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話が逸れるが、この村には神社が多い。一級河川左岸の村だから、昔は洪水が多かったことが大きな理由だ。今でこそ江戸・明治の治水工事によって安全になっているが、昔は文字通り神頼み、仏頼み。ちなみに寺も多い。
緊急事態につきお許しください、と内心で言い訳して、社の中に入る。神様仏様を当てにしたことはないが、日本人の緩やかな信仰心で祭壇に一礼し、それから床にへたり込んだ。
「助かった……」
男が追ってくる気配はない。何がなんだかよく分からないが、僕は逃げ切れたのだ。ここで少し休んでいこう。携帯電話は持っているから、祖父母には友人宅に泊めてもらうと嘘をつくことにして。
気が抜けた瞬間、強烈な疲労感が蘇った。最後に全力疾走したのは小学校の運動会だから、命懸けの持久走で身も心も草臥れたのだ。瞼が重い。早春の空気は冷たいが、少しなら眠っても大丈夫だろう。
「おい小僧」
僕は社の床に寝そべって目を閉じた。
「おい」
電話は後だ。
「お~い。寝るな」
僕の意識は次第に心地よい闇の中に……
「起きろと申しているだろう!」
……溶けなかった。残念だ。
渋々怒鳴り声のする方――祭壇を見やると、年頃は僕と同じくらいだろうか、逞しい体つきの青年が立っていた。声が無駄によろしい。時代錯誤も甚だしい白装束に身を包んでいる。
「我を無視しようとは、いい度胸ではないか」
「生憎、疲れていまして」
どうやら狂人から逃げるときに、礼儀を落としてきてしまったようだ。仕方ないさ。ああ。逃げる際には余分なものを捨てるに限るからな。
「人の社に逃げ込んでおいてそれはなかろう」
青年は偉そうな口調とは裏腹に不貞腐れたような表情を見せた。こうしてみると、僕より幼いように見える。
しかしまあ、この青年の歳など考えるだけ無駄だろう。
祭壇からの登場。
白装束。
『人の社に……』
「すみません、まさか神様にお会いできるとは思わなかったもので」
そう、この青年は人間ではない。
「分かればよい」
僕と姉以外の人間には見えない類の、人ならざるものだ。
「しかし其方、何故我と話せるのだ」
「話しかけてきたのはそちらでしょう」
「いやそうなのだが……」
青年神は僕の正面に胡坐をかいた。さっさと眠らせてほしい僕としては迷惑極まりないが、無下にもできない。仮にも神だ。
「姉と僕はどうしてだか、他の人間には見えないものが見え、聞こえないことが聞こえ、感じられないことを感じられるのです。全く嬉しくない話ですが」
そのおかげで何度厄介事に巻き込まれたことか。いや、巻き込まれているのは僕だけで、姉は平然としているが。
不意に青年神は凛々しい顔になった。
「古より、我らを見る者は時折現れる。しかし其方は変わり種であろう」
「僕のことをご存じで?」
心当たりは……ありすぎてどれか分からない。毎晩電柱と挨拶していることか、ビニールポットに懐かれていることか、はたまた桜下の幽霊を成仏させたことか。
「是。柑和と云ったか、其方の姉は、ただの勘の良い娘だ。しかし其方は違うと聞くぞ」
そこで神は嫌な笑みを浮かべた。外見年齢は同じくらいなので、軽く腹が立つ。
「僕が何だと?」
「分からぬか」
「左様」
釣られて古臭い返事をすると、青年神はちょっと気圧されたようだ。しかしすぐ、ふてぶてしい雰囲気を纏い直す。
続いた一言には、僕も絶句せざるを得なかった。
「其方、人間ではあるまい」
何故絶句したか。心当たりがあるからだ。
姉は人ならざるものを見聞きしても、それらに危害を加えられたことはない。心の中で念じただけのことが、桜の木に伝わったりもしない。少女の霊と会話ができたのも、よくよく考えれば僕だけだった。
「……僕は人間です」
そうでなければ、僕は何者なのだ。この十七年間は何だったのだ。
言葉尻が震えたので、繰り返した。
「僕は人間のはずです。後頭部に硬球当てられるまで何も見えなかった、ただの高校生です」
「人ならば、我を恐れよう。其方、言葉を継げば継ぐほど、己の人にあらざるを物語っているぞ」