十章 邂逅を導く歌
目が覚めた時、そこに見えたのは見知らぬ天井。そして、思考が停止する。
自分の存在が、自分を取り巻く空間が、自分の現状が、理解出来ずに歩みを止める鮮音。
自分が眠っていて、今目を覚ましたのだ、と気づくまでには一分程を要した。
「……ここは、病院か?」
少しばかりかすれた声で、鮮音は呟いた。
辺りを見回してみると、白が圧倒的に多くの面積を締めている。そして、鮮音が身につけている衣服も白。
わけもわからぬままで、鮮音は身体を起き上がらせようとした。
しかし、脚は自由が効かず、動かそうとした身体の節々には痛みが走る。
「いっつつ……これだけで痛いなんて、どんだけ寝てたんだ……?」
その声に気づいたようでーー純白の衣服に身を包んだ、妖艶なナースが入って来た。
「鮮音さん! 目を覚ましたんですね!」
「あっ……はい」
ナースの表情はとても嬉しそうで、
「すぐにお医者様呼んでくるので、待っててくださいね」
「よろしくお願いします……」
ナースは足早に部屋を出て行った。
未だある身体の痛み。それに耐えていられるほど鮮音も強くなく、ベッドに身体を預け直した。
間も無くすると、強面の医者らしき人物が鮮音の前に現れ、色々と検査を受けた。
「特に目立った異常は無いですね。なにか、どこか痛いーとかあります?」
その強面な顔とは打って変わって、優しい声音に鮮音はとまどいを隠せずにいた。
「えっと……身体が痛いです」
「ははっ、そりゃ当たり前ですよ。長いこと寝てましたからね……そこはリハビリなんかで身体を慣らしていかないと」
「そう、ですか……」
そうして、医師たちは部屋を出て行った。しかし、戻り際にナースが、
「面会の方が来てるみたいですよー」
と告げていった。
そして、その人は待つ暇も無く現れた。
「鮮音ちゃん、お邪魔するッスよー」
「優機さん! あ、ありがとうございます」
「礼には及ばないッスよ」
見慣れた金のショートヘアに、見慣れない、私服姿。少しばかり子供っぽいのが悔やまれるが、彼女は成人済みだ。いつもと違うのは、黒ぶちメガネをかけているところ。
Sランク神術士、優機。
位としては、鮮音の上司に近い存在である。
「命に別状無いってのに一週間も目覚まさないっていうから、心配したんスよー」
ぼやくように言いながら、優機は手に持った袋を置き、イスに座り込んだ。
「どうッスか、調子は」
「……まだ、よくわかんないです」
「そッスか。でも、見た感じ元気そうなんで安心したッス」
知らないもののオンパレードだった状態の中で現れた優機に、鮮音は安堵を憶えた。
「見舞いのド定番としてフルーツを持ってきたんで、ついでにド定番のりんごの皮むきをしようと思うッス」
そう言うと、得意気な顔を見せながら優機はポケットに手を突っ込んだ。そこから取り出したのは、黒い手のひらサイズの筒。
「それ、何です?」
「ふっふっふ、見て驚けッス」
黒い筒を手のひらでくるくると弄び、筒に付いたスイッチをONの方向へと押した。
すると、筒の先から数センチ程の金色の刃が現れた。それははっきりとした形を持たず、電動歯ブラシのように常に動き続けている。
「神術製ナイフ。切れ味良し、利便性良し。最高の一品ッスよ!」
そして、優機はりんごを取り出し、ナイフを近づけた。それを撫でるようにするだけで、りんごの皮はするすると向けていく。
「し、神術って便利……」
「便利に扱えてるのは私くらいのものッスよ」
「でも、個人的なイメージだと神術で触れた食べ物ってあんまり美味しくなさそうですよ」
「大丈夫ッス。純情乙女の出す神力はもぎたてのフルーツ果汁のようにフレッシュで甘々ッスから」
どんな意図があって言っているのかわからないその言葉に、鮮音は相槌をうつことしか出来なかった。
「よし、切れたッスよ。それじゃ、あーんして」
突き出されるカットされたりんご。こういうのはカップルがするようなことではないか、と疑問を抱くが、回避出来るようなイベントでもない。
「あ、あーん……」
複雑な気分のまま、りんごを噛みしめる。
「……美味しい」
心なしか、いつもより美味しい気がした。
久々にものを口にしたからなのか、それとももぎたてフレッシュな神力によるものなのか。
真相はわからぬままである。
「もぐもぐ……確かに、イケるッスね。神力のスパイスが効いてる」
人類の新たな発見のようなスパイスはさて置き、二人はりんごを完食した。
「さて……本題、というか。来たらちょうど目を覚ましたって聞いてびっくりしたッスよ。んで、私の方から伝えてほしいことがあるって」
「伝えてほしいこと?」
「正直言いたくないッス。でも、乗り越えなきゃいけないことッスから」
なんのことだかわからず、鮮音は首を傾げた。しかしーー
「静音ちゃんのことッス」
その言葉を聞いた瞬間、心を強く締め上げられるような感覚が襲ってきた。
そして、封のされていた記憶が一気に溢れ出す。
雨の中ーー倒れた静音ーー慟哭する自分ーーと、一歩ずつ踏みしめるようにして、溢れ出た記憶が辿られていく。
「あっ……ああ……」
「言わなくてもわかってるみたいッスね……大丈夫ッスよ鮮音ちゃん。私が付いてるから」
優しく、鮮音の手を握ってくれる優機。そのあたたかさが、暗く深いところへ沈んでしまいそうな鮮音を引き止めてくれていた。
怖くて、苦しくて、悲しくて。どんな感情が促したことなのかわからないがーー鮮音の瞳から流れる一雫の涙。
その時、今にも冷え切ってしまいそうな鮮音を、暖かさが包み込んだ。
「辛い時は、泣いていいんスよ。私の胸でいーっぱい泣いて、ゆっくりでいいから、このことを乗り越えられるようにしていくッス。それが、今の鮮音ちゃんがやるべきことッスよ」
優しく抱きしめてくれる優機に促されるように、鮮音の心がほぐれていく。
「優機さん……私は、どうしてればよかったんですか」
「今それを話しても、ただの結果論にしかならないッスよ。今を受け止めて、前向いて進んでかなきゃ」
その後、鮮音は俯いたまま、なにも口にしなかった。唇を噛み、涙をこぼしながら。
そして、優機が伝えるべき今後のことを流すように伝えると、鮮音は眠りに落ちてしまった。その寝顔は、未だなにかに囚われているようで、見ている優機は良い気分にはなれない。
「……私なんかじゃ、務まらないッスよ」
今の鮮音には、隣に居てくれる人が必要だ。それは、優機では務まらない。
◇
鮮音の傷の治りは比較的早かった。全治まであと三週間、と言われていたが、二週間でほぼ治り切ってしまった。
そのまま、流されるように退院。
夏の陽射しは、鮮音の心にぽっかりと空いてしまった穴を明るく照らしていた。
優機によると、今後しばらくは休息を取れとのことだ。
「休息、か……」
特にやることも見つからず、帰宅した鮮音は勢いのまま就寝。
特に夢を見るようなこともなく、自分のベッドでゆったりと眠る。今までが病院のベッドだったので、新鮮に感じてしまう。
そしてーー起床。
「んっ……んー……暑い」
大きく伸びをして、立ち上がった鮮音。身につけた衣服は汗まみれで、不快感に苛まれる。
仕方なくシャワーを浴びることにした鮮音。
シャワーから吹き出す湯が、鮮音の汗と共にこびりついた気持ちも払拭してくれればーーとも思うのだが、そうそう上手くはいかない。
そんな中で、鮮音は自分のつつましやかな胸に目を向けた。静音と話題にし、バカにされたような記憶もある胸だ。
「……いつまで引きずるのかな、私は」
水気を含んでへばりつく髪をかき分け、湯煙のかかったバスルームを見回す。
「静音と一緒に入ったこともあったっけ。たしかあの時はーー」
と、記憶の引き出しを開ける直前で、強引に押し戻した。
思い出しても、また憂うだけ。過去に今は無く、未来は今からしか生まれない。
その事実を、苦い薬を嫌でも服用するように、言い聞かせる。
しかし、その口に苦い良薬も、効き始めるまでは時間がかかる。
「たとえ結果論でも……私は、静音を助けたかった」
バスタオル一枚巻いた姿でバスルームを出て、窓の外へと視線を投げた。すると、見栄えの良い茜色の空が広がっていた。
時刻は十八時を回った頃。ちょうど、人々が夕飯にありつく時刻である。
それに呼応するかのように、鮮音のお腹が優しくも内面に激しさを秘めた空腹の音色を奏でた。
「うぁ……どうしよ」
鮮音には女子力が足りていない。特に、料理が苦手である。
しかし、食べることは大好きだ。好きな食べ物は丼もの。ちまちましたフレンチなどは好きでは無い。
そんな女性的魅力に欠け気味の鮮音が、食生活をどうしていたかというとーー静音の存在が、大事になってくる。
静音は鮮音よりも豊満なおっぱいを有する上に、女子力もそこそこ秘めている。そして、鮮音と静音の住む場所は限りなく近い。
導き出される結論はーー通い妻に限りなく近いなにか。
静音が来れないときは、適当になにか買ってきて済ませていたり外食したり。そして、今もその静音が来れないとき、に該当してしまう。
冷蔵庫を覗いてみるが、これといってしっかりと腹の足しになってくれそうなものが無い。
「……ちょっと出てくるか」
あまり乗り気では無いが、食が原動力の鮮音が食べないことがあれば、生命活動に支障をきたしかねない。
外に出てみると、家の中との気温の違いに驚きを隠せなかった。
心地良い、と感じるほどではないものの、家の中に居るよりは何倍も過ごしやすく、時々頬をうつ風も気持ちいい。
激しい運動は禁じられているため、それを避けるようなゆったりとした足取りで歩く。向かうのは、カツ丼に重きを置く鮮音のお気に入り料理店。
しかし、そこに着くまでは歩いても十五分から二十分はかかる。
静かで落ち着きのある住宅街を抜けて、人通りの多い道へと出た。カツ丼の待つ場への道を歩く鮮音の表情はーー暗い。
お腹は空いている。しかし、食欲はあまり無く、気分が乗らないのだ。
道行く笑顔の人たちを尻目に、深いため息を吐く鮮音。
数週間前にもあった光景だ。その時は、狼銀が助け舟を出してくれたことは、色濃く記憶に残っている。
そこで、鮮音は長い間狼銀に会っていないことに気づいた。
自分の理解者が周囲に存在しないーーという錯覚。
思い出されるのは、静音という自分の一番の理解者のこと。
自然と思考が静音へ向かう自分に少し呆れながらも、そうなることを拒めない。
何故、こうなってしまったのか。
都会の空にある筈の星のように不明瞭で、雲のように掴み取れないその答えに迷うーーその時、鮮音の耳に、歌が聞こえた。
引きずられているかのように鮮音はその音がある方へと歩みを進め、辿り着いた場所。
路上で、優しいギターの音色を奏で、歌う少女がそこに居た。
背丈は鮮音より少し小さい程。煌びやかな赤の髪で、型はボブカット。
上は黒のノースリーブで、淡く焼けた健康的な肌と、腕がギター演奏で上がることによって見える汗ばんだ艶のある腋が印象的。
下はデニムのホットパンツと、涼しげかつ大胆な格好は活発的な印象を嫌でも持たせる。
しかし、彼女の歌は、その活発な見た目とは正反対。かき鳴らすような音の応酬ではなく、優しく心に染み入ってくるようなバラード。
心地良いその歌に惹かれ、鮮音はその場で聞き入ってしまった。
過ぎて行く人の流れの中で、一人の主役と一人の観客。
やがて曲は終わりーー鮮音は、思わず拍手。
その拍手の音に驚いたのか、赤髪の少女は頬を赤く染めて視線を鮮音に向けた。
「あ、聞いててくれたの? ありがとっ! どうだったかな?」
「えっと……凄く、良かった。その……上手く言えないんだけど……」
慌てる鮮音を見て、赤髪の少女は弾けるような笑顔を見せた。
「その言葉だけで十分! ちゃーんと気持ちが込もってるってわかるしね。改めて、ありがと!」
赤髪の少女が手を差し出し、握手を求めてきた。握り返すと、その手は暖かく、向けられる屈託の無い笑顔もまた、暖かい。
「いつもここで?」
「うーん、いつもってわけじゃないけど、よくここではやってるよ。それを聞いてくるってことは……もしかして?」
「たぶんそのもしかしてだと思うけど……また聞きたいなって」
赤髪の少女と話しているとーー暗くなっていた鮮音の表情に、優しい笑顔が戻った。
そして、鮮音の言葉を聞いた途端、赤髪の少女は顔を赤くして目を逸らした。まるで少女漫画の恋する乙女だ。
「嘘……そ、そいつは嬉しいな。じゃあ、あなたが来てくれた時のために、これからもちゃんとやらないとね」
「ちゃんと、って、いつもはちゃんとやってないのか?」
「いやさ、最近は足を止めて聞いてくれるような人も減ったし、あたしのやりたいことだからーーみたいに言い聞かせる感じで、少し惰性みたいにやってて」
惰性の行き着く先は、挫折だったのではないだろうかーーと、鮮音は、なにも知らないながらに想像を働かせる。
「でも……あなたが足を止めて、拍手までしてくれた。おかげで、あたしのやる気はぐーんと伸びたし、ちょっと楽しかった。それに……こ、これはいいや。とにかく、あなたはあたしの救世主だよっ!」
「き、救世主? 良いものを良いって言っただけなんだが……」
「それが嬉しいんだよ。人を楽しませるための行動をしてる人は、特にね」
「そう、なのか……」
数秒の沈黙が流れる。しかし、会話が途切れて間が悪くなっているのとは違う沈黙だった。二人だけの空間が切り取られているかのような、感じたことの無い沈黙。
「とりあえず……今日はあの曲で最後って決めてたから、あたし行くね。もう一度言うけど、拍手とかすっごい嬉しかった。あなた、名前は?」
「私は鮮音」
「鮮音ちゃん……カッコ良い名前だね。あたしは響歌。よろしくっ!」
挨拶を交わした後、響歌は手を振りながら、じゃあねと言い残して、去って行った。
そして、それに呼応するように鮮音の携帯が鳴り出した。メールが届いたことを知らせる着信音だ。
メールの送り主は、神術士の中でも最高の位に立つ女、秘李からのもの。
文面には「明日、正午に本部会議室に集合するよーに」とある。
秘李から直々の通知というのは、中々に珍しいことだ。今までも片手で数えられるほどしか無い。
鮮音は、その簡素な文面に淡い予兆を感じた。
<Tobecontinued>