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目を覚ますと、そこは僕の自室だった。
ん、目を覚ましただと?
「おはよう、昌」
「お早うございます、姉さん。何故僕の部屋に?」
布団の枕元に正座する女性は僕の実姉だ。今日はアルバイトがないのだろうか。
姉は十人の男のうち八人は振り返りそうな微笑をたたえた。無論、血を分けた弟たる僕は何の感慨も抱かないが。
「昌、昨日、お友達に担がれて帰ってきたんだけど、覚えている?」
姉の話をまとめるに、僕は花見中に気絶したらしい。
既に太陽は高くなっている。姉が朝方、僕の学校に電話して欠席の旨を伝えてくれたそうだが、宵の口から昼間まで眠りこけていたのだろうか。いくら生きるか死ぬかだったとしても、軟弱なことだ。
姉さん、人喰い桜を見に行ったことはありますか、と尋ねようかと思ったのだが、やめた。いくら姉が僕と同じ(いやむしろ、僕よりよほど筋金入り)で人ならざる者を見る人間でも、言わないでおきたかった。気絶くらいならともかく、殺されかけたことを話したくはない。
携帯電話を開くとメール数件。いずれも昨夜の友人だ。
〔おーい、大丈夫か?〕
〔生きてるかー〕
〔柑和さん美人だな!〕
柑和というのは、姉の名前である。僕は深々とため息をついた。脱力したのだ。
「それじゃあ昌、わたしはちょっと出かけるから」
「行ってらっしゃい」
それからまた強い眠気に襲われ、僕は意識を手放した。
喉が酷く渇いて目が覚めた。思えば丸一日以上何も飲み食いしていない。窓の外は既に薄暗いが、普段帰宅する時刻まで数時間ある。中秋の日没は早い。
台所までふらふら歩き、行儀は悪いが薬缶から直接麦茶を飲んだ。流石に脱水症状があるらしく、軽い頭痛がある。
両親は仕事、姉は外出。母屋の祖父母は僕が学校にいると思っているだろう。無作法をとがめる人はいない。僕は冷蔵庫を漁り、コンビニから買ってきたと思われるサンドウィッチをくわえた。立ち食いをしながら居間まで移動し、テレビの見える位置に座る。ところが片手にサンドウィッチ、片手にリモコンでしばし何も考えずにいるとふと、机上に紙が置かれているのが目に付いた。
その紙は書き置きのようで、内容が頭に入ると同時に僕の手から、リモコンが落ちた。
〔噂の秋桜を見に行きます。by柑和〕
いやいや姉さん、秋桜の噂なんて僕は耳にしていませんよ。春キャベツと言えば春のキャベツですが、秋桜は桜ではありません。コスモスです。ええ存じていますとも、姉さん貴女、桜のつもりで書いたでしょう。昔から姉さんは言葉の選択がおかしいのです。天然と言います。
と、僕の脳内は現実逃避を始めたが、かろうじて残った理性が警告している。
姉は人喰い桜のもとへ行ったのだ。
外は既に薄暗い。あと三十分もすれば、電信柱がくねくねする頃合だ。
自転車をこぐこと十分弱、ようやく村外れまで至った。既に日は沈んだ。
『男……娘……殺す』
昨夜聞いた(感じた?)不気味な声が、再び響いてきた。今度は「娘」が足されている。二十歳前の姉は正しく娘だ。
桜の木の下には、女性が二人いた。一人は紛うことなき我が姉で、桜の幹に手を当てて瞑目している。
「姉さん早く逃げてください!」
少し離れた所から叫ぶと、姉は驚いたように振り返った。黒髪と桜が絵になる様だが、そんなことに頓着している場合ではない。徐々に暗さが増しているのだ。
姉の傍らにもう一人、少女がいる。歳のころは小学校の高学年ほどに見えるが、驚くべきことに、桔梗柄の着物姿だ。少女も驚いたらしく、大きな瞳をさらに大きくして僕を凝視している。
『娘逃げる。男、殺す』
「姉さん、聞こえているんでしょう!」
僕の声が聞こえるだろう、ではない。姉にはこの不気味な声も聞こえているはずなのだ。どういう理屈なのか、姉と僕にだけは聞こえる。
こうなったら、無理にでも連れ帰ろう。姉の腕を掴むと、
『お前、叫ぶ』
明らかにそれは、僕に向けられた声だった。
「どういう意味だ?」
『人、叫ばない。お前、叫ぶ』
「僕は人間だ」
『ぼく、喰わない』
「は?」
『喰わない』
拍子抜けというか、混乱していると、誰かが僕の袖を引いた。見ると、着物姿の少女だ。僕をおびえたように見上げている。
「違うの」
消え入りそうな声でそう言われ、その言葉の意味を咀嚼する前に僕は息を呑むこととなった。少女の儚げな容貌が、更に色素を薄くしたのだ。平たく言うと、少女が透けた。
電柱が踊りだした時より遥かに、僕は動顛した。
「君は……」
幽霊なのか。続ける前に少女は、桜の根元を指差した。何かを訴えるように僕と姉を交互に窺う。
そして、消えた。
桜は沈黙した。
不意に姉がため息をついた。
「ここに来れば何か分かるかもしれないと思ったけど、駄目だった。でも昌なら、あの子が言いたいことを分かってあげられるんじゃない?」
姉さんは何を知っているんですか。声に出す前に姉は補足した。
「少し前からね、あの子が私の周りにいたの。何かを言いたいみたいなんだけど、どうしても分かってあげられなくて。でも昌は賢いから、あの子を助けてあげてほしいの」