第五百九十話 『満たされぬ飢え』
『ギルドに戻れないなら、どうするつもりなんだ?』
『さァね、この身体は弄りすぎて人の輪には戻れねェだろう』
『だったら、ボクはボクのままで居られる所を探すさ、研究を辞めるつもりはないからなァ』
ヒラヒラと手を振りながら、その背中は離れていく。ここでお別れなんて嫌だったから、自分は当然のように声をかけたんだ。
『なら、一緒に来ないか?』
『……あァ?』
『レヴィも喜ぶ、知らない仲じゃないだろう』
『僕達と一緒に、理想を追い求めるってのはどうかな』
『流石魔物を仲間に入れてる奴は思考回路が愉快だなァ? 自分で言うのもなんだけどボクは相当イカれてんぜ?』
『なら、変わり者同士丁度良いね』
『……はっ……後悔するなよなァ』
あの日から共に過ごした、かけがえのない仲間だ。道を違えたとしても、その想いは変わらない。だからもう、二度と離したくない。地を蹴り付け、空中に飛び上がる。先ほどまで自分が立っていた場所が、線状に抉られる。宙に浮かぶ暴食目掛け、全力の拳を構え突っ込んでいく。
「ディッシュッ!!」
「鬱陶しいなァ……! 知れてる仲ってのは面倒くさいッ!」
こちらに右手を向け、暴食は魔力を集中させる。五指が牙のように光り、握り潰すように指が閉じられた瞬間、虚空がマルスを食い千切るように襲い掛かる。目には映らぬ一撃を、マルスは翼を広げ加速する事で回避、一気に懐に飛び込んだ。
(ディッシュの能力は『界牙』、輪を牙とする能力……身体の何処でもいい、自分に連なる何かで輪を作り、それを閉じる事で視覚出来ない牙で対象を割く)
(全てを喰い割く瞬撃、喰らえば致命傷は避けられない、なんせ強度無視……問答無用で引き裂かれる)
懐に潜り込んだマルスだが、暴食の悪魔は怯まない。両腕は開かれており、こちらに向く前に一撃見舞える余裕はある。だが、マルスは翼を広げ横に大きく飛び退いた。暴食が片目を閉じた事により、さっきまでマルスが居た空間が切り裂かれる。
「初見殺しも初見じゃなきゃ意味が無いぞ、ディッシュ」
「抜かせガキが、大口叩いて随分と弱腰じゃねェか」
「慎重にもなるさ、相手がお前なんだから」
暴食が両手をこちらに向ける、それだけで肉食獣が大口を開けているようだ。何度も閉じられる五指の軌道から、マルスは器用に外れ続ける。一度手が閉じられる度、軌道上の建物が喰い割かれ抉られていく。
(さっきの建物みたいに、中に魂を抜かれた者がいるかもしれないな……そもそも魂を抜いていた悪魔を倒しても戻る素振りが無い、抜かれた魂は何処だ? 能力者を倒した以上普通なら魂は持ち主の元へ帰る筈……何かしら別の術で囚われているのか……?)
「余所見とは余裕だなァ!」
近距離に迫ってきた暴食が、直接右手で掴みに来た。牙に直接噛まれたらアウトだ、どんな防御も通用しない、確実に引き千切られる。迫る右手に向かって、マルスは迷わず拳を叩き込んだ。
「ッ!!」
「行儀が悪いぞ、ディッシュ」
開かれた右手を思い切り殴り飛ばし、暴食の態勢を崩す。右半身を大きく崩され、暴食は咄嗟にマルスを視界に入れ片目を閉じる。青い閃光に包まれたマルスは、一瞬で暴食の左側に回っていた。
(……浄罪……! 裁くべき相手を高速追尾、確実に滅する……忌々しいなァ!!)
死角からの強烈な蹴りを喰らい、暴食は顔を歪める。吹き飛びながらも左腕を回し、その牙をマルスに向ける。だが、その軌道は読まれ掠りもしない。
「マルス……!!」
「君の牙は見えなくても起動は読みやすい、君の五指は万物を抉る最強の牙だが、閉じるまではただの指だ」
「直線状にしか効果は及ばないし、閉じる前に崩せばなんてことはない」
「舐められたもんだなァ!!」
態勢を整え、暴食は再び右手を構える。牙を開くが、その力はずっと前から知っている。昔から、相性の優劣は変わらない。マルスは浄罪の高速追尾で、暴食の牙が閉じられるより早く距離を詰める。鳩尾を蹴り付け、暴食の身体がくの字に曲がる。
「がっ!」
直接掴みに来るが、その手を払い飛ばす。罪に反射する浄罪の力は、暴食の動作全てに反応する。
「マル、ス……このクソガキがああああああああああっ!」
動作の初期段階で反応し、全てを先読みで潰す。暴食の力を使った攻めは、何一つ通らない。罪を裁く断罪の為、己の贖罪の為、この力は罪の前では絶対不敗を貫き通す。暴食を圧倒しながらも、マルスの表情は曇っていくばかりだった。
「かはっ……変わらねェなァマルス……なんだァ? その面は」
「…………」
罪が相手じゃなければ、浄罪は発動しない。発動している時点で、罪人が相手なのは間違いない。罪を裁く者として、自分は絶対強者で在り続けた。今も、昔もだ。裁く者として、疑った事は無かった。己の能力を、力を誇りに思った。正しい事をしているんだって、あの時は疑わず力を振るい罪を裁いた。疑うのが遅すぎた、迷わず突き進み、振り返ったあの日……自分の後ろに転がっていた全てが自分を睨んでいた。
「良い気分だろうなァ……罪人はお前の敵じゃねェ、罪を前にしたお前は最強だ」
「敵の罪を掲げ、自分は贖罪を掲げりゃ、お前はいつだって踏みつけに出来る立ち位置だもんなァ」
「何が罪か、どちらが正義か、決定権はいつもお前にある、反則的だなァ」
大罪を背負い、悪魔に墜ちた今の自分にも、変わらず浄罪は絶対強者の立ち位置を与え続けている。罪人に墜ちた自分が、どの口で罪を裁くというのか。過去の仲間を傷つける現状に、どんな正しさがあるというのか。自分が一体、どれほどの間違いを犯したか、それすら贖罪の一言で正当化するのか。今のマルスに、昔の誇りは存在しない。浄罪の力に、清らかな感情なんて一切抱かない。道を踏み外し、間違いを犯した自分に、罪を裁く視覚なんて無い。正義を語る事は出来やしない。だから、欲のままに力を振るう事を決めた。
「何が正義か、悪か、……あの日僕は過ちに気づいた、そして迷ったんだ」
「全てを理由に僕は足を止めた、話し合うべきだった、みんなともう一度向き合うべきだった……蹲ってる時間なんて無かったのに」
「僕達は裏切られたけど、非が無かったとはやっぱり思えない……すれ違いと食い違いの末、僕達は崩壊した」
「大罪の名を背負った僕達だけど、各々が失敗を抱えたのも事実だ」
「だから抱えたまま消えろってか? 復讐の機会を与えられて黙ってろって? 無理な話だなァ」
「……僕は動かずに失敗した、封印から解き放たれた後も動こうとしなかった……繰り返すところだったんだ」
「この器に背を押された、僕はもう自分に嘘はつかない、悪魔らしく欲のままに動くと決めた」
「今も昔も変わらないよ、僕はみんなが居てくれればそれでいい、良かったんだ」
「他には何も要らない、地位も名誉も、他の誰が認めなくても……みんなと一緒にいたい」
「仲間が一緒じゃなきゃ、共に在る夢は叶わない」
「ディッシュ、レヴィが待ってる……こっちに来い……! 一緒に来いッ!!」
手を差し出し、マルスは想いを必死に伝える。ディッシュはその手を見つめ、ゆっくりと両腕を広げ始める。両手の指が、魔力を纏い怪しく光り輝いた。
(!?)
「大喰らい……!」
暴食の両腕が閉じるように動き出した瞬間、マルスは今まで感じたことの無い悪寒に包まれる。大きく飛び上がったマルスは、眼下の全てが食い潰される光景を見た。
(範囲が今までの比じゃ……っ!?)
「飢餓の果て!」
空中のマルスに対し、暴食は右手を引っ掻くように振るう。五本の斬撃のような何かが、指の軌道をなぞるように襲い掛かる。咄嗟に降下したが、右の翼が僅かに切り裂かれた。
「ディッシュ……!」
「今を歩んで、変化があったのはお前達だけじゃねェよ」
「再び理想を目指そうと、勝手にすればいい」
「ボクの中には、それより大事な復讐心が渦巻いてんだよ……お仲間ごっこじゃ満たされねェ、飢えて飢えて耐えられねェ」
「この飢えは、人間共の血肉じゃなきゃ満たされねェんだよォッ!!」
どす黒い魔力を纏った暴食の力は、マルスの知る力を大きく超えていた。共に過ごした仲間の姿は薄れ、怪物になりかけた何かがそこに居た。悪魔に墜ちても、ディッシュという男は己を保っていた筈だ。封印される寸前、自らの肉体を逃がすくらいしてみせた男だ。理性を捨て去り、本能のままに暴れるなんて彼らしくない。そもそも、纏っている魔力から他者の念を感じた。
(ディッシュの意思じゃない……! やはり大罪組は大罪信仰の悪魔だけじゃない……そんなの名ばかりだ、ディッシュも、他のみんなも……利用されているっ!)
「マルス……テメェも食い殺してやるよォッ!!」
「飢餓の果て!」
両腕を振り回し、周囲を切り裂きまくるディッシュ。肉食獣が大口を開きっぱなしにして暴れ回っているようだ。輪を閉じる事で万物を切り裂く界牙の枠組みを大きく超えている、開きっぱなしの牙を力任せに振るっているような状態だ。とてもじゃないが近づけない、それどころかどんどん追い込まれている。
(地上が八つ裂きだ……! 建物の中に犠牲者が転がっていたら大惨事になり兼ねない……!)
「だけど……迂闊だったな……ディッシュの能力を軽く考えすぎだぞ、大罪組……」
ディッシュから感じる他者の魔力、ディッシュとは別の罪の気配。浄罪の追尾力は、罪の気配を正確に捉えていた。ディッシュの裏に居る存在を、マルスは能力で暴き出す。そして周囲を覆う認識阻害の術も、ディッシュの暴走でズタズタに切り裂かれていた。更に、事態は好転に向け動き出す。
「うおおおおおおおっ!? 一体これは何事だっ!? 煌めきに対する試練か!?」
「…………あの男は、絵札の…………」
「ディッシュ、感謝するぞ……逆転の手が君のおかげで揃った」
切り裂かれた認識阻害の隙間から、バロンが現れた。マルスは空中に飛び上がり、懐からクロノの魂を取り出す。
「十分休んだだろう、仕事の時間だぞ」
「この劣勢を覆す、お前の諦めの悪さを見せてくれ」
身体に魂を戻し、マルスは翼を広げバロンの元に加速する。暴れ狂うディッシュも翼を広げ、マルスを追跡する。突如現れた大罪二名の気配が猛スピードで接近する中、バロンは咄嗟に右手を天に突き上げた。
「見せ場到来の、予感ッ!」
「はは、良い読みだな」
有利不利を、入れ替えろ。




