side 田代昌、再び
泣いている美鈴さんを眺めながら僕がぼんやりしていると、先ほど鍵を渡してくれた女性が部屋に入ってきた。
「美鈴ちゃん、よく頑張ったね」
「綾乃さん……」
なんだか酷く居心地が悪くなって入口を見ると、木下がにやにやしている。その後ろにいる党員は、先日僕に二度と来るなと言った人物だ。
木下が男性党員を「俺の兄貴、失踪してた」とあまりに短く説明し、女性党員を「兄貴のコレ」と良く分からない身振りで説明して、兄に鉄拳制裁を食らっていた。兄弟仲が良さそうで大いに結構だ。
最後にもう一度東雲党党首を見遣ると、今までの胡散臭い笑みは消えていたし、目に宿っていた力強さまで消えていた。これならもう、美鈴さんが辛い目に会うこともないだろう。僕は悪夢からも迷惑メールからも解放され、万々歳だ。
「では僕はこの辺りで失礼します」
誰も聞いていないが一応挨拶して、木下から明礬の綱を受け取ると部屋を出た。木下には引き留められたが、これ以上ここにいても意味がないだろう。
*
平穏な夏休みが戻り、明礬を預かる二週間も過ぎた。
「なあ田代」
僕のアパートの僕の座椅子で寛ぎながら話しかけてくるのは、当然木下だ。他に友人がいないわけではないのだが、家まで押し掛けてくるのは木下くらいしかいない。
「一般人に理解できる程度に手短に頼む」
この男の解説は長すぎたり短すぎたり、とにかく理解し難いのだ。
「うお? 細かい注文だな……。まあいいや、俺が話したいのは二点だ。一点目、夏の終わりに兄貴が結婚する。兄貴も綾乃さんも両親呼ばねぇから、式に賑やかしが必要。できれば田代にも出てほしい。詳しい日取りは決まり次第連絡する」
「それは目出たいな。可能な限り出席しよう」
なんだ、分かりやすい説明もできるのか。
「次、二点目。俺この間例のマンション行ったときに、うっかりこれ持ち帰っちまってさ。兄貴が結婚準備で忙しいから、田代返しといてくれ」
「お前が行け」
「まあ落ち着いて聞けや。俺が意図せずして盗んでしまったこの小箱、中身は上等のネックレスだ。恵美さんの金庫から失敬したから、形見として美鈴ちゃんに返すのがいいだろう」
木下のにやにや笑いが激しくなってきた。
「党首でもいいだろう」
「残念、誠矢さんは仕事で海外だ。次の選挙までは政治家だからな。で、こんな高そうなもの、人には預けられないよなぁ」
ならば尚更、木下が行けばいい。あの気丈そうな美鈴さんを口説いて、こっぴどく振られた方が世の為人の為といったところではあるまいか。
そう言ってやると、木下は変な顔をした。
「田代お前まさか、無自覚なのか……?」
あんな必死の形相で助けに行ったのに。気障ったらしい真似までしてたのに。と、そんなようなことを呟く木下に、ようやく何を言われていたか分かる。
「お前、美鈴さん高校生だぞ!」
綾乃さんがそう言っていたのだ。
「俺らだってこの間まで高校生だったぞ。お前行って来い。マジ行って来い。じゃないと兄貴の式場教えねえからな」
「声がでかい。ここは集合住宅だ」
第一、交換条件の付け方が滅茶苦茶だ。しかし弟の馬鹿のせいで寂しくなる夫婦の門出を思うと、多少の無茶は聞いた方がいいのか。
「……行けばいいんだろう、行けば」
漆塗りの小箱を受け取り、念の為中身を確認する。美しい色合いの珊瑚は確かに値打ち物だろう。
ふと、このネックレスを身に着けた、笑顔の美鈴さんが見たくなった。