第七十五話 『悪意と善意』
クリプスに向かって走るクロノ、そんなクロノに向かって、クリプスは魔力を放った。触れた物から命そのものを奪い去る、怨念に染まった魔力だ。
「あれに触れるな、触れたら終わりだぞっ!」
「ごめん、無理だと思う!」
セシルの助言は嬉しいのだが、クリプスはあの魔力を纏い続けている。恐らく、絶対に触れないというのは不可能だ。
(とにかく距離を詰めないと……エティル!)
(うん! 一気に行くよぉ!)
放たれた魔力を疾風の速度で掻い潜る、クリプスまでもう少しという距離まで詰め寄ったが、そこでクロノは膝をついた。
(ぐっ……完全に当たらなくても、これかよ……)
「アアアアアアアアアアアアッ!」
クリプスの纏う魔力はその強さが桁違いだ、近づいただけでクロノの命が吸われていく。膝をついたクロノに、クリプスはその尾を伸ばしてきた。勢いに乗った尾は槍のようにクロノの腹部に突き刺さり、クロノの体を吹き飛ばす。
「ゲホッ!?」
体から力が抜け、吹き飛ばされても上手く受身すら取れない。クロノは地面を転がりながら、それでも無理やり体を起こした。
「幽霊の癖に、怖がりでさ……」
「でも、怖くても……クリプスさんは探し続けてたんだろ……?」
「どれだけ探してたのかは知らないけど、ずっと一人で森を彷徨ってたんだろ?」
「安心しろよ、ちゃんとあったんだ、無くした物」
「今、届けるからさ」
そう言って笑うクロノに、クリプスは魔力を放った。足に力が入らず、クロノはそれをまともに喰らう。
「う、ぐ……!」
苦痛に顔を歪めるクロノ、その隙にクリプスが距離を詰めて来た。そのまま自らの尾で、クロノの身体を絡めとる。
「ぐ、ああああああああああっ!?」
怨念によって身体が実体化しているクリプスは、物理的にクロノの身体を締め上げる事が可能だ。ギシギシと嫌な音を立て、クロノの体に尾を巻き付ける。そしてクリプスの纏う黒い魔力も、クロノの体を覆ってきた。
物理的に体を絞められ、魔力によって命を吸われる。このままではクロノは絶命するだろう。
(く……そ……力が……入らな……)
精霊達の声が霞んでいく、意識が遠くなっていくクロノは、何か別の声が聞こえる事に気が付いた。
(……てっ! ……や……いや……!)
(なんだ……誰、だ?)
(止めて……嫌、嫌だ……っ!)
クリプスの声だ。
魔力を通して、クリプスのイメージが流れ込んできていた。
(何でこんな目にあうの……? 私が魔物だから……?)
(魔物だったらいけないの……? 魔物だったら、生きる事も許されないの!?)
(痛いよ、怖いよ、苦しいよ…………)
(誰か、助けて……誰か……)
暗い牢屋の中、暗い地下室、複数の人間、迫ってくる手が、恐ろしい。
痛みが、苦しかった記憶が、クロノの中に流れ込んできた。
自然とクロノも涙を流していた、流れ込んでくる記憶は、辛いなんてレベルじゃない。
(こんな……事……人間のやることじゃない……!)
(これじゃ、どっちが魔物か……分からないじゃないか……)
ここまで非道な事を行える、人間の方がよっぽど魔物のようだ。クリプスが憎しみで我を忘れるのも、当然の事だと思えた。
だからこそ、彼女をこれ以上、苦しませるわけにはいかない。
「ぐ、うあ……うあああああああああああああああああああああああっ!!」
金剛を発動し、持てる力を振り絞るクロノ。その力が、クリプスの絞めを弾き飛ばす。
「俺も人間だから、信用できないって思われても仕方ないと思う」
「クリプスさんが人間を憎む気持ち、俺にはどうにもできないかも知れない」
「だけど、目の前で苦しんでるクリプスさんを、見捨てるなんて出来ないから!」
「だから、頼むよ、思い出してくれっ!」
涙を拭い、クリプスに向かって突っ込んでいくクロノ。当然だが、それは命を奪う魔力に突っ込む事と変わらない。それでもクロノは、迷うことなく黒い魔力に飛び込んで行った。
真正面から強力な魔力にぶつかったクロノ、クリプスが纏う魔力はその大きさを増し、周囲が飲み込まれていく。その光景を、セシルは黙って見届けていた。
……私はどうして、牢屋の中にいるんだろう……。
捕らえられた理由は、『魔物』だから。
それは、悪い事なのかな。
『今日の実験は真蛇人種の耐久性を調べてみましょう』
『個体差はあるでしょうが、どの程度の耐久力を備えているのかが分かれば、対処法も変わるはずですからね』
痛い事、沢山された。
尻尾の先を切り落とされたり、燃やされたり、電気を流されたり。
泣いても、叫んでも、周りの人は笑ってたり、何かを書いてたり。
どれだけ捕まってたか分からない、冷たい牢屋の中で、抵抗する力も無くなっていた。
出来る事は、考える事だけ。
最初は逃げる事とか、外の事とかを考えてた。
けど、いつからか頭の中は真っ黒になってて。
私を苦しめた人間の事でいっぱいになってた。
何度も何度も、頭の中で殺してやった。
憎いって、殺してやりたいって、ずっと思ってた。
救いなんて無いから、どうせここで死ぬのなら。
思いっきり憎んで、悪霊にでもなってやろう。
死んでから復讐してやるんだ、それだけが私の希望。
「ダカラ……ワタシハ……ワタシハ……ッ!」
「コレデ、ヨカッタンダ……コレガ……ッ……」
「ワタシノ、ノゾンダコト、ナンダ……ッ……!」
渦巻く黒い魔力の中心で、クリプスは泣いていた。流れ出る涙以外、真っ黒に染まったクリプスは、自らの身体から溢れ出す魔力で周囲を破壊していく。そんなクリプスの肩を、何かが掴んだ。
「!?」
「違うよ、それは違う」
「クリプスさんは、そんな事望んでない」
虚ろな目をしているが、吸命の魔力を力技で突破したクロノは、クリプスに優しく笑いかけた。
「ハナセ、ハナセェッ!!」
クロノの手を振りほどき、両手を振り回すクリプス、そんなクリプスの右手を受け止め、クロノは何かを無理やり握らせた。
それは、小さなお守りだ。
「クリプスさん、思い出してくれ」
「クリプスさんの記憶は、100%悪意に染まってたわけじゃないはずなんだ」
「例え僅かでも、そこには善意があったはずなんだ」
「これはその証明、クリプスさんが見つけたかった物は、1%の善意の証明だ」
握らされた小さなお守り、それを見たクリプスは、忘れていた記憶を思い出した。
あの日も、変わらずに実験が続いていた。抵抗する事も馬鹿らしくなって、人形のように従っていた。研究者なのかどうかも分からないが、見た事ない人間が何人か増えていた、新入りとかだろうか。
別に興味も無い、私を苦しめる人間が増えただけだ。だけど、2人の男女が私を見た目が、他の人間と違った。それだけが、少し気になったんだ。
それから数日後、いつもの様に牢屋の中で鎖に繋がれていると、その男女が私に近寄ってきた。実験を行う時間じゃないので、私は首を傾げていた。
さらに不可思議なのが、男の方が私の鎖を断ち切ったのだ。これだと私は自由に動けてしまう。今日の実験は逃げるチャンスがあるかもしれない、そんな事を思っていた。
私がポカーンとしていると、女の方が何かを操作し始めた、牢の壁が動き出し、隠された通路が現れた。
「この通路は地上に繋がっている、ここからなら逃げられる筈だ」
男の言っている意味が、理解できなかった。
「僕達には、こんな綺麗事を言う資格は無いだろう」
「君を利用して実験を繰り返していた奴等と、僕達は何ら変わらない罪がある」
「だけど、私達にはもう耐えられない、知ってしまったから……」
「あなた達魔物にも、心がある、それは私達と何も変わらない……」
「今更、許されないのは分かっています、だけど……」
女の方が、小さなお守りを手渡してきた。
「逃げてください、お願いします」
「あなたが人を憎み、復讐を考えても、それは私達の自業自得、甘んじてお受けします」
「だけど、今は逃げてください、生きてください」
その言葉に、一つの疑問がクリプスに浮かんだ。
「私は魔物、魔物なのに、生きてもいいの?」
それを聞いた女は涙を流し、男はこちらの頭を撫でてきた。
「あぁ、勿論だ」
「それを決めるのは、誰でもない、人だろうが魔物だろうが、生きるのは自由だ」
「僕達は償い切れない罪を犯した、君に許してくれとは言わない」
「だけど、生きてくれ、僕達のような腐った人間に、殺されないでくれ……」
男も、泣きそうな顔をしていた。
何か言おうとした瞬間、向こうの部屋が慌しくなった。
「あなたっ!」
「気が付かれたか……! 君! 早く行くんだ!」
「早く行くんだ! ねぇ……」
男と女の背後に、一人の男が立っていた。実験中に何度も見た事がある、右目が水色の長髪で隠れている男だ。
「大罪人コース直行でーす、裁いちゃうぞこら」
「ミーシャッ! その子を連れて行け!」
「あはぁ勇ましいねぇ、……覚悟はいいんだな? こら」
男が手を翳した瞬間、複数の光がクリプスを助けようとした男の身体を貫いた。壁や床に血が飛び散る。ミーシャと呼ばれた女性が、クリプスの手を引いた。
「逃げます! 急いで!」
「あ、……けど……」
まだ、お礼も言っていない。振り返ると、男の上半身が消し飛ばされていた。
「おいおい格下ちゃーん、俺から逃げられるとか本気で思ってんのー?」
男が追ってくる、クリプスはともかく、この女性は確実に殺されるだろう。
「あの、殺されちゃいますよ!?」
「えぇ、覚悟は出来ています」
「私が足止めをします、この通路を抜ければ地上です!」
「どうか、ご無事で!」
背後から放たれた光を、魔法で受け止める女性。防御の魔法なのだろうが、一撃で大きくヒビが入ってしまった。
「早く行ってください! 長くは持ちません!」
「どうして、助けてくれるんですか……」
「私は、魔物なのに……」
「そんなの関係ないんです!」
「この世界は、どこかが狂ってる……私達はそれに気が付いてしまった……」
「知ってしまったら、放っておけるわけ、ないんですっ!」
その言葉を最後に、光が防御壁を打ち抜き、女性の足が撃ち抜かれた。
「……あっ……!」
「行ってください!」
「……許されるわけがない、それでも……ごめんなさい……」
「どうか、生きて……」
言い終わる前に、光が女性の頭を撃ち抜いた。力無く崩れ落ちる女性の体、それを見た瞬間、自然と涙が溢れていた。
「蛇子ちゃーん、鬼ごっこはやめにしよっかー」
「逃げられるわけ、ないっしょー?」
追ってくる男は笑っていた、狂っていると思った。クリプスは振り返り、全速力で逃げる。
「逃げるなってー、殺すよー?」
背後から何発も光の矢が放たれる、右手を撃たれ、お守りを落としてしまった。拾っている暇は無い、クリプスは涙を流しながら、前を目指した。
階段を上り、地上へと飛び出すクリプス、その周囲を、何人もの人間が囲んでいた。
「だから言ったじゃん? 逃げられないってさ」
背後に追いついた男、その顔を見て、クリプスは確信した。
こいつは、人間じゃ無い。
こいつらは、人間じゃ無い。
先ほどの男女と、同じ人間の筈が無い。
「何で……」
「あ?」
「こんな、酷い事、出来るんですか……」
「あの人たちは、優しい人だったのに……」
「どうして、こうも違うんですかっ!!」
「何々? 何キレてんのさ」
「魔物の癖に人を語りますか、笑っちゃうわぁ」
「魔物って、何ですか……」
「人間って……何なんですか……」
「種族が違うだけで、こんな目にあわないといけないんですか……?」
「あの人達は、暖かかった……なのに……」
「あなたの方が、よっぽど魔物みたいじゃないですかっ!!!!」
初めて、反撃した。
魔力も、身体も、命も、記憶も、全てを込めた全力の自爆魔法。
周囲一帯を吹き飛ばし、クリプスは死んだ。
全てを失い、意識を闇へと手放した。
「そうです、それで、私は死んだんです」
「生きて欲しいって言われたのに、馬鹿みたい……」
黒く染まった体が、僅かに戻っていた。その顔は正気を取り戻している。
「クリプスさん、人間が、憎い?」
「憎いです、許す事なんて、出来ないくらい」
「……うん、許してくれなんて、とてもじゃないけど言えない」
「クリプスさんの記憶、流れ込んできたよ」
「……なんて言っていいのか、正直分かんない」
「けど、クリプスさんを助けようとした人達は、確かに居たんだ」
「それが何だって思うかもしれない、それで許してくれとか、都合が良すぎるのも分かる」
「けど、あの人達の為にも、憎しみに染まらないでくれないか」
「そんなクリプスさんは、見たくない」
何て勝手な事を言うのだろう、自分でも呆れてしまう。それでも、そんな結果は嫌だった。
クリプスはしばらく黙り込み、両手でお守りを握り締めた。そのままクロノの胸に頭を預けた。
「クリプス、さん?」
「ずっと、辛くて、苦しくて……」
「人間なんて、大嫌いでした」
「けど、あの時貰った優しさとか、暖かさとか……」
「嬉しかったんです、それは、確かな物でした」
「死んだ後も、それを探してたんですね……」
「人間から貰った優しさ、それが確かにあったから……」
「記憶を失っても、それを求めてたんですね……」
「確かにあった、やっと、見つけた……」
静かに、泣いていた。
クロノはクリプスの頭を優しく撫でてやる。
「クロノさんからは、あの人達と同じ感じがします……」
「人間は嫌いですけど、この感じは、好きです……」
「……人間には汚い奴も確かに居るけど……」
「クリプスさんを助けようとした人達は、きっと違うと思う」
「悪意も確かにあるけど、クリプスさんには、人の善意も……信じて欲しい」
クリプスを取り巻く黒い魔力が吹き飛び、黒く染まった体が元に戻っていく。顔を上げたクリプスは、片目が黒いままだったが、優しい笑みを浮かべてくれた。
「……私を利用した人達を、許す事なんて出来ないけど……」
「私を助けようとしてくれた人達や、私の為に頑張ってくれたクロノさん……」
「善意はもう、十分届いてますよ」
「……クリプスさんは、やっぱり優しいと思う」
「憎しみより、笑顔の方が似合ってるよ」
その言葉で限界を迎えたクロノは、意識を手放した。吸命の魔力を無理やり突破したのだ、当然と言えば当然である。
完全に解決とは言えないが、クリプスを悪霊化から救うことはできた。
今は、それだけで十分だ。
次から、新章です(キリッ




