第百六十九話 『捨てられない、髪飾り』
不幸、その一言で片付けられる自体では無いだろう。夜の散歩に出て、四天王とエンカウントしました……正直笑い話にもならない。ただ、不幸中の幸いというものもある。夜の砂漠は冷える為、クロノはちゃんと着替えて散歩に出ていた。だからこそ命拾いをしたのだ。
構えを取る暇もなく、クロノは空中を飛んでいた。音よりも早く、シアに蹴り飛ばされたのだ。ゴミのようにバウンドしながら、クロノは蹴られたと思われる腹部を押さえて悶える。
(……てぇ……! 当たり前のように見えない……!)
(……死ぬ! 絶対に死ぬ!)
何をされたのかまるで分からない、このままじゃ何も出来ずに殺される。身体を起こすと、シアは目の前にまで迫ってきていた。その足が、ゆっくりと持ち上げられていく。頭の中は当然滅茶苦茶、クロノは完全に硬直してしまっていた。脳からの指令を失った身体は、生きる為に反射的に反応を示した。シアの蹴りがクロノの反応速度の数千倍で放たれる前に、クロノは左手を懐に伸ばしたのだ。
(……………………?)
シアの足は、寸前で止まっていた。何が起きたか分からず、クロノ自身固まっていた。ハッとして自分の左手を見ると、クロノはシアに向かって、左手である物を差し出していた。ラティール王から預かっていた、髪飾りを……。
(…………止まった?)
髪飾りを見たシアは、その動きを完全に止めていた。驚いたような、喜んでいるような……そんな表情で固まっていた。
(……ッ!)
逃げるなら今しかないと、クロノは踵を返して走り出す。そんなささやかな抵抗は、一瞬で回り込んだシアに遮られてしまう。シアの羽に突っ込んだクロノは、情けなく尻餅をついてしまった。
「……逃げられるわけないでしょ、ボスからは逃走不可なのよ」
「……ぐぅ……!」
シアの表情は元に戻り、氷のように冷たい目になっていた。その威圧感で、クロノは再び動けなくなってしまう。震えるクロノの頬を、シアが羽で撫で上げてきた。
「答えなさい、その髪飾り、誰から貰ったの?」
「……あ、っと…………その……」
「誰に言われて、あたしに見せた?」
情けない話だが、クロノは震えて声が出なかった。自分に触れているこの羽は、目の前にいる存在は、自分を簡単に殺せるのだ。死の恐怖が、少年を縛り付けていた。
「……あの……えっと……」
「…………ま、もう関係ないか」
再び蹴りの体勢に入ったシア、クロノは反射的に顔を両手で庇った。左手の髪飾りがシアの視界に入った時、シアの表情が歪んだ。蹴りは寸前で止まり、シアは苦しんでいるような、喜んでいるような、複雑な顔で静止してしまう。
(…………なんで、この髪飾り……一体……)
「…………君は、どこまであたしを苦しめるの?」
足を下ろしたシアは、今にも泣き出しそうな顔で、クロノを睨んできた。言葉の意味が分からず、クロノは首を傾げてしまう。
「忘れようと、振り払ってきたんだよ?」
「何で今更……あたしの前に出てきたの?」
「何でよりにもよって、君が……共存なんて訴える……?」
「あの日君を救ってしまった…………その事実は…………あたしにとって何よりの失敗なのに……」
「あの時のあたしはっ! 今のあたしにとって……っ! 憎しみしか生まないのにっ!」
風を纏ったシアの翼が、クロノに突きつけられた。軽く首を掠めただけで、その部分が切り裂かれた。これを押し当てられたら、クロノの身体は簡単に真っ二つになるだろう。
「あの時、見捨てていれば……」
「再会しなくて済んだ、この想いが蘇らずに済んだ……」
「再会と同時に殺していればっ! それを見ずに済んだっ!」
「君は一体……何回あたしを壊せば気が済むのっ!?」
「あたしは…………っ!」
「この、髪飾り…………ラティール王に渡してくれって…………頼まれたんです……」
震えるシアに向かって、クロノは必死に声を絞り出した。このままじゃ死ぬ、だからこそ、クロノは唯一彼女に届く、言葉で対抗した。
「シアさんは知らないかもだけど……俺にもよく分かってないけど……!」
「アノールドの、カリアって国の王様が…………シアさんに渡してくれって……」
「……っ! い、今…………ピュアを、預かってくれてる…………人で……」
「お、俺には! どんな関係があるか……分からないけどっ!」
「これを、見せてくれって……渡してくれって!」
「うるさいっ!!」
シアがクロノから、髪飾りを奪い取った。シアは髪飾りに、風の力を集め始める。クロノが見ても分かる、一点に風が集中している、あれを続けられたら、風の圧で髪飾りは潰れてしまう。
「シアさんっ!!」
「何で! 今になってこれを……っ!」
「何でまだ持ってるのよっ! もう終わったのっ! もう関係ないっ!」
「これが……こんな物があるから……!」
「もうあたしに過去なんて、何の価値もないっ!」
「全部壊れろっ! 過去を思い出させる物! 全部! 壊れろっ!!!」
風が荒ぶり、砂を巻き上げた。絶風の空域が悲鳴を上げ、無風状態が終わりを告げた。周囲を包み込む暴風が、クロノには何故か悲しい物に感じられた。
巻き上がった砂で視界を奪われ、クロノは顔を両手で庇う。風が収まり、砂煙が晴れたそこには、髪飾りを握り締め、その場に崩れ落ちているシアの姿があった。髪飾りには、傷一つなかった。
「…………何で、壊せないかなぁ……」
「忘れる為に、必死に全部捨ててさぁ……」
「自分すら壊して……血で全部染め上げて……」
「復讐だけ、考えてた筈なんだよ……?」
「何で……今更…………こんなちっぽけな思い出一つ…………壊せないのかなぁ……」
「……シアさんは……ラティール王とどんな関係なんだ……?」
力無く髪飾りを握り締めるシアに、クロノは勇気を出して聞いてみた。先ほどまでの殺気が、見る影もなく消えてしまっている今しか、聞くチャンスは無いと思ったのだ。
「……クロノ君、君はまだ知らないの?」
「知らないで、これを届けたんだ」
「本当、とんだお馬鹿ね」
「君…………本当に邪魔だわ……」
涙を浮かべながらも、シアはクロノに敵意を剥き出しにしていた。
「……ラティールは、あたしに大事な物を沢山くれた人間」
「あたしの、一番大切だった人間で……大好きだった人間」
「……共存を思い描かせて、現実を教えてくれた人間」
「今のあたしを作った、思い出を呪いに変えた人間」
「呪い……?」
「あたしは、愛を知って……人を知った」
「裏切られ、憎しみを知って、怒りのままに四天王に上り詰めた」
「君も、ラティールも、あたしが殺す……」
「殺して、あたしは全てを捨てて清算する」
「それしか、もうあたしを保つ術はないんだ」
フラフラと、シアは立ち上がった。その目には強い憎しみが感じられるが、それと同時に、ある気持ちが伝わってきていた。
「……凄く不愉快だけど……」
「クロノ君、今回は見逃してあげるよ」
「!?」
「ラティールに、伝えて欲しいの」
「あたしは、あの国に近づきたくない」
「だから、君が伝えて」
「……その為だけに、今回は生かしておいてあげるよ」
理由はともかく、見逃してくれるなら好都合だ。クロノは無言で、何度も首を縦に振る。
「………………大っ嫌い」
「そう、伝えて」
「…………へ?」
そう言ったシアの表情は、一人の女の子にしか見えなかった。
「もう、気分最悪だわ」
「……帰る」
「ちょっと待ってっ! 伝言それだけっ!?」
「ってか、説明とかもう少し欲しい……!」
「……ラティールに聞けば?」
「……君が知りたがってること、全部知ってるはずだから」
「…………ピュアの事とか」
「!?」
それだけ言い残すと、シアは一瞬で姿を消した。羽ばたき一回で、星空の中に消えてしまったのだ。命拾いをしたのは確かだが、クロノの頭の中の混乱は、数段階レベルアップしてしまった。
「……わっけ……わかんねぇよ……」
「……子供の頃から知ってる、ラティール王が……四天王とお知り合い……?」
「…………知らないこと、だらけだよ……」
自分が思っているより、ずっとずっと世界は複雑だ。旅に出て、それを痛感するようになった。そして、最近思うのだ。
「…………繋がりは、苦しい物でも…………あるのかな」
ずっと一人で、与えられた繋がり全てが恵まれていた。そんな自分には、まだ理解出来ない。自分はまだ子供なのだと、胸の奥で感じていた。繋がり全てが、良い物ではないのだ。繋がりが、痛みや苦しみを呼ぶ事だって、あるんだ。それをクロノ自身味わう事になるのは、まだ少し先の話である。
空を高速で飛行するシア、その表情は険しかった。クロノと遭遇すると、シアは決まって昔を思い出していた。まだ自分が、笑えていた頃の……優しい記憶を。
(忘れろ、忘れろ……)
『きっと、この出会いは運命だったんだ』
(やめろ……思い出すな……!)
『奇跡みたいに出会えた僕等だから、きっと世界だって変えられる』
(やめろ……やめて……)
『種族の壁だって、越えられる』
(……………………っ!!!)
思い出全てを振り払うように、シアは握り締めていた髪飾りを、海に向かって放り投げた。月の無い暗い夜、星の辺りに照らされて、髪飾りが僅かに光った。
『ラティール? 今日は遅くなるんじゃなかったっけ?』
『これ、プレゼント』
『……!?』
『やっぱり、シアさんによく似合うね、思った通りだ』
『『止まり木の風車』って名前の、髪飾りだよ』
『貴女がどんな時でも、ここに帰ってきてくれますように』
『この風車を、回し続けてくれますように』
『いつまでも、この場所を帰る場所と思ってくれますように』
『風のように飛び去ってしまう貴女に、帰る場所を』
『そんな想いを、込めてみたよ』
『……格好付けなんだから……』
『……ここでその笑顔は反則だよ』
『髪飾りより、全然似合ってるじゃないか』
『……ばーか』
気がつけば、シアは自分で投げた髪飾りを受け止めていた。海に沈むギリギリの所で、自分は髪飾りを受け止めていた。薄水色の、風車のような髪飾り。毎日毎日、宝物のように磨いていた髪飾り。自分の中の、捨てられない気持ちが、これを壊すなと叫んでいた。捨てるなと、叫んでいた。その気持ちは、今の自分と相反する物だ。
「…………今更…………なんで…………!」
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
絶叫と共に、シアの周囲の風が荒れ狂う。海上で風が集中し、シアを中心に台風のように巻き上がる。海を抉り、雲を吹き飛ばし、災害のように周囲一体を破壊する。全てがそれを拒絶しても、シアは髪飾りを離せなかった。
全ての感情を憎しみに変換し、彼女は四天王の道を選んだ。誰も彼女を止められない、救えない。今はまだ、少年の声は届かない。だが真実を知った時、少年は何を選択するのか、実際答えなんか決まっている。
まだ弱く小さい少年は、諦めだけは悪いのだから。
悲しみと復讐の物語、その結末を変える為にも、少年は進むのだ。




