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目が覚めても社の中だったが、青年神は既に消えていた。神でも朝日の中にはいられないらしい。電柱とビニールポットと神。実におかしな組み合わせだ。
腕時計を確認すると、午前六時だった。日曜日だから学校の心配はないが、制服は着替えたい。
携帯電話に着信はない。家族はうまく騙されてくれたみたいだ。さあ、家に帰ろう。
全身筋肉痛に耐えつつ家に帰ってなんとなくテレビをつけると、地域のテレビ局がニュースを放送していた。
『昨晩、――川の流域で不審な死体が発見されました』
健康美人なアナウンサーが淡々と原稿を読み上げる。朝から血生臭いな。
『死後間もないと思われる男性は、身長百八十センチ、黒いジャージを着ており、刃渡り十五センチのサバイバルナイフを握りしめていました』
背筋が寒くなった。
『県警は事件と事故の両面から捜査を進めています。続いて、天気予報です』
黒ずくめにナイフの不審者が、そうあちこちにいてたまるか。昨日の男だ。
同情は微塵もできないし、できない自分が冷たいとも思わない。僕は殺されそうだったのだ。しかし、昨日強烈な出会いをした人間が今日河原で死んでいると思うと、いい気はしなかった。
警察に行った方がいいのだろうか。多分僕は、男を目撃した最後の人間だ。でも警察に行ったら、追われていたことも話さなきゃいけないよな。どうやって逃げ切ったのかも話さなくては……。
『うねうねする顔なじみの電柱に、堤防に乗せてもらいました』
……よし、このことは僕一人の胸にしまっておこう。それがいい。
適当に朝食の準備をしようと思い立って台所へ行き、食べ物を物色する。パンが沢山と牛乳、卵。フレンチトーストだな。ボールはどこだ。
調理台の上の棚の扉を開け、椅子に乗って中を覗き込む。そこで、ボールのありかが調理台下の棚だったことを思い出して人知れず落ち込んだ。こうなったら上の物もなにか使ってやろうと意地になって戸棚を見渡すと、一番上の段に風呂敷包みがあるのを見つけた。
随分軽いそれをテーブルの上に広げると、大きめの茶封筒が入っていた。その中には、一枚の古ぼけた写真。フィルムの写真らしく、右下にオレンジ色の文字で日付が入っていた。3.18。ベッドに寝そべる疲れた顔の母が、赤ん坊を抱いている。その傍では、二歳くらいの姉が満面の笑みを浮かべていた。構図からいって、撮影したのは父だろうな。
メモと便箋も入っていた。メモのほうを見る。
〈昌、生後二時間〉
おかしいな。僕の誕生日は、三月十八日ではないぞ。カメラの設定を間違えたのだろうか。
便箋の文字は拙い。当時の姉が書いたのだろうか。
〈日日(多分「昌」と書きたかったのだろう)ちゃん、はじめまして。おねいちゃんのかんなです。はやくおおきくなってね。おにんぎょうあそびしようね。おままごともね。かわいいもうと(「可愛い妹」だと思う)になってください〉
姉さん、僕は妹にはちょっとなれそうにありません。このころから天然だったのですね。
しかし、家族の写真をまとめたアルバムは別の場所に保管してある。なぜこの一枚と微笑ましい便箋だけ、へそくりよろしく隠してあるのだろうか。不思議に思ったがその時の僕は深く気に留めず、風呂敷を丁寧に元の状態に戻した。
重大なことを忘れているのに、気付かないまま。
所変わって、高校。二者面談である。最近忘れそうになりがちだが、僕は間もなく高校三年生になるのだ。
「しっかし、お前の姉さん美人だよな」
進路の話をしていたはずなのだが、話がずれにずれ、担任の若い男性教師は鼻の下を伸ばしている。
「いつ見たんですか?」
相手が教師であることも忘れ、僕は深いため息をついた。姉・柑和の美貌は今に始まった話ではないが、とうとう弟の担任まで知るところとなったらしい。
「先月、一緒に歩いていただろう」
「ああ、そうですね」
荷物持ちだ。
「いいよなあ、昌はあんな美人と歩けて」
噂によると同棲していた彼女に逃げられた教師は、なんだか遠い目をしだした。姉に危害が及ばなければいいのだが。
「馬鹿も休み休みおっしゃってください。血を分けた姉弟が並んで歩いて、何が楽しいんですか」
もう一度ため息をついてやると、担任は意外にも僕の暴言をたしなめるのではなく、驚いたように目を見開いた。何を驚いているんだか、と僕の目線が冷ややかになるころ、担任は一言呟く。
「血を分けた……?」
「何がおかしいんですか。『お前の姉さん』と僕が姉弟じゃないという発想は何処から湧いて出たんですか。彼女のいないアパートからですか」
「あ、いや……お前が分からないなら、俺の口から話す事じゃない」
「?」
「それより昌、志望は地元国公立みたいだが、お前の成績なら××大学も狙えるぞ」
「下宿は嫌です」
基本的にふざけている担任が急に真面目になったことに違和感を覚えないこともなかったが、学生の本分を優先した僕は深く考えないことにした。
教室に戻ると、自習命令が出ているにも関わらず、友人たちは男子クラス特有の談議で盛り上がっていた。昌はどうだ? という問いかけは曖昧にごまかし、自分の椅子を引く。
その瞬間、頭が割れるような強い頭痛に襲われた。
「おい昌、どうした!」
「養護教諭呼んで来い!」
「分かった!」
級友たちの声は聞こえるには聞こえるのだが、全く頭に入ってこない。返事をすることはおろか、息をするのも辛い。苦しい。
机の脚と床が目の前に見えるということは、倒れたのだ。とにかく頭が痛い。泡を食った級友が揺すってくるので、余計痛い。
僕は死ぬのだろうか。漠然とそんなことを思うと、僕の意識は遠のいた。