。
「彼が、雅人さん?」
「……そうだな。残念ながら、実物をはっきりと見るのはこれが初めてだけどな」
「やっぱり寂しかったりする?」
「…………いいや。ただ嬉しいだけだよ」
「そっか…………」
未来の声に答えれば、彼女はどこか安心したように微笑を浮かべた。
それからしばらく雅人の帰った家をみつめて、徐に踵を返す。
「優しそうな人だったね。ちょっとお兄ちゃんに声が似てたかも」
「親子だからな」
口にして、その言葉に何よりも誇る。
そう。親子だ。
たとえ会った事がなくとも。言葉を交わした事がなくとも。そこには血の繋がりと言うものが存在するのだ。
彼は間違いなく、俺の父親だ。
「……帰るか」
「そだね。明日は朝から護衛するからそのつもりでね」
「分かった」
未来の言葉に頷いてまた一歩を踏み出す。
今はただ、知れただけで十分だ。
何より、過去へ深く関わるのは冒涜的とも言える行為だ。
だから、これでいいのだと。
胸に満たされた満足感を手のひらで掬ってはその温かさに嬉しくなる。
彼の死は、必ず俺が見届けるのだと。
翌日、朝早くから要達は過去の遠野家へとやってきていた。
昨日未来と話した通り朝から雅人を遠くより護衛するためだ。
接触はせず、飽くまで遠くから見守る。それが未来と話した末に出した結論だ。
要としては彼が無事に生きているという事実さえあればそれで十分だ。例えこの後どんな事故に巻き込まれてその命を落とそうとも、要には関係のない話。全ては終わった過去にして起こるべき歴史だ。
そんなことで悔やむほど要は愚かではない。
きっと普段と変わらない様子で通勤する雅人。向かっている方角は駅の方だ。
電車を介しての移動だろう。一応彼が会社に行くまでは護衛をするつもりなので同じように行動をする。
まだ公共交通機関に電子マネーのない時代。自動改札機もその構想だけはあっただろう時代に、駅員が改札に立って切符を切る懐かしい風景。要も小さい頃の記憶で、未来にとっては不合理で原始的なやり方に見えるだろうか。
技術の革新は目覚しく、要の生きる時代では当たり前の事がたった十数年前ではありえなかった景色。
その便利な世の中の変遷をまざまざと感じつつ愛想のいい駅員さんに挨拶をして改札を通り過ぎる。
どうでもいいが黒い制服に角のついた帽子と言う出で立ちは、どこか警察官のそれと重ねてしまうのだがこの感慨は要だけだろうか?
黄色い点字ブロックの内側。未来の都会のそれとは違う、有り触れた駅のホームに佇んで辺りを見渡す。
スーツに身を包んだ男性に早くから学校の制服を着て登校風景の高校生らしい女子。それから杖を突いた老人もいて煩雑にして有り触れた景色に小さく息を吐く。
小さな列の出来た順番待ちの人の中、隣に立つ未来はその目立つ髪色を隠すためか可愛らしいキャスケット棒をかぶっていた。
「電車に乗るの、久しぶりかも」
「……普段乗る機会は?」
「ほら、現地に行って、解決して、戻る。大抵はそれだけで完結しちゃうし。……それに未来だと」
言い掛けてやめる。
それは要が深く未来の事を知り過ぎないが為の配慮だろうか。最後に忘れてしまうなら言ってしまってもいい気がするのだが……。
中途半端に次いだ言葉の先を想像のオーバーテクノロジーで補って飲み込む。
「何にせよ、ここにしかないものも確かにあるからさ」
「……鉄道とか、電車の型番とか?」
少しだけ考えて尋ねてみる。
キハだとかN700系だとか。要は別に鉄道について詳しいわけではないが、それでもニュースや何かの本で目や耳にしたくらいのにわかな知識程度はある。
「あ、いや。そういう話じゃなくて。……技術が進歩したら何れ廃れちゃうものもあってさ。それが現役で意味のあった頃って言うのは、やっぱり懐古的な嬉しさとかちょっとした寂しさとか、そういうの……。あんまりうまく言葉にならないんだけど……」
言って恥ずかしそうに笑う未来。
彼女は時間移動者だ。きっと今より過去、今より未来の幾つもの時代を渡り歩いてきたはずの理から外れた存在。
そんな彼女が知っている常識と、時間移動をした先の風景との間に存在する差異に、日本的なわびさびとかを感じるのは間違ったことではないはずだ。
逆に、彼女の中にそんな気持ちが残っているからこそ、人間らしく異世界の括りに全てを丸投げしないで居られる。
知っていることで何かを語る事が出来るというのは、そこに確かな繋がりがあると信じられる証拠なのだ。
「未来の楽しみの一つって事?」
「……そうかな。そうかもっ。うん、色々思う事はあるけど、そこにはきっと色々な意味での興味があるからさ。…………何だかちょっと年寄り臭いかな?」
「そんなことないよ。ほら、学校でだって歴史とか習うし。それの延長線だと思えば」
「なんか違う気がするけど……ま、いいやっ。とにかく、そんな話っ」
何かを噛み締めるようにそう言い切った彼女の言葉に、要も胸の内に疼く感情を見つけてそういうものだと納得する。
要にとってもこの時代は過去だ。
要の生まれる前の、知らないはずの過去。けれどそこには要の知っている人や知らない生活があって……それをいいものだと思う気持ちに間違いなんかは決してないのだと。
そんな事を考えた景色の中で、ホームのスピーカーから電車が入ってくるとのアナウンスが流れる。
過去であるという現実に引き戻された要は、それから目の前に止まった電車の出入り口を見つめて静かに思う。
本当にどうでもいいけど、日本のこういう時間とか場所にきっちりした性格はすごいものだ。
何せ要の居た時代でも賞賛されるその几帳面さ。引き合いに出すのは引けるが、外国では電車が遅れるのはざらにあることで、何かトラブルが起きても逐一放送を掛けなかったりもする。仕事に遅れた理由が電車が一時間遅れたからだと言うのが通用するのだからその国の性格に脱帽するばかりだ。
世界から認められた日本人の律儀にして融通の利かなさに小さく笑えば、空いた車内で雅人が見える位置に腰を下ろす。
因みに彼が何処まで向かうかは先程切符を買うときに盗み見た。ここから二駅先の町までだ。
ここはあまり利用する人の多くない路線。人口の多い政令指定都市からは少し離れたところに位置するこの地域は車内の席が埋まる事は殆どないようだ。
片側の席に悠々と一人で乗れるし、周りにさえ気をつけていれば座席に荷物を置いても文句など言われない。どちらかと言えば閑散とした路線だ。
要の居た時代ではもう少し人口も増えているために、他人の隣に座る事を受け入れなければ座席を確保するのは難しい。それでも運がよければ二人掛けの席に一人で座れたりする事も時折あったりするが。
今回は早朝と言う事もあり特に人の少ない時間帯。夏だからこそ明るいが、冬ならばまだ群青の空色だろう時間だ。
別に詰めて座る必要もなかったが、どこか嬉しそうに腕を引っ張った未来に連れられて彼女の隣に腰を下ろしていた。そんなに電車が珍しかっただろうか?
「電車って、遅いよね」
「そうか? 俺は早く感じるけど。……橋の上で止まったりする路線もあるからそういう意味ではのんびりしてるかもだけどな」
「そうじゃなくてね……。早く動いてるはずなのに遠くの景色はあんまり変わらない。実際は早いはずなのに、乗ってると速度はあまり変わらなくて、このままずっとどこかへ行っちゃいそうな気分になる。そしたらほら、時間なんか気にしなくて済むのにって」
時速80kmほどだろうか。高速道路を走る車に乗っている程度の速さで流れる窓の外の景色を、楽しそうに見つめるその横顔に視線を奪われて。どこか優しく笑うその表情に思わず近い距離感を改めて感じる。
鼻先にさえ彼女の匂いが香って。どこか甘い女の子特有の匂いに知らず居心地を悪くする。
「……未来は、このままがいいのか?」
「………………どうだろうね」
答えるまでに空いた間で、彼女は一体何を考えていたのだろうか。擽ったそうに響いた鈴の音の様な彼女の声が、要の記憶に甘く寂しい感情を残して刻まれる。
「ただ、そうだね…………もし事件も起きなくて、誰にも咎められなくて、ずっとこの場所にいていいって言われたら、そうしてもいいかもって思うよ」
「そんなにこの時代が好き?」
「…………好きなのは、この空気。ほらっ、お兄ちゃんも隣にてくれるしっ」
言ってこちらに振り返った彼女は、はにかむように笑う。
その僅かに染まった頬に、思わず胸を跳ねさせながら視線を逸らした。
そんな要にくすりと笑った彼女は、それから再び手の届かない遠くの景色を眺め出す。
もし二人の間に紡がれる関係が、上辺の兄妹ではなく恋人であったなら、無防備に下げられたその手を取っても文句は言われないのだろうと、どうでも良い事を考える。
考えたところで、そんな事実は何処にもないのに。
それはただの、非日常に憧れる要が求めるある種の理想かもしれない。はたまたどこかにあるかもしれない事件と言う可能性から視線を逸らしたいだけの言い訳かも知れない。
例えそうだとしても、この時間はここにあって、この空間には確かに未来が居るのだと。
そんな他愛も取りとめもない事をつらつらと考えて時を過ごす。
そうして気付けば辿り着いていた二駅先。電車を降りる雅人に着いて駅を出れば、要もあまり見慣れない町の風景に異次元に迷い込んだような感覚を覚えた。
「お兄ちゃん?」
「……何でもないよ。追いかけようか」
「うん」
先を歩き出した未来が振り返って問うて来る。
その何気ない表情に、どこか楽しそうな音を聞いて視界の先の父親の背中を追いかける。
現実感がないのはこの時代が過去だからだろうか。それとも既に見慣れた未来の赤髪が、今日はキャスケット帽の中にしまわれて、そこに居る彼女が何でもない普通の少女に見えるからだろうか。
そんな事を考えて踏み出した足が、それから繋がれた手のひらの感覚に引っ張られる。
「……いいよね、兄妹、だし…………」
「…………そうだな」
柔らかくて暖かいその感触。今までにも二度繋いだはずのその手のひらは、けれど初めて握るようにおっかなびっくりで、互いに落ち着きなく相手の感触を確かめるように幾度か力が入る。
「んふっ、くすぐったいよ、お兄ちゃん」
「未来だって同じだろ?」
「お兄ちゃんがして来るからし返してるだけだよっ」
気恥ずかしく紡いだ旋律に、未来は桃色に頬を色付かせて笑う。
全く、暢気なことだと。
今の景色を客観視した自分が何処からかそんな事を考える。
けれどまぁ、仕方ない。
これは二人にとって、知らないはずの異世界の事だから。知りえない景色で紡がれる物語を幻想染みた主観で語るのは有り触れたお話の主軸だろうと。
今だけは要が物語の主人公になれた気がしながら歩みを進める。
そんな風に恋人を装いながら数メートル先を歩く雅人の後を追いかける。
この辺りは、あまり来た事がない地域だ。記憶では楽と何かをしに来た事があった気がするのだが……あの時は何をしに行ったのだったか。
どうでもいい記憶を思い出しつつ歩いた道程。そうして雅人が一つの建物に入っていくのを見届けて足を止める。
ここが要の父親の仕事していた場所。過去の決められた歴史に新しく知るという感慨も面白いものだと思いつつその建物をしばらくの間見上げる。
知らなかった事をまた一つ知って胸の内に去来する感情をしばらく大事に抱え込む。
そうして無意味にして意味のある時間を過ごした後、隣の未来が零す。
「……さぁて、これからどうしようか」
「出てくるまで待つってのも何だか疲れるしなぁ…………。あっ……いや、駄目か……」
さて雅人が帰途に着くまでの時間どうしたものかと時間を潰す手立てを模索する。
未来の言葉に土地勘のない景色を見渡して近くに何か娯楽施設は無いものかと探す。
そうして間を埋めるために零した言葉に続いたのは服のポケットに入ったUSBメモリの記憶。
時間があるなら確認を、とも思ったが直ぐに行き詰る。
まずこの時代だとインターネットカフェが殆ど存在しない。それにOSも古い。USBメモリ自体はあったはずだが、未来のそれが使えるかといわれれば少し疑問が生まれる。
まずインターネットの環境が整った場所を探さないといけないわけで、それが面倒だ。
「どうかしたの?」
「いや、何でもない。時間を潰すとなるとどこかファミレスみたいなところがいいか?」
「だねぇ。美味しいところがいいなぁ」
どうでもいい会話をしながら止まっていた足を出す。
とりあえず歩いてみて、それから何か視界に入ればそこで時間を潰すのも悪くないと。
これではまるで計画性の欠片もないように聞こえるが、そこまで考えていなかったのだから仕方がない。と、何事かに対して言い訳をしつつ時間を潰す。
当初の予定通りファミレスで食事をしたり、近場で少しばかりショッピングをしてみたりと。頭の片隅に《傷持ち》の事を起きつつ、けれど緊張とは真逆の雰囲気で世界に馴染む。
こういう日常に溶け込むことこそが時空間事件解決に向けて最も大切なことなのだと。どこか自慢気に語った彼女は要よりも楽しそうに笑顔を浮かべていた。
彼女にとっては時間移動をした先こそが彼女が居るべき日常なのだろうと。理の外にいる未来の今を一緒に繋ぎとめつつ夕方まで時間を浪費して。
恐らく一般的な尺度である夕方5時頃。自販機で買った未来では飲めない味を楽しみながら雅人が働いている職場の出入り口を見守っていると、朝より少し疲れた様子で出てくる彼の姿を見つけて後を追い始める。
今日は八月の十日。もし《傷持ち》がこの時代に来ているのだとしたら勝負に出てくるのは事故が起きる十一日だ。
だからこれはある種の牽制。もし《傷持ち》が既に機を窺っているのだとしたら既に要達が先回りをしていると知らせる抑止力。
何も起こらなければそれでいい。ならば起こさないように行動するのも一つの手立てだ。
「《傷持ち》、来ると思うか?」
「……五分ってところじゃないかな? 少なくとも今日仕掛けてくるって事は……いや、あるかも」
「と言うと?」
「あたしたちがこうして見張ってる事を知ったなら、それを排除しようとしてもおかしくは無いよ。障碍は少ない方がやりやすいわけだしね」
《傷持ち》の視点に立てばその考えも見えてくる。そこまで現実的な可能性があるかと言われれば頷き難いが、そう仮定するだけでも十分なアドバンテージだ。考慮の外と言うのが一番厄介な敵。
「だからもし今日狙われるとしたら、雅人さんじゃなくてあたしたちだと思う」
「……元はと言えば《傷持ち》の目的は俺だしな」
過去にやってきて、その過去で起こすべき歴史改変の最優先が雅人だから忘れかけるが、その行動理由だって歴史が変われば《傷持ち》にとって有利に働く可能性があるからってだけで、別にこの過去で何かを起こさなくてもいい話だ。
ただこちらの精神的な影響を考えて、死ぬはずの人間を生き長らえさせるという倫理に逆らった餌をちらつかせているに過ぎない。そしてそれを、要は既に納得した。
だからこの時代でやるべき事は、彼の死を見届け、自分自身も無事に元いた時間に帰る事だ。
「心構えだけはしとかないと」
「何かあったらあたしがお兄ちゃんを守るからっ」
「出来る限り迷惑はかけないようにするよ」
頼もしく笑顔で告げる未来に要も返して、それから朝来た道を戻り、雅人を護衛しながら再び電車へと乗る。
行きの景色を逆回しにしただけの風景の流れ。
けれど段々と傾いで来る太陽の光に朱が混じり、山々の緑を紅に染め上げ景色を幻想的に彩る。
時の流れはいつも通りで、こんな景色今までに何度も見てきたはずなのに。ただ知りえない過去にいるというフィルターのお陰で目の前の景色が唯一のものだと錯覚する。確かにこの一瞬だけを切り取れば世界に一つだけなのかもしれないが。
そんな感慨を胸に抱きつつ、戻ってきた見慣れた町並みに安堵する。
やっぱり知っている景色と言うのは心が落ち着くものだ。
「……しかし本当に分からないな、《傷持ち》の目的。そろそろ何かきっかけでもないと想像だけじゃ補いきれない…………」
「お兄ちゃんが、未来の事を知ってそれを受け入れて、そうなるしかない未来に屈服するって言うなら教えてあげられることもあるんだけど……」
「それは出来れば最後の手段にしたい。知らなければ、もしかしたら《傷持ち》の行動をこれまで起きたことだけで済ませられるかもだしな」
これまで要の前で起きてきた事は、要にとっても過去の出来事だ。だから今更それを変える事はできない。
けれどこの過去で起こる事は要にとっては未来の出来事だ。
《傷持ち》が来ると決まったわけでもなければ、そうなるという予知を知っているわけでもない。つまり要の主観と歴史とを照らし合わせてみれば、雅人も狙われず、何も起こらずにこの過去は平穏無事と言う未来が残されている。
ならば例えば、今この瞬間に要が《傷持ち》の目的を看破して、その身柄を取り押さえ、これから先起こるはずだった時空間事件を未然に防ぐ事だって可能なわけだ。
《傷持ち》が『催眠暗示』で過去を変えられるように、要だって知らない未来を変えられる。
その根拠の無い自負だけが、今の要を突き動かす。
「そのためにも、この過去で起こる事に対して受身になっちゃいけないんだけども……」
呟いて考え込む。
どうすれば《傷持ち》の狙いを探る事が出来るか。
例えばの話、《傷持ち》が自分だとしたらどうだろうかと…………。
《傷持ち》は未来人だ。今まで未来が語った言葉を裏返して、要が異能力を発現するという可能性は無いに等しい。けれど例えば、この時代では無いだけで、未来の要が『催眠暗示』に目覚めたとしよう。そして自分のして来た事が間違いだと……過去を変えてでも歪めたい歴史だったと考えたとするならば、《傷持ち》はどうあっても要が未来で起こすだろう事を知っていなくてはならない。
つまり過去現在未来を含めて、要と一度でも関係を持った者こそがその候補に含まれるはずだ。
ならば逆に考えて、今の要が経験してきた記憶から《傷持ち》の正体と目論見を推察する事はできるはずなのだ。
未来は語った。要が未来で起こすその出来事は、異能力者に関係していることだと。
要の周囲で、未来でも確実に傍に居るだろう異能力保持者と言えば──由緒だ。
つまり要にとって都合の悪い事が、由緒の身に起きた?
それと同様に、《傷持ち》の周囲に居る人に何かの災厄が降りかかった?
だから《傷持ち》は要が未来で起こすだろうその何かを妨害するために今の要を狙う──
だとすれば、だ。要にとっての由緒のように、《傷持ち》にとってのその誰かが分かれば解決の糸口にはなるはずだ。
「……未来は《傷持ち》についての心当たり、とかはないんだよな?」
「そうだね。それから少なくとも、だけど、あたしの知ってる未来のお兄ちゃんは《傷持ち》じゃないと思う」
未来は未来人にして、この時代の事を知る人物だ。
だから未来の要が何をするのかを知っている。つまりそこから考えて、未来の知る人物が《傷持ち》だという可能性は低い筈だ。
「由緒も、違うよな。未来は由緒の事を知ってた。由緒が異能力を発現するのを知ってたんだから」
「うん。由緒さんも、《傷持ち》じゃない」
「次に考えられるのは、楽だけど…………」
「現代人なら違うよね。『催眠暗示』の発現も、あの時代では観測されてない」
《傷持ち》は要の未来を知る未来人。要の周囲で未来人と言えば……。
「あんまり考えたくないけど、透目さんとか」
「それはないよ。確かに『記憶操作』は間接作用系異能力だよ。けど『Para Dogs』に所属してる人は異能力が必要になる事象以外でそれを使う事を禁止されてる。何より歴史を守るための組織なのにそれに背くなんておかしいでしょ?」
「いや、ただの可能性の話で、俺だってそうだとは思ってないさ。未来のお父さんなんだろ? 未来が俺に協力している以上、あの人が何かするのは考え辛いしな」
思わず口にした名前に未来から怒涛の反論が返る。
もう少し考えて発言するべきだったと小さく後悔しつつ話題を逸らす。
「……《傷持ち》の正体は俺には分からない。けどその目的ははっきりしてるし、ならそこを逆手に取る方法ってのはどうなんだ?」
「罠って事? でもそれならこの時代じゃなくて未来の元いた時間の方がやりやすいよ。あっちの方が未来の道具も沢山あるし」
「ってことはこの過去ではあわよくばを望むほか無いって事か……」
可能性を模索しながらありえない想像を頭の中から排除していく。
こんな時に『接触感応』でも居れば直ぐに理由が分かるのに。
虚を突いて、《傷持ち》の心を読み取って、目的を知る。
たったそれだけで事件は解決するはずの出来事は、けれど足りないピースをどれだけ願っても結実することは無い。
しかしそんな事を願う片隅で、未来とのこの異世界染みた非日常に感謝もしている。
もし『接触感応』のように一瞬で事件が解決してしまってはこうして過去に来る事も、生きていた頃の父親に会う事も、なによりこうして一秒でも長く非日常を謳歌していることもできなかったはずだ。
だから感謝こそすれども、《傷持ち》の捕まえきれない尻尾を追いかけている現状に苛立ちや悪態など湧いてこない。
もちろん要の周囲に危害を及ぼす《傷持ち》に関しては一刻も早くその身柄を拘束したいところではあるのだが……。
「で、この過去で何ができるかって話だけど……お兄ちゃん、やっぱり楽しそうだね」
「楽しくなければこんなところまでついてきてないだろ?」
「好奇心は猫をも殺すって言うけど……」
「それって確か別の言葉から転じたものじゃなかったっけ?」
「元は『Cat has nine lives』……猫に九生あり、だね。外国の諺だよ。転じて『Curiosity killed the cat』……好奇心は猫を殺す」
「博識だな」
「『Para Dogs』の行く先が日本じゃない何て事はざらだよ? 一応中国語、スペイン語、英語とそれから日本人だから日本語は話せるけど」
ただの教養だとでも言う風にどうでもいい事として告げる未来。
となると未来は今要が住んでいるこの地球上において、その殆どの人と会話をする事が出来るというわけだ。
何かの本で読んだが、日本人は世界の中でも相当語学に関しては遅れているらしい。近隣の国でも二ヶ国語話せるのはほぼ当たり前。最悪英語さえ話せれば世界では生きていける。
日本人だから日本語以外は必要ないと、方便を振り翳して自己の怠慢を正当化する人たちを責めるわけでは無いけれど。賢く、事故無く生きようと思えば一つの事に固執するよりも、もっと広い視界を持った方がいいのは確かだ。
確かだが、それを勉強だと思ってしまうと長続きしないのが人間の性。心の底から学ぶ事に意味を見出せなければその一歩は近くにあってもないようなものだと自分に言い聞かせる。
「そう言えば当たり前と言うか、違和感を抱かなかったけど……《傷持ち》は日本人なんだよな」
「……そうだね」
今更ながらの感慨を零せばそれが違和感のように広がる。
「……って事は別に未来の俺のやった事は世界から狙われる出来事って訳じゃない…………つまりこれは、俺の周囲で起こる内輪の諍い事ってことか?」
「…………犯人はお兄ちゃんの近くに居るって事?」
「未来の言う未来の俺がしでかす何かって、別にそれが襲われる理由って訳じゃないよな?」
「まぁ、そうだね。一番敵を作りやすい大きな出来事がそれってだけで、別にそれが本当の理由って確証はあたしにもないよ」
要がよく読む物語でもよくある話だ。
大きな出来事の裏に隠れた別の小さな何かが本当の犯行理由。それが分かった途端真犯人が出てきて物語が解決する……。
未来にも確証が無いのならその可能性だってありえるはずだ。
「唯一つ疑問があるとすれば、理由がお兄ちゃんの個人的なことなら犯行動機は私情だよ。個人の思惑。だとしたらそこに未来の事が絡んで来るのが分からない」
「……何でだ? 普通に《傷持ち》の正体が未来から来た俺に縁のある誰かってだけなんじゃ?」
「お兄ちゃんに縁のある人ってつまり事件を起こすまでは現代人って事だよね? 何で異能力を使うの? 何で異能力頼りな計画なの? それじゃあまるで《傷持ち》が異能力の発現を知ってて利用したみたいに聞こえるよ?」
「え…………あ、そうかっ」
例えばその《傷持ち》が要に何かをしようとしたところで、現代人であるならば過去に戻る事も未来の道具を使う事も出来ないはずなのだ。だって異能力やそれに類する便利な道具はそこから増えていく超常現象で、そのからくりは未来の居た時代でも解明されていない。ましてや異能力を発現したばかりのその人物が行動を起こしたところで、結局はどこかで制限に抵触するだけだ。
なのに何故《傷持ち》はそれを避けていられる? 話は単純だ。《傷持ち》はその異能力について知り尽くしているから。ブースターや『スタン銃』と言った未来の道具を予め知っているから。
そこから裏を返せば《傷持ち》が異能力を発現したばかりの誰かと言う可能性は潰れる。
何より異能力が発現すること事態が想定外で、そんな事を予測できる人物なんて居ないはずだ。
異能力を持って時空間犯罪を初めとする異能力関連の事件を解決する組織、『Para Dogs』。その監視は予知によってなされ、過去に起こる出来事までをも観測する。
ならば例え異能力発現を予め知っていて、それとほぼ同時に事件を起こそうとしたとしても、事件が発生する前に未来達がその身柄を取り押さえるはずなのだ。
それに彼女は語った。この時空間事件は予知の届かない場所から行われた事件だと。
つまり未来が生きていた時間より更に未来の話で、例え異能力が発現する事を知っていたとしても、起きる事件よりもそんなに気長に待ってまで仕返しをするほど粘着質な、《傷持ち》のその気概にこそ怖くなる。
それよりもまず、未来が生きていた時代に要が生きていたかどうかも怪しい。どれ程未来の出来事か分からないのだから想像でしか語れないが、ならば要の周囲の人間なら《傷持ち》だって寿命で死んでいる可能性だってありるのだ。
《傷持ち》が要の周囲の人間だとするならばそれは遠くない未来の話で、ならばやはりそれは『Para Dogs』に捕捉されるはずの──起きないはずの事件だ。
だとすればやはり《傷持ち》の正体は要を知る要の知らない誰かで、理由は要が未来に行うその出来事なのだろう。
そして要の周囲の誰かが《傷持ち》の正体であると言う可能性も、存在しない。
「……《傷持ち》が俺の周囲の人なら、未来の道具や異能力について知りすぎている、か。そうでなくても異能力、得体の知れない力。その統治機構はきっと早くに作られるだろうな」
例えそれが保護と言う名目を謳った研究や解明が本当の狙いだとしても、『Para Dogs』のような組織は早くに出来上がるはずだ。
そうなればやはり手に入れて直ぐに異能力を使って悪さを……それも頭を使う時空間移動を伴う犯罪を起こすのは少し無茶が過ぎる。
「つまり《傷持ち》は俺の周囲で俺に私情を持つ誰かって可能性はとても低いわけだ。となるとやっぱり未来も知らない未来からの来訪者? でもどうやってこの時代の事を?」
「……嫌な想像の一つとして、《傷持ち》の内通者が『Para Dogs』に居るって話。そうなれば情報を横流しして誰かに記憶を植え付けてもらい、それを頼りに時間移動能力保持者を操って過去にやってくる事は可能だよ」
「…………何だか随分話が大きくなってきたな……。お願いだから俺を未来の内戦に巻き込まないでくれよ?」
「……だったらそんな嬉しそうな顔で言わないでよ…………」
呆れたように溜息を吐く未来に心外だと視線で抗議していると、気付けば家まで戻ってきていたらしい。
視界の先の見慣れた家へ入っていく記憶の中の存在に少しだけ懐かしさを感じながらその安全を見届ける。
この懐かしさは、きっとこの時代の元の記憶保持者である結深の感情だろう。
透目の異能力で移植した彼女の記憶。それが要の心にもある憧憬と重なって強い懐旧の念を示しているに違いない。
そんなことより何より、要個人としては生きている自分の父親を見れているだけで十分に意味を感じているのだけれども。
「今日も襲っては来なかったな……」
「最初に想像した通りならやっぱりこの時代での目的は雅人さんの死の回避だからね…………」
呟いて未来がこちらに向き直り尋ねて来る。
「……本当に大丈夫? 護衛するって事は、その死に様に立ち会う可能性がある。そうなった時体が勝手に動いた、で変な行動を起こさないって約束できる?」
確かにそうして面と向かって訊かれれば僅かに気持ちは揺らぐ。
けれどこの歴史があるように流れなければ歴史は改変され、要のいた時間で時空間事件すらも起こらなくなる。そうなれば未来とも会えなくなるし、こんな非日常の遊園地に身を投じることもなくなるだろう。
ならばやはり今謳歌している現実を命一杯楽しむために、この過去はそうある通りにしか流れてはいけないのだ。
何より、そう彼女に誓ってここまで無理強いをした我が儘。これ以上彼女に迷惑は掛けられない。
ならばやはり口惜しいが、早く《傷持ち》を捕まえなければならない。
「…………大丈夫だ。ここに来る前にもそう約束した。それに、だ。歴史からしてみればこうして俺たちがこの時代に来ることもまた正しいこと、なんだよな?」
「……そうだね。未来からの事を知っている観測者はあたしたち二人しかいないけど。確かにそうでないといけない歴史だよ」
「だったら俺にはそれを見届ける義務がある。例えどんな結末。分かりきった過去でも、それを見届ける権利と義務がある。ならそれを不意にはしたくないし、やるべき事だって嘯いてみせる」
本当ならこんな時間旅行、ありえないはずの景色だ。ありえてはならないはずの景色だ。
それが歴史によって肯定されているからそこに居るだけで、極一般的に無味無臭な日常を色も無く過ごすなら起きてはならないはずの事件だ。
外れた時の歯車、隔絶された空間の扉の、その向こう側。
倫理的に許されない理の向こう側にいるという自覚を、要は今一度もたなければならない。
その上で、これは非日常だからと謳歌するべきなのだ。
「……うんっ、信じてるから。最後まで、信じさせて」
「もちろんっ」
笑顔で答えて過去での居城に戻ろうとそちらに足を向ける。
そうして唐突で不意な異様の存在をその視界に刻み付ける。
「やぁ、諸君────」
黒いレーシングスーツ。黒いフルフェイスヘルメット。雑音交じりの耳に痛い機械音。
まるで運命を引き裂く死神のように、全身黒尽くめのその人物は誰でもない顔で静かに嗤う。
「《傷持ち》…………!」
急激に胸に競りあがって来る苛立ちと成すべき信念がその突然を射貫く。
刹那に、視界の先はアスファルトの大地を蹴ってこちらへと急接近してきた────!




