二十七章 死闘
「ほんと、綺麗な髪よねえ」
流麗な黒の髪に、通される櫛。持ち主がややずさんな手入れをするためか、櫛の通りはあまりよろしくない。
「静音の髪のが綺麗だろ」
「あんたにゃもったいないって言ってんの。褒めてもなにも出ないわよ」
「ふぅん」
生返事を漏らして、椅子に座して櫛を通されている方――鮮音は、後方に手を伸ばす。そして、青みがかった静音のツインテールを指でいじくり始めた。
「毛の主導権は私が握ってんだけど……?」
鮮音の毛を束ねて握った静音。そのまま問答無用で引っ張る。
「い、いてええててて! ごめんごめんごめん!」
「なにに謝ってんのよ」
「なんだろう」
「私の髪にでしょ~~~」
「いてててて」
静音はふんっ、と一息漏らし、手を放した。鮮音の毛たちははらりと舞い、滝の水のごとく下方に流れていく。
「長くすんのはいいけどさ、手入れしなさいよね。長いのはじゃぶじゃぶ洗うだけじゃダメなんだから」
「そういうもんなの?」
「あんた何年女の子やってんのよ」
櫛はまた、黒髪の中に埋もれてゆく。
静音に櫛を通してもらうのが好きだ。彼女に手入れしてもらうべくずさんに髪を扱っているわけではないが、結果的に役得、みたいな風になっている。
――これ役得って言うのか?
己の中の疑問を洗い流すように、櫛は髪をとかし、静音の喉は凛とした声音を発して、鮮音の関心を引き戻す。
「ねえ、鮮音はなんで髪伸ばしてんの?」
不意に問われて、鮮音はふらりと首を後ろに向ける。「ちょっと、まだやってる」と指摘が入るが、静音と視線を合わせる。彼女の瞳の中に、答えを探すみたいに。
「なんでだろ」
「あらら。あんたのことだし、そういうのうざったいとか思うんじゃないかなって。切っちゃえば?」
「切った方がいいかな?」
「鮮音が決めてよ。ま、私はこの髪、わりと好きだけどね」
「じゃあいいじゃん」
「髪のお手入れ、そろそろお金取ろうかしら」
「ジュース一本分くらいなら出すよ」
「わ、妥当っぽい値段。じゃあ早速今日カフェオレおごって」
「あいよ」
夕暮れどきだった気がする。場所は、どこだったろう。色々なところで髪をとかしてもらった。
「前にもこんな話しなかったか」
「うーん。昔も髪綺麗って言った気がする。髪とかし始めたのもその時かな?」
「そうだっけ」
記憶はいつだって曖昧で。時々鮮明に見えたりして。そこにあった情景、流れる雰囲気、すべて事細かに思い出したい。でも、そうはいかないこともあって。
ただ一つ。愛おしく想う気持ちだけが、明瞭で。
◇
階段を上った先には、戦いがある。だが、戦いだけではない。キズカと鮮音には、なんらかのつながりがある。
否、なんらかではない。幾千幾万の不明瞭な糸が二人を繋ごうと、鮮音が手繰り寄せる糸はただ一つ。それだけで構わない。それだけであることを望む。
屋上に続くドア、閉まっている。しかし、鍵は開いている。
躊躇なく開き、踏み出した。
「Buenas noches」
夜闇に紛れる、漆黒のブラウスとプリーツミニ。白すぎる肌と銀の髪が浮き上がるように見えて、出で立つ彼女の姿を幽鬼のごとく不明瞭にする。
「悪いな、アメリカ語はわからん」
「これ何語か私もわかんないんだよね。ようこそ」
「顔合わせんのは久しぶりだな」
二人だけの狭き地平。夜天を彩る星々は、都会の光が大半を覆い隠す。しかし、その奥に星は在る。遥か彼方より、鮮音たちを見守るのみ。踊れるのは、当事者だけ。今宵の舞台は、ドアを配するべく突き出した塔屋の上に貯水タンクがあるだけで、あとは平坦なコンクリの地面。二人きりの闘争のために用意された饗宴の場が果たして演者に相応しいか否か。踊ってみなくては、わからない。
「拾いなよ」
「言われなくとも」
鮮音の足元に転がる、二本の刀。月明りを受けて鈍く輝く黄金。鮮音が力を発揮するため、欠かすことのできない、かけがえなき武装。最も、これがなくとも、鮮音は戦う覚悟を決めている。
「急に呼びつけてごめん。時期尚早でごめん。本部を襲ってごめん。あと謝ることある?」
一つも反省していないのが透けて見える態度。頭を下げるどころか、空を見上げたままでいる。彼女が見上げる先に何があるのか。想像を巡らすより先に、彼女の瞳が鮮音へ向いた。
「わざわざ取って来てくれてありがとよ」
「お、ありがとうフェイズ? そうだなあ。決闘にノッてくれてありがとう。こんな辺鄙なとこまで来てくれてありがとう。あとは……私のために来てくれて、ありがとう」
一つ一つ、指を折って数えていく。彼女にとって、鮮音に感謝せねばならないことはまだまだあるのかもしれない。うーん、と声を漏らしている。
一歩、一歩。鮮音の足が、前へと進む。意識下、無意識下、その狭間。理性と本能が同時に闘争を望む。鮮音の心は今にも狼のごとき遠吠えを上げかねない。それは仲間を呼ぶための遠吠えとは違う。本能の叫びが、理性のフィルターを通しても抑えきれなかった彼女の本音。標的を前にし、奮い立った身体の熱を形にするための、咆哮。
「キズカァァァァァァァァァァッ!」
「始めようか、私たちで、私たちだけでッ! 鮮音ちゃんッ!」
想いは動力となり、身体を望みのままに駆動させる――自然と前方へ駆け出す鮮音。一心不乱。その瞳はまっすぐに怨敵だけを見据える。
一見直情的な行動に見えるが、鮮音の中にある過去の経験はしかと活きている。
キズカの周囲を漂いだす妖力粒子。彼女がこれを撃って来ることはわかっている。いわばキズカの十八番であるゆえに。鮮音はあえて止まらず、神装を刀からガントレットへと変形させる。
キズカは撃ってこない。楽し気な笑みをこぼすと共に、鮮音めがけて駆けだした。両者が敵方めがけ一直線に向かう。すぐに衝突はやってくる。先に仕掛けるはどちらか、このまま近接格闘に移行か。
――ヤツが簡単に通してくれるかよッ。
闘争への熱に浮かされながらも、鮮音の頭は冷静。スピードは緩めず、そのまま跳躍。そして、掌底部に配されたブースターを噴かしてさらに上へ。ガントレット型にした際、鮮音の神装には、神力を推進力に変換して噴き出す機構が備わる。
空中の鮮音。陸のキズカ。高さを変えてなお見つめ合う。鮮音の目のみが、相手を鋭く睨みつける。
「どうした、撃って来ねえのか」
「全部思い通りにいくと思ったかい?」
キズカは手をふらりと一振り。まとった妖術が霧散する。
「やる気あんのか」
「お空でぷかぷか浮いてる人には言われたかないや」
へらへらとした態度を崩さないキズカは、どこまでも余裕そうに佇む。この余裕がいつまで続くのか。鮮音にとっては、そこも一つのキーとなる。
鮮音はブースターを止め、ゆっくりと地表へ。そして、地に足が付く瞬間、点火、前進。
キズカは、中距離に対して遠隔攻撃を放つことが可能。ゆえに、ミドルレンジこそが彼女の間合いと言ってもいい。鮮音にとっては、出来うる限り近づいて、ショートレンジかつ近すぎない距離――相手の拳が届かない距離での立ち回りが有効となる。そう考えていた。
一気に間合いを詰め、着地と同時に右ガントレットを刀に変換。質量保存を感じさせない変換が、宵闇に輝く金色の刀を顕現させる。推進の勢いを殺すべく地を滑り、やがて鮮音の間合いへ。この間約二秒、キズカは未だ不動。
構えた刀を、中段、横なぎに全力で振るう――相対する敵は依然変わらず笑みを浮かべる。何かの予兆として妖しく在り続ける、笑み。
まるで宙に身を投げ出すような、キズカの大跳躍。鮮音の刀はもちろん空を斬る。全力で振るわれた刀の勢いは、鮮音の身体を回転させんばかり。
その勢いに、乗った。鮮音はくるりと一回転し、空中で無防備なスズカに一撃を叩き込まんと、再度刀を振るう。
不意に、視界に現れる靴裏。それがキズカの靴だと知った瞬間、鮮音はキズカの蹴りを顔面に受けて吹っ飛んでいた。
空中に飛んだキズカは、鮮音と同じように空中で回転。見事な後ろ回し蹴りをカウンターとして叩き込むことに成功していた。
鮮音は、昏人とキズカの戦闘を見ていないどころか、戦闘の存在すら知らない。そのため、キズカがこのような格闘術を用いることは、彼女にとって予想だにしないことである。
地を転がった鮮音、すぐに体制を立て直して立ち上がる。その時には、キズカが悦に浸る面持ちで駆けてくる。身を低くし、全速力の疾駆。獲物を求める本能が身体中から噴き出しているよう。
獣だ。彼女は今、獣と化している。獣を狩るのは往々にして狩人だが、キズカという獣を獲れる狩人には、簡単にはなれない。なれば、獣になるほかない。
――鬼になれ。
己の中に鬼を探す。しかし、キズカの猛攻は、探す暇を与えない。
接近した両者、キズカは左ジャブを何度か牽制で繰り出し、鮮音の注意を左に向ける。一瞬前まで己と向き合っていた鮮音は、まんまとそちらへ視線をやってしまう。瞬間、キズカは右フックの容量で貫手を繰り出した。空気を切り裂かんばかりに向かい来る一撃は、鮮音の喉を狙う。
――喉を食い破られるぞ。
どこかから告げられた気がして、鮮音の注意がキズカの右腕へ。なんだ今の声は、という疑問は、戦時の刹那へと吸い込まれて霧散する。鮮音はわずかに身体を後ろへ逸らして回避した。眼下を駆け抜けるキズカの鋭い貫手。薬指が短いのが見えた。
鮮音は勢い任せに右拳を叩き込む。貫手を振り抜いた直後の彼女は、無防備。その腹に、ガントレットを装着した拳が入った。そこに、左拳もお見舞い。呼気と共に唾液が吐き出される。
今だ。そう判断した鮮音は、拳を構えてキズカの顔面を狙う。
だが、彼女のギラついた瞳が鮮音を捉える。他の言葉で形容するならば、余裕のある瞳。このまま拳を叩き込むのは、キズカの思う壺なのか。ブースターで左方に飛び、キズカと距離を取る。鮮音の思考が瞬時に離れる判断を下した。
キズカは一分の無駄もなく鮮音に対し猛追をかける。放たれた矢のごとき疾走、次いで跳躍、宙返り。妖力に支えられ、キズカの身体はそのまま浮遊し、バタフライツイストを決める。そして、つむじ風の如く回転するキズカが、鮮音に迫る。
「蹴雨の蝶ッ!」
キズカの技である。中空を舞いながら迫るキズカは、鮮音と距離を詰め、すべての勢いと妖力を乗せた蹴りを繰り出さんとする。
生身で受け止めるのは不味い。鮮音はガントレットを刀に変換し、神力を込めて空を一閃。虚空に描いた一撃の軌跡を、蹴りつける。
「C、蹴の太刀!」
鮮音も負けじと技を繰り出す。刀の軌跡は弧を描く衝撃波となり、迫りくるキズカへと一直線に射出される。そして、衝突──蹴の太刀が霧散。鮮音の技を砕き割ったキズカの技は、そのまま鮮音に迫る。
咄嗟に刀を前に突き出す。瞬間、刀を通して腕に伝わる衝撃。知っている衝撃。
神装が、蹴り折られた。思わず握る手の力が緩み、手から零れ落ちる柄。無機質な音を立て、地へ金色が転がる。
真っ青になりかける思考、すぐさま戦闘へと意識を突き戻す。次いで舌打ち。これでは過去の繰り返しである。
「ねえ、やる気ある?」
なにも言い返せない。自分が未だ未熟者であるという自覚。キズカに挑むにはまだ早かったという諦念。すべて握り潰して、その拳で敵を殴り倒したい。しかし、神装は片方だけになってしまった。神の力を借りなければ、キズカへ感じた想いは握り潰せない。
一瞬の諦め。戦闘中であるのに、意識が己の中へと潜り込んでいた。戦闘へと戻った刹那、振り抜かれた拳が鮮音の眼前に迫る。避けられない。思わず目をつぶる。
「……ねえ、鮮音ちゃん」
痛みはやって来ない。ふわりと、微風が鮮音の顔に吹き付けた。目を開くと、白い拳が目の前で停止している。キズカは、ゆっくりと、その拳を下げる。この場にあって彼女は、悲し気な面持ち。
「私を見てよ」
絞り出したような震え声。本当にキズカかと疑いたくなる声音。鮮音は嫌々ながら、彼女と目を合わせる。
その瞳の奥に、見えた。誰かが居るのを。鮮音の知らない誰か。眼光の奥に住まうのは、それがキズカの本質ゆえか。自分はなにを見ている?
――見るな。
誰かが語りかけてくる。その声には、従わないといけない気がするのだ。しかし、瞳の奥は、鮮音を求めるように、そこに在るのだ。
「もう私には、鮮音ちゃんしかいないんだ」
「お前、なに、言って」
「千羅はいい人だし、カリナのことも大好きだよ。でも、そうじゃない。私には、もう」
瞬間、鮮音の腹に、キズカの拳が叩き込まれた。
「あはは」
「か、てめ、えっ」
痛みに咽ると同時、キズカの目をもう一度見る。瞳の奥。なにを見ていたのかと自分を疑いたくなる。戦場の最中にあって、幻覚でも見ていたのか。
苛烈な意志を見開いた瞳に乗せ、鮮音は痛みと覚悟を握りしめる。身体を捻り、キズカの顔面に渾身の右フック。顎を狙った攻撃は、脳震盪を狙えるとどこかで聞いた。神力や妖力を通してどこまでの効果があるかは不明だが、狙わない理由にはならない。しかし、キズカはギリギリまで引きつけてから回避。
鮮音は再度拳を放つ。だが、キズカは身を逸らして避け、美しいフォームの上段蹴り。咄嗟に腕を顔の側面にやり、蹴りを受け止めた。この戦いの中で、徐々に格闘に対する感覚が鋭くなっている、と鮮音自身感じる。少しずつ、キズカに対処出来始めている。相変わらず勝ち目は見えないが、いつかは。
――いつかって、いつだ。
これは、鮮音の心の中の声。先ほどから、思い返せばフィメルと戦った時から、語りかける存在がある。キズカではない誰か。女性の声ということしかわからない、その声。
気を取られる。しかし、中には有益なアドバイスもあるゆえ、聞き逃せない。自分は、目の前の女と向き合わねばならないのに。
徒手格闘の応酬。キズカが格闘に慣れているのは、一発一発の重みやしなやかな動きから知覚できる。鮮音は防戦を強いられ、押し殺した殺意の開放を望んで攻撃を受け続けた。隙を見て攻撃を仕掛けるも、キズカはダメージを最小限に済ませる形で受ける。このままでは埒が明かない。
「妖装解放」
それは、降って湧いたような死刑勧告。鮮音は直感に身を任せて右ストレートを放つが、キズカは易々と受け止めた。そして、ガントレットを纏いし鮮音の右拳めがけ、妖力を纏わせた渾身の一撃。破砕の衝撃が、腕を打つ。
「壊しちゃった」
神装は、機能停止。有効な攻撃手段の死。
――食い破れ。
鮮音の戦意は、未だ死なず。
口を大きく開け、キズカの喉に噛みつかんと躍りかかった。古来より人に与えられし武器の一つ、歯。たとえ神の力なくとも、その鋭さは常に変わらず在り続ける。
鮮音の顎に、瞬速のアッパーカット。一撃の元、顔は天を拝み、身体と同時に意識もふらりと宙を浮く。
意識は風前の灯。感覚のおぼつかない身体の周りに、集まりだす妖力粒子。やがて、大きな手のひらが形成される。キズカの技だろう。妖力手は、鮮音の身体を空中へと放り投げた。夜の闇は、いつの間にか暗雲に包まれている。
視界に、突如キズカの姿が躍り出た。右腕にまといし妖力は、闇の中で鮮音を嘲るがごとく踊る。粒子は拳の形を成し、射出。無抵抗のまま直撃を受け、鮮音はビル屋上に叩きつけられた。
決着は、一瞬のようで。己が無力さを痛感する意識すら朦朧としたまま。無惨な彼女のそばに、着地するキズカ。
――もう、終わりなのか。
己自身に問いかける。
――否。始まるのだ。
誰かが答える。
キズカは、鮮音の顔面を掴み、立ち上がらせる。あまりの膂力に、鮮音は思わず声を上げる。無へと至りかけた意識を、痛覚が呼び覚ます。
「ごめんね」
そして、人形のごとく無抵抗の鮮音を、地面へ叩き付ける。
これが、最後となった。衝撃は鮮音を介して廃ビルに響き、床に生まれるひび割れ――破砕。屋上に穴が開き、二人は落下した。解体前でまっさらの四階、コンクリの床に、キズカは降り立ち、鮮音は衝突する。
電気を消した部屋だろうか。とても暗かった。見えないのだ。おぼろげながら見える影は、夜目が判じているのか。側の影が、ゆらりと立ち上がる。人型。キズカだ。
その頭部に、尖った影が見える。角のような何か。気のせいだったのか、すぐに見えなくなった。もう、鮮音は限界に近いのだろうと己を判断する。だから、不安定な幻覚が見え隠れする。
思考になにも浮かばない。反射的に、漏れた声。
「……わたしは」
暗転。
〈つづく〉