第六百八十七話 『人も悪魔も、欲には勝てぬ』
ケーランカを後にしたヨナはインクと共に、あてもなくデフェール大陸を旅していた。目に映る全てが新鮮で、初めての事ばかり。夢にまで見た外の世界にヨナは大はしゃぎだ。
「広いなぁ、凄いなぁ……風も部屋の中で受けるのと全然違う……気持ちいいなぁ……!」
両手を広げ全身で風を感じるヨナを見て、インクはどす黒い笑みを浮かべていた。一瞬視線を背後に泳がすが、すぐに前に戻す。
(ケーランカを出て数日……妙な視線を感じる事が増えたが……まぁ関係ねぇ……監視の目があろうとなかろうと、俺の目的は変わらねぇ)
インクの読み通り、流魔水渦がヨナ達を見張っている。あくまで何かがあった時の為、基本はヨナに自由にさせているようだ。
(悪魔の俺が居るってのに、甘いねぇ……甘すぎる……どう解釈してるのか知らねぇが、俺の目的は変わらずこの偽善者を欲に沈める事……)
(この数日、抑え込んでいた全てを解放し心の底から楽しんでいるのを感じる……最初は遠慮がちだったが、今はその様子も消えてきた……良い傾向だ)
(そうだ、自分の好きなように生きろ、欲のままに駆けまわれ、自分の事だけ考えて生きる屑になれ……あの父親のように、クソみたいな人間になれ……!)
ヨナを黒く染め上げ、欲の底に突き落とす。そうして汚れ切った心を喰らう。牢に居た時と何も変わらず、インクの狙いはそれだけだ。
「インク、ありがとうね……インクがいるから怖くない、思う存分走ってられるよ」
「悪魔に礼を言うか、本当にお前の頭は花畑だな」
「こっちこそありがとうよ、お前が好きに生きている、己の欲を大事にしている……俺の目的の為に汚れてくれて感謝の極みさ」
「あははは、お互いがお互いの為に何かをやれてる、初めて出会ったあの時からナイスパートナーだよねあたし達!」
こいつの頭の花畑は随分咲き乱れているらしい、何か勘違いしているようだがそれならそれで都合が良い。ヨナは疑いを持たずインクの傍に居る、だったらこの状況を最大限利用し、存分に黒く染め上げる。懸念材料は、ヨナの能力だ。
(こいつは自分の未来は視れない、だが俺の未来を視て己の悲劇に気づくかも……それか俺に対し疑いを持つか……)
「次は何処に行く? 未来の俺はどうしてるんだ?」
「やだなぁインクったら、あたしはもう未来を視ないって決めたんだよ」
「文字通り、あたし達は自由! 未来に縛られた旅なんて願い下げだよ! あたしはあたしの行きたい方に走るんだ! 星空の下を、思うままに!」
「そうかそうか、仕方ないから付き合ってやるよ」
(そう、お前はもう未来に縛られない……極端な選択しかしない、臨機応変、己の力の正しい使い方すら考えない……お前は悲劇を避けられない……)
本当に都合が良い、思うままにヨナは生き、染まるだろう。インクは笑いを堪え、この先の未来に胸を躍らせる。楽しそうに笑うヨナの顔を、歪ませる。他の為にしか生きてこなかったヨナを自分勝手に染め上げ、最高の味になった時食い潰すのだ。
(あぁ……ようやく俺の夢が叶う……最高だよお姫様)
「最高だなぁ……楽しくなってきた……」
「お父様や国のみんなには悪いけど、暫くは思いっきり楽しもう!」
「行くよインク! 次は向こうへ!」
指差す方向へ何があるか、そんなのどうでも良い。ヨナはインクの手を引き、楽しそうに駆けだした。
(馬鹿な奴……悪魔を連れた旅路の果てに何が待つか……そんなの決まってるのになぁ!)
(精々楽しめ……お前の欲は今まで抑え込んでいた物……抑圧された全ては今解放され……お前を蝕むんだ!)
そうして駆け出したヨナは、インクを夜通し引きずり回した。途中村や町を4つほど素通りした。
「いや待てや!!! 休め馬鹿野郎っ!!」
「まだまだ! まだ走れるよ! 星があたし達を待ってるんだ!」
「お前軟禁されてただろ! なんでそんな体力あるんだ!? 見ろお前俺の足がボロボロだ!」
「いやぁ部屋の中でじっとしてるの退屈だからさ……本を読んで、外へ思いをはせて、部屋の中で運動してたりさ」
「まさかの体力化け物だった!?」
「あっ!? 流れ星! よしあれを追いかけよう!」
「追い付けるわけねぇだろうが!」
というか暫く何も食べていない、このまま欲のまま動かせばヨナは倒れるかもしれない。実際お腹が鳴っているのに、ヨナは自分の状態を完全に無視している。
「待て馬鹿野郎、俺はともかくお前はそろそろ何か食わねぇと死んじまうぞ」
(こいつから漏れ出てる欲の残滓で俺は満たされてるしな、漏れ出すカスでこの旨味……いつか染まり切った時を想像するだけで高まるってもんだ)
「えー……あ、じゃあこの初めて見る木の実を食べてみようよ」
その辺の木に成っていた謎の木の実に手を伸ばすヨナ、こいつには疑う心や考える脳みそが搭載されていないのだろうか。
「毒だったらどうするつもりだ馬鹿野郎!」
「おっと? 引きこもり姫のあたしを舐めてる? ビックリするくらい沢山の本を読んできたんだよ?」
「あぁ? じゃあ図鑑とかで見たことが?」
「無いね! でもたぶん大丈夫!」
「その自信に根拠を付けてから出直してこいアホがぁっ!!」
結局インクが毒見し、安全と分かったモノだけヨナに食べさせた。知識を付けるまでインクはお腹を壊したり幻覚を見たり大変だったらしい。インクが悪魔じゃなかったら大変な事になっていただろう。
(このままじゃいかん……せめて旅の準備はしっかりしねぇと……けど無一文だしな……)
「ヨナ、お前はもう一国の姫じゃなくただの家出ちゃんだ……いつまでも手ぶらでうろつくのはやべぇ」
「ここは依頼を、人様のお役に立って金を手にし、旅の準備をしっかりしようや……」
「わぁ素敵! インクの提案はいつも楽しみな未来を視せてくれるね!」
(120%俺の為の提案なんだがな……)
というわけで人の街に立ち寄り、依頼板から手頃な依頼を受ける元姫様。薬草採取に迷い猫探し、洞窟探索に鉱石収集、魔狼退治にドラゴン退治……。
「誰でも受けられる依頼にドラゴン退治を混ぜてんじゃねぇ!!!」
「実際は子供の書いた依頼で、トカゲを追い回しただけだったね」
「沢山の人の笑顔が見られて、とっても有意義な時間だったよ!」
「魔狼退治はマジもんだったがな……?」
畑を荒らす狼の群れと真っ向勝負をさせられ、インクの身体は噛み傷だらけだ。
「ありがとうね、守ってくれて」
「俺の食い物に傷を付けさせるわけがねぇだろ」
「またそんな事言ってー、えへへ」
(我慢しろ……我慢……欲のままに生きて貰わなきゃ……しかしこの笑顔殴りてぇ……)
「でもお金結構溜まったね、誰かのお役に立ってお金まで貰えちゃうなんて」
「あぁ、これで食料や野営の為の道具を……」
「そういえばさっき救われない子供の為の募金活動をやっていたのだけれど」
「ありゃ詐欺だ、心がどす黒い奴等ばっかりだった」
「そういえばカジノというところでお金が増やせるらしいの」
「ギャンブルはやめとけ、心が黒くなる前に色が消える」
「釣りをやってみたいの!」
「まず旅の基盤を整えろっ!!!」
ヨナの好奇心に振り回され、インクは身も心も擦り減っていく。そんな悪魔に対し、ヨナは日に日にキラキラと加速度的に強化されていった。
「インク起きて! 今日は向こうに行くの!」
「お前の体力は無限なのか……?」
「ちょっと待ってくれよ……昨日の買い物で俺の体力はボロボロなんだよ」
「買い物で? インクって割と貧弱だね」
「お前が服屋で安すぎて申し訳ねぇって謎の募金しようとしたからだろうが! 止める方の身にもなれよな!?」
「って居ねぇ!? 待てお前そっちは森だ!」
「森の先に見える、あの山が気になるの!」
「登山を舐めるなド素人がああああああああああっ!」
人の欲は、悪魔の糧。しかし度を超えた人の欲は、時に悪魔の予想を超える。どんなものにも、限度がある。
(しかも……欲のままに生きてる筈なのに、途中良い奴以外にも当たったのに、汚い人間にも関わってるのに……こいつの心には微塵も黒が浮かばなねぇ……黒ずむ気配すらねぇ……)
(つうか見たい、知りたい、やりたいって欲が溢れすぎて、隣に居るだけで欲の圧で潰されそうだ……胃がもたれてきたぜ……何だこいつ人の形した怪異か?)
「ふっふっふ……インク! これは何かわかる?」
「鍋だよ、何も思わせぶりな感じで出すもんじゃねぇよ」
「いやちょっと待てお前、何するつもりだ」
「料理だよ! 野営準備からのご飯! やってみたかったんだ!」
「あぁそう……好きにすりゃ良いんじゃねぇのか……」
(とりあえずウロウロしないでくれるなら、その間は休めるな……)
二つのテントを張り、その内の一つの中でインクは横になる。日中はヨナに振り回され、身も心もズタボロにされるからこういったタイミングで休まなければ壊れてしまう。ウトウトと微睡むインクだったが、暫くして刺激臭で覚醒した。
「毒!?」
「失礼だなぁ……こんなに美味しそうなのに」
焚火の火で煮込まれる謎の料理、鍋から立ち昇る煙は目に優しくない紫色。嗅いだ生き物が皆気絶しそうな刺激臭に、インクはこの世の地獄を見た。
「お城ではこんな料理見た事ないよ、自分で作るって凄いね」
「凄いのはこれを食い物として認識できるお前じゃないか?」
「えぇ……? でも普通に食べれるし、色んな味がして楽しいよ? ほらほらインクも疲れてるんだから、ちゃんと食べないと」
「いや、俺は、悪魔は食事の必要は……つうか最近お前の欲が重すぎて……」
「これもあたしのやりたい事だよ、インクはそれを断れるのかなぁ?」
(こいつ……悪魔を手玉に取るつもりか……?)
手渡される器の中には、まさに混沌足る何かが蠢いていた。コポコポと泡が浮かび、零れ堕ちた雫が足元の草を蝕み謎の煙を発している。もはや印象は毒物一色なのだが、この時インクの脳に電流が走った。
(この様々な物をごちゃ混ぜにし、混沌を構成する物体……人、か……?)
(全てを欲し、多種多様な欲が歪に混成、乱れ歪み黒く染まる様はまさに人間社会そのもの……この野郎……悪魔の俺に、人の醜さを体現した料理で挑むってわけか……)
(面白いじゃねぇか、お前が……あのお前が、人の醜さを料理で表してくるとはな……)
「悪魔の俺が、人の欲にビビるわけがねぇよなあああああああああああああああっ!!」
脳がバグった悪魔は半分ヤケクソ気味に毒物を口に運ぶ。そもそもニコニコキラキラとヨナがこっちを凝視しているのだ、最初から食べない選択なんて無かった。一口で身体が拒絶反応を示し、飲み込む前に身体中が悲鳴を上げる。身体がショックで麻痺し、吐き出す事すら叶わず毒物が喉を通っていく。死ねない事をこれほど恨んだ事は無い、インクは悪魔故に劇物の刺激を全て真正面から受け止める羽目になった。崩れ落ちるインクと動揺するヨナの背後で、毒物を煮込んでいた鍋が溶けて崩れ落ちた。
以上が、セツナ達と再会するまでのヨナ達の色々である。腐食で崩れ落ちた鍋を見て、セツナはドン引きしていた。
「…………クロノが見たら、怒ると思うぞ」
「食べ物を粗末にすると、クロノ怒るもんねぇ……」
「あうぅ……あたしは食べても平気だったんだよ……?」
ピンピンしてるヨナを見て、レヴィは僅かに後ずさる。悪魔を一時的に戦闘不能にまで追いやる物質を口にし、何の不調もきたさないのは異常としか言えない。
「やれやれ、やらかす人間はいつの世も恐ろしいよ……」
「クソがぁ……」
「インクごめんね……お鍋駄目にしちゃったよ……」
「俺も駄目になってんだが……? 一回の料理で調理器具を駄目に出来る奴ってそうそういねぇぞ……」
「末恐ろしい未来だ、ぜ……グフッ」
「インクーーーーーーーーーーーーーッ!」
これが、自由の対価。悪魔すら飲み込む自由系お姫様と成ったヨナとの再会は、セツナ達にも大きな影響を与える。一度は視る事を辞めた未来が、思いがけない危機を知らせる事になる。




