二十一章 彼女と見る世界
闇から覚めた時、広がる銀世界に目を奪われた。
「え、なに、ここ……」
響歌は、自分がそこに立っていることを認識するのに少々の時間を要した。それから、周囲に視線を巡らす。
辺り一面、白、白、白。それは無が広がりを見せたことによる白ではなく、降り積もった雪による白である。吹き抜ける風は冷たく、なぜか寝巻きに身を包む響歌を凍えさせた。
「ちょ、寒すぎ! 誰かいないの!助けてー!」
声は空間に轟くばかりで、誰からも反応がないという事実がさらなる寒気へと響歌を誘う。暖を取る手段を持たないゆえ、どうしようもない。
その時。遠方――視界の彼方より、声が聞こえた。幾度となく耳にし、今も求めているあたたかい声音。それが、呼んでいるのだ。響歌、と。
「え、鮮音?」
返事はない。それも当然。鮮音の呼びかけは視界の外という超遠方から発されているもので、つまるところ大音量。対する響歌のそれは、半分かすれたようなつぶやきにすぎない。
声のした方に向けて、歩きはじめることにした。寝間着ゆえ、足は裸足だ。寒気は最早感じることなく、苦しいという実感らしきものが身体中で渦巻いている。このままでは、歩み続けることもままならない。
たまらず、その場にへたりこむ。すると、後方より雪をかきわけるような音が聞こえて来た。
――もしかして、鮮音。
意気揚々と、目を輝かせて、振り返る。
そこには、大口を開けた謎の怪物がいた。
「……へっ?」
死んだ。そう思うしか、なかった。
◇
「いやーーーーー!」
「うおわああああああああ!」
目覚まし時計を優に越す奇声が、鮮音の耳元で轟く。グースカ寝ていた鮮音は、天地がひっくり返ったかのような錯覚と共に飛び起きた。
「うるっせえぞ響歌! 今何時……ってもう一時!」
鮮音と響歌は、ダブルベットに二人で寝ている。昨夜は静かな夜にゆっくりと眠りについたのだが、朝起きてみればこれである。既に窓から直射日光は射しておらず、太陽は天頂を優に越す時刻。
「うわあああああん鮮音ええええ!」
時刻に驚いたのも束の間、今度は無防備な鮮音に響歌が飛びついて来た。朝も――実際には昼だが――早くからうっとおしいなと思いつつ、彼女の顔を見やる。すると、目じりで輝いている雫があった。
「響歌、もしかして、泣いてるのか?」
「うん……怖い夢見たんだけど……内容忘れたわ」
「ええ……まあ、泣くほど怖かったんだよな、たぶん。よしよし」
甘えたがりの子犬よろしくすがりつく響歌の赤い髪をなでまわす。くぅ~んと甘い声を上げ出したので、犬か、とツッコミを入れつつ撫で続けた。
二人の共同生活は、始まってさほど時は経っていない。しかし、鮮音はスムーズにこの生活に馴染んだし、なにより響歌が鮮音の存在を求めている節が強かった。
静音のことで気を病んでいた鮮音こそ人のぬくもりが必要なのではないか。優機なんかはそう考えていたわけだが、実際は響歌が鮮音を想う気持ちが強かったらしい。それが良い具合に作用して、鮮音の心に癒しを与えているようだから、結果オーライである。
響歌を撫で回しながら、鮮音は壁によりかかり、ため息をついた。日々を悠々自適に過ごしているが、特にやることがない。実は、秘李に許可を取って高校もやめてしまったので、本当にやることがないのだ。本来神術士は、迫る戦いに向けて訓練でもなんでもしていなければならないが、鮮音はそういうのが好きではない。
「どしたの? ため息は幸せが逃げてっちゃう」
「暇。響歌、私暇だ」
「そう思うなら、高校やめなけりゃよかったじゃん?」
響歌は体を起こし、ぐっと伸びをする。それから、喋る鮮音の方に向き直り、ボサついた黒髪をいじり始めた。
いじられていると、なんで自分は髪を伸ばしていたんだったかが少し気にかかった。なにか、昔のことが関わっていたような気がする。しかし、ハッキリと思い出せない。
「だってよお……休みまくってるし、職的になんか目立つとこあるし。義務教育終わってるし」
「見事に言い訳にしか聞こえないぞい」
「うっ。けどさあ……」
高校生であることに、これといった意味を感じられないのだ。かといって、神術士として生きていることで金に苦労することはなく、社会生活に身を埋める気にもなれない。とにもかくにも、時間の使い方がわからない。
「あーいいっていいって。まあ、あたしのために高校やめたみたいなとこもあるし?」
「いや、それはないけど」
「ですよねー。じゃあさ、新しいことでも始めたら?」
「新しいこと? 例えば」
「実は……作詞、手伝ってほしいんだ」
そう言った響歌は、ベッドから立ち上がって、傍にあるサイドボードから紙切れを取り出した。なにやら書かれているので鮮音は注視する。線と記号が不規則に配置されたそれが、楽譜であることは明白であった。
「私に、作詞? 響歌、大丈夫か?」
「そんな感性を疑うみたいな……。大丈夫だよ、作詞は感性だから」
「いいのか? 義務教育しか出てないけど」
「それあたしの詞ディスってるようなもんだからね……。もー、なにをためらってんのさ。じゃあ他にやりたいことないの」
やりたいこと。記憶にその文字を浮かべながら、様々な記憶を想い起こしてみる。響歌が路上で歌う姿。鮮音は歌うのはさほど好きではない。そうなると、自然に残るのは。
「ギター、かな」
「おお、ギター。いいじゃんいいじゃん、手取り足取り教えたげる!」
「ギターで足は使わんだろ」
「んなこたいいから! 思い立ったが吉日。朝ごはん……てもう昼だ。ごはん食べて、やろ?」
鮮音はギターの良し悪しがハッキリわかるわけではないが、響歌のギターは耳心地のよいものだった。彼女に教われば、鮮音も意外と楽しめたりするかもしれない。新たな日々の予感に、少しだけワクワクしている自分を、鮮音は感じていた。
響歌は鮮音のことを好いている。しかし鮮音の感情はまだ、彼女を意識し始めたくらいの位置に立っている。それでも、彼女の存在が鮮音を変えていることに違いはない。今の二人が、幸せな時間を築いていることに、変わりはない。
「始めよう、鮮音」
「……ああ、そうだな」
そのとき、鮮音の携帯が甲高い着信音を発した。
◇
二人っきりの食事というものを経験したことがない邁華は、焦りらしきものを感じていた。まさか、容姿端麗を絵に描いたような女性に食事に誘われるとは思ってもみなかったためである。
「どうかされまして、邁華さん」
「い、いえ。その、なんでもないです」
「それはなんでもあるときに言う言葉です」
星明りを落とし込んだような金の髪は、今日もそこら中の光にあてられてまばゆさすら有する。整った目鼻立ちは、まとう気品と共に彼女を高みへと押し上げていた。Sランク神術士、薙姫。
対するは、着ていく服がなくて結局神術士の制服でやって来てしまった、黒いショートヘアの洒落っ気が足りない少女。どうしても、目の前の彼女と比べられてしまう悲しき性を背負った者。Aランク神術士、邁華。
薙姫の誘いで、二人はレストランへ食事に来ていた。薙姫がどんな店を勧めてくるか、邁華は想像することもできずにずるずると現場へ。
「薙姫さん、こういう店にはよく?」
「お気に入りの店です。味が良いので」
招かれた店は、高いビルのめちゃくちゃ高い階にある高級レストラン――とかではなく、二階にある普通のイタリアンレストランだった。外の眺めは悪くないが、できるのは都心の人間観察くらいのもの。それでも、内装はかなり気を使っており、ごく普通の商業ビルの一角に本格レストランの風情が展開している。
邁華の前には、和風の味付けで日本人好みに仕立て上げられたアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノが湯気を立てている。薙姫は、バジルが香り高いジェノバソーズのスパゲティを頼んでいた。両方とも評判の高いメニューで、邁華に至っては薙姫の「邁華はこれが好きなのでは?」と勧められて頼んだものである。
「レストランに内装は大事ですが、最重要ポイントは味です。見栄えだけが良くとも、食の本質を見失っているような店に興味はありません」
その発言に関して、邁華は全面的に同意であった。薙姫は色々とお嬢さま気質に見えるところがあるが、その実強い芯を持っている。秘李はますらおお嬢様と呼んでいる彼女だが、男勝りというワードで片づけていい感性ではないと感じている。
「ここ以外にはどういう店に行くんです?」
「そうですね。焼き鳥とか、好きですよ」
そう言われて邁華は、小汚くも味は良い焼き鳥屋で一人食事をする薙姫の姿を想像する。最初は珍しがられそうだが、食いっぷりがすごいのですぐに馴染みそうな気がした。
フォークにスパゲティを巻き付け、口に運ぶ。薙姫の所作は手慣れており、深緑の麺たちは形のよい唇へと運ばれていく。しかし邁華のペペロンチーノはオイリーで、滑ってフォークに巻き付きづらい。しかし、薙姫の言う通り、味は確かだった。
「なんと言いますか、不格好な焼き鳥屋さん。ああいうところにも行ってみたいのですけれど、身の丈に合った場所を選ぶべきかと思い、あまり行けていないのです」
「え、そうなんですか? てっきり行ってるものかと」
「目立つのは好きではありません」
「うーん。秘李さんとかと一緒に行けばいいんじゃないですか? そうすればこう、馴染むというか。貸し切りにするって手もあるし」
薙姫は顎に手をあて、ふむ、と漏らす。それから「良いアイデアですわ」と笑った。
「人を連れだって行くことは少ない気がしますね。今日は特別ですが」
「特別。私との食事が、特別」
どんな反応を返せばいいのか、正直わからずにいる邁華。先の空港制圧戦で急速に関係を縮めた二人であるが、その距離感は未だ文字に起こすのも難しい微妙なものである。
「邁華はどんなものが好きなのです? やはり、丼モノですか」
「な、なぜそれを!」
不敵に笑う薙姫は、標的を見事に射ってみせたかのごとき風情。美しく巻かれたスパゲティを咀嚼し、嚥下してから語りだす。
「見ましたわよ、すた丼で食事をするあなたのこと。鮮音のマネですか」
すた丼での食事を見られていた事実にたじろぐ邁華だったが、後に続いた言葉が彼女の表情に軽微な曇りを生み出す。
「鮮音先輩の……。いえ、決してそんなつもりは」
「あなたが虚像を追いかけているのは周知の事実です。お認めなさいな」
「虚像? 鮮音先輩のどこが虚像だっていうんですか。あの人の強さは本物です」
邁華は、鮮音を強くリスペクトしている。彼女が鮮音を目指して神術士になったというのは誰しもが知る事実であり、神装までもがリスペクトを形どっている。
「ふふっ、本物の強さは人それぞれが有するものでしょう。鮮音の強さとわたくしの強さは別物です」
「そんなのわかってます。でも、それが鮮音先輩を否定することとは、繋がらないと思います!」
テンションに合わせて高まる声のボリューム――周囲の目が邁華に向く。恥を感じたか、頬を赤らめて粛々と目の前のスパゲティと美人に向きなおった。一連の動作を見た薙姫は、楽し気に笑みを浮かべるばかり。
「と、とにかく。私はたしかに鮮音先輩に憧れてますけど。でも、好きな食べものは関係ないです」
「無意識、というのも考えられますが。ま、置いておきましょう。鮮音の凄いところはどこなんです? わたくしには、一体全体あなたの尊敬がどこから生まれたものかわからないのです」
薙姫はぱくぱくと食べ進めており、既に皿の底が見え隠れしている。
邁華はいつもならガツガツ食べるタイプ――これは鮮音に似て――なのだが、今日ばかりは平常運転ではいられない。返事を考えつつも、美味なスパゲティと真剣に向き合う。
「……鮮音先輩は、大切な人を一度失ってる。なのに、戦い続けてる。並みの人間じゃできないことですよ」
「その程度のことで、あなたの尊敬は構成されていると?」
「いいえ。前から鮮音先輩のことは見てきました。あの人の強さは――」
「もういいです。これ以上あなたの口からあの女のことが語られるのは我慢ならない」
そう言うと、薙姫はグラスの水を一気に飲み干した。いい飲みっぷり、と邁華が思うのも束の間、薙姫は意志の灯った目で語りだす。
「鮮音鮮音。尊敬は己を作り上げる糧ですが、あなたの尊敬はあなたを作り上げているとは言い難い。邁華のアイデンティティはどこにあるのです?」
「私の、アイデンティティ?」
邁華は、アイデンティティという言葉の正しい意味を知らなかった。なんとなく、個性みたいなものとして認識している。それは正しい認識ではあるのだが、彼女はカタカナ言葉が苦手なのだ。
曖昧な認識。それゆえか、否かに関わらず、邁華は答えることができなかった。
「わたくしはそれを知っています。あなたとあの子には、決定的な違いがある」
その言葉は、邁華の空いた部分――本人に存在の自覚はない――に、一撃を加えるものだった。未だ邁華にとっての薙姫がすごい先輩という認識だったのを、大きく覆す第一歩。
「過程はどうでもいい。わたくしには、一つの確信がある」
その時の薙姫は、空港制圧戦の前に話したときのよう。それでいて、過去より近くに感じられる。
「あなたは、こちら側へ至る器を持っています」
戦闘に魅入られた女から送られた、アイデンティティをかたどった招待状。こちら側とは、命がけの闘争という限られた人類のみが経験する世界に身を置く者の、さらなる高み。秘李、昏人、そして薙姫たちが居る、人を越えし人のステージ。
「邁華、強くなりたいですか」
「はい」
即答だった。
満足げな薙姫は、スパゲティの最後の一口を頬張った。慌てて邁華も食べ始める。
食事中の邁華を前に、手を合わせて「ごちそうさまでした」と、薙姫は言う。それから、携帯を取り出して誰かに電話をかけ始めた。
「ああ、もしもし。わたくしです。今日三時から模擬戦をやるので支部に来てください。相手は邁華です。よろしくお願いしますね」
一方的に喋り散らしただけのようにも見える薙姫の電話。そして、途中にサラッと挿入された邁華の名前。嫌な予感を背筋に覚えつつ、最後のスパゲティを嚥下した。
「ごちそうさまでした。あの、薙姫さん。なにを」
「鮮音と模擬戦を取り付けました。あなたの中にある虚像は、あなたが打ち砕きなさいな」
〈つづく〉
モデルにしたレストランはあるけどヒミツ