表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パラドックス・プレゼント  作者: 芝森 蛍
二律背反の過去なる真実
10/70

第二章

 少しの間休憩して、それから《傷持ち》が取るだろう行動の可能性の探索を再開した。

 そうして出た結論は全部で三つ。

 一つ目は結深(ゆみ)(らく)たち、(かなめ)の周辺の現代人を『催眠暗示(ヒュプノ)』等に掛けて人質に取る方法。

 二つ目は廃ビルのときはやってこなかったが、あのときの要のように物量作戦。

 そして三つ目は少し前に考慮した、今より過去に干渉して今要達がいる現実の歴史を改変するもの。

 一つ目は最悪過去から返ってきてフォローすればいい話だ。もし誘拐するのならば脅迫状が届くはずで、そうなれば分かった時点から約束の時間に遡って今度こそ《傷持ち》を捕まえるだけ。

 一度周囲の誰かを危険に晒すことにはなるが、そうしないと別の方法が取れないのだ。時間移動で重なることは出来ても、今この時に二人以上に分裂することはできないのだから。

 最も対処がしにくいのが二つ目。未来(みく)由緒(ゆお)が重なれば、その後の行動が不能になる。例えば《傷持ち》が複数人で現れたとしても、数を揃える為には同じ時間に重なっても問題のない要や透目(とうもく)しか助力には来られない。

 《傷持ち》は『スタン(ガン)』などの武装をしているし、ブースターもある。

 《傷持ち》の体がブースターにどれだけ耐えられ、どれ程の身体能力向上をするのかは不明だ。どんな種類のブースターを使っているかが分かれば、未来の知識でどうにかなるかもしれないが……。

 対策を重ねることは出来ても可能性が潰れるわけではない。最終的には起こらないように祈るだけだ。

 最後の三つ目。未来の見立てでは恐らく一番可能性が高いだろうという、過去干渉。

 何せ《傷持ち》がいつ頃に飛んで過去でどんな策を巡らせるか分からない。結果を求める先は要の父親、遠野(とうの)雅人(まさと)の死の回避か、結深の死。若しくは過去の要の死だろう。中でも一番標的にされて困るのは雅人の死だ。

 要個人にとっては既に死んだ人物。それが死と言う枷から一時的に逃れられるのだと考えれば、ありえるかもしれない家族三人の未来に未練が募る。

 けれどそうある風にしか流れない歴史。歪めることは許されない歴史。

 そうなれば要はその死に直面する事になるだろう。

 そうして喪失感に苛まれ、精神的に傷を負うだろう。そんな折に《傷持ち》が現れて襲撃を受ければ、要は間違いなく足手纏いになる。未来へ迷惑をかけ、負担を増やし、もしかすると……という可能性だって無きにしも非ずだ。

 後手に回らざるを得ない状況で、《傷持ち》はきっと最善手を打ってくる。

 それに対抗しうるだけの、事実を突きつけられて尚折られない精神を。

 要は覚悟を決めてその過去を、未来を受け入れる。


「それじゃあ最終確認ね。あたしが守るべき優先順位は、過去改変、人質救出、直接干渉。お兄ちゃんは、どんな事があってもそれを受け入れる。由緒さんはあたしたちが帰ってきたときに現実で何かあったかをちゃんと報告する。一応お父さんに護衛は頼むから」

「うん、分かったっ」


 深呼吸で気持ちを落ち着ける。

 これから要が体験するだろう事は、既に過去で起こったこと。そうあるべき、決められた歴史……。

 そう反芻して、ようやく納得する。

 例え何が起きても、それが現実だ。


「えっと、過去への移動は私の能力でするんだよね?」

「そうなるな。何かあったときのリスクも少ないし……三日って言う空白の時間も逆に考えれば未来にとっては都合のいい動きやすい時間ってことだからな」

「もちろんその間に起きた問題を知覚するのは大変だけどね。そこはお父さんが監視してることである程度は防げるから」


 度々挙がる透目の名前。彼の異能力は『記憶操作(メモリーマネージ)』、記憶に干渉するもので、直接戦力になるかと言われれば頷き難い。

 けれど彼の存在はそこにいるだけで意味を成す。言わばもう一つの目だ。

 彼の存在があるから、要達はある程度安心して過去にいける。

 それに彼もまた未来と同じ未来人であり『Para Dogs(パラドッグス)』に所属するいわゆるエージェントだ。目の前の彼女と同様に戦闘訓練は受けているだろうし、それなりの装備も携帯しているはず。未来との行動も今まで多かったはずで、荒事の経験も、それに対処する術も知っている。実力は折り紙つきだ。

 更に言えば要達と比べて大人だ。記憶の欠損と言うハンデはあるものの、そこに眠る知恵はきっと要たち子供よりも多いことだろう。

 大人だからこそ、子供心に安心して託すのだ。


「うーんと、さっき聞いた話だと、過去への移動にはその場所の記憶が必要なんだよね?」

「そうだな」

「それって誰の記憶で行くの? 過去って多分よー君が物心着く前だよね? どうやって時間指定するの?」


 そう言えばそうだ。

 由緒の時間移動は過去の記憶に由来する、経験ありきの異能力だ。子供の頃の記憶は曖昧で、少なくとも要には父親である雅人の存在は遺影と写真でしか知らない。

 それに未来は未来人だ。どれ程未来から来たかは分からないが、要より年下。その過去についての知識は無いはずだ。

 偶然に頼るなら、今までの時間移動の経験でその頃に立ち寄った事があるのかもしれないが、その可能性は低いだろう。

 となればどうするか。

 その時の記憶がないのなら────


「お父さんの異能力で記憶を転写すればいいんですよ。幸い結深さんがいます。彼女の記憶を覗かせてもらって、お兄ちゃんがその記憶を一時的に保持、それを元に由緒さんの異能力で過去に飛ぶ……。うまく組み合わせればこんな事もできます。だから記憶に由来する由緒さんの時間移動は使い勝手がいいんです」


 一つ問題があるとすれば、由緒の異能力は記憶にある過去にしか飛べないということだ。 

 例えば未来の移動で出来た空白の時間へ由緒の異能力では飛べない。その時間を超越した要には空白の時の記憶は無いのだ。

 だから、知らない場所には飛べない。けれど過去に戻ればそこから別の道を辿る事も可能で、空白の時間より前に一度飛んで、そこから別行動を取れば空白の時間に存在する事はできる。もちろんそれが歴史で許されていることならば、だが。


「お父さんって……」

明日見(あすみ)透目さん。母さんの再婚相手、って事にはなるけどそれも未来がこの時代に馴染むための方便だから、今となってはそこまで言葉に拘る必要は無いかな」

「あたしの本当のお父さんではあるんだけどね。異能力は『記憶操作』。記憶を覗いて操作する力。その異能力で結深さんの記憶をちょっと借りるんです」

「……一つ質問いいか?」

「何?」

「その記憶を借りるってのは転写って事だよな? それって母さんの記憶から転写した部分が抜け落ちたりってのは?」

「それは無いよ。記憶のコピーみたいなものだから」


 ならば大丈夫か。結深を巻き込まなければいけない状況で、彼女に何か被害が出るようなら要は別の方法を取りたい。

 彼女は要を女手一つで育ててくれた血の繋がった唯一の家族だ。流石に今の要が晒されているような危険にまで巻き込むわけにはいかない。


「…………記憶をコピーして、その記憶によー君とみくちゃんを送る。それが私のやること?」

「あぁ。余り異能力の実感とかないかもだけど頼めるか?」

「それがよー君のために必要なら」

「俺のためと言うか世界のためと言うか……」


 いつの間にか随分と大きな話になっていたものだと口にして気付く。

 世界のため。まるでそれは変身ヒーローのように世界の裏で活躍する、自己犠牲甚だしい正義気取りの誰かのようだと気付いて小さく笑う。

 要はきっと正義の味方にはなれない。

 胸に抱く大志も歪み捩れ、ただ自分の享楽のために周りを振り回したいと願う自己満足の塊。そんな利己的な野望を胸に抱いた者を正義などと呼ばない。

 それはただ、正義と言う言葉を振り回し、悪用しただけのただの偽善と自己陶酔だ。

 だから要は正義の味方にはなれない。いいとこ、正義と嘯く偽善者止まりだ。

 そんな要の小さな嫌悪に、けれど次いで降り注いだ由緒の言葉にどこかで救われた。


「私にとっては世界よりもよー君だよっ」


 振りかざすべき正義を肯定されたわけでもない。それを信頼と呼ぶには、要には常識が欠如している。

 けれど正義に頼らなくても成して良い事はあるのだと認められた気がした。それを許してくれる人がいる事に、安堵した。

 独りよがりな欲望を振り回してもいいのだと。

 それが結果何かを救うのならば、それは正義でなくても正しいのだと。

 要にとって最早歴史の再現なんてどうでもいい。

 ただ今の非日常が何時までも続けばいいという、ただの願望。


「……ありがとな」

「何それ、へんなの」


 彼女にしてみれば思った事を口にしたに過ぎないのだろう。何かを渡す方はいつだってそれでいいのだ。受け取る方が何を感じるか。この世の全てはきっとそんな単純で複雑な理屈という箱に収められている。

 馬鹿らしいことだと過ぎった感慨を一蹴して酷い事を言う幼馴染だと見つめ返せば、彼女は肩を揺らして笑った。


「感謝くらい素直に受け取っておけよ……」

「それで、よー君は過去に行って何ができるの?」

「……そうだな。見届けるだけかな。後少なくとも《傷持ち》の注意を引ける」

「それがよー君の異能力だね」


 確かにそうかもしれない。

 《傷持ち》の目的は相変わらず掴めないが、要が必要なのは変わらないはずだ。だから《傷持ち》が過去で出来る事は生まれた要の消去でも、結深へ危害を加えることでもなく、要が生まれる未来を残したまま歴史を変える事が出来る雅人や結深への干渉。

 それに要が必要なのだから隙あらば狙いに来ようとするだろう。それを防ぐために一番安全な方法として未来と行動するほかない。となれば未来が過去へ移動したとなれば《傷持ち》もそれを追ってくる。

 事実関係が逆になる可能性もあるが、それでもこちらにとっては都合の良い事ばかりだ。

 後手に見せかけた先手。後は《傷持ち》がどんな行動を取るかを想像して動くだけだが……。


「最悪俺を餌にすれば釣りもできるしな」

「それはあたしが許さないからっ。廃ビルのときでも苦渋の決断だったのに……これ以上危険なことはさせられないよ」


 未来の糾弾に非情な事を言ったと謝る。

 そんな二人のやり取りに笑顔を浮かべた由緒が、それから何かに気付いたように口にする。


「そう言えばだけど……私、昨日どうしてよー君の家にいたの? よく覚えてないんだけど……」

「覚えてないって……昨日のこと……一昨日の誘拐の事も…………?」

「ゆう……かい……? いっ……!?」


 きょとんとした表情で要の言葉を繰り返して、それから頭を押さえて俯く由緒。

 どうやら楽の時の事だけでなく誘拐のときの事も記憶に鍵が掛かっているらしい。


「悪かったっ、落ち着いて……深呼吸……」


 下手に記憶障害に手を出して悪化させてはいけない。今は詳しく掘り下げるのはやめた方がいいだろう。

 由緒が落ち着くのを待って、彼女の疑問を解消する。


「えっと……さっき俺が襲われてるって話をしたよな?」

「うん……」

「でも俺には未来がついてる。だから直接手出しは出来なくて、それで由緒にその矛先が向いたんだ。けどそれはどうにか解決した。昨日うちで眠ってたのは事を大きくしないための配慮だ。由緒のお母さん……冬子(とうこ)さんには未来との親睦会って説明してある」


 それは周囲を混乱させまいと装った上辺だけのいいわけだったが、よもやそれを由緒に向けて使うとは思わなかった。

 直視しなくて済む逃げ道があってよかったと偶然に感謝しながら彼女の理解を待つ。

 そうしてようやく落ち着いたのか、由緒は力なく笑った。


「…………うん、分かった。よー君が、助けてくれたんだよね……?」

「俺だけの力じゃないけどな」

「うん、うんっ。ありがと、よー君」


 その笑顔の端に、珠に光る雫を目にして胸が跳ねる。

 彼女にしてみれば覚えていない空白の時間だ。その間、何をされたかも分からないまま、要の言葉に縋るほかない状況で……。どれ程彼女の心は擦り切れているだろうか。想像するだけ不躾な気がした。

 例えそれが安心から出たものだとしても、涙を見るのが嫌だった要はその目端を拭ってやる。


「……それでね、えっと…………私は、その、どうにかなってたんだよね。……けどそれってよー君の所為、だけなのかなって」

「……どういうことだ?」

「ほら、異能力。もしかしたらその《傷持ち》は私が異能力を開花する事を知っててそれを利用しようとしたとか……。それに私に異能力が発現したって事は、先に襲われたがく君にも何か理由があったりしないかなって……」


 言われて見ればその可能性も存在する。

 未来だって由緒の異能力の発現を知っていた。もし《傷持ち》がそれを知っていたとすれば、理由は要だけとは限らない。

 もっと言えば、要への襲撃はカモフラージュで、そっちが本命だった可能性も存在する。


「前者の可能性は否定できない……。けど後者、楽さんの可能性は多分ないと思う」


 言って、それから要に視線を向ける。


「楽さんって現代人だよね?」

「そうだな。俺の中には未来が来るより前の記憶がちゃんとあるし」

「だとしたら、多分可能性は低い。あたしが知ってる異能力発現の報告はこの時代は一件……由緒さんだけだから」

「つまり楽は異能力への覚醒は無いって事か。で、それを理由とした襲撃の可能性は無いと」

「それにもし異能力が発現するんだったら傷を負わせて逃亡するより楽さんを誘拐するはずだよ」


 確かにその通りだ。

 となると《傷持ち》は由緒の異能力の発現も知らなかった? ……誘拐は偶然? いや、その可能性が潰えた訳では無いか。

 少しだけ考えて、それから脳裏で直視しないようにしていた未来の言葉に小さく唸る。

 この時代の異能力発現の予知は、一件…………。つまり要は、確定で異能力を発現しない、一般人。

 知りたくなかった情報を知ってしまい、少しだけ気落ちする。

 そんな要に気付いたか、未来が慌ててフォローしようとする。


「あっ、いや、その…………お兄ちゃんにはお兄ちゃんの役目が────」

「囮、だろ…………?」

「違うって! ほら、お兄ちゃん賢いし、あたしが想像しなかったこととか言ってくれるしっ」

「つまり便利な木偶人形だろ?」

「あーっ、もうっ! 違うって……うぅ、未来の事言いたい…………」


 ぅん? 未来のこと? つまり要は未来で何か特別な事をすると?


「何しでかすんだろうな、未来の俺……」

「誇れることだからっ、悪いことじゃないからっ」

「…………その未来で起こる事がよー君の狙われる理由だったりしないのかな?」


 三人寄れば文殊の知恵。要と未来がじゃれ合うようにそんな会話をしている横から、由緒が一人事のように呟く。


「いや、それは違う、と思う……。少なくとも異能力保持者にとっては有利なことのはずだから」

「異能力関連か……無能力者の俺に何ができるんだろうな…………」

「逆じゃないかな……。無能力者だから、異能力に関わった者として、その間を取り持つ…………」

「そんな善人に見えるか……?」

「ん~、例えばそれが、よー君にとって大事な誰かのためだったり、とか?」


 どこか嬉しそうな由緒の言葉に要の感情が少しだけ持ち直す。

 もしそうなのだとしたら、要にとってはきっと唯一の理由が存在すると。

 胸の内にそれを問うて、それから随分とおめでたいことだと笑う。

 笑えば、ようやく思考が元に戻ってきた。


「……どうでもいいけど、未来は未来の俺を知ってるんだな。つまり俺が死ぬまでに、未来の俺ともう一度出会う…………」

「ふふっ、どうだろうね。まぁもしそうだとしたら楽しみだけど」


 またどこかで彼女と会える。その時要が未来の事を覚えているかは定かでは無いが、その可能性があるのならまだ未来も捨てたものではないということだろう。

 一体未来で何をしでかすのか……。そんな想像を巡らせつつ、脳裏を過ぎったふとについて尋ねる。


「そう言えば由緒は見た目の変化は無かったんだな」

「見た目…………?」

「えっと、異能力を発現した人は髪の色とか、目の色とか変わったりする事があるんです。あたしのこれもその影響です」

「……あれ、地毛って言わなかったっけ?」

「はい。元は黒だったんですけどね……地毛である事には変わりありませんよっ」


 確かにその通りだが、何か騙された気分だ。

 そんな風に思いながら鮮やかなその風貌を改めて見つめる。

 絹のように細く柔らかい赤い長髪。新しい朝を告げる太陽のような綺麗な橙色の双眸。

 現実離れしている見た目の所為で異世界染みていると勘違いをよくするが、彼女も彼女なりに苦労はしているのだろう。


「発現時に合わせて色が変化するので、今こうして目新しい変化がなければ特別な苦労はしなくてもいいと思いますよ」

「いきなりピンクとかになっちゃうとそれは焦るからねぇ……。よー君にも褒めてもらった髪だし」

「綺麗だなんて一言も言ってないはずだけど」

「綺麗って褒められたとは一言も言ってないよ?」


 思わぬ反論に口を噤めば彼女は嬉しそうにその髪先を弄る。

 …………まぁいい、別に嫌いでは無いし。手入れは大変そうだと短髪に理由の要らない男である事に少しだけ感謝する。

 あの綺麗な長い髪を維持するだけでどれだけの労力を使うのかなんて考えたくもない。その点に関しては未来も同じか。

 頭の横で髪飾りに止めているとは言えそれは髪の一部で、殆どは背中に流したロングだ。

 解けば由緒に負けず劣らずの流麗なロングストレートになることだろう。

 そんな景色の中で、未来は仲がいいと言う風にくすりと笑う。お願いだからそれ以上言葉にはしないでくれ。


「……ただ、一つ気をつけて欲しいのは、今は見た目に変化は無くても異能力を発動した時は違うということです」

「どういうことだ?」

「あたしみたいに見た目が変わる人も多数いる。そういう人は存在自体が異能力を持っていると知らしめている証でもあるの」


 それはそうだろう。未来の生まれた未来では珍しくないことなのかもしれないが、この時代ではきっと異能力と言う存在はそこまで浸透していない。だから『Para Dogs』と言う組織の名前も聞いた事もなければ、異能力について目にした事も聞き及んだ事もない。


「けれど由緒さんみたいに見た目に変化が出ない人がいる。そういう人たちは異能力発動時に少しだけ見た目に変化が見られるの」

「どういう類の?」

「例えば髪の色が変わるとか、瞳の色が変わるとか。周りの人から見れば怪奇現象だよ」

「そりゃあそうだろうな」

「多分由緒さんもどちらか……もしかすると両方の変化があるかもしれないから」

「それって一度発動したらずっと?」

「いえ、発動している間だけです。特に時間移動の異能力は発動が一瞬ですから、その瞬間さえ見られなければ大事にはならないと思います」


 異能力発動の際は周りに気をつけろと。

 けれどまぁ要たちにとってはまだ慣れない過ぎた力だ。悪用しようと思わない限り進んで使おうとはしないだろう。


「どうでもいいけど由緒ってちょっと瞳が青いんだよな。光の錯覚かもしれないけど」

「強力な異能力ほどその影響は大きくなる。それは多分異能力を保持してる人にも言えることだと思う。だから由緒さんのその青み掛かった瞳は、結果論から言えば異能力が秘められている証かも……」

「だからみくちゃんもそんな感じに?」

「じゃないかなぁーって……」

「推論かよ」

「前にも言ったけど異能力にはまだまだ分からない事が沢山あるの。だからその可能性が絶対にないって事はないと思う」


 持て余す大きな力だ。人の身に宿ること自体が間違いかもしれないのだからブラックボックスなのは仕方のないことか。


「……別に見た目が変化するって事が分かったからって異能力者かどうかなんて直ぐにはわからないんだろうけどな。聞いたところで素直に教えてくれるとも限らず、染めてるだとかカラーコンタクトとか……見た目なんて当てにしていい情報じゃないよ」

「…………初めて会ったときお兄ちゃんはあたしのこと見た目で判断しなかったの……?」

「………………そ、れとこれとは話がべ────」

「ごめんねー、みくちゃん。女心の分からない幼馴染で」

「大丈夫ですよ。ただ優しい嘘ならもう少しうまく吐いて欲しかったかなぁって……」


 視線の端を流してくる未来に少しだけ苛立ちが募る。

 そういう理不尽な都合の押し付けはやめてくれ。男である事を理由にしないでくれ。その押し付けでどれほど肩身の狭い思いをしてると思ってるんだ。


「それよりも《傷持ち》だっ」

「逃げた」

「本当に過去に行くと思うか?」


 由緒の指摘を無視して強制的に話題を元に戻す。


「……少なくともこれから起こることを考えても意味は無いと思う。けれど起こった事に対して干渉するって言うのは何をすればいいかが明確な理由の一つだよ。だったら予防線の意味も込めて過去改変を防ぎにパトロールするのは悪いことじゃないと思う。戻って来る時間は過去に飛んだ直後に指定すれば時間のロスはなくなるしね。見えてる可能性を放置するよりはいいんじゃないかな」

「なら決まりだな。過去の様子を見てくる。その後現代で起きる事があればそれに対処する。もし過去で《傷持ち》を捕まえられればそれが一番だしな」


 由緒に危険が及ぶことも避けられるし。


「それじゃあ準備しようか。お兄ちゃん何か持っていく物は?」

「一般男子高校生甘く見ないで貰おうか。ここは一応平和な現代だからな」

「偉そうに言うことじゃないじゃん、それ……」

「『スタン銃』と……それから『抑圧拳(ストッパー)』。もしものためだから頼り過ぎないようにね」

「分かってる。二人に心配はかけられないからな」


 言ってそれでもまだこちらを見つめてくる由緒の頭を軽く撫でて立ち上がる。


「……大丈夫だ。死ねない理由なら、ここにある」

「うん、待ってるから」


 真剣な表情。青み掛かった黒い瞳が真っ直ぐに要の事を射抜く。

 何があったって大丈夫だ。だって過去の出来事で、そこで何も起こらなかったから要はこうしていられるし、未来も未来で要との邂逅を果たしたと言っていた。

 歴史はそうある通りにしか流れない。

 だとしたら歴史を変える権利なんて、何処の誰にも許されるべき特権ではないのだ。

 例えそれが悲しい結末を手繰り寄せたのだとしても、真実である以上過去になり未来を紡ぐ。

 その一端に触れるだけの、些細な日常だ。

 由緒の笑みに笑い返せば、未来が自室から『スタン銃』のスペアとホルスターを持ってきてくれた。

 二度目にしてもう慣れたと少しだけ弄んでヒップに下げたホルスターにしまう。


「で、えっと記憶の転写だっけ?」

「うん。お父さんなら結深さんと下にいるから」

「……そう言えばばれたりしないのか?」

「そこはうまくやるんだよ。最悪眠ってもらうから……」

「ならそうならないような方法でどうにかしないとな」


 ぼやいて、それから服の裾でホルスターを隠すと階段を下りる。

 その途中で気がついて後ろを降りてきていた由緒に振り返る。


「とりあえず由緒は一旦家に顔を見せたらどうだ。風呂も──ぐもぅっ」

「そういうのは言わない約束。女の子に嫌われるよ?」

「……肝に銘じて置くよ」


 ここで大声を上げて母親にばれでもしたらそれこそ面倒だ。静かに出て行く由緒を見送って未来と二人リビングへ顔を見せる。

 部屋の中では透目と結深がソファーに腰掛けてテレビを見ていた。暇だったのだろう。仕事がない休日の過ごし方などそんなものか。


「母さん、今日何か予定は?」

「特にないわねぇ……。どこか遊びに行く?」


 遊びに、と言ってもこの周辺には余りそういうものは無い。少し足を伸ばせば動物園もあるが、それならば弁当の支度とかしないといけないし今からでは楽しむには時間が足りない。

 何より人より少しずれた要も高校生だ。家族向けの娯楽へ言ったところで少し冷めた視点でしか楽しめない。

 未来がいればまた少し違って見えるのかもしれないが、見世物になるのが動物より彼女なのは想像に難くない。


「それも楽しいかもしれませんね。けどここらの事も余り覚えてないので……」

「そうねぇ。折角の夏休みだしその内遊びに行けたらいいわね」

「はいっ」


 結深の言葉に答えつつ、自然にその隣に未来が腰を下ろす。

 こうしてみれば仲のいい親子のようだと。彼女の内側に眠るものを知っている要からしてみればちぐはぐな光景ではあるが、それさえも納得させてしまうほどの未来の笑顔。

 美人は得だとどうでも良い事を考えながら視界の端に招かれる透目の近くへ。


「……それで、どうやって記憶の転写を行うんですか?」

「よくあの子が許したな」

「本当の意味で許してはもらえてないかもですけどね……」


 小声で交わす景色の中に結深と未来の笑い声が重なる。


「あの子が注意を引いてくれる。その内に君の頭の中に記憶を転写する。発動条件は私が両方の頭に手を置くことだ」

「分かりました」


 簡潔な説明に小さな声で答えれば彼も一つ頷いてくれた。

 それから彼に転写する具体的な記憶を聞かれ、要も想像で語ると一つ頷いてくれた。

 そうして準備が整えば直ぐに行動へ。結深の視覚となる場所にと考えて透目と二人、ソファーに座る二人の後ろに立つ。

 その途中、未来に視線を送れば彼女も小さく頷いてくれた。


「……それでよかったらって」

「親睦会ねぇ……。私はいいわよっ、由緒ちゃんなら安心できるし。透目さんはどうかしら? 去渡さん家へお泊りですって」

「…………あぁ、構わないぞ」

「ありがとっ、お兄ちゃんもいいよね?」

「え? 俺も?」

「だって由緒さん三人でって言ってたし」


 いきなり話を振られて戸惑う。そんな要に可愛らしく拝み倒す未来。例えそれが偽の家族の演技だとしても、彼女の容姿で上目遣いに見上げられれば少しは胸を打つものがあるわけで……。

 思わず逸らしてしまった視線で詳しい事も分からないまま頷く。


「やったっ」

「いつまでだ?」

「多分三日くらいだと思う」


 随分具体的な時間を決めるものだと熱の入った演技に少しだけ感心する。

 その横から透目が小さく零す。


「……頭を。目を閉じて…………」


 気付けば忘れそうになっていた当初の目的を思い出して軽く頭を下げれば、そこに大きな透目の手が乗る。

 言われた通りに目を閉じれば、次の瞬間瞼の裏に記憶にない景色が浮かび上がってきた。

 これが記憶の転写。書き込まれる側はこんな感じなのかと。

 瞼の裏が熱を持ち、頭が少しだけ揺れる感覚を味わう。

 未来の時間移動にも似た変化。平衡感覚が狂いそうにもなったがそれも数瞬で、気付けば彼の手は頭から離れていた。

 ゆっくりと目をあければ結深が不思議そうに透目の方を見ていた。恐らく頭に触れた事へ対する疑問か何かだろう。


「……糸くずが付いていたのでな」

「ありがとう、透目さん」


 目を細めて笑う結深。

 特に疑問を重ねる様子のない彼女はどうやら何も感じなかったらしい。

 まぁ、もし何か感じるのであっても普段おっとりとしている我が母親だ。細かいことは気にしない天然さは時折心配になるほどののんびり屋。それが都合いいのだからいいとしよう。彼女を巻き込むのは気が引ける。


「お邪魔するなら迷惑はかけないようにね」

「分かりました。それじゃあ準備してきます。お兄ちゃんもいこ?」

「あ、あぁ……」


 意外とあっさりだなと余り記憶に残らないような時間の後、階段を昇りながら未来に問う。


「何だか慣れてるな。こういうこと多いのか?」

「……まぁね。本当は巻き込まないのが一番だけど今回は予知の時点からお兄ちゃんがいる事は分かってたから。まさかここまで積極的に関わって来るとは思わなかったけどね」

「…………困らせてごめん」

「ほんとだよっ。……でもね、ちょっと感謝してる」

「え…………?」

「だって久々に、隠れてこそこそしなくて済むから。それに何て言うか、お兄ちゃんは色々と規格外だし」


 そう言えばこうして事件に首を突っ込む当事者は珍しいと言っていた気がする。

 要としては逆にそっちの方が理解できない。どうしてつまらない機械のような日常より面白い非日常が転がってるのにそれから逃げようとするのか。人生楽しくなければただ損をするだけだろう。


「初めてすぎて余計慎重になっちゃうよ。三日とか言うつもりなかったのに」

「どういうことだ?」

「ほら、由緒さんの制限。歴史は守るし、帰って来る時はあたしの異能力だから飛んだ時間の直ぐ後になるけどさ。もし向こうで何かあったら制限に抵触して帰ってくるのは三日後になる」

「……あぁ、そっか。念のための保険か」

「お陰で三日後まで家に帰れなくなっちゃった…………」

「その時は忘れ物とか言い訳すれば?」

「あ、そっか……」


 思考が異能力や時空間事件に寄り過ぎて当たり前の方法論が欠けていく。

 何よりも価値観が問われる彼女の仕事だ。精神的疲労は耐えないだろう。

 彼女の場合は少し抜けているのかもしれないが。それも愛嬌と言ってしまえば許されるのだからやっぱり可愛いは卑怯だ。

 恥ずかしそうに照れた笑みを見せる彼女にはきっと敵わないと、男である事に何かの矛先を向けていると未来は部屋へと。彼女も準備だ。

 要も自室へ入り、置いていた『抑圧拳』を手に取る。

 それからノートパソコンのない部屋を見渡して僅かに由緒の姿を幻視する。

 つい先程までここには由緒がいたのだと。残る彼女の温かさに少しだけ居心地が悪くなって部屋を出る。

 廊下に出れば丁度未来と鉢合わせ。交わった視線で頷きを交わせばそれから家の外へと出た。

 降り注ぐ夏の陽光が眩しくて少しだけ手で遮る。

 それとほぼ同時、隣の家から出てきたのは由緒。彼女は先程までの服から着替え、新たな装いでそこに立つ。


「とりあえず部屋に来て」

「そうだな人目に付かない方がいいだろうし」


 未来の方に視線を向ければ彼女も頷く。これからと言うときに面倒事を抱えるのは嫌だ。可能な対策は取るに越したことは無い。

 由緒に連れられて彼女の家へと上がる。未来に指摘されて靴も一緒に持って入る。時間移動は由緒の部屋からの予定だ。靴を忘れれば移動先の過去で裸足で駆け回る事になるのだと今更ながらに気づく。

 意外と見落としそうなミスだと脳裏を過ぎったのも束の間。もしかして彼女は過去にそれで失敗したことでもあるのだろうかと。

 考えて、けれど言葉にはせず静かに由緒について階段を昇る。

 年齢と同じ数だけ一緒に過ごしてきた場所だ。彼女の部屋に上げてもらった事も幾度かある。もちろん中学に入ってからは要の部屋に来ることの方が多かったのだが、それでも時折訪れていた彼女のプライベートルームだ。

 今更特に面食らう事もない。

 少しあるとすれば、由緒の部屋に入るのは久しぶりで、朝からあんな会話をしていたために意識しないではいられないということだろうか。

 そんな要のちょっとした不安と緊張を余所に、由緒はいつも通りの足取りで部屋の扉を開く。

 部屋の景色は前に来たときと殆ど変わらない。強いて言えば少し私物が増えただろうかと言う程度。

 そんな変化、幼馴染なら別段気にすることもないのが少し寂しいところだろうか。これがもし恋人関係だったなら話の種になったのかもしれないが。


「もうっ、そんなに見回さないでよ……。幾らよー君でもちょっとヒくよ?」

「ん、悪い……」

「未来ちゃんも気をつけてねー? 意外とむっつりだから」

「誤解を招く発言はやめろ。俺は極一般的な男子高校生だ」

「極一般的な男子高校生はこんな事に巻き込まれて目を輝かせてないと思うんだけど…………」


 そんなのは個人の感性の範疇だろうと。世界を探せば要みたいな人種もどこかにいるはずだ。少なくとも、楽に貸して貰った本の中にはどこか箍の外れた冒険家など沢山いた。

 どうでもいい言い訳を振り翳しながら腰を下ろす。

 見慣れた幼馴染の部屋の中で、少しだけ居心地の悪さを感じながら話題を切り出す。


「……それで、話はついたのか?」

「うん」

「……まぁ何もないとは思うが一応言っておくぞ。今から過去に行って歴史を守って帰ってくる。帰ってくるときは未来の異能力だ。つまり飛んだ直後に帰ってくる」

「ただし何か不都合があって過去で制限を犯したら、この後直ぐじゃなくて三日後に帰ってくるから。だからもし直ぐに帰ってこなかったときは何かあったんだと思って。その上で、三日間できれば家から出ないで」

「《傷持ち》さんの対処だよね」

「由緒さんの事はお父さんが気に掛けててくれる。けれどそれは絶対じゃないから」


 透目はこの時代に残るもう一つの目だ。けれど彼は原則一人しか存在できない。もちろん時間をずらして透目をこの時間に二人以上重ねればそれも解決できる。

 しかしそうまでするほどかと言えば《傷持ち》が起こすだろう行動予測の優先順位は低い方だ。

 ならば無駄な異能力を使うのも面倒臭い。後で彼を回収するのも大変なのだ。

 それに何より、幾ら信頼できるとはいえ透目を由緒の近くにずっと置いておくというのは要が許せない。

 彼女との間には約束があって、それを守らなければ要が動く理由がない。ならば彼女の安全を守るのも、要のやるべきことだ。


「…………未来、『抑圧拳』を由緒に持たせたら駄目か? これでもこいつは柔道黒帯だ。念のための保険ってことで」

「それじゃあこれを。お父さんの分をスペアにって借りてきたやつだけど。それに、最悪あたしは『抑圧拳』なくても《傷持ち》と渡り合えるけどお兄ちゃんは違うでしょ?」

「ブースターは駄目って言われたからな……。抑止力にするなら目に見えるもの持ってないとだし。……分かった」


 言って、腰に下げたポーチから白い手袋を取り出す未来。

 それを受け取った由緒に使い方を説明する。


「…………つまりこれをつけて殴ればいいんだよね?」

「危険なことはするなよ?」

「分かってるよ。よー君の帰りを待ってないとだしねっ」


 気負うことなく笑顔で答える幼馴染。

 その笑顔を信じて託す。


「可能性として由緒さんのお母さんが狙われる事もあると思う」

「でもそれは随分低い可能性、だよね?」

「そうだな俺たちが行くのが一番の危険地帯だから」


 とは言え《傷持ち》は時間移動が出来る。例え過去に現れたからといって由緒が狙われない理由にはならない。

 けれど過去で(つつが)無く事を終えれば、予定通りに戻ってきて彼女を守る事もできる。

 過去が先なら由緒を狙うのはその後で、そのときには既に要たちも戻ってきているのだから問題は無い。

 理想は語るだけなら簡単だ。


「それから俺と未来は由緒の家に泊まってる事になってる、今日から三日後までな。帰れなかったときの一応の保険だ」

「もしもの時は私がそれを誤魔化せばいいんだよね?」

「あぁ、頼んだ」


 嫌な想像を拭うようにもしもの時の対策を考えておく。

 もし制限に抵触して三日後に帰ってきた場合は、すぐさま未来の異能力で過去へ飛んだ直後へ移動すればいいだけの話だ。

 これで空白の時間を埋められる。由緒の安全は要達が直接守れる。

 何も心配は要らない。全ては想定済みだ。

 想定外があるとすれば────


「気をつけてね? 絶対っ、絶対無事で帰ってきてね?」

「もちろんだ」


 過去で《傷持ち》がどんな行動に出るか、だ。

 想像は何処まで行っても想像、確率論。確立は起こるかもしれないであって絶対にそうなるとは限らないのだ。

 だから要達の想像を上回る行動を取られればそれだけでこちらが掻き乱されることだってあり得る。

 その想定を怠ってはいけない。

 何よりも、《傷持ち》の目的は要なのだから。

 由緒のことよりもまず自分の事を考えなければ。


「……それじゃあ行こうか。準備はいい?」

「もちろん」

「イメージは完璧だよっ」


 由緒にしてみれば始めて自分の意思で使う異能力だ。

 手解きは同じ時間移動能力保持者の未来から受けている。それに普段は軽口をよく叩くお調子者の幼馴染だが、いざと言うときには真剣にもなれる大和撫子たる由緒だ。その異能力の成功を、要は微塵も疑ってはいない。


「…………手を繋いで、目を閉じて」

「向かいたい過去の記憶を脳裏に描き、」

「ただ信じてそれを成す。その名は過去に由緒(ゆいしょ)持ちて渡るなり────なんてねっ」


 シリアスなのは彼女には耐えがたい屈辱だったか。

 よくもまぁそんな恥ずかしい口上が出てくるものだと感心して、頭の中の景色に色を求める。

 刹那──瞼の裏が眩しいほどの光に支配される。

 これが由緒の時間移動に際する変化。未来の時は重力方向の変化だったそれか。

 幾ら堅く目を閉じても消えない何処から発生しているのかも分からない光源に、記憶のフィルムが焼け付くような感覚を味わいながら必死にその先の景色を追い求める。

 そうして、長く長い長かっただろう刹那を抜けて、足が踏みしめた固い感触にゆっくりと目を開く。

 そこは過去。そこは歴史。

 要の知るはずのない、どこか懐かしい風景。

 靴を履きながらぐるりと見回した視界の中で遠くに見覚えのある建物を見つける。

 抜けるような青空の下、そこに存在する大きな建造物。要の知るそれと殆ど変遷のない分かりやすい目印。


「高校、か…………」


 それは要や由緒たちが通う県立高校だ。この辺りの地区では最も偏差値の高い学び舎。時折努力を重ねた者はよく名前に聞く国立や私立の大学にも合格する者が出るくらいの学校だ。

 流石に昔の事までは詳しくは知らないが、確か要の母親は要と同じところを卒業していたはずだ。

 どうでもいい事だと切り捨てて、それから現在地を確認する。更に見回した景色の中で電車の線路、車の通行の多い道路など、昔から変わらない物を見つけて今いるここがどのあたりなのかを推察する。

 家と高校の間。どちらかと言えば高校よりな位置だろうか。確か近くに公園があったはずだが、この時代にもあるだろうか?

 季節は変わらず夏、煩く鳴く蝉の鳴き声にアスファルトの黒い道の先が熱に(うな)されて蜃気楼に揺れ動く。

 降り注ぐ陽光を鬱陶しく思いつつ隣に立つ未来に視線を向ければ目線がぶつかった。

 知らず緊張が走って、それから手のひらの感触に視線を落としてようやくまだ手を繋いでいた事に気付く。


「あ、ごめっ……!」

「今更じゃないかな?」

「それはそうだけど、何て言うか……」

「お兄ちゃんって意外とヘタレだよね。ほら由緒さんのこととか…………」

「由緒、は、関係ないだろっ? て言うか何で知って────ぁたっ」


 交わした言葉の矛先が思わぬ方向へと向いて咄嗟に反論を紡ぎ出す。

 一度逸れた視線が未来へと戻った次の瞬間、彼女の指先が額を小突いた。


「ほら、過去に来たんだよあたしたち。こんなところで油売ってる暇は無いんじゃない?」

「……そうだった…………。《傷持ち》を……いや、まずは父さんか」

「だね。えっとこの時代は…………」

「俺が生まれる前で、父さんが事故にあう前だ」


 時間的に言えば十七、八年前と言う事になるだろうか。

 やる事は簡単だ雅人や結深を見つて監視。《傷持ち》が来たら捕まえる。

 そのために必要な事は現状把握だ。


「まずは……日付とか確認しといた方がいいか?」

「そうだね。今日が何日かと、お兄ちゃんのお父さんが亡くなったのがいつかが分かれば」


 未来の言葉に思い出す。


「父さんが死んだのは、八月だ。八月の……十一日」


 要の父親、雅人は要を結深のお腹の中に残して亡くなった。

 だから彼の年忌は要の年齢プラス一で行われる。去年十七回忌があったからこの時代は要の感覚では十八年前か。


「俺が母さんの腹の中にいる時だから年数で言えば十八年前だな。後は今日が何日かって話だけど……スマホは…………流石に無理か」

「コンビニとか行って新聞や雑誌で確認するのが簡単かな」

「コンビニって入ると何か買わないといけなくなるのは何でだろうな…………」


 未来の言葉に小さくぼやいてスマホをしまうと財布を手に取る。そうして気付く。


「あれ、十八年前って紙幣に描かれた人物違うよな……? 硬貨も製造年とか書いてあるし、使えなくないか?」

「普通はね。でもそれはちゃんとどうにかできるよ。ほら日本はお金の価値自体は変わらないからさ、古いものに交換すればいいだけ」

「交換って、だからこの時代じゃその交換自体が出来ないんじゃ…………」

「さて問題ですっ。あたしはどうやってお兄ちゃんの居た時代に溶け込んでいたでしょう?」

「いきなり何だよ…………」

「答えて?」


 可愛らしく笑顔で首を傾げる未来に、けれど答えなければこれ以上先へは進みそうにないので仕方なく考える。

 

「……その時代に即したもので擬装する」

「まぁ大まかに言えばその通りだよね。でも誰がそんなこと手伝ってくれるの?」

「それは…………。……あぁ、そうか。つまりこの時代には予め未来たちに味方してくれる未来人が要るって事だな?」

「正解っ。そしてそれは、誰でしょう?」

「単純に考えれば……『Para Dogs』の人たちって事になるのか?」

「更に正解っ。商品は『Para Dogs』提携済みの秘密の館へごあんなーい」


 随分と楽しそうなことだと思いつつ先に歩き出した彼女の隣に並び立つ。


「しかしすごいな、『Para Dogs』は」

「実動部隊がいるならそれを補佐する役割がいるのは当然の事だよ。これから向かう先は宿泊も可能だから何かあった時の避難所だね」

「そんなのが幾つもの時代に色々な場所にあるってことか?」

「お兄ちゃん逆だよ。事件を解決した後で、未来からその人たちを送ってくればいいの」

「……あ、そうか。別に事件が起きる事を見越して人員を配備する必要は無いって事だな」


 例えば今で考えれば、要と未来はこの時代この時間この場所にやってきた。そしてきっと歴史を歪めない為にここで起こる事を解決するはずだ。

 そうすれば未来は解決したという過去を持って未来に帰れる。その後、未来が経験した過去に未来から支援人員を送ればいいのだ。

 これなら予め分かっている時代、時間、場所にピンポイントで人員を割ける。効率的な運用が可能で、後から辻褄を合わせるだけでいいと言う未来達にとっても都合のいい話と言うわけだ。

 他者だけを過去に送る、と言う事は未来の由緒の異能力だろう。となると由緒は未来で『Para Dogs』に協力している事になるのだろう。

 後、どうでもいいが過去に送った人員は由緒の能力で過去に来た未来が未来に連れて帰れば回収可能だ。


「何だか色々見えた気がするけど……」

「未来のこと? もういっその事喋っちゃおうか?」

「え…………? いや、でも制限が────」

「今は由緒さんの異能力の制限下だよ。ほら、由緒さんの異能力の制限をよく思い出して?」


 言われてそれから思い至る。


「…………由緒の異能力に……未来で起こる事を伝えちゃいけない制限は、ない……」


 言葉にして、その事実に戦慄する。

 由緒の異能力には未来のそれとは違い、いつの時代から来たかや、未来で起こる事を言ってはならないという制限は存在しないのだ。

 過去にいる間に意味のある制限は、名前を口にできないことと現代人に意図しない危害を加えられないことだけ……。

 つまり────


「言える、のか……? 未来で起こる事を?」

「うん、言えるよ。聞きたい?」


 いきなりの事実に思わず足を止める。

 けれどそれも数瞬。どこか楽しそうに笑顔を浮かべる未来に言葉を返す。


「…………知ったら、その未来は変えられないんだよな?」

「そうだね」

「未来としては俺が知らない方が都合はよくないか?」


 冷静に回った頭がありえる選択肢を振り翳す。

 それは由緒を誘拐された時の廃ビルのように。あの時は要が未来に起こる事を知らなかったからこそ、博打のような策が打てた。

 ならば今後起きる問題にもそれで対処が可能なこともあるかもしれないと。


「逆だよ。未来の出来事を教えることで、お兄ちゃんは無茶が出来なくなる。廃ビルの事だって苦汁の決断だった。同じ過ちをあたしが繰り返すと思う? お兄ちゃんを守る事が目的の一つなら、その手はあたしの武器だよ」


 確かにその通りだ。

 どこかで自惚れていたのかもしれない。

 要が狙われているにも関わらず、それを逆手にとって自分が事件を解決できるなどと……。

 けれどそれは誤りだ。要は未来の荷物だし、護衛対象。廃ビルこそが例外だったのだ。


「……ならどうしてそれを未来は押し付けないんだ? 有無を言わさず未来の事を俺に聞かせれば未来としては有利な話だろ?」

「…………言って良い事と悪い事があるって話。例えばお兄ちゃんは、未来でどうなってる、とか聞きたい?」

「それは…………」


 未来の問いに躊躇いが生まれる。

 想像と真実は違う。

 例え頭の中で理想を描いたとて、未来が知っている未来とは異なるかもしれないのだ。

 話が要個人の事ならまだ受け入れられる。どんな職に就くとか、いつ死ぬとか。もしかするとそんな人並みすら放棄しているかもしれないとか……。

 けれどそこに他人が関わればどうだろうか。

 誰と結婚する。親はいつ死ぬ。友人がこんな目に合う……。知れば知るだけ未来は確定され、抗い難い現実となる。

 それはもしかすると、《傷持ち》のように捻じ曲がって過去改変へと結果を結ぶかもしれない。

 そうなるかもしれない未来を、聞かされるかもしれない。


「聞きたくないでしょ? 聞けばそれだけ、変わらない現実を受け止める事になる。あたしが伝えることで、お兄ちゃんが第二の《傷持ち》にだってなり得る。そうなった時、お兄ちゃんの前に現れるのは、きっとあたしだよ……?」


 馳せた想像のその先で、脳裏を過ぎったその光景に息を呑んだ。

 それは、それだけは何があってもだめだ。

 未来に幾重もの苦痛を背負わせる事になり、過去の自分を否定する事になり。何より今この胸に疼く非日常への憧れをなかった事にしてしまうから。


「だから言わないのは、あたしのためでもある。お兄ちゃんは、この非日常を壊したくないでしょ?」

「…………あぁ、そうだな……。聞く勇気なんて、初めから無かったのかもな。悪いな、嫌な想像させて」

「お兄ちゃんが賢くて助かったよ。だからお願い、これ以上無茶に首を突っ込まないで。人の道を、外れないで」


 時間と空間の理の外からの言葉をしっかりと胸の中に刻み込む。

 どうあっても最後には忘れて現実へと戻る身の上だ。ならば教えられてもそう問題は無いのだろうが、だからと言ってそれを笠に無法事を成すのは違うだろう。

 要は何処まで行ったってあの時間に生きる遠野要であって、未来とは一緒にいられない存在だ。

 ならばその身を弁えた上で、この非日常を日常にしてしまわないように楽しむべきなのだ。

 納得して、それから未来について歩く。しばらくそうして、それから何かがおかしいと疑問の鎌首を(もた)げた。


「…………あれ、となるとおかしくないか?」

「何が?」

「その宿泊とか両替とかできる避難所って未来が事件を解決した後派遣されるわけだよな?」

「うん」

「それだと今の未来はその場所を知らないんじゃ……?」


 言葉にしてその違和感が強くなる。

 未来は時間と空間を行き来できるだけであって、時間移動を介さずに未来を覗けるわけではない。つまり今の未来ではそこにその避難所があるのかは分からないはずだ。

 そんな要に疑問に、けれど未来は面倒臭そうに答える。


「……あまり首を突っ込みすぎると痛い目見るよ? まぁ単純に言えばそれを教えてくれる人が要るってだけ」 

「それは誰なんだ?」

「さて問題。きっと歴史の何処にでも存在する不変の武力とは何でしょう?」

「不変の、武力…………」


 武力と言えば武器だ。けれどきっとそんな事が直接の答えであるはずは無い。

 では一体逆らい難い武力とは。武器を武力とする象徴とは……?


「ヒントは、危険物で武装してそれを振り翳す人」

「…………警察とかいう話か?」

「うーん、半分正解。答えは──正義だよ」


 正義。正しく義なる道理。

 武器は力の象徴だ。現代世界において武器とは胸に抱える正義を振りかざすための道具でしかない。


「武器を持って、正義として君臨するその最たる者と言えば、警察だよ。だから半分正解」


 彼女は続ける。


「実力と正義と、それから日常を左右する天秤。例えばそれが世界を揺るがすことでも正そうとする人たちは正義としては変わりなくて、隠し難い象徴だよ。木を隠すには森の中……。『Para Dogs』の構成員の幾人かは世界の警察組織の中にその居場所を持ってるんだ」

「何でもありなファンタジーに思えてきた……」

「一番現実的なやり方だよ。それとも胡散臭い団体に擬装した方がいい? そっちの方が目立っちゃうよ」


 実際は要に教えるようなことではないのだろう。だから先程面倒臭そうにしていたのだ。


「お兄ちゃんの居た時代もそうだけど、異能力なんてそう信じられない存在だよ。だから大手を振ってその名前を叫べない。だったらどこかに寄生して隠れながらこそこそやるのが一番無難なんだよ」


 どうでも良い事のように告げて、それから未来と二人近くの交番に向かう。

 彼女が『Para Dogs』の証であるという犬と銃弾の刺繍が施された紋章を見せると、国家権力であるところの警察官殿が敬礼を返していた。

 これじゃあまるでこっちが無理やりに従わせている悪者みたいだと感じながらしばらく待つ。やっぱり少し居心地を悪く感じてしまうのは、そこが要達一般市民の味方である正義の象徴だからだろうか。別に悪い事をしているわけでは無いのに……。

 そういう意味では未来には似た感情を抱かないと認識の差異に何故だろうかと疑問を募らせる。

 そうこうしていると未来が交番から出てきた。


「目的地は分かった?」

「うん。案内するよ」

「早く頼む。そろそろ喉が渇いて仕方ないんだ」


 スマホが弄れない、金が使えない、となると途端にやる事がなくなる……。こんなことなら部屋にある読みかけの本でも持ってくればよかったとどうにもならない後悔をその辺りに捨て置く。

 過去への時間旅行も経験してみれば娯楽が減って余り目新しい感慨も湧いてこない。これが未来への時間旅行だったならもう少し景観だけでも楽しめたのかもしれないが……。

 かと言って未来に行ったところで未来の常識が分からなければ右往左往するだけ。どちらにせよ一長一短だ。

 それに今回の目的はあくまで《傷持ち》と、それに連なる歴史改変の阻止。娯楽を求めてきているわけではないのだ。


「……何だかいらないことまでお兄ちゃんに教えたなぁ…………」

「悪いな。疑問は解消しないと自分が許せないんだ」

「いいよ、どうせ最後には記憶消しちゃうし」


 あっさりと恐ろしい事を口にする未来。

 確かに彼女からしてみればそれは変わらない結末だ。

 バタフライエフェクト……歴史を変えるような要因を残してはいけない。その単純な解決法としてはやはり関わったこと全ての記憶を消してしまうのが簡単なやり方だ。

 逆に考えればそこを火種に新しい時空間事件が起きたりはしないということだ。

 けれどならばと要は考えてしまう事がある。


「……未来はさ、それで後悔したり、寂しくなったりしない? だってそこに自分がいた痕跡がなくなるんだよな……。その生き様を、殆どの人が覚えてないわけだ。それは────」

「それはもう慣れた」


 呟きに何も返せなくなって口を閉ざす。


「確かに最初の頃は納得いかなかったよ。こんなに頑張ってるのに褒めてくれる人は殆どいない。だからあるときその役目を投げ出しそうになったときもあった。有体に言えば嫌気が差したんだろうね。認められない事をしてそこに何の意味があるんだろうって」


 誰にも認められず。誰にも覚えてもらえない功績。評価のされない、ただその通りの歴史に、意味など見出せない。

 確かにその通りで、要だって評価が期待できるから人間らしくいられる。

 もしその他人からの評価がなくなってしまえば、自分のしている事に……生きている事に、どれ程の理由を見出せるだろうか。


「けど、ある人に…………あたしの、おじいちゃんに言われたんだ。それは知らないから言える事だって。だったら知ってもらえばいいって。自分なら、聞いてあげられるって」


 誰の記憶にも残らないから忘れ去られてしまう。一人になるのが怖くなる。意味が分からなくなる。

 ならばその意味を別の他人に見出せばいいと。親でも、友達でも、恋人でもいい。その存在を肯定してくれる人に縋ればいいと。


「話を聞いてもらうっていいね。自分一人で抱えるよりは随分楽になる」

「……日記をつけるとかも気持ちの整理とも言うしな」

「おじいちゃんのお陰であたしはどうにかあたしでいられた。未来に……あたしの生まれ育った時代に帰れば、あたしの拠り所はちゃんとある。そう信じられるから、あたしは悲しくないよ」


 そう言って笑う未来の笑顔に、少しだけこちらが寂しくなる。

 まだ十六歳だ。要よりも小さな体で、過酷な現実に耐えてきて。それでも信じられる自分を持っている事に、尊敬すら抱く。


「それに忘れちゃうとは言っても、こうして話せる相手はいるし。お兄ちゃんとの会話は楽しいから」

「…………そりゃよかったよ。だったらそんな顔で笑わないでくれ」

「………………」


 彼女が要に何かを隠しているのは気付いている。幾ら未来の事を言えるという状況下でも、それだけは口にしないのだろうということも理解している。

 けれどそれを隠している事を、出来るだけ表に出さないで欲しいのだ。

 嫉妬と言うならそれでも構わない。要の傍にいる間は、未来は妹なのだから。


「だったら……あたしをそんな顔にさせないでよ」

「柄じゃないとか言わないならそうしてもいいけど」

「……やっぱいい。そう言うの鳥肌が立つから…………」


 可能ならばその理由が要だからと言う理由では無い事を祈る。これでもまぁ悪くない容姿をしているつもりなのだ。もちろんハーフの友人に比べれば劣るだろうが。

 そんなどうでもいい会話をしながら話題を次へ次へと移していく。

 気付けば当初の話題も忘れてしまうほどに遠くへ来ていて、彼女の笑顔もいつも通りの可憐と自信に溢れたそれへと戻っていた。

 どれ程そうして歩いただろうか。気付けばあまり知らない景色に辺りが移り変わっていて、見覚えのある建物を探して視界が回る。

 一応ここまでの道中は覚えているが、それでも目印があればそれに越したことは無いのだ。

 と、顔を回していると未来が足を止める。彼女に続いて歩みを止めた目の前にあったのは灰色二階建ての集合住宅だった。どうやらここがこの時代での要達の拠点になるらしい。

 宿泊も兼ねていると言っていたから想像ではホテルのような何か……民宿のようなそれを思い浮かべていたが、どうやら本当に雨風を凌げるだけの居城らしい。

 要の想像を裏切ってくれるのは、それはそれで面白くはあるが、高望みをした後の急降下はなんとも言えない気分の低下を齎してくれた。

 そんな風に期待とは違う現実に呆けていると、いつの間にか話を通しに行った未来が鍵を持って戻って来る。


「……どうかした?」

「…………いや、その時代に溶け込むんだから、こんなもんだよなと思って」

「お兄ちゃんはもう少し現実を見つめる事を覚えた方がいいよ。これは現実で、全てが主人公の都合のいいように転がる物語じゃないんだから」


 言って階段を上がる彼女について一室へと向かう。鍵の開く古臭い音と共に開かれた扉の奥は、よくあるアパートの一室だった。

 畳張りの床に薄汚れた壁。ガスのコンロにステンレスの流し台。唯一少し豪華かと思えるのは風呂付で、しかもトイレと別の間取りと言うことだろうか。


「少し汚れてるけど管理はちゃんとされてるから。あとはい、お金はこれに換えておいてね。食事は自炊か、近くのコンビニになるから」

「どれくらいいる予定?」

「早くて後二日。さっき聞いてきたけど今日は八月の九日。つまり明後日がお兄ちゃんのお父さんが事故にあう日だよ」


 いきなり事実を突きつけられて息を呑む。

 はっきりと物を言うのは誤解がなくて助かるが、身構える余裕がない分少しだけ焦る。


「今一度聞くけど、覚悟は大丈夫?」

「────あぁ、大丈夫だ」

「よし、それじゃあ作戦会議と行こうかっ」


 真剣な表情でそう告げる未来に頷く。

 起こるかどうかも分からない歴史改変。

 けれど起こしてなるものかと、胸の内に強く秘めて橙色の瞳を見つめ返す。

 窓から差し込む夕日に照らされて景色は茜色に染まる。

 まるでそれは血の色だと。頭のどこかで幻視しながら呼吸を整える。

 分かりきった歴史だ。そうあるように、流すだけ────

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ