第百二十三話 『笑えるように』
「紫苑を……知っているのか……」
「彼女は……! 生きているのかっ!?」
勢いよく立ち上がり、必死の形相で詰め寄ってくる鬼。その迫力にクロノは少し戸惑ってしまう。
「えっと……ちょ、ちょっと待って……」
頭の整理も追いつかないが、体中が痛んで上手く話せない。腕の中のクウを解放し、クロノは何とか楽な体勢を取る。
「……ふぅ…………そっちの事一切話さないのに、こっちからだけ話を聞こうなんて、勝手じゃないか?」
「……っ! 黙れ人間っ! 死にたくなければグダグダ言わないで話……」
「ママッ! さっきから変っぴょんっ!」
「いつものママじゃないぴょんっ! 怖いぴょん!」
ボロボロのクロノにしがみ付き、目に涙を溜めながらクウは声を上げた。その声でハッとしたかのように、鬼は見る見る落ち込んでしまう。
「……あっ…………うぅ……」
俯いてしまった鬼の姿が、クロノには初めてあった時の紫苑に重なって見えた。
「…………えっと……もしかして貴女は……」
「クウちゃーん……ママー……」
「にゃあ…… どういう状況なんだこれ……」
クロノの言葉を遮り、ガサガサと草むらから顔だけ出したのは、クウと一緒に居たワーウルフとワーキャットだ。
「……クウ、二人を任せて良いかな」
「俺、少しママとお話したいんだ」
「……ぴょん」
素直に頷き、クウは二人の元へ近寄っていく。両方に対処できるほど、クロノは器用じゃない。とりあえず、目の前に集中する事にしよう。
「俺はクロノ、クロノ・シェバルツって言います」
「貴女の名前は?」
「……人に名乗る名は持たん」
「ママは華響って言うっぴょん」
「クウッ! 少し黙っていなさいっ!」
華響と呼ばれた鬼の声に、クウは涙目になってしまう。ワーキャットの少年の背に隠れるよう、小さくなってしまった。
「華響さんか……あんた、紫苑の何なんだ?」
「……人間が……気安く紫苑の名を呼ぶなっ!」
「…………はぁ、なんかさ……会話になんないよな」
「正直、いい加減むかついてきた」
この調子では、いつまで経っても前に進めない。もういい加減うんざりだ、足踏みするのは、もう嫌なのだ。クロノは立ち上がり、華響の前まで進んでいく。ボロボロの左手で彼女の手を取り、自分の首にその手を当てさせた。
「なっ、何を……」
「初対面でこうまで嫌われるのには、理由があるんだろ」
「話せよ、対話させてくれ、理解させてくれ」
「俺と会話して、互いに理解しあって、それでも認められないなら、お前の力で俺の首を落とせばいい」
「こっちは全力で向き合いたいって思ってんだ、一歩くらいそっちからも近寄ってくれ」
真っ直ぐ、目を見て言った。その目に気圧されたのか、華響はクロノの手を振り払い、視線を逸らす。
「…………紫苑、は……」
「……私の、親友の娘だ……」
小さく零れた声は、少し震えていた。俯いたまま、華響は続ける。
「紫苑の母、柊は……鬼の一族の中で最も強力な血筋だった……」
「気さくな奴で、誰にでも優しかった……強く優しい彼女は……私の憧れだった……」
「彼女が人間の男と恋仲になったのを最初に知ったのは、一族の中でもっとも仲の良かった私だ」
「正直、人間相手にどうかと思ったが…………彼女が幸せそうだったからな、心から祝福したよ」
「あの男は私に言ったんだ、必ず彼女を幸せにすると……そう言ったんだ」
「……だが……一族は二人の仲を認めなかった、柊に流れる血を……人の血で汚される事を許さなかった」
「里から逃げ出し、二人は子を授かった……その子が紫苑だ」
「柊に似た、可愛い子だった…………あの子は、生まれながらに地獄を見て生きてきたんだ……」
「鬼の里の者は……これ以上最強の血を汚されぬようにと、柊と紫苑を奪い返そうとした」
「人間は……魔物と交わった男を殺そうとし、幼い紫苑にまで刃を向けた……!」
「双方から追い詰められ……最後には人の手で柊は死んだ……!!」
「あの男は、約束を破ったっ! 柊も! 紫苑も……っ…………守れなかった……!」
「私はなんとか、紫苑だけでも守ろうとしたが……結局この手は届かなかった……」
「柊の最後の賭けで、紫苑はあの惨劇から逃れたが…………幼い少女が世を彷徨い……どんな思いをしたと思う……?」
「あの男のせいだ……あの男のせいで……柊は死ぬ事になった」
「あの男が居なければ、紫苑は辛い目に合わなかった……柊は死ななかった……」
「あんな惨劇は起こらず……鬼と人の戦も起こらなかった……」
「私はあの男を許せない……! 友を奪った人間を…………許せないっ!!」
「……柊さんは、辛いって言った?」
「………………何?」
「多分、一言も言ってないんじゃないか?」
「鬼のみんなが酷い事をしても、華響さんとの繋がりは切らなかったんだろ?」
「大好きな人に囲まれて、きっと幸せだったんじゃないかな」
その言葉を聞いた華響は、一瞬でクロノの首を鷲掴みにした。
「知ったような口を叩くなっ!!!」
「幸せだっただとっ!? あんな最後で…………ふざけるなっ!!!!」
「じゃあ、辛いって言ってた?」
「その男の人と結ばれて、後悔とかしてたのか?」
「……………………っ!!?」
「知ったような口叩いてる自覚、俺にはあるけどさ」
「…………華響さんにはあるのか?」
「…………なっ……」
「たとえ、悲しい最後だったとしてもさ」
「それまでの全部、最低な事ばっかだったわけじゃないんじゃないか」
「大好きな人や、大切な友人……掛け替えのない時間を過ごせたのは……間違いないんじゃないか」
「きっと笑えた時間もあったはずだし…………必死に紫苑さんを生かした柊さんは、間違ってなかったと思うよ」
「……っ!! だが、紫苑はどうなる……!」
「あの男に出会わなかったら……こんな事には……紫苑はあんな目には……」
「その人が居たから、紫苑は生まれることが出来たんだ」
「紫苑は今も生きてる……確かにさ、辛かったと思う」
「生きてる意味とか見失ってた時期もあったし、退治屋に追い回されてたよ」
「だったら……っ!」
「けど、紫苑を救ったのも人間で、退治屋だ」
「迷って、悩んで、それでも手を差し出して……紫苑を救い出した」
「紫苑も自分で選んで、その人間の傍に居る事を選んだんだ」
そうだ、少なくても……今の紫苑は後悔なんてしていない筈だ。両親の事を、恨んでいる筈が無い。生きていたから、魁人に会えたのだから、再び笑えるように、なったのだから。
「人間……と……だと……」
「俺は、人と魔物の共存の世界が夢なんだ」
「その夢の為、今まで色んな魔物に出会ってきた」
「魔核だって、本当に託してもらったんだ」
「その夢を信じる俺だから、柊さんが人と結ばれた事、間違ってたなんて思いたくない」
「幸せだったって、信じたい」
「その想いを、無かった事に……したくないよ」
華響の体から力が抜け、クロノの目の前に崩れ落ちた。呆然とする華響の脳裏には、忘れようとしていた記憶が蘇っていた。
紫苑がまだ幼かった頃の記憶、あの惨劇の数ヶ月前の記憶……。柊達が隠れ住んでいた森に、こっそり訪れたときの記憶だ。
『柊! 良かった、元気そうで……』
『元気元気! 柊さんは今日も元気よ!』
笑える状況じゃない筈なのに、彼女はいつでも笑顔だった。
『紫苑ちゃんは? 大丈夫?』
『今は旦那と遊んでるかなぁ? 笑うと可愛いのよねぇ♪』
『いやぁ、子供が大きくなっていくのは嬉しいわぁ……』
『…………柊、その……言いにくいんだけど……』
『ん、いいのいいの……ここももうやばいって話でしょ?』
『いっそジパングから離れようかしらねぇ』
『…………』
『冗談よ、あんたを置いて行く訳ないじゃん?』
『…………ごめん……あたしと会うのは、危険しかないのに……』
『殴っていい?』
『え!? 何でっ!?』
『華響さー、小さい頃からちょーっと気が利かないよねぇ』
『まぁ、そんなとこ華響らしくて好きだよ』
そう言って、額を指で弾かれた。
『痛っ!?』
『華響はさ、旦那の事良く思ってないっしょ?』
『けどさ、嫌わないでやってよ』
『あの人は、あたしに色んな物くれたんだ……それは凄く大切な物』
『あたしに流れる血は、正直鎖みたいに邪魔臭くてさぁ』
『ぶっちゃけ、色々諦めてたよ』
『けどさ……運命とかそーいうの、あの人はぶっ壊してくれたんだ』
『スッゲー勝手だけどさ、あたし今すっごい幸せ♪』
『願わくば、紫苑もこんな血に縛られず生きて欲しいんだよねぇ』
『柊……』
『ね、華響? あんたもあたしの幸せのピースな訳よ』
『だからさ、今は笑わせてよ』
『どんなに苦しくても、たとえ世界が牙を剥いても……』
『あんた達が傍に居れば、それだけであたし、幸せなんだ♪ へへヘッ』
そう言って笑っていた、いつだって……彼女は笑っていたんだ。頭の中で、何かが砕けた音がした。曇っていた目が、透き通るような気がした。目の前に立つ人間の顔が、さっきよりハッキリ見えた気がした。
「……一つだけ……教えてください……」
「あの子は……紫苑は…………笑えていますか?」
「……笑ってたよ」
「幸せそうに、笑えてたよ」
「…………ありがとう……」
今、紫苑が生きているのなら……幸せに笑えているのなら……。
間違いなく、それは正しい事だ。
柊が望んだ事の、筈だ。
「俺からも、質問いいかな?」
「そこまで紫苑の事を心配してるのに、華響さんがここを離れないのって……」
「この子達が原因、だよな?」
その言葉に顔を上げた華響の目は、先ほどまでの曇った目ではなかった。
「あの惨劇の夜から、私は鬼の里を出ました」
「紫苑を探し回ったけど、全然見つからなくて……内心少し諦めていたのかも知れません」
「大陸中を巡り、数年が経過して……山隠しの噂を聞きました」
「私には、この子達が紫苑に重なって見えた……放って置くなんて……出来なかったんです」
「……そっか」
「窃盗を進めて、人を襲わせたのは……人が嫌いだったからか」
「それもあるでしょうね、否定はしません」
「結局は弱肉強食……強くあらねば、食い潰されるのは目に見えている……」
「方法が間違っていても……私はその道しか示してやれませんでした」
「よし分かった、じゃあ別の道を進もう」
そう言って、クロノは華響に手を伸ばした。
「……え?」
「俺もこの子達を助けたい、けどさ、俺一人じゃ無理なんだ」
「力を貸して欲しい」
「違った道を、俺が示すから……華響さんはこの子達の手を引いてくれ」
「絶対に、悪いようにはしない」
「……人に、歩み寄れと言うの……?」
「話せば分かってくれる、俺はそう信じてる」
「…………私が、その手を取ると、本気で思っているの?」
「俺は、華響さんの優しい目を信じる」
初めてかもしれない、人間に真っ直ぐ見られたのは。ここまで本気で、向き合ってもらったのは。
(……違うね……前にも一度……目を見て話したことがあった……)
(柊の旦那さんだけだったな……鬼の私を、真っ直ぐ見てくれたのは……)
ふと、クウが視界に入った。そういえばさっき、クウはこの人間に引っ付いていた。あれだけ人間を恨み、嫌っていたクウが、どうしてこの人間には懐いているのだろうか。この短期間で、この人間は何をしたのだろうか。
多分、何もしていないのだ。この人間は、魔物のクウを身を挺して庇った。魔物の自分達に、本気で、真っ直ぐぶつかってくる。それが異常で、新鮮で……何故か、嬉しい。
「クロノ、と言いましたね」
「……あなたは、私達魔物が怖くないのですか?」
「あなたには、この子達がどう映るのですか」
「怖くないし、どうもこうも見たようにしか映らないよ」
「助けたいって、思うよ」
「……そうですか」
「なら、私と同じですね」
そう言って、華響はクロノの手を取った。人間と普通に話したのは、随分と久しぶりだ。何故だろう、今はこの人間の声が、良く聞こえる。
「信じてみます、あなたの言葉を」
「ありがとう、この子達の気持ち、絶対に届けて見せるよ」
「心から、笑えるようにさ」
手は届いた、後は、引っ張り上げるだけだ。




