第九十五話 『無力な自分』
「う、があああああっ!?」
何が起きたのかも分からない、いきなり右肩を切り裂かれた。クロノは左手で血が吹き出る傷口を押さえ、咄嗟に後方に飛んだ。
(うぁ……!?)
その瞬間、クロノの防衛本能が勝手に金剛を発動していた。その事に気がつくのと、シアの足が腹部に叩き込まれるのは殆ど同時だった。
「蹴り心地、結構いいわねぇ」
言葉なんて耳に届かない、クロノの体は面白いほどの勢いで吹き飛ばされてしまう。岩に叩きつけられたクロノは、途切れかける意識で必死に頭を働かせる。
(死ぬ……このままじゃ殺されるっ!)
(勝ち目? そんなの無い! どうする……逃げる、逃げられるのか!?)
(クロノ! 落ち着くんだ! まずは僕とのリンクは絶対に外すな!)
(形振り、構ってちゃ、死ぬ……全力……出して……)
(あぅ……)
ガルアの時と同じく、金剛の防御の上からでも死ぬほどの痛みを喰らった。恐らく金剛無しでは即死だろう。目の前に迫る絶対的な存在に対応するには、こちらの出来る事を全てぶつけるしかない。
「精霊技能・二重……金剛&心水!」
(動きを良く見るんだ……何とか反撃して……逃げるチャンスを……)
(吹き飛ばされたセシルが心配だけど……そっちを気にする余裕は……無い!)
既に満身創痍だが、クロノは何とか立ち上がる。そんなクロノを見て、シアはとても楽しそうに笑った。
「可愛い~……怯えてるわね?」
「大丈夫よ? 痛いだけだから」
「何されてるかなんて、分からないから、ね?」
その言葉を聞き終わった瞬間、クロノの視界が右にぶれた。
「がっ!?」
「うふふ……ね? 見えないでしょ?」
「フニャフニャの大地の力……水溜りのように浅い水の力……」
「頑張りたいのは分かるんだけどぉ……そんなんじゃ吹き飛ぶだけよぉ?」
言葉を紡ぐシアだが、クロノの体は右へ左へ打ちのめされ続けている。何をされているのか、まるで分からない。動き出しの波紋も、一切感じられない。相手の心が深いところにあり、まったく見つけられなかった。
(レベルが…………違いすぎる…………!)
一つ確かなのは、蹴られてる感触がある事だけだ。ただ、目の前のシアは普通に立っているようにしか見えない。
「げ……ほ……っ……」
ついに立っていられなくなり、クロノはその場に膝を付いた。
「うーん? もうお終いかなぁ?」
「78発、結構頑張った方じゃないかしら」
「それじゃそろそろ止めを……」
近寄ってくるシア……このままじゃ死ぬ。いや、最初から勝ち目もクソも無かったのだ。どんなに頑張っても、無駄なのかもしれない。
それでも、諦める事なんて……出来る筈がない。
「……エ、ティル……!」
水と大地の力を解除し、クロノはボロボロの体で風を纏った。一番長く使ってきた精霊技能である風の力、それ一本に集中したクロノは、全力でシアに突っ込んだ。
「あら?」
それに虚を突かれたシアは、一瞬戸惑ったように動きを止めた。
「が、ああああああああああああああああっ!!」
このまま突っ込んだら迎撃で死ぬ、クロノは寸前で方向を変え、そのまま全速力で逃亡を図った。
(隙は作れた……このまま逃げて……)
口の端から血を流しながら、クロノは宙を蹴り付ける。そんなクロノの頬を、柔らかい羽が撫で上げた。
「うふふっ……可愛い風ねぇ……」
一瞬、本当に一瞬だった。目の前にいきなり回りこんだシアが、クロノの体を抱き抱えてきたのだ。
「…………え……」
右の羽で頬を撫でられ、左の羽では腰の辺りを支えられている。クロノは抜け出そうにも抜け出せない状態にあった。
「逃げられると思ったの? そんな風の力で?」
「無知って怖いわねぇ…………絶望って、そんなんじゃないでしょ?」
不意に、シアがクロノから離れた。クロノの体が重力に従い、落下を始める。クロノは咄嗟に宙を蹴ろうとするが、その足には何も蹴る感覚が無い。
(……っ!? 風が……!)
疾風を纏っているのに、風を感じない。周囲の風が……風の流れが……無い。
(エティル! どうなって……!)
(風、が……)
(風が……あの子に……支配されてる……)
(空間全域の風が……殺されてる……よぉ……)
(クロノ……やだ……いやああああっ!)
エティルの絶叫が頭の中に響く、それと、クロノが地面に激突したのは殆ど同時だった。シアは20M近い高さから、その様を笑って見下ろしていた。
「あたしは、『絶風』のシア=エウロス」
「風はあたしの支配下にあるの、この絶風空域の中で風に乗れるのはあたしだけ」
「だから、誰もあたしに追いつけない」
「ごめんね、人間君……助けておいて殺すなんて、酷いと思うよ」
「だけど、悪いのは君達人間なのよ」
倒れているクロノの横に降り立ったシアは、どこか切なそうな顔でそう言った。
「…………何が、あったのか……なんて……」
そんなシアに、クロノは掠れた声を絞り出す。最早、届くのは言葉だけだ。
「俺は、分かんない……」
「シアさんが、人間に何をされたかは……俺は分からない……」
「だけど……シアさんがあの時……俺を助けてくれたから……」
「俺は……この場所にいる……俺の夢は……あの時に生まれたんだ……!」
「例え、シアさんがその夢を阻む立場でも……俺は諦めないよ……」
「あの時の気持ちとか、シアさんが俺を助けてくれたって事実は……無駄にしたくない……」
「人と魔物の共存の世界を……俺は諦めない……!」
身体を必死に起こそうとするクロノ、だが、その身体は想いに応えてはくれない。それでも、クロノはまだ動いてくれる左腕を使って、必死に起き上がろうともがいていた。
「共存の、世界……」
「馬鹿馬鹿しいわね、よりにもよって四天王のあたしにそれを言うの?」
「この場で君は死ぬ、君の夢もここまでよ」
「例え生き延びても、あたしがいる限り……その夢は叶わないわ」
「叶えるよ、絶対……絶対……」
「それに、約束したんだ」
「ピュアに……約束したんだ」
「お母さんに、会わせてやるって……!」
ピュアの名を出した瞬間、周囲の感じが変わる。シアの表情が、怒りを顕にした。
「その名を、口にするな」
「反応で分かる、シアさんはやっぱり、無関係じゃない」
「黙れ」
「あの子は、今でも待ち続けてるんだ」
「黙れ!」
「シアさんが、人に何をされたかは知らない」
「どんな事情があったのか、俺は知らない」
「だけど、ピュアはシアさんを待ってるんだっ!」
「シアさんがくれた俺の夢、ピュアとした約束……そういった捨てられない物があるんだっ!」
「だから、俺はここで死ぬわけにはいかないんだよっ!!!」
斬られた右肩から血が噴出すが、知ったことでは無い。クロノの身体はクロノの命令を拒絶している、それもどうでもいい。ここで死ぬわけにはいかない、倒れている場合では無いのだ。無理やりでもいい、偶然だろうが、奇跡だろうが、ご都合主義だろうが……。足が折れようが、腕が千切れようが、血を吐き出そうが……。
ここで立たなければ、終わってしまうのなら。 立つしかないじゃないか。
「シアさんが立ち塞がっても、俺は前に進むよ」
「必ず、理解させてみせる」
「シアさんが抱えてる物、今はまだ見えないけど」
「いつか、必ず助けてみせるよ」
「辛そうな顔、してるもんな……」
クロノには、シアの表情が泣き出しそうな顔にしか見えなかった。母を捜し、寂しさに涙を流していたピュアと、そっくりだ。
「……黙れって……」
「言ってるでしょおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
絶叫と共に風が巻き上がり、クロノの身体が上に吹き飛ばされた。
「いつかっ!? いつかって何よ! 君は今! ここで死ぬんだから!」
「人間が偉そうに……ピュアって誰よ! あたしは知らない! 知らないっ!!」
「知ったようなこと、言ってんじゃないわよ……もうそんな言葉で、惑わされないのよ……」
「あたしはっ!! あの時にっ!! もう全部……捨てたんだからああああああああっ!!!」
空中に吹き飛んだクロノ目掛け、シアが突っ込んでくる。クロノは確信していた。
この蹴りを喰らえば、首が飛ぶ。
(ダメ、やだ……クロノ……なんとか、して、しろ……お願い……)
(クロノッ! 僕とリンクしろ! 死ぬなんて許さない! 許さないぞっ!)
(何で……あたし……何も出来ないよぉ……いやだ……いやだああああああああっ!!)
精霊達の言葉が響く中、クロノは悔しそうに目を閉じた。
(……弱いって………………悔しいな……)
苦しんでいるのかも知れないのに、何もしてやれない。向き合う事すら、出来ない。助けるなんておこがましい、無力な自分は、自分の命すら守れやしない。
力なく宙を漂うクロノに、シアが蹴りを叩き込んだ。
その蹴りを、セシルが剣で受け止めていた。
「なっ!?」
「やりすぎだ、鳥女」
そして、身を翻すと同時に尾による一撃でシアを殴り飛ばした。そのままセシルはクロノを抱き止め、地上へ降り立つ。
「セシ……」
「喋るな、今は黙っていろ」
「後は、四天王として……私が受け持つ」
地面にクロノを横にして、セシルはシアと向き合った。
「今の、冗談じゃ済まないんだけど?」
「人間一人にムキになり、冷静さを失った時点で貴様の負けだ」
「四天王は勝手な殺しを許されていない、貴様こそ四天王を何だと思っている」
「人を庇おうとしてる、あんたにだけは言われたくないんだけど」
「そうだな、どうにも貴様とは馬が合わんな」
「これ以上の会話は、無駄だな」
「あら、意外に気が合うわね」
「あたしも、そう思ってた」
お互いに笑い合い、姿を消した。
二人の姿が再び現れた時、既に互いの一撃がぶつかり合っていた。セシルの剣とシアの蹴りが衝突し、周囲に衝撃が広がる。
「本当に気に入らないのよね、丁度いい機会だし? いい感じに足跡付けてあげるわよ」
「それはとても迷惑な話だな、焼き加減はどうする? 焼き鳥にしてやろう」
「蹴り潰してミンチにするぞ、トカゲ風情が」
「鳥頭の分際でよく喋るな、生まれた意味すら忘れさせてやる」
意識を失いかけていたクロノだが、二人の発する殺気がそれを許してくれなかった。目の前で戦っているのは、間違いなく最強に分類される魔物達だ。
しばらく睨み合っていた二人だったが、不意にシアが姿を消した。セシルは剣を構え直し、唐突に右肩を尻尾で庇う。そこにシアが蹴りを叩き込んだ。
「チィッ!」
「むっ!」
尾による迎撃を避け、シアは高速でセシルに蹴りを放ち続ける。セシルは尾と剣でそれをいなし続け、所々に反撃を混ぜていた。
「天津狩りっ!」
「焔尾・皇閃っ!」
両足の爪を構え、回転しながら突っ込むシアに、炎を纏った尾による突きを放つセシル。両者が交差し、その衝撃波で両者の背後の岩壁が砕け散った。
「本当に、ムカツク女ねっ!」
「それは、お互い様だろう」
お互いに頬から血を流し、同時に向き直る。
クロノは何も出来ない無力感を抱きながら、それを見ていることしか出来ない。
四天王同士の戦いが、幕を開けた。




