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来てしまった。来なければいいと分かっていたのに。
こう言えばどこぞの恋愛小説のようだが、僕の場合冗談でなく命が懸かっているし、逢瀬の相手は腐れ縁の野郎どもであって可憐な乙女ではない。
「昌、遅えぞ!」
既に桜の下には数人の青年が集まっている。手にしているのはどうやら酒瓶……おい未成年、何やってるんだ。皆とまではいかないが、二、三人は酔っている。残りの一人二人は今のところ正気だ。
しかしよくもまあ、娘を喰った言い伝えのある桜を眺めて馬鹿騒ぎできるものだ。
僕とて、何も考えずにのこのこやってきたのではない、万が一、この桜が本当に人を喰うとしたら、一般人の悪友たちは何も抗えないが、人ならざる者を見られる僕ならば、逃げる(あるいは逃がす)ことくらい出来るのではないかと考えたのだ。身の安全を図って、友人が行方不明に……などというのは寝覚めが悪い。
まあ、僕が狙われやすいのも確かだが。
「昌も飲めよ!」
「遠慮しておく。明日は学校だ」
「つまんねぇやつ。学校なんて俺らもだよ」
酒飲みどもはさておき、僕は桜を観察した。樹齢百年は越えているであろう、枝ぶり見事な大木だ。普通、狂い咲きというのは、枝の先に少しばかりの花が付くものだが、この木は満開である。
しかし、くねくねすることもない、ただの桜だ。そう思いかけた刹那、耳元で不気味な声が響いた。
『殺す……』
悪友のいたずらかと身構えたが、僕の傍には誰もいない。
『男……殺す……』
耳元で囁かれたのとは微妙に違う、頭の中に直接音を送られているような感覚だ。本能とでも言うのだろうか、脳も心臓も無視したもっと奥の方から、寒気がこみ上げる。
悪友たちは、気付かなかったかのように宴会を続けている。否、聞こえていないのだ。
『男、殺す……。埋める』
人喰い桜の声だ。そうとしか考えられない。確信すると、冷や汗が流れた。
この場の全員、若い男なのだ。
どうすればいい。どんな言動を取れば助かる。
「おい昌どうした? 顔色悪いぞ」
「うるさい黙ってろ!」
自分だけが逃げれば助かる。友人は狙われないのかもしれないのだと、心のどこかがうそぶく。けれど、別の部分が嫌だと叫んでいる。見捨てたりなど出来ない、と。ならば死ぬのか。それも嫌だ。思考は同じところを巡り――
――最後に、僕はどうしようもない馬鹿なんだと思った。
いぶかしむ友人を片手で制し、視線は桜花に。
『殺さないで』
強く強く、心中で念じた。
ビニールポットや水耕栽培のスポンジの群れは、今宵も村の一メートル五十センチ付近を飛び回っていた。ところがある瞬間、不思議な声を耳にして動きを止めた。もっとも、耳はないが。
『殺さないで』
どうにも慣れ親しんだ感じがするのだが、必死さが伝わってくる。
あれ誰だっけ? 分かんない。でもどこかで聞いたような……。彼らにしか通じない言葉でひそひそ語り合っていると、近くの電柱がくねっと倒れた。
「あれは、昌くんだよね~」
鉄筋コンクリートが喋った内容に、群れは騒然となった。彼らの知っている人間だったのだ。
電信柱はいつもより多めにくねくねして、不安げに言った。
「今のは、口に出した言葉じゃないのにね~」
僕の命乞いが功を奏したのか、桜は沈黙した。
「なあ昌、どうしたんだよ」
「ん……ああ、すまない。疲れていて」
シャツが汗で張り付いている。極度の緊張から開放され、目眩がした。
幸いなことに、悪友たちの酒瓶は空になったらしい。「もう帰るか」だの「またな」だのと聞こえてくる。
一難去ったと考えてよさそうだ。
しかし、目の前が暗くなってきたぞ。なぜ?
「昌っ!」
うるさいな……。