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かつて、その桜花に魅せられた早乙女がいた。
村外れの路傍に唯一本立つ桜に、彼女は夜ごと通い、月光に照らされた花弁を眺めていた。
ところがある夜、早乙女は消えた。
村人は噂した。
「あの娘は、桜の木に喰われたのだ」
と。
―――*―――
野球ボールを後頭部にぶつけられ、夜の故郷でおかしなものが見えるようになってから、半月が経った。そんなことがある以上夜間の外出は控えたいのだが、高校生という身分上それもままならず、現在僕は、夜道を自転車で帰宅中である。
何が楽しいのか、僕の頭くらいの高さを、親指大から拳大までの農業廃棄物が飛び回っている。ビニールポットやら水耕栽培のスポンジやら、流石田舎だ、と感心するようなものなのだが、どうやら周囲の人間には見えていないらしく、宙に向けて腕を振り回す僕は危険人物のようになっている。もっとも、この時間にこの田舎道を通る人間などほとんどいないのだが。
「お、昌くんじゃ~ん。お帰り~」
間の抜けた声と共に、僕の行く手に何かがくねっと倒れてきた。慌ててブレーキを握るがわずかに遅く、僕の乗る自転車の前輪がそいつにぶつかった。
「痛っ~い。何するの~」
うるさい。
「昌くんつめたい~」
昌というのは僕の名前であるが、こいつに名乗った覚えはない。大方、姉が勝手に教えたのだろう。
この電信柱に。
鉄筋コンクリートのくせに、自転車に当たると痛いらしい。見ると、電信柱の腹(?)には、タイヤの跡が濃く残っている。ちなみに乗っていた僕は衝撃をうまくいなせたので無傷で、農業廃棄物たちは非情にも飛び去った。
それにしても、村中どの電信柱を見ても性格や口調が同じなのはどういうことだろうか。
「それはね~。ボクたちが実はボクだけだからだよ~」
くねくね説明されるが、まったくもって訳が分からない。おそらく深く考えてはいけないのだろう。まあ、電信柱が喋っている時点でおかしいのだから、理解できないことがあと一つや二つ増えたところで問題はなかろう。
田園風景といえばのどかだが、見通しの良すぎる家路を見ると、すべての電信柱が一糸乱れぬ完璧に同じ所作でうねうねしていた。
この悪寒は、秋風のせいではあるまい。
翌日は日曜で、寄り合いのある日だった。町内会のようなものと考えれば凡そ正しい。僕の住む村では寄り合いと呼び、各家から一人を出して集会所に集まるのだ。我が家の面々は皆外出するとのことなので、最年少であるにもかかわらず僕が出向くこととなった。
集会所に来たのはほとんどが老人、あるいは主婦の方々であったので、僕は話し合いの間特に若い御婦人方に混ざってお茶をいれていた。それが終わると半飲み会のような有様になったが、未成年は肩身が狭い。
部屋の隅で本でも読もうと立ち上がると、ご老人の一人に声をかけられた。
「坊主、将棋は指せるか?」
毎朝登校時に擦れ違う、柴犬の散歩をしている八十歳くらいの方だ。坊主はやめてくださいと言うと、「田代の末っ子」と言い直された。
「……やっぱり『坊主』でいいです。将棋、一局やりますか?」
うれしそうに相好を崩したご老人は、松田と名乗って折り畳みの将棋盤を広げた。
それからしばらくは黙々と将棋を指していたのだが、盤の流れが僕の不利になるころ、松田老人は不意に口を開いた。
「そういえば、村外れの桜が狂い咲きしていたよ」
桜と聞いて、僕は半月前に電信柱に言われたことを思い出した。この村のどこかに、人喰い桜がいるとかいないとか。
僕がへえそうですかと生返事すると、松田老人は将棋盤から顔を上げ、遠くを見るような顔をした。
「あの桜は七十年くらい前にも一度、狂い咲きしてね。それを毎晩のように見に行った女の子がいたんだよ」
「ほう、危ないですな」
「ああ。その子はある日、桜を見に行ったきり帰らなくなってね……」
誰かにかどわかされたか、あるいはその女の子が僕と同じく人ならざるものを見てしまう人間で……。
結局将棋は負け、日暮れ前に家に戻りたかった僕は松田老人と重役数人に暇を請うと集会所を後にした。
家まで歩きながら何気なく携帯電話を確認すると、メールが一通届いていた。中学校の悪友からだった。
〔今晩花見しようぜ〕
思わず足を止めてしまったのは、仕方のないことだと思う。