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真珠湾攻撃を皮切りとした一連の戦争が激化した当時、この村に一人の早乙女が暮らしていた。幼いながら、徴兵された父と病弱な母に代わり弟妹の面倒をみる、心優しい娘だった。
その年の秋、村外れの桜が狂い咲きした。晩秋の小春日和を勘違いしただけの、ままある現象だ。早乙女は宵ごとにその桜に通い、月と桜花に慰めを得ていた。
狂い咲き故見頃が長かったため、数日通ううちに早乙女は自分の他にその花を眺める人間に出会った。その男は若い軍人で、休暇を利用して父母の疎開先を探していた。彼もまた、秋の桜に魅了されたのだった。
連夜出会い言葉を交わすうちに、早乙女は軍人に恋をした。数えで十一ほどの幼さながら、真剣な恋だった。そしてある日とうとう早乙女は、己の胸の内を明かした。
若いとはいえ一回り以上も離れた軍人だったが、彼女の思いを受け入れると言ったそうだ。戦争が終わった暁には迎えに来ようと。しかし早乙女は今すぐ連れ出してくれと食い下がった。厳しい村の暮らしに疲れ果ててしまったのだ。親兄弟を忘れ何処かへ消えてしまいたいと、無邪気に、その分強く願った。
困ったのは軍人だった。相手は子供だ。愛を囁いたのも、将来を誓ったのも、本気ではなかった。冗談だったと言い換えてもよい。軍人は身を固めることに真剣になるには若く、しかし幼い恋のひたむきさを理解するには歳が過ぎていた。それでも毎晩泣きながら訴える早乙女にとうとう言ってしまう。
「明日の夜、町へ帰る。ここで待っていてくれ」
早乙女はそのことを幼馴染の少年にだけ打ち明け、身なりを整えて桜の下で軍人を待った。贅沢を禁じられる時代に隠し持っていた、お気に入りの桔梗柄の着物を着て。
軍人が来るより先に幼馴染の少年が止めに来たが、早乙女は彼の忠告を聞き入れなかった。初恋の熱が早乙女を盲目にしていたのだろう。
そして、軍人は来た。
しかし軍人は、早乙女を殺した。これで煩わしいことはないと、彼女を桜の根元に埋めた。
無垢な想いは、恐怖は、早乙女の魂をこの世に留めた。しかし、早乙女の声を聞く人間はいない。
その健気な姿を見守り続けた桜は、彼女の代わりに真実を語った。しかし樹木の命は人のそれよりはるかに長い。時間の感覚を理解できず、また、助詞や助動詞の類も使いこなせなかった。それゆえ、ごく一部の勘の良い人間はその言葉を誤解し、人喰い桜の異名のみが広がった。
「これが事の全貌です。そうだよね?」
前半は姉に、後半は姉の隣に現れた、桔梗を着た半透明の少女に。
姉は静かに泣いた。少女の想いを理解できるのだろう。
少女は僕の隣に来ると爪先立ちをし、小さな声で一つの願いを口にした。僕が了承すると彼女は微笑んだ。もし大人になっていたとしたら大層な美人になっただろう。そう思われる微笑だった。
そして、少女は消えた。
おそらく、もう現れることはないだろう。
翌朝の登校途中、柴犬と散歩する松田老人に会った。僕がわざとこの時間、この道を狙ったのだ。
「松田さん、おはようございます」
「田代の坊主か。学校だな?」
これから、僕は嘘をつく。
ついて良いのかは自信のない、しかしついてしまいたい自分勝手な嘘だ。それは七十年前の少女の願いでもある。
「昨晩、奇妙な夢を見ましてね……。十一、二でしょうか、桔梗模様の和服を着た可愛らしい女の子が、こう言っていたんですよ。『清治君ありがとう。わたしは幸せよ』と」
清治というのは、松田老人の名前だ。
早乙女は僕に、己の生涯が幸せだったことを伝えて欲しいと頼んだ。幼馴染の少年を、自分のことを誰よりも思いやってくれた少年を、悲しませないために。彼女の骸は埋め戻した。殺人の時効はもう、何十年も前に成立しているのだ。静かに眠って貰いたかった。
夢だ、と前置きしたのは僕の都合だ。しかし自転車に跨る僕の目の前で、松田老人は地面に膝をついた。痩せた肩が、小刻みに震え出す。
朝の静寂に包まれた村に響く、慟哭、慟哭――。
僕は登校中であることなど忘れて、松田老人の背中を見つめていた。柴犬も小首をかしげて飼い主を見ている。
どれほどの間そうしていただろうか。
嗚咽が多少治まるころ、松田老人は秋の蒼天に向かって、涙でぐしゃぐしゃの顔を綻ばせた。
「わしも幸せだよ、美代さん……」