第六百九十六話 『蝕む邪悪』
極寒を超える地獄の凍土、地上に弾かれた白き大地。流魔水渦のアジトが眠る凍獄を見下ろしながら、白髪の悪魔は短く息を吐く。普段なら凍獄の傍では寒さで息が白く染まるが、今はそんな事もない。吹雪に包まれている筈の極寒の地獄は、現在静寂に包まれ沈黙していた。
「……ヘディル様は戻られた、時は満ちたのだ」
「……大罪様もこれで全員蘇った、世を欲で満たす時……全ては計画通り……」
凍獄という極寒に守られた流魔水渦のアジトを直接叩くのは、困難だ。そもそも内部も複雑で不安定、前提が幾らでも書き換わる厄介な砦。地獄の吹雪も、蠢き変わる混沌も、全てを優位に変貌させる。一旦自ら地獄に堕ち、内部で色欲の力を物にする。そして地獄門を破り、流魔水渦を内側から襲撃、アジト内、及び凍獄のシステムを落とす。
「そして凍獄の沈黙を合図に、大罪組がアジト内に雪崩れ込む」
「欲を庇護下に置こうとする貴方達は、邪魔なんですよ……混沌とは名ばかりの偽善者共め」
「今日この日をもって、流魔水渦は滅びを迎える……地獄の底で潰えるがいい」
眼下の氷の大地には、黒い穴が幾つも開いていた。悪魔の襲撃、欲の浸食、地の底は文字通り戦場と化していた。その余波は、流魔水渦に所属していない者にも容赦なく襲い掛かる。アジト内の森エリアでは、丁度ティドクランが虫系モンスターの歓迎を受けていた。
「クラン君じゃないかぁ! いつもいつも君は美味しそうだねぇ!」
「久しぶり、とても刻みたい」
「もう嫌あああああああああああっ!!」
「シュシュー、泣いちゃったー」
ヒャクやシロガネを含む多数の虫人種に追い回され、何故かテーウに胴上げされ、ティドクランは人型状態でぐったりと地面に崩れ落ちていた。その様子を黙って見届け、ラーネアは小さく噴き出してしまう。
「なんだかんだ言って、お前はあたし達と仲が良いよな」
「目ん玉腐ってます? 今のところ1秒も守って貰えてないんですが?」
「すぐに信用してもらおうとは思ってねぇさ、ただ昔からあたしはお前に嘘ついた事はねぇよ」
「あいつ等だってそうさ、自分に正直なだけなんだ」
「正直だったら何しても許されると思わない方がいいですよ、身の危険しか感じないです」
「シロガネ、勝負」
「キリハちゃん懲りないね、強カマキリの座は譲らないよ」
「ほら見てくださいよ、殺伐としてるんですよここ」
「暴食の森じゃ日常風景なんだがなぁ……」
「はぁ……僕の平穏は何処へ……ん?」
落胆するティドクランだったが、何かを感じ顔を上げた。ヒャクとシロガネも遅れて周囲を見渡している。
「どうした?」
「弱ってるにしても鈍り過ぎでは? なんか変ですよここ!」
「……ここは変な場所だけど、それにしたって変だねぇ」
「……ここは敵意が無い、居心地は良い、だから妙」
「ラーネア、弱い子守って……何か来る」
周囲の木々が薙ぎ倒され、辺り一面が黒塗りになる。真っ黒になった背景から、巨大な影が這い出してきた。
「ぎょええええええええええ!? 何事ですかぁっ!?」
「おかしいねぇ、ここの子達って僕達にすら底無しに優しくて、クロノ君みたいな奴ばっかりなのにさぁ?」
「ここまで純粋な敵意は、異質だねぇ」
「なんにせよ、向かってくるなら刻むだけ」
「ラーネア、クランを下げて、守るならクランに戦わせちゃ駄目」
「あぁ、そのつもりだ」
「って事でクラン、お前は後ろに下がってな、テーウとキリハはクランを頼む」
「一番強いのに最後尾って面白いねー」
「確かに僕の立ち位置が不明過ぎる!」
(とはいえ……暴食の森で僕を散々ボコボコにしてくれたヒャクさんやシロガネさんも居るし……確かに安全、か……? でもなんだろう、あの真っ黒マンなんかやばい気配が……)
地面から生えた黒塗りの上半身からは、異質な気配がしていた。ボコボコと巨大化していくそれは、並の巨人を上回る程の巨体に膨れ上がる。上半身だけで龍状態のティドクランと同程度の大きさだ。
「何が起きてるのか理解が追い付かないけど、襲ってくるなら返り討ちだねぇ」
「気持ちの悪い気配、食欲も失せる」
「なははは、シロガネちゃん平和ボケかなぁ? 鈍ったかい?」
「本当に失せてるんだよ、食欲も、力も」
「なるほど、クロノが良く口にしていたな」
「クソゲー、か」
「エラー、エラー、エラー、混ぜ混ぜ混ぜ混ぜ混ぜ混ぜ、消去消去消去」
「能力発動、暴走、エラーエラーエラーラーラーラー、『弱化』発動、殲滅しま、しし……死、死」
巨体から機械じみた音声が垂れ流され、気持ちの悪い空気が周囲を満たしていく。この場の全員が、全身から力が抜ける感覚を味わった。『強さ』が失われていく、そんな感覚だ。唯一ラーネアだけが、この感覚に覚えがあった。
(……魔核を生んだあの時に、似てやがる……)
じんわりと広がる、絶望感。それを煽るように、黒の巨体は背から六枚の翼を生やしてきた。異形の六枚羽が、森を覆う。アジト内の各所で戦いが始まる中、アズは猛スピードで黒に浸食された通路を駆け抜けていた。
「っ!」
視界の端に、悪魔に襲われる仲間が見えた。アズは瞬時に飛び上がり、右の袖から透明な触手を伸ばす。悪魔の身体を触手同化で貫き。意識を潰す。
「”万象同化・風狂い”」
そのまま身体を捻り、力任せに悪魔の身体を壁に投げつけ叩きつける。着地を待たず風を操り、仲間達を触手で支えつつ自らは先を急ぐ。救われた仲間達はアズの姿を見る事すら出来なかったが、アズ自身止まっている時間がない。
(どこもかしこもやられたい放題です……素直に悔しい……手が足りない……!)
「許せない……仲間を傷つけるのは、許せないです……! けど素直に不思議だ、大罪組にこれほど強力な戦力が残ってたなんて……」
世界各地で騒ぎを起こし、散々かき乱してきた大罪組。その度悪魔を捉えてきたが、正直雑魚ばかりだった。本命の戦力はここぞという時の為に温存していると想定はしていた、だが明らかに異常過ぎる。アジト内に風を張り巡らせ、自己能力だけで状況を探っていたアズは各所に現れた悪魔の姿に動揺していた。
(四枚羽に六枚羽まで……魔力量だけなら大罪を上回る化け物揃い……これだけの戦力を元々抱えていたのか……? いや……どうにも不可思議だ、素直に認められない……!)
なにより、普通の悪魔と何かが違う。見た目もそうだが、纏う力が常軌を逸している。ルールを犯しているように、何かが外れている。思考を巡らせるアズだったが、すぐ横の壁が突然爆ぜた。咄嗟に風でガードし後方に飛び退くが、崩れた壁から悪魔が生えてきた。
「もはや何者ですか……素直にドン引きですよ……!」
「あぁ……うぉぁああ……」
「呻く事しか出来ないなんて……本当にどうかしてる…………」
(……同化……? 僕の力も同化ですけど……この悪魔、いや、今アジト内に居る悪魔達も、壁や地面を……アジト内が黒に浸食、異常発生……アジトは……この場所は……まさか……!)
加速する思考を遮るように、アズの目の前に四枚羽の悪魔が現れた。悪魔は壁からずり落ちるように現れ、ぐずぐずに崩れた身体を歪に固めながらアズに向き直る。その目は虚ろで、とても正気には見えない。無理やりその力を成しているようで、本能のままに暴れているように見える。内に秘めたその力は、いつもすぐ隣にあって、言われなきゃ認知出来ないモノ。
「死者は善悪問わず地獄に堕ちる、そして死後各地獄にて魂を一新させ天国へ昇る」
「地獄は記憶が、生前の欲が満ちる場所……死後の世界は欲の世界だ」
「悪魔とは欲の化身、精霊と一緒さ、認識次第で幾らでも膨れ上がるし自在だ、そうだろう?」
「地獄門を開き、今僕は僕の優位に形を変える……この時を待っていたんだ、世界に溶け込み世界を喰らう、その欲を取り込み次の段階へ進化する」
「君達のアジトはこの世とあの世の境、実験にはもってこいだろう? そして成った、成功だよ可能だと分かったのだから」
「狭間である君達のアジトを取り込み、大罪組は新世代の悪魔にシフトしている、喜ばしいね悪魔の晴れ舞台じゃないか」
「僕もこんなに麗しい身体で舞い戻ったんだ、どうか祝福してくれよ、君にも立場があるだろう?」
「絵札として、屈辱的な敗北で祝福しておくれよ」
見覚えの無い女性の姿で、聞き覚えのある声で、そいつは笑っていた。マイラは黙って、歩いてくる女性の悪魔に向き合った。
「……相変わらずよく喋りますね、もう一度地獄に叩き返すのも向こうに迷惑でしょう」
「ここで潰す、絵札として貴様の好きにはさせない」
「酷いなぁ、一度戦ったじゃないか、もう忘れちゃったのかい?」
「僕は、無敵だよ」
色欲の身体を奪ったヘディルが、笑いながらマイラに手をかざす。その背に生え揃った八つの翼が、膨大な魔力を主張する。欲が、世界に喰らい付く。




