第八十四話 『手を繋ごう』
真っ暗な空間を漂うティアラは、泳ぐ事もしないでプカプカとしていた。何も映らない闇を見つめ、その内目を閉じてしまった。
(……目を開けても、瞑っても……真っ暗)
(開いても汚い、瞑っても聞こえる……心は、汚い)
(一人じゃ、耐えられ、ない……)
自分が生まれた時の事を思い出す、目覚めて何日もしない内に、一人の男が契約を迫ってきた。その頃のティアラは何も知らず、好奇心から簡単に契約を結んでしまった。
リンクした男の心は酷く汚れていて、連れ出された世界は真っ黒で、幼かったティアラの心は、深く傷つけられた。
結局ティアラは契約を破棄し、生まれた泉の底に閉じこもった。外への恐怖心と、人への嫌悪感から、ティアラは自分の殻に引き篭もってしまった。
真っ暗な水の底で、自分は何の為に生まれたのか、そんな事を考えている時、光が差し込んできたのだ。
____________________数百年前____________________
あの日も変わらず、自分の周りは真っ暗だった。他のウンディーネも声をかけるのを諦めていて、ティアラは変わらず一人、水底でぼんやりしていた。
ボーっとしているティアラの肩を、何かが突っついた。また魚か何かだと思って無視していたのだが、何かしつこい。顔を向けると、そこには一人の少年が居た。
「きゃっ!?」
この泉は最も深いところで30メートルはある、ティアラは一番深いところに居た為、まさか人間が来るとは夢にも思っていなかったのだ。
「……?」
少年は首を傾げ、ニコッと無垢な笑みを浮かべた。ティアラはこの時初めて、綺麗な心を持つ人間を見た。思わず話しかけようとした所で、少年の顔が少し歪んだ。
どうやら息が限界になったようで、慌てて浮上を始めた。ティアラは呆気に取られたが、気が付いたらその後を追いかけていた。汚くない心を見たのは、初めてだったから。
「ゲホッ……ゲホッ……少し死ぬかと思った……」
「馬鹿だな、お前は人間なんだぞ?」
「無茶ばかりして、俺の苦労も考えろよな?」
「一番強そうなウンディーネは……一番底に居そうだって言ったの……フェルドだろ?」
「マジで潜っていけるとは思わないっしょ、普通」
泉から顔を出すと、先ほどの少年がサラマンダーと会話していた。他の種族の精霊を見るのは初めてで、ティアラは声をかけられずにいた。そんなティアラに気が付き、少年は顔を明るくした。
「あ、さっきの子だね」
「良かった、君と話がしたかったんだよ」
声をかけられ、思わずビクッとしてしまう。そんなティアラに、少年はズカズカと近づいてきた。
「あんな深いところに居るなんて、僕もビックリしたよ」
「僕はルーン、ウンディーネと契約しにここに来たんだ」
「良かったら君と契約したいんだけど、ダメかな?」
契約という単語に、ティアラは怯えてしまう。そのまま水に潜り、水底を目指して泳ぎ出す。いや、正確には、泳ぎ出そうとした、だろう。
いつの間にか横に飛び込んでいた少年が、ティアラの体を抱え上げ、水上にテイクアウトされた。お姫様抱っこのように少年に抱えられたティアラは、何が起きたか分からずに目を丸くしていた。
「君、何を怯えてるの?」
「いきなり見ず知らずの奴に抱えられたら、そりゃ怯えるだろう」
「フェルド邪魔しないでよ、僕はこの子と話してるんだ」
「へいへい……」
そう言ってサラマンダーは姿を消した、少年は陸にティアラを下ろすと、笑顔で目線を合わせてきた。
「僕、怖くないよ?」
一言だけ、そう言った。
「あっ……契約、嫌……」
「怖い、から……嫌な物、一杯……一杯……見える、から……」
「外は汚い、怖い……やだ、よぉ……」
契約は嫌だと、そう少年に伝えるティアラ。あんな汚い物は、もう二度と見たくないのだ。
「ん~? んー……」
「まぁ、確かに……外に出ればそういう嫌な物、見えちゃう時もあるね」
「そっか、サラマンダーと同じで、君も心が見えるんだ」
「見えるとやっぱり、辛いよね」
少年は腕を組んで少し考えると、ティアラを再び抱え上げた。
「ひゃあ?」
「けどさ、外って嫌なことばかりじゃないよ」
ティアラを抱えたまま、少年は駆け出した。その勢いで木を蹴りつけ、身軽な動きで木を登って行く。一気に木の頂上まで駆け上った少年は、笑顔をティアラに向けた。
「ほら、綺麗だろ」
少年が見上げた空は、綺麗な星空だった。
「凄いよな、コリエンテ大陸は星空が凄い綺麗だ」
「この前だってオーロラっての見たんだ、あれも凄かったなぁ……」
なにやら語りだした少年の横顔が、凄く楽しそうで。凄く純粋で。その心が、とても眩しかった。
「汚い物を絶対見せないって、約束は出来ない」
「いや……多分見せちゃうと思う」
「けど、それ以上に綺麗な物、沢山見せてあげられると思う」
「だから、僕と契約してよ」
「笑えば可愛いと思うんだ、君」
「水底に引き篭もってるなんて、勿体無いよ」
そう言って笑っている少年の心が、凄く綺麗で、ティアラは自然と、その心に寄り添いたいと思っていた。
「……じゃんけん、しよ」
「え? じゃんけん?」
「私に、勝てたら、契約……いいよ」
「本当!? よし、やろう!」
契約を賭けたゲーム、自分から挑む事になるなんて、正直思ってもいなかった。木から降り、少年はティアラは下ろす、そのまま2人は向き合った。
少年の心は確かに、見たことも無いほど眩しかったが、それでもはっきりと見えている。普通にじゃんけんをすれば、ティアラが負けるのは有り得ないだろう。
初めての契約時にはゲームをしなかったティアラ、そのせいで酷い目にあったのだ。そんなティアラが契約のゲームにじゃんけんを選んだのは、絶対に負けない勝負だからだ。これは、絶対に契約をしないという意思の現れであり、ティアラの拒絶の証でもある。
その勝ち目を与えない勝負を、少年は軽々と越えてきた。ティアラのグーに対し、少年はパー、一発目で勝負は決した。少年の心は見えていたはずなのに、動きが読めなかったのだ。
「何で……何、したの……?」
「心読もうとしてたろ、ズルはダメだよ」
「心が見えても、分からない事だってあるんだよ」
少年はパーのまま手を伸ばしてきた、ティアラのグーを包み込むように、その手を取った。
「踏み出してみないと、見えないものだってあるんだ」
「怖い事もあるけど、良かったって思える物も、きっとある」
「真っ暗で何も見えないなら、手を繋ごうよ」
「きっと、光が見えるからさ」
「うっわぁ……、寒いわぁ……」
笑顔を浮かべていた少年の横に、サラマンダーが現れた。
「良いとこなんだから、邪魔しないでよ……もう……」
「ごほんっ…………だからさ、僕と一緒に旅に出よう」
「僕の夢は、魔物と人の共存の世界」
「まだまだ先は見えないけど、きっと出来るって信じてる」
「僕の夢の果て、一緒に見て欲しいんだ」
その笑顔は、ずっと閉じ篭っていたティアラには眩しすぎて、自然と涙が零れていた。暖かくて、優しい心に、生まれて初めて、ティアラは安心できたのだ。
「君、名前は?」
「な、まえ?」
「……ない……」
「じゃあティア……いや、ティアラ」
「今から僕は、君をそう呼ぶよ」
「……ルーン、眩しい、ね」
「ルーンの心、太陽、みたい……」
「じゃあ、怖くても、暗くても、僕が照らすよ」
「暗ければ暗いほど、光って良く見えるんだしね!」
その笑顔は、自然とティアラを笑わせていた。生まれて初めて、ティアラは笑えたのだ。
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あれから500年近くが経った、ティアラは再び、真っ暗な場所にいた。
昔の仲間だった精霊達が連れて来たのは、ルーンに少し似ていた人間だった。
ゲームをしたのも、ルーンと同じで、心が綺麗だったから。
一度は諦めたのに、あの子はまた私に向き合った。
あの目が、あの心が、ルーンと重なって……。
辛いのか、悲しいのか、嬉しいのか、分からなくなって。
自分の心が、溢れ出してしまった。
汚い心が大嫌いな筈なのに、不安と寂しさで、自分の心が黒く染まっていたんだ。
そんな自分の心に沈んだティアラが、確かに声を聞いた。
自分を呼ぶ、声を。
(真っ暗なのに、どうして……届くの?)
(何で、君は、来てくれるの……?)
分かっている、伝わっている、ここは自分の心が溢れ出して出来た場所だ。あの人間の想いが、直接伝わってきていた。
あの人間の心が、闇の中ではっきりと、光り輝いていた。
(……太陽、みたい……)
ルーンの言った通り、闇の中でも、光ははっきりと見えていた。ティアラは光に手を伸ばし、手を、繋いだ。
黒い水球が光り輝き、透き通り始める。その中で、ボロボロのクロノと、涙を流しているティアラが、手を合わせていた。
水球は崩れ落ち、一息付いたクロノに精霊達が近寄ってきた。
「クロノ、ティアラ! 無事だったか!」
「良かったぁ~! 心配したんだよぉ!」
「あぁ、何とかな……」
目の前で泣き続けるティアラを見て、クロノは安心したように笑顔を浮かべた。
「この状況は? 勝負はどうなったんだ?」
「あいこだな」
首を傾げるアルディの背後から、セシルが近寄ってきた。
「パーとパーであいこ、ティアラ相手では有り得ない結果だ」
「引き分け、だろうな」
セシルがニッと笑った、その笑みが何を意味するかは分からないが、今はそんなのどうでもいい。
「今は、勝負とか……契約とか……どうでもいいよ……」
「手、取って貰えたから……さ」
「ふえぇ……う、うぇ……うえぇええええええ……っ!」
さっきまで合わせているだけだったが、今は指を絡ませてしっかりと手を握ってきている。泣き続けているティアラだが、クロノは気が付いていた。
あの闇の中、手を伸ばし続けたクロノは、ティアラの心を感じていた。手が合わさった瞬間、光が闇を消し飛ばしたのだ。あの光は、契約の光……。
ティアラは、クロノを認め、既に契約を結んでくれたのだ。クロノはやり切ったような笑顔を浮かべ、空いている右手でティアラの頭を撫でてやった。
泣き止むまではしばらくかかりそうだが、もうティアラは心配要らないだろう。今までで一番ズタズタになったが、無事に3体目の精霊と契約を結ぶことが出来た。
繋いだ手は、確かに光を見せた。
残る精霊は、あと一人だ。




