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時の流れは速いもので、僕が故郷の村で人ならざるものを見るようになってから、半年が過ぎた。半年も経つので電信柱がうねうねしてきてももう驚きはしないし、ビニールポットや水耕栽培用のスポンジの大群に追い回されるのにも慣れた。
ところが現在、僕は少しばかり、いや過分に困った事態に陥っているのである。
「昌く~ん、遅いよ~。しっかり~」
「うるさい黙ってろ!」
くねくねする電柱にうっかり懇親の力で叫んでしまい、息が乱れて後悔する。そう僕は今、全力で走っているのだ。いくら遅かろうと、僕にとっては全力だ。
半歩犠牲にして振り返ってみると、黒服の男は平然と追ってくる。僕と違って体力があるようだ。その手に光るのは、鈍い鉄色。オレンジ色の街灯にもはっきりと映えるそれは、刃渡り十五センチほどのサバイバルナイフだった。
「なんとか、出来ないのか!」
「ごめんね~。人間がボクらに干渉できないよ~に、ボクらは人間に何も出来ないんだよ~」
田舎の夜は早い。逃げ込めるような家屋は見当たらない。
「昌くん頑張ってぇ~」
電柱の応援に答える余裕も無く、僕は鉛のように重い足を動かし続けた。
そもそも何故この状況に陥ったかを説明するには、数分前にさかのぼることになる。
いつも通りの一日だった。学校で退屈な授業をこなし、部活に一応参加する。家の最寄り駅に到着するともう空は薄暗く、ああそろそろ電柱に邪魔されるころだな、などと思いながら自転車に乗ろうとした。
ところが、駅の駐輪場に停めてある僕の自転車の前に、見知らぬ男が立っていた。僕が「すみません、その自転車僕のものです」と言うなり男は、ポケットに入れていた手を出した。その手にあるものを確認するなり、僕は脱兎のごとく逃げ出した次第だ。
火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、僕はいい加減家路のほとんどを駆け抜けようとしていた。もうすぐで帰れる……ん、帰れる?
今日、家には祖父母しかいない。
よって、この男を連れ帰ってしまうのはまずい。
したがって、帰れない。
嗚呼どうして僕は、こんなにも運が悪いのであろう。村に一つしかない交番までは、まだ距離がある。余力ではたどり着けないだろう。
しばし悲壮感に襲われ、しかし生存本能とでも言うべきか、突然酸素不足のはずの脳が回転しだした。元来僕の本領は思考にあるのだ。考えろ、考えろと自分に言い聞かせていると(言葉の綾であり、声は出せていない)、つい先ほどの電柱の言葉が反芻された。
『ごめんね~。人間がボクらに干渉できないよ~に、ボクらは人間に何も出来ないんだよ~』
無性に腹が立った。しかし残念かな、今は自転車のタイヤをめり込ませてやることができない。
続いて思い浮かぶ、日常。僕自身はどういうわけか、いつも電柱に話しかけられ、道を塞がれるじゃないか。
「おい電柱、僕を堤防に上げろ!」
「りょ~か~い」
電柱がくねっと倒れる。僕はその先端にしがみつく。直後に浮遊感。
男が立ち止まり、驚愕の視線でこちらを見上げている。男の目には、僕が妙な体勢で宙に浮いているように見えるのだろう。
運動能力を持たずに生まれてきた僕は、堤防の上にべしゃっと投げ出された。切り立った堤防に登るためには、登山用の道具でも用意するか、遠回りして階段を探すしかない。そしてここは僕が生まれ育った村だ。僕はもつれる足に鞭打って立ち上がると、階段のない方に走り出した。男は左右を見渡し、僕に背を向けて階段に向かう。その隙に僕は、堤防を先ほどの反対側へ飛び降りる。軟弱な足首が痺れるが、あと少しだ。
「昌くんかっこうぃ~」
空気の読めない電柱を無視して僕は、木々生い茂る神社の境内に転がり込んだ。